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2016/12/13

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(18) 神道の發達(Ⅰ)

 

  神道の發達

 

 人民のあがめる大きな神々――人々の想像の内に、天地の創造者として、若しくは特に木火土金水の如き要素たる力を動かすものとしてその形をとつた神々は――後に祖先崇拜となつたものを代表して居ると云つたハアバアト・スペンサアの説は、今日一般に認められて居る處である。原始社會がまだ何等重要なる階級的區別を發達させて居なかつた時代に於て、多少同じものと考へられて居た祖先の幾多の亡靈は、社會そのものが分裂するに從つて、大小いろいろな種類に分裂するやうになつた。さうして居る内に、或る一個の祖先の靈若しくは一團のに靈に對する禮拜が、他のすべての禮拜に立ち勝さるやうになり、最高の神若しくは幾個かの最高の神の群が發展するに至つた。併し祖先祭祀の分裂は、各種の方向を取るものと了解されなければならぬ。父子相傳の職業にかかはつて居る家族の特別の祖先は、發達してさういふ職業を主宰すろ守護の神となる事もある、――則ち職業及び組合の保護神となる。いろいろな精神上の聯想の徑路に依り、他の祖先の祭祀から、力と、健康と、長命と、特殊な産物と、特殊な地方との、いろいろの神々の禮拜が發展して來る事もある。日本起原の神の事に就いて、今よりも以上に多く光明が投ぜられるやうになれば、今日田舍に於て禮拜されて居る小さい守護神の多くは、もと支那或は朝鮮の職人の守護神であった事が解るやうになるであらう、併し日本の神話には全體として進化の法則の甚だしい例外となるやうなものはないと私は考へる。事實神道は神話の上の政教關係を示すもので、その發達は全く進化の法に依つて十分に説明が出來るのである。

 氏神の外、優等或は劣等の神々が無數にある。ただ名ばかり記されてある原始的の神々もある――混沌時代の人の考へにのぼつた幻影である。また土地の形をつくりなした天地創造の神々もある。天地の神々もあれば日月の神々もある。また人生の善惡あらゆる事物を主宰すると考へられて居る神々も數へ切れないほどある、――人生と、結婚と、死と、貧富、強健及び病氣……等の神々がある。すべてかくの如き神話は、日本のみに於ける古い祖先祭祀から發達し來たつたものであると假定するのは少し無理である、むしろその發展は多分アジヤ大陸で始まつたものであらう。併し國民的祭祀の發展――國家の宗教となつた神道のその形式――は嚴密なる言葉の意味に於て、日本的であつたと考へられる。此祭祀は、代々の天皇が、その血統であるとして居られる神々に對する禮拜であるて、――則ち「皇室の祖先」の禮拜である。蓋し日本の上古の皇帝――古い記錄には『天の王君(わうきみ)』と呼ばれて居る――は眞の意味に於ての皇帝ではなかつたので、また天下に對する權威を動かす事すらしなかつたものと考へられる。則ち天皇は尤も有力なる氏族則ち氏の主なるもので、その特殊な祖先祭祀は、その當時にあつては、多分何等統治的勢力をもつては居なかつたのであらう。併しやがてこの大きな氏族の主なるものが、國の再興の統治者となつた時、その氏族の祭祀は到る處に擴がり、他の神に對する祭祀を打ち破る事はしないまでも、それを蔽ひかくしてしまつた。ここに於て始めて國民的神話が出來たのである。

 

 それ故吾々は日本の祖先崇拜の徑路は、アジヤン民族の祖先崇拜のそれと同樣、前にのべた引きつづいた發達上の三個の階段を示して居る事を認めるのである。日本の人種は大陸からその現在の島國裡に來る時、祖先崇拜の粗末な形式を伴なひ來たつたものであると假定して然るべきであらう、而してその形式は死者の墓前で行はれる儀式竝びに供物に過ぎないものであつたらう。それから後國が幾多の氏族――その各〻はそれぞれ別の祖先祭祀をもつて居たが――の間に分かたれるやうになるや、或る一つの氏族に屬する一地方のすべての人々は、やがてその氏族の祖先の宗教を受けるようになり、かうして幾千の氏神の祭祀といふものが出來るやうになつたのである。さらにそれより後になつて、尤も有力なる氏族の特殊の祭祀が發達して、國家の宗教となつた――則ち最高の統治者が、それから血統を引いて居ると稱する女神太陽の禮拜がそれである。それから支那勢力の下に、家に於て祖先を禮拜する形式が、原始的家族の祭祀に代つて成立した、それ以來供物も祈禱も規則正しく家庭に於て爲され、家庭には祖先の位牌が、家族の死者の墳墓を代表する事となつたのである。併し今でも特別の場合には、墓場に供物を捧げる事もある、そして三種の神道祭祀の形式は、佛教の傳來した後代の形式と竝んで、今日までつづいて存立して居た、而してその形式は今日國民の生活を支配して居るのである。

[やぶちゃん注:「前にのべた引きつづいた發達上の三個の階段」古代の祭祀」の冒頭に提示した「神道の祖先崇拜の三つの形とは、一家の祭祀、村邑の祭祀及び國家の祭祀である、――言ひ換へれば家族の祖先の禮拜、氏族若しくは部族の祖先の禮拜、竝びに帝國の祖先の禮拜である。此第一は家庭の宗教であり、第二は一地方の神若しくは守護神の宗教であり、第三は國家の宗教である。]

 

 傳統的信仰に就いて、文字を以つてそれをあらはした説明を、始めて人民に與へたものは、最高の統治者に對する祭祀であつた。統治して居る家に就いての神話は、神道の經典の基となり、祖先禮拜のあらゆる現在の形式をまとめる所の思想を確立した。あらゆる神道の傳統は、此書きものに依つて混和されて一個の神話的歷史となり――同じ一個の傳説の基礎に依つて説明されるやうになつた。而して全神話は二つの書物の内に包容されて居るが、其書物はすべて英訳されて居る。其の最古の書物は『古事記』“Records of Ancient matters”と言はれて居り、紀元七一二年に編まれた名のと考へられて居る。他の一つはそれよりも大部な物で『日本紀』“Chronicles of Nihon”と言ひ、紀元七二〇年頃に出來たものである。兩書は具に歷史と言はれて居るが、其大部分は神話のやうなもので、兩書とも天地創造の話を以って始まつて居る。聞く處に依ると、兩書とも、天皇の命に依つて、大概は口傳へになつたものに依つて編まれたのであつた。それよりも更に古い第七世紀に作られた書物があったといふ事であるが、それは堙滅してしまつた。それ故此現在の書物は、そんなに古いものであるとは言はれない、併し兩書とも極めて古い傳説――多分は幾千年も古い――をその内にもつて居る。『古事記』は驚くべき記憶力をもつてて居た老人の口授を書いたものだとされて居る、そして神道の神學者なる平田は、恁うして傳へられた傳説は、特に信賴するに足るものであるといふ事を、吾々の信ずるやうに望んで居る。その言つた處に恁うある。「記憶の働きに依つて吾々に傳へられた、かくの如き古い傳説は、それが記憶に依つて傳へられたといふので、却つてそれが文書に記錄されであつたものよりも、遙かに詳細に傳はつて來たといふ事は、ありうる事である。其上人々が覺えて置かうと思ふ事實を、文字に託する慣習を、まだ得て居なかった時代にあつては、人の記憶力は今日よりも遙かに強いものであつたに相違ない――それは今日でも、目に一丁字のない人々は、何事をも全く記憶に訴へて居るのでもわかる」と。吾々は口碑の不變である事を、篤く信じて居る平田の信念に對して微笑を禁じ得ない。併し民俗學者は古い神話の特質の内に、その非常に古代の一名のであるといふ性質上の證據を發見する事を、私は信ずるものである。兩書の内に支那の感化が認められる、併しその或る部分には、私の想像する處に依ると、支那の書物の内には認められない特殊の性質がある――他の神話的文學には共通して居ない原始的素朴な趣、怪異な趣がある。たとへば世界の創造者なる伊邪那岐命のその死んだ配偶(伊邪那美命)を呼びかへすために、黃泉の世界に行く話の内に、吾々は純日本のものと考へる神話を認める。その話し方の古風な素朴な處は、その書の逐字譯を研究する人の、必らず感得するに相違ない處である。私は今そのいろいろな譯文の内に見られる(このいろいろな譯についてはアストンの『日本紀』の飜譯第一卷を見よ)その傳説の大意を記して見る事にする。

[やぶちゃん注:「『古事記』“Records of Ancient matters”“matters”の頭文字の小文字はママ。現行英語ではRecords of Ancient Matters或いはAn Account of Ancient Mattersである。

「紀元七一二年」写本の序に和銅五年正月二十八日とあるのに基づく。同日はユリウス暦七一二年三月九日である。

「『日本紀』“Chronicles of Nihon”」「日本書紀」。現行英語ではThe Chronicles of Japan

「紀元七二〇年頃」舎人親王らの撰により、養老四(七二〇)年)完成。

「それよりも更に古い第七世紀に作られた書物があったといふ事であるが、それは堙滅してしまつた」「古事記」自体の序の中に、天武天皇の言葉として「朕聞 諸家之所賷帝紀及本辭 既違正實 多加虛僞 當今之時不改其失 未經幾年其旨欲滅」(朕、聞くに、「諸家の賷(もた)らする帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)ひ、多く虛僞を加ふといへり。」と。今の時に當りて、その失を改めずは、いまだ幾年(いくとせ)を經ずして、その旨、滅びなむとす。)という一説があり(、「古事記」以前の天武期(六七三年~六八六年)には、既に各氏族のもとに「帝紀」(天皇(すめらみこと)の系図)及び「本辞」(古えの世の出来事の伝承)といった書物が存在したと述べているのを指す。但し、「古事記」序文には偽書説がある。

「堙滅」「いんめつ」。「湮滅」「隠滅」に同じい。跡形もなく消えてしまうこと。

「驚くべき記憶力をもつてて居た老人」七世紀後半から八世紀初頭に生きた稗田阿礼(ひえだのあれ 生没年不詳)とする。「古事記」の序では天武天皇の舎人(とねり)とするが、朝廷に仕えた巫女(女性)説も強い。

「平田」平田篤胤。

「目に一丁字のない人々」「一丁字」は一般には「いつていじ(いっていじ)」と読む。「丁」は「个 (か)」の篆書 を誤ったもので、本来は「一个」で「一個・一箇」の意。ただ一個の文字、一字も知らない文盲(もんもう)の人々のことを指す。

「アストン」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。彼の「日本書紀」の翻訳はNihongi:Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697(ロンドン・一八九六年刊)。

 

 迦具土の火の神の生まれる時の來し時、その母なる伊邪那美命火傷し、姿かはりて去れり。かくて伊邪那岐命怒つて言ふ『一人の子にかへて吾が愛する妹を與へ去らん事は』と。命に妹(伊邪那美命)の頭にはひ行き、その足にはひ行き。泣き悲めり、かくしてその流したる淚は落ちて神となれり……その後伊邪那岐命、伊邪那美命を逐うて死者の國黃泉(よみ)の國に行けり。ここに伊邪那美命なほその生きてありし日のやうなる姿して(死者の)宮殿の幕をあげ、伊邪那岐命に會ふために出て來り、二人は共に語り合へり、さて伊邪那岐命妹に言ふ『愛らしき若き妹よ、吾は汝の爲めに悲しむが故に來れり。吾が愛らしき若き妹よ、吾と汝との共につくりかけたる國は、まだ作り果たされず、されば歸り來よ』と。伊邪那美命答へて言ふ『吾が嚴かなる君にして、また夫なる人よ、今少しく早く來ざりしは惜しき事なり――今吾は黃泉のかまどのものを食へり。されど愛する兄、見給へ、君の特に來ませしを喜ぶが故に、吾は生命の世界に君と歸る事を願ふ。今吾はその事を黃泉の神々と論ふために行くべし。君は此處に待ちたまひて、吾を見んとし給ふ勿れ』と。かく語りて伊邪那美命は歸り去り、伊邪那岐命は待てり。然れども伊邪那美命の歸る事遲ければ、伊邪那岐命もどかしくなれり。かくて髮の毛の左總(ひだりふさ)につけたりし木の櫛をとり、命はその櫛の一端より、一本の齒を折りとり、それに火を默し、妹を見んとて行けり。然るに伊邪那美命はふくれ、蟲の中にただれて橫たはり、八種の雷の神その上に坐れり……伊邪那岐命この姿に恐れをなして逃げ去らんとせり、然るに伊邪那美命立ち上り叫ぶ『君は吾をはづかしめたり。何故に吾が命ぜし事を君は守らざりしや……君は吾が裸の姿を見たれば、吾も亦君のその姿を見るべし』と、言ひて伊邪那美命は、黃泉の醜女に命じて伊邪那岐命を追ひ、これを殺さしめんとす、八人の雷の神も亦命を逐ふ、伊邪那美命自らも追ひかく……。ここに於て伊邪那岐命劍を拔き、走りつつ背後にそれを振りまはす。されど一同は命に追ひせまる。命はその黑き頭の鬘をなげつけければ、鬘は葡萄の總となる、醜女はその葡萄の實を食ひたれば、その間に命は逃げたり。されど彼等はなほ急ぎ追ひかけたれば、命はその櫛をとりてなげつけたるに、その櫛は筍となる、醜女等それを貪り喰ふ間に、命は逃げて黃泉の口に達す。ここに命、もちあぐるに千人力を要する岩をとり上げ、伊邪那美命の來る入口をそれにて塞ぎ、その背後に立ちて、離婚の言葉をいふ。その時岩の彼方より伊邪那美命、叫んでいふ、『吾を愛する君にして主なる人よ、君かくの如き事を爲さば、吾は一日に汝の人の一千人を絞め殺さん』と。伊邪那岐命これに答へて『吾が愛する若き妹よ、汝若ししかするならば、吾は一人に千五百の子を生むべし……』と。然るにその時、くくりひめの命來り、伊邪那美命に何事か語りしに、伊邪那美命それを承認したる樣子にて、その後伊邪那美命の姿は見えずなりたり……』

[やぶちゃん注:このシークエンスは「古事記」の中でも私がすこぶる附きで好きな場面で、高校教師時代は、冒頭「くらげなす」からここまでのオリジナルな「古事記」授業をしばしばやったものだった。オルフェウス型の愛する女を冥界へと訪ねる悲恋の異界訪問譚が、「見るな」の禁忌を犯すことに由って愛から憎しみへと転ずる世界変容、三種(世界を変容させる神聖数)のアイテムを投げることで成就する呪的逃走、一般に先に言上げしたものが勝つにも拘わらず、そこにうっかり数値を持ち込んでしまったことで地上世界の繁栄が計らずも齎される(人間が永遠に増え続ける言祝ぎ神話)という個々の話柄構造が実に素晴らしく、且つ、面白い。保守系の阿呆どもが頻りに日本主義を唱えるのなら、是非とも「古事記」の冒頭から「美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)」を経て、ここまで総て古文の必須単元にしたらどうだ? やれるもんなら、やって見ろ! 私なら、鬼の首執ったように楽しく面白く正しくセクシャルに授業してやるゼ!

「迦具土」「かぐつち」。火の神であったが故に燃えながら生まれ出でて、伊耶那美(私は「邪」の字が嫌いなのでこちらで書く)の陰部を致命的に焼け爛れさせてしまった。怒った伊耶那岐は十拳剣(とつかのつるぎ)「天之尾羽張(あめのおはばり)」で迦具土を斬り殺してしまう(その飛び散った血や死体からも十六柱に及ぶ神々が生成される。最後の「古事記」本文(訓読)を参照)。

「頭」「かしら」と訓じておく。

「その流したる淚は落ちて神となれり」ここで生まれるのは啼沢女命(なきさわめ)。泉の湧き水の精霊神とされる。

「黃泉(よみ)の國」漢語で「黃泉」は「地下の泉」を意味し、それが後に転じて、地下の死者の世界の意となった。もともとの漢語には死者の国の意はなかったが、この漢語を当てること自体が、小泉八雲が言うように中国文化の影響にある。

「愛らしき」愛すべき。

「妹」「いも」。実際に伊耶那美は伊耶那岐の実の妹であり、同時に妻である。

「嚴かなる」威儀正しき勇ましき。

「黃泉のかまどのものを食へり」「黃泉竈食(よもつへぐひ)」をしてしまった。黄泉の国のものを食べると、黄泉の住人になってしまうと考えられ、通常は二度と現実(「生命の世界」、生者の世界)へ戻ることは出来ないと信じられた。ここはそこに融通性が見られる点で、寧ろ、それが絶対の掟ではないこと、より古式で原初的な設定であると私は考える。

「黃泉の神々」「古事記」には黄泉の国の神々の名は特に記されていないことが、大いに不満である。それはまさに黄泉国自体が、日本神話の構造系にかなり後から附加された空間世界であることを意味しているように私には思われる。実際に近世になるまでは、神道思想では死後の世界を具体に語っていない。

「論ふ」「あげつらふ」。相談する。

「それに火を默し、妹を見んとて行けり」あまり理解されているとは思われないので附言しておくと、伊耶那岐が黄泉の国で伊耶那岐と最初に逢った際には、黄泉の国の「殿(との)の縢戸(さしど)」(家の閉ざした戸口。古墳の羨道の扉を連想させる)から出て来て逢った、と書かれているものの、実は冥界であるために、その空間全体は闇なのである。恐らく小泉八雲は、映像的にイメージし難いこのシーンを、現実的に辻褄合わせしてしまった翻案を読んだものであろう。それが「古事記」にはない「ここに伊邪那美命なほその生きてありし日のやうなる姿して」によく表われている。敢えて言うなら、本訳者の戸川明三(秋骨)はそこを勘案して「やうなる姿」と訳し直しているのではないか? 闇の中で身近に幽かに感じられる雰囲気がそれなのではあるまいか? 事実は以下に語られるように、伊耶那美の肉体は死体変相しており、腐敗して「ふくれ」(膨れ)爛れて、蛆「蟲」がわいているのである。

「八種の雷の神」大雷(おほいかづち:伊耶那美の頭に座す。以下、位置のみを出す)・火雷(ほのいかづち:胸)・黒雷(腹)・折雷(さくいかづち:陰部)・若雷(わかいかづち:左手)・土雷(右手)・鳴雷(なるいかづち:左足)・伏雷(ふすいかづち:右足)。神話世界の永遠の継続性から腐乱した死体からも神(邪神)が生まれるのである。最後の「古事記」本文(訓読)を参照。

「君は吾をはづかしめたり。何故に吾が命ぜし事を君は守らざりしや……君は吾が裸の姿を見たれば、吾も亦君のその姿を見るべし」ここは原話では「吾に辱(はぢ)見せつ」である。ここにも西洋の翻訳者の辻褄合わせが見てとれるが、逆にそうした辛気臭さが日本神話の原型のシャープさを変に変形させてしまっている。

「黃泉の醜女」俊足の鬼女黄泉醜女(よもつしこめ)。

「伊邪那岐命劍を拔き、走りつつ背後にそれを振りまはす」これは武器としてではなく、冥界の光りを嫌う邪神を遮るための呪術的使用法である。

「黑き頭の鬘」「くろきかしらのかつら」と訓じておくが、これは「黒御鬘(くろみかづら)」で、蔓性植物である山葡萄(ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae)の蔓で作った男性用の髪飾りである。英訳者が固有名詞を一般名詞の連語としてしまった結果、変な文句となってしまっているのである。髪飾りで呪物としての霊力を持つ櫛と強い親和性を持つ。共感呪物。

「櫛」男性用の柵上の竹製の髪飾りと実用を兼ねた櫛。汎世界的に呪的逃走で投げる呪的アイテムに含まれる一品である。

「筍」「たけのこ」。竹製であるから共感呪物となる。この後の三つ目のアイテムである桃を省略しているのは不服であるが、或いはそこに強い中国の影響(桃は孫悟空譚や陶淵明の「桃花源記」を出すまでもなく、中国の神仙譚中随一の霊薬である)を八雲は感じ、プロトタイプにはなかったものと考えて、意識的に除去したものかも知れない。

「もちあぐるに千人力を要する岩」原話の「千引(ちびき)の石(いは)」。

「くくりひめの命」「菊理媛」。「古事記」には出ず、「日本書紀」の一注に一度だけこの謎めいたシーン出てくる出自不明の謎の女神であり、まさにここで菊理媛が伊耶那美に何を言ったかも書かれていない。或いは……「どうせ、将来、原子力というおぞましきものを産み出し、かの者どもは――滅びまする――」……とでも囁いたのかも知れぬな…………

 

 以下、古事記の一連のシークエンスの訓読文を倉野憲司氏(一九六三年岩波文庫刊)のそれを参考にして示す(但し、必ずしも倉野氏の訓読に完全には依拠していない)。【 】は割注。

   *

故(かれ)ここに伊邪那岐命の詔(の)りたまひしく、

「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)を、子の一つ木(け)に易(か)へつるかも。」

と謂(の)りたまひて、すなはち、御枕方(みまくらね)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きし時に、御淚(みなみだ)に成れる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木(こ)の本(もと)にまして、泣澤女(なきさはめ)の神と名づく。故(かれ)、その神避(かむさ)りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎(ははき)の國との堺なる比婆(ひば)の山に葬(はふ)りき。

ここに伊邪那岐の命、御佩(はか)せる十拳劒(とつかつるぎ)を拔きて、その子迦具土(かぐつち)の神の頸(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就(つ)きて成りませる神の名は、石拆(いはさく)の神。次に根拆(ねさく)の神。次に石筒之男(いはづつのを)の神【三神】。次に御刀の本(もと)に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。次に建御雷男(たけみかづちのを)の神。亦の名は建布都(たけふつ)の神、亦の名は豐布都(とよふつ)の神【三神】。次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出でて成れる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

  上(かみ)の件(くだり)の、石拆の神

  以下(よりしも)、闇御津羽の神より前、

  幷(あは)せて八神(やはしら)は、御

  刀に因りて生(な)れる神なり。

殺さえし迦具土の神の頭(かしら)に成れる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神。次に胸に成れる神の名は、淤縢山津見(おどやまつみ)の神。次に腹に成れる神の名は、奧山津見(おくやまつみ)の神。次に陰(ほと)に成れる神の名は、闇山津見(くらやまつみ)の神。次に左の手に成れる神の名は、志藝山津見(しぎやまつみ)の神。次に右の手に成れる神の名は、羽山津美(はやまつみ)の神。次に左の足に成れる神の名は、原山津見(はらやまつみ)の神。次に右の足に成れる神の名は、戸山津見(とやまつみ)の神【正鹿山津見の神より戸山津見の神まで幷はせて八神。】故(かれ)、斬りたまひし刀(たち)の名は、天之尾羽張(あまのをはばり)と謂ひ、亦の名は伊都尾羽張(いつのをばり)といふ。

ここにその妹(いも)伊邪那美の命を相ひ見むと欲(おも)ひて、黃泉國(よみのくに)に追ひ往(ゆ)きき。ここに殿(との)の縢戸(さしど)より出で向かへし時に、伊邪那岐の命、語らひ詔りたまひしく、

「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命、吾(あれ)と汝(いまし)と作れる國、いまだ作り竟(を)へず。故(かれ)、還るべし。」

と詔りたまひき。ここに伊邪那美の命の答へ白(まを)しく、

「悔(くや)しきかも、速(と)く來(こ)ずて。吾は黃泉戸喫(よもつへぐひ)しつ。然れども愛(うつく)しき我(あ)が汝兄(なせ)の命、入り來ませること恐(かしこ)し。故(かれ)、還らむと欲(おも)ふを、且(しばら)く黃泉神(よもつかみ)と相論(あげつら)はむ。我(あ)をな視(み)たまひそ。」

と、かく白(まを)しき。かき白して、その殿(との)の内(うち)に還り入りませる間(あひだ)、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故(かれ)、左の御角髮(みみづら)に刺せる湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の男柱(をばしら)一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、一つ火(び)燭(とも)して入り見たまひし時に、蛆(うじ)たかれころろきて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほの)雷居り、腹には黑雷居り、陰(ほと)には拆(さく)雷居り、左の手には若(わか)雷居り、右の手には土(つち)雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふす)雷居り、幷(あは)せて八(や)はしらの雷神(いなづちがみ)、成り居りき。

ここに伊邪那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還る時に、その妹(いも)伊邪那美の命、

「吾(あれ)に辱(はぢ)見せつ。」

と言ひて、すなはち、黃泉醜女(よもつしこめ)を遣して追はしめき。ここに伊邪那岐の命、黑御鬘(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち、蒲子(えびかづらのみ)、生(な)りき。こを摭(ひろ)ひ食(は)む間に逃げ行くを、なほ、追ひしかば、またその右の御角髮(みみづら)に刺せる湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を引き闕(か)きて投げ棄(う)つれば、すなはち、笋(たかむな)、生なりき。こを拔き食(は)む間に、逃げ行きき。且(また)後には、かの八(や)はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黃泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。ここに御佩(はか)せる十拳劒(とつかつるぎ)を拔きて、後手(しりへで)に振(ふ)きつつ逃げ來るを、なほ、追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(さかもと)に到りし時、その坂本なる桃の子(み)三箇(みつ)を取りて、待ち擊てば、悉(ことごと)に逃げ返りき。ここに伊邪那岐の命、桃の子みに告(の)りたまひしく、

「汝(いまし)、吾(あれ)を助けしが如く、葦原中國(あしはらのなかつくに)にあらゆる現(うつ)しき靑人草の、苦しき瀨に落ちて、患(うれ)ひ惚(なや)む時、助くべし。」

と告(の)りて、名を賜ひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命と號(い)ひき。

最後(いやはて)に、その妹(いも)伊邪那美の命、身自(みづか)ら追ひ來たりき。ここに千引(ちびき)の石(いは)を、その黃泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石(いは)を中に置きて、各(おのもおのも)對(むか)ひ立ちて、事戸(ことど)を度(わた)す時に、伊邪那美の命、言ひしく、

「愛(うつく)しき我(あ)が汝兄(なせ)の命、かくし爲(せ)ば、汝(いまし)の國の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」

と、いひき。ここに伊邪那岐の命、詔りたまひしく、

「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命、汝(いまし)、然爲(しか)せば、吾(あれ)、一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」

と、のりたまひき。ここを以ちて一日(ひとひ)に必ず、千人(ちたり)死に、一日に必ず、千五百人(ちいほたり)生まるるなり。

故(かれ)、その伊邪那美の命に號(な)づけて黄泉津大神(よもつおほかみ)と謂ふ。また云はく、その追ひしきしをもちて、道敷(ちしき)の大神(おほかみ)ともいへり。またその黃泉(よみ)の坂に塞(さはや)りし石(いは)は、道反(ちがへし)の大神(おほかみ)と號(な)づけ、また、塞(さや)ります黃泉戸(よみど)の大神ともいふ。故(かれ)、その謂(い)はゆる黃泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲國の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ。

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