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2016/12/06

谷の響 五の卷 十八 地中に希器を掘る

 

 十八 地中に希器を掘る

 

 天保の末年にて有けん、獨狐村の長左衞門と言へるもの、その村の領なる若狹館といふ處をほり、この地より龜ケ岡産に等しき磁器出るなり。掘りて鏡の形なるものを得たりけるが、それにある人形は岩木山の上にある本尊の脇師の神に似たるとて、百澤寺に納めたりしとなり。往ぬる丙辰の五月この寺に參詣し時、乞得て見たりけるに錢にて鑄たる物にして、はだいとあらく鍋の地はだにひとしかるが、徑(わたり)五寸許にして表の方に二重の緣(ふち)あり、中に二人の人形の居たるを鑄出して、丈各一寸七分許り膝の厚さは三四分もあるべく、烏帽子をかむり扇の如きを持てる形なり。裏の方は椽(ふち)なく、人形の處は少し凹みたれど打出せるものにあらず。又、上に五分許りの耳二ツありて穴をうがてり。こを斜に見るときは、綠色の光ありていと古きものと見らる。されど何に用ひたることを知らず。處の人たゞ鏡なりといへども、全く鏡にあらず。その全圖を玆に出し、後學のためにすべし。

 

[やぶちゃん注:「希器」「キキ」と音読みしておく。稀れにして珍らかなる器。

「天保の末年」「天保」は十五年までで、グレゴリオ暦では一八三〇年から一八四五年(通常は末年を一八四四年とするが、天保十五年は旧暦十二月二日に弘化に改元しており、これはグレゴリオ暦で一八四五年一月九日に相当するので、九日分が一八四五年に含まれる)。

「獨狐村」底本の森山氏の別の補註によれば、『弘前市独狐(とっこ)。弘前の西北郊四キロ。鯵ヶ沢街道に沿うた農村部落』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。エンディングに近いから再度、言い添えておくが、それにしても凄い村名だなあ。独鈷が元かしらん?

「若狹館」秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の笹森館に、そこが別称を「若狭館」と称すること住所がまさに、弘前市独狐笹元であることから、ここに同定出来る。それによれば、『築城時期・築城主体ともに不明』ながら、「津軽一統誌」によると、元亀・天正年間(一五七〇年~一五九二年)、『大浦(津軽)為信の津軽統一に与力した砂子瀬勘解由が軍功により若狭館を給されたとされ、以後 勘解由は笹森氏を称し、若狭館は笹森館と呼ばれました。なお勘解由はその後、菊池刑部・山上衛門佐・七戸修理等ともに大間越奉行を務め、「小野茶右衛門の乱」を鎮圧したと伝えられます』とある。

「龜ケ岡」現在の青森県つがる市の津軽平野西南部の丘陵先端部にある、縄文晩期の集落遺跡で、非常に知られた遮光器土偶が出土したことで有名な「亀ヶ岡石器時代遺跡」のこと。ウィキの「亀ヶ岡石器時代遺跡によれば、この遺跡は津軽藩第二代藩主津軽信枚(のぶひら)が元和八(一六二二)年に、『この地に亀ヶ岡城を築こうとした際に、土偶や土器が出土したことにより発見された。この地は丘の部分から甕が出土したことから「亀ヶ岡」』『と呼ばれるようになったという』。『また、この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになった。亀ヶ岡城は造りかけの状態で一国一城令が出たため、やむなく廃城となった』。『江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ』、『遠くオランダまで売られたものもあ』り、実に一万個を『越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという』とある。

「磁器」土器。

「人形」「ひとがた」。彫琢された人の形。

「あるひと、岩木山の上にある本尊」弘前市百沢の岩木山の南東麓にある岩木山(いわきやま)神社奥宮。神仏習合の当時は岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の三つの堂があったというから、この「人形」とは、或いは、その観音菩薩を指すか。直後に「脇師」とあり、これは「わきじ」で「脇侍」であるから、取り敢えず観音を候補としたのであるが、しかし、後の方で烏帽子を被っているとするから、或いは神像ででもあったものか。後の平尾の観察部分の注も参照されたい。

「百澤寺」「ひやくたくじ」と読む。廃仏毀釈によって廃寺となった。ウィキの「岩木山神社によれば、岩木山神社の『創建については諸説があるが、最も古い説では』、宝亀一一(七八〇)年に『岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる』。延暦一九(八〇〇)年、『岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた』。『このときの祭神の詳細は不明だが、別天津神五代、神代七代、地神五代の集団神と推測される三柱の神であるとする説がある』。『また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる』。寛治五(一〇九一)年、『神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている』。前に述べた通り、岩木山山頂には、当時、『阿弥陀・薬師・観音の』三つの『堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された』という。しかし、天正一七(一五八九)年、『岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼することとなり、以後、再建が進められることとなった』。『江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進んだ』。『特に、信義、信政のときに、現在の拝殿(当時は百沢寺の本堂とされた)や本殿(当時の下居宮)が再建された』とある。

「丙辰」安政三(一八五六)年。

「乞得て」「こひえて」。拝観を乞うて許され。

「はだいとあらく」「膚(鏡面)、いと粗く」。

「鍋の地はだにひとしかるが」「鍋(なべ)の地膚に等しかるが」。

「徑(わたり)五寸許」「許」は「ばかり」で、直径十五・一五センチメートルほど。

「中に二人の人形の居たるを鑄出して、丈各一寸七分許り膝の厚さは三四分もあるべく、烏帽子をかむり扇の如きを持てる形なり」平尾の観察である。

――その鏡の面の中に、二人の人形(ひとがた)の像がもともと鋳出(いだ)されてあって、その人物の背丈は孰れも五センチ強ほどの座像であって、その膝の厚さは九ミリから一センチ二ミリほどもあるように見え、二人とも、烏帽子を被っており、扇のようなものを持っているような姿に見えた。――

ともかくも、これは所謂、魔鏡(鏡面に神像を彫り込んで、それがある角度から見ると髣髴とするように見えたり、或いは光りを反射させて壁などに映し出すと、そこに人形が浮かび出るもの)の仕掛けであったのではないかと考えられる。「扇のようなもの」とは束帯の時に持つ笏(しゃく)かも知れぬ。さすれば神像である可能性が高いか。

「五分」一センチ五ミリ。

「斜」「ななめ」。に見るときは、綠色の光ありていと古きものと見らる。

「その全圖を玆に出し、後學のためにすべし」前にも述べたが、「谷の響」の自筆本は伝わらず、既に焼失したものと考えられている(底本の森山氏の冒頭の解題に拠る)。平尾は絵師であったのだから、さぞ、美事なものであったろうに! 残念至極也!!]

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