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2016/12/15

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(6) 名馬小耳

 

     名馬小耳

 

 六百七十年前の諏訪大明神畫詞に次の樣な奇瑞譚が出て居るのを見ると、生贄の耳を切る方式は、此頃早既に絶えて居たのである。曰く信濃國の住人和田隱岐前司繁有、當社頭役(とうやく)のとき流鏑馬(あぶさめ)のあげ馬闕如して、一族に石見入道と云ひける者、黑駮の良馬を立て飼ひけるを借用しけるに、古敵の宿意ありて借與に及ばず、且つは使者の詞をだにも聞入れざりけり。祭禮の日に當つて、此馬俄に病惱して既に斃れんとしけるが、左右の耳忽ちに失せにけり。奇異の思をなしてつらつら思案するに、揚馬に借られたりし事を思ひ出でて神道に種々の怠りを啓し、幣を附けて本社の神馬に獻じければ、病馬立ちどころに平癒して、水草の念も本に復しけり。兩耳は漸う出現しけれども、もとの如くにはあらざりけり。近年當社に小耳といふ名馬は則ち是なりと。卽ち耳の消滅に由つて神の御用に心づく迄の傳統はまだ絶えて居なかつたのである。

 切るのが必す耳でなければならなかつた所以は、此等の動物の習性を觀察した人ならば知るであらう。耳で表現する彼等の感情は、最も神祕にして解しにくいものである。常は靜かに立つて居て、意外な時に其耳を振り動かす。だから外國にも之を以て幽冥の力を察せんとした例が多い。佐々木喜善君の郷里などでは、出産の場合に山の神の來臨を必要とする信仰から、馬を牽いて御迎へに行く風が今も行はれて居るが、馬が立止つて耳を振るのを見て、目に見えぬ神の召させたまふ徴とする。故に遠く山奧に入つて日を暮らすこともあれぱ、或は門を出ること數步にして、すぐに引返して來ることもあるといふ。數ある鹿の子の中から孰れを選みたまふかを卜する場合にも、恐らくはもと耳の動きを見たので、それが自然の推理として、切るならば耳といふことに定まつたものでは無いかと思ふ。

 所謂占べ肩燒の用に供せられた鹿なども、必す豫め神意に基づいて之を選定する樣式があつたのである。それがもし自分の想像する通り、嚴重の祭典と終始したとすれば、之を耳切り若くは牽き來つて屠つた場處も、永く神德を記念すべき靈地であつたらう。石を存し樹を植ゑ、土を封して塚とする最初の目的は、常人の拓き耕すことを防ぐに在つた。諸國の獅子塚が屢〻靈ある獅子の頭を埋めたと傳へるのは、若し誤聞で無いならば則ち此古風の踏襲であつて、奧羽地方の鹿踊のわざをぎと、之に伴ふ幾つかの由來談とは、たまたま中間に在つて能く過渡期の情勢を語るものであつた。

[やぶちゃん注:太字「わざをぎ」は底本では傍点「ヽ」。「わざをぎ」とはしばしば「俳優」と書く。古くは「わざおき」で「態招(わざをぎ)」で「神を招(を)ぐ態(わざ)」の意。面白可笑しい技や仕草を演じつつ歌い舞って、神や人の心を和らげ楽しませること。また,それを行う人を指す。

「小耳」「こみみ」。神馬・名馬で、他の馬と異なった外見的特徴からつけられた名前の一つとして聴かれる名である。例えば、義経の用いた愛馬の一頭に「小耳子(こみみ)」がいる。

「諏訪大明神畫詞」「すはだいみやうじんゑことば」と読む。ウィキの「諏方大明神画詞」によれば、『長野県の諏訪地域に鎮座する諏訪大社の縁起で』、正平一一/延文元(一三五六)年成立で全十二巻(本書は昭和九(一九三四)年の刊行であるから、柳田の言う「六百七十年前」はおかしく、五百七十八年前になる。或いは、この時代、この縁起の最初は、そこまで遡ると言われていたのかも知れぬ。因みに実際の「六百七十年前」だとすると、弘長四(一二六四)年で鎌倉後期となるが、以下の叙述(足利尊氏の奥書)と合わないから、誤認かも知れぬ)。『著者は諏訪円忠(小坂円忠)』。元々は「諏方大明神縁起絵巻」「或いは「諏方縁起」などと『称する絵巻物であった』。但し、『早い段階で絵は失われ、詞書(ことばがき)の部分の写本のみを現在に伝え、文中には「絵在之」と記すに留めている』。『著者の諏訪円忠は、神氏(諏訪大社上社の大祝)の庶流・小坂家の出身で、室町幕府の奉行人であった』。そのため、『足利尊氏が奥書を書いている。成立に関しては』、南北朝期の公家洞院公賢(とういんきんかた)の日記「園太暦(えんたいりゃく)」にも記されており、この頃既に『失われていた』絵巻「諏方社祭絵」の『再興を意図したものであったという』とある。同書の「下」のここに以下の話は出る(国立国会図書館デジタルコレクションの「続群書類従 第三輯ノ下 神祇部」の当該箇所の画像)。

「和田隱岐前司繁有」不詳。ただ、前の注の最後にリンクさせたそれを見ると、この話の前の条が「嘉元の比」(ユリウス暦一三〇三年から一三〇五年)と始まり、次の条は「元弘貮年の秋の比」(一三三二年:鎌倉幕府滅亡の前年)で始まっているから、話柄順列が正しければ、鎌倉末期の出来事と一応、比定出来る。

「頭役(とうやく)」神事の非神職の実務の最高責任者。

「あげ馬」「上馬」で神への献上馬の謂いであろう。

「闕如」「けつじよ」。「欠如」に同じい。

「石見入道」不詳。

「黑駮」「くろぶち」。

「立て飼ひ」これは本来は「櫪(たて)飼ひ」で、「櫪」は「厩(うまや)」の意である。「馬をちゃんと厩を設けて飼う」の意。

「古敵の宿意」同族でありながら、古くから敵対してきた悪因縁があること。

「詞」「ことば」。

「斃れん」「たふれん」。

「揚馬」前の「あげ馬」に同じ。

「啓し」「まうし」。「申し」に同じい。

「幣」「ぬさ」。

「水草の念」「すゐさうのねん」。「法華経」の「譬喩品第三」に出る、「若作馲駝 或生驢中 身常負重 加諸杖捶 但念水草 餘無所知」(若しくは馲駝(らくだ)と作(な)り 或は驢(ろ)の中に生まれ 身に常に重きを負ひ 諸の杖捶(じようすい;鞭。)を加へられん。但だ、水草を念ひて、餘は知る所、無けん)の、水と飼い葉を求めるばかりの畜生の生き様を、恩讐一途の思いに譬えたものか。

「漸う」「やうやう」。

「耳で表現する彼等の感情は、最も神祕にして解しにくいものである」競馬情報サイト(言っておくが、私は競馬には全く興味がない)「うまキュレ」の馬の感情は、耳の動きを見ればわかる!?が画像とともに非常に分かり易い。

「佐々木喜善」(きぜん 明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)は岩手県土淵村生まれの民話研究家。早稲田大学中退(病気のため)。東京遊学中に柳田国男の知遇を得、その時に提供した郷里岩手県遠野地方の伝説昔話の資料が「遠野物語」に纏められた。後に帰郷し、民間伝承の採集に努めた。晩年には同年に没した宮沢賢治とも交友があった。

「徴」「しるし」。

「占べ肩燒」「うらべかたやき」。太占(ふとまに)のこと。雄鹿の肩甲骨を焼き、その町形( まちがた:骨の表面の割れ目の模様)によって占う呪術。鹿の骨を用いることから鹿占(しかうら)とも称される。中国から亀卜(きぼく)の法が伝わると、これを神祇官の卜部(うらべ)氏が管掌して廃れた(以上はィキの「に拠る)。]

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