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2016/12/03

甲子夜話卷之三 14 伊達綱宗、作刀の事

 

3-14 伊達綱宗、作刀の事

予が家藏に無銘の短刀あり。帳面に嘉心作とのみ記して、其人詳ならず。或曰、光彩凡ならず。鑑するに、網宗朝臣なるべしと。因て同席の伊達若狹守に【伊豫富田三萬石】問たれば、本家綱宗、隱居後嘉心と稱せしと答ふ。始て此刀の作者を知けり。思ふに篤信君隱退して仙臺侯としばしば懇會ありしと。その時請得られし者なるべし【後に官の史局の記を聞に、綱宗万治三年隱居願ふ處、平生行狀不ㇾ宜につき、逼塞仰付らる。寬文九年名を若狹守と更め、剃髮して嘉心と號と。此時を考るに網宗年二十一、又新刀辨疑の所載は、綱宗朝臣の戲作世に稀なる者也。地鐵細に、小錵有て、匂深し。大和守安定に似たり。中龜文に出來たるは、南紀重國に似たるも有。又莖の銘を見はす文に、於武州品川仙臺國司陸奧綱宗】。

■やぶちゃんの呟き

「詳」「つまびらか」。

「或曰」「あるひと、いはく」。

「鑑するに」「かんがみするに」と訓じておく。鑑定する限りでは。

「網宗」陸奥仙台藩第三代藩主伊達綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)。第二代藩主伊達忠宗六男。ウィキの「伊達綱宗」によれば、母は側室貝姫であったが、彼女が後西(ごさい)天皇の『母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。六男であったが、兄・光宗の夭折により嫡子とな』り、万治元(一六五八)年、『父・忠宗の死により家督を継』いだが、一般には十八の若さで藩主となり、『酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。さらには叔父に当たる陸奥一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされ』、幕命により万治三(一六六〇)年七月に、不作法の儀により二十一歳の若さで『隠居させられ』、家督は綱宗の二歳の『長男・亀千代(後の伊達綱村)が継いだ』。『この間の経緯であるが、池田光政(備前岡山藩主)、立花忠茂(筑後柳川藩主)、京極高国(丹後宮津藩主)ら伊達家と縁戚関係にある大名や伊達宗勝が相談しあい、幕府の老中・酒井忠清に願い出て』、『酒井に伊達家の家老らをきつく叱らせ、綱宗に意見してもらう事で一致したが、綱宗は酒井の強』い意見にも全く『耳を貸さなかったため、光政や宗勝らは』『綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出』、『「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞』(ひっそく):武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された)『を命じる」との上意が綱宗に申し渡されている』。なお、その翌日には『宗勝の命令で綱宗近臣』四人が『成敗(斬殺)され』ている。『綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居し』、『作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。綱宗が酒色に溺れ、わずか』数え二歳の『長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになったのである。だが、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けやつるし斬りなどは俗説とされ』、また、『綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、保身のために暗愚なふりをしていたとの説もある。実際綱宗は風流人で諸芸に通じ画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」(六曲一双 紙本金・銀地著色)をはじめとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。また、藩主交代そのものが仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力であるとの説もある』とある(下線やぶちゃん)。

「伊達若狹守」「【伊豫富田三萬石】」伊予吉田藩(現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に陣屋を置いた)第六代藩主伊達若狭守村芳(安永七(一七七八)年~文政三(一八二〇)年)。静山より十八年下。

「綱宗、隱居後嘉心と稱せし」個人のサイト「宮城県ナビ」の伊達綱宗のページに、逼塞を命ぜられた後は『一切の政事から身を引き,不遇の生涯を江戸品川藩邸で酒を断ち、頭を丸め』て『「嘉心(かしん)」と号し』、『謹慎して書画、和歌、能、茶道等』、『芸術三昧に生き』、『絵画だけでなく』、『工芸や刀剣など各分野に本格的な技量を発揮した』とある(下線やぶちゃん)。

「始て此刀の作者を知けり」「はじめて、このかたなのさくしやをしりけり」。

「篤信君」肥前平戸藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六 (一七五七)年)。静山の曽祖父。正徳三(一七一三)年に養父棟(たかし)の隠居により、家督を相続、享保一二(一七二七)年に病気を理由として家督を長男有信に譲って隠居している。この後に出る

「仙臺侯」篤信の同時代人の陸奥仙台藩第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)であろう(次代の伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)では篤信との年齢差が激し過ぎる)。

「請得られし」「こひえられし」。

「官」公儀。

「史局」幕府内の史書編纂に当たった役所。

「聞に」「きくに」。確認をとってみたところ。

「平生行狀不ㇾ宜につき」「へいぜい、ぎやうじやう、よろしからざるにつき」。

「寬文九年」一六六九年。まさにかの伊達騒動の勃発直後。

「號」「がうす」。

「考るに」「かんがふるに」。

「新刀辨疑」「しんとうべんぎ」は江戸で安永八(一七七九)年に板行された川越候松平大和守家臣であった鎌田魚妙著になる「新刀」(慶長(一五九六年~一六一五年)頃から安永(一七七二年~一七八一年)頃までに作刀された当時から見て新しい刀を指す。この「新刀」という語は既に享保(一七一六年~一七三五年)頃から盛んに用いられ始めていた)の鑑定解説書。原文を確認されたい方は、「埼玉県」公式サイト内の参照したここでPDFで見られる。本記載も見られるものと思われるが、私は刀剣への興味が全くないし、探すのも骨折るばかりで、誰も褒めてはくれまいから、やらぬ。御自身でお探しあれかし。

「戲作」乍ら、「世に稀なる者也」と言うのでろう。

「地鐵」「ぢがね」と読む。日本刀は鍛錬によって刀身本体の表面に美しい地紋が現われるが、その肌模様を「地肌」と称し、その素地を「地鉄」と称する。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の刀剣を見るための基礎知識が非常に分かり易い。

「細に」「こまかに」。

「小錵」「こにえ」と読む。刀剣の刃に生じた粒状の紋様を指し、「沸(にえ)」とも書く。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「刀剣を見るための基礎知識」に、『刃文は、熱した刀身を水に漬ける焼き入れの際に、急速冷却されることによって鋼の成分が変化してできる「沸(にえ)」や「匂(におい)」と呼ばれる細かな粒子で構成されて』おり、『沸は、文様を構成する白い粒子が粗めで、肉眼で視認できる程度の大きさのものをいい、匂とは肉眼での視認が難しい程度の微粒子で、見た目は白い霞のようにみえるものを』指し、『刃文が沸主体でできていれば「沸出来(にえでき)」、匂い主体であれば「匂出来」と呼』ぶとある。

「有て」「ありて」。

「匂」「にほひ」。前々注参照。嘉心(綱宗)作の紋様の粒子が極めて細かなものであったことが判る。

「大和守安定」「やまとのかみ やすさだ」は、ウィキの「大和守安定」によれば、『江戸時代の武蔵国の刀工。新刀上々作にして良業物』(よきわざもの)の名人。『生まれは越前国というのは最近では誤伝とされ、紀伊国石堂の出である。現に石堂出身であることを裏付ける資料も確認されている。通称は「宗兵衛」』。『彼の刀に石堂の作風は見当たらない物が多く、石堂出身でありながら康継一門と相当密接な関係があったといわれ、初代康継の門人であったと言われている。ただ、小笠原信夫は著書「長曽祢乕徹新考」において、康継一門よりは和泉守兼重と深い関わりがあったとしている(安定の作刀銘より考えて、生年は』元和四(一六一八)年『であり、初代康継が没したのが』元和七(一六二一)年『であるから師弟関係が成立する事は考えにくい)』。『安定の刀は茎に裁断銘が多くあり』、『切れ味がよかった。山野加衛門が江戸幕府始まって以来五つ胴を切ったとされる刀もある。遊撃隊の伊庭八郎や新撰組の沖田総司、大石鍬次郎の愛刀としても有名。作風としては、虎徹に似る』。『明暦元年に伊達家の招きで仙台に招かれ、徳川家康の命日に仙台東照宮に一振り、伊達政宗の命日に瑞鳳伝に一振り安定とその弟子達の合作である脇差が奉納刀として収められている。 瑞鳳伝の奉納刀は戦後伊達家より改めて瑞巌寺に奉納されている。 また、大和守安定の弟子である安倫はその後仙台で刀工として明治まで続いている』とある。

「中龜文」「ちうきもん」と音読しておく。太刀(太刀は刃を下にして腰から吊り下げて身に付ける)では刀と異なり、体の外側が「佩表(はきおもて)」となり、その佩表の「茎(なかご:刀身の柄に被われる部分)」に亀甲紋(きっこうもん)があるという謂いであろう。刀剣売買のサイトの「亀甲貞宗」の解説及び画像を見られたい。それによれば、『亀甲紋は出雲神社の神紋である。亀甲貞宗の紋も出雲神社と直接的でなくても、何らかの関係がありそうである』として亀甲の家紋についても詳述されている。

「南紀重國」「なんきしげくに」は紀州藩御抱え刀工とその一派を指す。幕末まで十一代続いた。ウィキの「南紀重国によれば、『狭義では、初代の重国(文珠と称す・通称は九郎三郎)個人や、その製作刀を指す場合が多い。広義では、二代以降の重国や、その製作刀を含むことも多く曖昧な呼称である』。『大和伝手掻派の末裔であるという初代重国は、新刀期屈指の名工であったと伝えられる。本国は大和国であったが駿府の徳川家康に召されたのち、紀州徳川家の家祖徳川頼宣に従って紀州に移り、その後は十一代にわたり御抱え刀工となった』。『作刀期は元和の頃が多いとされる』。『大和や駿府などで製作され、その旨を切銘された刀身も現存しているが、紀州で製作され現存している刀身には「於南紀重国造之」「於南紀重国」の銘が多い』。二代重国は『初代重国の実子で金助(通称は四郎右衛門)』で、『父の業績を慕ってか、製作刀の銘に「文珠」の文字を切ったものが多く、特に区別して文殊重国と呼称される。徳川頼宣の相手鍛冶を勤めたと伝えられる』。『作刀期は明暦の頃が多いとされる』。四代重国は紀州出身の第八代『将軍徳川吉宗に江戸に召し出され』、『浜御殿で作刀し、その技量の高さを認められ葵一葉紋を茎』(なかご)『に刻むことを許される栄誉を受けた。(他に吉宗に葵一葉紋を許された刀工は、一平安代、主水正正清、信国重包のみ)』とある。

「莖」「前注の通り、「なかご」と訓ずる。

「見はす文」これで「あらはすぶん」と読む。

「於武州品川仙臺國司陸奧綱宗」「武州品川に於いてす。仙臺の國司・陸奧綱宗」と訓ずるか。

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