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2016/12/01

甲子夜話卷之三 11 岩村侯の老臣黑岩某、味岡某の事

 

3-11 岩村侯の老臣黑岩某、味岡某の事

岩村侯【松平能登守】の家老に黑岩氏あり。世世六郞兵衞と襲稱す。もと生駒の臣なり。生駒減地のとき浪人となり、岩邑に仕ふ。其人額上に毛剝て生ぜざる所あり。其故を聞くに、少年の時浪人し、片田舍に住み、母に事て孝あり。夜は必ず其臥處に就て侍養す。一日他行して遲く歸り、まづ母の臥處に往き、蚊帳に顏をあてゝ安否を問に、母答へず。不審に思ふと、一男子の帳より出るを見る。六郞卽これを遂ふ。その人塀を越んとす。六郞後より裾を執る。その人、上より六郞が前髮をつかんで引揚ぐ。しばし引合内に、前髮抽て流血眼に入る。そのとき六郞、脇指を拔て一刀に切落す。能見れば、前年まで其家に使し僕の、常に母の貯金ありしを知りて、殺害して金盜たりしにぞありける。此時拔れし痕、遂に髮毛を生ぜざりしと云。此六郞兵衞頗幹事の才ありて、侯家に功あり。金森氏改易のとき、郡上の城受取を侯に命ぜらる。侯に從て行く。入城のとき春色方に盛に櫻花爛開す。因て人々其花を賞觀す。黑岩獨凄然として、乃一首の哥を詠ぜり。

 

 よそながら慰かねつ櫻花

      ちりぢりになる人を思へば

 

常に風騷をも好めり。此詠秀逸には非れども、時にとりての餘情深し。今の六郞兵衞は其孫なりと林氏語れり。又岩村の家老に味岡氏あり。高天神にて、武田信玄を鐵砲にて狙擊し足輕の裔也と云。珍しき家なり。

■やぶちゃんの呟き

 和歌の前後は空けた。

「岩村侯」「【松平能登守】」これは美濃国岩村藩主のことであるから、思うに、前話の続きでこれも林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)から得た情報ではあるまいか彼の実父は美濃国岩村藩第三代藩主松平乗薀(のりもり 享保元年(一七一六)年~天明三(一七八三)年)だからである。乗薀は伊勢亀山藩主松平乗邑の三男であったが、岩村藩世嗣の乗恒が早世したため、第二代岩村藩主松平乗賢の養子となり、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任されている。問題は時制的には岩村藩主は後代となっていることであるが(「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年であるから執筆当時の岩村藩藩主は乗薀の養子となった第四代松平乗保(のりやす))、しかし、後に出る「金森氏改易」宝暦八(一七五八)年。後注参照)から判断するに、やはり私はここの「岩村侯」は述斎が語った少し前の話柄当時の乗薀と判断するものである。但し、以下の「黑岩某」の初代六郎兵衛が岩村藩に仕官したのは時制的(以下の注の「生駒騒動」参照)に見て、松平家では四代も前の初期岩村藩第二代藩主(岩村藩はその間に丹羽家が五代、乗薀の前に二人の藩主が入る)松平乗寿(のりなが 慶長五(一六〇〇)年~承応三(一六五四)年)の時でないとおかしい。即ち、最初の黒岩六郎兵衛の話、〈額の上に禿があった黒岩六郎兵衛〉は、その〈少年時代に浪人経験のある初代の六郎兵衛の古い伝え聞き〉であろうと思われるのである。

「老臣黑岩某」不詳。

「味岡某」「あじおかなにがし」。不詳。「岐阜県」公式サイト内のこちらの古文書データに、後の慶応二(一八六六)年の交通手形で『松平能登守内味岡杢之允』なる人物の名を見出せるが、彼の子孫かも知れぬ。

「世世」「よよ」。代々。

「襲稱」「しふしやう」。(黒岩六郎兵衛を)受け継いで通称すること。これが本話柄をややこしくしているのだと私は思うのである。

「生駒」讃岐高松藩生駒家。同藩第四代藩主生駒高俊(おこまたかとし 慶長一六(一六一一)年~万治二(一六五九)年)の時、彼を廻って「生駒騒動」と称するお家騒動が起こり、同家は改易された。ウィキの「生駒高俊」によれば、彼は元和七(一六二一)年七月、『父正俊の死去により、家督を相続した』が、幼少であったため、『外祖父藤堂高虎の後見を受けることになった』。その後、『成年した高俊は、政務を放り出して美少年たちを集めて遊興に専ら耽ったこともあって、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こ』り(これを「生駒騒動」と呼ぶ)。寛永一四(一六三七)年、『生駒帯刀らが土井利勝や藤堂高次に前野助左衛門らの不正を訴えた。これに対し、前野らは徒党を組んで退去した』。寛永一六(一六三九)年、『幕府は騒動の詮議を始め』、翌寛永一七(一六四〇)年七月二十六日に『幕府は藩主高俊の責任を追及し、領地を没収し、出羽国由利郡に流罪とした。ただし、由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町と鳥海町の部分)で』一万石を『堪忍料として与え、高俊は矢島村に陣屋を構えた』(これを静山は「生駒減地」と称しているのであろう。下線やぶちゃん)。『なお、生駒派の中心人物は大名にお預け、前野派の中心人物は死罪となった』とある。

「岩邑」「岩村」に同じい。

「額上」「ひたひがみ」。額の上の方。

「毛剝て」「けはげて」。

「事て」「つかへて」。

「臥處」「ふしど」。

「就て」「つきて」。

「侍養」「じやう(じよう)」。身辺にいて世話をすること。

「一日」ある日。

「他行」「たぎやう」。外出。

「問に」「とふに」。

「帳」「とばり」。

「卽」「すなはち」。

「遂ふ」「おふ」。追う。

「塀を越んとす」「へいをこえんとす」。

「裾」「すそ」。

「引揚ぐ」「ひきあぐ」。

「引合」「ひきあふ」。

「抽て」「ぬけて」。

「流血」「りうけつ」。

「眼」「め」。

「脇指」「脇差」。

「拔て」「ぬきて」。

「切落す」「きりおとす」。

「能」「よく」。

「使し僕」「つかひししもべ」。

「盜たり」「ぬすみたり」。

「拔れし痕」「ぬかれしあと」。

「頗」「すこぶる」。

「幹事」重職の纏め役。

「侯家」岩村家。

「金森氏改易」美濃八幡藩第二代藩主金森頼錦(よりかね 正徳三(一七一三)年~宝暦一三(一七六三)年)と思われる。ウィキの「金森頼錦」他によれば、父の可寛(よしひろ)は『初代美濃八幡藩主・金森頼時の嫡子であったが』、三十七歳で家督を継がずに死去したため、享保二一(一七三六)年に祖父の死去によって家督を継ぎ、延享四(一七四七)年には『奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた』という。『頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため』、宝暦四(一七五四)年、『年貢の税法を検見法』(けみほう/けんみほう:年貢徴収法の一つで、田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法)『に改めようとした。結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動』(いとしろそうどう:宝暦年間に同藩が管轄していた越前国大野郡石徹白村(現在の岐阜県郡上市)で発生した大規模な騒動。騒動の中で石徹白の住民の約三分の二に当たる五百余名が追放され、七十名以上が餓死した)『まで起こって藩内は大混乱』を呈し、遂に宝暦八(一七五八)年十二月二十五日に頼錦が幕命によって改易されてしまったのである、とある。

「郡上の城受取を侯に命ぜらる」前の注から判る通り、「金森改易」は宝暦八(一七五八)年である。ということは、ここ以後の〈黒岩六郎兵衛〉は、前の〈額の上に禿のある黒岩六郎兵衛〉の後裔と読まないと辻褄が合わない。即ち、第三代藩主松平乗薀の代の額には禿のない〈黒岩六郎兵衛〉としないとおかしいと思うのである。

「從て」「したがひて」。

「方に盛に」「まさにさかりに」。

「獨」「ひとり」。

「凄然」もの淋しく痛ましいさま。

「乃」「すなはち」。一首の哥を詠ぜり。

「よそながら慰かねつ櫻花/ちりぢりになる人を思へば」「慰かねつ」は「なぐさめかねつ」。――他家にお上の断ぜられたことにてあればこそ、その不運を表立って慰むるというわけには参らぬ。……されど、かく散り流れゆく桜の花の如く、散り散に別れて行く人々のことを思うと、これ、胸の痛むことにてはあることじゃ――

「非れども」「あらざれども」。

「時にとりての」その、改易・城明け渡しという厳粛にして、しかし、もの淋しき雰囲気にあっては。

「今の六郞兵衞は其孫なり」以上の叙述を漫然と読むと、

〈①額の上部に禿のある少年時代に浪人経験をし、岩村に仕官した黒岩六郎兵衛〉=〈②金森改易の際に幕命によって郡上城の受け取りに岩村侯に従って一首を詠んだ黒岩六郎兵衛〉=〈③現在の岩村藩にいる黒岩六郎兵衛のは①=②の孫〉

としか読めない。しかし実は、

①≠②=③´

であって、

①が数代前の岩村藩黒岩家の祖であり、その孫が②である(③は②と同一人物であるのを誤って叙述した)

か、或いは

①≠②≠③

①が数代前の岩村藩黒岩家の祖であり、その孫が②であり、現在の岩村藩で「黒岩六郎兵衛」を名乗っている人物はさらにその②の孫である

の孰れかではなかろうか? 私は正直、

①≠②≠③

を採りたい気がしている。何故なら②の歌を詠んだ黒岩はかなり老成している気がするからで、その彼が次の代の家老としているというのが、ちょっと不自然な気がするからである。

 以下、私の疑義を纏めてみる。

 

1640年:生駒騒動により生駒家改易・断絶。

     :その直後に未だ少年の先祖の黒岩六郎兵衛が浪人する。

     :その時に母を殺害した下僕を討って頭が禿げた。

     :それからしばらくして岩村藩に仕官した。

      ↓

しかし、その仕官した岩村藩は時制から見て、初期岩村藩第二代藩主松平乗寿(のりなが)の治世でないとおかしい。乗寿の治世は、

 

1614年~

1654年

 

である。この間(生駒家改易から岩村藩仕官)は14年で、少年浪人が再度、仕官する期間としては違和感がない。ところが、その後に続いて語られるのは、

 

1756年:金森氏改易

     :黒岩六郎兵衛は「岩村候」の幕命による郡上城明け渡しに従う

      ↓

しかし、金森氏改易時の「岩村候」とは岩村藩第三代藩主松平乗薀(のりもり)であり、彼の治世は、

 

1746年~

1781年

 

である。実に初期岩村藩第二代藩主松平乗寿の治世の最後からこの金森改易までは、実に

102年ものスパンがある

のである。しかも、本書「甲子夜話」の起筆は

 

1821年

 

でこれを足すと、実にその閉区間は、

142年にも及ぶ

のである。これは信長ではないが、

人生五十として、①が元祖「黒岩六郎兵衛」で、②が①の同名の孫、③がさらに②の同名の孫

と読んで、しっくりくるとは、言えないであろうか? 大方の御叱正を俟つものではあるが、私はそう考えないと、本条を納得することが出来ないのである。

「高天神」「たかてんじん」。遠江国城東郡土方(ひじかた:現在の静岡県掛川市の土方地区)にあった今川氏次いで小笠原氏(家康に服属した国衆)の支城となった高天神城。ウィキの「高天神城」によれば、『戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた』とある(下線やぶちゃん)が、ここで信玄狙撃というのは、史実上の事実ろするならば、永禄一二(一五六九)年以降、今川氏と甲斐国の武田氏の『同盟が手切となり、武田信玄は三河の徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、これにより今川氏は滅亡する。小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興、小笠原氏助父子は徳川氏の家臣となった。しかし、まもなく武田・徳川両氏は敵対関係に入り、駿河・遠江の国境近くにある高天神城もその角逐の舞台とな』った際、小笠原氏に与していた足軽が、この味岡氏であったおいうことになるか。

「裔也と云」「えい(:末裔。子孫。)なりといふ」。

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