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2016/12/20

北條九代記 卷第十 改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基

 

      ○改元  蒙古の使を追返さる  一遍上人時宗開基

 

夫(それ)、天運、循環して、四時、迭(たがひ)に代謝す。年も漸(やうや)く暮行きて、立返る春にもなりしかば、靑陽(せいやう)の空の景色、山には霞(かすみ)の衣を著て、谷の戸(と)出(いづ)る鶯の氷(こほ)れる淚も解初(とけそ)めたり。改元有て、建治元年と號す。二月上旬にも成りしかば、餘寒(よかん)は未だ盡きざれども、木の茅は漸(やうや)う萠(きざ)しつ〻、花、待兼ぬる好事(かうず)の人は、いとど永き日を數へて、花信(くわしん)の風をぞ招きける。斯る所に、蒙古の使(つかひ)杜世忠等(ら)、又、日本に來朝す、高麗人(かうらいじん)も同じく來れり。太宰府に舟を留(とゞ)め、船中にある物共、悉く注錄(ちうろく)し、數多の人等をば太宰府に押留(おしとゞ)め、杜世忠等、只三人を鎌倉へぞ遣しける。洛中へは入れられず、直に關東に差下す。 路次(ろじ)の間(あひだ)、嚴しく守護して偏(ひとへ)に囚人(めしうど)の如くなり。夜を日に繼ぎて鎌倉に著くといへども、蒙古の牒狀に返簡(へんかん)すべきに及ばすとて、その儘、追返(おつかへ)し、大元に歸らしむ。同十二月、北條左近〔の〕大夫時國、上洛して、六波羅の南の方となり、西國の成敗を執行ふ。是は從四位下相摸守時房が曾孫(そうそん)なり。智仁(ちじん)の德、篤くして、寛溫(くわんをん)の惠(めぐみ)を施しければ、人望の指(さ)す所、鎌倉執權の加判たりとも、誰か、その命を輕(かろ)くすべき。然れども、時世の習(ならひ)、京都に上せらる〻は、責(せめ)ての事とぞ申合ひける。今年、鎌倉藤澤時宗念佛の流義、草創す。開山一遍上人は伊豫國の住人河野七郎通廣が次男なり。家富榮えて、国郡、恐從(おそれしたが)ひ、武門の雄壯(ゆうさう)たりければ、四國九州の間(あひだ)、他(ただ)に恥(はづ)る思(おもひ)なし。二人の妾(おもひもの)あり、何(いづれ)も容顏(ようがん)麗しく、心樣(こ〻ろざま)優(いう)なりしかば、寵愛深く侍りき。或時、二人の女房、碁盤を枕として、頭(かしら)、差し合せて寢たりければ、女房の髻(もとゞり)、忽(たちまち)に小(ちいさ)き蛇となり、鱗を立てて喰合(くひあ)ひけるを見て、刀を拔(ぬき)て中より斷分(きりわ)け、是より、執心愛念嫉妬の恐しき事を思知(おもひし)り、輪𢌞妄業(まうごふ)因果の理を辨(わきま)へ發心(ほつしん)して家を出つ〻、比叡山に上り、受戒、桑門(さうもん)の形となり、西山(せいざん)の善惠(ぜんえ)坊上人に逢ひて本願念佛の法門を學(がく)し、十一年を經て、自(みづから)、知眞房と名を付けて、其より熊野に參詣し、山復(また)山、靑巖(せいがん)に雲を蹈み、水復(また)水、碧潭(へきたん)に波を凌(しの)ぎ、道行く人に逢ひても、男女貴賤を撰ばず、只、念佛を勸めて、自(みづから)も亦、行々、餘言を交ふる事なく、念佛より外の聲もなし、斯くて本宮(ほんぐう)證誠殿(しやうじやうでん)に參向(さんかう)し、衆生利益(りやく)の結緣(けちえん)を曹(あまね)く十方に弘通(ぐつう)せん事を祈誓して御寶前に通夜(つや)せられける所に、御寶殿の内より、齡(よはひ)闌(た)けたる老僧の現れ出(いで)させ給ひて、妙なる御聲(みごゑ)を擧げて仰せけるは、「それ、彌陀如來十劫(ごふ)正覺の曉(あかつき)、一切衆生の往生は、六字の名號を以て決定業(けつじやうごふ)と定め給ふ。一度(たび)も耳に聞き、口に唱ふる時は、永く佛種(ぶつしゆ)と成りて、成佛の緣を結ぶ。今、我が示す所を聞きて、札に作りて一切の貴賤男女に賦與(くばりあた)へて、此念佛の結緣を怠る事勿れ」とて、七言四句の偈(げ)を御口(おんくち)づから授け給ふ。其文に、

 

  六字名號一遍法(ぺんはふ)

  十界依正一遍體(たい)

  萬行離念一遍證(ぺんしよう)

  人中上上妙好花(めいかうげ)

 

と唱へさせ給ふと見て、夢想は卽ち、覺めにけり。知眞房上人、この夢想を感じて、正身(しやうしん)の權現を拜み奉り、歡喜の淚、措所(おきどころ)なし。卽ち、此偈を札に書きて、老少男女を云はず、賦與(くばりあた)へて結緣(けちえん)す。四句の偈の上の字に、六十萬人とある上は、決定往生の念佛を曹(あまね)く勸(す〻め)んと思立ちて、九州二島(じたう)の末までも、千里を遠しとせず、萬仞(ばんじん)の波を越えて、又、鎭西より洛陽を志し、道にして一人の僧に行逢(ゆきあう)たり。元より道心深く、世を遁れし聖(ひじり)なるが、知眞房上人の念佛の弟子となり佗阿彌陀佛(たあみだぶつ)と號して、隨逐(ずゐちく)して、諸國を囘(めぐ)る。魚と水との如くにて、影と形に似たりければ、師弟の情、深くして、立離(たちはな)る〻時ぞなき。其より打囘(うちめぐ)り、信濃國佐久郡(さくのこほり)伴野(ともの)と云ふ所にて、歳末の別時(べちじ)行ひて、踊躍歡喜(ゆやくくわんぎ)の餘(あまり)、立て唱へ、居て唱へ、踊躍(ゆやく)の姿(すがた)、身を忘れ、鳧鐘(ふしよう)の響(ひゞき)、空に渡り、紫雲、軒(のき)に覆ひたり。結緣の男女、諸共(もろとも)に歡喜の淚を流しけり。昔、空也上人、市朝(してう)洛外にして踊躍(ゆやく)の餘(あまり)に踊(をどり)念佛し給ひけり。これぞ、その事の初なる。奥州に赴き、白河の關に掛りて、修行、既に日を送り、山野は同じく續けども、地形(ちけい)は又、等しからず、月は野草(やさう)の露より出でて、遠樹(ゑんじゆ)の梢(こずゑ)に昇り、日は海岸の霧に傾きて、叢松(そうしよう)の綠(みどり)に映(うつろ)ふ。往初(そのかみ)、西行上人、修行の時、「關屋を月の漏(も)る影は」と詠じけん事を思出でて、關屋の柱に書き付けける。

 

  白河の關路にもなほ留(とゞま)らじ心の奧のはてしなければ

 

又、或時、詠める歌に、

 

  思ふ事なくて過ぎにし昔さへ忍べば今の歎(なげき)とぞなる

 

  あともなき雲にあらそふ心こそ中々月の障(さはり)とはなれ

 

斯(かく)て、東西南海北陸の諸國、京都洛外に至るまで、影を殘し、教を留め、普(あまね)く念佛を弘通して、相州藤澤の道場を構へ、鎌倉を囘(めぐ)りて、念佛を結緣(けちえん)し、此所(こ〻)にも猶、留らず、修行の志、怠らず。攝州兵庫の觀音堂に於いて正念にして遷化(せんげ)あり。正應二年八月二十三日、生年五十一とぞ聞えし。佗阿彌陀佛、その遺教(ゆゐけう)を守りて、同じく諸国を修行せしより、一遍上人時宗の流義、今の世までも退轉なし。

 

[やぶちゃん注:本文の一部に行間を設けた。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、一遍『上人の若年期の経歴、二人の妾のこと、熊野参詣までの内容は『京雀』(七巻七冊、寛文五年板)巻六「七条通」「材木町」の一遍上人関連の記述と類似する。また『謡曲拾葉鈔』『諷謌鈔』にも一部類似がある。なお、熊野参詣以下の内容は『一遍上人縁起』に類似する』とある。

「四時」四季。

「迭(たがひ)に」「迭」(音「テツ」)は「代わる代わる」「交替に」の意。

「年も漸(やうや)く暮行きて」ここは前章の最後ではなく、メインである「文永の役」を受けている。文永一一(一二七四)年が暮れたことを意味する

「靑陽(せいやう)」五行説に於いて「青」を「春」に配するところから、春の異称。特に、初春を指す。

「改元有て、建治元年と號す」文永一二年四月二十五日(ユリウス暦一二七五年五月二十二日)に前章の最後に出る後宇多天皇の即位により「建治」に改元された。

「二月上旬にも成りしかば」重箱隅みをつつくようであるが、二月では、まだ改元前である。これは次の元使の話に繋げるための順列変更である。

「蒙古の使(つかひ)杜世忠等(ら)、又、日本に來朝す、高麗人(かうらいじん)も同じく來れり。太宰府に舟を留(とゞ)め、船中にある物共、悉く注錄(ちうろく)し、數多の人等をば太宰府に押留(おしとゞ)め、杜世忠等、只三人を鎌倉へぞ遣しける。洛中へは入れられず、直に關東に差下す。 路次(ろじ)の間(あひだ)、嚴しく守護して偏(ひとへ)に囚人(めしうど)の如くなり。夜を日に繼ぎて鎌倉に著くといへども、蒙古の牒狀に返簡(へんかん)すべきに及ばすとて、その儘、追返(おつかへ)し、大元に歸らしむ」完全な誤り「文永の役」の翌年の二月に、確かに第七回目の元からの使節団が来日し、その正使であったのは確かに礼部侍郎であったモンゴル人杜世忠(一二四二年~建治元年九月七日(ユリウス暦一二七五年九月二十七日))ではあったが、この時、彼らは帰国など出来ず、幕閣との対面もなく問答無用で江ノ島対岸の龍の口刑場に於いて斬首されているからである。ウィキの「元寇」によれば、『クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため、モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使とする使節団を派遣した』。『通訳には高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・チェドゥ・ウッディーン(徹都魯丁)、果の三名が同行した』。『使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下』五名を即刻、斬首に処している。『これは使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。斬首に処される際、杜世忠は以下のような辞世の句を残している』(原詩と訓読は私が別に用意した)。

 

  出門妻子贈寒衣

  問我西行幾日歸

  來時儻佩黃金印

  莫見蘇秦不下機

   門を出ずるに 妻子 寒衣を贈りたり

   我に問ふ 西に行き 幾日にして歸ると

   來たる時 儻(も)し 黃金の印を佩びたらば

   蘇秦を見 機(はた)を下らざること 莫(な)かりしを

 

『(家の門を出る際に私の妻子は、寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に、使節の目的を達して、もし黄金の印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手を休めて出迎えたであろう)』。ウィキの「杜世忠」によれば、『辞世の句は、蘇秦の故事を踏まえた李白の詩のもじりであり、栄達を果たして家族のもとに帰る望みを果たせなかった無念と、身につけた一定の教養が窺われる』ともある。現在、彼ら首塚は、藤沢市片瀬にある日蓮宗龍口山(りゅうこうさん)常立(じょうりゅう)寺に、「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれる供養塚として残る。「北條九代記」がボロボロに致命的なのは、この後、これを次の章で、この後にまたまた懲りもせずに杜世忠一行が使節団として来たので、有無を言わせず斬首に処した、と書いてしまっている点である。

「北條左近〔の〕大夫時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年)は北条時房の長男であった北条時盛の子である北条時員(ときかず)の子(但し、後に祖父時盛の養子となっている)。ウィキの「北条時国」によれば、文永九(一二七二)年の『二月騒動で北条時輔が誅殺された後、空職であった六波羅探題南方に就任するため』、この建治元(一二七五)年十二月、十三歳で七十九歳の『祖父時盛と共に上洛し、北条時村と共に洛中の警護を命じられる』。弘安七(一二八四)年四月に執権『北条時宗が没して間もない』六月、悪行(素行不良)を『理由に六波羅探題を罷免されて関東へ召し下され』、『常陸国へ配流となった後』、誅殺されてしまう(単なる死とするもの、自死する資料もある)。『時国の事件の背景には、この頃の安達泰盛と平頼綱の対立が関係していたとの説がある。すなわち、時国を婚姻関係を通じた安達氏の与党と捉え、時国の流刑は頼綱派による泰盛派への攻撃で、翌』弘安八(一二八五)年)に『起こる霜月騒動の前哨戦であったとする』。『また、時国が捕えられた』同時期の弘安七年六月二十五日には『有力御家人の足利家時が自殺している』 『が、これについても家時が佐介流とその姻戚にあたる極楽寺流北条氏を介した泰盛与党であったとして時国の事件に連座する形での自害と解釈されている(家時の義母(父頼氏の正室)は北条時盛の娘であり、その兄または弟である時国は家時にとって義理の外叔父であった)』。『しかし、近年の研究においては、泰盛も頼綱も時宗の政治路線の継承者であり、時宗が亡くなった直後においては、その際に行われた「弘安徳政」も時宗によって企画・準備されたものが明らかであったので頼綱派も当初はこれに異を唱えなかったとされており』、『家時の自殺をその後の泰盛派と頼綱派の対立に関連づける必要はないとの説も出されている』。『従って、時国の事件も霜月騒動と関連したものであるかについては注意を要するところである。今のところ、時国が事件を起こした理由について窺える史料はない』。『但し、同じ頃』(弘安七年八月とされる)『には、時国の伯父(時盛の次男)である北条時光が謀叛を画策したとの嫌疑によって佐渡国に配流されており』、『これが時国の事件と関連があるかは不明だが、この二つの事件によって佐介流北条氏が没落したことは確かで、代わって同じ時房流である大仏流北条氏が隆盛してゆくこととなる。また、曾祖父・時房以来継承された丹波国の守護職も没収され、佐介流は時国の従兄弟である北条盛房に引き継がれた』とある。

「寛溫の惠」物事や人物に対し、寛大で人間的な温もりのある慈悲に富んだ対応すること。

「加判」連署。

「責(せめ)ての事」よほどの事。現在、一般に言われている「悪行」を字背に匂わせたか。

「今年」文脈からは建治元(一二七五)年となるが、ウィキの「一遍」によれば、一遍(延応元(一二三九)年~正応二(一二八九)年)が、六字名号を記した念仏札を配る「遊行(ゆぎょう)」を開始するのは文永一一(一二七四)年二月八日とされ、その後、『四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励』んだが、『紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする』ある(下線やぶちゃん)から、この「北條九代記」の時宗開創年は穏当な線と言える。建治二(一二七六)年には『九州各地を念仏勧進し』、建治三(一二七七)年に『豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる』。『さらに各地を行脚し』、弘安二(一二七九)年には『伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた』。翌弘安三年に『陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る』。弘安五年には『鎌倉入りを図るも拒絶され』ている。弘安七年『上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう』。弘安九年、『四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する』。弘安一〇(一二八七)年には『書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣』、文永十一年以来、実に十四年もの遊行を経、正応元(一二八八)年、『瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻』った。彼の『死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられ』ている、とある。なお、一遍は現在、独立宗派としての「時宗(じしゅう)」の開祖とされるが、親鸞同様、彼自身には新たな独立した宗派を立宗しようという意図はなく、その教団や成員も專ら「時衆(じしゅう)」と呼ばれた。

「鎌倉藤澤時宗念佛」現在の藤沢市西富にある時宗総本山の藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)、所謂、「遊行寺」(通称。但し、近世以降)のことである。一遍の没後三十六年経った正中二(一三二五)年、俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言される。「鎌倉」とあるのは、現在の藤沢市地区の鎌倉に接する多くの部分が古くは鎌倉郡に属していたからであって、誤りではない。

「伊豫國の住人河野七郎通廣が次男」ウィキの「一遍」によれば、『伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、別府通広(出家して如仏)の』第二子として『生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ』るが、『同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説もある。有力御家人であった本家の河野氏は』、承久三(一二二一)年の『承久の乱で京方について』、敗北後、『祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた』とあって、以下に語られる内容とは大いに齟齬する。二人の妻の髪の毛の蛇に変じて盤上で争そうというのは、この手の遁世譚の、聴き飽きたステロタイプであり、一遍が生きていたら、「阿呆臭!」と言い放って、踊り出っしゃうような気がする。

「桑門(さうもん)」僧侶。

「西山(せいざん)の善惠(ぜんえ)坊上人」法然の最需要の高弟の一人で、浄土真宗西山派の祖善恵房証空(ぜんねぼうしょうくう 治承元(一一七七)年~宝治(一二四七)年)。加賀権守源親季の長男であったが、九歳で内大臣久我通親の養子となった。建久元(一一九〇)年十四歳の時、元服に際して発心・出家し、法然の直弟子となった。以後、法然臨終までの二十一年に亙って、その許で親しく修学、法然の「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」撰述に当たっては、編集作業の重役を勤めており、法然に代わって九条兼実邸での「選択集」講義なども行っている。

「靑巖(せいがん)」青緑に苔蒸した大岩。

「本宮證誠殿(しやうじやうでん)」現在の和歌山県田辺市本宮町本宮にある熊野本宮(ほんぐう)大社の「上四社」の内の、第三殿とされる「證証殿」。祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ:恐らくは素戔嗚の別名)で、神仏習合期のその本地は阿弥陀如来であった。

「弘通(ぐつう)」「ぐずう」とも読む。仏教を普及させること。

「十劫(ごふ)」「劫(こう)」は仏教の無限に近い長い時間単位で。ここは「永い」の謂い換え。

「正覺」仏法のまことの一念を悟ること。

「決定業(けつじやうごふ)」一般には「定業」と同じで、前世から定まっている善悪の業報(ごうほう)であるが、ここは特異義で、弥陀の本願が既に成就している以上、その定め、即ち、「南無阿彌陀佛」の名号(みょうごう)を唱えることで、生きとし生けるありとある衆生は極楽往生するということは、既にして決定(けつじょう)している、ということ全体を指している。

字名號一遍法/界依正一遍體/行離念一遍證/中上上妙好花」辛気臭い宗教サイトよりも、増淵勝一氏の訳(一九七九年教育社刊)の方が遙かによい。引用させて戴く。『「南無阿弥陀仏」という六文字の名号には仏の教えのすべてがこもっている。十界〈地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の各界)の依正(えしょう)〈依報(えほう)と正報。過去の業によって受けた我が心身を正報といい、その心身がよりどころとする一切世間の事物を依報という〉は全本体である。すべての行ないが妄念を離れるとすっかりさとりきったことになる。そういう人を人間の中の上上の妙好花というのである。』。

「九州二島(じたう)」九州と壱岐と対馬の二島。

「末までも」隅々、残る隈なく。

「佗阿彌陀佛(たあみだぶつ)」(嘉禎三(一二三七)年~文保三(一三一九)年)は遊行上人第二世で、「他阿(たあ)」と略する。ウィキの「他阿より引く。建治三(一二七七)年に『九州で時宗の祖一遍に師事して以来、一遍の諸国遊行に従う』。正応二(一二八九)年に『一遍が亡くなった後』、一旦、散り散りになってしまった『時衆を再結成して引き連れ、北陸・関東を中心として遊行を続けた』。嘉元二(一三〇四)年には遊行上人を第三世『量阿(他阿智得。のち他阿号を世襲)に譲り、自らは相模国に草庵(後の当麻道場金光院無量光寺)を建立して独住(定住)し、そこで没した。同寺の境内に、一遍らとならんで墓塔の宝篋印塔がある。おもな門弟に量阿のほか、有阿(恵永または恵光。のち藤沢道場をひらく他阿呑海)、京都四条道場・浄阿(真観)がいる』。『膨大な消息はのちに』「他阿上人法語」(八巻)に『まとめられたほか、歌人として京都の貴人たちとまじわり』、歌集「大鏡集」もある。『一遍は、肉親ともいわれる弟子聖戒を後継者とみなしていた節があり、しかも入寂に際して時衆は各地に散って自然消滅している。それを再結成して他阿自らが中心となって再興をなしとげた』。『他阿はバラバラであった時衆を統制するために信徒に対して僧である善知識を「仏の御使い」として絶対服従させる知識帰命の説を取り入れ、「時衆制誡」「道場制文」などを定め』、「時衆過去帳」を『作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。この頃、消息の中で配下の道場(寺院)は百あまりと述べている。こうして他阿は時衆を整備された教団とし、その教団確立のうえで大きな功績を残した』。『現在ある時宗教団は、この他阿の系統を引く藤沢道場清浄光寺が、他の一向俊聖などの念仏聖の教団を吸収して近世に成立した。歴代の時宗法主は他阿を称する。したがって、他阿真教こそが、時宗の実質的な開祖といえよう。宗祖一遍とならぶ「二祖上人」と通称され、多くの時宗寺院で、その像が一遍と対になって荘厳されている』とある。

「隨逐(ずゐちく)」後を追って附き従うこと。

「信濃國佐久郡(さくのこほり)伴野(ともの)」現在の長野県佐久市伴野。ウィキ伴野荘 (信濃国佐久郡)に『霜月騒動の少し前である』弘安二(一二七九)年の『冬、善光寺に向かう途中であった一遍が、伯父の河野通末の配流先』(承久の乱で河野一族は上皇方についたことによる)『であった伴野荘を訪れ、この地の市場において初めて踊念仏を行った』、と「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」にあると記す。

「歳末の別時(べちじ)」増淵氏の割注に、『特別の時日。期間を定めて唱名念仏をすること』とある。

「鳧鐘(ふしよう)」中国神話で音楽を司る鳧(ふ)氏が作ったという鐘の意から釣鐘・梵鐘・鉦鼓 (しょうこ) などを指すが、ここはまさに極楽天界の音楽、飛天の奏でるそれをイメージしてよかろう。

「空也」(延喜三(九〇三)年~天禄三(九七二)年)。天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが、不明。常に市中に立って庶民に念仏を勧め、貴賤を問わず幅広い帰依者を得、「阿弥陀の聖」「市の聖」と尊称された。諸国を巡って、道路を開鑿し、橋を架けるなどの社会事業をも行ったことで知られる。京都に疫病が流行した際に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建立、平癒を祈った。ここに出る「踊念仏」の開祖とも仰がれるが、空也自身がそうした「踊念仏」を修したという証拠はない。但し、門弟は高野聖などとして中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となったことは事実で、一遍に彼の影響が大きいことは言うまでもない。

「市朝」洛中の人々の集まる市(いち)。

『西行上人、修行の時、「關屋を月の漏(も)る影は」と詠じけん』「山家集」に出る一首(一一二六番歌)。

 

    みちのくにへ修行してまかりけるに、

    白河の關にとまりて、所がらにや、

    常よりも月おもしろくあはれにて、

    能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折り、

    いつなりけむと思ひ出でられて、名

    殘(なごり)おほくおぼえければ、

    關屋の柱に書き付けける

 白河の関屋を月のもる影は人の心を留むるなりけり

 

能因のそれは、御存知、

 

 都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の關

 

である。「もる影」は月の光りがあばら家の隙間から「洩(も)る」と、孤独な関守が関を「守(も)る」の掛詞。

「白河の關路にもなほ留(とゞま)らじ心の奧のはてしなければ」増淵氏の訳を引く。『はるばると修行の旅を続けて今やっと行く手を「塞(せ)く」白河の関にまでやってきた。しかし私はやはりここで留まらないで先へ進もう。陸奥(みちのく)の地が奥深いように私の仏を求める心は奥深く果てしないから。』。

「思ふ事なくて過ぎにし昔さへ忍べば今の歎(なげき)とぞなる」同じく増淵氏の訳。『思い嘆くこともなくて過ごしてきた昔でさえも、今思い出すと、どうしてあの時にもっと早く仏道を求めなかったのかという嘆きになることだよ。』。

「あともなき雲にあらそふ心こそ中々月の障(さはり)とはなれ」同増淵氏訳。『晴れればあとかたもなくなってしまう月を隠している雲〈妄念の意〉に対して、そこをどくようにと争う心こそが、かえってしみじみと見るはずの月〈心〉の障害となることであろう。』。

「相州藤澤の道場を構へ」既に注した通り、誤り。清浄光寺(遊行寺)は一遍の死後の建立である。なお、同寺は現行でも藤沢道場と呼称する。

「退轉」没落。衰退。凋落。]

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