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2016/12/09

芥川龍之介 手帳6 (5)

 

○泉 白雲泉 盃盂泉 ○魚樂 ギボシユ 玫瑰 佛 藻をとる男 ○トタンの管 玫瑰の落花 亭 呉中第一水 藻 龍髯

[やぶちゃん注:「白雲泉」先に続いて、天平山(蘇州市西方約十四キロの所にある山で、標高三百八十二メートル(二百二十一メートルとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる)山麓にある中唐の白居易(七七二年~八四六年)の命名による泉。天平山の東側中腹の雲泉精舎にある泉で、盛唐から中唐にかけて生きた作家で「茶経」を著したことから「茶聖」と呼ばれる陸羽(七三三年~八〇四年)が、この白雲泉を「呉中第一泉」と認定したと伝えられる。後の「呉中第一水」と同じ。現在は「白雲池」とするようである。

「盃盂泉」不詳。天平山には小さな池塘が沢山あるが、現行の案内図ではこの名を探し得なかった。或いは、龍之介の誤記か?

「魚樂」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」で龍之介は、「呉中第一泉」の『まはりには白雲泉とか、魚樂とか、いろいろの名を彫りつけた上に、御丁寧にもペンキか何かさした、大小の碑が並んでゐる。あれは呉中第一泉にしては、餘り水が汚いから、唯の泥池と間違はれないやうに、廣告をしたのに違ひない』と皮肉っている。

「ギボシユ」擬宝珠。ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花は夏であるから、咲いてはいない。

「玫瑰」既注であるが、再掲する。日本語の音は「マイカイ」であるが、ここは中国音の「メイクイ(méiguī)」で読みたい。本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としては「バラ」を総称する語であり、ここも「薔薇(ばら)」を指していよう。

「藻をとる男」繁殖して悪臭を放つ藻を除去している者か。

「トタンの管」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」の「呉中第一泉」の描写で「その池へ亞鉛(とたん)の懸け樋(ひ)から、たらたら水の落ちてゐる」とある。

「龍髯」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。開花はこれも夏七月であるから、あの淡い紫の花は咲いていない。]

 

○窓 燈籠 窓外 藤 竹 萬笏朝天の一部 見山閣 ○莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休 〇七級塔

[やぶちゃん注:「萬笏朝天」これ自体は「空に突き出る万の笏」の謂い。「笏」は束帯などの公式正装の際に右手に持つ細長い薄板であるが、ここは所謂、中国の奇景の一つとしてしばしば見られる尖塔状の柱状節理の奇岩を指しているのであろう。

「見山閣」雲泉精舎の建物の一部か。「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」に、「呉中第一泉」に失望した直後、『しかしその池の前の、見山閣とか號するものは、支那の燈籠がぶら下つてゐたり、新しい絹の布團があつたり、半日位寢ころんでゐるには、誂へ向きらしい所だつた。おまけに窓に倚つて見れば、山藤(やまふじ)の靡いた崖の腹に、ずつと竹が群つてゐる。その又遙か山の下に、池の水が光つてゐるのは、乾隆帝が命名した、高義園の林泉であらう。更に上を覗いて見ると、今登つた山頂の一部が、かすかな霧を破つてゐる。私は窓によりかかりながら、私自身南畫か何かの點景人物になつたやうに、ちよいと悠然たる態度を粧つて見た。』と珍しく褒めている場所である。

「莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休」これは「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」にも出る詩句である。しかしこれ、当該注でも示した通り、筑摩全集類聚版も神田由美子氏の岩波版新全集注解も注として挙げていない。自明とおっしゃるらしい。暴虎馮河なれど、諸注のそうした態度が気に入らない。意地で読む。書き下せば、

○やぶちゃんの書き下し文

莽蕩(まうたう)たる河山(かざん) 暮愁起る

何くより來たる 共に天を戴かざるの仇(かたき)

恨むらくは 十萬の橫磨劍(わうまけん)の無きを

倭奴を殺し盡して 方(まさ)に罷休(ひきゆう)せんに

○やぶちゃんの現代語訳

遙かに遙かに茫々と広がるこの大地大河 そこが暗く沈んで暮れゆく そこに自ずから愁いが立ち上ってくる――

一体お前たちは どこからやってきた? 不倶戴天の仇敵よ!――

恨むらくは 今 この国に十万の横磨剣(おうまけん)が無いこと――

ああ! 倭奴(わど)を殺し尽くして初めて 私は安らかな休息を得ることが出来ようというものなのに!――

 後晋の軍人にして宰相であった景延広(八九二年~九四七年)は圧迫してくる契丹に対し臣と称することに反対、契丹の使者に「孫(=後晋の比喩)には十万の横磨剣がある。翁(=契丹)がもし戦いたいならさっさと来るがいい」と言ったことを指す(景延広の事蹟については杭流亭の「中国人名事典~後晋」の記載を参照した)。「横磨剣」の意味がよく分からないが、雰囲気としては横たえなければならない程太い鋭く研磨し上げた剣(若しくは触れなば即死のまがまがしい程の切れ味のよい魔剣)と言った意味か。ともかくも国民総てが勇猛果敢死を恐れず、一丸となって闘うぞ! といった感じの、強国契丹への挑発である。この詩の転句・結句の解釈には自信はない。自信はないが、私の意識の中では牽強付会の訳では、必ずしもない。「倭奴」は古代よりの中国人や朝鮮人の日本人に対する蔑称。誤りがあれば、是非、御教授を乞うものである。

「七級塔」不詳。七層塔の意か。]

 

○跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君 江蘇巡撫程德全

[やぶちゃん注:「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君」この詩句は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に以下のように出る。かの張継の「楓橋夜泊」で知られる寒山寺(蘇州中心部から西方五キロメートルの楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(五〇二年~五一九年)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(六二七年~六四九年)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。蘇州の靈巌寺(霊岩寺)と同じく、空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある)へ見物に出かけた龍之介が、寒山寺をこき下ろす中で、『殊にあの寺の坊さんは、日本人の顏さへ見ると、早速紙を展(ひろ)げては、「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」と、得意さうに惡筆を振ふ。これは誰でも名を聞いた上、何何大人正(せい)とか何とか入れて、一枚一圓に賣らうと云ふのだ。日本人の旅客の面目(めんもく)は、こんな所にも窺はれるぢやないか? まだその上に面白いのは、張繼の詩を刻んだ石碑が、あの寺には新舊二つある。古い碑の書き手は文徴明、新しい碑の書き手は愈曲園(ゆきよくゑん)だが、この昔の石碑を見ると、散散に字が缺(か)かれてゐる。これを缺いたのは誰だと云ふと、寒山寺を愛する日本人ださうだ。――まあ、ざつとこんな點では、寒山寺も一見の價値があるね』という中に、である。そこで私は、「海を跨(また)ぐこと萬里、古寺を弔す。惟だ鐘聲と爲りて遠く君を送らん」と訓じ、「あなたはわざわざ海の遙か彼方から、この古き寺に、敬虔にも、過ぎし総ての過去の死者の魂を弔いに来られた。そのあなたを、この何もない私は、ただ、あの知られた寒山寺の鐘の音(ね)を以って、送別するばかりです。」という意か。

「江蘇巡撫程德全」は清末民初の政治家で中華民国の初代江蘇都督であった程徳全(てい とくぜん 八六〇年~一九三〇年)。「巡撫」(じゅんぶ)は明・清代に存在した官職名で、清代では明の制度を踏襲し、巡撫は省の長官とされ、総督とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した、とウィキの「巡撫」にある。ウィキの「程徳全」によれば、彼は清で貢生(明清代に生員(秀才:国子監の入試である院試に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得た者)の優秀な者で国子監で学ぶことを許可された者)となり、『主に黒竜江において政治的経歴を積み重ね、主に事務、文書起草の任に就』き、その後、黒竜江巡撫・奉天巡撫を経て、一九一〇年に『江蘇巡撫に異動した』。辛亥革命勃発後の一九一一年十一月には『周囲から推戴され、江蘇都督とな』り、翌年一月三日に『南京臨時政府が成立すると、その内務部総長に任命された。その同日、中国同盟会を離脱した章炳麟(章太炎)、張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織し』、同四月には『臨時大総統に就任した袁世凱から、改めて江蘇都督に任命された』。五月に『統一党は民社と合併して共和党となったが、程徳全は章太炎と不和になり、共和党から離党』、民国二(一九一三)年の二次革命(第二革命)では『江蘇省の独立を宣言した。しかし、まもなく上海に赴くなどして、実際の活動は乏し』く、同年九月の『二次革命の敗北とともに、江蘇都督を辞任した。これにより政界から引退し、以後は上海で仏門に入った』とある。「江蘇巡撫」という片書からは、これが彼の詩句であるとすれば(すれば、である)、一九一〇年から翌一九一一年十一月前の作となるか。彼は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に出る。]

 

○途中村落 柳 鵞 鴨

[やぶちゃん注:「鵞」鵞鳥。ここで龍之介が嘱目したのは、カモ目カモ科マガン属サカツラガン Anser cygnoides を原種とする中国系家禽のそれ。]

 

○虎邱 海陵陳鐵坡重建 古眞孃墓 癈塔傾く 鴉嘸聲 パク 鳥ナリ(九官ノ一種) 御碑亭ト客殿

[やぶちゃん注:「虎邱」蘇州北西の郊外約五キロメートルに位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~紀元前四六三年)が父王闔閭(こうりょ ?~紀元前四九六年)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからともいう)。標高三十六メートル。五代の周の九六一年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記する。

「海陵陳鐵坡重建」不詳。「海陵」現在の江蘇省中部に位置する泰州市は古くは「海陵」と称した。「陳」は地区名の「陳鎮」誤りか(「蘇陳鎮」という地名が現在の泰州市にある)。「坡」は堤の意で地名によく使われる。「重建」は復興再建の謂いであろう。但し、虎邱や寒山寺とは南南東に百四十五キロメートルも離れている。

「古眞孃墓」真娘とは中唐の蘇州で歌舞の名手であった美妓の名。蘇州城西北郊外にあった武丘西寺(西武丘寺)に埋葬されたという。ここはその遺跡であろう。サイト「中国詩跡」の植木久行氏の「蘇州真娘墓詩跡考」に詳しい。

「鴉嘸聲」「カラスの、まさにその、声」の意か。但し、現代中国語では「パク」ではなく、「ヤーヤー」である。或いは「パク」は以下の「九官ノ一種」の「鳥」の名か、その声か?

「御碑亭」皇帝や高貴な人物の碑を建てた四阿(あずまや)のことであろう。]

 

○白壁 運河 新樹 蛙 鵲 北寺の塔 暮色 小呉軒

[やぶちゃん注:「鵲」「かささぎ」。スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラス(高麗鴉)とも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島ではごく一般的な鳥。

「北寺の塔」「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に二四七年から二五〇年頃に造立された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように「報恩寺」と名づけられた。孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(五〇二年~五五七年頃)のものらしいが、損壊と再建が繰り返され、この時、芥川が登った現在の八角形九層塔は南宋時代の一一五三年の再建になるもので、高さ七十六メートルあり、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。私も登ったことがある。

「小呉軒」北寺にある清の第四代聖祖(康熙帝:一六五四年~一七二二年)及び第六代皇帝高宗(乾隆帝:一七一一年~一七九九年)が南巡の際に立ち寄った行宮の一部である。龍之介は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」で北寺『塔の外にもう一つ、小呉軒と云ふ建物がある。其處は中中見晴しが好い。暮色に煙つた白壁や新樹、その間を縫つた水路の光、――僕はそんな物を眺めながら、遠い蛙(かはづ)の聲を聞いてゐると、かすかに旅愁を感じたものだ』と珍しく非常に素直に感懐を綴っている。]

 

○酒棧 (京莊花雕) 白瓶(赤瓶上酒) 正方形の卓(タメ塗ハゲタリ) 同じやうな腰かけ 白壁 煤柱 土間 瘦犬 錫 筋(茶碗程の盃 底に靑蓮華) 辮髮の男 黑衣靑袴 深靑衣濃靑袴の杜氏 卓上の菜 電燈 天井比較的高し 豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男 中に醬油瓶アリ 菜は正方形の新聞紙上におく(二錢位) 田螺 梯子(呉城𨤍品 京莊紹酒) 驢の鈴 轎子のかけ聲 拳をうつ聲

[やぶちゃん注:「酒棧」(きゃくさん)は居酒屋。江南游記 二十一 客棧と酒棧の本文(題名ではない)では『酒棧(チユザン)』と中国音で読んでいる(現代標準語では「Jiǔzhàn」で「ヂォウヂァン」)。

「京莊花雕」紹興酒の内、長期熟成させた老酒(ラオチュウ)を「花雕」「花彫酒」という。これは紹興地方の習慣で、女児が生まれた三日後に酒を甕(かめ)に仕込み、嫁入りの際に掘り出して甕に彫刻と雅びやかな彩色を施して婚家へ持参したことによる。中文記事等を斜め読みすると、「京荘酒」というのは、紹興酒の中でも美事に熟成した上品を指し、それを京師(けいじ:長安)に高級酒として運んだことに由来するらしい。「荘」は「恭しく奉る・厳かにして高品質の」と言った意味合いではなかろうか。「白瓶(赤瓶上酒)」も含め、江南游記 二十一 客棧と酒棧に、『我我の向うには二三人、薄汚い一座が酒を飮んでゐる。その又向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある。何でも老酒(ラオチユ)の上等なのは、白い瓶に入れると云ふ事だから、この店の入り口の金看板に、京莊花雕(けいさうくわてう)なぞと書いてあるのは、きつと大法螺に違ひない。さう云へば土間に寢てゐる犬も、氣味の惡い程瘦せた上に、癬蓋(かさぶた)だらけの頭をしてゐる。往來を通る驢馬の鈴、門附(かどづけ)らしい胡弓の音、――さう云ふ騷ぎの聞える中に、向うの一座は愉快さうに、何時(いつ)か拳(けん)を打ち始めた』とあり、さらに(改行部部を「/」で示した)『其處へ面皰(にきび)のある男が一人、汚い桶を肩へ吊りながら、我我の机へ歩み寄つた。桶の中を覗いて見ると、紫がかつた臟腑のやうな物が、幾つも渾沌と投げこんである。/「何です、これは?」/「豚の胃袋や心臟ですがね、酒の肴には好(よ)いものです。」/島津氏は銅貨を二枚出した。/「一つやつて御覽なさい。ちよいと鹽氣がついてゐますから。」/私は小さい新聞紙の切れに、二つ三つ紫がつた臟腑を見ながら、遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した。母夜叉孫二娘(ぼやしやそんじぢやう)の店ならば知らず、今日明るい電燈の光に、こんな肴を賣つてゐるとは、さすがに老大國は違つたものである。勿論私は食はなかつた。』として、同「二十一 客棧と酒棧」(「酒棧」パートは後半半分)は終わっており、この「豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男」もちゃんと生かされている。このたった百五十七字のメモと記憶を文章映像に美事に仕立て上げてしまう芥川龍之介は、やはり凄いと私は思う。

「タメ塗リ」「溜め塗り」は漆塗りの一種で、朱漆・青漆などで下塗りをしてその上を木炭で艶消しした上、透漆を塗ったもの。下塗りの色が透けて見えるようになっている。江南游記 二十一 客棧と酒棧に、『机や腰掛けは剝(はげ)てゐたが、ため塗りのやうに塗つてあるらしい。私はその机を中に、甘蔗の茎をしやぶりながら、時時島津氏へ御酌をしたりした』と出る。

「杜氏」不詳。或いは「とうじ」で、紹興酒の醸造責任者のことを指しているか。

「梯子」先に示した通り、「向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある」のであるから、それを順に積み上げ、また下ろすのに「梯子」が必要なわけである。

「呉城𨤍品」三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝呉をシンボルとした名であろう。「𨤍」は音「レイ・リョウ」で、古え、現在の湖南省にあった酃(れい)湖の水を使って醸した酒の名で、透き通った美酒「𨤍醁(レイリョク)」(「𨤍」は「醽」「𨣖」「𨠎」とも書く)というのがあったというから、「𨤍品」で美酒の謂いらしい。

「驢の鈴」驢馬につけた鈴。その音。

「轎子」「けうし(きょうし)」と読む。お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐り、前後を八~二人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮に古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高い山の観光地などで見かけることがある。中国語では「Jiàozi」で「ジャオズー」。

「拳」拳(けん)遊び。日本のジャンケンのルーツ。二人又はそれ以上で手・指・腕の開閉・屈伸交差による数字や形象等によって競う、本来はこの場面の通り、酒席で行われた大人のギャンブルである。]

 

○對聯 獨立大道 共和萬歳 文明世界 安樂人家

[やぶちゃん注:「對聯」は「ついれん」と読み(中国語では「duìlián」(ドゥイリエン))、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらにはここで語られるような社会批評(或いはその皮肉)が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。江南游記 二十六 金山寺の冒頭に、『「對聯(たいれん)の文句も變りましたね。御覧なさい。あすこに貼つてあるやつなぞは、獨立大道、共和萬歳としてあります。」/「成程、此處のも新しい。文明世界、安樂人家(あんらくじんか)と書いてあります。」』と出る。]

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