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2016/12/07

甲子夜話卷之三 17 文祿二年禁中御能番組

 

3-17 文祿二年禁中御能番組

或古小册に、文祿二癸巳年十月五日、禁中御能番組と記す。其中目にとゞまる所を抄書す。先づ初日と云、番組の中に、源氏供養、羽柴肥前守【加賀守利家弟、三十三萬石と注書す】、脇如丈、笛奈良禰宜助竹友、小鼓江戸中納言秀忠公、大鼓岡田新八。野野宮、家康公江戸中納言、脇淺野彈正少弼長政、笛竹友、小鼓畠山信濃守、大鼓同修理大夫。二日目番組と云に、老松、家康公、ツレ金春大夫、脇中田帶刀、寅菊次右衞門、岩本雅樂、笛八幡助左衞門、小鼓觀世又次郞、大鼓樋口石見守、太鼓小崎彦三郞。狂言耳引、太閤秀吉公、羽柴肥前守、江戸中納言家康公。三日目雲林院、家康公、脇永井右近大夫直勝、笛春日市右衞門、小鼓觀世又次郞、大鼓高安與右衞門、太鼓淺野左京大夫幸長。次に舞臺の圖を出す。紫宸殿の側なると見ゆ。其次に各地謠歟と記する名書あり。先づ近衞前太政大臣信基公、二條前關白煕實公、九條前左大臣兼孝公、梶井殿、大谷宰相、伏見殿、八條殿、其外あり。此餘は毛利秀元等武家の歷々なり。此擧、秀吉太閤の所爲なるべけれど、珍しき事なり。且この前年より、太閤已に朝鮮を攻て、此年は吾大軍他邦に在の間なり。この時世の人氣は想像すべし【家康公の下、中納言と記す。又江戸中納言家康公と云も、疑らくは、中は大の書誤なるべし】。

■やぶちゃんの呟き

 このキャスティング、凄過ぎ!!

「文祿二年」一五九三年。

「文祿二癸巳年十月五日」「癸巳」(みづのとみ/キシ)。新暦では十一月二十七日。

「其中目にとゞまる所」「そのうち、めに留まる所」。特に目の止まったところ。

「源氏供養」ウィキの「源氏供養」によれば、『作者については世阿弥説、河上神主説(以上『能本作者註文』)、金春禅竹説(『二百十番謡目録』)があ』り、『豊臣秀吉は能楽の中で特にこの源氏供養を好み』、この前年の文禄元年からこの文禄二年にかけてだけでも、自ら七回も『舞った記録が残されている』とする。紫式部をシテとした複式夢幻能。

「羽柴肥前守【加賀守利家弟、三十三萬石と注書す】」加賀藩初代藩主前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)。彼は天正一三(一五八五)年九月に秀吉から羽柴の苗字を賜っている。

「脇」「ワキ」。「源氏供養」では「安居院(あぐいの)法印」役。

「如丈」私は不詳。本記載と同じ「文祿貮【癸巳】年【十月五日】於禁裏御能番組(但し、演目は総て)を載せる「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」(グーグル・ブックス。以下、同じ)では「山岡如犬」と載るが、「犬」は流石におかしかろう。調べて見ると、「山岡如軒」がいる。これだろう。生没年未詳であるが、安土桃山時代の武将で豊臣秀吉の馬廻り役を勤め、この翌文禄三年に摂津西成郡の検地を奉行している。事蹟は思文閣「美術人名辞典」に拠った。

「奈良禰宜助竹友」不詳ながら、「奈良」の「禰宜助」(禰宜の助役か)の「竹友」なる人物で、著者不詳の寛政元(一七八九)年の「松浦古事紀」の中の、「四十三 文禄三甲午年秋九月十八日」の「大阪西御丸御能之事」に「野守」の演目で笛方に「竹友」とある。まさしく彼であろう。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「貞光竹友」と載る。

「小鼓」「こつづみ」。

「江戸中納言秀忠公」徳川秀忠。

「大鼓」「おほつづみ」或いは「おほかは」。能や長唄で囃子に用いる大形の鼓(つづみ)。左の膝の上に横たえ、右手で打つ。能では床几(しょうぎ)に腰かけて打つ。

「岡田新八」私は不詳。

「野野宮」能「野宮(ののみや)」。「源氏物語」の六条御息所をシテとする複式夢幻能。

「家康公江戸中納言」徳川家康。最後で静山が注しているように、「中納言」は「大納言」の誤り。家康は先立つ天正一五(一五八七)年八月に従二位権大納言に任ぜられている。なお、この時に「羽柴」姓をも下賜されている。

「淺野彈正少弼長政」豊臣政権下の五奉行筆頭で、後の常陸真壁藩主浅野長政(天文一六(一五四七)年~慶長一六(一六一一)年)。「野宮」のワキ「旅僧」役。

「畠山信濃守」私は不詳。

「同修理大夫」畠山修理大夫なら、能登畠山氏第九代当主畠山義綱がいるが、私にはよく判らぬ。但し、「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では前の人物を「畠山」とするのに対して「畑山」と表示が異なる。

「老松」世阿弥作の老松の神霊をシテとする長寿を言祝ぐ複式夢幻能。

「金春大夫」金春流宗家六十二代金春安照(天文一八(一五四九)年~元和七(一六二一)年)か。豊臣秀吉の能指南役を勤め、絶大な庇護を受け、慶長元(一九五六)年には大和で五百石の知行を得、徳川家康の愛顧も受けて金春座繁栄の基礎を築いた。

「中田帶刀」私は不詳。思うに、「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」から見ると、「甲田帯刀」の誤りか。

「寅菊次右衞門」長府藩能役者の知られた名跡。表きよし氏の論文「長府藩の能楽」(PDF)に詳しい。後の金春座の虎菊大夫か。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「虎田治右衞門」と記す。

「岩本雅樂」底本では「雅樂」には「うた」とルビする。私は不詳。

「八幡助左衞門」不詳。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「助」を「介」とする。

「觀世又次郞」観世又次郎重次。信長から朱印状を拝領した彦右衛門豊次の子。江口文恵氏の論文「勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵」(PDF)に拠る。

「樋口石見守」大鼓方能役者で樋口流大鼓の祖。近江の郷士で豊臣秀吉の近習頭となった。観世信光に大鼓を学んだ。彼は後に秀吉の命で朝鮮出兵に従い、陣中で死去している。

「太鼓」「たいこ」。二枚の牛皮と欅(けやき)などをくり抜いた胴を調緒(しらべお)と呼ばれる麻紐で固く締め上げた打楽器。能の演奏では専用の台に載せて床に据え、二本の撥を用いる。

「小崎彦三郞」私は不詳。

「耳引」現在の狂言「居杭」(いぐい:「井杭」とも書く)の原型とされる。清水寺の観音に「隠れ頭巾」を授かった男が、姿を消し、周囲の人々を翻弄するストーリー。参照したウィキの「居杭」に、まさにこの時に演じられたそれがプロトタイプであると推定されているとある。

「雲林院」在原業平をシテとする複式夢幻能。

「永井右近大夫直勝」後の下総古河藩初代藩主永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二六)年)。

「春日市右衞門」(しゅんにちいちえもん 天正六(一五七八)年~寛永一五(一六三八)年)は笛方能役者。父は三好家家老として将軍足利義輝を殺害させて畿内に実権を揮った松永久秀の家臣であった。松永氏の滅亡後に能笛を家業とし、徳川家康から「春日」の号を与えられたとも、或いは春日太夫道郁(どうゆう)に名字を貰って、笛方春日流二代を継いだともされる(ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「高安與右衞門」能の大鼓方の流派の一つで、室町末期に高安与右衛門道善を流祖とした嫡流。

「淺野左京大夫幸長」後の紀州藩初代藩主浅野幸長(天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)。

「歟」「か」。疑問の係助詞。

「名書」「ながき」。名簿。

「近衞前太政大臣信基」近衛信尹(のぶただ 永禄八(一五六五)年~ 慶長一九(一六一四)年)の初名。ウィキの「近衛信尹によれば、『幼い頃から父とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたと』され、『秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと』、文禄元(一五九二)年十二月には、『自身も朝鮮半島に渡海するため』、『肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言』したため、『天皇や秀吉の怒りを買い』、この翌文禄三(一五九四)年四月には『後陽成天皇の勅勘を蒙っ』て、『薩摩国の坊津に』三年の間、配流となったとある。後、慶長元(一五九六)年には勅許が下って京都に戻った。慶長五(一六〇〇)年九月には『島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴』ったが、敗北して薩摩に帰国した。しかし、その後、『関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し』、『家康から所領安堵確約を取り付け』、慶長六(一六〇一)年には左大臣に復職、四年後の慶長十年には念願の関白となっている。

「二條前關白煕實」秀吉の前に関白であった二条昭実(あきざね 弘治二(一五五六)年~元和五(一六一九)年)であろう。

「九條前左大臣兼孝」(天文二二(一五五三)年~寛永一三(一六三六)年)は豊臣秀次の後に関白となった九条家第十七代目当主。

「梶井殿」私は不詳。現在の京都市左京区大原にある天台宗三千院は古くは「梶井門跡」と呼ばれたから、その親王の系統上の人物か。

「大谷宰相」大谷吉継(永禄八(一五六五)年或いは永禄二(一五五九)年~慶長五(一六〇〇)年)か。

「伏見殿」私は不詳。ウィキの「によれば、北朝第三代崇光天皇の『第一皇子栄仁親王は持明院統の嫡流にあたったが、その皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられ、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになった』。栄仁親王王子の第三代『貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が』四『代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった』とあるので、この親王の系統上の人物か。

「八條殿」私は不詳。或いは「八条殿」を称した八条宮智仁(としひと)親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)か。ウィキの「八条宮智仁親王」によれば、『八条宮(桂宮)家の初代。正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)。同母兄に後陽成天皇・興意法親王らがいる。幼称は六宮・胡佐麿(古佐麿)・員丸、通称は幸丸・友輔。一般には八条の皇子と呼ばれた』。『邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も』天正一四(一五八六)年に『今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし』天正一七(一五八九)年に『秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり』、同年十二月に『秀吉の奏請によって八条宮家を創設した』とある。

「毛利秀元」(天正七(一五七九)年~慶安三(一六五〇)年)は後の長門長府藩初代藩主。

「此擧」「このきよ」。この絢爛豪華な能狂言の催し。

「太閤已に朝鮮を攻て」文禄の役。天正二〇(一五九三)年(但し、十二月に文禄に改元)四月十二日に本邦の一番隊であった宗義智(そう よしとし)と小西行長が七百艘の大小軍船で対馬・大浦を出発、同日午後に釜山に上陸している。

「在」「ある」。

「この時世の人氣は想像すべし」このような国外出兵という未曽有の大変事の中、世の歴々の太閤に対する人気(評価)は想像を絶するレベルのものであったと知れる。

「書誤」「かきあやまり」。

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