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2016/12/11

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(4) 耳取畷

 

    耳  取  畷

 

 何れの土地の話でも、大抵は此程度にぼんやりしたもので、とても法官の如き論理を以て之に臨むことは出來ぬが、兎に角鹿踊の面は人間以上に喧嘩をする。だから靈がある性があると、畏敬して居た場合は多いのである。下總船形村の麻賀田神社の神寶、飛驒の甚五郎作と稱する三個の獅子面なども、面の影を水に映して後に其水を飮めば、病氣がなほるとまで信ぜられ、毎年の春祈禱には此面を被り、神を勇めて五穀豐饒を念ずるのであるが、それが靈驗あらたかといふ證據に、却つて毀れたまゝにしてあつたのも一奇である。或年祭が經つて面を箱に納める時、順序を誤つて入れて置いたら、三つの獅子が仲間喧嘩をして、箱の中で咬み合つたといふことで、今では三つながら共舌を拔いてある。卽ち巨勢金岡の馬が、夜な夜な出でゝ萩の戸の萩を食つた類であるが、咬み合つたから舌を拔いたとは少しばかり平仄が合はぬ。又一つの獅子の眼の球が破裂して居るのも、曾て産の忌ある者が手を觸れたからと謂つて居る。是などもやはり其理由が現代を超越して居るのである。

 そこで立戾つて奥羽のシシ塚の話になるのだが、我々の感じて悟らねばならぬ二つの問題は、負けたにそよ勝つたにせよ、喧嘩をしたから塚の中に埋めるといふのはどうしたわけか。一方には古び且つ損じた面でも、修繕もせずに大切にして拜んで居る例もあるのに斯ういふ元氣橫溢の鹿頭を埋めてしまつたといふのは、卽ち塚が生存の終局を意味せずして、何か新たなる現實の開始であつたからでは無いかといふこと是が一つ。第二には木で作つた鹿の頭が、喧嘩をしたといふのはどうすることを意味したか。殊にその勝つたとか負けたとかは、何を以て決したかといふことである。是が單なる想像上のものであつたら、少なくとも負けた方の村が承知し得なかつた筈である。

 遠野物語にも既に一つの例を擧げてあるが、あの地方では尚處々に同じ話が傳へられる。權現樣が喧嘩をしたといふ場合には、多くは一方が耳を食ひ切られたことになつて居て、現に今ある御面にも耳のちぎれた儘のものがある。是を後代の假託とするときは、各村うその話の申し合せをしたといふ結論に歸着せねばならぬのみならず、そんな奇に過ぎたしかも名聞にもたらぬ説明を傭はずとも、他に幾らでも神異を宣揚する途はあつたのである。故に誤解にしても共通の誤解、隱れたる原因の之を一貫するものが、曾てあつたことを想像してよろしい。自分が津輕シシが澤の大磐石に、特に耳を大きく彫刻した鹿の顏を見てさてこそと膝を拊つたも故無しとはせぬのである。

 或は一方が特に耳大きく、他の一方では咬み取られてもう無いといふに、何の關係かあらんと訝る人もあらうが、兎に角に鹿の耳は東北地方に於て、可なり重要たる昔からの問題であつたのだ。先づ順序を立てゝ話を進めて行かねばならぬが、秋田縣でも仙北郡の北楢岡では、或年龍藏權現の獅子舞と、神宮寺八幡宮の獅子頭と衝突をしたことがあつた。神宮寺のシシは耳を取られたと稱して、今も其故迹を耳取橋と呼んで居る。其時一方の龍藏權現も鼻を打缺かれて、其儘長沼に飛込んで沼の主となつてしまつた。それ故に沼の名を又龍藏沼といふとある。耳を失つた神宮寺のシシは如何なつたか。今では多分尋ねて見てもわかるまいが、自分はそれよりも尚多くの興味を、耳取橋といふ地名に就いてもつて居るのである。

 勿諭獅子頭の嚙み合ひといふが如き、寄拔な原因の一致する筈も無いが、不思議に耳取といふ土地は府縣に多く、それが又大抵は部落の境などにある樣に思はれる。福島市の近くでは、信夫郡の矢野目丸子の間を北に流れて伊達の鎌田村で八反川に合する小流を、耳取川といふなども一つの例である。鎌田の水雲(ミクマリ)神社は其川の岸に在つて、昔御神體が流れて來て此地に漂著し、それを拾ひ上げて安置したから御耳取揚川だなどといふ説もあつたが、別に其地名の由來として、此川に妖恠住み、夜每に出でゝ行人の耳をもぎ取つた。其恠物を神と祭り、由つて川の名を耳取と稀すとも謂つて居る。しかも此地方には他にもまだ耳取といふ地名はあるので、いくら妖恠でもさうさうは人の耳を取つてばかりも居られたかつたかと思ふ。

 ところが遠く離れて三州小豆阪(あづきさか)の古戰場近くにも、やはり耳取畷(なはて)があつてよく似た話を傳へ、日暮れて後此路を通ると、變化の者出現して人の耳を引切り去ると謂つた。此以外に尚方々に耳取といふ字が、通例往還の傍などにあるのだが、果して斯んな口碑をもつか否かを知らぬ。人が地名などは何の意味無しにも存在し得るかの如く考へ始めてから、尋ねて聞かうともせぬ樣になつたのであらう。さうで無ければ自由なる空想を以て、所謂常識に合した解説を下し、或は記憶の不精確を補はうとしたやうである。九州では南端薩摩の坊津から、鹿籠の枕崎に越えて來る境の嶺が耳取峠であつた。開聞岳(かいもんだけ)をまともに見る好風景の地であつたが、冬は西北の寒風が烈しく吹付けて、耳も鼻も吹切るばかりであつた故に、斯んな名前を付けたと説明せられて居る。それが始めて此名を呼んだ人の、心持で無かつたことは確かであるが、さりとて三河や岩代の妖恠談が、仝國無數の耳取の由來を説明し得べしとも思はれぬ。たゞ幾分か古くして且つ案外であるだけに、或はまだ偶然に何等かの暗示を、與へはせぬだらうかと思ふだけである。

 全くつまらぬ小さな問題に、苦勞をする人もあつたものだ。實際どうだつていゝぢや無いか知らぬが、是がはつきりせぬと我々の前代生活に、闡明せられぬ點が一つ多く殘るのである。史學はあらゆる方法と資料とを傾けて、久しい努力を續けたけれども徒勞であつた。平民の過去の暗さは神代も近世も一つである。若し他に些しでも辿るべき足跡があつたとすれば、之を差置いて今更何物の來るを待たうか。しかも地名は有力たる國民の記錄であつて、耳取は至つて單純なる二つの語の組合せに過ぎぬ。各地別々の動機に基いて、結果ばかりの一致を見るといふことが無い以上、必ず全國を通じて曾てはさういふ名稱を發生させるだけの、一般的生活事情があつたものとしてよいのである。それを尋ねて見ようとするのは、別に無益の物ずきでも無いと思つて居る。

[やぶちゃん注:「下總船形村の麻賀田神社」現在の千葉県成田市船形にある麻賀多(まかた)神社奥宮のことと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ。なお、本社は近くの千葉県成田市台方。ここ(同データ))。この三面が現存するかどうかは確認出来ない。同神社(本社)公式サイトには載らないが、しかし、この麻賀多神社本社では毎年七月最終日曜日の例大祭で獅子舞が奉納されいる(公式サイト内のここ)。dashikagura 氏の動画「20141108日本の祭り~成田・台方麻賀多神社神楽編」で見られるが、これは少なくとも雌雄二様の特異な獅子神楽がある。是非、ご覧になられたい(但し、そこで使用されている獅子面は新しい)。

「飛驒の甚五郎」かの江戸初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人左甚五郎の別名。

「巨勢金岡の馬が、夜な夜な出でゝ萩の戸の萩を食つた」(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な名画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。ここは内裏の中にあった巨勢金岡が描いた馬の絵が、夜な夜な絵から抜け出して、「萩の戸」(内裏の清涼殿にあった一室の名)の萩の花を食べたという言い伝えに基づく。なお、この「萩の戸」の「萩」は一説には障子に描いてあった萩であるとも、前庭に実際に萩の植え込みがあったともされるが定かではない。柳田は後者を採っているか。他にも、仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な、その馬が壁から抜け出て田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わり、また、彼が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしよう、という。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て、絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードなどが今に伝わる。

「平仄が合はぬ」「平仄」は「ひやうそく(ひょうそく)」で、漢詩を作る際に守るべき平声(ひょうしょう)字と仄声(そくせい)字のこと。その配列が合わないことから転じて、物事の筋道が立たない、矛盾しているの意。

「奥羽のシシ塚の話」前章の「村の爭ひ」参照。

「權現樣」本地垂迹説で、仏菩薩が仮(=権(ごん))に姿を変えて本邦の神として現れるとする、その神或いは「~権現」で神の称号ともされる。

「傭はずとも」「やとはずとも」。援用しなくても。持ち出さなくても。

「途」「みち」。

「津輕シシが澤の大磐石」本「鹿の耳」の冒頭「神のわざ」を参照。

「仙北郡の北楢岡」現在の秋田県大仙市北楢岡(きたならおか)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「龍藏權現」同地区の上龍蔵台にある龍蔵神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神宮寺八幡宮」北楢岡の東に接する大仙市神宮寺神宮寺にある八幡神社であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「耳取橋」不詳。識者の御教授を乞う。

「長沼」北楢岡寄りの神宮寺地区にある現在の大仙市神宮寺大浦沼入。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図で見ると、この池沼の形が鹿角のように見えるから不思議!

に飛込んで沼の主となつてしまつた。それ故に沼の名を又龍藏沼といふとある。耳を失つた神宮寺のシシは如何なつたか。今では多分尋ねて見てもわかるまいが、自分はそれよりも尚多くの興味を、耳取僑といふ地名に就いてもつて居るのである。

「信夫郡の矢野目」現在の福島県福島市南矢野目附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「丸子」上記の南矢野目の東南部に接する福島市丸子。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊達」「だて」旧伊達藩領からの旧広域地名。

「耳取川」こを東西に流れる川(グーグル・マップ・データ。地図の中心部に「耳取川親水公園」とあり、柳田の述べている通り、東で北へ流れを変えて福島市鎌田で八反川に合流しているのが判る)。

「鎌田の水雲(ミクマリ)神社」福島市鎌田西のここ(グーグル・マップ・データ)。

「漂著」読みも意味も「漂着」に同じい。

「妖恠」読みも意味も「妖怪」に同じい。

「三州小豆阪(あづきさか)の古戰場」読みはママ。現在の愛知県岡崎市字羽根町(はねちょう)字小豆坂(あずきざか)及び同市美合町(みあいちょう)字小豆坂附近。ここは天文一一(一五四二)年と同一七(一五四八)年の二度に亙って、河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で小豆坂の戦いが繰り広げられた古戦場である(ここはウィキの「小豆坂の戦い」に拠った)。附近(グーグル・マップ・データ)。

「耳取畷(なはて)」不詳。上記の地域の三キロメートルほど北方の岡崎市明大寺町になら、「耳取」という地名が見つかる。(グーグル・マップ・データ)。

「坊津」現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊の旧地名で古代に栄えた港の名である。参照したウィキの「坊津」より引く。『古代から薩摩藩政の中盤頃』の享保年間(一七一六年から一七三五年)『の長期に渡って、海上交通上の要地であった。遣唐使船の寄港地としての他、倭寇や遣明船、薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた』。『中国明代の文書『武備志』では主要港として、安濃津』(あのうつ/あのつ/あののつ:伊勢国安濃郡(現在の三重県津市)にあった港湾。「安乃津」「阿野津」とも書き、「洞津(あなつ)」とも称した)・『博多津と共に日本三津(さんしん)に挙げられている』。『日本での仏教黎明期の』五三八年に『百済に仕えていた日本人の日羅が、龍厳寺(後の一乗院)を建てる。その後も坊舎や坊主といった仏教と密接な地であったため、「坊津」と呼ばれるようになったと考えられている』。『飛鳥時代から、遣唐使船の寄港地となり、「唐(から)の港」、「入唐道(にっとうどう)」とも呼ばれるようになった』。奈良時代の天平勝宝五 (七五三)年十二月二十日にはかの名僧鑑真が渡日六回目にして、近くの『秋妻屋浦(現在の秋目地区)に上陸している』。『室町時代、倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ、琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津氏の中国(明)・琉球貿易の根拠地ともなっていた』。『伝来したキリスト教とも縁があ』って、天文一八(一五四九)年に『フランシスコ・ザビエルが日本でまず最初に上陸したのはこの地であ』り、『江戸幕府のキリシタン追放令で国を出て、ローマで司祭となって戻ってきたペトロ・カスイ・岐部が』寛永七(一六三〇)年に『上陸したのも同地である』とある。

「鹿籠」「かご」。現在の枕崎市地域全体の旧称。明治の初めまでこの呼称で呼ばれていたことがshusen氏のサイトの鹿篭(かご)という地名の由来(前編)に書かれてある。

「枕崎」鹿児島県の薩摩半島南西部ある現在の枕崎市。

「耳取峠」坊津の東南東一・八キロメートルにある現在の鹿児島県川辺郡坊津町坊の耳取峠(みみとりとうげ:標高百五十メートル)。峠データベース」の「耳取峠」に、『かつては遣唐使船の発着港として「唐の湊」と呼ばれ、藩政時代には琉球を介して行なわれた密貿易の湊として栄えた坊津。ここと鹿児島城下を最短距離で結んだ』。明治四二(一九〇九)年に『県道枕崎―坊津線ができ、その峠を耳取峠と呼ぶが、古くは約』五百メートル『北の番屋山山麓を越えるものだった。峠を坊津側に越えると』、宣化天皇三(五三八)年に『開かれ、明治初期まで密教寺院として栄えた一乗院がある』。『耳取という名前の由来は』三つあって、『一つは峠道からの開聞岳の眺めが素晴らしく、「みとれ」てしまうことからという説。一つは』(ここで柳田が述べている)『海からの風を正面に受けるので「耳がとれるほど寒い」。今一つは密貿易にかかわった罪人の「耳を切り取り追放」したという説があるという』とある。この峠、名前は出ないが、かの梅崎春生の名作冒頭に出る(リンク先は私の電子化注附テクスト)。なお、私は梅崎がそこで敢えてこの印象的な名を出さなかったのは確信犯と思っている。興味のある方は、リンク先私の「峠」の注を、是非、お読み戴きたい。

「開聞岳」薩摩半島南端にある標高九百二十四メートルの美事な円錐形を成した成層火山で「薩摩富士」の名に恥じない。私には、結婚仕立ての頃、足の悪化していなかった妻と二人で山頂まで登った、忘れ難い山である。

「三河や岩代の妖恠談」前の愛知及び福島の伝承を指す「岩代」は「岩代国」で、東北戦争終結直後に陸奥国より分立した日本の地方区分の国名の一つ。現在の福島県西半部に相当する。

「説明し得べしとも思はれぬ」説明しきることが可能とはとても思われない。

「實際どうだつていゝぢや無いか知らぬが」実際、(そんなことはつまらぬこと、些末なことだから)どうだっていいじゃないか(と、仰る御仁もあるかも)知れぬが。

「闡明」「せんめい」。それまではっきりしなかった事柄を明らかにすること。]

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