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2017/01/05

小穴隆一 「二つの繪」(8) 「宇野浩二」

 

     宇野浩二

 

 芥川の自殺の知らせで、輕井澤から戾つてきた室生犀星は、僕の下宿に立寄つて、

「小穴君はどうするのだらう、」

「どうしてゐるのだらう、」

と正宗白鳥がほかになにもいはずに、いきなりさう言つてゐたと、繰返して言つてくれた。室生犀星は、僕が會つたこともない、なにもしてゐない正宗白鳥の言つてたことを言ふとそれだけで歸つていつた。

 輕井澤にゐた白鳥と犀星とが、「芥川が自殺、小穴?」と思つてくれたのは有難いとは思つたが、慰められた僕のほうは、「宇野浩二はどうなる、」「宇野の耳にはいつたら大變だ。打ちのめされるのは宇野浩二だ、」「腦病院にはいつててさへくれれば知らないでゐるだらう、」と言ひたかつた。

 芥川の自殺をしたことが、宇野の耳にはいつたならば、宇野がどんなことになるかと、氣になつてゐたのは、芥川が僕に(芥川が自決するなどと言ひださなかつた頃、彼がまだ宇野と諏訪に行つてゐた時の話になるが、)

「宇野の机の上に見覺えのある筆蹟の手紙があつたので、僕はそれを未だに恥づかしいことに思つてゐるのだが、そつとその手紙を開けてみたら、案にたがはず、○○○子(□夫人)の書いたものなので〇〇〇子と宇野との間のことを、始めて自分はその時知つて非常に驚いた。君、○○○子はそのやうな女なんだ。」

「諏訪にゆめ子といふ(宇野の小説のヒロインとなつた人、)藝者がゐるが、これは宇野の女だが、君、その賴むから諏訪に行つて、君がそれをなんとか橫取りしてくれまいか、金は僕がいくらでも出すよ。」

と言つてゐたことがあつたからなので、それが芥川の死といつしよに僕の頭にうかんでたからであつた。僕と宇野とは顏を合はせれば、ただお時儀をしてゐるだけで、話をしあつたといふことはなかつたし、芥川は、宇野が腦病院にはいつてゐたさういふ狀態にあつたときには、「死ぬ話をしようや」の話も一時やめてたほど、宇野のことを心配してて、日頃宇野が宇野がと言つて話す話にはいつも宇野に對する愛情がこもつてゐたので、芥川の話それだけで宇野を考へてゐて、昔、「二つの繪」の中に宇野浩二を〔微妙にかばひあつてゐた芥川と宇野との友情を想ふとき、僕にしてなほ嫉妬に似たものがあつた。〕と單純に書いいてるやうな誤りをしてゐた。

 芥川の死んだ當時、毎日の新聞に現はれる諸名士の談話のなかに(なかには、僕にはをかしくもあり、奇想と思へるものがあつた。)宇野のがでないかと待つてゐて、報知(?)に、おのれをむなしくして友人の死を見送つてゐる、靜かなひかへめな宇野の談話を發見したときには安心して、もう、宇野は大丈夫だと一人喜んでゐたものだ。僕は、宇野が當時腦病院にいれられるやうな病氣でなかつたならば、もう少し芥川も生きてゐたのではないかといふ考へをいまでも捨ててはゐない。芥川の母親はきちがひになつてゐた。芥川が彼自身の發狂に恐怖を感じてゐたことも事實である。

 僕は芥川に賴まれて鵠沼にゐた。その鵠沼にゐたときに、芥川は「自分の死後、世間に全然途方もない誤解が生じて、どうしても君に我慢ができない場合になつたとしたら、これを家人に渡して發表してくれたまへ、」「よくせきのときにこれを開けてくれたまへ、」といつて一通の封書を渡した。僕はそれを開けてみたら、芥川が口で言つてゐること以外の事情もわかつて、生きてゐてもらへる對策も立たうかと思ひ、僕のところの勝手口にみえた夫人に次第を述べて、夫人の前で開封して讀んだが、それが、一葉の書簡箋に、〔南部修太郎と一人の女を(□夫人)自分自身では全くその事を知らずして共有してゐた。それを耻ぢて自決をする。〕といつただけのことが僅か數行に記してあつただけのものである。芥川は南部のことを宇野のことにして僕に話してゐた、かういふところにも、芥川の性格から、弱さからと言つた恐るべく、愛すべくして憎めない話術がある。宇野浩二の「芥川龍之介」(昭和二十八年五月、文藝春秋新社刊)には芥川のかういつた話術と女に對する早業が、よくくはしく書いてある。僕にわかつた。僕は宇野の「芥川龍之介」でゆめ子に手をだしてゐる芥川のことをはじめて知つて、芥川がゆめ子を僕に橫取りしてくれといつてゐたその間の事情がわかつたとき、芥川の彼女自身過去に過失を持つた伯母が、芥川の生前と死後、「わたくしは龍之介に、どんなことをしてもよいが、人樣のものに手をだす泥棒猫のやうな眞似だけは決してしておくれでないよ、と申してをりました。」「さう賴んでおきました。」と僕に萬感こめて言つてゐたことを思ひだして、淚をこぼしたものだ。

 僕はいまでもなほ、人があれほど素直に正直になりきれるものであらうかと、死んだ芥川に感心してゐる。僕の言ふのは、自決するといつてからの謙虛な芥川のことであるが、あれほど正直すぎるほど正直になつてゐた、その芥川に、なほ、芥川の性格からくる芥川の話術のあることを認めないわけにはゆかない。「或舊友へ送る手記」「或阿呆の一生」などにある芥川の話術は、必ずしも鬼面人を脅すといつたものではなく、あれが芥川の話術では、あぶら汗と冷汗をだして書いた根かぎりのものではあらう。

 僕の昔の「二つの繪」の中に、〔この自分に渡された遺書で最初のものは後に彼に返した。〕と書いてあつたが、それは誤りで、鵠沼を引きあげて田端に戾つてから、二度目にまた角封筒にはいつたものを渡されてそれを持つてゐると、三度目のものを持つてきて、「これを」といつてよこして、「こないだのは返してくれたまへ、」と言つて芥川は二度目のを持つて歸つてゐる[やぶちゃん注:底本では「歸つてい」(ここで改行)「つてゐる」となっているが、衍字と断じて「いつて」を除去した。]。その二度目のものの内容は開けてみてはゐなかつたので、全然わからない。「□夫人」のところで紹介したものが、三度目か四度目のものである。これには夫人の姓がはつきり書いてあるので、「或舊友へ送る手記」があることでもあるし、死後すぐに發表して騷ぎを大きくする必要もないのであるから、開けてはみたが、そのままにしておいてゐて、南部が死んだときに、南部の名がでてゐるのを燒いた、そのときになほほかのものもいつしよに燒いた憶えがあるが、これもその時燒いてしまつてゐたと思つてゐると、「羅生門」が映畫になつた當時、「藪の中について、」を書いてゐる際に、(藝術新潮に掲載)たまたま物の間から發見して、二十四年ぶりに再びこれを手にして、「藪の中について、」の中にはじめて紹介した。

 僕は芥川に、宇野の机の上に見覺えのある筆蹟の手紙云々の話などを聞かされてをり、また□夫人が他の者とも關係をしてをると聞かされてゐて(その人? 人達? の名は聞いてゐなかつたから、)書いたから昔の「二つの繪」の中に宇野には了解ができないふしがあつて、迷惑であつたらうと思つてゐる。

 夏目漱石は大學の服を着た芥川龍之介にはじめて會つたときに、血氣未だ定らざるとき、之を戒しむる色在りと訓した。芥川は「夏目先生はおそろしい。」「夏目先生に一と目で見破られた。」といつてゐた。夏目漱石の眼力もさることながら、僕は芥川に自決のことをいはれてから、芥川のながい睫をみてゐて、男にはながすぎる、これがいけない、と思つてたことがある。

 僕は宇野の「芥川龍之介」のなかの芥川の女に對する早業のところを讀みなほしてゐて、昔、神樂坂の鳥屋(?)で飯を食つたとき、小島政二郎がさて歸らうといふところで、「だつて、芥川さんのは憎らしいほど大きいんだもの、」と、屈託なく笑ひこけてゐたことや、湯河原の歸りに碧童(小澤)が、「芥川君のあれでは女はたまらんだらう、」「あれを受ける女は、」と言つてゐたことを思ひだした。

 碧童はそれまで俺のは中肉中背で女が喜ぶ理想型だといつてゐたものだ。

 

[やぶちゃん注:以上を読み解かれる方は、私の宇野浩二の「芥川龍之介」(上巻下巻。他にこれらを分割した以上の初出ブログ版もある)の電子化注を参照されたい。当初、細かい引用や各当該箇所へのリンクを考えたのだが、最近、私の注どころか、テクスト本文さえろくに読まずに、私の電子テクストを批判する輩に遭遇し、非常に腹も立ったし、また、激しく失望もした。されば、苦労して電子化注したものを摘まみ食いされるのも、させるのも頗る嫌になったのである。検索などでお探しあれかし。なお、「悪しからず」など謂い添える余裕さえ私は微塵も持っていないことを表明しておく。

「○○○子(□夫人)」秀しげ子(秀夫人)。

『昔、「二つの繪」の中に宇野浩二を〔微妙にかばひあつてゐた芥川と宇野との友情を想ふとき、僕にしてなほ嫉妬に似たものがあつた。〕と單純に書いいてるやうな誤りをしてゐた』昭和一五(一九四〇)年刊の小穴隆一の「鯨のお詣り」(本書の電子化注を終了後に電子化に取り掛かる予定)の「二つの繪」の「宇野浩二」の章(本章のベースとなったもの)に、小穴は『僕は告白する。微妙にかばひあつてゐた宇野對(たい)芥川の友情を考へるとき、僕にしてなほ嫉妬に似たものがある。‥‥』と記している。

「南部修太郎と一人の女を(□夫人)自分自身では全くその事を知らずして共有してゐた。それを耻ぢて自決をする」これは現在、芥川龍之介研究家なら、知らぬ者とてない有名な事実である。

『芥川の彼女自身過去に過失を持つた伯母が、芥川の生前と死後、「わたくしは龍之介に、どんなことをしてもよいが、人樣のものに手をだす泥棒猫のやうな眞似だけは決してしておくれでないよ、と申してをりました。」「さう賴んでおきました。」と僕に萬感こめて言つてゐた』この「伯母」とは芥川龍之介の実母フクの姉で、養父道章の妹であった芥川フキのこと。以前に注した通り、芥川龍之介の生涯に於いて愛憎半ばした非常な影響力を持った血縁である。生涯独身を通したが、彼女には若い時に、ここで小穴が意味深長に仄めかすところの、何らかの男女関係に纏わる〈忌まわしい事件〉があったらしいことは諸資料からも読み取れる。しかし、それが如何なるものであるかは、現在では藪の中である。私はそれについてある推理をしたことはあるが、それは小穴隆一的な無責任スキャンダル風説の元となるものなので、ここには記さぬ。

「僕の昔の「二つの繪」の中に、〔この自分に渡された遺書で最初のものは後に彼に返した。〕と書いてあつたが」同じく「鯨のお詣り」の「宇野浩二」の章。ここで先に出ているのと同内容の遺書、『(南部修太郎と一人の女(ひと)Sを自分自身では全くその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする。)』を引いた後に、『(此自分に渡された遺書で最初のものは後に彼に返した。)』と同じく丸括弧で挿入されてある。言わずもがなであるが「S」は「しげ子」のイニシャル。

『「羅生門」が映畫になつた當時』黒澤明監督の映画「羅生門」は昭和二五(一九五〇)年八月二十六日に公開されている。

「藪の中について」正しくは『「藪の中」について』。本書に後に出る。終りの方にあるクレジットも『昭和二十五年』となっている。

『「□夫人」のところで紹介したもの』こちら

「睫」「まつげ」。

「神樂坂の鳥屋」神楽坂の鳥料理屋「川鐵(かはてつ)」。現在の神楽坂五丁目にあった。

「湯河原の歸りに碧童(小澤)が……」先の繪」の、大正一〇(一九二一)年十月のことであろう。彼らは芥川龍之介と一緒に湯に浸かった際、彼の巨根なるを間近に見たわけである。]

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