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2017/01/07

小穴隆一 「二つの繪」(9) 「一人の文學少女」

 

      一人の文學少女

 

 鵠沼の暮しになる一ト月ほど前のことであつたが、芥川の話を人に明して話すこともできず、鵠沼に夫人といつてしまつてゐる芥川のことと自分のことで途方にくれてたときの或日、外出から戾つてくると、アパートの娘が、「お留守に女の方がみえて、一人でしやべつてをられました。」「早口でよくわかりませんでしたが、なんですか是非お會ひしたいふうでした。」と言ふ。夕暮に訪ねてきたと言ふ、風采を聞いても見當がつきかねたが、僕そのものへ用といふのではないらしくて、その女人がまた二、三日の後の留守に訪ねてきたので、それが芥川のところで顏だけは見知つてゐるA女とわかつた。A女がなにか芥川のことで、僕に會ひたがつてゐるのであらうといふ察しはついたので、不安と少しばかりの興味があつてA女のくるのを待つことにしてゐると、

「世間では、芥川さんが支那で梅毒でああいふふうになつたのだと言つてゐるのですが、それはほんたうのことですか、」

 三度目にやつと僕に會つたA女はさう言ふ、

「はつきり教へて下さい、」

と氣忙しくヒステリックに僕につつこんできた。

「をかしい、それは、」

 僕は芥川から彼の神經衰弱に關したゴシップを聞いてゐたので、をかしい、それは、と言つた。

「笑ひごとではありません、」とA女は僕を叱りつけて、「をぢの杉田直樹(精神科の醫者)にも病氣について相談をしてみましたが、わたしが自身に直接支那へどうしても行つて、さうして、芥川さんの步いた跡をどこまでも訪ねまはつて、病氣のもとをはつきりさせたいのです、」「旅費の點は、實業之日本社の社長からだして貰へることに話がなつてゐます、」などと奇怪なことをしやべりつづけた擧句には歎願のいろさへみせて、芥川の病氣のもとを話してとせがんだ。

(A女はその支那行に、僕をひつぱりださうといふいきほひで話してゐた。)

「きちがひ」と、どなりたかつた僕は、

「あなたは芥川龍之介にどうかされたとでもいふのか、」

「一體、そんな支那梅毒でまごまごしてゐるやうな芥川龍之介とでも思つてゐるのか。あの男がそんな馬鹿かどうかは考へてもわかることではないのか、」

「支那旅行後も、ああやつて子供も生れ、その子供に梅毒の症狀もみられないではないか、」

と、つづけて言つてゐた。A女はそれで多少得心がいつたらしくもあつたが、僕はA女と話しをしてゐる間に、芥川が、「支那へ行く前に星製藥に行つて、ルーデサックをくれと言つたら、(何ダースとか言つてゐた、)店の者は、隨分御さかんですなあ、といつてだしてくれたよ。けれども僕は、支那に行つたら實際に使はずに、あつちこつち步いて、みんな人に配つてしまつたが、まるで星の廣告をして步いたやうなものだよ。」などいつてゐたことを思ひだしてゐてをかしくもあつた。

[やぶちゃん注:「一人の文學少女」「A女」不詳。芥川龍之介のもとには複数の作家志望の若い女性が訪れ、その何人かに対して定期的に教授をしていたことは事実であるが、以下に記されてある、この女性のその後の異常行動や入院事実等を考慮し、候補比定は差し控える。

「鵠沼の暮しになる一ト月ほど前のこと」小穴隆一が鵠沼の貸別荘「イの二号」に移住するのは大正一五(一九二六)年七月下旬。彼は翌年二月までここに住んだ。従って、本話の時制は同年六月頃と推定される。

「鵠沼に夫人といつてしまつてゐる芥川」大正一五(一九二六)年四月二十二日。芥川龍之介が文と也寸志を連れて鵠沼の東屋あずまや)旅館に静養に出かけ、これより同年年末頃まで、生活拠点を主に鵠沼に移した(七月上旬に同旅館から同東屋所有の貸別荘に移り、小穴が来るのはその後)。鵠沼には文の弟塚本八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九四四)年)の肺結核の療養のために塚本一家が東京から移住していたことも選んだ理由の一つであった。

「世間では、芥川さんが支那で梅毒でああいふふうになつたのだと言つてゐる」旅行から帰った芥川龍之介は激しく健康を害し、少し良くなってはぶり返すという状態を続けていたから(実際、中国旅行が彼の身体を致命的に疲弊させて肉体的衰亡を感じさせ、それが自死への遠因の一つともなったと私は考えている)、こういう風説が立ったことは事実のようである(漱石が留学先のイギリスで発狂して死んだと報じられてしまったのはこの時からそう遠くないのである)。しかしそれは多分に、芥川龍之介が中国特派旅行(大正十年三月~七月)の前年に発表したかの「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『中央公論』に掲載、旅行出立直前の三月十四日に刊行された第五短編集『夜來の花』等に所収)のストーリーに基づくトンデモ・ゴシップの類いであると言える(リンク先は私の古い電子テクスト)。

『「をかしい、それは、」/僕は芥川から彼の神經衰弱に關したゴシップを聞いてゐたので、をかしい、それは、と言つた』意味深長な叙述に見えるが、先行する「鯨のお詣り」の「一人の文學少女」では、「をかしい、それは、」の改行の後に、『彼の話。』(芥川龍之介の直話の意)として、ここで後に出る「支那へ行く前に星製藥に行つて……」以下の内容が記されてあり(但し、「ルーデサック」は「××××××」と伏字)、それが小穴隆一が「芥川から」「聞いてゐた」「彼の神經衰弱に關したゴシップ」そのものの一つであることが判る。小穴は変に読者に意味深な感じを与えるように文章を改悪しているとしか思われない。私が彼の文章が捩じれている、下手だ、とする由縁である。

「をぢの杉田直樹(精神科の醫者)」杉田直樹(明治二〇(一八八七)年~昭和二四(一九四九)年)は精神科医。ウィキの「杉田直樹より引く。『東京府出身。第一高等学校を経て、東京帝国大学卒。欧米に留学。東京帝国大学助教授、松沢病院副院長』、昭和六(一九三一)年、『名古屋医科大学教授、戦後』、『名古屋大学教授とな』ったが、『ほどなく死去した』。『高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。妹の息子に』、孰れも近代文学研究者として知られる『小田切秀雄、小田切進がいる』。但し、このA女の言う自分の「をぢ」が「杉田直樹」であるというのが事実かどうかも知らぬ。

「實業之日本社の社長」「實業之日本社」は現在も続く出版社。ウィキの「実業之日本社」によれば、明治二八(一八九五)年に、『光岡威一郎(佐賀県武雄市出身)と、読売新聞記者で後に衆議院副議長も務めた増田義一(新潟県上越市出身)が創立した「大日本実業学会」を母体と』し、明治三〇(一八九七)年六月十日に同『学会が雑誌『実業之日本』を創刊』、明治三三年に、『光岡が病のため雑誌の編集・発行権を増田に譲渡し、増田は新たに実業之日本社を設立した』。現在、同社では、その『実業之日本』誌の創刊を以って創業日としている、とある。従って、この「社長」とは増田義一(明治二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)である。この時既に増田は衆議院議員でもあった(明治四五・大正元初当選)。但し、前注同様、このA女の話が事実かどうかは知らぬ。

「一體、そんな支那梅毒でまごまごしてゐるやうな芥川龍之介とでも思つてゐるのか」これには私は若干の疑問がある。芥川龍之介は実母フクの遺伝によると考えた発狂恐怖を終生、持ち続けた。自死の直前には盟友宇野浩二が脳梅毒が深く疑われる精神変調をきたして龍之介は激しいショックを受けている。さらに言えば、彼はしばしば市井の娼婦を買っており、梅毒罹患を内心、最も危惧していたと言ってよい。比較的最近になって分かったことであるが、大正八(一九一九)年八月には金沢八景に遊んだ折り、田中病院に風邪のためと称して入院しているが、これは実際には少なくとも、性病を検査するための入院であったことが判っている。「あの男がそんな馬鹿かどうかは考へてもわかることでは」、必ずしも、「ない」と言えるからである。

「支那旅行後も、ああやつて子供も生れ、その子供に梅毒の症状もみられないではないか」芥川龍之介の中国特派旅行は大正一〇(一九二一)年三月~七月であるが、次男多加志は翌大正十一年十一月八日、三男也寸志は大正一四(一九二五)年七月十二日生まれである(因みに、長男比呂志は大正九年三月三十日生まれ)。芥川龍之介の名誉のために言っておくと、彼は梅毒には罹患していないと断言出来る。

「星製藥」明治四三(一九一〇)年に実業家星一(ほしはじめ:作家星新一の実父)が創業し、翌年、「星製藥株式會社」として設立された。参照したウィキの「星製薬」によれば、『しかし、戦後になり、経営不振に陥り、後を引き継いだ星新一は、ホテルニューオータニを創業した大谷家へ譲渡を余儀なくされ』た、とある。

「ルーデサック」オランダ語(roedezak)で「コンドーム」のこと。明治七(一八七四)年にオランダ製のそれが輸入されことによる呼称のようである。]

 

 僕はたまたま昭和十三年の秋に、「私は芥川さんがこの北京で可愛がつてゐたといふ、フランスの少女(娼婦)を探してゐます、」と言つてゐた、北京の航空會社に働いてゐる快活な靑年に會つた。たまたまといふのは、ささき・ふさ(故人)がこの坂本君へ僕には言はず、一筆寄せてくれてゐたからであるが、芥川が支那にきたのは、大正十年であることを言つて、僕と坂本君とは笑つてしまつたものだ。

 あらぞめの合歡花(がうか)あらじか我鬼はわぶ

 はららにうきてさればむ合歡花(がうか)

といふのは、僕が昔、北京にゐた芥川に宛てて贈つてゐた歌の一つである。

[やぶちゃん注:ここも小穴隆一の書き方のヘンさ加減が出ている。この「北京の航空會社に働いてゐる快活な靑年」が「坂本君」として読まねば、意味が判らぬ。そう読んでも、文脈のギクシャクした感じは払拭出来ぬ。なお、大正十年に例えば十八だったとして、昭和十三年では二十五、もうとっくにいないだろう、或いは「フランスの少女」とは言い難いから「笑つてしまつた」という謂いなのか。因みにフランスでは売春は二〇一六年四月六日の売買春禁止法案通過までずっと合法で、その本人の同意年齢は満十八歳であった。

「ささき・ふさ(故人)」芥川龍之介の盟友で作家の佐佐木茂索(後に文芸春秋新社社長)の妻で、作家でもあった佐佐木房子(明治三〇(一八九七)年~昭和二四(一九四九)年)のペン・ネーム。青山学院在学中に日本基督教婦人矯風会に参加し、大正一四(一九二五)年に茂索と結婚、新興芸術派の作家として知られた。本「二つの繪」の刊行は昭和三一(一九五六)年。

「合歡花(がうか)」音数律を示すのにかくしたのであろうが、歴史的仮名遣は誤り。「がふ(くわん)くわ」であるから「がふくわ」せめて「がうくわ」でなくてはならぬ。バラ亜綱マメ目ネムノキ科ネムノキ属ネムノキ Albizia julibrissin 。落葉高木。ネムノキ属 Albizia は熱帯原産であるが、本種は耐寒性が強く高緯度まで分布する。悪環境にも強く、荒地にも一早く植生する植物としても知られる。芥川龍之介の北京滞在は六月から七月で、中国特派中では龍之介は特異的に北京の町をひどく気にいっており、ここに住んでもいいと思たりしている。合歓の花は私の偏愛する花であるが、何年も見ていない。哀しい。北京での「合歡花」は、芥川龍之介の「北京日記抄 二 辜鴻銘先生」にも描写されている(リンク先は私のブログ版の注附きテクスト)。

「あらぞめ」「退紅」と漢字表記する色名。桜色と薄い紅色の中間の、赤みのごく薄い赤紫色を指す。私は高校教師時代、絵が下手だったけれど、古文の「奥の細道」で「象潟や雨に西施がねぶの花」を教授する際、黒板に合歓の花を描くのは好きだった。リンク先は私が二〇一四年にブログで毎日行った『シンクロニティ「奥の細道」の旅』(こちらのリンク先はサイト版のPDF縦書版全記録)の同句の鑑賞。

「はららに」散り散りに。ばらばらに。

「さればむ」色褪せてゆく。]

 

 A女は僕に、僕らになにか不吉を感じさせたが、皮肉にもA女のほうは、僕が彼女と同じやうに芥川を考へてでもゐると思つたのか、四度僕のところにきた。僕はとりとめのないことばかり一人でしやべつてゐるA女を、その日も部屋の障子をあけ、入口の部屋の障子もあけて、廊下からみえる場所の椅子に腰かけさせておいた。麻の新しい着物を着てきた彼女は立止つて部屋の物をみまはしてから、朗讀でもしてゐるかのやうに胸を張つてしやべりだし、舞ふやうにぐるうつとまはつて、「わたしにこの着物が映る?」「どう?」と言つた。「スパイ、きちがひのスパイ、」疲れきつてゐた僕の頭には、さうとしかうつらなかつたので、A女に歸つてくれとどなつた。

[やぶちゃん注:「僕に、僕らに」後者は小穴隆一と芥川龍之介の謂いである。こういう書き方も私はあざとくで嫌いである。]

 顏に袂をあてて僕の部屋を飛びだしていつたきりになつてゐたそのA女は、一年の後に、芥川が自殺をした直後、國民新聞社にタクシーを乘りつけて、わたしが芥川龍之介の妻である、わたしは彼の死の本當の理由を知つてゐる、といふことを述べたててゐた。國民新聞は當時一頁にわたる種としてはゐたが、記事の末尾には、瘋癲病院に送られた消息を載せてゐた。

[やぶちゃん注:「瘋癲病院」「ふうてんびやうゐん」。精神病院。]

 僕はそれ以後のA女の消息を全く知つてゐない。また、誰が芥川とむすんでA女の消息を云云してゐよう。わびしいかなしい記憶のなかに、不幸な暮しをしてゐると聞いてゐた一文學少女の妄執がうかぶのである。

(このA女が、やはり芥川のなんだとかいつてタクシーで德川夢聲を葵館に訪ねたことがあるのを夢聲から聞いた。A女が一日乘りまはしたタクシーの代金を、緣もない夢聲に、運轉手が請求した話である。)

[やぶちゃん注:「葵館」「あふひくわん(あおいかん)」は、弁士で俳優や放送作家でもあった(現在のマルチ・タレントの騎手と言える)徳川夢声(明治二七(一八九四)年~昭和四六(一九七一)年)が主任弁士として勤めていたのが映画館赤坂葵館である。ウィキの「徳川夢声によれば、彼が葵館に招聘されたのは(「葵」という館名から彼の芸名を支配人が「徳川」としたともある)大正四(一九一五)年九月であるが、大正一四(一九二五)年には新宿武蔵野館に入っているから、この夢声の話は小穴隆一の記述が正しいとすれば、芥川龍之介生前のその閉区間内の出来事であったということになる。]

 

 鵠沼に移つてゐた芥川から、スクキテクレ アクタカワ(日附印大正15712)の電報を僕は受取つた。それで僕は鵠沼にいつて芥川に會つた。そのときに庭で立話をしててA女のことをいふと、芥川は泣きだしさうな悲しい目で、緣側にゐた夫人に、「A女までそんなことを言つてゐるさうだ。」と訴へるやうに言つてゐた。その樣子はいかにも悲しかつた。「雌河童は世の中にいつぱいに生きてゐる。」さういふ芥川が田端から持つていつて書きつづけてゐた、「河童」の原稿を持つてきよときよとしてゐたときだ。

[やぶちゃん注:「スクキテクレ アクタカワ(日附印大正15712)」同日附の小穴隆一宛書簡(葉書か)が残る(旧全集書簡番号一四九三)。

   *

君の來る時に是非あれを持つて來てくれ給へ。

    七月十一日   芥川龍之介

   小穴隆一君

   *

「あれ」は次に説明されているが、前に出た「スパァニッシュ・フライ」のことである。

『「河童」の原稿』河童の脱稿は昭和二(一九二七)年二月十三日(発表は『改造』で同年三月一日)。しかし、どうも私はこの小穴隆一の証言は怪しい気がする。彼は脱稿後の二月二十七日には瀧井孝作に(旧全集書簡番号一五八二)『河童は近年にない速力で書いた』としており、二月二日(旧全集書簡番号一五六七)には齋藤茂吉に「河童」を執筆している旨を記している。しかも、この前年末には「玄鶴山房」に産みの苦しみを味わっているのである(全篇を十二月に中央公論社に渡す約束が果たせず、やむなく『中央公論』一月号と二月号への分載となった)。この七月十一日以降だと、例の「三つのなぜ」(七月十五日脱稿)、未定稿「鵠沼雜記」(末尾クレジットから七月二十日)、九月九日脱稿(但し十五日頃まで再推敲している)の名品「點鬼簿」、小穴隆一へのオード「O君の新秋」(十月十一日脱稿)、悠々莊」(十月二十六日脱稿)、私の殊の外好きな二篇「彼」(十一月十三日脱稿)・「彼 第二」(十二月九日脱稿)などがある(以上のリンク先は総て私のオリジナル・テクストである)。これらを見ただけでも、この七月の時点で芥川龍之介が「河童」の草稿を持ってうろうろしているなどということは私は考えられないのである。なお、私は『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』を電子化公開している。]

 

 スクキテクレ アクタカワは飜譯すると、「スパァニッシュ・フライを持つて直ぐにきてくれ 芥川」となるのである。

 芥川は、谷崎の殺人小説の殺人手段の思案を、前に僕らに話して聞かせてゐたが、それを僕らに聞かせてゐたときの芥川はフライといふからは蠅であらうといふだけで、まだそのスパァニッシュ・フライなるその物はみてもをらず、スパァニッシュ・フライ――カンタリスが、どう危險であるか、またどういふ滑稽な作用(連綿陰莖勃起)があるものなのかといふことなどは知つてゐなかつた。〔僕はペルーから歸つたばかりの蒔清(遠藤淸兵衞)にその物の質だけは聞いてゐた。〕一日芥川は夕方急に僕のアパートにきて、「君は詩にもつくつてゐるくらゐだから、そのスパァニッシュ・フライを持つてゐるのだらう。くれたまへ、」と言ひ、僕は僕でスパアニッシュ・フライその物はみてもゐず持つてもをらぬ、ただ詩の上の話だけであることを言つて謝つたものである。その後よこはま、神戸などの港を頭に浮べ船乘りから手に入れることを考へてゐるうちに、蒔淸が世にも綺麗で小さいスパァニッシュ・フライを、たつた一匹ではあるが手にいれてきてくれたので、僕は大事にして持つてゐたが、芥川の電報はそれをよこせといふ。

 スクキテクレ アクタカワ、の電報は、僕の戀愛相手が母親を捨てて上京する、その待つてゐた日が迫つてゐて、相手を途中に待つには、一つきりの義足を修繕にだしてしまつてゐる、さういふ間のわるいときにきた。僕は自分のスパァニッシュ・フライを芥川にとりあげられるのには狼狽したが、松葉杖をとりだして、すぐ車で田端の芥川の家にゆき、義ちやんに明朝僕に附添つて鵠沼にいつしよに行つてくれと賴んだり、芥川の自決が冗談ではないから年寄達に覺られぬやうにと戸外で話をした。芥川が鵠沼に移る前のことであるが、芥川に、といつて人傳てに僕に劇藥と書いたレッテルを貼つた壜に、何百匹かのスパァニアシュ・フライがはいつてゐるのを渡した元氣のいい醫者がゐた。(この人も故人、故下島勳ではない、)僕はそれを田端の玄關で芥川夫人に渡したが、これは鵠沼に移る前にそつくりそのままで返された。醫者がくれたのは、蒔淸がくれたやうな綺麗なものではなく、何十年もたつたかと思はれる、古びた土埃りの固まつたもののやうになつてゐる汚ないものであつたので、誰にしろのむ氣など起こらうとは思へないが、僕はその醫者が相手によつて荒療治をするとは聞いてゐたものの、度胸のいい眞似をしたものだと今日になつて感心させられてゐる。

[やぶちゃん注:ここに出る内容は概ね「その前後」にも出、そこで私は既に「スパァニッシュ・フライ」「カンタリス」「連綿陰莖勃起」「蒔清(遠藤淸兵衞)」といった記事や人物について注や注の中で詳細に述べている。そちらを参照されたい。

「蠅であらう」「その前後」の注で述べたが、スパニッシュフライは鞘翅(甲虫)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科 Lyttini 族ミドリゲンセイ属スパニッシュフライ Lytta vesicatoria であって、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscomorpha に属するハエ類ではない

「君は詩にもつくつてゐるくらゐだから」不詳。「鯨のお詣り」「二つの繪」には出ておらぬと思う。

「スクキテクレ アクタカワ、の電報は、僕の戀愛相手が母親を捨てて上京する、その待つてゐた日が迫つてゐて、相手を途中に待つには、一つきりの義足を修繕にだしてしまつてゐる、さういふ間のわるいときにきた」この「戀愛相手」が誰であるか分らぬが、私が「その前後」「僕はその頃一寸道行のやうなことをした」という妖しげな小穴の謂いについて注の冒頭で推理した通り、芥川龍之介が仲介しようとしていた、小穴隆一と哲学者西田幾多郎の姪高橋文子との縁談(この縁談自体は前年大正一四(一九二五)年八月下旬に持ち上がったもの)に関わる何か不都合な状況や展開について、『小穴が昔馴染みの女への思いをここで截ち切れなかった』という事態を強く感じさせるものと言い得る告解である。

「僕は自分のスパァニッシュ・フライを芥川にとりあげられるのには狼狽した」薬物自殺用としてのそれであって、断じて催淫剤としてのそれではない。

「義ちやん」既出に芥川龍之介の甥葛巻義敏。

「明朝」実際に小穴隆一は翌七月十三日昼に鵠沼を訪れている。宮坂年譜は『スパニッシュ・フライを渡す』と明記しているが、このソースは本書である。

「僕はそれを田端の玄關で芥川夫人に渡したが、これは鵠沼に移る前にそつくりそのままで返された」ここは微妙である。小穴隆一が渡した相手は文である。そっくりそのまま返したのが芥川龍之介とは書いてない。ここは、文が保管して龍之介には渡さなかったのではないかとも読める。小穴の文章の言葉足らずの隔靴掻痒はこういうところにもあるのである。

「何十年もたつたかと思はれる、古びた土埃りの固まつたもののやうになつてゐる汚ないものであつたので、誰にしろのむ氣など起こらうとは思へない」龍之介がそれを実際に見たなら、ダンディ芥川龍之介なれば、さぞ、そうであったろう、とは私も思う。]

 

 芥川が芥川の口ではつきり自決すると言つた以上、それはもう僕一人の力では、どうすることもできなかつた。僕は僕の言ふことに耳をかして、芥川の死をくひとめにかかつてくれる人を、菊地寛、山本實彦、佐藤春夫と考へてみた。が、僕は、僕がもしもこれらのなかの誰かに會つて話をし、その誰かが芥川になにかいふその場合は、それはかへつて芥川の自決をはやめる結果になることを思はざるをえなかつた。誰に言へず、ただ一人でどうしたならば、芥川に一日でもながく生きてゐてもらへるかと思案にくれはててしまつてゐた、さういふところに、〔これは僕の家内の叔父にして兼ねて僕の中學以來友だちなり、御引見下さらば幸甚、小穴君、龍之介、〕と書き添へてもらつた名刺を持つて山本喜譽司さんが訪ねてきたのも、A女と前後してであつた。山本さんの話は、「なんですか、芥川が死にたいと言つてゐますが、」といつたことであつた。

[やぶちゃん注:「山本實彦」(さねひこ 明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)は新聞人・出版人。大正四(一九一五)年に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞と無関係)社長に就任後、大正八(一九一九)年に改造社を創業、総合雑誌『改造』を創刊した。志賀直哉「暗夜行路」、林芙美子「放浪記」、火野葦平「麦と兵隊」などの文学史上の名作の初出の場となり、『中央公論』と並び称せられる知識人必読の総合雑誌となった。アインシュタインやラッセルの来日招聘にも尽力、日本の科学界・思想界の発展にも貢献した(以上はウィキの「山本実彦」に拠った)。

「山本喜譽司」(きよし 明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)は芥川龍之介と同い年の、東京府立第三中学校時代の親友で、芥川龍之介の妻文の母方の叔父に当たった(この友人関係で、文を少女の頃から龍之介は既に知っていたのである)。後に日系ブラジル人社会で活躍した農業家。戦後混乱期のブラジル日系人社会(「日系コロニア」と呼称する)を纏めた人物として知られ、「コロニア天皇」とまで称された実力者であり、『ブラジル日系人社会で知らない人はいない。コーヒー栽培の害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で、母校東京大学から農学博士を授与をうけている』。『東京生まれ』で、明治四三(一九一〇)年、に第一高等学校を受験するも不合格となり、『慶應義塾大学理財科予科に進学したが、翌年再受験して二部乙類に合格する。その後東京帝国大学農学部に進学』、大正六(一九一七)年に卒業後、『三菱合資会社に入社。社長岩崎久弥から海外での農場経営の任務を与えられ、中国北京に滞在。綿花事業に携わる』。大正一五・昭和元(一九二六)年、『コーヒー栽培事業のため、ブラジルに派遣される。サンパウロ郊外のカンピナスの丘陵に岩崎彌太郎の号「東山」を冠した東山農場を開設』、『翌年、三菱資本で合資会社「カーザ東山」を設立。コーヒーの取り扱うが、その他の産物や加工などにも事業を行い、多角経営化を図っている。第二次世界大戦中と戦後では強いリーダーシップで日系ブラジル人』『「勝ち組」と「負け組」の抗争終結と日系人の権利回復に奔走』した。昭和三〇(一九五五)年には「サンパウロ日本文化協会」を創立している。以上はウィキの「山本喜誉司に拠った。

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