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2017/01/16

小穴隆一 「二つの繪」(23) 「養家」

 

     養家

 

 芥川が芥川家にあづけられ、その父親がさて返して欲しいと引きとりにきた時には、養父は、たつてこの子を連れ戾すと言ふのならば、自分は腹を切つてしまふと言つて芥川を貰つたものだといふ。養父の道章は東京市の土木局長まで勤めた人、芥川が機關學校の職を抛うつて作家としてたつ、そのことには誰の反對もなく、就中伯母富貴のごときはまつさきに喜んで賛成し、(この伯母、紫田是眞に畫を學んだといふやうに聞いた。)作家としてたつ、そこにあらう不安な收入に對しての考へも、うやむやにすぎてゐたといふのが芥川の話である。

[やぶちゃん注:「養父の道章」芥川龍之介の誕生から八ヶ月或いは十一ヶ月後に実母フクが突如、重い精神疾患を発症したために龍之介はフクの実家である芥川家に引き取られた。当時の当主が芥川道章(嘉永二(一八四九)年~昭和三(一九二八)年)で妻をトモといい、道章の妹(龍之介からは伯母)で生涯独身であったフキがおり、龍之介はこの三人によって養育された。芥川家は代々江戸城内に於いて茶道を掌った御数寄屋坊主(すきやぼうず)を勤めた由緒ある家柄であった。道章は俳句の趣味があり、養母となったトモは幕末の大通(だいつう)で森鷗外の史伝でも知られる細木香以(さいきこうい)の姪、フキは一中節(いっちゅうぶし:江戸浄瑠璃系三味線音楽の源流)の名取であった。所謂、江戸以来の文人趣味が横溢した家庭で龍之介は育ったのであり、それが彼の精神や小説に色濃い影響を与えているのである。私の芥川龍之介「文學好きの家庭から」の本文及び私の注も参照されたい。

「養父は、たつてこの子を連れ戾すと言ふのならば、自分は腹を切つてしまふと言つて芥川を貰つたもの」これは事実のようである。その結果として芥川龍之介は十二歳の時(江東小学校高等科三年生)、明治三八(一九〇四)年に民事裁判の被告となり、五月四日に東京地方裁判所民事部タ号法廷に出廷、裁判長の訊問を受け、同月十日、推定家督相続人廃除の判決を受けた。正式に新原龍之介から芥川龍之介となったのは同年八月三十日のことであった(この日に戸籍謄本から除籍され、芥川道章と養子縁組を本所区役所に提出、養嗣子となった)。それまで、実父敏三が龍之介を芥川家から小賢しい策を弄して取り戻そうとしたことは、芥川龍之介の「點鬼簿」の父の章にも出る。以下に引く。

   *

 

   三

 

 僕は母の發狂した爲に生まれるが早いか養家に來たから、(養家は母かたの伯父の家だつた。)僕の父にも冷淡だつた。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかつた。僕に當時新らしかつた果物や飮料を教へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアツプル、ラム酒、――まだその外にもあつたかも知れない。僕は當時新宿にあつた牧場の外の槲の葉かげにラム酒を飮んだことを覺えてゐる。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黃色を帶びた飮料だつた。[やぶちゃん注:「槲」は「かし」。樫の木。]

 僕の父は幼い僕にかう云ふ珍らしいものを勸め、養家から僕を取り戾さうとした。僕は一夜大森の魚榮でアイスクリイムを勸められながら、露骨に實家へ逃げて來いと口説かれたことを覺えてゐる。僕の父はかう云ふ時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎その勸誘は一度も効を奏さなかつた。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛してゐたからだつた。

 僕の父は又短氣だつたから、度々誰とでも喧嘩をした。僕は中學の三年生の時に僕の父と相撲をとり、僕の得意の大外刈りを使つて見事に僕の父を投げ倒した。僕の父は起き上つたと思ふと、「もう一番」と言つて僕に向つて來た。僕は又造作もなく投げ倒した。僕の父は三度目には「もう一番」と言ひながら、血相を變へて飛びかかつて來た。この相撲を見てゐた僕の叔母――僕の母の妹であり、僕の父の後妻だつた叔母は二三度僕に目くばせをした。僕は僕の父と揉み合つた後、わざと仰向けに倒れてしまつた。が、もしあの時に負けなかつたとすれば、僕の父は必ず僕にも摑みかからずにはゐなかつたであらう。

 僕は二十八になつた時、――まだ教師をしてゐた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇と鎌倉から東京へ向つた。僕の父はインフルエンザの爲に東京病院にはひつてゐた。僕は彼是三日ばかり、養家の伯母や實家の叔母と病室の隅に寢泊りしてゐた。そのうちにそろそろ退屈し出した。そこへ僕の懇意にしてゐた或愛蘭土の新聞記者が一人、築地の或待合へ飯を食ひに來ないかと云ふ電話をかけた。僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた。

 僕等は四五人の藝者と一しよに愉快に日本風の食事をした。食事は確か十時頃に終つた。僕はその新聞記者を殘したまま、狹い段梯子を下つて行つた。すると誰か後ろから「ああさん」と僕に聲をかけた。僕は中段に足をとめながら、段梯子の上をふり返つた。そこには來合せてゐた藝者が一人、ぢつと僕を見下ろしてゐた。僕は默つて段梯子を下り、玄關の外のタクシイに乘つた。タクシイはすぐに動き出した。が、僕は僕の父よりも水々しい西洋髮に結つた彼女の顏を、――殊に彼女の目を考えてゐた。

 僕が病院へ歸つて來ると、僕の父は僕を待ち兼ねてゐた。のみならず二枚折の屛風の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握つたり撫でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した當時のことを話し出した。それは僕の母と二人で簞笥を買ひに出かけたとか、鮨をとつて食つたとか云ふ、瑣末な話に過ぎなかつた。しかし僕はその話のうちにいつか眶(まぶた)が熱くなつてゐた。僕の父も肉の落ちた頰にやはり淚を流してゐた。

 僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭も狂つたと見え「あんなに旗を立てた軍艦が來た。みんな萬歳を唱へろ」などと言つた。僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覺えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から實家へ運ぶ時、大きい春の月が一つ、僕の父の柩車の上を照らしてゐたことを覺えてゐる。

 

   *

因みに私は芥川龍之介の名篇と言われたら、まず、真っ先にこの「點鬼簿」を挙げたくなる人種である。ここには多様な演技とポーズで読者を翻弄した芥川龍之介の、極めて素直な〈詩と真実〉が感じられるからである。従ってここで龍之介が伯母フキ(小穴隆一の本文の「富貴」)を「殊に」「愛してゐた」という言は真実である。なお、写真を見ると、芥川龍之介の親族の中では、この芥川フキが実母フクを除いて(彼女の写真は赤ん坊の龍之介を抱いた一枚しか知らぬが、龍之介似でしかも細面の優れて美形の女性である)最も龍之介の顔立ちと似ていると私は思う。]

 岩波の新書判の芥川龍之介全集は二十卷の豫定であつたのが、奇怪にも葛卷義敏のために十九卷で終つてゐる。僕は葛卷退治の烽火をあげて、芥川の未發表のものの提出を求めてゐるが、現在葛卷が提出する意志を多少示しての證據としてであらうか、時を稼ぐために送つてきてゐるものの中に、昭和十八年八月四日、病歿大伯母富貴の形見タンス中より種々の古文書と共に發見されたものと誌して、ロール半紙に毛筆で書いた作文、(一枚で前後の連絡が無い、)半紙を橫にして書いてゐる明治四十年九月十六日第三學年乙組芥川龍之介稽習の、新年之御慶謹申納候云々のもの、(赤インキで美とついてゐる、)どうさ半紙に畫手本で畫いた毛筆畫のたうもろこし(朱で甲下とついてゐる、この畫の署名は龍之助、龍之助の上に芥川と鉛筆で書加へてある、)があり、この伯母が芥川に持つてゐた愛情といふものをいまさらに偲ばされた。

[やぶちゃん注:太字「どうさ」は底本では傍点「ヽ」。但し、「どうさ」は歴史的仮名遣では「だうさ」が正しい。「どうさ」は「礬水」「礬砂」「陶砂」などと漢字表記し、膠(にかわ)と明礬(みょうばん)を溶かした水のことを指し、これを紙などに引いておいて乾かすと、墨・インク・絵の具の滲み止めとなる。

 前章の注で述べたが再掲しておくと、ここは(小穴隆一に言わせると)第三次全集(新書版。中村真一郎他編。昭和二九(一九五四)年十一月から刊行され、翌年の八月に刊行を終えた全十九巻・別巻一)が全二十巻の予定が十九巻となったのは(後に別冊一巻が加わって全二十巻体裁にはなった)、葛巻義敏が、その所持する多量の未定稿の提出を土壇場になって渋ったせいだった、と読める。葛巻は実際、芥川龍之介の未定稿等を小出しに提示して(悪意を以って言うなら「食い潰しながら」)後代を生きた観があり、芥川龍之介研究家の間では「頗る」附きで評判が悪い。岩波書店刊の「芥川龍之介未定稿集」も、断片を恣意的に繋げたり、義敏が手を加えて辻褄を合わせたと疑われる箇所が散見するもので、一次資料としては甚だ心もとない疑惑のある一冊である。

「ロール半紙に毛筆で書いた作文、(一枚で前後の連絡が無い、)」不詳であるが、岩波編集部宛で送っているのであろうと思われ、小穴隆一も実見している以上、岩波旧全集の初期文章の小学生時代のものの一部であろう。毛筆の作文という叙述からは「大海賊」(明治三五(一九〇二)年四月(推定)。十歳。江東小学校高等科一年)の一部である可能性が高い。新全集後記に同作は『半紙に墨書きである』とあるからである。

「明治四十年九月十六日第三學年」東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の第三学年であり、芥川龍之介十五歳の時である。なお、この年に後に妻となる塚本文と出逢っている。

「稽習」「けいしゆう」で手習い(書道)の稽古のことか。見かけない熟語である。

「新年之御慶謹申納候」「しんねんのごけいきんまうしをさめさふらふ」と読む。年賀状の常套句。「新年の目出度さや慶賀の気持ちをこの書状を以って貴方様に申し納め致しまする」の意。

「畫手本」「ゑてほん」。

「毛筆畫」の「畫」は「ぐわ(が)」。

「この畫」「このゑ」。]

 芥川の養母については、その特色とか話とかいつたものをたえて聞いてはゐないので、僕にはなんとも言へないが、ただ誰とでも融和できる人であつたらうことだけは、生涯嫁にゆかなかつた良人の妹と同居をつづけられてゐたことでも察せられる。

[やぶちゃん注:「良人の妹」夫道章の妹である芥川フキ。]

 僕は昔、月に百何十圓かの金を、自分と妻子の食扶持として養父にいれてゐると芥川から聞いて、腹を切ると、まあ命に賭けて貰つたその芥川から、食扶持をとるといふ養父のことがちよつとのみこめずに、父に話すと、「いちがいに惡くは言へない。年寄といふものは、自分のものを一錢でも餘計に子に殘したい、それで食扶持をとらなければおぢいさんのものが、その儘そつくり子に傳へることができないといふわけで、おぢいさんは食扶持をとつてゐるのではないかね、まあ、年寄といふものはさういつたものだ。」と微笑して言はれたので赤面したが、芥川の死後、芥川の養父が、芥川が使ひ殘りと言つて都度に預けてゐた金が六千圓ぢかくなつてゐた事、深川にあつた土地の價格などを谷口に言つてゐるのを聞いて、またなるほどと慮つたものである。芥川には、てんしんやうしん流の按摩で毎晩三十分伯母の肩を揉むと言つてゐた時代がある。芥川は年寄の皆からも、比呂志君からも、龍ちやん龍ちやんと言はれてゐたので、芥川家ははたからみれば誰の目にも羨しいものにみえてゐた。しかし、僕は芥川が死ぬ話をするやうになつてから聞かせてゐた話で、芥川家が芥川にとつて幸福であつたかといふ疑ひをもつた。芥川の伯母は僕には片目とはみえず、少し眇目だとばかり思つてゐたのだが、芥川の話だと、伯母は兄(道章)に鉛筆と言つたか? なんであつたか、片目をつぶされて嫁にゆかないでゐるうちに、をぢと間違ひを起し、それを恥ぢて生涯よそにゆかずに芥川家に留まつてゐるのだといふことであつた。その話をしてゐたときの芥川には少しも伯母を賤しめてゐる樣子はなかつた。僕は、それではじめて芥川が、「藤村はいやな奴だ、」と言つてゐたその言葉が身にしみた。僕は僕も芥川のやうに芥川の伯母に對しての敬意は持つてゐるが、不幸な生涯を持つた伯母が主になつてゐた芥川家といふものは、(兄である養父より妹の伯母のはうの存在が目だつた芥川家である。)芥川にあつては僕らの想像以上のものであつたらう。芥川はこの伯母に「龍ちやん、おまへは何をしてもいいが、人樣のものに手をだす泥棒猫の眞似だけは決してしておくれでないよ、」と言はれてゐる、つらいことである。芥川の「養父に先きに死なれては、自分にはもう自殺ができなくなる、」と言ふ言葉にも考へさせられる。伯母は芥川の死後に發表された芥川の伯母に對する不滿のものに、口惜し顏をこぼしたであらうが、芥川がこぼしてゐる淚にもこれまた共に泣くよりほかはない。芥川は死ぬとき二度もこの伯母の枕もとにいつてゐる。

[やぶちゃん注:太字「をぢ」は底本では傍点「ヽ」。

「てんしんやうしん流」按摩の流派名らしい。「てんしん流」や「うしん流」か? 「天心」「有心」か? 但し、このような按摩の旧流派は知らない(「旧」としたのは、ウィキの「按摩」によれば、現在は按摩師が流派を名乗ることは各種法令で禁止されているらしいからである)。

「をぢと間違ひを起し」この「をぢ」とは誰なのか? 素直に読むならフキから見た「おぢ」、則ち、道章やフキの父である芥川俊清、或いは、母フデの兄弟ということになるのであるが、これは私の所持する系図資料では全く遡れない。しかし、小穴の悪文はより忌まわしい憶測の読みをも可能にしてしまう。私は敢えてそのトラップは避けて通ることとする。それはあまりにも忌まわしく、考え難いことだからである。

『芥川が、「藤村はいやな奴だ、」と言つてゐた』芥川龍之介が「侏儒の言葉」の遺稿分の一節、『「新生」讀後』で(リンク先は昨年私がブログで完遂した、「侏儒の言葉(やぶちゃん合成完全版)」の各個分割・附やぶちゃん注釈の一本)

   *

 

       「新生」讀後

 

 果して「新生」はあつたであらうか?

 

   *

とあっけなく突き放していることは、頓に知られたことである。私も人間としての藤村は大々大嫌いである。

「芥川は死ぬとき二度もこの伯母の枕もとにいつてゐる」二十四日の午前一時頃に伯母フキに下島宛の例の辞世の句の短冊を預けに行っており、芥川龍之介が意識のある状態で最後に逢って言葉を交わしたのは恐らく彼女であったと考えてよい。二度というのは小穴のみの証言であるが、これは先の「Ⅳ」(章名)の中の「Ⅳ」(章内見出し)の冒頭の、

   *

 七月二十三日、芥川の伯母さんの考へでは午後十時半、芥川は伯母さんの枕もとにきた。

「――タバコヲトリニキタ、」

   *

で、これはそちらでも注したが、よく考えると、リアルで自然で腑に落ちる。事実であろう。]

 芥川はまた實家の姉と弟、葛卷ひさと新原得二とは義絶をせよと妻子に書置してゐる。芥川は兄弟との間にもめぐまれてゐなかつた。姉はともかくとして新原のことは、「弟は上野の圖書館に道鏡のことが書いてある本がある、それで不敬罪だと言つて宮内大臣を訴へてゐる。僕の弟はさういふことばかりしてゐて困るのだ。」などとこぼしてゐる。芥川夫人の叔父である山本喜譽司さんの手紙によると、

〔小生と芥川とは中學、高等學校の頃の友達で芥川と私と、そしてもう一人平塚(これは〝吾が舊友〟と題した雜文中で出て來ます)が中學校で友達で、この三人が各々發狂した母を持つたと言つた奇緣で一つのグループを成しておりまして、この三人の間の話や手紙は鬼氣を帶びてをりました〕(岩波新書判十卷二〇七頁、學校友だち參照)といふ。芥川がどれだけ不幸な星の下に生まれた人間であるか、またそのために出來あがつた芥川の性格といふものがここにも考へられるといふものである。

[やぶちゃん注:冒頭部分は 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の芥川文宛遺書を参照されたいが、現存しない失われた指示の恐らくは第三番目の条である。

「〝吾が舊友〟と題した雜文」大正一四(一九二五)年二月発行の『中央公論』に掲載された「學校友だち ――わが交友錄――」の誤り。以下に山本と平塚の部分(繋がってはいない)のみを引く。底本は岩波旧全集を用いた。

   *

 山本喜譽司 これも中學以來の友だちなり。同時に又姻戚の一なり。東京の農科大學を出、今は北京の三菱に在り。重大ならざる戀愛上のセンティメンタリスト。鈴木三重吉、久保田万太郎の愛讀者なれども、近頃は餘り讀まざるべし。風采瀟洒たるにも關らず、存外喧嘩には負けぬ所あり。支那に棉か何か植ゑてゐるよし。

   *

 平塚逸郎 これは中學時代の友だちなり。屢僕と見違へられしと言へば、長面瘦軀なることは明らかなるべし。ロマンティツクなる秀才なりしが、岡山の高等學校へはひりし後、腎臟結核に罹りて死せり。平塚の父は畫家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅の地藏尊を見しことあり。病と共に失戀もし、千葉の大原の病院にたつた一人絶命せし故、最も氣の毒なる友だちなるべし。一時中學の書記となり、自炊生活を營みし時、「夕月に鰺買ふ書記の細さかな」と自みづから病軀を嘲りしことあり。失戀せる相手も見しことあれども、今は如何になりしや知らず。

   *

夭折した友人「平塚逸郎」(ひらつかいつらう(いつろう) 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)の条は同作の掉尾に置かれてある。一読忘れ難い名品「彼」の主人公こそはこの平塚逸郎である(リンク先は私の注附きテクスト)。

「この三人が各々發狂した母を持つた」私はこの記事で山本と平塚の母のそれが、芥川龍之介を含めた三人を結びつけたということを初めて知った。]

 臍の緒の包であるかなにか、芥川夫人の手で棺にいれられたものには橫尾龍之助と書いてあつた。幸か不幸かあれだけの大勢の人達が集つてゐたなかで、僕一人がそれをみた。僕は芥川龍之介が橫尾龍之助でもなんでも、とにかく僕の知つてゐる、僕と言葉をまじへてゐたその人間が死んで腐りかけてゐるのは確かに見た。それで滿足してゐる。橫尾そのといふ婦人の詮議は、東京新聞の田中君から聞いた。

 

 僕はここで一寸芥川の出生に關した種々の傳説に就いて、一應僕の腹の中にあることを正直に言つておきたい。(田中君は芥川の生母は橫尾そのといふ説を持つてゐて、十月六日の東京新聞に我社の調べるところによればと書くべきところを、僕の名を利用し、僕の説として書いてゐる。東京のまん中にある新聞社の記者にあるまじき行爲である。田中君は、八月七日の芥川龍之介の遺書モメるの記事の取扱ひかたの失敗のあせりから、社には御奉公、僕には、「私が書けば先生の本の廣告にもなりませう、」と言ふをかしな考へで、十月六日に馬鹿げた記事を載せ、さうして、その記事によつてあちこちに迷論を書いてゐる諸先生の記事を、また丹念に大學ノートに貼りあつめて、それを僕のところに持つてきて、其後ニュースはありませんかと來てゐるといつた、未ださういふ若い記者である。田中説またこの同類の説に對する僕の意見はこの章の終りに述べる。)

[やぶちゃん注:「十月六日」本書刊行の前年の昭和三〇(一九五五)年十月六日。以前に注したが、同日附『東京新聞』が(記者の田中義郎が、というべきか)、『芥川龍之介出生の謎判る、小穴隆一氏が近く公表』『母親は横尾その、実家新原牧場の女中』というフライング記事を出したことを指す。

「八月七日の芥川龍之介の遺書モメる」当然、文脈から言えば同じ昭和三十年としか読めないがこういう『東京新聞』の記事は私は未見である。識者の御教授を乞う。]

 僕は靑池がをぢと姪との間にできた子で、靑池はその母親を姉さんと言つてゐるといふことを芥川から聞いてゐたが、(「手帖にあつたメモ」參照)畫を畫いてゐて僕のところに出入りしてゐたその靑池とは、一度もさういふことの話をしたことはなかつた。この靑池は芥川が死んだ時に芥川のところで、弔問にきてゐたその母を「姉です、」と言つて一度僕に紹介した。

[やぶちゃん注:「靑池」「手帖にあつたメモ」で小穴隆一は「靑池は芥川の親戚、をぢと姪との間に生れて、生母を姉さんと言つてゐた男、畫かき志望であつたが若くて死ぬ。」と書いている人物であるが、そこで注した通り、不詳。再度言っておくと、旧全集の宮坂覺氏の人名索引にも新全集の人名索引にも出ない。ここに書かれた内容からも、この芥川龍之介の親戚の「靑池」なる謎の人物、かなり、相当に、気になる存在である。何か情報をお持ちの方は是非、御教授を願う。

 僕は芥川から、伯母がをぢとの間でをかしたその過失を聞かされたときに、靑池のこともあり、あちこちの話に全くしゆんとなつてしまつた。

 僕は棺の蓋に釘をうつ眞際に、芥川夫人がさしいれたものの上書にあつた橫尾龍之助といふ文字をみて、芥川が〔僕等人間は一事の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。〕〔僕はこの養父母に對する、「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。今、僕が自殺るのも一生に一度の我儘かも知れない。〕と言つてゐたそれにはなんの誇張もなかつたのだといふことをはじめて知つた。僕が芥川に芥川の伯母の祕密をうちあけられた時の狼狽、また、芥川の棺の中にはいつた紙包の上書に、橫尾龍之助といふ文字を突然に見た、この重なる驚きといふものを誰れが知らう。

[やぶちゃん注:以上の引用は遺書の小穴隆一宛のそれからの抜粋であるが、「一事」は「一事件」の誤りで、「僕はこの養父母に對する」の後の読点はない。リンク先の私の復元版で確認されたい。]

 僕には芥川が健在の時から、なぜ芥川は長男でありながら芥川家へ入籍してゐるか、といふ疑問があつた。僕は昭和八年に(「二つの繪」昭和七年十二月號、八年一月號、中央公論掲載)葛卷から「年寄に聞いたら橫尾といふ、さういふ女中が昔ゐたことはあるにはあるといつてゐましたが、よくわからないさうです、」とただそれだけは聞かされてゐる。その後今是至るまでには、世間の人達からの橫尾説、松村説も耳にしてはゐるが、僕の目は耳は嗅覺は、捨子の形式をとつたとか、芥川は女中の子であるとかいふ話などは受けつけてはゐなかつた。僕は芥川の母は、新原敏三の妻となつた芥川フクか、その姉のフキ、芥川が伯母と言つてゐたそのフキか、この二人のうちのいづれかであらうとみこんでゐる。僕がみてゐるかぎり芥川の風貌骨格は、芥川家の風貌骨格性格で新原家のそれではない。新原敬三がもし芥川家以外の女に生ませた子であるならば、芥川はあの芥川といふやうな人間とはちがつた人間であつたらうと思ふ。芥川の弟の得二は、判で押したやうに新原敏三に似てゐるが、芥川のはうは、これはまた、判で押したやうに芥川家の娘フク、フキに似てゐるのだ。同じく疑ふにせよ、僕の疑ひかたは全然人とは違つてゐるのである。

[やぶちゃん注:「松村説」不詳であるが、これは芥川龍之介の誕生した折り、実父新原敏三が後厄(数え四十三)、実母フクは前厄(数え三十三)であったことから、「大厄の子」とされ、旧習に倣って家の筋向かいにあった教会に捨て子する形式を採っているのであるが、その〈拾い親〉の役を演したのが、当時の敏三の部下で耕牧舎日暮里支店の経営者であった「松村」浅次郎であったことから生じた誤認ではあるまいか?

「僕は芥川の母は、新原敏三の妻となつた芥川フクか、その姉のフキ、芥川が伯母と言つてゐたそのフキか、この二人のうちのいづれかであらうとみこんでゐる。僕がみてゐるかぎり芥川の風貌骨格は、芥川家の風貌骨格性格で新原家のそれではない」ここでも小穴隆一はまたまたトンデモないことを言い出していることに気づかれたい。「芥川の風貌骨格は、芥川家の風貌骨格性格で新原家のそれではない」ということは芥川フクが生んだとしてもそれは新原敏三のタネではないということである。「姉のフキ、芥川が伯母と言つてゐたそのフキ」が芥川龍之介の実母だとしたら、父は誰なのか? ここまでの小穴隆一の意味深な叙述からは近親相姦まで仄かに匂わせてきたりしているわけで、開いた口が塞がらぬ。そうした肝心の部分をブラック・ボックスにしておいて、こんなゆゆしきことを平気で書いてしまってしかも平然としていられる小穴隆一というのは、やはり芸術家にありがちな、かなりアブナい非社会的性格の持ち主であると言わざるを得ないのである。]

 芥川は「新生」を書いてゐる藤村を輕蔑してゐた。さうして「暗夜行路」を書いた時任謙作の志賀直哉には頭を垂れてゐる。麻素子さんと帝國ホテルで死ぬはずであつた芥川が、驅けつけた僕に聞かせてゐた志賀禮讃の長時間にわたる壯烈で血を吐くやうな言葉の數かずは、僅かに、「或阿呆の一生」のなかの「家」に、

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

としか書けなかつた芥川の言葉とあはせて考へると、芥川の志賀跪拜は單に文學上のことだけと解してゐるわけにはゆかない。芥川は小説家としてすごすには義理人情に脆すぎた。芥川は志賀に對して天衣無縫といふ言葉を使つてゐた。しかし、その天衣無縫といふことばを言つてゐる芥川の悲しさを僕は思ふのだ。

[やぶちゃん注:『「或阿呆の一生」のなかの「家」』の引用は正確。私の古い電子テクスト「或阿呆の一生」の「三 家」を参照されたい。]

〔今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。〕はまこと哀れな芥川のレジスタンスである。

 僕は、芥川が死んでから三十年にならうとする今日まで、芥川といふものを一人で嚙みしめてゐるが、歸するところは、僕には、芥川といふああいふ人間を産める女は、芥川が伯母と言つてゐたその人以外とは到底考へられないのだ。

[やぶちゃん注:断定ときたもんだ! こりゃ、酷い!

 山本喜譽司さんの手紙の續きは、

 

(平家は高等學校の時死去しました)その間で私と芥川とは又性生活の點でお互に祕密を知り合つていたと言ふ特殊事情がありました。こんな具合でしたから芥川の手紙を特に保存してあつた事も芥川の文名に影響された譯では無く、自分と言ふものがいとしい爲にいつとは無し、破り去る可きものを破らずに來たものです。今はとうに灰に致す可きものでしよう。氣がおちついている時にその擧に出る積りでおります、御承知の樣に當時私と一緒に住まつていた未亡人文子が現存している事も發表えの一つの障得であります。一つ飛び越えれば何でも無い事でしようが氣の弱い私には堪え難い事です。(以下略、原文のま寫)[やぶちゃん字注:私の電子化も表記は底本のママ。]

 

となつてゐる。山本さんは、若き日の芥川から、出生についての話を聞いてゐるのかも知れない。僕は僕の意見をもつと具體的に述べてみるべきかも知れないが、畢竟これはどこまでも僕一個の意見であるにすぎない。さうして、この僕の考へもまた多くの人の考へかたと同樣に正しくないのかも知れない。芥川は死んでゐる。が、芥川の書いたものは今日なほ多くの人に讀まれてゐる。芥川を輕蔑する人もあらうが、愛着を感じてゐる人もあらう、僕にはただそれでよいのだ。ただ僕が芥川のために淚をそそぐのは、芥川が西歐の文明に目ざめながら、多分にもつてゐた古い東洋の人間の殼を尻からとれずに、吹ききれる壁が吹ききれなかつた點である。「河童」などといつたものは屁のかつぱでゆけなかつた事である。

[やぶちゃん注:「私と芥川とは又性生活の點でお互に祕密を知り合つていたと言ふ特殊事情」これまた小穴隆一張りの意味深長な謂いである。後で「未亡人文子が現存している事も發表」へ「の一つの障得であ」ると言っている点では、一見、大正三(一九一四)年の大学一年の時に恋し、芥川家の総反対によって失恋した吉田弥生のことのようにも読めるが、そうではなく、私はこれは、もう少し前からの山本喜誉司と芥川龍之介の二人の同性愛傾向、更に言えば、両者の個人的同性愛関係を指すと断定出来ると考えている。いや、私は芥川龍之介の同性愛傾向はこの筆者小穴隆一にも向けられていると考えているのである(前にも出た彼の切断した足を龍之介がフェティシュに撫でたがるシーンを想起されたい)。だからこそ、それを認識していた小穴隆一は敢えてその内実に踏み込めなかった、だから本作がこんな朦朧文体となった(小穴の悪文性とは別に、である)とも言えるように感ずるのである。]

 

 帝京新聞の田中君には家ダニ(奇怪な家ダニ參照、)を扱ひかねた。それで話を中途から橫道に持つてゆき、橫道義郎となつて、はじめ持つてゐたその女中説を僕の名を利用して、十月六日の記事にする馬鹿な眞似をした。田中君はそれまでに十囘も僕のところに來てて、僕の考へを充分に知つてゐながら「さういふ眞似をした。さういふ眞似をせざるを得なくなつたのであらう。僕は新聞記者としての若い田中君の立場には同情するが、田中君が種本に使つた福田恆存の「作家論」、田中君が眞新しい本を持つてきて、手にとらうともしない僕に頁を繰つて、ここを讀んで下さいと勢こみ指でちよんちよんとさしてゐた「作家論」を手を觸れずに持つてゐる。僕には中途から田中君のたくらみがわかつてゐたので、頑強に手にとらず、田中君が充分面白い指紋のつけかたをしてくれてゐるのを見てゐたのである。田中君には僕のその腹がわからなかつたのであらう。田中君が「作家論」を僕に呉れていつたことの證人は、僕の女房のほかにもあることは田中君が知つてゐる。僕はなほこれ以上の面白いことを書いて、田中君及び東京新聞の名譽を傷けようとも思はない。田中君は田中君の記事によつてあちこちの人に儲けさせた人である。但し、僕はさういふただ儲けさせて貰つた人達の記事について何か書けといはれても、田中君は根が正直な人だから、田中君に賴むがよからうと返事をしてゐるのである。

[やぶちゃん注:「家ダニ(奇怪な家ダニ參照、)」「奇怪な家ダニ」は本書の最終パート。「家ダニ」=「奇怪な家ダニ」とは芥川龍之介の甥葛巻義敏のことである。

『田中君が種本に使つた福田恆存の「作家論」』私は福田のそれを所持せず、読んだこともないので、どこをどう、この芥川龍之介私生児説に使ったのか判らぬ。識者の御教授を乞う。]

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