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2017/01/03

小穴隆一 「二つの繪」(6) 「その前後」

 

     その前後

 

 三月の二十七日から四月十八日までの、二十三日間といふものは、七度も芥川に會つてゐたが、四月十五日をのぞくとそれは悉く僕一身上の事と言つてよろしい。(一身上のことといふともつともらしいが、僕はその頃一寸道行のやうなことをした。)

 四月十五日に芥川は七年越しのくるしさの告白をする、さうして自決を擇ぶほかに道はないことを言ひだしてゐる。

 四月十八日に蒔淸(故、古原草遠藤淸兵衞)に渡してくれと賴まれた禮の品は、希臘の瓶の繕ひの禮と、その前のこともあつての禮ではあるが、僕の思ふには、これが交友に遺品として贈つた最初のものかと考へる。

 品物は、鈴木春信の祕戲册であつた。

 芥川は自決の意を漏らすその前のニケ月ほどの間、「僕はこの歳になつていま、人は如何に生くべきかを考へて迷つてゐる。トラピストにはいらうとかとも考へてゐる。」といふやうなことを口にしてゐた。(彼は妻子と床を並べてゐて死んでゐた。さうして彼の枕もとには古びた聖書があつた。)

「人は如何に生くべきか、」が芥川と僕との間に一時一寸溝をつくつてしまつてゐたのは、芥川が女人の執着から世を捨ててしまはうといふ腹でゐるのに、僕の方は逆に女人に執着してゐたからである。〔四年前にといふことになるが終戰後、碓氷峠と室生さんのところに一寸といふわけで、輕井澤にでかけたことがあつた。さうして、つるやの前の路地をぬけていつたところで僕は羞づかしくなつた。ひとり、ここらあたりとなつかしむだ道は消えてゐて、殘るのはただ、いまにこの道は、文豪芥川龍之介が步いた道となるのかとつぶやいて、君はほんとにさう思ふのかと芥川に反問された思出であつた。つるやから近くの室生さんのところまで散步にでたときのことで、大正十四年九月初旬のことである。芥川は步みをとめて、君はほんとにさう思ふのかと僕をみつめたので、僕も立ちどまつて默つたまま芥川をみつめかへしてゐた。僕がなぜさういふことをつぶやいたかといふと、芥川は後から宿に着いた僕を迎へると早速、このてらになかときのぐんやぶれきてはらきりたりときけばかなしも、といふ歌をどうだといひ、齋藤茂吉のだといつたものだが、如何にも調のよろしいものと思つて聞いた歌も、毎日顏を合せてゐて僕と二人の時には話もなく、僕と二人の時にはただ、このてらにをばかり口ずさんで、たばこのけむりを吐きだしては、僕の顏いろをみてゐて、うきことのなほこのうへにつもれかしかぎりあるみのちからためさん、といふ歌を合の手のやうにいれてゐられると、聞くたびにだんだん、なにか、顏に蜘蛛の巣のやうなものをひつかけられてでもゐるやうで、鬱陶しくなつてきてゐたのでさういつたのである。有島武郎が輕井澤で自殺してゐることが(大正十二年六月)、僕の頭にあつたにはあつたが、芥川の方は僕の吐きだすやうに思はずつぶやいたことばに、胸をつかれたのであつたらう。僕らはその時眞劍ににらみあつたまま、道に立ちどまつてゐた。僕はひとり、消えた昔の道に立ちどまつて、昔いまにこの道はとつぶやいてゐたそのことばに羞づかしくなつたのではない、〕かういふ僕の未發表のものがあつたが、片方は死にたい、片方は生きたいでゐたので、會つても話のいとぐちがなく、當分訪ねるのを止めてゐようかと考へてゐた時が僕にはあつた。

 また當時、小石川に住んでゐた一官吏が剃刀で非常に鮮かに自殺した記事が、新聞に載つてゐたことを僕は記憶してゐる。その官吏がどういふ事情のもとに自殺をしたのかは、その場かぎりで忘れてゐるが、芥川が自殺の決意を言つたことに結びついて、その官吏の手際見事にやつてのけたことが僕の頭にこびりついてゐる。四月十五日はその記事があつた日より後のことであるから、芥川も記事をみてゐたとすれば、見事にやつてのける自信を、その新聞記事からも持ちはしなかつたであらうか。

「敵なきは男子に非ず。」「男子、男根はすべからず隆々たるべし。」などと言つてゐた頃の芥川と、「人は如何に生くべきか、」と言ふやうになつた芥川、自決をつげた芥川は、僅かその數ケ月前には、谷崎潤一郎が書くといふ殺人小説の、殺人方法を、僕らに元氣で説明してゐたものである。谷崎は殺人方法を思案して、帝大に働いてゐた醫者の友達に、醫者の立場からみて、痕跡の殘らぬ、從つて自殺か他殺かはつきり斷定は下し得ない方法を取調べて貰つたが、(僕らがそのときに傳聞した四つばかりの方法といふもののなかの一つは、意外にも僕らの手近かの物で用が足りた。)醫者の調査報告で、スパアニッシュ・フライの項目に愕然とした。谷崎は前に、スパアニッシュ・フライ(催春用とばかり思つてゐたらしい。)の溶液を手にいれて持つてゐたが、試用しないうちに大正十二年の震災でその壜をなくしてゐたといふ、と話面白く聞かせてゐたが、それには自分の自殺方法になにか參考になつたそのうれしさもあつたかと思はれる。

 僕は、僕一身上のことは、僕が不肖の子であるだけの話でこはれたのを、まるきり關係のない彼の過去の所業に歸する結果だといつて詑びてゐた、さういふ僕にやさしかつた芥川に、その日のあと、幾日もたつてゐないときに、自決するとうちあけられたのだ。

[やぶちゃん字注:以下の二つの段落は底本ではポイント落ちで全体が一字下げで追伸のように書かれてある。]

 

 かぎりあるみのちからためさんといつてゐた芥川は、つるやに滯在中、しきりに僕に、「君も詩をつくれよ、」といつてゐた。僕はその頃から彼が詩の整理をしはじめてゐたと思ふ。

 堀辰椎の作品「高原にて」の中に、〔又、夏の末になつてから、外人に賣りつけた立派な洋犬を何匹もつれてきてゐた犬屋が、輕井澤ホテルで賣殘りの犬のオークションをやつたことがあつた。芥川さんも私を連れてそれを見に行かれた。そのとき私は芥川さんの手帖にその犬の名前だの値段だのをそばから書かせられた。〕といふ一節があるが、そのときは僕もいつしよであつた。大正十四年の堀辰雄は、洗濯屋の二階を借りてゐて、飯はつるやに食べに通つてゐたが、僕は堀辰堆と西洋洗濯の店とのとりあはせは、いかにもふさはしいと感じてゐた。

 

[やぶちゃん注:標題「その前後」とは芥川龍之介が小穴隆一に自決の決意を告げた「大正一五(一九二六)年四月十五日の「前後」、大正十五年「三月の二十七日から四月十八日までの、二十三日間」を指している。前章「自殺の決意」の冒頭の私の注を参照にしつつ、お読み戴きたい。而してそれに照らして戴くと、意味深長な「四月十五日をのぞくとそれは悉く僕一身上の事と言つてよろしい。(一身上のことといふともつともらしいが、僕はその頃一寸」(ちょっと)「道行」(みちゆき)「のやうなことをした。)」という意味が見えてくるように思われる。後で小穴は「僕の方は逆に女人に執着してゐた」と言い、〈小穴に関わる何か〉が、それに関わった芥川龍之介自身に大いなる原因があったかのように芥川自身が痛感し、〈その何かが不首尾に終わったこと〉を「まるきり關係のない彼」(芥川龍之介)「の過去の所業に歸する結果だといつて詑びてゐた」という事実から推理すれば、まさにここで如何にも小穴が遠回しに言っていることは、それこそ芥川龍之介が仲介しようとしていた小穴隆一と哲学者西田幾多郎の姪高橋文子との縁談(この縁談自体は前年大正一四(一九二五)年八月下旬に持ち上がったもので、実に以下の小穴と龍之介の軽井沢のシークエンスのごく直前である)に関わる何か不都合な状況や展開を――それは、小穴自身の出自に関わるものか(「不肖の息子」)、或いは、小穴が昔馴染みの女への思いをここで截ち切れなかったことによるものか(「道行のやうなことをした」)――想起させるものであると言える。私がいい加減な推理をしているのではない。小穴の書き方が如何にも迂遠でどうとでも解釈出来るような不完全なものなのである。後の軽井沢の道のシークエンスも終戦後のシークエンスの中に長々と生前の芥川との丁々発止がはさまるという非常に読みにくい辺りを見ても判る通り――はっきり言って――小穴隆一は文章が下手だ。それをまた――芸術家にありがちな、暗示的象徴的な朦朧修辞で飾っているために――それに輪をかけて――ひどく読みにくくなっている――のである

「蒔淸(故、古原草遠藤淸兵衞)」遠藤古原草(こげんそう 明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名は清平衛。「蒔淸」は「まきせい」でその組み合わせによる、一種の綽名であろう。「海紅」同人で、前に出た小澤碧堂や、また小説家仲間の滝井孝作(俳号・折柴)の紹介で知り合った。

「希臘の瓶の繕ひの禮」これは私のうろ覚えなのであるが、ギリシャ渡りの古い誰かの壺を、芥川龍之介自身かその知人、或いは、その子らの誰かが誤って落として破損させ、それを蒔絵職人の接ぎの技術で遠藤が美事に修復したことへのお礼だったように思う。

「その前のこと」不詳。遠藤は芥川龍之介の中国特派前に知り合い、その送別会にも出ている。

「祕戲册」所謂、春画集のこと。

「トラピスト」“Trappist”はキリスト教の修道会の一つ。正式には「厳律シトー修道会」と呼ぶ。十七世紀後半にフランスのノルマンディーで創始された。酪農などの労働に従事し、絶対の沈黙を至高の修行とし、修道院での共同生活をする。明治二九(一八九六)年に日本へ伝えられた。

にはいらうとかとも考へてゐる。」といふやうなことを口にしてゐた。(彼は妻子と床を並べてゐて死んでゐた。さうして彼の枕もとには古びた聖書があつた。)

「一時一寸溝を」「いつとき、ちよつと、みぞを」。

「四年前にといふことになるが」本「二つの繪」(昭和三一(一九五六)年中央公論社刊)の刊行の四年前としか読めないから、昭和二七(一九五二)年ということになる。

「さうして、つるやの前の路地をぬけていつたところで僕は羞づかしくなつた。ひとり、ここらあたりとなつかしむだ道は消えてゐて、殘るのはただ、いまにこの道は、文豪芥川龍之介が步いた道となるのかとつぶやいて、君はほんとにさう思ふのかと芥川に反問された思出であつた」非常に読みにくい。その芥川龍之介との「思」い「出」の「道」(即ち、小穴が生前の芥川龍之介と散歩し、小穴が龍之介に「いまにこの道は、文豪芥川龍之介が步いた道となるのか」と呟き、それに対して龍之介が「君はほんとにさう思ふのか」と小穴に反問した「思」い「出」の「道」である)は消えてしまっていたのである。そうして、ただ、小穴の心の中に、その「思」い「出」のシークエンスが蘇ってきた、というのである。ここをさらに読みにくくしてしまっているのは、小穴が何でそんなことを口走ったを、この後、蜿蜒と時計を逆戻しして語ってしまっているからである。なお、私はこの道を知っている。少なくとも私はこの道の一部を歩いたことがある。それも芥川龍之介と彼が愛した片山廣子のことを考えながらである。私の拙稿『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』の地図を参照されたい。

「大正十四年九月初旬のこと」同年は八月二十八日に軽井沢へ出発、九月七日に帰京している。小穴隆一は八月二十八日頃、片山廣子・総子母子の帰京と入れ替わる感じで、小穴隆一と佐佐木茂索夫妻が軽井沢に来ている。なお、この九月初旬には芥川龍之介は感冒のために四、五日間もの間、床に就いており、その間、小穴や堀辰雄が看病している。

「このてらになかときのぐんやぶれきてはらきりたりときけばかなしも」「なかとき」は北条仲時(徳治元(一三〇六)年~元弘三/正慶二(一三三三)年)は第十三代執権北条基時の子で鎌倉幕府最後の六波羅探題北方。後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められ、五月七日に六波羅探題南方北条時益(ときます)とともに光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国で襲われて時益は死に、仲時は同国番場峠(現在の滋賀県米原市)で襲われた上、佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場にある浄土宗八葉山蓮華寺に至り、天皇と上皇の輿を移した後、本堂前で一族四百三十二人とともに自刃した。享年二十八歳であった。正確には、

 

 このみ寺に仲時の軍やぶれ來て腹きりたりと聞けばかなしも

 

で、斎藤茂吉は当寺第四十九世住職佐原窿応が恩師であったことからこの寺を参詣して詠じた一首である。

「調」「しらべ」。

「うきことのなほこのうへにつもれかしかぎりあるみのちからためさん」岡山藩主池田光政に仕えた反骨の陽明学者熊沢蕃山(ばんざん 元和五(一六一九)年~元禄四(一六九一)年)の一首とされるもの。

 

 憂きことの尚ほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん

 

「有島武郎が輕井澤で自殺」作家有島武郎(明治一一(一八七八)年~大正一二(一九二三)年六月九日)は、この三年前、『婦人公論』記者で人妻であった波多野秋子と不倫関係に陥り(有島自身は妻安子と死別後、再婚せず独身であった)。、秋子の夫に知られ、脅迫を受けたりしていた。二人は軽井沢の別荘で縊死したが、遺体の発見は一ヶ月後の七月七日で相当に腐乱が進んおり、遺書によって各人本人と確認された。

「僕はひとり、消えた昔の道に立ちどまつて、昔いまにこの道はとつぶやいてゐたそのことばに羞づかしくなつたのではない」捩じれている。彼は昔、芥川龍之介の生前、彼自身に、「いまにこの道は、文豪芥川龍之介が步いた道と」呼ばれるように「なるのか」と呟いたその道が、忽然と消え失せており、私の言葉が一種の芥川龍之介の消滅、死の不吉な予言であったように感じられて道なきそこに立ち止まらずにはおられなかった、と感懐を述べているのであろう。

「かういふ僕の未發表のものがあつた」これは括弧の始まりがエラい前で、またも読み取りが難しい。挿入〔 〕を除去して示す。

   *

「人は如何に生くべきか、」が芥川と僕との間に一時一寸溝をつくつてしまつてゐたのは、芥川が女人の執着から世を捨ててしまはうといふ腹でゐるのに、僕の方は逆に女人に執着してゐたからである。かういふ僕の未發表のものがあつたが、片方は死にたい、片方は生きたいでゐたので、會つても話のいとぐちがなく、當分訪ねるのを止めてゐようかと考へてゐた時が僕にはあつた。

   *

即ち、小穴隆一自身が私にはそういった内容を槐多未発表の書き物があったのだが、と言っているのである。作家というものは、こんなアホな書き方はしないので、眼がテンになる。「片方は死にたい」は無論、芥川龍之介、「片方は」是が非でも「生きたい」と思ってて「ゐた」というのは小穴自身である。念のため。

ので、會つても話のいとぐちがなく、當分訪ねるのを止めてゐようかと考へてゐた時が僕にはあつた。

「意外にも僕らの手近かの物で用が足りた」これは非常に興味深い記述である。丸括弧内の記載であるからこの話者は芥川龍之介ではなく、小穴隆一である。この「僕ら」というのは〈画家〉と言う特殊な職種である小穴隆一ら(小説家芥川龍之介を含まない)とも採れ、また、芥川龍之介と小穴隆一の生活空間の〈手近か〉なところ或いは人物が普通に所持しているとも採れるからである。私は芥川龍之介の使用した毒物はジャールやベロナールなんぞではないと考えている。確実に死ねる強い毒性を持つ毒物であったと考えている。そして画家や芥川龍之介の隣人であった彫金師香取秀真らなら、例えば「青酸カリ」を入手することは、作品処理の薬物として、一般人よりも遙かに簡単なことだったのである。

「スパアニッシュ・フライの項目に愕然とした」のは芥川龍之介である。「スパアニッシュ・フライ」(Spanish fly:「スペインの蠅」)とは鞘翅(甲虫)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科 Lyttini 族ミドリゲンセイ属スパニッシュフライ Lytta vesicatoria。本邦にも近縁種が棲息する本種は、体内にエーテル・テルペノイドに分類される有機化合物の一種でカンタリジン酸の無水物カンタリジン(cantharidin)を一%程度持っており、乾燥したものはカンタリジンを〇・六%以上含む。カンタリジンは不快な刺激臭を持ち、味は僅かに辛い。その粉末は皮膚の柔らかい部分又は粘膜に付着すると激しい掻痒感を引き起こし、赤く腫れて水疱を生ずる。発疱薬(皮膚刺激薬)として外用されるが、毒性が強いために通常は内用しない(利尿剤として内服された例もあるが腎障害の副作用がある)。なお、カンタリジンは以前、一種の媚薬(催淫剤)として使われてきた歴史があることはかなり知られている(以上は信頼出来る医薬関連サイトを参考にした)。以下、ウィキの「スパニッシュ・フライ」の記載から引用する。このスパニッシュ・フライの類を『人間が摂取するとカンタリジンが尿中に排泄される過程で尿道の血管を拡張させて充血を起こす。この症状が性的興奮に似るため、西洋では催淫剤として用いられてきた。歴史は深く、ヒポクラテスまで遡ることができる。「サド侯爵」マルキ・ド・サドは売春婦たちにこのスパニッシュフライを摂取させたとして毒殺の疑いで法廷に立った事がある』と記す(なお、サドはそれで死刑宣告を受け投獄、フランス革命によって一時釈放されたが、ナポレオンによって狂人の烙印を押されてシャラントン精神病院に収監、そこで没している。下線はやぶちゃん)。このカンタリジンは精製したものの場合、微量でも経口摂取すると、重い腎臓障害を引き起こし、ヒトの致死量は約三〇ミリグラムと言われる。芥川は、この時に知ったスパニッシュ・フライへの自殺用毒物としての渇望は並々ならぬものがあり、後の「一人の文學少女」や「死ねる物」にも登場する。但し、私は考えるに、精製されたものではない、一匹の干乾びた虫が、確実な死を齎すのであれば、それはもっとメジャーな自殺毒物として当時も今も喧伝されるはずであるようにも思われ、その自殺の有効性には私は甚だ疑問を持っている

「僕はその頃から彼が詩の整理をしはじめてゐたと思ふ」これは芥川龍之介研究で非常に重要な証言である。

『堀辰椎の作品「高原にて」の中に、〔又、夏の末になつてから、外人に賣りつけた立派な洋犬を何匹もつれてきてゐた犬屋が、輕井澤ホテルで賣殘りの犬のオークションをやつたことがあつた。芥川さんも私を連れてそれを見に行かれた。そのとき私は芥川さんの手帖にその犬の名前だの値段だのをそばから書かせられた。〕といふ一節がある』堀辰雄の「高原にて」は岩波書店元版の「芥川龍之介全集 第一巻月報」(昭和九(一九三四)年十月クレジット)に初出する。青空文庫」で正当な正字正仮名で読める。当該部を引用する。

   《引用開始》

 芥川さんが輕井澤にいらしつたのは確か大正十三年と大正十四年で、十三年の夏は私は金澤の室生さんのところに長く滯在した歸りにちよつと此處に寄つたきりだつたが、翌年には私もずつと滯在し、毎日のやうにお會ひしてゐた。その十四年の夏もなんだか雨が多くて、ちやうど今年のやうな不順な陽氣であつた。それでも私はよく芥川さんのお伴をして峠や近所の古驛などを見てまはつた。ことにいま私のゐる追分宿などが、すつかり寂れ切つたなりに、昔の面影をそつくりそのまま殘してゐるので一番お氣に入られてゐたやうであつた。輕井澤のやうなハイカラなところも一方ではお好きらしかつたが……

 或る明るい眞晝、私達が自動車でこのへんまで來かかると、硝子にしきりに何か青いものがぶつかつてくるので、何だらうと思つてよく見ると、それが無數の、瑠璃色の翅をした小さな蝶だつたりしたこともあつた、――そんなことを私は昨日自動車の中で一人でひよつくり思ひ出してゐた。

 又、夏の末になつてから、外人に賣りつけに立派な洋犬を何匹もつれてきてゐた犬屋が、輕井澤ホテルで賣殘りの犬のオークションをやつたことがあつた。有名な犬嫌ひの芥川さんも私を連れてそれを見に行かれた。そのとき私は芥川さんの手帖にその犬の名前だの値段だのをそばから書かせられた。數年前、全集「別册」編纂のため、それらの手帖を整理してゐるうちにその箇處に出合ひ、その私自身の書いたものまでも寫して置くべきかどうかにかなり迷つたことがある。そんな箇處の近くには、又、芥川さんが當時思ひつかれるそばから私に話して下さつたコントのやうなもの、――たとへば八百屋の小僧が西洋人の落して行つたパイプを拾つて煙草の代りに玉蜀黍の毛をそれにつめて吸つてゐると云つたやうな話の心覺えのやうなものまでが見つけられたのだつた。

   《引用終了》]

 

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