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2017/01/29

小穴隆一「二つの繪」(48) 「鵠沼・鎌倉のころ」(2) 「鎌倉」

 

      鎌倉

 

 鵠沼の歸りには、はがきに地圖を圖いて、六郎茶屋のすぐそばと書いてゐる終戰後の叔父を訪ねて、ゆつくり寢てくる考へで米三合を持つてゐた。鎌倉は、これはまた大正十二年の鎌倉であり、汽車から電車に變つてゐることも忘れてゐて、歸りには叔父に笑はれた。

[やぶちゃん注:「鵠沼の歸り」前章「鵠沼」での、芥川龍之介との思い出の地であった鵠沼再訪の帰り、の意。

「六郎茶屋」現在の鶴岡八幡宮大鳥居(余談ながら、これは「一の鳥居」と現行は呼称するが、江戸時代以前は数え方が逆であったので注意されたい)の傍らに建つ畠山六郎重保墓と伝えられる宝篋印塔は「六郎さま」と呼ばれ、重保が持病の喘息で不覚をとって謀殺されたことから、咳の病いで苦しむ者が願掛けすると治ると言い伝えられており(願掛けの際には竹筒に茶を注ぎ入れて供え拝んだとされ、かつては墓の脇に「六郎茶屋」という茶屋があったが、それを指す。

「汽車から電車に變つてゐる」横須賀線電化は大正一四(一九二五)年十二月十三日で全線が電化し、東京-横須賀間で電気機関車運転開始されたが、本格的な電車運転開始は芥川龍之介死後の昭和五(一九三〇)年で、昭和七(一九三二)年で概ね車両の電車化が行われた。]

 大正十二年の夏、私は右の足首をとられたあとの弱つたからだで、商賣をやめてしまつてゐた平野屋(京都の平野屋の支店)で一つ座敷に、芥川龍之介と寢起きをともにしてゐた。まだ、死ぬ話をしようやなどといふ芥川ではなかつたので思ひだすことはほのぼのとしてゐて明るい。

[やぶちゃん注:「平野屋(京都の平野屋の支店)」現在の鎌倉駅西口の、私の好きな「たらば書房」から、市役所へ抜ける通りの右側一帯にあった平野屋別荘(貸別荘。旧料亭。現在の「ホテルニューカマクラ」(旧山縣ホテル)の前身)。「京都の平野屋」は愛宕街道の古道の一の鳥居の傍らで四百年の歴史を持つ鮎茶屋のことと思われる。京都でも私の特に愛する料亭である。宮坂年譜によれば、小穴隆一は芥川龍之介が来鎌する以前(大正一二(一九二三)年八月一日以前)から平野屋別荘に滞在しており、龍之介が平野屋へ来るのは山梨での夏期講座講師の仕事を終えた同月六日から九日までの間と推定されている。在鎌(日帰りで東京に出たりはしている)は十五日ほどに及び、同月二十五日に田端に戻った。]

 たむしにアルコールの話や、一つ蚊帳の中に寢てゐて、二人とも布團をころがりだしたから、額と額をぶつつけて目がさめて、同時にごめんごめんといつてゐた話は、芥川がなにかに紹介をしてゐるが、今日からみればあの頃の時代はよかつたと思ふ。それが幾日つづいてゐたことか、私達が朝飯を食べ終はるか終はらぬ時刻には、いつも中央公論社の使ひのにこにこしたこどもが、せいぜい日に二、三枚の原稿をとりに緣さきに顏をだしてゐた。すると芥川は、これで海にでもはいつておいで、晝までに書いておくからといつて、そのこどもに、五拾錢の銀貨を一つ渡してゐた。毎日はたからみてゐて、渡すはうも、貰ふほうも、たのしさうにみえてゐたのが目にうかんでくる。芥川が書いてゐたのは、岩波の芥川龍之介全集の總索引で調べると「春」だが、五拾錢あれば海にはいつて、天井を食べてもまだのこる時代の金のことから、金の話をすると、いつであつたか晩翠軒で買物をしたときに、芥川は、きざですがといつて百圓札をだしておつりを貰つてゐた。それから自決する一ケ月ほど前に、泉鏡花がのみにくるころだといつて、私を田端の近くの神明町の待合につれこんだときにも、勘定にきざだがといつて、百圓札でおつりをとつてゐたが、いまはお互ひに勘定にきざだがといつてだせる札を、誰れも持つてゐない娑婆に生きてゐるやうだ。皆がきざになつてゐるせゐだらう。

[やぶちゃん注:「芥川がなにかに紹介をしてゐる」不詳。それらしいものが載りそうな随筆や書簡も調べて見たが、ない。識者の御教授を乞う

「春」大正一二(一九二三)年九月一日発行の『中央公論』に載った「春」の「一」と「二」の前半までが発表され、二年後の大正十四年四月一日発行の『女性』(大正十一年五月一日プラトン社創刊)に全篇が改めて掲載された。但し、それもまた、未完である。このタイム・ラグは一部初出の雑誌の発行日と、本作に末尾にある芥川龍之介の附記で明らかなように、関東大震災が大きな理由としてあり、またその附記では『又この續編も稿半ばに親戚に病人を生じ爲にペンを抛たなければならなくなつた』とある。これは大正十四年三月上旬前後の義弟塚本八洲の喀血を指すものと思われる。なお、芥川龍之介は大正十二年十月一日発行の『中央公論』に「未曾有の大震・大火慘害記錄」の大見出しで「大震雜記」という文章を発表しているが、その「一」は以下である(底本は岩波旧全集に拠る)。

   *

 

       一

 

 大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行き、平野屋別莊の客となつた。僕等の座敷の軒先はずつと藤棚になつてゐる。その又藤棚の葉の間にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架の窓から裏庭を見ると、八重の山吹も花をつけてゐる。

     山吹を指さすや日向の撞木杖  一游亭

     (註に曰く、一游亭は撞木杖をついてゐる。)

 その上又珍らしいことは小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競つてゐる。

     葉を枯れて蓮と咲ける花あやめ 一游亭

 藤、山吹、菖蒲と數へて來ると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に發狂の氣味のあるのは疑ひ難い事實である。僕は爾來人の顏さへ見れば、「天變地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も眞に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寛が弱氣になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。

 僕等の東京に歸つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。

 「あの時は義理にも反對したかつたけれど、實際君の豫言は中つたね。」

 久米も今は僕の豫言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白狀しても好い。――實は僕も僕の豫言を餘り信用しなかつたのだよ。

 

   *

「晩翠軒」東京芝にあった井上清秀なる人物が経営していた中国の文房具・書籍・法帖・陶器などを販売していた店。震災後に中国料理店も開業し、そちらが非常に有名となったようであるが、本業はあくまで支那製品直輸入商であった。ここは「買物」とあるので中国雑貨店の方であると考えてよい。以上は徳田秋声の研究者であられる亀井麻美氏のツイッター記事に拠った。厚く御礼申し上げる。]

 五拾錢玉のにこにこしたこどものことを、もう、八、九年前にもなるが、その頃からいつて、十七、八年前のこどもが、まだ社にゐるかどうかを、私のところにきてゐた、中央公論社の人達に聞いてみたら、皆、興味で早速調べたらしいが、あとで、誰れも同じやうに、いまでも社にゐるやうです、雜誌のはうの者ではありませんとはいつてても、その人を紹介することはしてゐなかつた。

 昨年の暮であつたか、この話を、新潮社に三十年勤めて、新に東西社をはじめた小野田通平に話したが、通平はにつこり笑つて、私のはその逆です、とられるのです、ふうのわるいのがゐましてねえ、と、次ぎのやうな通平の昔話をしてくれた。芥川が生きてゐれば今年〔昭和二十三年〕は五十七歳、通平の歳はそれよりもなにほどか若い。

[やぶちゃん注:「東西社」不詳。或いは現在の徳間書店の前身である昭和二九(一九五四)年三月十九日に創業した「東西芸能出版社」のことか?(本書の刊行は昭和三一(一九五六)年であるから「昨年の暮」という時系列とは齟齬しない) 芸能とゴシップ記事を中心とした『アサヒ芸能新聞』を発行していた出版社である。但し、同社は読売新聞社出身の竹井博友が創立したもので、ここには「新に東西社をはじめた小野田通平」とあるから、違うかも知れぬ。識者の御教授を乞う。

「小野田通平」不詳。先の「芥川の死」の葬場図の左中央上方の葬場係の左端には『小野田道平』とあるが、宇野浩二の「芥川龍之介」の擱筆部にこの小穴隆一の葬場図を元にした記載があるが(宇野浩二は精神変調のために入院しており、芥川龍之介の葬儀には出席していない)。そこには『小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]』とあるから、小穴隆一の図の方の「道平」は誤植と思われる。]

 ――私が十七歳のとき東京にきて、はじめて新潮社で働いたのですが、風葉の原稿をとりに使ひにやらされてゐました。毎日、社をでるときに、きまつて數へて壹圓札で五枚渡されるのです。それを財布にいれて紐を首にかけて懷に、朴齒の下駄でてくてく、牛込から戸塚の家まで步いて通つたものです。向ふにいつて、原稿が二枚できてゐれば一圓、二枚できてゐれば二圓と置いて貰つてくる、その原稿がなかなかできてはゐず、それをまた玄關にふうのわるいのがゐて、いつも原稿を渡さずになんとか金を捲きあげようとかかるのですが、それに三度に一度はついどうしてもひつかかつたものでして、さうすると社に歸つて叱られるし弱りました、と、まるでいま牛込から戸塚をまはつて高圓寺の私の家まで、步いてでもきたやうな顏つきで通平はいつてゐた。私は、東北文學に連載されてゐた、風葉を主として自身の文壇生活五十年に及ぶ囘顧を書いた、中村武羅夫のものを讀んでゐたから、通平には同情しながらも、通平のふうのわるいのがゐましてねえといふ話に、甚だ愉快を感じた。壹圓札と五拾錢銀貨、いづれも昔のたのしさである。通平は、風葉の原稿料が一枚一圓で、當時の五圓はたいしたもの、五圓あれば小栗風葉先生がそのふうのわるい人達をつれて、すぐ近くの新宿の遊廓に遊ぶとか、六區といはれても、その六區がなんだか、通平にはわからなかつた六區にいくとかしたものだともいつてゐた。

[やぶちゃん注:「戸塚」小説家小栗風葉(明治八(一八七五)年~大正一五(一九二六)年:本名・磯夫)は多摩郡戸塚村に住み、門下の劇作家真山青果(明治一一(一八七八)年~昭和二三(一九四八)年)や小説家・評論家中村武羅夫(むらお 明治一九(一八八六)年~昭和二四(一九四九)年)、歌人沼波瓊音(ぬなみけいおん)等は「戸塚党」と呼ばれた。この金を騙し取った書生は小穴によれば、暗に中村武羅夫だったと、小穴独特の迂遠な謂いで臭わせているのもここではまあ面白い。

「東北文學」昭和二一(一九四六)年に河北新報社より創刊された]雑誌。「風葉を主として自身の文壇生活五十年に及ぶ囘顧を書いた」連載作品というのは不詳。識者の御教授を乞う。]

 芥川の句に、

      再び鎌倉平野屋に宿る

    藤の花軒ばの苔の老いにけり

といふのがある。菅忠雄が撮つてくれた私達の朝飯のときの小さい寫眞を、今日になつてみると、藤の花軒ばの苔の老いにけりの芥川の顏は、大層いろめかしくみえるが、いろめかしくみえるのは、支那麻製品の布地を、浴衣に仕立てて着てゐるせゐかも知れない。昭和五年に岩波が出版した「大導寺信輔の半生」の表紙には、芥川が死んだときにまとつてゐた着物の柄の一部をとつて寫しておいたが、その浴衣なのであらう。

[やぶちゃん注:「藤の花軒ばの苔の老いにけり」は大正一五(一九二六)年十二月刊の随筆集「梅・馬・鶯」の「發句」に所収されているが、大正十二年から翌年の発行の『にひはり』の「澄江堂句抄」が初出で大正十四年九月の小穴隆一との『改造』の「鄰の笛」にも採録している遺愛の句である。書簡初出は(旧全集書簡番号一一三〇)の大正十二年六月二十五日附小穴隆一宛のもので、句の後に「一句未定らず候へどもおんめにかけ候 匆々」とある。しかし、ここで我々は芥川龍之介に実は騙されていることが判る。何故なら、彼が平野屋に泊まったのは、この日附の十日以上後だからである。

「菅忠雄が撮つてくれた私達の朝飯のときの小さい寫眞」菅忠雄(すがただお 明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)はドイツ語学者菅虎雄(元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)の子である小説家菅忠雄。上智大学中退後、文藝春秋社に入社、『文藝春秋』などの編集長を務める傍ら、大正一三(一九二四)年には川端康成らと『文芸時代』を創刊した。作品に「銅鑼(どら)」「小山田夫婦の焦眉」などがある。父虎雄は夏目漱石の親友でもあり、第一高等学校の名物教授としても知られ、芥川龍之介は師として非常に敬愛し、処女作品集「羅生門」(大正六(一九一七)年五月二十三日・阿蘭陀書房刊)の題字の揮毫も彼の手になるものである。私はこの写真は見たことがない気がする。

『昭和五年に岩波が出版した「大導寺信輔の半生」の表紙には、芥川が死んだときにまとつてゐた着物の柄の一部をとつて寫しておいた』小穴隆一の「二つの繪」を入手する前、復刻本の「大導寺信輔の半生」を手に入れた際、私は推理:芥川龍之介の死出の旅路の浴衣の背中の紋様は、これではないか?として、画像を掲げて子細にその装幀の絵柄と芥川龍之介が自死した際に纏っていた浴衣の柄を比較し、小穴隆一がその浴衣の柄を模写したものと私は独自に推理した。手前味噌乍ら、それが結果として正しかったことがここで明らかとなっている


Siyukata

Daidouji

Daidoujikai

以上は先のリンク先の私の画像。

 芥川は、僕は、はじめ君といつしよの暮らしは窮屈だと心配したが、安心したよと私にいつてゐた。岡本一平は一平で、ほつとしたらしい顏つきで、芥川君ていい人だねえ、と私に小聲でいつてゐたが、軒ばの苔の老いにけりで、芥川もかの子も、それに遠藤、うさぎや、寫眞を撮つてくれた菅忠雄もいまでは皆死んでゐる。(私はこの隨筆を二十三年の小説界に載せたのだが、書きなほしてゐる二十九年の今日までには、一平も、また、當時、宿が平野屋にきまるまでの二、三日の間、私を家においてくれてた久米正雄さへも死んでしまつた、)人々の生涯は、その頃、まだ幼稚舍の生徒であつた岡本太郎が、大事に壜にいれて持つてゐた、アルコール漬の小さな鮫の子にも似てしまつた。

[やぶちゃん注:誰も皆、有名人であるので、生没年だけ示す。

「岡本一平」明治一九(一八八六)年~昭和二三(一九四八)年

「かの子」明治二二(一八八九)年~昭和一四(一九三九)年

「遠藤」既出既注の遠藤清兵衛古原草。明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年

「うさぎや」既出既注の芥川龍之介御用達の上野広小路の和菓子屋主人谷口喜作。明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年

「菅忠雄」前段注参照。明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年

「小説界」昭和二三(一九四八)年六月創刊(昭二十五年一月終刊)の中間小説雑誌。この初出記事は同誌の昭和二十三年八月一日発行の第一巻第三号に「芥川龍之介と五十錢銀貨」の標題で小穴隆一署名で載る。以上は小嶋洋輔・西田一豊・高橋孝次・牧野悠共編の【史料紹介】「小説と讀物」「苦楽」「小説界」――中間小説誌総目次(PDF)に拠った。

「書きなほしてゐる二十九年の今日」昭和二九(一九五四)年。本書刊行は昭和三一(一九五六)年(中央公論社刊)。

「久米正雄」明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年

「岡本太郎」明治四四(一九一一)年~平成八(一九九六)年。大正一二(一九二三)年当時十二歳。「幼稚舍」とは慶應義塾幼稚舎(幼稚園ではなく小学校であるので注意)のことで、年齢的に合わないように見えるが、事実であろう。太郎は不登校で幾つかの初等教育機関を転々としており、そのズレがここにあってもおかしくないからである。慶應義塾幼稚舎にも殆んど登校せず、そのまま慶應義塾普通部に進んで、卒業後に東京美術学校に入学している。]

「彼女に關した流聞」岡本かの子の詳細年譜を所持しないのでよく判らないのだが、ウィキの「岡本一平」によれば、一平が美術学校を卒業した明治四三(一九一〇)年に彼女(本名は大貫カノ)結婚し、『長男の太郎ら三人(次男・長女は夭折)の子をもうけたが、かの子が不倫を繰り返し、果ては不倫相手の医師を家族と同居させるという奇妙な夫婦生活を送』ったとあり、ウィキの岡本の方には、結婚後は『一平の放蕩や芸術家同士の強い個性の衝突による夫婦間の問題、さらに兄』『の死去などで衝撃を受ける。一平は絶望する彼女に歌集「かろきねたみ」(大正元(一九一二)年青鞜社刊)を刊行させている。『しかし翌年』には『母が死去、さらに一平の放蕩も再燃』、『家計も苦しくなった。その中で長女を出産するが』、『神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる』。翌大正三年、『退院すると、一平は非を悔い』、『』家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、かの子の崇拝者であった学生、堀切茂雄(早稲田大学生)と一平の了解のもと同居するようになり、次男を出産するが間もなく死去してしまう』とある。またウィキの「岡本太郎」には、母『かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。太郎が』三~四歳の『頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。放蕩三昧の生き方をひと頃していた一平は容認せざるを得なかった。後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた』ともある。因みに、直後に名の出る谷崎潤一郎はかの子の兄と親交があり、若き日から大貫家を訪ねていた関係上かの子をよく知っていたが、谷崎は終生、かの子を評価しなかった。

「谷崎の初期の小説に度々書かれてゐる女で、芥川が保證人になつてゐた活動女優、今日のことばでいへば映畫女優、この女」既出既注の谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹小林勢以子(せいこ 明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)のこと。映画女優となってからは芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる。

「鶴は病みき」。昭和一一(一九三六)年六月号『文學界』に発表された小説。「青空文庫」ので読める。

「永見」永見徳太郎。既出既注

「鮨」昭和一四(一九三九)年一月号『文藝』初出の岡本かの子の小説を絵物語化したものか? 小説ならば「青空文庫」のこちらで読める。

『芥川に「河童」を書かせた女』秀しげ子のことと思われる。不倫嗜好のある女性は同種の女性に頗る嗅覚が鋭いようである。

「祇園だんごの紅提灯」京都祇園地域の町数を意味する、八つ或いは十つの丸が繋ぎ団子の紋章になって白抜きで描かれた、赤いずんぐりとした丸提灯。]

 

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