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2017/01/01

小穴隆一 「二つの繪」(2) 「わたりがは」

 

 わたりがは

 

 昭和二年の改造八月號、日本周遊二十八頁の上の六行目、

   羽越線の汽車――改造社の宣傳班と別る。……

   あはれ、あはれ、旅びとは、

   いつかはこころやすらはん。

   桓根を見れば「山吹や笠にさすべき枝のなり」

 彼の旅行記、東北、北海道、新潟は、改造社に入用なものであつたらうが、(改造社版現代文學全集の宣傳を兼ねた講演旅行――所謂圓本のはじめ)彼にとつても、既に大正十一年五月の作であるところの、あはれ、あはれ、旅びとは、を、さしはさんだ旅行記が一つ必要であつたと思はれる。

 東北、北海道、新潟の講演旅行で、一挺のぴすとるが彼の手にはいつてゐたのであらうか、彼は旅行から歸つて僕に合ふなり、「僕はこんどはいよいよぴすとるも手にいれた、」と言つてゐた。

 

「自分の死後どんなことがあつても發表はしてくれるな」と言つて、鵠沼で前年の冬、僕に預けたもののなかから、彼は三つ死ぬまでにひきだした。あはれ、あはれ、はその一つ。手帳八月號の風琴もまたその一つ、それに「なぜ?」を僕は二年の一月三十日に渡してゐる。

 

 ――夕方僕の宿で、僕の祖父の遺愛の詠歌自在の詞の栞から、僕等は二人がかりで詞を拾つてゐた。

「あはれ、あはれ、旅びとのこころはいつかやすらはん……ねえ君、何か詞をさがしてくれなきやおまんまを喰べに出かけられないぢやないか。はやく考へておくれよ、ねえ、はやく考へておまんまをたべにゆかうよ、君、」と彼に言はれてゐるうちに、

  わた    海 渡 綿

  わだ    海河ノマガリ入ル處

  わたどの  廊下

  わだち   輪立 車ノ輪

につづいて

        三途ノ川

  わたりがは     トモイフ

        みつせ川

といふ詞に出會つて、僕等は思はず「ああ? !」と言つた。わた、わだ、わたどの、わだち、ととび、わたりがはといふ詞に出會つた時に、

 今日のうちといふ今日のうちのその夕方に、

  あはれ、あはれ、旅びとの

  こころはいつかやすらはん

が、

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん

と、きまつて、改造社はその翌日に、東北、北海道、新潟の原稿を持つていつた筈である。旅行記の日附(昭和二、六、二十一)を僕のメモランダムとすれば、その前日に僕等は、わたりがはゆきといふことばを造つてゐた。

 わたりがはをみつせ川と言ひかへることには、彼は不賛成で、僕は「みつせ川ゆきか、」といつて、二度三度「わたりがはだよ、君。」と言はれた。

 

「君、僕はわたりがはといふ詞を知らなかつた。こんないい言葉があることはいままで知らなかつた。僕は知らなかつたよ。」

 うつとりとなつて斯う言つてゐた時の、ああもうつくしかつた顏を、僕は僕の一生に於いてもうみることはないであらう。

 

[やぶちゃん注:最初に述べておくと、「わた    海 渡 綿」の「綿」は底本では「線」である。これはどう考えても誤字としか思われないので、特異的に訂しておいた。因みに、先行する「鯨のお詣り」では「綿」となっており、あとにリンクで掲げる通り、「詠歌自在」本文も「綿」である。なお、「わたりがは」の下の「三途ノ川」と「みつせ川」は、底本では割注風にポイント落ちで二行になって下の「トモイフ」に繋がっている。ブラウザの関係上、かく配した。

「昭和二年の改造八月號、日本周遊」これは自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに発表された、タイトル東北・北海道・新潟という芥川龍之介のアフォリズム的短章構成の散文を指す(リンク先は私のオリジナル注附き電子テクスト)。以下に出る定型詩は、その後半に出る、

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

   あはれ、あはれ、旅びとは

   いつかはこころやすらはん。

   垣ほを見れば「山吹や

   笠にさすべき枝のなり。」

 

である。この最後の句は芥川龍之介のものではなく、芭蕉のもの。

 

   山吹や笠に挿すべき枝の形

 

で、元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて芭蕉四十七歳の折りの作である。なお、小穴も書いているように、これは「東北・北海道・新潟」よりも五年も前の、大正一一(一九二二)年五月に創作されたものと、岩波旧全集元版には出る。しかしそれは、

 

   山吹

 

あはれ、あはれ、旅びとは

いつかはこころやすらはん。

垣ほを見れば「山吹や

笠にさすべき枝のなり。」

 

の詩形であって、標題を除くと、小穴の言うような草稿形を示しておらず、「東北・北海道・新潟」のそれ、そのまんまであって、大いに不審である。但し、小穴の謂いはかなりリアルな子細を極めており、一概に妄想や嘘とも言い切れぬ。されば、芥川龍之介には、

 

   山吹

 

あはれ、あはれ、旅びとは、

こころはいつかやすらはん。

垣ほを見れば「山吹や笠にさすべき枝のなり」

 

という、「東北・北海道・新潟」の決定稿の前に草稿形が存在した可能性を排除出来ぬ、ということになる。これは現行の芥川龍之介の詩歌集成には載らない事実であることをここに明記しておく。

 ただ、こういった不思議な驚天動地の〈一見、新事実に見える記載〉は以下の小穴の叙述の中に頻繁に登場する。しかしそれは、小穴の書き残したものにしか見出せないものであることも多く、かなり批評的な視点を常に持って読んでいかないと、うかうかと画家小穴によってデフォルメされたものかも知れぬ芥川龍之介像を正しい肖像と見誤ることになる。ごくごく注意されたい。なお、私は「東北・北海道・新潟」の冒頭の私の注でも記したが、この講演旅行(最後の新潟行(新潟高等学校講堂で「ポオの一面」を講演)は恩師に依頼された私的なもの)の帰りの日程には、昭和二(一九二七)年五月二十五日から二十七日の最低で三日間(芥川龍之介の詳細な年譜を作成した鷺只雄の説と宮坂覺の説との最長をとると二十四日から二十八日の五日間となる。「東北・北海道・新潟」の私の冒頭注の詳細日程を参照)の謎の空白が存在している。この時、龍之介は、どこで何をしていたのか? 私は実はこの時、芥川龍之介は、最後に愛した片山廣子と軽井沢で逢っていたもの、と推理しているのである。未読の方は私の拙稿『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』をお読み戴けると幸いである。

「改造社の宣傳班」「改造社版現代文學全集の宣傳を兼ねた講演旅行――所謂圓本のはじめ」この講演旅行は、前年末から改造社が刊行を始めた「現代日本文学全集」(一冊一円の低価格であったことから「円本全集」と呼ばれた)の宣伝のための社主催の講演旅行であった。芥川龍之介は、この昭和二年の一月に、姉の夫西川豊が火災保険放火疑惑の中で鉄道自殺したため、その経済援助等の必要からも、こうした宣伝講演会等に頻繁に出席している。この時のそれは、九日間で八箇所で講演するという非常にタイトなスケジュールで(内、車中泊が二泊あった)、妻文や佐々木茂索宛書簡等を読むと想像以上の心労に悲鳴をあげている龍之介が垣間見える。「東北・北海道・新潟」の私の冒頭注も参照されたい。

「僕はこんどはいよいよぴすとるも手にいれた」芥川龍之介が自死のためにピストルを所持していたという事実は、少なくとも私はこの小穴の叙述以外で見たことはない。遺品に拳銃があったという話も寡聞にして知らぬ。また、龍之介の人柄から考えて、彼が拳銃自殺を嗜好するとは全く思われない。寧ろ、出血や肉が飛び散って遺体を有意に損壊させるピストル自殺は、ダンディな龍之介が最も嫌悪する類いの自殺法と断言出来る。されば、この話も芥川龍之介(或いは、悪いが、小穴隆一)の作話である可能性が高い。但し、次のようにこれを言い換えることは可能と思われる。即ち、龍之介はここで、

 

「僕はこんどはいよいよぴすとる(のように確實に死に赴くことの出來る毒物)も手にいれた」

 

の謂いである。私は小穴の嘘ではなく、龍之介の嘘だったと考えているのである。そのような毒物を入手したことを、盟友とはいえ、はっきり小穴に全告白してしまった場合、事前にそれが小穴や小穴から情報を得た家族らが捜索して取り上げてしまったり、或いは万一に備えて、解毒薬や吐瀉剤、回復蘇生などの治療法を準備してしまう、則ち、自死が未遂に終わってしまう可能性が出てくるからである。言っておくと、小穴は龍之介の懇望で毒物を入手して彼に与えたりする一方で、自殺の惧れを文らに伝えたり、自殺をしかけたところに駆けつけたりして、未遂に終わらせていたりもしているのである。

「手帳八月號の風琴」「風琴」は「オルガン」と読む。死の翌月、昭和二(一九二七)年八月刊の雑誌『手帖』に発表された定型詩。私のやぶちゃん版芥川龍之介詩集で電子化済み。以下に示す。

 

   風琴

 

風きほふ夕べをちかみ、

戸のかげに身をひそめつつ、

(いかばかりわれは羞ぢけむ。)

風琴(オルガン)をとどろとひける

女(め)わらべの君こそ見しか。

とし月の流るるままに

男(を)わらべのわれをも名をも

いまははた知りたまはずや。

いまもなほ知りたまへりや。

 

旧全集の佐藤春夫宛大正一四(一九二五)年九月二十五日附の一三七七書簡に、この詩の初期形と思われるものがあるので、以下に引用する。

 

風きほふゆふべなりけむ、

窓のとにのびあがりつつ

オルガンをとどろとひける

女わらべの君こそ見しか。

男わらべのわれをも名をも

年月の流るるままに

いまははた知りたまはずや。

いまもなほ知りたまへりや。

 

但し、こちらは無題である。

「なぜ?」恐らく、この「二年の一月三十日」という小穴が龍之介に返した日付から見て、昭和二(一九二七)年四月発行の雑誌『サンデー毎日』(春季特別号)に芥川龍之介が発表したぜ」である(リンク先は私の電子テクスト)。因みに、この作の第二章「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」は自分をソロモンに、片山廣子をシバの女王に擬えたものである。

「詠歌自在」明治三〇(一八九七)年博文館刊の佐々木弘綱編になる歌語一覧。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像をリンクさせておく。

「わだ」「海河ノマガリ入ル處」前のリンク先を見て戴くと判るように、正しくは「海川ノマガリ入ル處」「入江ノ水ノ淀」である。

「わたりがは」小学館「日本国語大辞典」では、①として、『冥途の三途(さんず)の川』と挙げ、「古今和歌集」の使用例などを示す。②は『川を渡ること。渡河』という一般名詞の意を示す(使用例は江戸期の滑稽本)。以下の「わたりがは」の表記も実際には、下の一行目が「三途ノ川」で、二行目に「みつせ川トモイフ」となっていることが判る。

「みつせ川」小学館「日本国語大辞典」では、『仏語。亡者が冥途(めいど)に行く時に渡る川。渡る所が三か所あり、生前の罪の有無軽重によってどこを渡るかを決定するとされる。みつせがわ。三途の川』として、「蜻蛉日記」(付載歌集)と「平家物語」が使用例として引かれてある。

「改造社はその翌日に、東北、北海道、新潟の原稿を持つていつた筈である」「東北・北海道・新潟」の末尾には『(昭和二、六、二十一)』のクレジットがある。また、宮坂年譜も同作の脱稿を六月二十一日とする。]

 

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