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2017/01/30

文展と藝術   夏目漱石

 

文展と藝術   夏目漱石

 

[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年十月十五日から同月二十八日にかけて『東京朝日新聞』に連載された。

 底本は昭和四一(一九六六)年岩波書店刊「漱石全集 第十一卷」を用いた。踊り字「〱」は正字化した。

 本テクストは現在進行中の小穴隆一の「二つの繪」の「懷舊」の参考資料として急遽、電子化したものであるので、私の注は私が躓いた箇所だけにごく禁欲的に附した(注位置は当該段落の後に配した)。そこでも参考にした底本末尾の古川久氏の注解によれば、本評論は大正元年十月十三日に開かれた第六回文部省美術展覧会(文展)を朝日新聞社の依賴で観覧した際にものされたものである。

 お読み戴くと判るが、全体に漱石独特の諧謔と論破性に富んだ飽きさせぬ論評である。]

 

 文展と藝術

 

       一

 

 藝術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。

 唯斯ういつた丈では人に通じ惡(にく)いかも知れない。よし通じた所で誤解されるかも知れない。自分は近頃述作に從事するごとに、自分の懷に往來して己まぬ此信條の意味を、橫合があつたら理論的に布衍して、自分と同じ傾向を有つてゐる文藝家に相談して見たいと思つてゐた。

 文展公開の當日場に入るや否や自分の頭に閃めいた第一の色彩も亦金文字で飾られた此一句に過ぎなかつた。其時自分は卒然として、丁度好い折だから、平生の考に、推論の練と磨きとを加へて、理知の首肯(うなづ)く程度迄エラボレーションの步を進めて見やうかと思つた。然し此一句の後には餘りに多くの背景が潛んでゐることをも發見した。此一二行の中に孕まれてゐる可成複雜な内容を、明かな秩序と段落の援の下に、水の流れて滯らざる滑らかさで結び終(おほ)せるのは一寸手間が掛る。それのみか餘程の紙面が必要になつてくる。――自分は斯うも考へ直して見た。それで折角の好機合ではあるが、自分の信條に明白な理路を與へる努力丈は又の日に繰り延す事にした。

[やぶちゃん注:「エラボレーション」 “elaboration”は「骨折り・入念な仕上げ・推敲」の意。]

 けれども唯「藝術は自己の表現に始つて自己の表現に終るものである」と云つた丈では、默つてゐた時よりも、好んで誤解を買ふといふ點に於て、自ら罪を釀したと同然の出過ぎ口になる。自分が文展に開聯して云ひ出した此一句に、簡易なしかも尤もと認められ得べき意義を付けることは、自分の文展に對する責任かもしれない。

 自分の冒頭に述べた信條を、外の言葉で云ひ易へると、藝術の最初最終の大目的は他人とは沒交渉であるといふ意味である。親子兄弟は無論の事、廣い社會や世間とも獨立した、全く個人的のめいめい丈の作用と努力に外ならんと云ふのである。他人を目的にして書いたり塗つたりするのではなくつて、書いたり塗つたりしたいわが氣分が、表現の行爲で滿足を得るのである。其所に藝術が存在してゐると主張するのである。從つて、純粹の意味からいふと、わが作物の他人に及ぼす影響については、道義的にあれ、美的にあれ、藝術家は顧慮し得ない筈なのである。夫を顧慮する時、彼等はたとひ一面に於て藝術家以外の資格を得るにせよ、藝術家としては既に不純の地位に墮在して仕舞つたと自覺しなければならないのである。

 悲しいかな實相を自白すると、我々は常に述作の上に於て、幾分か左右前後を顧みつゝ、墮落的に仕事をしてゐる場合が多い。そのうちで我々を至醇の境界から誘(をび)き出さうとする最も權威ある魔は他人の評價である。此魔に犯されたとき我々は忽ち己れを失却してしまふ。さうして恰も偶像禮拜者の如き陋劣な態度と心情を以て、見苦しき媚を他に賣らうとする。さうして常に不安の眼を輝かし空疎な腹を抱いて悶え苦しまなければならない。其所が問題なのである。

 自己を表現する苦しみは自己を鞭撻する苦しみである。乘り切るのも斃れるのも悉く自力のもたらす結果である。困憊して斃れるか、半産の不滿を感ずる外には、出來榮について最後の權威が自己にあるといふ信念に支配されて、自然の許す限りの勢力が活動する。夫が藝術家の強味である。即ち存在である。けれども人の氣に入るやうな表現を敢てしなければならないと顧慮する刹那に、此力強い自己の存在は急に幻滅して、果敢ない、虛弱な、影の薄い、稀薄のものが纔かに呼息(いき)をする丈になる。此時の不安と苦痛は前のそれ等とは達つて、全く生甲斐のない苦痛である。自己の存否が全く他力によつて決せられるならば、自己は生きてゐると云ふ標札丈を懸けて、實の命を既に他人の掌中に渡したと同然だからである。

 だから徹頭徹尾自己と終始し得ない藝術は自己に取つて空虛な藝術である。

 

        二

 

 此見地から云ふと、新聞雜誌に己れの作物を公けにしたり、展覽會にわが製品を陳列したり、凡て形迹の上から、憐れむべき虛弱な自己を、社會本位の立場に投げかけて單に其鼻息をうかゞつてゐる藝術家は、本來の己れとは無關係であるべき筈の、毀譽なり利害なりを目的に努力する點に於て、或はしか努力するのではあるまいかと疑ひ得る隙間を有つてゐる點に於て、既に墮落した藝術家である。不幸にして單純な藝術界にのみ呼吸する自由を奪はれた我々は、ある程度迄悉く墮落しつゝ述作に從事するのである。我々ばかりではない。古來から斯道の名流大家と云はれる人も亦十が十迄此臭氣を帶びて筆を取りチゼルを使つたのである。

[やぶちゃん注:「チゼル」“chisel”。彫刻刀。]

 是は人間として免かれにくい缺陷かも知れない。けれども唯斯う眞相を曝露した丈では藝術の一面を説明すると同時に、他の半面を誤解させる恐がある。自分は行掛り上、もう少し明白に此缺陷の意味を述べなければならない。我々の述作中しばしば經驗する不純の分子は、他の褒貶にせよ、己れの利害にせよ、述作の興味と倂行して同時に腦髓を刺戟するものではない。多くの場合に於て、述作の後か、若くは一區切片付いた後で來ることに極つてゐる。どれ程虚榮心や利害心の強い藝術家でも、筆を執つて原稿紙に向つてゐる間、若くは畫架に面してパレツトを持つ間は、比較的純潔な懷を抱いて、無我無慾に當面の仕事を運んで行くのである。此自己に忠實な氣分と、全精神を傾けて自己を表現し表さなければ已まないといふ眞面目な努力と勇氣とさうして決心が普通の藝術家にも具つた德なのである。さうして本當の藝術家になればなる程此德が濃く強く自己の内生活を彩どるのである。だから藝術家たるべき資格は、自ら進んで徹底的に己れを表現しやうとする壯快な苦しみに存するので、吐くものを吐き出して仕舞つて始めて出來上つた作物の善惡で極るのではないのである。何故かと聞かれゝば、全精神を打ち込んで仕事を遣れば遣る程痛快だからと答へる外に仕方がない。強く深く生きた自覺が起るからと説明しても同じ事である。が、煎ずれば必竟自己特有の精神狀態で、他の評價を待つて始めて達し得られるやうな餘所々々しい反應作用ではないのである。余の謠の先生は、自ら公言する如く大分臆病な人らしいが、舞臺でならどんな地震でも怖(こは)くはありませんと甞て余に告げた事がある。此人は又舞臺にある間はたとひ見物が笑はうが騷がうが些とも邪魔にならない、あそこへ出たが最後觀客などはてんで頭に這入てくる隙がありませんからと余に話した。

[やぶちゃん注:「余の謠の先生」名人と謳われたワキ方宝生流十世宗家宝生新(ほうしょうあらた/しん 明治三(一八七〇)年~昭和一九(一九四四)年)。]

 是が藝術氣質の當體である。不幸にして神聖に生れなかつた我々は朝から晩迄此當體を把持してゐる譯に行かない。それで勇猛精進の熱が退めて、述作に結末が付くや否や、待ち兼ねてゐた名譽心やら利害心やら、自分で自分の腕を疑ふ不安やら、他人の評判を聞いて此不安に氣休めの落付を與へたいと願ふ淺ましい空賴みやらが、入り替り立ち替り胸のうちを攪き亂すのである。けれども要するに夫は一段落付いた後から來る複雜な波動に過ぎない。此等の波動を認めて、藝術を産する本來の刺戟と思ふのは本末を顚倒した門外漢の觀察だと斷言しても間違はない積である。其證據には、丸で人に見せる料簡もなく、又褒められる目的もないのに、單純な藝術的感興に驅られて述作を試みなくては居られなくなる場合が、我々の生涯中に屢起つて來るではないか。

[やぶちゃん注:「當體」(当体)は「たうたい(とうたい)」或いは「たうだい(とうだい)」と読む仏教用語で、「当の本体」即ち、「そのものずばり」「ありのままの本性」の意。]

 文展の審査とか及落とかいふ言葉に重大な意味を持たせるのは必竟此本末を顚倒した癇違ひから起るのである。世間は知らない領分の事だから已を得ないとしても、藝術家自身が同じ癇違ひをして騷ぐなら、神聖な神輿(みこし)をことさらに山から擔ぎ下ろして、泥を塗りに町の中を引き摺るやうなものである。不見識は云はずとも知れ切つてゐる。極端な場合には其理知の程度さへ疑ひたくなる。

[やぶちゃん注:「已を得ない」「やむをえない」。]

 

        三

 

 文展が今日の樣に世間から騷がれ出したのは、當局者の勢力に因るのか、それとも審査員の威望に基づくのか、又は新聞紙の提灯持に歸着するのか、自分はまだ篤と共通を研究してゐないので何とも云ひかねるが、兎に角斯う八釜しい機關にして仕舞はれる以上は、藝術家も自家本來の立場を新たに考へ直して、文展に對する態度をしかと極める必要があるだらうと思ふ。單に藝術家のみではない、一般の社食も亦廣い藝術と狹い文展の關係を、大體の上で呑み込んで置かないと、善意に藝術を誤まり、かねて自己を誤まる譯になる丈である。現に今度文展に落第したため、妻君から離緣を請求された畫家があるといふ話を此間聞かされた。噓かも知れない。噓にせよ、これ程に藝術を侮辱した噓を孕ませた文展は、既に法外な暴威を挾(さし)はさんで、間接ながら畫家彫刻家を威壓してゐると見ても宜からう。實際近頃の樣に文展の及落が彼等間の大問題になる以上は、ゆくゆくは御上の御眼鏡に叶つて仕合せよく入選した作品でなければ畫として社會から取扱はれなくなる。それを描き上げた作家でなければ又畫家として世間に立つことが出來ない樣になるだらう。藝術家をして本末を顚倒して、天の命ずる儘に第一義の活動を忠實に盡さしめる代りに、ひたすら審査員の評價や俗衆の氣受を目安に置きたがる影の薄い飢えた作品を陳列せしむる樣になつては、藝術のため由々しき大事である。自分は作家と社會公衆に向つて此際藝術の根本義を協定したいと思ふのみならず、かねて當局者と審査員に向つて、斯道に於る自力他力二宗の影響を鄭重に商量せんことを希望するのである。

 藝術は自己の表現に始まつて自己の表現に終る。――是は自分の當初に道破した主張で、かねて眞正なる凡ての藝術家の第一義とする所でなければならないと思ふ。努力の終結後に來る其他のものは、述作の白熱が放散すると共に起る不純なる副産物と見れば差支ない。是も前に云つた通りであるが、此等の濁つた副産物のうちで、比較的淸淨なのは、具眼者の品評を念頭に掛けたがる顧慮の心的狀態である。既に顧慮の狀態と云へば、自づから信念の缺乏を意味するのだから其點に於て、一種の果敢なさを暗示してゐるかも知れない。實際我々は事實の此半面を拈定する每に、必ず自己の弱い影を憐れみたくなるのである。

[やぶちゃん注:「拈定」(ねんてい)取り出して問題とすること。]

 此弱い影は、我々が述作に魂を打ち込んで、強烈無雙に充實した活動を、遠慮會繹もなく生き終せた反動として、俄然として其後(しりへ)から我々を襲ふのである。さうして先の強者を嘲ける如き口氣を以て、自己を弱者と告白しろと逼るのである。程度に差こそあれ、此心狀の推移は、寒暑の往來の如く必ず我々の經過すべき順序のやうになつてゐる。藝術本來の面目から云へば、殆んど齒するに堪えない此不安の狀態が、運命の使者の如く、必ずわが眼前に幽靈の如く現はれるとすれば、此狀態に確(しか)とした區切りを付けて呉れる具眼者の批判は、第二義に於て藝術家に必要であるかも知れない。文展の審査員は政府といふ要らざる後楯を脊負ふ點に於て不都合ではあるが、此始末をして呉れる道具として、一般の藝術家(ことに靑年藝術家)に取つて有益にならないとは限らない。自分は此第二義に於て審査に贊成しても好い。然し其前に、何うして、自己に始つて自己に終るべき筈の藝術に、他人の批評が必要になつてくるかを心理的に今少し立ち入つて吟味して見たい。言葉を換えて云へば、何故藝術家に此意味の墮落が付け纏ふかを、心狀の推移を跡づけながら説明しやうと云ふのである。

[やぶちゃん注:「付け纏ふ」はママ。]

 

        四

 

 邵靑門といふ人が、自分の室(へや)に閉ぢ籠つて構想に耽るときの有樣を敍して、「兩頰赤を發し、喉間洛々聲あるに至る」と云つてゐる。大いに苦しい樣だとも云つてゐる。然し都合よく何物をか捕まへたときには、大喜びで、「衣を牽き床(ゆか)を遶つて狂呼す」とも云つてゐる。自分は小供の時分から此所の文章を讀んで噓とは思はなかつた。

[やぶちゃん注:「邵靑門」現代仮名遣で「しょうせいもん」、本名は邵長蘅(ちょうこう一六三七年~一七〇四年)。清代の文人政治家で詩人。

『自分の室(へや)に閉ぢ籠つて構想に耽るときの有樣を敍して、「兩頰赤を發し、喉間洛々聲あるに至る」と云つてゐる。大いに苦しい樣だとも云つてゐる。然し都合よく何物をか捕まへたときには、大喜びで、「衣を牽き床(ゆか)を遶つて狂呼す」とも云つてゐる』これを夏目漱石は、先立つ小文「人生」(明治二九(一八九六)年十月発行の熊本第五高等学校学校誌『龍南會雜誌』発表)の中でも、『靑門老圃獨り一室の中に坐し、冥思遐搜す、兩頰赤発し火の如く、喉間咯々聲あるに至る、稿を屬し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方つて大苦あるものの如し、既に來れば則ち大喜、衣を牽き、床を遶りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊す、或は呻吟し、或は低唱す、忽ちにして大聲放歌欷歔淚下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーシヨン」といふ、「インスピレーシヨン」とは人意か將た天意か』と記している。この原典は邵が自敍した「靑門老圃傳」の一節と思われ、中文簡体字サイトで見つけたその当該部を、一部、正字加工して示す。

   *

老圃豐而髯、恬淡无他嗜好、好爲詩、又好攻古文辭。時有所賦撰、獨坐一室中、冥思遐搜、兩頰發赤如火、喉間至咯咯有聲。屬稿不積日、不出也。方構思時、類有大苦者。既成則大喜、衣繞床狂呼、遇得意處、輒詫不讓古人。

   *

「人生」や原典から見ても、「洛々」は「咯々」(カクカク)の誤りであろう。これにはオノマトペイアで、「クスクス」という笑い声の意があるが、鷄の「コッコ」や歯を噛み締める音でもあり、ここは苦吟するのを後者で示したものであろう。「遶りて」は「めぐりて」。原典の「繞」も同義。]

 この興奮した狀態が取も直さず製作熟の高潮に達した光景である。此光景を遺漏なく活演する藝術家の前に、家も國家も存在する筈がない。是非も得失も付着する譯がない。毀譽といふのも褒貶といふのも悉く知らぬ國の言葉に過ぎない。佛來れば佛を殺し、祖來れば祖を殺すといふのは正に此時の氣慨である。一言にして許すれば、製作熱に驅られた藝術家は、當面の所作以外に何物せも認めぬといふ意味で、殆んど絶對の境に入つたものである。

[やぶちゃん注:「佛來れば佛を殺し、祖來れば祖を殺す」「臨濟錄」に載る私の非常に好きな一句、「逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。」の一節。]

 其絶對郷が破壞されると共に、彼は普通の里に歸つて來なければならない。さうして酒から醒めた人の眼と、夢から飛び起きた人の驚きと、熱の退(ひ)いた人のけろりとした顏付を以て、つい今先きの自分を不思議さうに眺めなければならない。不思議さうに眺めなければならない程、同じであるべき筈の自分が、後先で別人の樣に違ふのである。藝術熱の去つた後の藝術家は、隣りの甲、筋向ふの乙と擇む所のない普通の人に成り下つて仕舞ふのである。しばらく第一の境界を絶對とすれば第二の狀態は平凡を極めた相對である。彼等は平凡なる心狀に墮落して後、始めて自分對社會の關係を意識するのである。さうして彼等の人格に相應な手段を盡して、單なる利害問題から、自己の藝術的製作に、世間的價値を付けやうと試みるのである。一般の藝術家に共通なる此俗慾に媚びる意味から見ても、文展の審査は已を得ないかも知れない。

 けれども是は當初から自分の問題ではなかつたのである。自分はもう少し世間離れのした上品な意味で、何故藝術熱の去つた後の彼等に、具眼者の批判が必要であるかを物語る積であつたのである。此義務を果す爲には、彼等の熱に襲はれた時と、其熱の冷めかゝつた時とを、前の樣に一般的にばかり比較しないで、特に彼等自身の製作に關聯して、其差違を發見するのが一番解り易いだらうと思ふ。

 白熱度に製作活動の熾烈な時には、自分は即ち作物で、作物は即ち自分である。從つて二つのものは全くの同體に過ぎない。然し其活動が終結を告げると共に、作物は作物、自分は自分とはつきり分れて來る。外の言葉で云ひ現はすと、此時自分は始めて一步作物から遠退(とほの)くのである。始めて作物に對して客觀的態度が取れるやうになるのである。要するに始めて一步でも他人らしくなれるのである。既に他人として、幾分でもわが製作に對する批判が起る以上は、しかも其批判がわが製作の存在上必要である以上は、自己對製作なる彼我の關係を、(己れの信ずる)具眼者對製作の關係に擴大するのは已を得ざる自然の順序である。

 其上彼等は時日を經れば經る程、己れの製作に對して他人らしく振舞ひ得るといふ事實を承認するものである。己れの製作に對して他人らしく振舞はれるといふのは、時日の間隔と共に、わが製作の上に加ふるわが批判が、漸次贔屓の私を離れて公平に傾くの謂に外ならない。從つて今日の自己は昨日の私を恥ぢ、昨日の自己は又一昨日の私を恥づるといふ論理から、いつその事、全くの他人にわが製作を處分する全權を委任して、當初から安心しやうとするのである。丁度醫を業とするものが、親子兄弟の病に、自ら脈を取るの危險を囘避するのと一般の心理である。余は此意味に於て、墮落とは知りながら、具眼者の批判に信來する藝術家の心事を諒とする。さうして具眼者として期待されつゝある文展の審査員諸氏に向つて、たとひ一人たりとも助かるべき筈の藝術的生命を、自己の粗忽と放漫と沒鑑識とによつて殺さざらん事を切望して已まぬのである。

 

        五

 

 自分の言説には、兎角個人主義の立場から物を觀る傾向が多い。是は自由を愛する自分の天性から來るのでもあらうが、一つには又理論の承認を得た主義として、暗に己れの立脚地を此所に定めてゐるからでもあらう。自分は何時か此問題をもつと深く考へてさうしてもつと明らかに語りたいと思つてゐる。さうして自分が如何に權威の局所集中を忌むかをも明らかに語りたい。同時に衆を賴んで事を仕ようとばかり掛る所謂モツブなるものゝ勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ輕蔑に値すべきかをも最も明らかに語りたい。然しそれは藝術以外にも亙り得る大きな問題である。此所では取扱ふ餘地がない。自分が單に個人たる藝術家の心理を説明して、社會の方から見た藝術家や、批評家及び鑑賞家の方から觀察した藝術家に論じ及ばないのを、片寄つた態度と思ひ違へる人があるかも知れないから一寸斷つて置くのである。

[やぶちゃん注:「モツブ」“mob”はここでは、(程度の低い一部の大衆から成る烏合の衆・暴徒の群れ・無秩序に集まった騒がしいだけの野次馬の群衆など、指導者を持たない俗悪で付和雷同的集団の意であろう。]

 自分は今斷つてゐる通り、既に孕まれたる製作を、勢(せい)一杯に産み出す底の個人として藝術家を研究したのである。さうして此個人としての藝術家に具眼者の批評が必要である事を許したのである。從つて行掛り上彼のために、「如何なるか是具眼者」の意味を解釋して讃者に通じなければならない。

 自己から見て、具眼の批評家といふのは、自己の製作が遺憾なく鑑賞出來る人より外にあるべき筈がない。それをもつと露骨な言葉で現はすと、自己が取も直さず自己の製作に對する最良最善の批評家であると云ふに過ぎない。たゞ自己は自己に對して不公平に篤く同情し過ぎる掛念があるから、厭々ながら評價の權利を他人に託するのである。だから、此他人は自己と最も密切に嗜好上の氣脈が通じてゐなくてはならない。從つて、もし同派同流の名の下に、類を以て集まり得る樣な、通俗な人間の一員として、藝術家が存在するならば、其藝術家は、毫も評家に不自由を感じない譯である。然しそれを裏から見ると、自分は何流並何派並の凡庸な藝術家だから、自分を鑑賞したり批評したりして呉れる具眼者に困らないと誇るやうなもので、誇るのはやがて卑しむ所以になる。余は初めから個人としての藝術を論じてゐるのである。さうして藝術は自己の表現に始つて自己の表現に終ると云ふのである。取も直さず、「特色ある己れ」を忠實に發揮する藝術に就てのみ余は思索を費やして來たのである。團體が瓦解して個人丈が存在し、流派が破壞されて個性丈が輝やく時期に卽して、藝術を云々するのが余の目的である。それでなければ、我々の美的經驗は、同じ印象を永劫に繰り返す丈で、變化のないものを餘り多く詰め込むために、始終嘔氣(はきけ)に煩はされながら、腹の中は常に飢渇を訴へなければならない。

[やぶちゃん注:「掛念」「けねん」。懸念。]

 斯う觀察して來ると、必然の結果として、所謂具眼者といふ意味も自然明瞭に讀者の頭に浮んで來はせまいかと思ふ。余の持論に從へば、今の世は個人主義の世である。少くとも個人主義に傾きつゝ發展するのが文明の大勢である。さう云ふ社會に生れて、友達を作るのに自分と氣質の同じやうな者ばかりといふ標準では、交際の出來る筈がない如く、個性を發揮すべき藝術を批評するのに、自分の圈内に跼蹐して、同臭同氣のものばかり撰擇するといふ精神では審査などの出來る道理がない。具眼者ならば、己れに似寄つたものゝ代りに、己れに遠きもの、己れに反したもの、少なくとも己れ以外の天地を開拓してゐるものに意を注いで、貧窮なる自己の趣味性に刺戟を與へ、爛熟せる自己の藝術觀を啓發すべきである。約言すれば、同類相求むるの舊態を棄つると共に、異類相援くるの新胸懷を開いて批判の席に坐るのが、刻下の時勢に順應した具眼者に外ならないのである。

[やぶちゃん注:「跼蹐」「きよくせき(きょくせき)」で「跼天蹐地」の略。「跼」は丸くなってしゃがみ込む意の「せぐくまる」で、「蹐」は「抜き足・差し足」の意。「高く広い天の下なのに体を窮屈に縮め、厚くどっしりとした不動の大地の上を恐る恐るおどおどと歩くこと」の意から、「肩身が狭くて世間に気兼ねしながら暮らすこと」「ひどく慎み恐れること」を指す。]

 余は述作に從事する人間ではあるが、時間が許さないので、遺憾ながら平生は寄贈の雜誌に載る小説類を悉く通讀する暇がない。けれども年に三四度は、義務としても吃度それらを頭から仕舞迄讀み通す。さうして讃み通す每に、いまだ存在を認められない無名の作家から、思はぬ利益を受けた事を感謝しなかつた試(ためし)がない。他人は自分より夫程面白い方面の經驗と觀察を有つてゐるのである。畫も彫刻も見樣では同じだらうと思ふ。

 文展六の審査に及第した作品が、千遍一律の杓子定規で場内に陳列の榮を得たものとは、たゞ管見した丈でも、考へられないが、あすこに出てゐる以外に、どんな個性を發揮した作品があつたかは不幸にしてまだ解決されない問題である。余は審査員諸君の眼識に信を置くと共に、落第の名譽を得たる藝術家諸氏が、文展の向ふを張つて、サロン、デ、ルフユーゼを一日も早く公開せん事を希望するのである。同時に個人の團體から成るヒユーザン會の如き健氣な會が、文展と倂行して續々崛起せん事を希望するのである。

[やぶちゃん注:「サロン、デ、ルフユーゼ」“Salon des refusés”はフランス語で「落選展」の意で、広義には「フランスで公式のサロンの審査員によって落選させられた作品を集めた展覧会」の意であるものの、底本の古川豊隆の注解によれば、特に『一八六三年、官展審査に落ちた絵画をナポレオン三世が、偏頗な審査だという世論いこたえてサロンに隣り合わせて催したもの』を指すとする。ウィキの「落選展」によれば、『落選展がはじまったのは』一八三〇『年代と早く、パリのアート・ギャラリーが、サロンに落選した作品を集めた、小規模かつプライベートな展覧会を催していた。 それが』この一八六三『年の展覧会は大騒ぎで、実はフランス政府が後援していた。この年、いつもの年より多い』、三千点『以上の作品がサロンに落選したことに、美術家たちが抗議したのだった。展覧会には』「一般の諸君がこの抗議が正当なものであると判断してくれることを望む」という告示が出され、フランス皇帝ナポレオン三世も、『サロンに付随して、落選した美術家たちが自分たちの作品を展示してもよいという命令を発した。しかし、多くの批評家ならびに大衆は落選作品を嘲笑した。その中には、エドゥアール・マネ』の、かの名品「草上の昼食」(Le Déjeuner sur l'herbeÉdouard Manet 1863)やジェームズ・マクニール・ホイッスラーの清楚に屹立する「白の少女」(Symphonie en blanc no 1 (La Fille en blanc)James Abbott McNeill Whistler 1862)など『が含まれていた。しかし、絵画の世界に突如として出現したアバンギャルドの正当性を認め、注目する批評もあった。マネの励ましもあって』、一八七四年に『印象派はサロンの外ではじめた展覧会を成功させた。落選展は』、一八七四年・一八七五年・一八八六年にも『パリで開催され、その頃にはパリ・サロンの名声も影響力も衰えてしまっていた』とある。

「ヒユーザン會」「フュウザン会」は大正時代に結成された美術家集団。発起人は斎藤与里・岸田劉生・清宮彬・高村光太郎などで、「フュウザン」はフランス語“fusain”でデッサン用の「木炭」の意。設立時は「ヒュウザン会」であったが、後に「フュウザン会」へ改名している。この文展開催の前月である大正元(一九一二)年九月に結成され、十月十五日(奇しくも本篇連載の初日である)から十一月三日まで第一回ヒュウザン会展を銀座の読売新聞社開催した。翌年三月十一日から同月三十日まで第二回フュウザン会展が開催されたが(同じく於・読売新聞社)、同年七月に同会は解散している。参照したウィキの「フュウザン会」によれば、『活動期間は短いが、日本で初めての表現主義的な美術運動として、先駆的な意義を持つ。参加者は』上記四人の他、『木村荘八、萬鉄五郎、バーナード・リーチら。ポスト印象派、フォービズムの影響がみられる』。解散理由は斉藤与里と岸田劉生の主張が食い違ったことによるとある。

「崛起」「くつき(くっき)」で、原義の山などが高く聳え立っているこから、俄かに事が起こること。また、多数の中から頭角を現すことの意となった。]

 「文展と藝術」といふ標題の下に、余の述ぶべき事は略述べ表した。然し是では餘り理窟張り過ぎるから、自分が門外漢として文展を觀た時の感想を、實際の繪畫に就て、一囘か二囘書かうと思ふ。云はゞ餘興とか景物とかいふ位のものである。

[やぶちゃん注:「略」「ほぼ」。]

 

       六

 

 我藝趣味のうちで最も平等に又最も圓滿に、殆んど誰彼の區別なく發達してゐるものは、恐らく異性に封する美醜の判斷だらう。

 自分は此間一人で斯う考へて一寸可笑しくなつた。が、滑稽じみた其時の感じは決してわが觀察の眞實を弱めるには足りなかつた。と、いふのは、繪なり彫刻なり音樂なり、所謂藝術と名けらるゝものゝ鑑賞力には、個人々々で隨分な差等があり、又相應な眼を有ち耳を有つ人でも、ある場合には、巧(うま)いのか拙(まづ)いのか、殆んど頭を纏めてかゝる印象にすら困るのに、問題が婦人の容貌になると、誰で好き嫌が直下(ぢきげ)に極つて仕舞ふからである。此點になると我々は實に天品の鑑賞家で、一切時一切所にふつりと斷じて少しも迷はない。我々は未だ甞て朋友の一人から、あの女の顏に惚れやうか惚れまいか、何うしたものだらう、といふ相談を受けた例(ためし)がない。それのみか、如何に傍(はた)のものが非難を加へても、一度好きだと思ひ込んだら決して動かない。實に羨ましい信念を信念を有つてゐる。だから異性の美醜に對する批判にかけては、昔から素人黑人の區別を設ける必要もなく、各々(めいめい)自己特有の標準でずばりずばりと好き嫌を定める丈で、人も怪しまず、自分も疑はずに今日迄來たのである。

[やぶちゃん注:「天品」「生まれつきの才能・天性」の意の「天稟(てんぴん)」の当て字であろう。

「黑人」「くろうと」。玄人。]

 此位直覺の鋭どく働らく女の眼鼻ですら、差向ひの時滿更とも思はないものを、大勢の中に放して、居竝んだ一人として、改めて眺めて見ると、氣の毒な程引き立たなくなる。澤山の綺麗な美人が、人の注意を惹くために、裝(よそほひ)を凝らして秋波を送ると同じ傾のある展覽會を、自分の樣な鈍感なものが、群集に紛れて素通りに通り拔けた所で、鮮かに纏つた印象が殘らう筈がない。それを心得顏に何とか云つたら、後から拵えた噓になる。噓にならない程度で感じた通りを書けば、頗る貧しいものが出來上る。自分は繪や彫刻を評する前に、自分が是等の藝術に對して、女の顏を鑑賞する程の明らかな直覺を有つてゐないのを深く恥づるのである。

 實際其日は非常の混雜であつた。自分も自分の友人も長くは一つ製作の前に佇ずむ事を許されなかつた。自分等は人の波に揉まれながら部屋から部屋へと移つて行つた。凡ての感想は此せわしない動搖の中(うち)に、閃めいたり消えたりして、雜沓の間を縫び𢌞つたのである。

 會場を這入つてすぐ右にある廣い室(へや)を覗くと、大きな畫ばかり竝んでゐた。其中(うち)に「南海の竹」と題した金屛風があつた。南海か東海かは固より自分の關係する所ではないが、其惡毒(あくど)い彩色は少なからず自分の神經を刺戟した。竹といひ筍といひ、筍の皮といひ、悉く一種の田臭を放つて、觀る者を惱ませてゐるやうに思はれた。自分は此間表慶館で、猫兒と雀をあしらつた雅邦の竹を見た。此むらだらけに御白粉を濃く塗つた田舍女の顏に比較すべき竹の前に立つた時、自分は思はず好い對照としてすつきりと氣品高く出來上つた雅邦のそれを思ひ出した。此竹の向側には琉球の王樣がゐた。其侍女は數からいふと五六人もあつたらうが、何れも御さんどんであつた。其橫には春の山と春の水が、非常に大きく寫されてゐた。自分は其大きさに感心した。

[やぶちゃん注:「南海の竹」古川注に、『田南(たなみ)岳璋筆、六曲屛風一双』とある。

「表慶館」東京国立博物館の一部として明治三三(一九〇〇)年に当時の皇太子(後の大正天皇)成婚記念して計画され、明治四二(一九〇九)年に開館した、日本最初の本格的美術館。現存。

「猫兒と雀をあしらつた雅邦の竹」古川注に、『橋本雅邦筆「竹林猫図」をさす』とある。これ(国立博物館画像)。

「琉球の王樣」古川注に、『山口瑞雨筆「琉球藩王図」(六曲屛風一双)をさす』とある。サイト「柳琉文21」のこちらに画像がある。以下、古川久氏は小まめに画を調べて作者と作品名を記しておられるが、古川氏は著作権が存続しているので、以下では、漱石が素直に惹かれたものや(漱石の画評は相当に辛口で、糞味噌に皮肉を言って面白がっているものなども意想外に多いが、それは注さない)、現存画がネットで確認出来るもの、注を附したくなる作品のみ限って注することとする。詳しくは漱石全集に当たられたい

「御さんどん」身分の低い下女。]

 次の室には綺麗な牡丹があつた。御公卿樣が大勢ゐた。三國誌の插畫にあるやうな男も二人ばかりゐた。それから白樂天と鳥巣和尚が問答をしてゐた。

[やぶちゃん注:「三國誌の插畫にあるやうな男」「三國誌」は「三國志」の誤り。古川注に、『池上秀畝筆「朔北」(六曲屛風一双)をさす』とある。

「白樂天と鳥巣和尚が問答をしてゐた」古川注に、『今井爽邦筆「汝が居所却て危し」をさす。「巣」は「窠」が正しく、「鳥窠和尚は中国唐時代の高僧』で、『常に老松の幹の蟠って蓋のようになっている所に結跏趺坐していたと言われ、一名、鵲和尚』(じゃくおしょう)『とも称した』。「傳燈錄」や「正法眼藏」に、『白居易と鳥窠禅師とが問答することが記されてあり、東洋画の画題の一つとされ』るとある。]

 其次の室の入口に近い所で「平遠」といふのに出合つた。芭蕉があつて、鶴がゐて、丸窓の中に赤い着物を着た人がゐた。さうして遠くの方の樹や土手や水が、如何にもあつさりと遠くに見えた。自分は是が欲しいと思つた。目錄を調べると、田近竹邨といふ人の描いたもので、價は五百圓と斷つてあつた。夫で買ふのは已めた。此隣りに「火牛」が居た。名前は火牛だけれども、實は水牛である。もし水牛でなければ河馬である。實に恐るべく驚ろくべき動物である。そのあるものは鼻を逆さまにして變な表情を逞しうしてゐた。向ふ側には烏と鷺が松の木に留つてゐた。尤も鷺のあるものは飛んでゐた。然し兩方とも生活に疲れてゐた。さうして羽根の色が好くなかつた。曲り角には大きな眞黑な松が生へてゐた。此松には風も滅多に觸(さは)る事が出來ない。蟬抔はとてもく寄り付けた譯のものではない。

[やぶちゃん注:「田近竹邨」古川注に、『文久三年(一八六三)大正十一年(一九二二)。南画家』とある。

「五百圓」ネット上のある換算サイトでは明治末期の一円を現在の千八百五十円相当としているのに従うなら、九十二万五千円となる。

「火牛」古川注に、『津端道彦筆、六曲屛風一双』とある。]

 

         七

 

 第五室に入(はい)つたら、山水の景色が橫に長く續いてゐる途中から拳骨の樣な白いものが斜に突き出してゐた。友人があれは雲でせうかと聞いた。自分はもし夫が雲でないとしたら何だらうと考へて見たが、遂に想像も及ばなかつた。其隣りに栗鼠が葡萄の幹を渡つてゐた。此栗鼠の眼は甚だ複雜である。下りやうとして居るでもなく、留まらうとして居るでもなく、左うかと云つて、何を考へてゐるでもないが、決して唯の眼ではない。自分は此眼の表情を一口で云ひ終せた人に二等賞を捧げたい。次には木の股に鳥が澤山ゐた。感心な事にいづれも烏らしい樣子をしてゐた。次には象がゐて、見付(みつけ)があつて、富士山があつた。山王祭(さんのうまつり)の繪ださうである。それから屛風に稻の穗が一面に描いてあつた。此稻の穗の數を知ってゐるものは天下に一人もあるまいと思つた。

[やぶちゃん注:「栗鼠が葡萄の幹を渡つてゐた」古川注に、『荒木十畝筆「葡萄」』とある

「二等賞」現在の読者である我々は何故、一等賞でないのか訝り、そこに漱石のその作品へに皮肉を読み取りそうになるのであるが、古川注に、文展では『毎回一等賞の該当者がなく、二等賞が最高であったので、一等賞と言わずに二等賞と言ったのであろう』とあることで腑に落ちる。この場合、しかしやはり文展の審査への皮肉としては生きているとも採れる。]

 六室は面白かつた。先づ第一に天孫の降臨があつた。天孫丈あつて大變幅を取つてゐた。出來得べくんば、淺草の花屋敷か谷中の團子坂へ降臨させたいと思つた。筋向ふに昔の男が四五人立つてゐた。この方が餘程人間に近かつた。「甲(よろ)ふたる馬」といふのは、とても乘れる馬ではないから引つ張つてゐるのだらうが、引つ張つてゐる所を見る丈で好いのである。此馬は紙を切つて張り付けたと同じ恰好で、三角形の趣を具へた上へ、思ひ切つた色彩を施した、奇拔なものである。乘れなくても飾つて置けば宜しい。馬の主は素明君であつた。素明君の通りを橫丁へ出ると、大きな松に蔦が絡んで、熊笹の澤山茂った、美くしい感じのする所が平田松堂君の地面であつた。自分は友人と第七室に入つた。

[やぶちゃん注:「素明君」日本画家結城素明のことか?]

 忽ち大きな桐の葉を白い雨が凄まじく叩いてゐる大膽な光景を見た。其陰に雀がぎうぐぎう一列に竝んで雨を避けてゐる。但し飛んでゐるのもある。然し飛んでゐるのは雀ぢやなからう、大方雀の紋だらうと云ふ人もあつた。自分は明治の書生廣江霞舟君が桃山式の向ふを張つて描き上げたやうな此「白い雨」を愉快に眺めた。其隣にある「鵜船」も亦頗る振つたものである。船が平氣な顏をして上下一列に竝んでゐる。煉瓦を積んだやうな波が其間を埋めてゐる。塀の中に船を詰め込んで、橫から眺めたら此位雅に見えるかも知れない。

 次の室の一番初めには二枚折の屛風があつた。其屛風はべた一面枝だらけで、枝は又べた一面鳥だらけであつた。夫が面白かつた。そこを少し行くと美くしい女が澤山ゐた。其女はみんな德川時代の女らしかつた。さうして池田蕉園といふ明治の女によつて描かれた事を申し合せた樣に滿足してゐるらしく見えた。其前には天女が飛田周山君のために彼女一代の歷史を橫に長く開展してゐる。彼女の歷史は花やかと云はんよりは寧ろ寂びてゐた。彼女の左右前後にある草や木や水は鮮やかに且つ澁く染められてゐた。さうして至極眞面目に裏表なく榮へたり枯れたりした。此天女の一軒置いて隣りには、尾竹國觀先生がしやもを蹴合はせてゐた。先生は新聞に堂々と署名して、文展の繪を頭ごなしに誰彼の容赦なく攻擊する人である。自分は先生の男らしい此態度に感服するものである。だから先生のしやもに對しても出來得る限りの敬意を表したい考でゐる。

[やぶちゃん注:「尾竹國觀」(おたけこっかん 明治一三(一八八〇)年~昭和二〇(一九四五)年)は新潟市に生まれの日本画家。二十歳前後から日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会を舞台に受賞を重ね、明治四一(一九〇八)年の「国画玉成会事件」(審査員問題が拗れ、その問題では同盟していたはずの国画玉成会が文展と別に独自の展覧会を開催した事件)では竹坡とともに岡倉天心(国画玉成会会頭)・横山大観(彼も結局は後の大正三(一九一四)年に急進的と批判されて文展審査員から外され、日本美術院を再興して宣戦布告した)と袂を分かった。それでも翌年の第三回文展に「油断」で二等賞、第五回文展に「人真似」で三等賞を受賞。大正二(一九一三)年には、横山大観を先頭とする「学校派」審査員によって不可解な落選という憂き目(文展事件)にあったが、大正七(一九一八)年)第十二回文展までは意欲的な出品を見せた。だが、その不遜な言動から後半生は振るわず、昭和一〇(一九三五)年、帝展の無鑑査に迎えられて出品するも、芸術的新境地を開くには至らなかった。一方、現在では、彼が描き続けた教科書や雑誌の挿絵・ポンチ絵・絵本など、メディアの仕事が注目を浴びつつある(以上はウィキの「尾竹国観に拠った)。]

 第九室に入つて不可思議なものを見た。何でも水の上に船が浮いてゐて、空から雪のやうなものが、ポツポツ落ちて來る所ぢやないかと思ふ。題には「豐兆」とあつた。題も謎になつてゐるのだらう。今村紫紅君の「近江八景」も此所に竝んでゐた。是は大正の近江八景として後世に傳はるかどうかは疑問であるが、兎に角是迄の近江八景ではない樣である。だから人が珍らしがるのだらう。が、それは彼(あゝ)でもない此(かう)でもないが嵩じて後の事と思はなければならない。狩野にも四傑にも乃至美術院派にも煩はされない、全く初心(うぶ)の鑑賞家を伴れて來て、昔の八景と此八景と何方が好いと聞いたら、其男は存外昔の方を擇むかも知れない。自分は今村君の苦心と努力を尊敬するから特に斯ういふ要らざる皮肉を云ふのである。色彩の點になると甚だ新らしい樣ではあるが何だか自分の性に合はない。

 

        八

 

 木島櫻谷氏は去年津山の鹿を竝べて二等賞を取つた人である。あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しても氣持の惡くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な點に於ては決してあの鹿に劣るまいと思ふ。屛風に月と竹と夫から狐だか何だか動物が一匹ゐる。其月は寒いでせうと云つてゐる。竹は夜でせうと云つてゐる。所が動物はいへ晝間ですと答へてゐる。兎に角屛風にするよりも寫眞屋の背景にした方が適當な繪である。

[やぶちゃん注:「木島櫻谷」(このしまおうこく 明治一〇(一八七七)年~昭和一三(一九三八)年)と読む。ウィキの「木島桜谷によれば、『四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」「最後の四条派」と称された』とあるが、漱石のこれは痛罵に等しい酷評である。これ。]

 次の室で感じの好い枇杷だの百日紅だのを見た後、とうとう審査員連の顏を竝べてゐる第十二室に出た。すると其所に茄子の葉を丁寧に几帳面に且つのべたらに描いた屛風があつた。自分は其前に立つて、是は何の趣意だらうと考へた。尤も茄子其物は捥(もぎ)つて漬物にしても恥かしくないやうな好い色をしてゐたには違ない。今尾景年君の鯉も其近所に躍つてゐた。鯉は食ふのも見るのも餘り好かない自分である。ことに此躍り方に至つては甚だ好かないのである。それで山本春擧君は鯉の代りに鮎の泳いでゐる所を描いて呉れた。成程鮎は正しく泳いでゐる。其上岩も水も大袈裟に惜氣く描かれてゐる。けれども斯う大きく描く興味は何處から出て來たのだらう。商店で賴まれた廣告繪ぢやないでせうかと友人は自分に語つた。

[やぶちゃん注:「のべたらに」副詞で、切れ目なくだらだらと続くさまを言う。

「山本春擧」「山元」の誤り。山元春挙(やまもとしゅんきょ 明治四(一八七二)年~昭和八(一九三三)年)は円山四条派の日本画家。]

 廣業大觀二氏は兩方とも瀟湘八景を見せてゐた。二人が隣り合せに同じ八景を竝へてゐるのは、八景好(よ)いやといふ洒落の樣にも見える、が實際兩方を觀て行くと、丸で比較にも何にもならない無關係の畫であつた。廣業君のは細い筆で念入りに眞面目に描いてあつた。ことに洞庭の名月といふのには、細かい鱗の樣な波を根限(こんかぎ)り竝べ盡して仕舞つた。此子供の樣な大人のする丹念さが、君の繪に一種重厚の氣を添へてゐる。自分は先刻(さつき)茄子の葉を見て、多少御苦勞の樣な感じを起した。然し此波に對したときは、善く倦まずに是丈の結果を畫面に與へられたものだと敬服した。實際此波は馬鹿氣て器械的に描かれてゐながら、眼界を非常に大きくする效果を有つてゐる。夫だから子供のやうに働らきのない仕事でありながら、遂に貴重な努力になり終せるのである。尤もそれが色彩と相待つて始めて達し得られた結果である事は云ふ迄もない。

[やぶちゃん注:「廣業」寺崎広業。

「大觀」横山大観。

「瀟湘八景」現代仮名遣で「しょうしょうはっけい」と読む。北宋以来の中国山水画の伝統的な画題で。瀟湘は古えより風光明媚な水郷地帯として知られる、現在の湖南省長沙一帯の地域、洞庭湖と流入する瀟水と湘江の合流する附近を呼び、その名数八景は「瀟湘夜雨」・「平沙落雁」・「烟寺晩鐘」・「山市晴嵐」・「江天暮雪」「漁村夕照(返照)」・「洞庭秋月」(漱石の「洞庭の名月」というのはこれの誤り)・「遠浦帰帆」を数える。古川注によれば、『この回の文展に』は『広業が瀟湘八景のうち五枚を、大観は全八枚を出品した』とある。]

 自分は廣業君の波を賞めた。けれども斯ういふ意味を帶びた仕事は、支那人が既に追つてゐやしないかといふ疑がある。そこへ行くと廣業君の畫は大觀君に比べて個性がそれ程著るしく出てゐないやうに思はれる。歷史的に畫を研究した事のない自分ではあるが、大觀君の八景を見ると、此八景はどうしても明治の畫家橫山大觀に特有な八景であるといふ感じが出て來る。しかもそれが強ひて特色を出さうと力めた痕迹なしに、君の藝術的生活の進化發展する一節として、自然に生れたやうに見える。此間表裝展覽會の時に觀た君の畫は、皆新らしかつた。けれども何か新らしいものを描かなければ申し譯がないと力味拔いた結果、やけに暗中に飛躍して、性情から湧いて出る感興もないのに筆を下したと思はれるものが多かつた。此八景はあんなものから見ると活きてゐる。橫山大觀君になつてゐる。それを説明すると暇が要るが、一言でいふと、君の繪には氣の利いた樣な間の拔けた樣な趣があつて、大變に巧みな手際を見せると同時に、變に無粹(ぶいき)な無頓着な所も具へてゐる。君の繪に見る脱俗の氣は高士禪僧のそれと違つて、もつと平民的に呑氣なものである。八景のうちにある雁は丸で揚羽の鶴の樣に無恰好ではないか。さうして夫が平氣でいくつでも蚊のやうに飛んでゐるではないか。さうして雲だか陸だか分らない上の方に無雜作に竝んでゐるではないか。仰向いて夫を見てゐるものが、又如何にも屈託がなささうではないか。同時に雨に濡れた修竹の樣や霧の晴れかゝつた山驛の景色抔は、如何にも巧みな筆を使つて手際を見せてゐるではないか。――好嫌は別として、自分は大觀君の畫に就て是丈の事が云ひたいのである。舟に乘つて月を觀てゐる男が、厭に反(そつ)くり返つて、我こそ月を觀てゐると云はぬ許りの妙な感じを自分に與へた事も序だから君に告げて置きたい。

[やぶちゃん注:「修竹」「しうちく(しゅうちく)」は長く伸びた竹のこと。

 ここで漱石が称揚している「瀟湘八景」は私も好きな作品の一つで(私は実は大観好きである)「国立博物館」公式サイト内のここで全図を鑑賞出来る。]

 

        九

 

 自分は安田靭彦君の「夢殿」といふ人物畫を觀て何といふ感じも興らなかつた。自分の友人は其前に立つて面白くないと云ふ言葉を繰り返してゐた。あとで聞くと是は大分評判の高い作ださうである。聖德太子とかの表情の、飽く迄も莊重に落付いてゐるうちに、何處か微笑の影を含んだ萌(きざし)の見える所が大變能く出來上つてゐるのださうである。それは自分の情緒に觸れない説明であるから、たとひ肯がつた所で、「夢殿」に對する愛執の度を增減する譯に行かないが、序だから、自分がかねて日本古來の佛像だの佛畫だのに就いて觀察した新らしいと思ふ點を參考に述べたい。

[やぶちゃん注:グーグル画像検索「安田靫彦 夢殿」をリンクさせておくが、私は一枚として安田の絵に感銘を受けたことはない。その点で漱石の言にすこぶる共感するものである。]

 彫像でも畫像でも宗教がかつた意味を帶びた日本支那の作品に、古來から好男子のゐないのは爭ふべからざる事實の樣に思はれる。中にも寒山拾得だの五百羅漢だの其他色々六づかしい名の付いた仙人になると、男振は甚しく振はない。我々は因習の結果其所に一種の仙氣があると認めてゐるらしいが、能く考へると、苟くも崇高とか超脱とかいふ出世間的の偉力を有した精神上の德が、殆んど畸形と評しても然るべき下品な容貌によつて代表され樣とは決して受取れないのである。眼付なり顏だちなりが陋(いや)しくなればなる程、外部に現はれた人格も亦其陋しい眼鼻だちに正比例した下劣な調子を反映しなければならないのが常識に適つた見解で、又哲理に戾らない斷定である。して見ると、我々が平生博物館や寶物展覽會で目擊するあの異形の怪物は、彼等が骨董的な相貌を有すれば有するだけ、彼等の偉大なる精神を表現せんとする畫家なり彫刻家に取つて不便を與へる事になる。そこに氣が付くべき筈の藝術家が、何を苦んで此不利益な地位に陷(おちし)いれられながら、依然として平凡を奇怪の方面に超越した變な頭や口ばかり作つてゐたか。是は相當の思索を費やして解決して然るべき問題である。たゞ習慣といった丈では自分の腑に落ちない。

[やぶちゃん注:この漱石の常識的見解は漱石の外見的視覚上の美醜への拘りや限界性を示していて面白い。]

 自分の考によると、希臘の神の像は、其名前の神であるに拘はらず、實は悉く人間の像なのである。もつと適切にいふと、希臘人は神を彼等同等の人間に引き下した所を像にしたのではなからうかと思ふのである。だから彼等の遺した神像はみな立派である。立派といふのは人間として立派なのである。容貌といひ體格といひ、悉く人間として有し得らるゝ最高度の立派さを示現してゐるもの許である。從つて我々は其前に立つて、神の代表者たる最も完全な人間を見るのである。若くは最も完全な人間を通じて神を見るのである。所が日本の佛像は全く反對の遣口に出てゐる。神を具體化するために、神を人間の程度迄引き下げた希臘人に反して、我々は人間以上の佛を、人間の眼鼻を借りて存在させやうと力めたのである。だから眼といひ鼻といひ、大きいの小いのと云つた所で、實はほんの借物に過ぎない。方便として眼鼻を使ひこそすれ、目的は夫等の奧にある無形の或物である。既に服や鼻や口が取次所であつて、代表者でない以上は、容貌其ものが、人間らしい色氣なり慾氣なり、或は勇氣なり思慮なりを、人間の程度で現はしてゐては、佛を人間らしくするには都合が好いかも知れないが、人間を佛らしくするためには却つて邪魔になる丈である。其不純な感じを頭から拔き去る必要から、彼等は人間離れのした不可思議な容貌を骨董の如くわざと具へてゐるのではなからうか。

[やぶちゃん注:「許」「ばかり」。

「遣口」「やりくち」。]

 では此奇怪な容貌を通じて佛の魂が何うして輝き得るか。それが藝術家の靈腕といふのだらう。自分はかつて寫眞版の古佛像を見た事がある。其像にあらはれた顏は今でも電車のうちで見る事の出來る普通な顏である。けれども何等他奇なき其眼鼻立の奧から、如何に人間を超越した氣高い光が射したかは、忘れやうとしても忘れられない記憶の一つである。此平凡な顏は實に無限の常寂と、絶對の平和と、無量の沈着と莊嚴とを以て自分に臨んだのである。

[やぶちゃん注:「他奇」「たき」。他と比べて新規だったり、違違って見えるところ。]

 此無名の藝術家は決して一時の出來心からこんな像を刻んで見やうとしたのではなからうと思ふ。安田君も徒らな料簡で「夢殿」などといふ六づかしい畫題を擇んだのではあるまい。けれども既に人間として夫程嘆賞に價しない彼等の佛教的容貌の裏面に、形而上の佛教的な或物が何處にも陽炎つてゐないとすれば、君の畫は失敗ぢやなからうか。

 

        十

 

 藝術を離れて單に坊間の需用といふ社會的關係から見ると、今の西洋畫家は日本畫家に比べて遙かに不利益の地位に立つてゐる。彼等の多數は隣り合せの文士と同じく、安らかに其日其日を送る糧すらも社會から供給されてゐない。彼等の製作の大部分は貨幣と交換され得べき市場に姿を現はす機會に合ふ的あて)もなく、永久に畫室の塵の中に葬むられ去るのである。畫室! 彼等の或ものは恐らく自己の生命を葬るべき畫室すら有つてゐないだらう。彼等は食ふ爲でなく、實に餓える爲、渇する爲に畫布に向ふ樣なものである。

 是程窮迫の境遇に居りながら、猶かつ執念深くパレツトを握つてゐるものは餘程勇猛な藝術家でなければならない。自分は此意味に於て深く今日の西洋畫家を尊敬するのである。さうして是等薄倖の畫家によつて開拓されつゝある我邦の畫界が、年々其努力によつて面目を新たにするのを見るたびに嘆賞の聲を惜まないのである。斯ういふ進境の一源因は、無論文壇の大勢と同じく、活きた西洋の潮流が、斷えざる新らしい刺戟を、彼等の血脈に注ぎ込んでゐるからではあるが、奮つて衣食問題以上にも躍り出さうとする彼等の藝術的熱心も亦大いなる原動力となつて暗々裏に働いてゐるに違ない。悲しいかな、此方面で多少名を知られた所謂大家なるものの多數が、新進の人と步調を揃へて一樣に精進してゐない。自分は公言する如く斯道に於て全くの門外漢である。だから技巧などは能く解らない。夫でゐて斯んな失禮を云ふのは善くないとも思ふ。けれども亦感じた通りを述べるのも惡くはないとも考へる。

 自分はかつて故靑木氏の遺作展覽會を見に行つた事がある。其時自分は場の中央に立つて一種變な心持になつた。さうして其心持は自分を取り圍む氏の畫面から自(おのづ)と出る靈妙なる空氣の所爲だと知つた。自分は氏の描いた海底の女と男の下に佇んだ。自分は其繪を欲しいとも何とも思はなかつた。けれども夫を仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥づかしくないといふ自覺があつた。斯んなものを仰ぎ見ては、自分の人格に關はるといふ氣はちつとも起らなかつた。自分は其後所謂大家の手になつたもので、これと同じ程度の品位を有つべき筈の畫題に三四度出合つた。けれども自分は決してそれを仰ぎ見る氣にならなかつた。靑木氏は是等の大家よりも技倆の點に於ては劣つてゐるかも知れない。或人は自分に、彼はまだ畫を仕上げる力がないとさへ告げた。それですら彼の製作は纏まつた一種の氣分を漲らして自分を襲つたのである。して見ると手腕以外に畫に就て云ふべき事は澤山あるのだらうと思ふ。たゞ鈍感な自分にして果してそれを道(い)ひ得るかが問題な丈である。

[やぶちゃん注:「故靑木氏の遺作展覽會」放浪の洋画の鬼才青木繁(明治一五(一八八二)年~明治四四(一九一一)年三月二十五日)のそれは一周忌に当たる明治四十五年三月(本作が書かれた年初)に上野で催されている。

「氏の描いた海底の女と男」後期の名作「わだつみのいろこの宮」(明治四〇(一九〇七)年)のこと。これ。]

 先づ一番に和田君の描いた石黑男爵の肖像に就て所感を述べたい。決して惡口を云ふ積でなく、たゞ感じた通りを自白すると、男爵の顏は色の惡い唐茄子に似てゐる。尤も男爵の顏を橫から見れば多少唐茄子らしい所があるのかも知れないから、是は畫家の罪と許は云へない。然し男爵の顏が粉を吹いてゐるに至つては、益唐茄子らしくなるとならないとに論なく、和田君の責任である。然らざれば光線の責任であるが、何うも左うではないらしい。和田君はH夫人といふのをもう一枚描いてゐる。是も男爵同樣甚だ不快な色をしてゐる。尤も窓掛や何かに遮ぎられた暗い室内の事だから光線が心持よく通はないのかも知れない、が光線が暗いのでなくつて、H夫人の顏が生れ付暗い樣に塗つてあるから氣の毒である。其上此夫人はいやだけれども義理に肖像を描(か)ゝしてゐる風がある。でなければ和田君の方で、いやだけれども義理に肖像を描いてやつた趣がある。自分は何方か知らないが、隣りにマンドリンを持つて來てゐる山下君の女を見た時、猶々さういふ感じを強くしたのである。山下君の女は愉快にさうして自然に寐てゐる。眼をねむつてゐる癖に潑溂と動いてゐる。生き生きとした活力を顏にも手にも身體にも蓄はへた儘、靜かに橫はつてゐる。自分は彼女の耳の傍ヘ口を付けて、彼女の名をさゝやいて見たい。然し眼を開いて此方を向いてゐるH夫人には却つて挨拶する勇氣が出ない。

[やぶちゃん注:「和田君」和田栄作。

「山下君」山下新太郎(明治三四(一八八一)年~昭和四一(一九六六)年)。ここに出る絵は次章の頭にある「マンドリーヌ」のこと。]

 

        十一

 

 「マンドリーヌ」とは反對の側から自分の興味を誘なつた畫が四つ程ある。偶然にも其内の二つは隣り合せに掛けられてゐた。さうして二つとも線を用ひた裝飾畫であつた。細長いパネルめいたのは白羊君の「川のふち」で、是は寒い色をしてゐた。稍四角な方は未醒君の「豆の秋」で、是は暖たかく出來てゐた。

[やぶちゃん注:「白羊君」倉田白羊(はくよう 明治一四(一八八一)年~昭和一三(一九三八)年)。

「未醒君」「未醒」は「みせい」と読む。小杉放庵(ほうあん 明治一四(一八八一)年~昭和三九(一九六四)年)のこと。本名は国太郎、未醒・放庵は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。芥川龍之介と親しく、『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版芥川龍之介新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。芥川より十一歳年上。]

 花やかな活躍を意味する「マンドリーヌ」を去つて、「川のふち」と「豆の秋」の前へ來たとき自分は、音樂會の歸りに山寺の門を潛つたやうな心持を味つた。「マンドリーヌ」の刺戟性なのに反して彼等の畫は夫程靜だつたのである。けれども其靜さは歡樂の後に來る反動の淋味(さびしみ)を以て自分に訴へたのではない。彼等は其根調に於て、父母未生以前から既に一種の落付を具へてゐたのである。さうして新らしい問題が此落付の二字から生れるのである。活躍と常寂――生の兩面を語る此言葉が藝術に卽して如何なる意義を我々にもたらすか。是が問題である。

[やぶちゃん注:「父母未生以前」「ぶも(ふも)みしやういぜん」は禪語で、しばしば禪問答の最初に試され、後に「の面目や如何」と問われる。父や母すら生まれていない遙か以前の時空間の本来の自己存在を問うもの。相対的な存在に過ぎない自己というちっぽけな立場を離れ、絶対普遍の仏教真理の立場を感得させる一途としての公案である。]

 活動には奧行がない。あらゆる力が悉く外部に向つて走るならば、我々はたゞ其力の現はれた迹丈を見れば好い。さうして唯間口の強烈な所に心を奪はれて居れば、萬事は其刹那に解決されるのである。人間全體が皮膚に發現し切つた以上、裏面を覗く必要はないからである。だから活動本位の裏面は陽氣で快活である。けれども陰性の畫になると、始めから何等の活動を示してゐない。從つて我々は畫の間口丈見て安心する事が出來ない。此靜かな落付いた生の裏面に、何物か潛んでゐるに違ないと思ふ。次に其潛んでゐるものは赤いものか黑いものか、何だか物色して見たくなる。其所で畫に已を得ず奧行が出來て來る。勿論奧行といふのは筆の先で拵らえる意味の濃淡ではなくつて、全く精神作用から來る深さに過ぎないから、斯ういふのは考へさせる畫とも、象徴的の畫とも、或は宗教義を有つた畫とも言ひ得るのだらう。

 「川のふち」はたゞの田舍女が立ちながら、髮を梳つてゐる傍に、臼があつたり、後に川があつたり、其川の中に島が浮いてゐたりする丈である。自分の友人は此畫の前に立つて頻りに氣に入つたと云つてゐた。自分は何だか象徴的な所があるが夫にしては物足りないと答へた。友人は、そんなものではなからう、私には此裡の趣が好く解るがと答へた。自分にも趣は解つた積である。けれども單に趣丈描いたものとしては、描き方が矢張り足りない樣に思はれた。自分は二三度此畫を振り返つて見た。さうして仕舞迄、物足りた樣な物足りなさを感じた。

 「豆の秋」は畫として調つた點から云ふと、「川のふち」よりも上に位するのだらう。四角な裏面が四角にきちんと纏つてゐるうちに、とても此中には纏められさうもない木の幹がぬつと立つてゐたり、同じく大き過ぎるやうな人間が落付拂つて坐つてゐたりする。「豆の秋」は實に大膽に沈着に纏つた畫である。だから其重味(おもみ)は寧ろ構圖の方から來てゐるらしい。從つて畫の内面に意味があるとすれば、その意味が却つて畫家の手腕で作り上げられてゐる樣な氣がする。リーチ氏はアドヷタイザーに投書して、此畫をシヤヷンヌの影響を受けて墮落したものだと云つてゐる。シヤヷンヌの影響は未醍君も否定し得ないかも知れない。けれども是は本來君の性情にある畫風なのである。「木蓮」と云ひ「水郷」といひ、今度の「豆の秋」といひ、いづれにも畫家の感情が籠つてゐる。未醒といふ人が本來の要求に應じて、自己に最も適當な方法で、自己を最も切實に且つ有意義に表現した結果と見るより外に見やうがないのである。自分は「豆の秋」の色彩をとくに心持よく眺めた。

[やぶちゃん注:「リーチ氏」バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 一八八七年~一九七九年)はイギリス人陶芸家・画家・デザイナーで美術評論家。日本にたびたび訪問、白樺派や民芸運動にも関わり、「日本民藝館」の設立に加わって柳宗悦に協力したことで知られる。

「アドヷタイザー」“The Advertiser”でイギリスの、広告を主体とした複数の地方紙を包含する新聞の名。

「シヤヷンヌ」ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes 一八二四年~一八九八年)はフランスの画家。ウィキの「ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌによれば、『日本では比較的早くから雑誌『白樺』などで紹介され、当時留学中の黒田清輝らも訪問していた。フランスを代表する巨匠として高く評価され、大規模な壁画の仕事を次々とこなす一方、多数の肖像画も描いた。神々や聖人を描きながらもシャヴァンヌの作品はその芸術が静かに湛える自然の息吹こそが多くの画家たちをひきつけた。パブロ・ピカソもその一人で、美術館に何回も足を運び、シャヴァンヌの絵を模写していたという逸話が残されている』とある。“Le Pauvre Pêcheur「貧しき漁夫」一八八一は私の好きな一枚である。]

 同じ意味から同じ人の描いた「海藻」といふのが自分を引き付けた。是は坊主頭の船頭と其足下(あしもと)にある海藻が、たゞ簡單に寫し出されてゐる丈のスケッチに過ぎないが、自分の所謂奧行を此船頭が何處かに脊負つて立つてゐる樣に感ぜられた。自分は不圖此畫を見た時、虛子の書いた漁夫(れふし)の事を思ひ出した。其漁夫は足下に藻屑の散らばつてゐる砂濱に坐つて、たゞ海の方を眺めてゐるのである。いつ見ても、じつと遠くの海の方を眺めてゐるのである。何か意味がなくてはならないのである。さうして其意味は誰にも解らないのである。

[やぶちゃん注:「虛子の書いた漁夫」古川注に、明治四四()年『四月号『ホトトギス』附録小説に載った写生文「由井ケ浜」の中の漁夫をさす。その中に「他の多くの漁師は絶えず体を動かして働いて居るのに此男は時々ぼにゃりと突立つて居るのである。さうして大きな口に扉の無い微笑を湛へて何を見るとも無く沖の方を見て居る」とある』とある。私は虚子嫌いであるが、この一篇は何時か電子化してみたいと考えている。]

 

        十二

 

 同じ奧行を有つた畫の一として自分は最後に坂本繁次郎氏の「うすれ日」を擧げたい。「うすれ日」は小幅である。牛が一疋立つてゐる丈である。自分は元來牛の油畫を好まない。其上此牛は自分の嫌な黑と白の斑(ぶち)である。其傍には松の枯木か何か見すぼらしいものが一本立つてゐる丈である。地面には色の惡い靑草が、しかも漸(やつ)との思で、少しばかり生えてゐる丈である。其他は砂地である。此荒涼たる背景に對して、自分は何の詩興をも催さない事を斷言する。それでも此畫には奧行があるのである。さうして其奧行は凡て此一疋の牛の、寂寞として野原の中に立つてゐる態度から出るのである。牛は沈んでゐる。もつと鋭どく云へば、何か考へてゐる。「うすれ日」の前に佇んで、少時(しばらく)此變な牛を眺めてゐると、自分もいつか此動物に釣り込まれる。さうして考へたくなる。若し考へないで永く此畫の前に立つてゐるものがあつたら、夫は牛の氣分に感じないものである。電氣のかゝらない人間のやうなものである。

[やぶちゃん注:「坂本繁次郎」「繁二郎」の誤り。坂本繁二郎(はんじろう 明治一五(一八八二)年~昭和四四(一九六九)年)。福岡県久留米市生まれ。母校久留米高等小学校の図画代用教員となった。その後、二十歳の時、上京して、同郷のライバルであったかの青木繁ともに、絵を学んだ。明治四〇(一九〇七)年に「北茂安村」が第一回文展に入選している。大正三(一九一四)年には二科会の創立に参加、大正一〇(一九二一)年に渡仏、大正一三(一九二四)年九月に郷里の久留米に戻ると、以後、東京へ戻ることなく、終生九州で制作を続けた(以上はウィキの「坂本繁二郎」に拠った)。

「うすれ日」個人ブログ「日本歴史と雑事記録」の「うすれ日(漱石の牛)」本画の画像が見られる。私は大変気に入っている一作である。

 なお、私はこの段落は夏目漱石の精神分析というか、病跡学的材料として、極めて興味深いものと考えている。]

 斯ういふ意味で多少自分に電氣をかけた彫刻はたゞ一つしかなかつた。それは朝倉文夫君の「若き日の影」である。さうして其「若き日の影」といふ題を説明するものは一人の若い男であつた。彼は兩肱を後にして立ちながら何かに靠れてゐた。自然の勢として彼の胸は前方に浮かざるを得なかつた。けれども彼の顏は寧ろ俯向いてゐた。彼は逞ましい骨格の所有者ではなかつた。彼の頰が若く柔らかい線で包まれてゐる如く、彼の胸隔の何處にも亦傑張の態がなかつた。要するに彼は強い男ではなかつた。さうして強い人を羨やんでもゐなかつた。唯生れた通りの自己を諦らめの眼で觀じてゐた。自分は彼の姿勢と彼の顏付の奧にある彼の心を見た時、その淋しき瞑想をも見た。さうして朋友としては彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかつた。

[やぶちゃん注:「朝倉文夫」(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年)は「東洋のロダン」と称された名彫塑家。ウィキの「朝倉文夫」によれば、大分県大野郡上井田村(現在の豊後大野市朝地町)生まれ。本姓は渡辺(養子に出た)。当初は俳句を志し、『正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の』九月二十日が『まさに子規の通夜であった』。結局、新進気鋭の彫刻家として既に東京で活躍していた九歳年上の兄渡辺長男の『もとで彫塑に魅せられた朝倉は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに』千二百体以上に及んだ。この頃、『当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し』、一等を射止め、『注目されることとなる』。明治四〇(一九〇七)年、『卒業制作として「進化」を発表し』て『研究科へと進み』、『谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また文部省が美術奨励のために開いていた』第二回文展に「闇

」を出展して最高賞である二等となり、『翌年も「山から来た男」で』三等を得たが、『欧州留学の夢は破れてしまう(当時、連続で』二『等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた』のであった)。明治四三(一九一〇)年、『最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の荻原碌山の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち』、突如、『南洋のシンガポール、ボルネオの視察へと旅立』った。後に朝倉が語った『ところによれば、この旅行は井上馨(当時朝倉は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという)。この際の経験は、後の朝倉に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第』八『回文展まで連続上位入賞を果たし』、第十回文展に於いては三十四歳の若さで『最年少審査員に抜擢されるほどであった』。大正一〇(一九二一)年、『東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮』となった。戦中、『アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために』四百点余の『朝倉の作品はほとんど消滅してしまう』(原型は三百点余が残されたという)。『戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け』、『非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残し』ている、とある。

「若き日の影」これ(所蔵する大分県立美術館公式サイト内)。

「靠れて」「もたれて」凭れて。

「傑張」「けつちやう(けっちょう)」と読むか。優れた張った筋肉を持った体軀の意か。]

 自分の所謂奧行に關する辯と例とは是で略盡きた。繪畫彫刻を通じて、此系統に屬する作は他にないやうである。が、強ひて其匂のするものを求めるならば、黑田淸輝氏の「習作」である。それには橫向の女の胸以上が描いてあつた。女は好い色の着物をたつた一枚肩から外して、裝飾用の如く纏つてゐた。其顏と着物と背景の調子がひたりと喰付いて有機的に分化した樣な自然の落付を自分は味はつたのである。さうして若し日本の女を品位のある畫らしいものに仕上げ得たものがあるとするなら、此習作は其一つに違ないと思つたのである。けれども夫以上自分は此繪に對して感ずる事は出來なかつた。自分の友は女の首から肩のあたりを見て、しきりに堅い堅いと云つてゐた。

[やぶちゃん注:黒田のその絵は。私も惹かれない。確かに漱石の友の言うように「堅い」。]

 友人は南薰造君の「六月の日」の前に來て何うですと聞いた。自分は畠の眞中に立つて德利から水を飮んでゐる男が、法螺貝を吹いてゐるやうだと答へた。それから其男が南君のために雇はれて、今畠の眞中に出て來た所だといふ氣がすると答へた。自分は此間雜誌「白樺」で南君の書いた田舍の盆踊りの光景を讀んで大變面白いと思つたが、此畫にはあの文章程の旨味がないと答へた。

[やぶちゃん注:「南薰造」(みなみ くんぞう 明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)はウィキの「南薫造」によれば、広島県賀茂郡内海町(現在の呉市安浦町)出身の画家で東京美術学校西洋画科出身。でその「六月の日」を画像で見られる。確かに。こりゃ、法螺貝だわ!

『此間雜誌「白樺」で南君の書いた田舍の盆踊りの光景』底本の古川注に、この年(明治四十五年は七月三十日を以って明治天皇崩御により大正に改元)の六・七・九(改元)・十月号に連載した「田舍より」という文章を指す。『その㈣(十月号所載)に「踊り場は汐のヒタヒタ満ちて来る浜辺の広場である、真中には大鼓を着けた台が置かれ二本の高提灯は月夜の中天に高く立てられボンヤリと見える」」と盆踊りの様子が描かれている』のを指す旨の記載がある。]

 「ヒル」といふ人の描いた七面鳥の前に來た時、友人はすぐ、何うしても西洋人だと云つて感心した。自分は後から感心した。其癖此七面鳥は首から肩の邊迄しか描いてないやうに見えた位小さかつたのである。しかも其隣りには不折君の巨人がゐたのである。自分は不折君に、此巨人は巨人ぢやない、たゞの男だと告げたい。きたならしい唯の男だと告げたい。この日本の巨人より、柏亭君の外國の子供の方がまだ偉大であると告げたい。

[やぶちゃん注:「ヒル」底本の古川注に、この第六回文展の『陳列品目録に「習作 英国 レオナルド、ヒル」とあ』る、記す。それが「七面鳥」の絵であるらしい。

「不折君の巨人」同じく古川注に、『この回の文展に出品された中村不折筆「巨人之蹟」をさす』とある。

「柏亭君の外國の子供」「柏亭」は洋画家・版画家の石井柏亭(明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)で、古川氏によれば、この第六回文展に柏亭は「和蘭の子供」を出品、褒状を受けたとある。]

 以上の外に自分はまだ色々の畫を見た。さうして友人と色々の事を語つた。最後に休憩所へ入つた時、自分は茶を飮みながら、この恐るべき群集は、皆繪畫や彫刻に興味があるのだらうかといふ質問を掛けた。友人はさあと云つて逡巡してゐたが、やがて、第一さう云ふ我々は解る方なんでせうか、解らない方なんでせうかと聞き返した。自分は苦笑して默つた。審査の結果によると、自分の口を極めて罵つた日本畫が二等賞を得てゐる。自分の大いに褒めた西洋畫も亦二等賞を取つてゐる。して見ると、自分は畫が解るやうでもある。又解らないやうでもある。それを逆にいふと、審査員は畫が解らない樣でもある。又解るやうでもある。

 

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