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2017/01/16

柴田宵曲 妖異博物館 「狸の火」 パート「Ⅰ」~了

 

 狸の火

 

 刊本「想山著聞奇集」の外に「想山奇著聞集」といふ紛らはしい書名のものがあつて、寫本のまゝで傳はつてゐる。提燈小僧の話はこの中に出て來るのである。

[やぶちゃん注:「想山著聞奇集」は現代仮名遣で「しょうざんちょもんきしゅう」と読み、江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作。動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年の板行。将来的に電子化注を試みたい作品である。

「想山奇著聞集」余りにも似過ぎており、別本とは思われないので調べて見たところ、所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)の「想山著聞奇集」の方の織茂三郎氏の解説に、『写本には、ほかに『想山奇著聞集』と題する一冊本が、無窮図書館(東京都町田市)にあるとのこと。しかし、まだ管見に入っていない』とあるのを見出した。活字化しようという編者が見てないくらいだから、見られないし、活字にもなっていないのであろう。ネット検索でも掛かってこない。柴田の言うように「想山著聞奇集」の方にはそれらしいものはない。]

 何故これを小僧といふのかわからない。本所の石原邊から割下水邊まで、十餘町四方のところに出る化物で、小田原提燈が一つ、自分の前三四尺乃至一二間のところを行く。追へば忽ち消え、振返るともとの通りうしろに在る。此方が歩き出せば、またついて來る。前後左右、自在に出沒するので、正體は結局不明である。本所の七不思議の一つである送り提燈と同じものであらう。

[やぶちゃん注:「石原」「いしはら」。但し、現在の東京都墨田区石原は「いしわら」と読むここ(グーグル・マップ・データ)。

「割下水」南割下水。個人サイト「夢酔獨言」の「本所割下水」が判り易い。前の地図と以下のスケールを援用すると、提灯小僧の出没する大まかな地域が判る。

「十餘町四方」十町は千九十メートルであるから、最大でも千七百四十五メートル四方ほどになるが、現在の石原の長辺が千四十メートルほどであるから、千百メートル四方で採るのが無難か。そうすると柴田の言に従うなら、北の春日通り、南の総武本線をそれぞれの一辺とする正方形の地域を提灯小僧出現領域と考えてよいのではあるまいか?]

 かういふ化物は本所だけには限らなかつた。能登の七尾には燐火の話がいろいろあつて、闇夜茸といふ茸などは、二三本提げて歩くと、三四尺四方は晝のやうに明るい。提燈代用になる便利なものであるが、煮て食へば多く吐瀉するといふ。夜網を打ちに出た人が、水面に落ちた鬼火にざぶと打ちかけると、忽ちに數千萬の小さな光り物となり、網の目を洩れて空へ飛び出した。その樣恰も螢の散亂するやうであつたが、二三丈上つてまた固まり、一團の火となつて飛び去る、といふやうな氣味の惡い話もある。「三州奇談」はこの話に次いで、すゝけ行燈の事を述べてゐる。

[やぶちゃん注:「闇夜茸」は「やみよたけ」と訓じておく。発光性を持つキノコとしては、一般に目にすることの多いものでは、かなり強い毒性を持つ月夜茸(つきよたけ:菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus があるが、本種が発光するのは傘の裏側の襞部分だけで、無論、言わずもがな、「三四尺四方」(九十一センチから一メートル二十一センチ)も明るくなることなどは絶対にあり得ない。後者の生物はもっと判らない。空中に上る以上、ウミホタルなどではないし、原典の筆者がわざわざ「螢」を出している以上(後注の国立国会図書館デジタルコレクションのリンクを参照されたい)、ホタルではないということなのだが、交尾行動をとる際の♂ホタルは想像を絶する群れを成して発光し、活発な飛翔を行うので、ここはそれで解釈は可能のようにも思われる。但し、原典では「汀」「鰡魚」(ぼら)(同前参照)とあるから、海浜或いは河口附近で、これだと、ホタルへの同定はちと苦しくなる

「その樣恰も」「そのさま、あたかも」。

「二三丈」約六・一~九・一メートル。

「三州奇談」これは残念ながら、「續三州奇談」の「六之卷」の「七尾網ㇾ燐」(七尾に燐を網す)に出るもので、私は正編しか持たないのだが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから画像で次の「すゝけ行燈」も含め、全条を視認出来る。思ったより、かなり長い記載である。]

 これは安樂寺といふ寺の前から、寺町へかけて出るもので、毎年四五度は驚かされる人がある。煤びた角行燈の如き灯で、地上五七尺より高くは上らぬ。人が行き違ふ時は暫く消え、去ればまた灯る。また人によつては火が飛び越すこともある。先づ提燈小僧の同類と見てよからう。多くは雨夜に現れるので、「狸貉の類の火と覺ゆ」とある。

[やぶちゃん注:「狸貉」「たぬき、むじな」。]

 七尾の大野といふ家は、怪しい燈が出るので化物屋敷と云はれた。影のやうな人が怪しい燈をともして、屋敷の中を通るので、それを目撃した下女は、庭藏の前で氣絶した。四角な提燈のやうな火が、地上一尺ばかりのところを行くと思つたら、靑い顏をした四角な人が、積んである薪の中に入りました、多分まだあの中に跼んでゐるでせう、といふのである。下男が力を合せて薪を取り除き、家の中隈なく搜したが、何も見當らなかつた。この家は火災の後に建てたので、大野の主人が鄰人の言を聞いて、古木古石の類を取り寄せ、邸内を古めかしいものにしたら、化物も住みよくなつた爲か、その後は怪しい灯も出沒せず、化物屋敷の噂も自然消滅した。

[やぶちゃん注:以上はやはり「續三州奇談」の「六之卷」の「怪飜銷ㇾ怪」(怪、飜りて怪を銷(け)す」の一節。同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

 

「跼んでゐる」「かがんでゐる」。]

 狐火の話は多いが、狸火の方はあまり聞かない。「諸國里人談」や「攝陽落穗集」に見えた攝津國東多村鱣畷(うなぎなはて)の燐火は、人の形を現し、時には牛を牽き火を携へて行くこともある。これを人間と心得て、その火を乞うて煙草をのみ、話しながら行つたりするのに、尋常の人と變ることなく、人に害を與へるといふ噂もなかつた。多くは雨の夜に出るので、土地の人は狸火と解してゐるさうである。

[やぶちゃん注:「攝陽落穗集」江戸後期の浮世絵師で作家でもあった浜松歌国(安永五(一七七六)年~文政一〇(一八二七)年)の地誌風随筆。文化五(一八二二)年自序。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典籍総合データベース」のここで全巻読めるが、影印。労多くして読む人も少なかろうから、当該項を捜すのは諦めた。御自身でどうぞ。

「東多村鱣畷」現在の兵庫県川西(かわにし)市東多田(ひがしただ)附近らしい。

「諸國里人談」前の「怪火」で引いた「卷之三」の怪火条々の中に現われる「狸火」である。同じく吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○狸火

攝津國川邊郡東多田村の鱣畷に燐あり。此火、人の容あらはし、ある時は牛を牽て火を携へ行なり。これをしらぬ人、其火を乞て煙草をのみて相語るに、尋常のごとし。曾て害をなさず。おほくは雨夜に出るなり。所の人は狸火なりと云。

   *]

「兎園小説」に擧げた小右衞門火は大和の話で、百濟の奧壺といふ墓所から、新堂村の小山の墓へ通ふ。大きさは提燈ほどで、地を離るゝこと三尺ばかり、雨のそぼ降る夜は別して多いといふのだから、先づ似たものであらう。奧壺と小山との距離は四十町ばかりであるが、松塚村の小右衞門といふ百姓、この火を見屆けようとしてやつて來ると、火は北から南をさして飛んで行く。小右衞門は南から北へ向いて歩いて來たので、火は小右衞門の前まで來ると同時に、急に高く上つて小右衞門の頭の上を飛び越した。その時流星のやうな音が聞えたが、頭の上を飛び越すと、また以前の如く、地上三尺ばかりのところを飛んで行つた。

 一説によれば、この時小右衞門が杖で打つたので、數百の火となつて小右衞門を取り卷いた。漸く枚で打ち拂つて歸つたが、その夜から小右衞門は病氣になつて死んだ。よつて小右衞門火と名付くとある。「この事凡そ百年ばかり以前にもなるべし」はいさゝか漠然としてゐるが、兎園會の催された文政八年から逆算すると、享保年間の話らしい。その後年を經るに從つて、火の大きさも稍々減じ、出ることもだんだん稀になつた。小右衞門が死んでから、人が恐れて近寄らぬためであらうか、今は遠くからでは見えぬ。もしたまたま見える事があつても、螢火ぐらゐの大きさで、それかあらぬかといふほどになつた、といふ後日譚まで書いてある。小右衞門が杖で打ち、それより病を獲て死んだから、小右衞門の名を負ふやうになつたが、火は無論それ以前からあつたので、恐らく名なしの怪火だつたのであらう。

 本所の提燈小僧以下、列擧したこの類の灯を、全部狸の所爲と片付けていゝかどうか、固より疑問に屬する。暗闇の中にぽつんと現れ、生物の如く自在に動いて、且つ高く上らぬあたり、何となく狸らしいところもある。

   こがらしや宙にぶらりと狸の火 隨古

といふ句は場合がはつきりせぬが、上來の例に照らして考へれば、或點までわかりさうな氣がする。

[やぶちゃん注:「兎園小説」(とゑんせうせつ(とえんしょうせつ))は江戸後期の曲亭馬琴らの編になる好事家の集会「兎園会」の記録や考証を集録した一種の随筆アンソロジー。正編は十二巻であるが、好評につき、他に外集・別集・余録など九巻が続く。文政八(一八二五)年成立。

「小右衞門火」は「兎園小説 第八集」(乙酉(文政八(一八二五)年)秋八月の会合記録)の「竜珠館」(「りょうしゅかん」と読むか。本所三つ目通り富川町に屋敷を持つ禄高千二百石の旗本桑名修理の雅号)の報告記録計三本の内の二番目。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。

   *

   ○小右衞門火

大和國葛下郡松塚村は東西に川あり。西を大山川といふ。此堤に陰火出づ。【出でし初は、いつの頃よりといふを知らず。】土俗は小右衞門火といふ。百濟の奧壺といふ墓所より、新堂村の小山の墓といふへ通ふ火なり。雨のそぼふる夜は分けて出づ。大さ提燈程にて地をはなるゝ事三尺計といふ。奧壺より小山迄は四十町計にて、松塚の面の端は其やしきなり。同村に小右衞門といへる百姓、此火を見とゞけんとて彼所に至りけるに、火は北より南をさして飛び行く。小右衞門は南より北に向ひて步みよりたれば、此火、小右衞門が前に來るとひとしく、急に高くあがり、小右衞門が頭の上を飛び越ゆるに、流星の如き音きこえたり。頭を越ゆると、又以前の如く地を去る事三尺計にて行き過ぎぬ。一説に、此時小右衞門、杖にて打ちければ、數百の火となりて、小右衞門を取り卷きけるを、漸杖にて打ち拂ひ歸りたりといふ。其夜より小右衞門病を發して死す。因りて小右衞門火と名づく。此事凡百年計以前にもなるべし。

此火、年をふるにしたがひて、火の大さもやゝ減じ。出づる事も次第に稀になりたり。小右衞門死してより、人恐れて近く寄らざる故にや。今は遠望にては見るものなし。若たまたま見ゆる時は、螢火計の大さにて、夫かあらぬかといはん程なりといへり。

  此松塚村は、我食邑ゆゑ土俗の物語を能々尋ねきゝたるまゝに書せり。

   *

末尾の二字下げはママ。以下、オリジナルに語注を附す。

・「大和國葛下郡松塚村」「葛下」は「かつげ」と読む。明治後期に北葛城(きたかつらぎ)郡となった。現在の奈良県大和高田市北部の葛城川右岸の大字松塚地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「東西に川あり。西を大山川といふ」遙か北方で分流した曽我川で、現在は東のそれを曽我川、西側のそれは葛城川と呼称しているようである。

・「百濟の奧壺」「くだらのおくつぼ」であろう。不詳であるが、現在の松塚の北の端から約一・四キロメートルの直近の北葛城郡広陵町百済に三重塔で知られる百済寺があるから、この近辺の旧地名であろう。識者の御教授を乞う。

・「新堂村」不詳。ただ、旧葛下郡には「新庄村」「笛堂村」があった。この孰れかの原典の誤記ではあるまいか? 以下の不祥の「小山の墓」が同定出来れば、この疑問も解消する。やはり識者の御教授を乞うものである。後の「松塚の面の端は其やしきなり」とは、松坂村の恐らく南面(みなみおもて)の端の部分は小山村の屋敷森と接している、というような意味ではあるまいか? とすれば「新堂村の小山の墓」なるものは、旧松村の南方(現在は橿原市曲川町)に存在したという一つの仮定は出来そうに思われる。また、別に「小山の墓」という呼称は何らかの古墳の呼称のようにも思われる。奈良は私のテリトリーではないので、ここまでである。やはり識者の御教授を乞うものである。

・「分けて」特に。

・「三尺」約九十一センチメートル。

・「四十町」約四・四キロメートル弱。

・「百年計」(ばかり)「以前」。柴田も計算しているが、報告が文政八(一八二五)年であるからその百年前は一七二六年で、享保十一年頃ということになる。

・「我食邑」「わがじきいふ(ゆう)」と読んでおく。報告者桑名修理が年貢を受ける知行所(村)のことである。

・「獲て」ママ。「えて」(得て)。死んだから、小右衞門の名を負ふやうになつたが、火は無論それ以前からあつたので、恐らく名なしの怪火だつたのであらう。

 

「こがらしや宙にぶらりと狸の火 隨古」作者は湯浅長松庵随古(ずいこ:享保五(一七二〇)年~安永元・明和九(一七七三)年)は京の俳人で与謝蕪村の師であった早野巴人(はじん 延宝四(一六七六)年~寛保二(一七四二)年)の門下。明和六(一七六九)年には明和三~四年に京で巻かれた連句集「平安二十歌仙」(かの江戸の炭太祇(たんたいぎ)及び京の三宅嘯山(しょうざん)との三吟。蕪村が序を書いている)を板行している。この句は同じ柴田宵曲の「俳諧博物誌」(昭和五六(一九八一)年日本古書通信社刊)にも出る。一九九九年岩波文庫刊のそれから評釈とともに引いておく(新字新仮名)。

   *

 

  こがらしや宙にぶらりと狸の火   随古

 

 狐火はいろいろなものに出て来るが、狸の火はあまり聞いたことがない。『古今著聞集』に、水無瀬(みなせ)の山に古池があって、そこでしばしば人が取られる。北面(ほくめん)の武士(ぶし)薩摩守仲俊なる者が、小冠者(こかんじゃ)一人に弓矢を持たせ、自分は太刀だけ携えて闇夜にそこへ出かけると、池の中が光って何者か松の上に飛び移る。弓を引こうとすれば池に飛び返り、弓を外すとまた松に移る。近づいたのを見たら、その光の中に老婆の笑顔がある。この光物の正体が狸であったという話が書いてある。久米邦武博士の「狸絡同異の弁」の中にも、初(はじめ)は糸車を廻す音が聞えるだけであったのが、後には薄ぼんやりした灯のところに誰かがおって、糸車を廻すという話になったと見えている。「宙にぶらり」と現れる狸の火は、恐らく前の光物の類であろうが薄ぼんやりしたものであったろう。この特異な句を以て狸の打止(うちどめ)とする。

   *

 なお、以上の「狸の火」を以って「妖異博物館」のパート「Ⅰ」は終わっている。]

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