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2017/01/02

柴田宵曲 妖異博物館 「一つ目小僧」

 

 一つ目小僧

 

 南海侯が化物振舞に使つた一つ目小僧は、出雲の方にさういふ畸形児のあつたのを、かねがね養つて居られたのださうだから、畸ではあつても妖怪ではない。長塚節の歌に「もののけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事のなき」とあるが、一つ目小僧の話も澤山ありさうに見えて、存外少いやうである。

[やぶちゃん注:「一つ目小僧」未だ作業中であるが、私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で「一つ目小僧その他」の電子化注を進めている。

「南海侯が化物振舞に使つた一つ目小僧」第一章「化物振舞」を参照のこと。

『長塚節の歌に「もののけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事のなき」とある』明治三三(一九〇〇)年の「四月短歌會」の一首、

 

      化物

 ものゝけの三つ目一つ目さはにありと聞けどもいまだ見し事の無き

 

である。]

 四谷の通りに小嶋屋喜右衞門といふ者があつた。麻布の武家に鶉を賣つたところ、代金が不足だから屋敷で渡さうといふことなので、吉右衞門が近所までついでのあるのを幸ひに鶉を屆けた。中の口の次にある八重の部屋に通され、暫くこゝに控へて居れと云つて、鶉は奧へ持つて待つたが、普請前の家らしく、天井や疊に雨漏りの痕があり、敷居鴨居も下り、襖なども破れてゐる。吉右衞門は心の中に、大分不勝手の家のやうだが、小判で拂はなければならぬ鶉の代を、無事に拂つてくれればいゝが、などと考へて煙草を吹かしてゐると、いつの間にかその部屋に十歳ぐらゐの小僧がやつて來た。しかも床の間に掛けてある紙表具の掛物を、くるくると上に卷き上げては、手を放してはらはらと落し、また卷き上げて放す。同じ事を何遍となく繰り返すので、喜右衞門も遂に見かねて、さういふ惡いたづらはせぬものだ、今に掛物が痛んでしまふ、と云つた。その時小僧が一言、默つてゐろ、と云つてふり返つたが、小僧の顏には目が一つしかない。喜右衞門はわつと云つて倒れたなり氣を失つたのを、屋敷の者が驚いて、駕籠に載せて家まで送り返し、鶉の代は先方から屆けて來た。その後も度度使をよこして、氣分はどうかなどと尋ねてくれたが、その使の者の話に、實は自分の屋敷には、一年に四五度ぐらゐ怪しい事がある、この春も殿樣の御居間に小さい禿が坐つて、菓子簞笥の菓子を食べてゐるので、奧方が何者ぞと云はれたら、默つてゐろと云つて消え失せたといふ話である。必ず世間に沙汰せぬやうにして貰ひたい、といふことであつた。喜右衞門も二十日ばかりで元氣になり、その後は何も變つたこともなかつた。平秩東作はかういふ話を「怪談老の杖」に書いて、最後にその屋敷の名も聞いたが、よくない事だから記さぬ、と附け加へてゐる。

[やぶちゃん注:「平秩東作」(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)は戯作者。

「怪談老の杖」平秩の怪談集で現存するのは四巻。推定で宝暦四年成立か。その「卷之一」の「小島屋怪異に逢(あひ)し話」。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

   ○小島屋怪異に逢し話

四ツ谷の通に小島良書右衞門と云人、麻布なる武家方へ鶉を賣けるが、代物不足なれば、屋敷にて渡すべしといふに、喜右衞門、幸御近處迄用事あれば、持參すべしとて、鶉を持行けるが、中の口の次に八疊敷の間のある所に、爰にひかへをれとて、鶉をば奧へもち行ぬ、座敷の體も普請前の家居と見へて、天井、疊の上に雨漏の痕ところどころかびて、敷居、鴨居も、爰かしこさがり、ふすまも破れたる家なり、鶉の代も小判にて拂ふ程なりしかば、喜右衞門心の内に、殊の外不勝手らしき家なるが、彼是むづかしく云はずに、金子渡さるればよきがと、きづかひながら、たばこのみ居けり、しかるに、いつの間に來りたるともしらず、十ばかりの小僧、床にかけありし紙表具の掛ものを、上へまきあぐる樣にしては、手をはなしてはらはらと落し、又はまきあげ、いく度といふ事なくしたり、喜右衞門心に、きのどくなる事かな、かけものなど損じて呵られなば、我等がわざにかづけんもしらず、と目も放さで見て居けるが、あまりに堪(こらへ)かねて、さるわるあがきはせぬものなり、いまに掛もの損じ申べし、といひければ、かの小僧ふり歸りて、だまつて居よ、と云ひけるが、顏を見れば、眼たゞひとつありて、わつといふて倒れ氣を失ひけるを、屋敷の者ども驚きて、駕にのせ宿へ送り返し、鶉の代をばあのかたより爲ㇾ持おこされ、そののちも度々便などおくりて心よきやなど、懇に尋られける、その使の者の語りけるは、必ず沙汰ばしし給ふな、こちの家には、一年の内には、四五度づゝも怪しき事あるなり、此春も、殿の居間に小き禿なほり居て、菓子だんすの菓子を喰ひ居たりしを、奧方の見て、何者ぞ、といはれければ、だまつて居よ、といふて、消てなくなりたりときけり、必だまつて居たまへ、なにもあしき事はせぬ、と語りぬ、喜右衞門は廿日ほどもやみて快氣し、其のちは何もかはりたる沙汰なかりけり、其屋敷の名も聞しかど、よからぬ事なれば、障りてしるさず、

   *

「呵られなば」は「しかられなば」(叱られたりしては)、「沙汰ばしし給ふな」の「ばし」は副助詞で、係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転じたもの。上の語をとり立てて強調する意を表わす。禁止・命令などの文中に用いられることが多い。]

 この話は「半七捕物帳」の中に「一つ目小僧」として使はれてゐるから、知つてゐる人が多いかも知れぬ。捕物帳の性質上、怪談に終始するわけに往かぬので、明屋敷を利用する一種の騙りとし、一つ目小僧で喜右衞門を脅して、駄鶉とすり替へる話になつてゐる。勿論一つ目小僧は妖怪でなしに、片目の小僧按摩で、それが繪具で口を割つたり、象牙の箸を牙にしたりして、威し役を勤めたのである。「怪談老の杖」のは化物屋敷で、一つ目小僧以外にも怪事があつたのを、一切を騙りに轉じて惡黨連中を作り、半七をして名をなさしめたのが作者の趣向であらう。

[やぶちゃん注:岡本綺堂作「半七捕物帳」の「一つ目小僧」は大正一三(一九二四)年七月一日号『サンデー毎日』に初出。作品時制は嘉永五(一八五二)年八月で、ロケーションは四谷伝馬町という設定である。新字新仮名で「青空文庫」のこちらで読める。私は実は総て読んでいる特異的な半七のファンである。]

 江戸に陸野見道といふ流行醫者があつた。或時番町邊の澤といふ家から、内室の病氣を見て貰ひたいといふ使が來たので、四五軒病家を𢌞つた末、日暮になつて漸くその家の玄關に立つた。取次の者の話によれば、主人は公用で出かけて居りますが、もしおいで下さいましたならば、この段を申し上げて、暫くお待ち下さるやう、申し置いて出ました、追付け歸宅致しますから、先づお通り下さいまし、といふことである。はじめて來た家で主人不在なのは困つたが、そのまゝ歸るのも如何かと思つて座敷に通り、その家の樣子などを見てゐると、型の如く十二三の小僧が茶や煙草盆を運んで來る。その立居振舞ひが甚だ氣が利いてゐるので、そなたの名は何と申すかなど、如才なく言葉をかけて手を執つたところ、恥かしさうに赤面して次の間へ逃げて行つた。然るに振り向いた小僧の顏は三尺ばかりもあつて、一つの目が額に在り、鼻が小さくて口が大きい。普通の人ならこれだけで逃げ出すところであつたらうが、見道はなかなか剛氣者で、小僧が消え失せた後も、その座敷に坐つてゐると、やがて主人が歸つて來た。内室の病狀などを一應話した上、時にお顏色が何となくすぐれぬやうにお見受け致すが、どうかなされたかと尋ねたので、見道も小聲になつて、先刻かやうの事があつたと話した。主人は笑つて、さては例の坊主が出て、例の顏を御覽なされたか、いつもいつも罷り出て、知らぬ人を脅しまするが、今日はどんな事でありましたらう、こんな顏ではござらなんだか、といふうちに、主人の顏も三尺ばかりになり、口は耳の根まで裂け、額に一つある目の光りも、前の小僧の比ではない。さすがの見道も魂が身に添はぬ有樣で、玄關に走り出て、居睡りしてゐる供の者を起したけれど、皆已に歸つたらしく、草履取りがたゞ一人ぽつんとしてゐる。何事かございましたかと尋ねるのに答へもせず、駈け出したものの、道の暗いのに困惑してゐると、大丈夫でございます、提燈はここにあります、といふ草履取りの言葉の下から、道は俄かに明るくなつた。これは不思議だと草履取りの方を見れば、その顏がまた三尺ばかりで、「まなこは日月のごとくかゞやき」とあるから、一つ目ではなかつたと見える。見道は遂に昏倒して何もわからなくなつた。

 見遣の家の方では、初めて行つた家から主人の歸らぬのを不審がり、提燈をつけて迎へに行つたところ、晝とは打つて變つた荒屋敷なのに仰天して、近所の町家で樣子を聞くと、あの化物屋敷を御存じないとは、近頃田舍からおいでになりましたか、久しい荒地で、狐狸の住み場所になつてゐる、恐ろしい所でございます、といふことであつた。晝來た時は立派な屋敷であつたのに、さては妖怪の所爲であつたかと、なほ主人の行方を尋ねて千駄谷、大番町あたりを來るうち、鮫ケ橋の物さびしい藪道に、俯伏しに倒れてゐる見道を發見した。介抱の結果、正氣には還つたが、一日二日は茫然としてものも云はず、一箇月以上たつて漸く人竝になつた。これは古狸の惡戲だといふことになつてゐる(怪談登志男)。

[やぶちゃん注:「怪談登志男」「くわいだんとしをとこ」と読む。慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)書いた怪談集。寛延三(一七五〇)年序。私は活字本を所持しないので電子化しようがない。主人公「陸野見道」の読みは現代仮名遣で「おかのけんどう」か。]

 大體の筋道は化物振舞に似てゐるけれど、三度まで長い顏を見せる趣向は、「再度の怪」の條に記す通り「搜神記」以來の手口である。荒屋敷の舞臺には「怪談老の杖」の材料も一服ぐらゐ盛つてあるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「再度の怪」この後の四つ後の条。お待ちあれかし。

「搜神記」世紀の中国は東晋の干宝が著した志怪小説集。]

 以上の常套を破つたのは「常世百物語」にある「一眼一足の化生」であらう。月明かな秋の夜、十五六ばかりに見える喝食が、足早に前の山を駈け下る。容顏美麗ではあるが、目が一つ、足もまた一本しかない。これは叡山の話で、目擊者も一人二人にとゞまらぬらしいが、狐狸の惡戲などではなくだんだん遡れば叡山一流の稚兒物語に歸著する。一つ目小僧の槪念に當て嵌らぬやうでもあり、一つ目といふところから漫然看過しがたいやうでもある。

[やぶちゃん注:「常世百物語」東都隠士烏有庵(詳細事蹟不詳)著の怪談集「万世百物語」か。全五巻。元禄一〇(一六九七)年刊の「雨中の友」の改題本。以下、同「二」にあるそれを「叢書江戸文庫」版を元に正字化して示す。挿絵も附加する。読みは独自に正しく歴史的仮名遣で附した。一部に読みに不審はあるが、注は附さぬ。文体の気品は他の比ではなく素晴らしい。挿絵があるが、面白くないので省略することとした。

   *

 

      一眼一足の化生

 

 あだし夢、叡山中堂に近きあたり、禪學院といふありけり。あまりに中堂にとなり火難あやうしとて、寛文の頃、料など給はりて寺地を五町ばかりへだて移されたりけり。何の權僧都(ごんのそうづ)とかや、はじめて遠國(をんごく)より住(ぢう)し、山のさた覺束(おぼつか)なきほどなり。また弟子に少納言の帥里境坊(そつりぼう)といふなんありける。秋の夜月のあかきころ、近院の衆徒入院(じゆゐん)の悦びにあつまり、酒たふべて遊びける。おりあしう師弟子ともに一度に厠にぞ行きける。山の習(ならひ)、所廣きにまかせ、厠(かはや)に作り崖(きし)にむかひて、戸などいふものもなくいとはれやかなり。月はことさらにさへて、椎柴(しひしば)なら樫(かし)などすべての木草に露きらめきわたり、天にすむうさぎなどいふものゝ毛さきもかぞへつべき。何にくまなき夜のさまなり。まへの山を十五六にも見ゆるかつじきの、あしばやにかけくだるをみれば、顏はめでたけれど目ひとつなるが、厠の口に近寄りて、そとたゝずむ。こはいかにと見れば足もまたひとつなり。おもてあはするよりぞとさむけたち、いかにふためともみられんや。なみなみならばきへも入るべきを、此人尋常にたがひ、法(のり)のみちすぐれて、いとたうときすぎやうじやにて、ことにたゞ人ならねばか、本性(ほんじやう)よくねんじてあられける。かのものまた引き返して、峯にかけのぼり、それよりは行方(ゆきかた)しらずぞなりぬ。帥(そつ)がみたりしも、もとより所のかはりたるに形と時とつゆたがはざりしふしぎなりかし。かれは修行のわかさにぞ、こゑたてぬばかりにおどろきかけ出し、肝きへぬべくありつれと、人にわかわかしうかたるべき事にもなしと、師弟子どもにたがひにかうともいはず。さらぬ風情にもてなし座にぞかへられける。されども何となく心にはかゝりて、それよりものがたりもしめやかならず。賓人(まらうど)のもてなしさへおのづからおろそかになりける。いかに氣もすみ給はずや、夜もやうやうふけぬ。「いざまかでなむ」とて、みなみな歸りにけり。院に仕候の供人(くにん)竹本玄俊(げんしゆん)といへる老法師、此樣を見て、「あやしみいひ出づるこそ稀有(けう)なりけれ。まだ山のほどおぼつかなくおはしなんが、今宵のやう見奉るに、いちでう一眼(ぐわん)一足をみ給ふにや」と、ほゝゑみて問ふ。僧都おどろき、「さていかにぞや。我れ葛河(かつらがは)に住みける程いく度かあらき行(ぎやう)をもなし、おそろしき山をたづねてこもりしが、かゝるあやしきものいまだみず。扨て常にも出づるにや。何のわざぞ」ととふ。少納言もうちきゝ、「今までは我がおくしたる念ゆへにきつねたぬきやうのたぶらかしにぞとおもひし。そこにもみさせ給ふうへ語り出し、おそろしき事のかぎりをもみつ」と、侘びあへる。玄俊聞きて、「一眼一足といへるばけもの、此山にたへて久しき事にて、常は西谷北谷のあいにて、人はおほくみつといひし。されど何の害をなすこともなければ、しれるものはあやしともおそれず。これにあはれなる事候ふは、慈覺大師の御時にてやありけん、橫川禪定院(よかはぜんじやうゐん)に治部卿(じぶきやう)といへる學徒いまそかりける。止觀(しくわん)の學びおこたらず。禪定の窓(まど)の前には三蜜の月あきらかならん事をねがひ、わかきが中にはすぐれたるじちほうの人なれば、末いかならんかしこさともてはやさる。師の御坊もことなるものにぞあいせられける。また西谷の今の行光坊に萬里殿(まてどの)の末の御子於房丸(おふさまる)といへる、やんごとなき人住まれける。優に色あるさますぐれければ、山塔(さんとう)のわかき人々たぐひなき上﨟の筋にめであひ、また家とて和歌のみちさへ情ふかうありつれば、よみすてのたんざくまで、すき人のたぐひはたうときたからのやうにめでけれど、師の御坊腹あしき人にて、たへて他の出入りもゆるさず、ねたみあはれけるとなり。一日大會(だいゑ)の時、治部卿何たるすくせにか、見初めける日よりわりなうおもひまどひ、ちづかの文のたよりをもとめ、細布のあひがたき戀をもしつるに、兒(ちご)もあはれなる方にひかれ、人目の關守いかにしてしのばれけん。ふかうなれむすばれけるを、師の御坊きゝつけ、例のはらあしうにくきものゝしかたと、せちにいかりせめられける。あまりにつよふいさめ給ふとて、いかなる事かせられたりけん。あやまりのかうじて、終になきものにせられける。よさまにはつねの習にいひなし、死骸をふかう埋まれけれど、かくれなきさがなき人のいひあはれぶを、治部卿、かくと聞くより身もあられず、おくれて何せん命ぞと湖水のあわときへける。そのうらみたえずやありけん。今にその執(しう)かくのごとし。念々沒生(ぼつしやう)未來永劫にも罪ふかき物語なり」といひし。

   *]

 伊澤蘭軒が病家を往診した歸り、若黨を從へて兩夜の道を步いて來ると、筍笠をかぶつた童子がうしろから來て、眉を竝べて步きながら、蘭軒に向つて何度も「こはくはないか」と問うた。蘭軒は何も答へなかつたが、先に立つた若黨はその顏を一目見るなり、傘と提燈を拗り出した。童子の目は額の眞中に一つしかなかつたといふのである。この一つ目小僧は河童の化けたもので、蘭軒を脅さうと試みたのであるが、蘭軒は近視のために童子の面を見得ず、一瞥した若黨が恐怖したことになつてゐる。蘭軒はこの事を一笑に附し、これを傳へた鷗外博士も科學者の立場から、「河童が存在するか。又假に存在するとして、それが化けるか。此等は評論すべき限で無い。額の正中に目を開いてゐる畸形は胎生學上に有りやうがない」と眞面目に述べた。

[やぶちゃん注:「伊沢蘭軒」(安永六(一七七七)年~文政一二(一八二九)年)は医師で儒者。以上は森鷗外の史伝「伊沢蘭軒」の「その百九十」の冒頭に出る。青空文庫で読まれたい。

「額の正中に目を開いてゐる畸形は胎生學上に有りやうがない」「額の中央」という位置にやや問題はあるが、先天性奇形の一つで必ずしも稀ではない「単眼症」(cyclopia:サイクロピア)はこれに明らかに相当する。殆んどは出生直後に死亡し、生存率は頗る低いものの、「胎生學上に有りやうがない」という鷗外医師の言葉は誤りである。]

 蘭軒の近親は次男の柏軒に傳はり、その柏軒にもまた怪しい道連れの男に言葉をかけられる話がある。これは獺の怪が恐るべき面貌を見せたのに、柏軒が近視で見得なかつたらしい。父子二代の近視に、似たやうな怪談が傳はるといふのも、興味ある事實であらうが、こゝで蘭軒を脅さうとした一目小僧が、少しく型變りである點に、吾々は特に興味を感ずる。一つ目小僧を認めぬ鷗外博士が、他に類せぬ話を傳へてゐるのが、偶然ながら頗る面白い。

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