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2017/01/20

小穴隆一「二つの繪」(35) 「影照」(10) 「永井・梅原」

 

       永井・梅原

 僕はアンナ・パヴロワが日本にきたときに、芥川に伴れられて帝劇でその「瀕死の白鳥」をみた。僕はハヴロワの踊りを立派だと思つたが、幕合ひに廊下にでようとした芥川が、「あつ! 永井さん」と小さい聲で言ひ、急ぎ足で僕らから十列ばかりうしろの席にゐた永井さんのところにゆき、大層丁寧なお時儀をしてゐた。芥川も黑い服であつたが、立上つた芥川に挨拶をかへしてゐた荷風さんも黑服で立派であつた。その時の有樣はなにか文壇史といつたもののやうに僕の目にいつまでものこつてゐる。芥川はうしろの僕をちよつと荷風さんに紹介すると、步きながら、荷風さんの隣りの席にゐた日本髮の婦人のことを「八重次」と強い小さい聲で教へてゐた。廊下にでた芥川のそのときの顏はほんのりと上氣してゐるやうにみえた。

 

 赤門の前を芥川と步いてゐて、夫人を伴れた梅原(龍三郎)に會つて一度紹介されたことがあつた。芥川は正門のところ近くで、「いま、自分と梅原とをならべて人が比較してゐる、」と言つてゐた。芥川がさう言つてゐた後のことと思ふ。「白衣」が竹の臺の陳列場にならんだとき、梅原の十號ほどのナポリの風景の前に芥川はほんのり上氣した顏をして立つてゐた。

 芥川のあのなにかのときにほんのり上氣した顏、あれはなかなかいい顏であつた。

[やぶちゃん注:来日したアンナ・パヴロヴナ・パヴロワ(А́нна Па́вловна Па́влова 一八八一年~一九三一年)を芥川龍之介が見たのは、宮坂覺年譜では大正一一(一九二二)年九月十日日曜日に推定比定されてある(この日が初日でパブロワ舞踏団の公演は帝国劇場で二十九日まで行われた)。龍之介は翌十月一日発行の『新演藝』で舞台評「露西亞舞踊の印象」(後に「帝劇の露西亞舞踊」に改題)を書いている。それによれば、彼が見た演目は「アマリイラ」「ショピニアアナ」「瀕死の白鳥」であった。前者二作には相当に厳しい批判が加えられているが、「瀕死の白鳥」の『パヴロワの腕や足に白鳥の頸や翼を感じた。同時に又澪やさざ波を感じ』、『耳に聞えない聲も感じた』と絶賛し、『僕は兎に角美しいものを見た』と記している。

「八重次」新巴屋八重次(しんともえややえじ)。日本舞踊家で藤蔭流の始祖として新舞踊を開拓した芸妓藤蔭静樹(ふじかげせいじゅ 明治一三(一八八〇)年~昭和四一(一九六六)年)の芸名。永井荷風の元妻。ウィキの「藤蔭静樹によれば、大正三(一九一四)年、当時、慶應義塾大学文学部教授であった荷風と『結婚したが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、八重次に戻った』(従ってこの時には既に妻ではなかった)。『荷風とは離婚後間もなくして半年ほど縒りを戻し、その後も会うことがあったものの』、昭和一二(一九三七)年以後は全く縁が切れたとある。しかし、『「荷風と別れて馬鹿した」などと生涯』、『惚気を口にし』ていたともある。大正十一年当時、荷風は四十三歳(芥川龍之介より十三年上である)。

『「白衣」が竹の臺の陳列場にならんだ』「竹の臺の陳列場」は上野公園内にあった「竹の台陳列館」。これは明治四〇(一九〇七)年に開かれた東京府勧業博覧会の会場として作られたものが援用されたもので、現在の東京都美術館の前身である東京府美術館が竣工するのは、この後の大正一五(一九二六)年五月のことであった(日本にはそれまで博物館はあっても美術館はなかった)。これはまさに彼らがパヴロワを見た同じ大正十一年九月、九日から二十九日に行われた第九回二科展で、芥川龍之介が小穴隆一の龍之介をモデルとした「白衣」と、この梅原龍三郎のそれ(彼は二科会の設立者メンバーの一人。この芥川龍之介が上気して見つめたというナポリの風景を描いた作品を同定したかったが、この時期の梅原のナポリを描いた作品は複数あり、ネット情報では探り得なかった。なお、梅原はこの年の一月に春陽会を発足している)を見たのは、宮坂年譜によれば、展覧会開催前日の招待展覽で九月八日午後に作者小穴と同伴したとある。梅原龍三郎は龍之介より四歳年上。]

 

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