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2017/01/11

柴田宵曲 妖異博物館 「深夜の訪問」

 

  深夜の訪問

 

 泉鏡花は子供の時以來愛讀した草雙紙の世界から云つて、江戸時代を舞臺に取つた作品がいくらもありさうに思はれるが、意外にそれが少い。その中で「妖劔紀聞」は寛政五年卯月七日の事とはつきり書いてある。然もそのはじめに登場する一人が、「十方菴遊歷雜記」の著者で、大鉛盤(すりばち)小鉛盤といふ關口の瀧を背景に使つたのは、「遊歷雜記」からヒントを得たに相違あるまい。但「妖劔紀聞」の筋そのものは作者の想像の産物で、「遊歷雜記」の記事とは沒交渉である。

[やぶちゃん注:「草雙紙」(くさざうし(くさぞうし))は江戸中期から明治初めにかけて作られた挿絵主体の仮名書きの読み物。子供向けの絵解き本に始まって次第に大人向けのものとなり、浄瑠璃を素材にしたり、遊里に題材を取って、洒落・滑稽を交えるものが出、その後、教訓物や敵討物が流行した。「絵双紙」も同じ。

「妖劔紀聞」(やうけんきぶん(ようけんきぶん))は、大正九(一九二〇)年一月に本作現行の「前篇」部を「江戸土産」という標題で『新小説』に発表、次いで「後篇」部を四月に「新江戸土産」の標題で同誌に載せて完結させた。翌大正十年の作品集『蜻蛉集』(国文堂書店刊)に収録するに際して「妖劔紀聞」前・後篇と改題したもの。岩波版全集では別巻に所収する。人死にが続く小石川関口の大瀧の底から発見される妖刀が、三度に渡って厨子から逃げ出す怪談めいた話から、一転、鳥追いのお町と美少年清三郎の悲恋の物語へと展開する時代物情話譚で、鏡花四十七歳の折りの小品である。時経たエンディングの、夢幻能の如き映像が哀しく美しい。古くからお世話になっている優れた鏡花サイト「鏡の花」のこちらに前・後篇PDF縦書版がある。

「寛政五年卯月七日」グレゴリオ暦一七九三年五月十六日。

『「十方菴遊歷雜記」の著者』隠居した食通の僧釈十方庵敬順(しゃくじっぽうあんけいじゅん)が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に江戸及びその周辺域を歩いて書き溜めた地誌的な匂いもある紀行。ロケーションは確かに同書の「三編 卷之上 第三十八 大洗堰下垢離場瀧本院」である。国立国会図書館デジタルコレクションのここで画像で読める。そこに柴田の言う「大鉛盤(すりばち)小鉛盤」が瀧の少し下方の水底にある『大鉛播(ヲヽホスリバチ)小鉛播(コスリバチ)』」という甌穴(おうけつ)の名称であることが判り、そこには『水虎(カツパ)の棲家と稱して人皆恐怖す、此魔處を能』(よく)『しりて人その邊に遊ばずといへども、かならず年々彼穴へ引込れて命を失ふもの大旨(ムネ)五七人づゝあり、是にようつて寛政年間切支丹やしき破壞(ハヱ)し賜ひける砌、夥しき御捨石を車數輛に積て彼魔穴を埋め賜ひしかど、兩三日の後彼砂石何方へ運び廢せん、貮ツの穴中元の如し』『是奇怪といふべし、今年乙亥』(きのゐ)『初夏より八月に至るまで、能泳ぐもの都合六人亡命せり、但し垢離』(こり)『をとる者に限りて此災害なし』とあるのが、確かに鏡花の創案の根にある(というより、完全にここは食っている)。ネタバレになるので言わんとこ。まあ、お読みなされ。]

「妖魔の辻占」には「甲子夜話」の記事が使はれてゐる。江戸城の大手の石垣から大きな蛇が首を出してゐるのを、鳶が攫んで飛び去らうとし、蛇は鳶を呑まうとする。やゝ久しく爭ふうちに、鳶は次第に石の間に引き込まれ、遂に身體が見えるばかりになつた。その時これを見てゐた人が「やあゝ」と聲を立て、それが御勘定所まで聞えた。――「甲子夜話」の記載はこれだけであるが、「妖魔の辻占」では、その鳶が後に山伏になつて、自らこの顚末を話すことになつてゐる。鳶は人間の氣を奪ふため、殊更に引込まれて見せたのだといふのである。更にそのあとに記された、薩摩の少年が鷲に攫まれ、木曾の山中まで運ばれた話も「甲子夜話續篇」に記されてゐるので、作者がかういふものに目を通してゐた消息はよくわかるが、「妖魔の辻占」全體から云へば、插話として巧みに使はれたに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「妖魔の辻占」大正一一(一九二二)年一月の『新小説』に発表された、途中に天狗と魔界の行者が絡む時代物怪奇綺想小説。比野大納言の隅田川の都鳥所望など、浄瑠璃のような仕掛けが施されてある。先のサイト「鏡の花」のPDF縦書版をリンクさせておく。なお、柴田は「甲子夜話」の二記事をただ小道具に使ったに過ぎぬと言っているが、柴田が指摘する以外にも「甲子夜話」の別話柄が組み込まれてあり、幕府と京の対立構造など、筋や主題に関わる部分の関係性も極めて濃厚である(例えば、殆ど後半のメインと言ってよい都鳥の箇所ははまさに「甲子夜話卷之四十九」の「都鳥の沙汰」に拠っている)。実は「甲子夜話」は鏡花の愛読書だったのである。但し、「妖魔の辻占」が「甲子夜話」を素材としていうことに最初に着目したのは柴田であり、その功は高く評価されなければならぬ(以上は手塚昌行氏の論文「『妖魔の辻占』成立考――泉鏡花と『甲子夜話』」(『日本近代文学』第二十八集所収)をかなり参考にさせて戴いた。ここに御礼申し上げる)。

『「甲子夜話」の記事』これは「甲子夜話 卷之二十一」の「大城の大手にて蛇、鳶を取る事」である。東洋文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、オリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

當三月のこととぞ。大城大手の石垣にて、蛇の石垣の間より出たるを、鳶、摯(とら)んとす。蛇は鳶を呑まんとす。鳶、飛(とべ)ば、蛇、逐(おふ)こと能はず。蛇、石間に入れば、鳶、取(とる)こと能はず。かくすること、良(やや)久(ひさしく)なりしを、何(い)かにしてか鳶、遂に蛇にとられて、石間は引入れらる。立(たち)てこれを見るもの、殊に多し。然るに、やゝ引込れて後は、其體(たい)、纔(わづか)ばかりになりたり。人、愈(いよいよ)見ゐたる中に、其身を没しぬ。このとき衆人、同音にやあゝと云たり。その声下御勘定所に聞へて、皆々驚き何の聲なるやとて、出(いで)てこのことを聞知りぬと云。予嘗て登城せしとき、鍮鉐(あかがね)御門を入らんとするに、數人立停(たちとどま)り仰ぎ見る體(てい)ゆゑ、予も見たれば、石垣の間より蛇出ゐたり。その腹の囘り、九寸餘とも覺(おぼえ)しかりし。去れども、高き所を遠目に見れば、實はいまだ大(おほき)くや有(あり)けん。且(かつ)、その首尾は石間に入りて見へず。卑賤の諸人は止(とま)りて見ゐたれど、予は立留(たちとどま)るべくもあらざれば、看過して行(ゆき)ぬ。大手の蛇も此類(たぐひ)なるべし。

   *

『薩摩の少年が鷲に攫まれ、木曾の山中まで運ばれた話も「甲子夜話續篇」に記されてゐる』これは「甲子夜話篇卷之九十二」の「薩摩領にて十四歳なる子鷲に摑れし事膳所にて少年の馬上なるを摑し事」を指す。東洋文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、オリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した(カタカナのそれは原典のもの)。歴史的仮名遣の誤りはママ。踊り字「〱」は正字化した。

   *

印宗和尚詰る。天保壬辰(みづのえたつ)の夏のこととよ。薩摩領にて、小給の士の子、年十四なるが、父の便(たより)として、書通(しよつう)を持(もち)て、朝五ツ頃と覺(おぼえ)きに、近邊に行(ゆき)けるが、ある坂を越しゆくとき、大なる鷲、空より飛下り、かの悴を摑(つかん)で飛去りぬ。悴は驚きたれど、はや空中のことなれば爲(せ)ん方もなく、始(はじめ)は遙に村里も見へたるが、暫くして見へずなるまゝに、能く見れば渺海の上を行くなり。悴も恐しながら、爲すべきことも無ければ、兩手を懷に入(いれ)て、運命に任せ行くほどに、果しもなければ、片手をそと出(いだ)し見るに、自由なれば、鷲を刺さんと思ひしに、折ふし鷲は大なる木の梢に羽を休めたり。悴は指(さし)たる脇刀(ワキサシ)に手をかけ見しに、殊に高き木末(こずへ)なれば、鷲を殺さば、己(おのれ)は墜(おち)て微塵に成(なる)らんと思ひ、姑(シバ)し猶豫せし中(うち)、鷲、復(また)、飛行(とびゆ)く。やゝ有りて悴、其下を臨むに、程近くして且(かつ)、平地なるを見て、頃(ころ)よしと、脇刀を拔(ぬき)て、胸と思ふ所を後ろさまに突(つき)たれば、鷲、よはるとおぼしきを、二刀(ふたかたな)三刀刺通(さしとほ)せば、鷲、死で、地に落たり。この處、山中なれば、二町許(ばかり)を下りたれど、方角を辨ぜず。又、ふと思ひつきて、立戾り、彼(か)の鷲の首と片翅(かたはね)とを切落し、打負(うちカツギ)て、麓を、と志つゝ下りしに、樵夫(きこり)に行逢(ゆきあひ)たり。樵(きこり)、何方(イヅカタ)の人ぞと云(いふ)ゆゑ、悴、城下へ往く者なり。導(アンナイ)しくれよと賴めば、城下とは何(イヅ)れのことぞと云ゆゑ、城下を知らずやと云へば、曾て知らずと答(こたふ)るゆゑ、悴、立腹して、鹿子嶋(かごしま)のことよ、と云へば、鹿子嶋とは何れの所やと云ゆゑ、悴、心づきて、薩摩鹿子嶋なるが、汝居ながら辨ぜざるか、と云へば、樵、あきれて、薩摩とはこゝより何百里なるや、と云ゆゑ、されば、この處は何處(イヅク)かと問へば、こゝは木曾の山中なり。何(い)かにしてかく分らざることを云やと云ゆゑ、我は薩摩の者なり。鷲に捕(トラ)はれ、かくかくと言て、證(シルシ)にかの首と翅とを出したれば、樵も疑はず、麓に連れ下り、庄屋に此由を訴へたれば、陣屋へ達したるに、人々驚き、醫者など呼(よび)て見せたれど、少しも替ることも無りければ、夫(それ)より件(きだん)の遍歷を問(とひ)たるに、薩州にて鷲に摑れしは朝五ツ過(すぎ)にて、木曾の山中にて鷲の手を離れしは夕七ツ過なりしと。されども暫時と覺へたれば、空腹とも知らずと云ふ體(てい)にて、歸へさんには數百里の處なれば、まづ江都の薩摩屋鋪(やしき)へ送りとゞけたれば、老侯、聽(きき)給ひて、殊に賞感せられしと云。計(はか)るに信濃より薩摩へは、殆ど四百里なるべし。かゝる遼遠を、僅に五時に到りしも、鷲の猛きか、其人の暗勇か。奇事耳(のみ)。

又先年のことにて、江州膳所(ぜぜ)にても、少年の馬に乘りゐしを、鷲摑て空中に飛行(とびゆき)たり。少年、捕はれながら、下を見るに、湖上を飛行(とびゆく)ゆゑ、爲ん方もなくする中(うち)、兩刀、邪魔になるまゝに、刀は脱(ぬぎ)て湖水に投じ、脇指(わきざし)は指(さし)てありしが、後(のち)は陸地の方へ飛行て、鷲も羽や疲れけん、摑し足をゆるめければ、少年は濱邊と覺しき所に墜たり。鷲は其邊りの巖上に飛下り、翅を休むる體(てい)なり。少年も幸(さひはひ)に恙(つつが)なければ、起揚(おきあが)り、鷲を切らんと思ひしが、斯くせば、忽ち、鷲に害せらるべしと、臥たるまゝ、動かず。鷲は動かざるを見て、頓(やが)て少年に飛移り、その面皮を摑み食はんとするを、少年、即(すなはち)、脇指にて切(きり)つけたれば、鷺は切られて斃(たふ)れた り。少年も辛き命を助かり、あたりの人を尋(たづね)て、ここは何れの所なりやと聞けば、若狹の海邊なりしと。是等は近國のことなれど、何れ廿餘里もや往(ゆき)つらん。大鳥の人を捕(とらへ)しは同(おなじ)一事なり。

 予、右の兩事に據(より)て考(かんがふ)るに、驚の摑むは帶の後(うしろ)を摑むなるべし。薩兒、江少年の狀態(かたち)、皆、こゝに止(とどま)る。

   *]

 たゞ唯一の例外として、江戸時代の文獻により、一篇の小説に作り上げたと見られるのは「遊行車」である。この原話は「一話一言」に出てゐる。

[やぶちゃん注:「遊行車」(ゆぎやうぐるま(ゆぎょううるま))は大正二(一九一三)年一月発行の『文藝俱樂部』に発表された女怪時代物怪談。「二た面(ふたおもて)」の後日譚の体裁であるが、「二た面」はこれより後の同年九月の同誌に発表された悪行実録風のもの(黒猫を用いた怪奇趣向はある)で、時系列逆転の公開である(なお、「二た面」自体は「片しぐれ」(明治四五(一九三九)年一月発行の『日本及日本人』で発表された旧作)の改作である)。「遊行車」はネット上では未電子化である。

「一話一言」大田南畝 著になる五十六巻の大著随筆。安永四(一七七五)年頃から文政五(一八二二)年頃までの、筆者が見聞した風俗・流行・事件・天災・幕府の文書などを書き留めたもの。私は所持しないが、以下は同書の「卷十四の」「四谷大番町平岡氏奴僕怪事」を指す。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。原典は実録上申書の体裁で面白い。こちら。怪奇談現代語訳の老舗の個人サイト「座敷浪人の壺蔵」のこちらで現代語訳が読める。]

 この話は四谷大番町に住む平岡家の僕吉平なる者が、雨の晩に使に出て、美しい女に逢つた事からはじまる。最初は女から呼び止めて、自分は大名小路邊まで行くのであるが、傘がないので難儀して居る。もし出來る事ならば、あなたの傘に入れては下さるまいか、といふことだつたので、吉平は承知して一緒に話しながら步いた。女は吉平を恐れる樣子もなく、あなたは御奉公の身分で、夜出かけることもなるまい、自分もちやんとした家の娘であるから、住家は申上げられぬ、これから毎晩八ツの鐘を相圖に、人目にかゝらぬやうに忍んで參りませう、と約束し、門のところで別れた。その夜八ツ半頃(午前三時)に戸の外で源次殿々々々と呼ぶ者がある。源次といふのは在所にゐた時の名で、奉公先では誰も知らぬ筈だから、不審に思つて戸を明けて見たが、一向人影はなかつた。毎晩さういふ事が續いて、二三日たつと八ツの鐘が鳴ると同時に、締めて置いた戸がすらすらと明いて、女が内へ入つて來た。倂し上り端に腰掛けて、いくら勸めても上らうともせぬ。いろいろな事を尋ねても答へず、七ツの鐘が鳴つたら、暇乞ひもせずに歸つて行つた。戸口は宵に掛けた通り、掛金がおりてゐる。それから二三目して漸く上るやうになつたが、親許や家の事を尋ねると、不機嫌で話を外らしてしまふ。行燈をつけて置けば來ず、消して置けば來る。それでも著物の縞柄や顏色まではつきりわかる。晝間御使に出て留守の時など、あたりを綺麗に片付け、圍爐裏には薪を積んで、直ぐ火が付けられるやうになつてゐる。脱ぎ捨てた衣類は袖疊みにしてあるし、草履なども直ぐ穿けるやうに直してある。或晩來た時、溜塗りの箱に上等の煙草を一斤入れたのをくれた。部屋の棚の上にあつた硯箱をおろし、新しい筆を取り出して、卷紙に何か書いてゐたが、これは引き裂いて持つて行つてしまつた。翌朝見れば埃だらけの硯に新しい水が入れてあり、一度も使はぬ筆に墨が付いてゐた。餠菓子を少しづつ買つて置いて食べさせると、殊の外喜んで、明日はお蕎麥でも持つて參りませう、と云つてゐたが、果して約束通り蕎麥を持つて來て、自分も食べ、吉平にも振舞つてくれた。あまり世話になるので、何でも欲しいものがあつたら拵へて上げよう、と云つたところ、簪が欲しいと云ふ。定紋の鎧蝶の付いたのを拵へてやつたら、大變よろこんで居つた。

[やぶちゃん注:「八ツ」定時法で午前二時。少なくとも柴田はそれで計算している。

「七ツ」定時法で午前四時。

「袖疊み」(そでだたみ)は和服の簡易的な畳み方。左右の肩山・袖山を合わせて両袖を重ねて一方に折り、身頃(みごろ)を二つか三つに折る畳み方。袵(おくみ)を中に入れて背縫(せぬい)を外にして両脇縫目を折り重ね、更に両袖を身頃の外側に折り重ねて、最後に身丈を中央から折り重ねる「本畳み」の対語。

「溜塗り」漆の塗りでも最も丁寧な深みのある技法を指す。木地に下地塗りを施した後、朱に染め、その上に透明な漆を厚く塗る。漆の色が濃く、しかも深みのある仕上がりとなる。

「一斤」(いつきん)は六百グラム。

「鎧蝶」(よろいてふ(よろいちょう))は家紋で知られる蝶を図形化した紋様。これ。]

 中間部屋に毎晩夜中に女が尋ねて來るといふ評判が立つたので、平岡家の主人は自分を育てた乳母に命じて吉平を詮議させた。それに對する吉平の申し條が右のやうなものなのである。けれども本人の云ふところだけでは信用がならぬ。平岡家の親類に榎本久次なる者が居つて、是非眞相を見屆けたいといふので、連れ歸つて吉平の傍に寢かせることにした。丑三ツ頃、吉平がびどくうなされて大聲を揚げたから、驚いて呼び起したが、一向氣が付かない。火を打つて行燈ともして見れば、吉平は大汗になつてゐる。水を飮ませて漸く正氣付いたので、どうしたかと尋ねると、惜しい事をなさいました。只今例の女が戸を明けて上り口まで參りましたのに、あまりお騷ぎなさるものですから、歸つてしまひました、と云ふ。女の來る時はいつもそんな風かと尋ねたところ、女が戸を明けますと、ぞつと寒氣がして苦しくなりますが、傍へ參ればこはい事も忘れて、いつもの通り話します、といふことであつた。それからまた灯を治して睡つたが、半時ばかりすると、吉平は前よりも烈しくうなされ、大聲で泣き出した。こゝだと思つて隱し持つた一刀で切り拂つたら、猫ぐらゐの黑いものが上り口から飛び下りて、緣の下へ逃げ込んだ。灯をつけて見ると、上り口に今までなかつた菖蒲革染の手拭が落ちてゐる。吉平を起して尋ねれば、これは自分の手拭で、一昨日女に貸したのです、今夜來た時この手拭を肩に掛けて居りました、と云ふ。やがて七ツの鐘が鳴つたので、女はもう現れなかつた。榎本久次は一睡もせずにゐたが、何分暗い中の事なので、萬一吉平に怪我でもさせてはならぬと思ひ、蹈み込んで働き得なかつたことを殘念がつた。

[やぶちゃん注:「丑三ツ頃」定時法の午前二時頃。先の定時法での「八ツ」に同じい。

「半時」現在の一時間相当。

「菖蒲革染」(しやうぶがはぞめ(しょうぶがわぞめ))本来は型染めの藍革(あいがわ:藍色に染めたなめし革)の一つ。地を藍で染め、ショウブの葉や花の文様を白く染め抜いた鹿のなめし革。「菖蒲」の音が「尚武」に通じるところから、多く武具に用いたが、後にはそれに似せて染めた布地を指すようになった。]

 かういふ夜中の訪問者は、「牡丹燈籠」のお露のやうな幽靈か、さもなければ狐狸の類と相場がきまつてゐる。女の來はじめたのは三月二十九日からで、吉平自身も多少怪しく思つたか、四月八日頃、この長屋に女の方のお亡くなりになつたことがございますか、と乳母に尋ねたさうである。平岡家では對策として、鎭守八幡のお札、大山石尊のお太刀、嘗て御鹿狩の時に使つた竹槍などを貸與したら、その晩女は現れなかつた。倂し鄰りの明長屋へ來て殊の外恨み、取り殺しもしかねまじき樣子であつたので、お札、お太刀、竹槍の類は、主人に知れぬやうにどこかへ隱してしまつた。隱せば女はやつて來る。平岡家の主人は、打ち解けたやうに見せて、細引で女を縛れと命じたが、たとひ御主人のお云ひつけでも、縛ることは出來ません、と吉平は答へた。最後の手段として出入りの山伏を賴み、加持させて見たら、その夜は夜明けまで無事であつた。たゞ吉平があとで傍輩の女に話したところによれば、加持の間、女は自分の傍に坐つてゐたが、大分苦しいらしく、顏から汗を流して折々恨めしげに睨んでゐたさうである。だから吉平は加持祈禱をよろこばぬ。この調子ではなかなか本心に立ち還るまいと思はれるので、平岡家では四月二十日に暇を出した。その朝請人に引き渡したのに、晝頃また飛び出して、それきり消息は不明になつた。

「一話一言」の記載はほゞ右の通りである。「遊行車」の作者は豐富な想像を縱橫に驅使してゐるが、大體の筋は「一語一言」に據つたのみならず、取り入れて然るべき小道具は悉く活用してゐる。この中間の到達點が死であることは論ずるまでもないとして、鏡花は最後に墓穴の中で祝言しようといふ一趣向を持ち出した。中間の運命は萩原新三郎と似たものである。「一語一言」の女は狐狸か妖怪變化としか考へられぬのに、鏡花は「遊行車」の結末を「なよやかな片手で、おくれ毛を搔きながら、悠然と手を曳かれて。――この邊の寮の女であつたとも言ひ傳へる」といふ一句で結んだ。怪を好む作者が意表に出たのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「萩原新三郎」言わずもがな、「牡丹燈籠」の主人公。]

 

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