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2017/01/02

柴田宵曲 妖異博物館 「大入道」

 

 大入道

 

 大入道といふのは元來妖怪族の專有に歸すべき稱呼ではない。人間の中にも大入道と呼ばれた者はいくらもある。文科大學長から帝大總長になり、更に文部大臣にまで進んだ外山正一博士なども、學生から大入道と云はれた。或時出席を待つ學生が、大入道今日は來ないぞ、と云つてゐるところへ、當人の博士が、大入道來たぞと云つて姿を現したといふ逸話もある。さういふ大入道は一切除外して、こゝでは妖怪族の詮議に取りかゝる。

 三州吉田(豐橋)の善右衞門といふ古著屋が、馬子のいふまゝに池鯉鮒の近所から名古屋へ出る在鄕道をやつて來ると、途中に烏頭村といふところがある。お定りの夜道で、俄かにつむじ風が吹き起り、乘つてゐた馬が足を折つてうづくまる。善右衞門も馬子も氣持が惡くなつて、覺えず地に伏した時、小松の中から一丈三四尺もあらうといふ大入道が、爛々たる眼を光らせながら步いて來る。地に伏した兩人には氣が付かず、どこかへ行つてしまつたが、間もなく兩人も本性に復り、馬も立つて嘶きはじめた。それから一里餘り行くと夜が明けたので、民家に立寄つて一服し、この邊に天狗とか何とかいふやうな、怪異はないかと尋ねると、何分山中でありませんから、さういふ話は聞きません、といふ。烏頭村で化物に逢つた話をしても、それは不思議です、多分昔から申す見越入道でございませう、と笑つてゐる。名古屋に著いて用事は濟ましたが、發熱頭痛が甚しい。通し駕籠で吉田に歸り、醫者にかゝつて服藥したけれども、更に驗が見えず、たうとう十三日目に亡くなつた。出逢つた化物は疫病神であらうといふ話であつた(煙霞綺譚)。

[やぶちゃん注:ウィキに「見越し入道」があり、また、アート・ウィキにも各地方の本章引用の記事の、現代語訳を含む「見越し入道」のページがある。

「池鯉鮒」「ちりふ(ちりゅう)」と読む。東海道五十三次三十九番目の宿場であった池鯉鮒宿のこと。現在の愛知県知立市内。

「在鄕道」本街道でない、地方の田舎道。

「烏頭村」「うたうむら」。現在の熱田区熱田西町字烏頭(うとう)か?

「一丈三四尺」三メートル九十五センチメートルから四メートル二十五センチメートル。

「煙霞綺譚」は「煙霞綺談」のこと。遠州金谷宿の西村白鳥(天明三(一七八三)年に七十有余歳で没した)の記した三河遠江附近の実説及び俗談集。以上の話は、同作の「卷之四」の巻頭にある話柄の前半部。以下に所持する吉川弘文館日本随筆大成版を元に恣意的二正字化して示す。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附し(底本の送り仮名の歴史的仮名遣には原典由来の多数の誤りがあるため、採用していない)、読点を追加した。注は附さぬ。

   *

○世に怪力亂神を語る事を禁(きんず)るは、其事に附會の説を副言(ふげん)する故(ゆゑ)、實(じつ)を失(うしなふ)を以(もつて)なり。正しくありし事、語るまじきにもあらずかし。去ル正德の比(ころ)、三河吉田町に善右衞門と云(いふ)古手商賣の小商人(こあきんど)あり。此者、武家方より幕を五張(はり)請負(うけをひ)しが、吉田にて三張調へ、餘(よ)は岡崎町へ求めに行しが、不調(ととのはず)して、名古屋へと志し、大濱茶やに到れば、日晡(じつほ)に及び、しるべの茶屋に一宿しぬ。折ふし中秋の長夜なれば、名古産までの通し馬を借(かり)、夜半大濱を出(いづ)る時に馬奴(うまやつこ)がいふ、池鯉鮒(ちりふ)の近所より名古屋傳馬町へ在鄕の捷徑(ちかみち)あり。我等案内をよくしりたり、此道を參りたしといふ。夫(それ)こそ幸(さひはひ)なれとて、彼(かの)在道へかゝり行(ゆき)しに、烏頭(うたう)村といへるに、少し小松ありて薄(すすき)など生(おひ)たるひろき野あり。其所へ至れば、俄(にはか)に旋風(つぢかぜ)吹來(ふききた)り、乘(のり)ける馬の足を折(をり)て地にうづくまる。其時、善右衞門も馬奴も同(おなじ)く氣分あしく、蒙々虛々となりて、覺へず、地にふしぬ。時に小松の所より、其長(たけ)壱丈三四尺程の仁王のごとき大入道、眼のひかりは百煉(ひやくれん)の鏡にひとしきが步み來る。兩人ともにいよいよ腕※(うろうろ)して、地に伏居たれば、彼化物、程なく過行(すぎゆき)けり。程過て兩人ともに本性となれば、馬も立て嘶(いななき)たり。夫より一里餘も行たれば、漸(やうやく)夜もあけて、民家へ立(たち)よりたばこなど吸(すふ)。そこの主に問(とふ)、此あたりに天狗又は怪異の物ありやといへば、亭主の云(いふ)、此邊りは山中にあらざれば、天狗其餘(よ)怪物なしといふ。烏頭村にて化物にあひたる事を語れば、それは不思議也、天狗にもあるまじ、昔よりいふ山都(みこしにふだう)と云ものならん、と笑ふ。かくて名古屋の問屋に着、馬奴をかへし、幕を調へ、兎角するに食事一向すゝまず、發熱頭痛甚だし。近所の醫を招き見せしに、時疫(じえき)の脉躰(みやくてい)なり、伏熱(ふくねつ)あればおぼつかなし、といふ。途中にて化物に逢し事を語れば、藥を加減して用ゆれども驗(しるし)なし。故に吉田まで通し駕(かご)を雇ひ、翌日、たちかへる。しかれども、ますます熱氣つよく、医者を引(ひき)かへ、服藥すれども、快よからず。終に十三日目に相果(あひはて)たり。化物は疫病の神なるべしといふ。

   *

文中の「※」は(「月」(へん)+「丸」(つくり))という字である。]

「老媼茶話」を讀むと、猪苗代城の化物を記した條に、柴崎又左衞門といふ者が、三本杉の淸水の側で、眞黑な大入道の水を汲むのを見た。直ちに刀を拔いて切り付けたところ、大入道は行方不明になつた。久しく程過ぎてから八ケ森に、大きな古貉の死骸が腐つてゐるのを、猪苗代木地小屋の者が見付けた。爾來怪事は絶えたとある。

[やぶちゃん注:「老媼茶話」「らうあうさわ(ろうおうさわ)」と読む。三坂春編(みさかはるよし 元禄一七年・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が会津地方を中心とする奇譚を蒐集した書。寛保二(一七四二)年の序を持つ。以上は同作の「卷之三」の冒頭に出る。国書刊行会の叢書江戸文庫版を参考に、恣意的に正字化し、一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附し、読点・濁点を追加した。注は附さぬ。

   *

 

    猪苗代の城化物

 

 加藤左馬助嘉明(よしあき)、同式部少輔明成(あきなり)御父子の節、猪苗代御城代、堀部主膳、相(あひ)つとむ。祿壱萬石。寛永十七年十二月、主膳、只壱人、座敷に有(あり)ける折、いつくともなく禿(かむろ)、來りて、「汝久敷(ひさしく)此城に有(ある)といへ共、今に此城主に御目見をなさず。いそぎ、身をきよめ、上下(かみしも)を着し來るべし。今日、御城主、御禮、請(うけ)させらるべし、との上意也。敬(うやまひ)て御目見へ可仕(つまつるべし)」と云(いふ)。主膳、聞て禿を白眼(にらみ)、「此城主は主人明成、當城代は主膳也。此外に城主あるべき樣(やう)、無し。につくきやつめ」と禿をしかる。禿、笑(わらひ)て、「姫路のおさかべ姫と猪苗代の龜姫をしらざるや。汝、今、天運すでに盡果(つきは)て、又、天運のあらたまる時を知らず。猥(みだり)に過言(くわごん)を咄出(はなしいだ)す、汝が命數もすでに盡(つき)たり」と云(いひ)て消失(きえうせ)たり。

 明る春正月元朝(ぐわんてう)、主膳、諸士の拜禮を請(こは)んとて、上下を着し、廣間へ出(いで)ければ、廣間の上段に新敷(あたらしき)棺桶をそなへ、其側に葬禮の具、揃置(そろへおき)たり。又、其夕べ、いづく共知れず、大勢のけはいにて餠をつく音せり。正月十八日、主膳、雪隱より煩付(わづらひつき)、廿日の曉(あかつき)、死たり。

 其年の夏、柴崎又左衞門といふ者、三本杉の淸水の側にて、七尺斗なる眞黑の大入道、水をくむを見て刀を拔(ぬき)、飛懸(とびかか)り切付(きりつけ)しに、大入道、忽(たちまち)行衞(ゆくゑ)なく成(なり)たり。久しく程過(すぎ)て、八ヶ森に大きなる古むじなの死骸のくされて有りしを、猪苗代木地小屋のもの見付(みつけ)たり。夫(それ)より絶(たえ)て何のあやしき事なかりしといへり。

   *]

 同じ書にもう一つ、飯寺村の庄九郞は小力があつて、角力も取れば、米も五六俵は背負ひ步くといふ男であつたが、この男の出逢つた大入道の話が出てゐる。雨のそぼ降る黃昏に宿を出て、弘眞院の北の道を通ると、荒神堂の大杉の下に、何やら白いものが見える。立ち止つてよく見たら、顏の長さ三尺ばかりもある女であつた。竹杖をつき、髮をふり亂し、眼は皿の如くで、帷子(かたびら)をかぶり、待て待てと云つて來る。庄九郞は剛氣の男だから、脇差に手をかけ、おのれ何用があるぞ、といつて足早に通り過ぎた。歸りにこの道を通つて御覽、その時思ひ知らせるから、と女が云ふのを聞かぬふりで、親類の家に著いたが、皆庄九郞の顏色を見て、途中で口論でもしたかと尋ねる。今出遭つたあらましを話せば皆驚いて、あの邊に化物が出るといふ噂は本當であつた、歸りは道を替へて歸つたがいゝと注意したけれども、庄九郞は聞かず、化物が出たところで構はない、近道だから前の道を行かう、と云つて歸つて來た。倂し夜も已に更けて居り、臆病風は立つてゐたのである。女は目早く庄九郞を認め、そいつが先の男です、取り遁しなさるな、といふや否や、眞黑な大入道が大手をひろげて飛びかゝつて來た。庄九郞は日頃の剛氣どこへやらで、田も畑も一散に逃げ出し、自分の家の戸を蹴放して入ると同時に氣絶してしまつた。四五十日も床に就いて、漸く平生に復したが、それからは全くの臆病者になり、日が暮れると外へは出られぬほどであつた。この話は少しく龍頭蛇尾の嫌ひがある。庄九郞を脅かした大入道の正體は何であつたか、無論わからない。

[やぶちゃん注:ここに出るのは以下。先の話と同じ「卷之三」の少し後にある。仕儀は同前(最終一文の「夫(ブ)」(武士の意であろう)のカタカナは原典のもの)。

   *

 

     允殿(じようどの)館大入道

 

 飯寺村庄九郎と云もの、小力有て相撲なとも取(とり)、米も五六俵背負ひありくもの也。此もの、南町といふ所に親類有(あり)。行(ゆき)て叶はぬ用有て、雨のそぼ降(ふる)黃昏(たそがれ)に宿をいで、中野の十文字原に懸り、允殿館弐ッ五輪の前より成願寺前へ出(いで)んと、弘眞院(こうしんゐん)の北の細道をとほるに、荒神堂の大杉の本に、白き物、見ゆる。庄九郎、怪敷(あやしく)おもひ、立留(たちどま)り能(よく)見るに、かの者、間ぢかくきたるを見れば、面(おもて)の長さ三尺斗(ばかり)有(ある)女、竹杖(ちくじやう)を突(つき)、髮を亂し、眼(まなこ)は皿のごとくにて、かたびらをかぶり、「まてまて」と云(いひ)て來る。庄九郎、したゝかものなれば、少(すこし)も臆せず、脇差に手をかけ、「おのれ、我に何用有るぞ」と足早に行過(ゆきすぎ)る。彼(かの)女いふ、「歸りに此道を通り見よ。其時、思ひしらせん」と云。庄九郎、是を聞かぬふりにて南町の親類の方へ行(ゆく)。

 折節、近くより、人數多(あまた)打寄居(うちよりゐ)たりけるが、庄九郎が顏色を見て、「其方が色あひ、常ならず。道にて口論にてもせぬか」といふ。庄九郎、右のあらまし語りけれは、何(いづれ)も驚(おどろき)、「允殿館には化物有りといい傳ふるは誠にて有りし。必(かならず)歸りには晒屋町へ出(いで)、湯川を渡り、石塚前より材木町出、歸るべし」と云。庄九郎、元來、じやう、こわきものなれば、「もとの道を歸らずは臆病なりと、わらはるべし」と思ひ、「たとひ化物出たりとも何事のあるべき。近道也。先の道を歸るべし」とて、もと來る道を歸るに、夜も深々と更過(ふけすぎ)、杉の木梢(こずえ)をわたる風、身に染々とおそろしく、頭の毛、立(たち)のぼる心持するに、道の傍に先の女、立居(たちゐ)たりけるが、庄九郎をみて、「それこそ、さきの奴(やつ)め。それ、とり逃し玉ふな」と、こと葉を懸るに、眞黑なる大入道、大手をひろげ、飛(とび)て懸りける。庄九郎、此時、日頃の強氣(ごうき)、失(うせ)、ころぶともなく走(はしる)ともなく、田も畑も一散に飯寺村へかけ付(つけ)、戸を蹴放(けりはな)し内へ入(いり)、氣を失ひ、死入(しにいり)ける。

 其後、四、五十日打伏(うちふし)、氣色、常のごとくに成(なり)にけるが、夫(それ)より、大臆病ものと也(なり)、氣、拔(ぬけ)て、日暮は外出もならぬやうに成(なり)たり。その明る春、夫(ブ)に指され、江戸登り半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける。

   *]

「甲子夜話」の傳へたのは古い話で、武田信玄の家人に何の兵助といふ者、一日山路を行つたところ、野狐が大入道になつて出て、汝の刀は刃切れがあつて役に立たぬぞ、といふ。兵助しづかに顧みて、刀に刃切れはあらうとも、武士の心中に刃切れはないと答へ、貪著せずに通り過ぎたので、狐も何の崇りをしなかつた。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」は全巻を所持し、電子化注も行っているが(未だ第三巻)、通読しておらず、膨大なので当該条を探している暇がない。発見次第、追記する。]

 この話は明らかに狐と書いてゐる。以上の大入道はいづれも妖味十分であるが、神祕的なところはない。たゞ一つの例外と見るべきは「月堂見聞集」の記載で、享保八年九月二十五日の夜、江州伊吹山の麓に大雨があり、然る後野中から大入道の如きものが出た。左右に松明(たいまつ)の如き火が連なり、一列になつて伊吹山に上る。村民は口々に、地震ではない、外へ出るな、と叫んだが、暫時にして靜まつた。村の老人の話によると、この事は五六十年に一度ぐらゐある、昔から伊吹の明神が湖中より出現して登山したまふ、と傳へてゐるといふことであつた。その跡は湖邊より山上まで、田畠も草木も一筋に燒けて、凡そ三間餘の幅で一里半餘も續いてゐたさうである。こゝに到ると形が大入道に似てゐたといふだけで、百鬼夜行中の代物ではない。あらゆる怪異を慴伏せしむべき威力を具へてゐる。

[やぶちゃん注:「月堂見聞集」「げつだうけんもんしふ(げつどうけんもんしゅう)」と読む。本島知辰(月堂)著になる元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの見聞雑録随筆。江戸・京・大坂を主として諸国の巷説を記し、その内容は政治経済から時事風俗にまで亙る。自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記してあり、大火・地震・洪水の天災を始め、将軍宣下・大名国替・朝鮮人や琉球人の来聘、知られた事件や一揆などをも記す(以上は吉川弘文館「国史大辞典」に拠る)。

「享保八年」一七二三年。

「地震ではない、外へ出るな、と叫んだ」プレ記載がないが、ということは、大雨の後に、大きな地鳴りや山鳴り及び実際の振動が体感されなくては、こうは言うまい。

「三間」約九メートル十センチ。

「慴伏」「せふふく(しょうふく)」と読む。「勢いに恐れてひれ伏すこと」で、「懾服」「懾伏」等とも書く。]

 京都の大宮四條坊門のあたりに住む、和泉屋介太郞といふ者が、夜更けに外から歸つて來て、門を慌しく敲くので、驚いて明けたところ、内へ入ると同時に氣を失つた。氣つけ藥などを飮ませ、漸く生き返つてからの話に、月の薄暗い道を歸つて來る途中、或辻で身の丈三間餘りもある大坊主が、うしろから迫つて來た、さあ大變だと思つて逃げ出すと、愈々急に追駈けたが、この門口まで來たら見えなくなつた、といふことであつた。この話を傳へた「百物語評判」は、志怪の書にして妖怪批判を兼ねてゐるから、介太郞の逢つた大坊主に對し、次のやうな見解を述べてゐる。これは一名を高坊主と云ひ、野原や墓原などでなしに、在家の四辻、軒の下の石橋などから出るといふ。臆病風のついた人が夜道をとぼとぼ歸つて來る際、自分の影法師を見誤つたものであらう。その證據にはこの大坊主は前からも來ず、脇からも來ず、必ずうしろから現れる。四辻や門の出入口、或は夜番の火の光り、月星のおぼろな影に、影法師が丈高くうつるのを見て、びつくりして氣を失ふらしい。坊主に見えるのは、もともと影法師の事だから、形がはつきりせぬのであらう。――極めてはつきりした、理詰めの解釋である。この事には大入道と云はず、見越し入道と記されてゐる。見越しといふのは物の上に高く姿を現す者の稱で、見越しの松なども同じ意味と思はれる。

[やぶちゃん注:「大宮四條坊門」「おほみやしでうばうもん(おおみやしじょうぼうもん)」現在の京都府京都市下京区坊門町附近。(グーグル・マップ・データ)。北で綾小路通りを隔てて四条大宮町に接する。

「百物語評判」「古今百物語評判」の短縮呼称。江戸前期の俳人で仮名草子作家であった山岡元隣(寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)の遺稿による怪談本。四巻。元隣没後、息子山岡元恕による整理・補筆を経、貞享三(一六八六)年に板行された。柴田も述べているように、各話にかないくだくだしい元隣の解釈が附帯する。そのため、怪異性が著しく殺がれてしまっており、今一つ、私の触手は伸びぬ百物語怪談本である。叢書江戸文庫版を元に同前の仕儀で当該箇所(「卷之一 第六 みこし入道幷和泉屋介太郎事」)を電子化する。

   *

 

     第六 見こし入道和泉屋介太郎事

 

 一人のいはく、「さいつ頃、大宮四條坊門のあたりにいづみや介太郎(すけたらう)とかやいふ者、夜更(よふけ)て外より歸りけるに、門あはたゞしく叩きければ、内より驚きてあけぬ。さて介太郎、内へ入るとひとしく、人心(ひとごころ)なし。さまざまの氣つけなど呑ませければ、漸(やうや)うに生きかへりて云ふやう、『我れ、歸るさに月うそぐらく、もの凄(すさ)まじきに、そこそこの辻にて、みかさあまりなる坊主、後(うしろ)よりおほひ來たりし程に、すはや、と思ひて逃げければ、いよいよ急に追ひかけしが、此門口にて見うしなひぬ。其れ故かくのごとし』と云ひければ、聞く人、皆、驚きて、『扨々あやうきことかな。それこそ見こし入道にて候はん』と云ひて、舌(した)ぶるひしてけり。此事、まぢかき事にて、その入道に逢ひし人、唯今もそこそこに」と云へば、一座の人、「何(いづ)れに怖しき事かな」と云へるに、先生、評していはく、「此もの、むかしより一名を高坊主(たかばうず)ともいひならはせり。野原墓原などにもあらず、たゞ在家の四辻(よつつじ)、軒の下の石橋(いしはし)などの邊(ほとり)より出づると云へり。是れ、愚なる人に臆病風のふき添ひて、すごくありける夜道に、氣(き)の前より生ずる處の影ばうしなるべし。其(その)故(ゆゑ)は、此者、前よりも來たらず、脇よりもせまらず、後(うしろ)より見こすと云へば、四辻門戸(もんこ)の出入り、あるひは夜番(よばん)の火のひかり、月星(つきほし)のかげ、おぼろなるに、わが影法師、せい高くうつろふと、さてこそと思ひ、氣をうしなふとみえたり。坊主とみゆるは元より影ばうしなれば、其形(かたち)、さだかならぬなるべし。介太郎も此類(るい)にて侍らん。もろこしにても、日中(にちちう)におのれが影をおそれて、逃げたる者ありと、漆園(しつゑん)老人もかきしとかや」。

   *

文中の「みかさあまり」岩波文庫の「江戸怪談集(下)」の高田衛氏の脚注では、『三乗(みかさ)あまり。三丈余りの』とある(但し、「三間」と「三丈」は同値)。「氣の前」は「気の持ちよう」の意。「漆園老人」荘子の別号。荘子は若き日に生地蒙で漆園を管理するの級役人を勤めていたことに由来する。]

 この大坊主に就いて思ひ出すのは、三村竹淸氏が嘗て書いた江戸の話である。小石川富坂下に住む武士が、淺草觀音の年の市へふらりと出かけ、用もないのに冷かした大杓子を賣り付けられて、襟にさしたまゝ歸つて來る。十八日の明るい月をうしろから浴びて、富坂にさしかゝつた時、彼方の高塀に大入道の姿が現れた。腰の一刀を拔く間もなく、一目散に坂を駈け下りて、自分の家の門を入らうとすると、追ひすがつた化物に襟髮をつかんで引き戾された。門のくゞりに大杓子が支へたとは氣が付かず、その場に倒れたのを、近所の人々に介抱されて息を吹き返した。これは和泉屋介太郞と同工異曲であるのみならず、「百物語評判」の解繹を事實の上に證明するものでもある。人間は時代と共にそれほど進步するわけではない。襟にさした大杓子といふ景物があるため、江戸らしくもなり、漫畫的氣分も加はつてゐる。

[やぶちゃん注:「三村竹淸」(みむらちくせい 明治九(一八七六)年~昭和二八(一九五三)年:本名は清三郎)は日本の書誌学者。竹問屋を営んでいたことから「竹清」と号した。柴田宵曲も交流があった。

「支へた」「つかへた」。]

 

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