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2017/01/28

柴田宵曲 妖異博物館 「蟒と犬」

 

 蟒と犬

 

 筑前國秋月の城下から一里ほど來た松丸といふところに、十國峠といふ山がある。こゝに古い塚が三つあつて、一は獵夫、一はその妻、一は獵犬の墓と傳へてゐる。そのいはれは嘗て獵夫がこゝに憩うた時、連れてゐた犬が獵夫に向つて頻りに吠え立てる。あまりうるさいので、遂に怒りを發し、鐡砲で擊ち殺してしまつた。然る後ふと頭上を見れば、蟒(うはばみ)が樹上より獵夫を呑まうとしてゐたので、犬はこれを告げたものとわかり、犬を殺したことを悔いて自殺し、その妻は夫の跡を追つて自殺した、といふに在る。松浦靜山侯はこの話を、秋月の士で僧になつた大道といふ人から聞いて、「甲子夜話」に錄してゐる。夫妻ともに犬に殉するのは珍しいが、それは人心の淳朴と、哀傷乃至悔恨の深かつたことに歸すべき問題であらう。蟒は獵夫の銃に斃されたのかどうか、その邊は書いてない。

[やぶちゃん注:原典は所持するが、調べるのが面倒なので、何かの折りに見出したら追記する。

「筑前國秋月の城」現在の福岡県朝倉市野鳥(のとり)にあった秋月(あきづき)城。江戸時代は福岡藩の支藩であった秋月藩の藩庁で、黒田氏が居城した。(グーグル・マップ・データ)。

「松丸」現在の朝倉市松丸。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 靜山侯の領内である相神浦中里村の路傍にも犬堂といふ小堂がある。中は石を重ねただけのものであるが、この由來も前の話と似たもので、夜鹿を打ちに山へ行つた獵夫が、鹿の來るのを待つほどに睡くなつた。犬が頻りに吠えて、いくら叱つても止めぬので、腹立ちまぎれに犬の首を斬り落すと、首は落ちずに宙に飛び上り、樹上から垂れた蟒の咽喉に啗ひついた。この方はその爲に蟒が死んだと書いてある。獵夫深く悔い、且つ犬を憐れんでそこに埋め、堂を建てて祀つたといふのである。

[やぶちゃん注:同前。悪しからず。

「相神浦中里村」「相神浦」は現代仮名遣で「あひこうのうら」と読み、現在の長崎県佐世保市西部の中核地域である相浦(あいのうら)のこと。(グーグル・マップ・データ)。「中里」はインター・チェンジ名に「相浦中里」と残る。]

 以上の話はいつ頃の出來事かわからない。「甲子夜話」に著手した文政年間には、もう古墳になつてゐたのだから、相當古い話と思はれるが、錢砲を用ゐたのが事實ならば、その點から或限界は出來るわけである。文獻として「甲子夜話」より古いのは、「窓のすさみ」の記事であらう。この本も寫本で傳へられた爲、年代を推定するのが困難であるが、著者松崎堯臣が寶曆三年に歿してゐることから考へて、少くとも「甲子夜話」の七十餘年前に書かれたことは疑ひを容れぬ。土地も年代も人名も書いてないけれど、この方は武士で、狩獵でなしに野行となつてゐる。暮れ方疲れて樹下の石に休み、思はず睡りに落ちる。ついて來た飼犬が起き上り、一聲吠えて食ひ付きさうになつたので、武士は目をさまし、犬が自分を食ふかと疑つた。睡つた風を裝ひ、再び起き上るところを拔き打ちに斬れば、犬の首は飛んで梢に上る。上から武士を呑まうとした蟒は、咽喉をしたゝか嚙まれて死んだ。事情が明かになつて、犬の心を深く感じ、足摺りして悔んでも及ばず、泣く泣く懇ろに埋め、塚を築くといふのだから、大體の筋は「甲子夜話」の後の例に近い。堯臣は儒者の立場から「主の急を見て救はんとせしを知らずして、かへつて疑ひ殺したるは大なる誤りにや、君臣の間、兄弟の中、朋友の交りにも、このたぐひ多し、深く思ふべき事にこそ」といふ注意を與へてゐる。

[やぶちゃん注:『「甲子夜話」に著手した文政年間』肥前国平戸藩第九代藩主であった松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの実に二十年に亙って書き続けられ、その総数は正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻にも及ぶ。私が探すのが面倒と言っている意味がお判り戴けるものと思う。

「窓のすさみ」江戸中期の儒者で丹波篠山(ささやま)藩(現在の兵庫県)の家老松崎白圭(はくけい 天和二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年)の考証随筆で代表作。丹波は荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。ここに出る「堯臣(げうしん)」は名。通称を左吉、別号に観瀾がある。私は所持しない。]

「江都著聞集」にある薄雲の猫は、山野でなしに遊女屋の屋内であるが、同一系統に屬する。經過は全く同じで首を斬られ、その骸(むくろ)は道哲に納めて猫塚と稱せられた。成吉斯汗か何かにも、淸水の滴りを受けようとする盃を、手飼ひの鷹が飛んで來て覆す話がある。鷹は同じ事を何度か繰り返し、遂に佩刀の露と消える。これは生きた蟒でなしに、淸水の上の流れに毒蛇の死骸があつたので、これを知つた鷹が王に淸水を飮ませまいとし、盃をくつがへす擧に出たのであつたと記憶する。

[やぶちゃん注:「江都著聞集」正しくは「近世江都著聞集」で「きんせいえどちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。著者不詳の江戸随筆であるが、先に出た風俗紊乱の罪で処刑(江戸市中引き回し打ち首獄門)された講釈師馬場文耕(享保三(一七一八)年~宝暦八(一七五九)年)ともされる。以上の話は「近世江都著聞集卷五」の「三浦遊女薄雲が傳」に拠るもの。昭和五五(一九八〇)年中央公論社刊の「燕石十種」を参考底本として、恣意的に正字化して示す。【 】は二行割注。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   三浦遊女薄雲が傳

晉其角句に、

 京町の猫通びけり揚屋町

此句は、春の句にて、猫通ふとは申也、【猫サカル、猫コガル、】おだ卷の初春の季に入て部す也、京町の猫とは、遊女を猫に見立たる姿也といふ、斯有と聞へけれども、今其角流の俳

譜にては、人を畜類鳥類にくらぶるは正風にあらず、とて致さず、此句は、元祿の比、太夫、格子の京町三浦の傾城揚屋入の時は、禿に猫を抱させて、思ひ思ひに首玉を付て、猫を寵愛しけり、すべての遊女猫をもて遊び、道中に持たせ、揚屋入をする事、其頃のすがたにて、京町の猫揚屋へ通ふ、と風雅に云かなへたりし心なるべし、其比、太夫、格子の、猫をいだかせ道中せし根元は、四郎左衞門抱に薄雲といふ遊女あり、此道の松の位と經上りて、能く人の知る所也、高尾、薄雲といふは代々有し名也、是は元祿七八の頃より、十二三年へ渡る三代薄雲と呼し女也、【近年板本に、北州傳女をかける、甚非也、但し、板本故、誠をあらはさゞるか】此薄雲、平生に三毛の小猫のかはゆらしきに、緋縮緬の首玉を入、金の鈴を付け、是を寵愛しければ、其頃人々の口ずさみけると也、夫が中に、薄雲に能なつきし猫一疋有て、朝夕側を離れず、夜も寢間迄入て、片時も外へ動かず、春の夜の野ら猫の妻乞ふ聲にもうかれいでず、手元をはなれぬは、神妙にもいとしほらしと、薄雲は悦び、猶々寵愛し、大小用のため、かわや雪隱へ行にも、此猫猶々側をはなれず、ひとつかわやの内へ不ㇾ入してはなき、こがれてかしましければ、無是非共通りにして、かわや迄もつれ行、人々其頃云はやし、浮名を立ていひけるは、いにしへより猫は陰獸にして甚魔をなす物也、薄雲が容色うるはしきゆへ、猫の見入しならん、と一人いひ出すと、其まゝ大勢の口々へわたり、薄雲は猫に見入れられし、といひはやす、三浦の親方耳に入て、薄雲に異見して、古より噺し傳ふ譯もあり、餘り猶を愛し給ふ事なかれ、と云、薄雲も人々の物語の恐ろしく思ひ、寵愛怠りけれども、猫はたゞ薄雲をしたひ放れず、人々是を追放しければ、只悲しげに泣さけび、打杖の下よりも、薄雲が膝もとはなるゝ事を悲みけり、殊にかわやへの用たし每に、猶も付行ける故、人々度々追ちらしけれ共、したひ來るゆゑ、いよいよ此猫見込しならん、と家内の者寄合相談して、所詮此猫を打殺し仕𢌞んとて、手組居る處に、薄雲ある日用達しにかわやへゆきしに、何方よりか猫來りて、同じくかわやへ入らんとするを見付、家内の男女、追かけ追ちらさんとす、亭主脇差をぬき、切かけしに、猫の首水もたまらず打落す、其首とんで厠より下へくゞり、猫のどうは戸口に殘り、首は見へず、方々と尋ねければ、厠の下の角の方に、大きなる蛇の住居して居たりし其所へ、件の猫の頭喰付て、蛇をくひ殺していたり、人々きもをつぶし、手を打て感じけるは、是は、此蛇の厠に住て薄雲を見込しを不ㇾ知、とがなき猫に心を付、斯く心ある猫を殺しけるこそ卒忽なれ、日比寵愛せしゆゑ、猫は厚恩をおもひて如ㇾ斯やさしき心ねなるを、しらず殺せし事の殘念さよ、といづれも感を催しけり、薄雲は猶も不便のまして、洞を流し、終に其猫の骸を道哲へ納て、猫塚と云り、是よりして、揚屋通ひの遊女、多くは猫を飼ひ、禿にもたせねばならぬやうに、風俗となりしとなり、

   *

「道哲」当時は新吉原の東直近の浅草聖天町にあり、現在は豊島区西巣鴨四にある浄土宗弘願山(ぐがんざん)西方寺(さいほうじ)のことであろう。無縁仏とされた遊女らの菩提を弔った寺として知られ、かの高尾太夫の墓所もあり、その隣には彼女の回向をした道哲和尚の墓があると、個人サイト「吟醸の館」のこちらに画像附きで説明がある。

「成吉斯汗か何かにも、淸水の滴りを受けようとする盃を……」柴田は本章の最後で「前に引いた鷹の話の如きも、昔リーダーで讀んだきりだから、原典はよくわからぬ」と言っている。「リーダー」と言っている以上、英語の教則本の記憶ということになろう。因みに、こちらに「ジンギスカンと鷹」としてその話が載る。]

 曲亭馬琴はこの話を「椿説弓張月」の中に用ゐた。場所は豐後の木綿山となつてゐるが、爲朝が須藤季重と共に山狩りに出て、楠の大樹の下に立寄り、夜の明けるのを待つうちに、非常に睡くなつた。その時牽いた犬が頻りに吠え、果ては飛びかゝらうとするので、季重一刀の下に首を斬る。首は胴を離れて楠の梢に閃き登り、鮮血滴ると共に地響きして落ちて來たものがある。それが楠の幹に劣らぬほどの蟒で、その咽喉笛に犬の首がしかと嚙み付いてゐたのであつた。爲朝主從は直ちに刀を以て蟒を殺したが、犬の心を知らずに首を斬つたことを後悔する一條は、全く同じである。たゞ馬琴のことだから、この犬は狼の子を爲朝が飼ひ馴らしたので、「虎狼は押れたりといへども畜ひがたし」として、これを疑ふとか、季重が前夜の夢見が惡かつたから今日の狩りを見合せようとか、いろいろ伏線を置いたのみならず、蟒を發した後、頷下の珠を探つた季重が、雷に打たれて死ぬといふ餘波まで作つてゐる。同じ九州の話であるし、中里村の犬堂の事に結び付けたいところであるが、遺憾ながら馬琴が「弓張月」を書く時分には、「甲子夜話」はまだ著手されてゐない。「窓のすさみ」に據つたか、或は九州の口碑を誰かに聞いて、爲朝の世界に持ち込んだものであらう。

[やぶちゃん注:「須藤季重」「須藤重季(すとうしげすゑ)」の誤り。須藤九郎重季は為朝の乳母子という設定。

「木綿山」「ゆふやま」。現在の大分県由布市湯布院町にある由布岳(ゆふだけ)のこと。

 以上は私の好きな「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」(「鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月」。曲亭馬琴作・葛飾北斎画で文化四(一八〇七)年から文化八年にかけて刊行された読本。全五篇)の前編の第三回の「山雄喪ㇾ首救主 重季死ㇾ軀全ㇾ珠」(山雄(やまを)首(かうべ)を喪なふて主(しゆう)を救ふ 重季軀(み)を死(ころ)して珠(たま)を全(まつた)うす)のシークエンス。昭和五(一九三〇)年岩波文庫刊和田万吉校訂「椿説弓張月」より重季と山雄を葬るシーンまでを引く。底本はほぼ総ルビであるが、読みは一部に留めた。一部に句点を追加した。踊り字「〱」は正字化した。「慚愧(ざんき/○ハヅル)」の「○ハヅル」は左側に打たれた意味ルビ。

   *

八郎冠者爲朝は。一たび八町礫(はつてうつぶての)紀平治太夫に面(おもて)あはせしより。ふかくこれを愛(めで)よろこび。常にその家に交加(ゆきかひ)て。彼(かれ)とともに狩(かり)くらし。更に外(ほか)を求給(もとめたまは)ず。その山に遊ぶ日は。彼(かの)二頭(ひき)の狼のうち。かならず一頭(ひき)を牽(ひき)て行(ゆき)給ひしが。おのづから獵犬のごとく。よく猪鹿を追出し。多くは主(しゆう)に手を下させず。おのれまづこれを嚙ころして獻(まゐ)らせけり。あるとき須藤重季主を諫めて禀(マう)すやう。君(きみ)は正(まさ)しく淸和源氏の嫡流として。大國(たいこく)の守(かみ)ともなり給ふべき身の一旦大殿(おほとの)の勘當を受給ひたればとて。忽地(たちまち)武道を忘却し。獵夫(かりびと)の業(わざ)をし給ふこそこゝろを得ね。人は氏(うぢ)り育(そだち)にしたがひ。朱にまじはるものは朱くなるといふ。常言(ことわざ)にも恥給へかしと。面を犯して申せしかば。爲朝含笑(ほゝゑみ)て。汝がいふ所(ところ)理(ことはり)なり。しかはあれど。われ今さすらへ人となるといへども。志(こゝろざし)を移すにあらず。權守(ごんのかみ)季遠[やぶちゃん注:豊後国の郷士で為義と所縁があって第二回で為朝の身元を引き受けた人物。]は。その器量狹く。賢を狷(そね)みて己に勝(まさ)れるを諱(いむ)もの也。われかく彼が養ひを得て。嫌忌(けんぎ)の中に月日をおくり。もし遠き慮(おもんはかり)なきときは。禍(わざはひ)蕭牆(しようしよう[やぶちゃん注:内輪もめ。])の下(もと)より起らん。こゝをもて終日(ひねもす)山に狩くらし。外を求ざるの狀(かたち)を示すものは。季重が心を安めん爲なり。見よわが獲(え)たる獸をば。みな紀平次[やぶちゃん注:木綿山に住む狩人。後に出る「紀平治」に同じい。]にとらせて彼が生活(なりはひ)の助(たすけ)とす。これにてもわが小利を貪り。山獵(やまがり)をもて身の樂(たのしみ)とせざる事をしるべしと私語(さゝやき)給へば。重季大に感激し。さる事とも思ひわきまへず。賢ぶりて諫まゐらせ。よしなき事申つるこそ越度(をちど)なれとかしこみて。いと娯(うれ)し氣(げ)に見えにける。この下(しも)に話なし。かくてその年もくれて春も彌生のはじめになりつ。爲朝既に十八歳。今は一個の壯夫(ますらを)になり給へば。重季はこれを見て。もし都にましまさば。除目(ぢもく)行るゝに序(なへ)に。官人(かさ)の數にも入り給ふべきに。この邊邑(へんゆう)のさすらへて。家はやうやく數間(すけん)に過(すぎ)ず。住むは主從二人也。懲(こら)し給はん爲なりとも。四年(よとせ)が程に只一たび。家信(おとづれ)も聞え給はぬ。大殿の御こゝろつよしと。侘しきまゝに世をうらむ。誠心(まこころ)の程こそ有がたけれ。かくて爲朝はある日朝まだきより弓矢を携(たづさへ)。山雄(やまを)と呼べる一頭の狼を牽(ひき)て。木綿山(ゆふやま)に赴んとし給へば。須藤重季主の袖を引て。それがし前夜夢見もあしく。覺(さめ)て後も何とやらん胸うち騷ぎて心持穩(おだやか)ならず。願くはけふの山獵を止給へかし。といひもをはらざるに。爲朝うち笑ひて。夢は五臟の勞(らう)に成(なる)といへり。かゝる事を諱(いは)んは。婦人のうへにあるべし。汝心を安くして。よく留守せよと宣へば。重季又禀(まうす)やう。いにしへの人も。事に臨ては懼(おそれ)よといへり。されど止(とゞま)り給はじとならば。重季をも召俱し給へかし。としばしば請(こふ)て已(やま)ざりし程に。かくまで思はゞ何か拒(こばま)ん。われとゝもに來よと仰(おほせ)て出給へば。重季歡こびて焦火(たいまつ)に路をてらし。主の供して立出けり。さて爲朝主從は。木綿山の麓なる紀平治が家に立よりて。彼をも伴ひゆくべしとて音なひ給へば。八代(やつしろ)立出て。まづ湯を進(まゐ)らせ。夫紀平治はこの曉に山へとて出ぬ。されど出てより程もあらぬに。追蒐(おひかけ)給はゞ。山の半腹にては追つき給はんといふ。さらば急げとて。主從其處(そのところ)を走り去り。足に信(まか)せつゝ山ふかくわけ入り給ふに。いまだ夜もあけざれば。ゆくさき暗くして紀平治を見ず。あまりに疾走(とくはし)りて疲勞(つかれ)給ひしかば。ふりたる楠(くすのき)の下に立より。主從株(くひぜ)に尻をかけて。明はなるゝをまち給ふに。只顧(ひたすら)睡(ねふり)をもよほして。もろともに目睡(まどろ)み給ふとやがて。彼(かの)山雄(やまを)。一聲(ひとこゑ)高く吼(ほえ)。主の行縢(むかばき[やぶちゃん注:狩猟の際に両足の覆いとした布帛(ふはく)や毛皮のこと。]のはしを銜(くはえ)て引にければ。爲朝も重季も。おどろき見て四方を見かへり給へど。眼に遮るものもなし。こは山雄が戲るゝよとおぼして。又睡り給ふに。復いたく吼かゝりて。嚙もつくべき氣色なれば。爲朝佶(きつ)と臠(みそなは)して。虎狼(こらう)は狎(なれ)たりといへども畜(やしなひ)がたしといふぞ宜(むべ)なる。この畜生わが睡れる間(ひま)を窺ひて。啖(くらは)んとするにこそ。さもあらばあれ目に物見せんといきまきて。刀が靹(つか)を握りもち。しばし睨(にらみ)つめておはしける。重季もこゝろ緩(ゆる)さず。すはといはゞ刺留(さしとめ)んと。琫(こひぐち)ちくつろげて瞻居(まもりゐ)たるに。山雄はこの氣色にも怕(おそ)れずなほ吼(ほゆ)ること二聲三聲(ふたこゑみこゑ)。忽地(たちまち)走りよらんとするを。重季跳(とび)かゝりて丁(ちやう)と切れば。狼(おほかみ)の首(くび)軀(むくろ)をはなれ。楠(くす)の梢に閃(ひらめ)き登ると見えつるが。鮮血(ちしほ)さと溜(したゝ)りつゝ。頂の上より落(おつ)る物ありて。大地(だいぢ)に摚(どう)と響(ひびき)しかば。主從ふたゝび驚き怪(あやし)み。押明(おしあけ)がたの星の光りに。眼を定めて見給へば。太(ふとき)はこの楠(くす)の幹に劣(おとる)まじく。長(ながさ)くばくとも量(はかり)がたき。蟒蛇(うはばみ)の吭(のどぶえ)へ。狼の首嚙(かみ)つきつ。蟒蛇はなほ半身(はんしん)は木にまつはりて蠢くを。主從刀を拔もちて。刺とほし刺とほし。輙(たやす)くこれを殺(ころし)給ひしが、爲朝ふかく慚愧(ざんき/○ハヅル)して。この蟒蛇は梢より。われを呑まんとしたればこそ。山雌がしばしば吼かゝりて。裳(もすそ)を引てしらせしを。こは寇(あた)するかと一トすぢに。思ひたがへし愚さよ。彼(かれ)今重季が一刀に死するといへども。一念首(かうべ)にとゞまりて。主を救へるぞ殊勝なる。われ過てり。くと宜へば。重季はなほ面(おも)なくて。頻(しきり)に落淚に及びしが。且(しばら)くしていへりけるは。それがし疇昔(ゆふべ)夢見のあしかりつるも。この事あるべき祥(さが)なりし。そも狼すら恩義を感じ。身(み)死して主が寇(あた)を殺す。われは獸にも及ずして。年來(としごろ)傅(かしづ)きまゐらせながら。なほ君恩を報ふに至らず。却(かへり)て山雄を殺せし事。恥ても辱(はづ)るにあまりあり。こは何とせんと悔(くひ)うらめば。爲朝はこれを勸(なだめ)。彼を哀みて已(やみ)給はず。この時夜(よ)もやゝ明(あけ)はなれ。連山見る見る雲起り。さしも今まで晴たる天(そら)。油然(ゆぜん)として結陰(かきくもり)。風(かぜ)颯(さつ)と吹來る程こそあれ。時しも三月のはじめにあれど。電光(いなびかり)間(ま)なく閃(ひらめ)き。雷(かみ)さへおどろおどろしく鳴わたり。直(ぢき)に頂(いたゞき)の上にもかゝるべき光景(ありさま)なれば。爲朝しばし雲間をうち瞻(まもり)傳へ聞(きく)。蛇數(す)百年を經(ふ)るときは。身の中にかならず珠(たま)あり。龍是(これ)をしることあれば。その珠を取らん爲に。まづ雷公(いかづち)を遣りて震(ふるは)するとかや。思ふにこの蟒蛇には珠あるべし。重季試に裂(さき)て見よ仰すれば。承りつと回答(いらへ)して。彼(かの)蟒蛇の吭(のど)あたりより。再び刀を突立(つきた)て。これを裂(さか)んとするに。雨は盆を覆すがごとく降(ふり)ながし。雷(かみ)の鳴(なる)事ますます劇し。爲朝はもし雷公(いかづち)の墮(おち)かゝる事もあらば。射てとらんとて弓に箭(や)つがひ。少しその處を退(しりぞ)きておはしける。須藤は雨にひたと濡(ぬれ)つつ。かゝる雷公(いかづち)をも物ともせず。既に尾のあたりまで裂(さき)て見れどこれかと思ふ物もなし。もし珠は頭(かしら)がかたにやあらんとて。刀をとりなほし。頭の皮を剝(はぎ)て腮(あぎと)の下(した)を探り見るに。骨の間(あはひ)に物こそあれ。すは是ならんとうれしみて。引出さんとする折しも。四方(しはう)晦曚(くわいもう/○マツクラ)して。一朶(いちだ)の黑雲須藤が上に掩(おほ)ひ累(かさな)り。一聲(ひとこゑ)の霹靂。天地(あめつち)も動くばかりに鳴落(なりおつ)るを。須藤よつ引(ひき)て𢐕(ひやう)と發(はな)つ矢。少し手ごたへするやうなりしが。忽地(たちまち)に雨止(やみ)雲おさまりて。旭(あさひ)東の岸(みね)に昇れり。爲朝は重季が事いと心もとなくて。晴るゝも待ず走りよりて見給ふに。哀むべし重季は。腦碎(くだけ)。肉壞(やぶ)れ。全身黑く黬(ふすぶり)て。肢體(えだ)はつゞきたる所もなけれど。もてる刀さへ放さず。左手(ゆんで)は血に塗(まみ)ながら。一顆(ひとつ)の珠を握り持(もち)て死(しゝ)たるが。雷公はこゝより昇(のぼり)しかと見えて。十圍(ひとかゝへ)にもあまる楠(くすのき)を。斧(をも)もて割(わり)しごとく。梢より根の際(きは)まで。二片(ふたつ)に裂(さき)てありしかど。爲朝はそれに眼もとゞめ給はず。只管(ひたすら)重季が橫死を哀れみ。われ血氣の勇に誇り。求めて危(あやう)きに臨(のぞむ)こと兩度に及び。前(さき)には悞(あやまち)て山雄を殺させ、今又須藤を喪へり。縱(たとひ)百朋(ひやくほう)の珠なりとも。一人の家隷(いへのこ)に(換かゆ)べきや。殊さら彼は此(この)年來(としごろ)。憂(うき)に冊(かしづ)きて信(まめ)やかなれば。思ふ程をもかたらひて。心やりともなしたるに。夢見のあしとて諱(いみ)たるは。爰(こゝ)にて死(しな)ん祥(さが)也し。さはいへ日來(ひごろ)はかくばかり。勇者(たけきもの)ども覺(おぼえ)ぬに。その身雷公(いかづち)に擊(うた)るゝといへども。よくその珠を全(まつとう)す。彼(かの)藺相如が(りんしようぢよ)が忠にも勝(まさ)れり。さてよしなき技(わざ)をしつるかなと後悔ありて。心更にたのしみ給はず。かくは須藤が志を他(あだ)にせじとおぼしかへして。やがて彼(かの)珠をとりて見給ふに。晃々(くわうくわう)として明月のごとく。世に類(たぐひ)なき名珠(しらたま)なり。浩處(かゝるところ)に前面(むかひ)の崖道(がけみち)よりいたく濡れて來るものありけり。誰(た)そと見給へば是(これ)八町礫(はつてうつぶて)の紀平治なり。彼も御曹司なりと見てければ。忙しく走り來つ。須藤が雷死(らいし)。山雄蟒蛇の光景(ありさま)を見て大に驚き。まづその故を問(とひ)まゐらすれば。爲朝は愁然として淚を含み。一五一十(いちぶしじう)を物がたり給ふにぞ。紀平治はますます驚(おどろき)て。ふかく重季が死を哀み。又山雄を最惜(いとをしみ)つゝ。とかくして楠(くす)の根を堀穿(ほりうがち)て[やぶちゃん注:「堀」はママ。]。重季が屍(しかばね)を埋(うづ)め。その傍(かたはら)へ山雄を埋(うづ)めて。さて何をか標(するし)にせんといふに。爲朝手づから大なる二ツの石を。いと輕(かろ)やかに持來(もちき)給ひて。墓碑(はかじるし)としつ。亡魂生天脱苦與樂(ぼうこんしようてんだつくよらく)と念じつゝ。紀平治とゝもに山を下り給ふ……[やぶちゃん注:以下略。]

   *]

 吾々はこゝで最も古い記載が「今昔物語」にあるのを顧みなければならぬ。陸奧國に多くの犬を飼ひ、これを連れて山へ狩りに行く男があつた。或時山中に一夜を過すことになり、自分は大きな木のうろの中に入つて、傍に弓、胡簶(やなぐひ)、太刀などを置き、うろの前に火を焚いた。犬どもは皆その火のほとりに眠る中に在つて、一疋だけが夜中に起きて吠え立てる。然も主人の寢てゐる木のうろに向つて、何か事ありげに吠えるので、四邊を見𢌞したけれど何も見えぬ。犬は少しも吠えることをやめず、遂には主人に躍りかゝらうとするに至つた。この犬は年來飼ひ馴らした中でも、殊にすぐれて賢いものであつたが、獸の本性は測りがたい。人なき山中で自分を食はうとするのかと疑ひ、太刀を拔いて威しても、犬は依然としてけたゝましく吠える。この狹いうろの中で咬み付かれては堪らぬと思つたから、うろの外へ飛び出した途端、犬はうろの中で高く躍り上り、何者かに咬み付いたらしい。自分を食ふのでないことはわかつたが、咬み付いた相手の正體はわからぬうちに、上から何かどうと落ちて來た。太さ六七寸ばかり、長さは二丈餘りある蛇が、頭を犬に咬み付かれて落ちたのであつた。主人は驚きながらも、拔身を揮つて蛇を斬り殺す。然る後漸く犬は蛇の頭から離れた。この木のうろに潛んでゐた蛇が、主人を呑まうとして頭を下げて來たので、犬は異常に吠えて躍りかゝり、人はまだ氣付かずに、犬が自己を襲ふかと誤解したのである。もしこのうろの中で睡つてしまつたら、主人の命は無い。早まつて犬を殺しても、結果は多分同樣だつたらうと思はれる。

 多くの説話がさうであるやうに、この話もだんだん複雜になつてゐる。打ち落した犬の首が宙に飛び上つて、蛇を發すのは面白いかも知れぬが、實際問題としては災厄を未然に防ぐに如(し)くはない。「今昔物語」は正にその通りであるのに、後の話はそれで滿足せず、いづれも首が宙に飛ぶ一段を加へることを忘れぬのである。首を打たれぬ犬は塚を建てられることはないにせよ、自らも生命を全うし、主人にも永い悔を殘させぬ方が、どれだけ幸福な結末であるかわからぬ。吾々は奇を弄した後の趣向よりも、人情に遠ざからぬ 「今昔物語」の話に共感を覺える。

[やぶちゃん注:「多くの説話がさうであるやうに、この話もだんだん複雜になつてゐる」やや分かり難い言い方である。「多くの説話がさうであるやうに、この」蟒蛇と犬の説話譚「もだんだん」後世になると「複雜になつてゐる」の謂いである。

「六七寸」約十八~二十一センチメートル。

「二丈」六メートル六センチ。

 これは「今昔物語集」の「卷二十九」の「陸奧國狗山狗咋殺大蛇語第卅二」(陸奧國(みちのくのくに)の狗山(いぬやま)の狗(いぬ)、大蛇(だいじや)を咋(く)ひ殺せる語(こと)第三十二)である。以下に示す。参考底本は二〇〇一年岩波文庫刊池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」としたが、恣意的に漢字を正字化し、読みは振れるもののみに限ってオリジナルに歴史的仮名遣(参考底本は現代仮名遣)で振った(読み易さを考え、一部の送り仮名は参考底本に従わずに本文に一部を出した箇所も多い)。□は原本の欠字数分を推定して配した。読点・鍵括弧・二重鍵括弧などの記号を一部を追加し、直接話法及び準直接話法(心内語部分)は改行して読み易くした。本文注に私の注も挟んだ。

   *

 今は昔、陸奧の國、□□の郡(こほり)に住みける賤しき者、有りけり。家に數(あまた)の狗を飼ひ置きて、常に其の狗共(ども)を具(ぐ)して深き山に入りて、猪・鹿を狗共を勸めて咋ひ殺させて取る事をなむ、晝夜朝暮(ちうやてうぼ)の業(わざ)としける。然れば、狗共も役(やく)と[やぶちゃん注:専ら。]猪・鹿を咋ひ習ひて、主(あるじ)、山に入れば、各々喜びて後前(しりさ)きに立ちてぞ行きける。此(か)く爲(な)る事をば、世の人、狗山と云ふなるべし。

 而る間、此の男、例の事なれば、狗共を具して山に入りにけり。前々(さきざき)も食ひ物など具して二三日も山に有る事也(なり)ければ、山に留(とど)まりて有りける夜(よ)、大きなる木の空(うつほ)の有りける内に居て、傍らに賤(あやし)の弓・胡錄(やなぐひ)・大刀(たち)など置きて、前(まへ)には火を燒きて有りけるに、狗共は𢌞(めぐ)りに皆、臥したりけり。

 其れに、數(あまた)の狗の中に、殊に勝れて賢かりける狗を年來(としごろ)飼ひ付けて有けるが、夜(よ)打深更(うちふ)くる程に、異狗(こといぬ)共は皆、臥したるに、此の狗一つ、俄かに起き走りて、此の主の木の空(うつほ)に寄り臥して有る方(かた)に向ひて、愕(おび)たたしく吠えければ、主、

「此は何を吠ゆるにか有らむ。」

と、怪しく思ひて、喬平(そばひら)を見れども、吠ゆべき物も無し。

 狗、尚、吠ゆる事不止(やま)ずして、後には主に向ひて踊り懸りつつ吠えければ、主、驚きて、

「此の狗の、吠ゆべき物も見えぬに、我れに向ひて此(か)く踊り懸りて吠ゆるは、獸(けもの)は主(あるじ)不知(しら)ぬ者なれば、我れを、定めて、『此(かか)る人も無き山中にて、咋ひてむ』と思ふなめり。此奴(こやつ)、切り殺してばや。」

と思ひて、大刀(たち)拔きて恐(おど)しけれども、狗、敢へて不止(とどま)らずして、踊り懸りつつ吠えければ、主、

「此(かか)る狹き空(うつほ)にて、此の奴(やつ)咋ひ付きなば惡しかりなむ。」

と思ひて、木の空(うつほ)より外(と)に踊り出(いづ)る時に、此の狗、我が居たりつる空(うつほ)の上の方に踊り上りて、物に咋ひ付きぬ。

 其の時に、主、

「『我れを咋はむ』とて、吠えけるには非ざりけり。」

と思ひて、

「此奴(こやつ)は何(なに)に咋ひ付きたるにか有らむ。」

と見る程に、空(うつほ)の上より器量(いかめし)き物、落つ。狗、此れを不免(ゆる)さずして咋ひ付きたるを見れば、大きさ六七寸許(ばかり)有る蛇(へみ)の、長さ二丈餘り許なる也(なり)けり。蛇(へみ)、頭(かしら)を狗に痛く被咋(くはれ)て、否堪(えたへ)ずして落ちぬる也(なり)けり。主、此れを見るに、極めて怖しき物から、狗の心哀れに思(おぼ)えて、大刀を以つて蛇(へみ)をば切り殺してけり。其の後ぞ、狗は離れて去(の)きにける。

 早(はよ)う、木末(こずゑ)遙かに高き大きなる木の空(うつほ)の中(うち)に、大きなる蛇(へみ)の住みけるを知らずして、寄り臥したりけるを、「呑まむ」と思ひて、蛇の下(お)りけるが頭(かしら)を見て、此の狗は踊り懸りつつ吠えける也(なり)けり。主、此れを不知(しら)ずして、上をば見上げざりければ、

「只、我れを咋はむずるなめり。」

とひて、大刀を拔きて、狗を殺さむとしける也けり。

「殺したらましかば、何許(いかばかり)悔しからまし。」

と思ひて、不被寢(ねられ)ざりける程に、夜明けて、蛇(へみ)の大きさ・長さを見けるに、半(なから)は死ぬる心地(ここち)なむしける。

「寢入りたらむ程に、此の蛇(へみ)の下(お)りて卷き付きなむには、何態(なにわざ)をかせまし。此の狗は、極(いみ)じかりける、我が爲めの此の不世(よなら)ぬ財(たから)にこそ有りけれ。」

と思ひて、狗を具して家に返りにけり。

 此れを思ふに、實(まこと)に狗を殺したらましかば、狗を死にて、主も其の後、蛇(へみ)に被呑(のまれ)まし。然れば、然樣(さやう)ならむ事をば、吉々(よくよ)く思ひ靜めて、何(いか)ならむ事をも可爲(すべ)き也(なり)。此(かか)る希有(けう)の事なむ有りけるとなむ語り傳へたるとや。

   *]

 犬が主人の危難を救ふ話は、支那にも大分あるが、右に擧げたやうな型のものはあまり見當らぬ。「玉堂閑話」にある狗仙山などは、犬を從へた獵犬が蟒を斃す話で、材料は或點まで接近するに拘らず、筋は全く違ふ。前に引いた鷹の話の如きも、昔リーダーで讀んだきりだから、原典はよくわからぬ。この類話が一方は必ずしも犬と限らぬのに、敵役が終始一貫して蛇なのは、注意する必要がある。

[やぶちゃん注:「玉堂閑話」唐の滅亡から宋の統一までの分裂期の五代十国時代の翰林学士などを歴任した王仁裕(八八〇年~九五六年)の小説。原書は既に消失したが、「太平廣記」「永樂大典」に引用されてある。「狗仙山」(「くせんざん」と読んでおく)は「太平廣記」の「卷四百五十八」に引用された以下である。中文ウィキソースの「玉堂閑話」を元に一部を加工して示す。

   *

巴賨之境、地多岩崖、水怪木怪、無所不有。民居溪壑、以弋獵爲生涯。嵌空之所、有一洞穴、居人不能測其所往。獵師縱犬於此、則多呼之不囘、瞪目搖尾、瞻其崖穴。於時有彩雲垂下、迎獵犬而升洞。如是者年年有之、好道者呼爲狗仙山。偶有智者、獨不信之、遂絏一犬、挾弦弧往之。至則以粗係其犬腰、係於拱木、然後退身而觀之。及彩雲下、犬縈身而不能隨去、叫者數四。旋見有物、頭大如甕、雙目如電、鱗甲光明、冷照溪穀、漸垂身出洞中觀其犬。獵師毒其矢而射之、既中、不復再見。頃經旬日、臭穢滿山。獵師乃自山頂。縋索下觀、見一大蟒、腐爛於岩間。狗仙山之事、永無有之。

   *]

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