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2017/01/29

柴田宵曲 妖異博物館 「河童の力」

 

 河童の力

 

 河童といふものは仲間同士でも角力を取るかも知れぬが、それは別世界の事だからよくわからぬ。彼等の角力趣味が知られてゐるのは、人間に對して角力を挑むからである。「蕉齋筆記」によれば、角力を取るに當つて、彼等は六尺餘りの背丈になる。身體ぬめぬめとして甚だ氣味が惡いが、負けてやれば悦んで水中に飛び入る。人間が勝つと、腹を立てていろいろの返報をするとある。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注。探すのに疲れた(河童の相撲の記載はあったが、この内容ではなかった)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をお探しあれ。]

 「寓意草」に書いてあるのは、豐前國に幅五六十間もあつて、徒渉(かちわた)りする川がある。夜こゝを渡ると、必ず河童が出て角力を取らうと云ふ。子供だと思つて相手になれば、水に引き込まれて食はれるさうである。小笠原信濃守の家衆に、大塚庄右衞門といふ人があつた。從兄弟の瀨川藤助と共に渡らうとした時、河童が藤助の袖を引き止めて角力を取らうといふのを、答へもせずに拔き討ちに斬つて捨てた。翌朝二人で行つて見たら、三町ばかり川下の柳の根に死骸がかゝつてゐた。十歳に足らぬ子供ぐらゐの大きさで、髮の長さは四五寸ばかりある。顏は猿のやうで白く、爪は猫のやうだといふ話であつた。庄右衞門の下男で強力の者も、引き止められて角力を取つた。力は強くないけれど、身輕で容易に捕へられず、漸く捕へても鰻のやうにぬらりと拔ける。あとで見たら、顏にも腹にも腕にも、針の先で搔き裂かれたやうな疵があり、七日ぐらゐは癒らなかつた。

[やぶちゃん注:「寓意草」。私は所持しない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したが、三度ほど縦覧したが、見つからぬ。平仮名の多い文章で読むのに疲れた。お探しあれかし。

「豐前國」現在の福岡県東部と大分県北部。

「五六十間」九十一~百九メートル。

「三町」約三百二十七メートル。]

 河童が角力を挑むのは、人間と強弱を爭ふためか、この機會に水中へ引き込まうとするのか、その邊ははつきりしない。御留守居室賀山城守の中間が、九段辨慶堀の端を通ると、思ひがけず中間の名を呼ぶ者がある。子供が水の中から招くやうに見えたので、近所の子供が堀に落ちたものと思ひ、救はうとして手をさし伸べると、直ぐ取り付いて來た。岸へ引き上げようとしたけれど、磐石のやうで少しも動かず、却つてだんだん水に引き込まれさうになつたので、力一杯振り放し、屋敷へ馳せ戾つた。何だか腑拔けのやうになつて、著物も濡れ、且つ腥臭の堪へがたいものがある。皆で水をかけたりして洗つたが、どうしても臭氣が去らぬ。翌朝に至り漸く人事を辨へるやうになり、四五日して疲勞が囘復すると共に、身體の腥臭もなくなつた。この相手が河太郎だらうといふことになつてゐる(甲子夜話)。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」松浦静山は河童に強い関心を持ち、「甲子夜話」でも二ヶ所で河童図を描いているが、その周辺にはこの原話は見当たらぬ。確認出来次第、追記する。

「九段辨慶堀」現在の千代田区紀尾井町江戸城外堀跡の一部。附近(グーグル・マップ・データ)。]

 「怪談老の杖」に出てゐるのは、右の話と共通性が多い。室賀山城守の居宅は神田小川町であつたが、「怪談老の杖」の浪人小幡一學も、小川町に居つた若い頃の話である。河童に出逢ふのも麹町一丁目の御堀端で大差はない。一つ話が二つに傳へられたのかと思ふと、必ずしもさうではないやうに見える。雨が強く降るので、傘をさし腕まくりをして急いで來たところ、十歳ばかりの小童が笠もかぶらず、先に立つて步いて行く。わしの傘へ入つたらどうだと云つても、恥かしいのか挨拶もせず、くしくしと泣いてゐるやうだから、愈々可哀さうになつて、うしろから傘をさしかけ、自分の脇の方へ引き付けて步みながら、どこへ使に行つたか、雨が降つて困るだらう、いくつになる、などと深切に言葉をかけたが、依然として返事もせず、やゝもすれば傘を外れて濡れさうになる。馬鹿な小僧だ、傘の中へ入れ、と云へばまた入つて來る。そのうちに堀端へ出た。この傘の柄をつかまへて行け、さうしなければ濡れるぞ、と我が子でもいたはるやうに云つたが、この時小僧は急に一學の弱腰を兩手でしかと捕へ、無二無三に堀の中へ引き込まうとした。おのれ引き込まれてなるものかと、金剛力を出して引き合つたけれど、小僧の方が強かつたらしく、次第に土手の下の方へ引かれさうになる。向う下りで足溜りがないから、已に堀際の石がけのところまで引き立てられたのを、心中に氏神を念じ、力一杯に突き飛ばしたら、小僧は傘と共に水に沈んだ。命からがら這ひ上つたものの腰が立たぬほどなので、一丁目の方へ戾り、駕籠に乘つて歸宅した。これに懲りて、その後は自身は勿論、人にも戒めて、御堀端を通るな、と云つて居つた。この河童に言葉をかける模樣は、「半七捕物帳」の「お照の父」に使つてある。

[やぶちゃん注:「麹町一丁目」現行では附近(グーグル・マップ・データ)。確かに先の弁慶堀からは東北に一キロ程度で、近くではある。

「怪談老の杖」のそれは「卷一」の「水虎かしらぬ」である。以下に示す。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。

   *

   ○水虎かしらぬ

小幡一學といふ浪人ありける、上總之介の末葉なりと聞しが、さもあるべし、人柄よく、小學文などありて、武術も彼是流義極めし男なり、若きとき、小川町邊に食客のやうにてありし頃、櫻田へ用事ありて行けるが、日くれて、麹町一丁目の御堀端を歸りぬ、雨つよく降りければ、傘をさし、腕まくりして、小急ぎにいそぎをりけるが、是も十ばかりなりとみゆる小童の、笠もきず先へ立て行を、不便におもひて、わらはに、此傘の中へはへりて行べし[やぶちゃん注:「はへり」はママ。]、とよびかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、くしくしとなく樣にて行けば[やぶちゃん注:「くしくし」の後半は原典では踊り字「〱」。]、いとゞふびんにて、後より傘さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、小僧はいづ方へ使にゆきしや、さぞこまるべし、いくつになるぞなど、懇にいひけれど、いらゑせず[やぶちゃん注:「いらゑ」はママ。]、やゝもすれば、傘をはづれて濡るゝ樣なるを、さてばかなる小僧なり、ぬるゝ程に傘の内へはひれはひれ[やぶちゃん注:「はひれはいひれ」はママ。但し、後半は原典では踊り字「〱」。]、と云ひければ、又はひる、とかくして堀のはたへ行ぬるとおぼゆる樣にて、さしかけつゝ、此かさの柄をとらへて行べし、さなくては濡るゝものぞなど、我子をいたはる樣に云ひけるが、堀のはたにて、彼わらは、よは腰を兩手にてしかと取り、無二無三に堀の中へ引こまんとしけるにぞ、扨は妖怪め、ござんなれ、おのれに引こまれて、たまるものかと、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ力まさりしにや、どてを下りに引ゆくに、むかふ下りにて足たまりなければ、すでに堀ぎはの石がけのきはまで引立られしを、南無三寶、河童の食になる事かとかなしくて、心中に氏神を念じて、力を出してつきたをしければ、傘ともに水の中へしづみぬ、命からがらはひ上りてけれど[やぶちゃん注:「からがら」の後半は原典では踊り字「〲」。]、腰たゝぬ程なりければ、一丁目の方へもどり、駕籠にのりて屋敷へ歸りぬ、夫よりこりはてゝ、其身は勿論、人までも、かの御堀ばたを通る事なかれ、と制しける、是ぞ世上にいふ水虎(かつぱ)なるべし、心得すべき事なりと聞り、

   *

『この河童に言葉をかける模樣は、「半七捕物帳」の「お照の父」に使つてある』大正七(一九一八)年四月号『文芸俱樂部』初出(私が古くからお世話になっているサイト「綺堂事物」の「『半七捕物帳』を読む」のデータでは『調査中』とするが、収録頁数も示されているから恐らくこれで正しいのであろう)。犯行自体の舞台は柳橋で「河童の長吉」というのが登場する。柴田が言っているのは、「三」の後半の半七が子分の幸次郎と一緒にたまたま入った水戸屋敷近くの小料理屋での聞き込みのシークエンスである。全文は「青空文庫」ので読める。同所から当該箇所を引いておく(因みに、私は時代小説の価値をあまり高く見ない人種であるが、半七だけは特異点で真正フリークであると言ってよい)。

   *

 二人は堤下へ降りて食い物屋をさがした。蜆(しじみ)の看板をかけた小料理屋を見つけて、奥の小座敷へ通されて夕飯を食っているうちに、萩を一ぱいに植え込んであるらしい庭先もすっかり暗くなって、庭も座敷も藪蚊の声に占領されてしまった。

「日が暮れたのに蚊いぶしを持って来やあがらねえ。この村で商売をしていながら、気のきかねえべらぼうだ。これだから流行らねえ筈だ」

 むしゃくしゃ腹の幸次郎は無暗にぽんぽんと手を鳴らして、早く蚊いぶしをしろと呶鳴った。女中は蚊いぶしの道具を運んで来て、頻りにあやまった。

「相済みません。店でお化けの話を聴いていたもんですから、ついうっかりして居りました」

「へえ、お化けの話……。そりゃあおめえの親類の話じゃあねえか」

「よせよ」と、半七は笑った。「ねえさん、堪忍してくんねえ。この野郎少し酔っているんだから。そこで、そのお化けがどうしたんだ。ここの家へ出るわけじゃあるめえ」

「あら、御冗談を……。たった今、家(うち)の旦那が堤で見て来たんですって。嘘じゃない、ほんとうに出たんですって、河童のようなものが……」

「え、河童だ」と、幸次郎もまじめになった。

 半七はその主人をちょいと呼んでくれと云った。呼ばれて出て来たのは四十五六の男で、閾越(しきいごし)で縁側に手をついた。

「御用でございますか」

「いや、ほかじゃあねえが、おまえさんはたった今、堤で何か変なものを見たそうだね。なんですえ」

「なんでございましょうか。わたくしもぞっとしました。相手がお武家ですから好うござんしたが、わたくし共のような臆病な者でしたら、すぐに眼を眩(まわ)してしまったかも知れません」

「河童だというが、そうですかえ」と、半七はまた訊いた。

「お武家は河童だろうと仰しゃいました。まあ、こうでございます。わたくしが業平(なりひら)の方までまいりまして、その帰りに水戸様前からもう少しこっちへまいりますと、堤の上は薄暗くなって居りました。わたくしの少し先を一人のお武家さんが歩いておいででございまして、その又すこし先に、十四五ぐらいかと思うような小僧が菅笠をかぶって歩いて居りました」

「その小僧は着物をきていましたかえ」

「暗いのでよく判りませんでしたが、黒っぽいような単衣(ひとえ)を着ていたようです。それが雨あがりの路悪(みちわる)の上に着物の裳(すそ)を引き摺って、跣足(はだし)でびちょびちょ歩いているので、あとから行くお武家さんが声をかけて……お武家さんは少し酔っていらっしゃるようでした……おい、おい、小僧。なぜそんなだらしのない装(なり)をしているんだ。着物の裳をぐいとまくって、威勢よく歩けと、うしろから声をかけましたが、小僧には聞えなかったのか、やはり黙ってびちょびちょ歩いているので、お武家はちっと焦(じ)れったくなったと見えまして、三足ばかりつかつかと寄って、おい小僧、こうして歩くんだと云いながら、着物の裳をまくってやりますと……。その小僧のお尻の両方に銀のような二つの眼玉がぴかりと……。わたくしはぎょっとして立ちすくみますと、お武家はすぐにその小僧の襟首を引っ掴んで堤下(どてした)へほうり出してしまいました。そうして、ははあ、河童だと笑いながらすたすたと行っておしまいなさいました。わたくしは急に怖くなって、急いで家へ逃げて帰ってまいりました」

 半七は幸次郎と眼をみあわせた。

「そうして、その化け物はどっちの堤下へ投げられたんですえ」

「川寄りの方でございます」

「なるほど不思議なことがあるもんですね」

 勘定を払って、二人は怱々にそこを出た。

   *

「業平」は現在のスカイ・ツリー附近、「水戸様前」近くの堤とは東京ドームの南附近、当時の江戸城外堀である。]

 

 河童が岡に上つたやうだなどと云ふけれど、水を離れた河童も相當に力があるらしい。頭の皿に水がなくなると、急に力がなくなるといふ話である。この二つの場合は、共に雨の降つてゐる晩で、殊に前の話は水から出たばかりだから、水を失ふ心配はなかつたらう。ただ室賀家の中間にしても、小幡一學にしても、河童の正體を見極めてはゐない。前後の事情から河童であらうと判定するに過ぎぬ。「怪談老の杖」には腥臭の事はなかつた。

「太平百物語」には讚岐國で獺が人と角力を取る話がある。これは大分樣子が違つて、山城屋甚右衞門といふ者の下人孫八が、一つ穴といふところへ耕作に行くと、主人の子の甚太郎といふ、十一歳になるのが遊んでゐる。今日はお客樣がおいでになりますのに、どうしてお家にいらつしやいませんか、と聞いても、甚太郎は返事もせずに笑つて、角力を取らうと云ふ。孫八も相手になつて、わざと二番績けて負けたら、甚太郎はよろこんで歸つて行つた。黃昏に戾つてこの話をしたところ、今日はお客樣で、甚太郎はどこへも行きはしない、お前が晝寢をして夢でも見たんだらうと冷かされた。孫八はじめてたぶらかされたことを知り、さては聞き及ぶあの邊の獺であらう、重ねて出たらば打ち殺してやると憤慨したが、翌日耕作に行くと、また甚太郎が出て來て、角力を取らうと云つた。今度はいささかも容赦せず、宙にひつさげ、岩角を目がけて投げ付けたから、頭を碎かれ、水の流るゝこと一斗ばかり、あとには獺の死骸が殘つたとある。この話は水邊でもなし、何のために角力を挑むのかよくわからぬ。わざわざ角力を取らうといふにしては、力もないやうだし、主人の子供に化けて來るあたりは、よほど狐狸の世界に接近してゐるが、角力といふ點でこゝに附載する。一つ穴なら貉だらうなどと、まぜ返してはいけない。

[やぶちゃん注:「太平百物語」は享保一七(一七三二)年の板行になる、菅生堂人惠忠居士なる人物の百物語系怪談本。五巻五十話。以上のそれは「卷之五」にある以下。国書刊行会の叢書江戸文庫版を参考に恣意的に正字化して示す。柴田はその夜の怪異以下のコーダを省略してしまっている。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 

    四十六 獺(かはうそ)人とすまふを取りし事

 

 さぬきの國に山城屋甚右衞門といふ者あり。一つ穴といふ所に田地を持ちける程に、常に下人を遣はして耕作をさせける。一日(あるひ)每(いつも)のごとく耕作に孫八といふ下人をつかはしけるに、主人の子甚太郎とて、今年十一才なるが、此一つ穴に遊びゐたり。孫八いふやう、「今日は高松の叔父君(おぢご)御出でありて、父上もてなし給ふに、何とて内には居給はぬや。はやはや歸り給へかし」といへば、此甚太郎返答(いらへ)もせずうちわらひ、「相撲をとらん」といふ。孫八もおかしながら、「いでさらば取り申さん」と、無手(むず)と組み合ひ、僞りて孫八まけければ、甚太郎悦び、「今一番」といふに、又取りてまけたり。甚太郎限りなく悦び歸りぬ。孫八も黃昏(たそがれ)に歸りて、甚太郎にいふやう、「扨々今日は一つ穴にて、二番迄相撲に負け申したり。無念にこそ侍るなり」と戲れて申しければ、甚右衞門夫婦いひけるは、「今日は高松の叔父御出でなれば、甚太郎は終日(ひねもす)他行(たぎやう)せず。何をかいふぞ」と申しければ、甚太郎もうちわらひ、「孫八が晝寢の夢をや見つるならん」と嘲(あざ)ければ、孫八ふしぎをなし、「正しく一つ穴にて相撲を取りしが、さては聞きおよぶあの邊の獺ならん。惡(にく)き事かな。重ねて出でなば、打ち殺さん」といひて、明(あけ)の日も耕作に行きけるが、案のごとく、又甚太郎に化(け)して、「すまふを取らん」といふ。孫八扨(さて)は昨日の獺ならんと思ひ、「心得たり」とて、頓(やが)て引つ組みけるが、孫八力量の者なれば、其まゝ宙に引つ提げ、かたへに有りし岩角を目當になげ付けければ、頭(かうべ)を巖(いはほ)に打ち碎かれ、水の流るゝ事一斗ばかりして、忽ち獺となりて死したり。孫八うちわらひ歸りて、甚右衞門夫婦にかくと語りけるが、其夜孫八に物の化(け)付きて、口ばしりけるは、「扨々(さてさて)情(なさけ)なや。わが夫(おつと)をよくも殺しぬ。われ此敵(かたき)を取らずんば、何(いつ)までも歸るまじ。惡(にく)や惡や」と叫びしかば、甚右衞門夫婦、是れにおどろき、頓(やが)て實相坊といふ修驗者を賴みて祈禱し、樣々に詫びければ、やうやうに物の化(け)落ちたり。然れども孫八心氣つかれて、其後は力量もおとろへ、病心者となりけるとかや。

   *]

 元祿十四年三月十七日の夜、金澤城外の杵畠といふところを、寺西何某の若黨が通りかゝると、自分より先を一人の女が步いて行く。今時分どこへ行くのかと思ふうちに、中途から五つ六つばかりの小坊主がひよつと出て來た。女は小坊主の手を引き、惣構への堀にかゝつた橋を渡る時、お前のやうな役に立たぬ者は邪魔になる、と云ふが早いか、小坊主を水の中へどぶんと投げ込んだ。これは化生の者に相違ないと思つて刀を拔き、汝何者ぞ、のがさぬと斬り付けたが、飛びのきざまに消え失せた。その顏色が世にも凄まじいものであつたため、若黨はそれから三十日ばかりわづらつた。――かういふ話が「四不語錄」に出てゐる。この杵畠のあたりには年を經た獺が住んでゐて、屢々人をたぶらかすといふ話であつたから、右の女もそれだらうといふのであるが、河童と獺には大分接近點があるやうな氣がする。これは殊に女の姿で、角力とは何の因緣もないけれど、夜道をすたすたと步いて行き、小坊主を水に投ずるあたり、別種類のものとは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「元祿十四年」一七〇一年。

「杵畠」不詳。識者の御教授を乞う。

「四不語錄」浅香山井著で正徳六(一七一六)年板行。私は所持しない。「山井」(「やまゐ」か? 浅香山の古歌に因むという)は号で本名は浅香久敬(きゅうけい 享保一二(一七二七)年~明暦三(一六五七)年)。加賀藩士で国学者。第四代藩主前田綱紀に仕え、国史・国文・神道に通じた。十五年の歳月をかけた「徒然草諸抄大成」(二十巻・(一六八八)年完成)を藩主に呈している。同書は江戸時代最大の「徒然草」注釈書とされる。]

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