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2017/01/17

柴田宵曲 妖異博物館 「大猫」

 

 大猫

 

 土井山城守の刈谷の城に小犬ほどの猫が居つた。大猫と名付けて、折々番人の目に觸れることはあつたが、別に仇をするやうなことはなかつた。或年の春、櫻がいつもより見事に咲いて、日もすぐれて長閑なことがあつたので、御番の侍達が申合せ、花を見ながら辨當を使はうと、外庭の芝原へ出た。その時どこから來たか、えもいはれぬ可愛らしい小猫が、赤い首輪を懸けて走り𢌞り、蝶と戲れ狂つてゐる。あまり美しい猫なので、暫く皆見惚れて居つたが、首輪をしてゐる以上は飼猫であらう、それにしてもこんな小さい猫が、どうして城内まで迷つて來たらうか、不思議だ不思議だと云ひながら、馴らすつもりで燒飯を一つ投げてやつた。小猫は直ちに走つて來て、その燒飯をくはへたかと思ふと、昔から住む例の大猫になつた。何だ、大猫の化けたのか、と云はれて逃げて行つたが、その後は遂に番人の目にもかゝらなくなつた。

[やぶちゃん注:「土井山城守の刈谷の城」三河国刈谷(かりや)藩藩庁。現在の愛知県刈谷市城町にあった。別名を「亀城」と称した。「土井山城守」は、出典(後述)の既注の上流作家只野眞葛(ただのまくず 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)との共時性から考えると、第四代藩主土井利謙(としかた 天明七(一七八八)年~文化一〇(一八一三)年)であろう。]

 澤口忠太夫が細橫町に化物が出ると聞いて、今夜是非一人で行つて見たい、大勢連れ立つて行けば、化物の方でも用心するでせうから、失禮ながら皆樣はこゝからお歸り下さい、と云ひ出した。望みに任せて一人やることにしたが、連れの人々もそこを立ち去らず、忠太夫の後姿を見守つてゐると、中程まで行つたと思ふ頃、ちょつと跼んで何かして居り、步き出したかと思へば、また跼むといふ風で手間取つて居る。そのうちに月の光りに、刀の閃くのが見えた。たしかに刀を拔いたに相違ないから、皆が駈け寄つて尋ねたら、今夜のやうな忌々しいことはない、今朝おろしたばかりのガンヂキの緒が、片足づつ二度切れた、やうやう繕つて穿いてゐると、うしろから押す者がある、引外して投げ斬りにしたが、そこの土橋の下に隱れた、搜して下さい、といふ。彼の云ふ通り、小犬ほどある大猫が、腹から咽喉まで斬られてゐた。この猫は菰にくるんで持ち歸つたが、首と尾とは外に垂れて出たさうである。

[やぶちゃん注:「細橫町」後の雪上歩行用の「ガンヂキ」が出ること、筆者只野眞葛(後掲)の経歴から考えて、これは現在の仙台市中心部を南北に走る幹線道路「晩翠通り(ばんすいどおり)」であろう。古く子の通りは「細横丁(ほそよこちょう)」と呼ばれていた(ウィキの「晩翠通を参照されたい)。]

 この二つの話は只野眞葛の「むかしばなし」に出てゐる。いづれも大猫と書いてあるが、可愛い小猫に化ける前の話が、長閑でありながら妙に無氣味である。後の話は電光石火の裡に斬られてしまふので、猫の妖味が十分にわからぬのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:これは仙台藩医の娘で女流文学者・国学者であった只野真葛の「むかしばなし」の「五」に別々に載る話である。所持する国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。一部、編者が訂正注した誤字は訂正されたものに入れ替えてある。【 】は底本で『原頭注』とあるもの。

   *

一、土井山城守樣の御國、刈屋の城に、小犬ほどの猫有。大ねこと名付て、折々番人見る事あれども、あだせし事なしとぞ。いつの比よりすむといふ事もしらずといふ事は、折々山城守樣の御はなしも有し由、父樣猫のはなしなどいでし時、度々はなしにも聞しが、數年をへてある春のことなりしが、花の盛いつよりも出來よく、日もすぐれて長閑のこと有しに、御番の侍申合せ、「餘りすぐれてよき天氣なり。花見ながら外庭の芝原にて辨當をつかわん」とていで居しに、いづくよりか來たりけん、えもいはれず愛らしき小猫の、毛色みごとにふちたるが、紅の首たが懸てはしりめぐり、胡蝶に戲れ遊び狂ふさま、あまり美くしかりし故、何れも見とれてゐたりしが、「首たが懸しはかい猫なるべし。かゝる小猫のいかにして城内までまどひ來にけん、あやしく」と云つゝ、手ならさんと思ひて、燒飯を一ッなげてあたへしかば、かの小猫はしり來りて、其やき飯をくはゆるとひとしく、古來よりすむ大猫と成しとぞ。「それ、大猫のばけしよ」といはれて、にげさりしが、其後番人たえて形を見ずとぞ。不思議のこととて御じきはなしにうかゞひしと、父樣被ㇾ仰し。

   *

一、覺左衞門養父澤口忠太夫と云し人も、勝たる氣丈ものなりし。十亥の年、かの細横丁の化物をしきりにゆかしがりて、いつぞ行てためさんと願て有しが、冬の夜やゝ更けて外より歸るに、雪後うす月の影すこしみゆるに、其橫丁を見通す所に至り、連も四人ありしを、つれの人にむかい、「扨私も他日此細橫町の化物出るといふを、行てためし見たく思しが、今夜願に叶ひし夜なり。何卒一人行て見たし。失禮ながら皆樣は是より御歸り被ㇾ下べし。打連行ば化物もおそるべし」と云しとぞ。望にまかせて壱人やりしが、連の人もゆかしければ、其所をさらで、忠太夫が後ろ姿を守り居しとぞ。中比にも行きらんとおもふに、下に居て少し隙どり又あゆみしが、又下にゐて何か際どり、二三間も行しとおもふと、又下に居しが、月影にひらりと刀の光見えたり。たしかに刀を拔しにたがはず、いざ行て容子を問んと、足をはやめて何れも來りしとぞ。「いかゞ仕たる」と故をといば、「扨今夜のやうなけちな目に逢し事なし。今朝おろしたるがんぢき【がんぢきははき物の名なり。】の緒が、かたしづゝ二度にきれしを、やうく繕ひてはきしに、爰にて兩方一度に又きれし故、つくろわんと思ひてゐし内、肩に掛りておすもの有しを、引はづしてなげ切にしたりしが、そこの土橋の下へ入しと見たり。尋ねて呉れ」といひし故、人々行て見たれば、小犬ほどの大猫の腹より咽まで切れて有しが、息はたえざりしを、引出したり。忠太夫かしらをおさへて、「誰ぞとゞめをさしてくれ」と云しを、うろたへて忠太夫が手をしたゝかさしたりとぞ。其さゝれたる跡は後までも有しとぞ。取返して忠太夫とゞめさしたり。薦にくるみて持歸りしが、首と尾は垂て出たりしとぞ。忠太夫は鐵砲の上手なりし。【猫の勝て大きなるは、いづくにて聞し咄しも、敷物などにくるめば首と尾の後先より出るほどか、狐か、ときこえたり。】

   *]

 加藤明成の家來に武藤小兵衞といふ二百石取りの士があつた。東澤田村といふところから、美女を召抱へて寵愛してゐたが、伊東三四郎といふ二百石取りの娘と婚約が出來たので、母の勸めに從ひ、前の女には暇を出した。然るにその女が澤田村から毎晩通つて來る。澤田村との間には鶴沼川、大川といふ二つの大河が流れてゐるのを、女の身で夜通つて來るのだから、その大膽に驚いたが、或冬の夜、小兵衞が夜咄に行つて遲く歸り、女の來るのを待つうちに、恐ろしい大雪になつた。小兵衞がとろとろとしたかと思ふと、女はその雪の中をやつて來て、障子を靜かに明け、枕許に佇むと思ふ間もなく、忽ち虎毛の大猫となり、小兵衞に飛びかゝつた。目を覺まして脇差を拔き、二刀刺したけれども、障子を破つて外へ出る。追ひついて斬り殺して見たら、太田又左衞門といふ鄰りの家に、年久しく飼はれた猫であつた。

「老媼茶話」にあるこの話は紛れもない化け猫である。もし小兵衞との情交が更に居いたら、猶は更に魔力を發揮し、種々の災禍を與へるところだつたらうが、事を急いだ爲に猫が先づ斬られ、武藤家は事なきを得た。

[やぶちゃん注:「加藤明成」(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は江戸前期の会津藩第二代藩主。ウィキの「加藤明成によれば、寛永八(一六三一)年の父加藤嘉明の死後、家督と会津藩四十万石の所領を相続した。慶長一六(一六一一)年の会津地震で倒壊して『傾いたままであった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築いた』。『堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて改易された。その後、長男・明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居し』た。『長男(庶子)の明友は、はじめ家臣に養われていたが取り立てられ、加藤内蔵助明友と名乗って加藤家を継』ぎ、天和二(一六八二)年に近江国水口藩二万石に『加増転封され、加藤家は幕末まで存続した』とある。

「東澤田村」「澤田村」不詳であるが、以下の同定からその辺りの旧村名と思われる。

「鶴沼川」「大川」現在、福島県会津若松市大戸町大川と南会津郡下郷町大字小沼崎に跨る、阿賀野川上流部に建設された「大川ダム」があるが、その南方の河川の分岐附近に「鶴沼発電所」があり、そこから東に流れるのが「鶴沼川」であるから、南下する川が「大川」であろう。会津地方でじゃ阿賀川は別に「大川」とも呼ばれる。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は既注の三坂春編(みさかはるよし)の「老媼茶話」の「卷之弐」の「猫魔怪(ねこまのかい)」の冒頭の一話。後も猫の怪であるから、序でに総て電子化する。所持する国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。編者が補正注したものはそちらを本文採用した。ルビはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附し、一部本文や読みを濁音化した。【 】は底本では二行割注。カタカナの読みは原典のもの。

   *

 

     猫魔怪

 

加藤明成の士、武藤小兵衞と云て、弐百石領、壱の町に住す。此小兵衞東澤田村といふ所より美女を召抱(めしかかへ)寵愛する。其先(そのさき)小兵衞妻に、伊藤三四郎と云(いひ)て【弐百石取三の町住(ずみ)】その娘を約(やく)せり。此故に母進めて其女暇(いとま)を出し家へ歸しけるに、其女澤田村より鶴沼川・大川とて二ッの大河を越て夜每に來り、枕をならべ契りを結ふ事、前のごとし。ある夜、冬の事なりしに、小兵衞夜咄しに行、夜更て歸り、女を待中(まつうち)に至て大雪崩すがごとく降(ふり)、其刻いつとなく小兵衞ねふりける。此折女雪もいとはず來りて障子を靜に明け、小兵衝が枕元に彳(タヽズミ)けるか、たちまち虎毛(とらげ)の大猫となり飛懸りけるを、小兵衞目を覺し脇差を拔(ぬき)突(つき)とめけるに、二刀(ふたかたな)差(ささ)れて障子を破り外へ出るを追續(おひつづけ)、切殺し、見るに隣の太田文左衞門と云ものゝ家に年久敷(ひさしく)飼(かひ)ける猫にて有けると也。

 著聞集(チヨフンシウ)に、觀教法印嵯峨のゝ山莊にてから猫を飼しに、能(よく)玉を取ければ、祕藏の守刀(まもりがたな)を取出し、玉に取らせけるに、件(くだん)の刀をくわへて何地(いづち)へやらん逃失(にげうせ)ぬ。人人尋求れとも行方知れず成りにき。猫またの所爲なりと記せり。猫年經て飼時は必ず災をなすもの也。

 加藤明成の侍に平田庄五郎【知行五百石馬場口に住ム】と云ものの老母、至て猫を祕藏し孫子といへども其(その)愛に不及(およばず)。

 ある年、諏訪の社(やしろ)へ詣(まうで)て閻魔堂の松原にて赤毛の猫を拾ひ大きに悦び、宿へ歸り祕藏して飼ける。其猫いつくともなく失(うせ)ける。まもなく庄五郎母目を煩ひあかるき所を嫌ひ、いつも闇(くら)き所にすむ。庄五郎、「目醫者に見せ療治をせん」といへとも、老母用ひず。老母そばつかひの女打つゞき弐人迄行衞なく失(うせ)て、行方を尋ぬれども見へず。或時、下男うらの畑を打(うち)けるに土底(つちそこ)より衣裳のすその見へけるまト、ふし義におもひふかく掘(ほり)て見るに、缺落(かけおち)せしといひける女弐人の衣裳朱(あけ)に染(そみ)たるを寸々(すんずん)にくらゐさき埋め置(おき)ける。生(ナマ)しき骸骨も有ける。大きに驚き、急此(いそぎ)衣裳を取持(とりもち)、主人庄五郎に告(つげ)んと内へ入らんとする折、老母いづくともなく駈來(かけきた)り、件の衣裳をもぎ取(とり)、「己(ヲノレ)、此衣裳・がい骨(コツ)の事庄五郎につげば忽(たちまち)喰殺(くひころ)すべし」と大きにいかりし面付(つらつき)、眼大きく口廣く、さもすさまじき氣色(けしき)なりしかは、下男ふるひわななき、それより虛病(きよびやう)して庄五郎方暇(いとま)を取(とり)ける。其後誰いふともなく、「庄五郎母は猫また也」と專ら沙汰する。

 庄五郎隣に梶川市之丞といふ侍、或時曉(あかつき)かけ遠乘(とほのり)に出(いで)んとして表を見るに、庄五郎老母口のうち血みどろにして、門未だ明(あか)ざるにひらりと塀を躍(ヲドリ)こへ、表に出、前の流れ水にて口をすゝぎける。興德寺前の山高忠左衞門が黑犬、一さんに飛來(とびきた)り、老母の左の腕にくらゐ付けるを、老母犬を振はなち、又高塀をおどり越(こえ)、内入(いる)。梶川見て、「扨は猫また、老母に化たるに疑ひなし」と思ひ、其夕べ庄五郎を呼び、今朝見し有樣細かに語りければ、庄五郎聞て、「扨は疑もなく、猫我母を喰殺し老母に變化(へんげ)たる物也。我母常々後生願(ごしやうねがひ)にて朝夕佛勤(つとめ)をなしけるが、去夏より佛に香花(かうげ)たむくる事なく、目に煩ひ有て、日の光りを見る事をいとひ闇き所にありて、終(つひ)に我にも對面(たいめ)せず。今おもふに猫は目の玉十二時に替(かは)る。此故にわれに對面する事をいとふ物ならん。さらば犬を懸(かけ)て見ん」とて、逸物(いつぶつ)の犬四五疋借りあつめ、老母の住める部屋へ放(はなち)て入れければ、犬ども老母をみて吠怒(ほえいか)り、四五疋の犬ども飛懸(とびかか)り、首骨・手足・腰・腹へおもひおもひにくらゐつく。老母正體をあらはし、さしもしたゝか成(なる)赤猫と也(なり)、四疋の犬どもと暫くかみ合けるが、四五疋の犬飛懸り飛懸り、散々に喰殺しける。是は去年、庄五郎母諏訪詣でける折、閻魔堂の邊よりひろひ來る猫老母をくひ殺し、己(おのれ)母に變化(へんげ)たるものなり。金花猫(きんくわねこ)とて、赤猫は年久敷(ひさしく)はかわぬもの也。

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