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2017/01/03

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)

 

 橋姫

 

 橋姫と云ふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀つて居た美しい女神のことである。地方によつては其信仰が夙く衰へて、其跡に色々の昔話が發生した。是を拾ひ集めて比較して行くと、些しづゝ古代の人の心持を知ることが出來るやうである。私は學問の嚴肅を保つ爲に、煩はしいが一々話の出處を明かにして、寸毫も自分の作意を加へて居らぬことを證據立て、斯う云ふ研究のすきな人たちの御參考にしようと思ふ。

 山梨縣東山梨郡國里村の國玉組(くだまぐみ)に、俗に國玉(くだま)の大橋と稱する橋がある。大橋などゝ云ふ名にも似合はぬ僅かな石橋で、甲府市中の水を集めて西南に流れ、末は笛吹川に合する濁川と云ふ川に架つて居る。今の國道からは半里ほど南であるが、以前は此筋を往還として居たらしい。一説には大橋ではなく逢橋であつたと云ひ、又行逢橋と云ふ別名もある。元は山梨巨摩八代三郡の境であつたと甲斐國志にあるが、果してさうか否かは知らぬ。百五六十年前に出來た裏見寒話と云ふ書の第六卷に次のやうな話がある。此橋を通行する者が橋の上で猿橋の話をすると必ず怪異がある。猿橋の上で此橋の話をしても同樣である。昔武藏國から甲州へ來る旅人があつた。猿橋が通る際にふと國玉の大橋の噂をした處がそこヘ一人の婦人が出て來て、甲府へ行かるゝならば此文一通國玉の大橋まで屆けて下されと云つた。其男之を承知して其手紙を預つたが、如何にも變なので途中でそつと之を披いて見ると、中には此男を殺すべしと書いてあつた。旅人は大いに驚き早速其手紙を殺すべからずと書改めて國玉まで携へて來れば、此橋の上にも一人の女が出て居つて、如何にも腹立たしい樣をして居たが、手紙を開いて見て後機嫌が好くなり、禮を敍べて何事も無く別れた。取留も無き話なれど國擧りて之を言ふ也とある。又今一つの不思議は、此橋の上で謠の『葵の上』を謠ふと忽ち道に迷ひ、「三輪」を謠ふと再び明かになると、是も同じ書物の中に書いてある。

[やぶちゃん注:謡曲名の鍵括弧の違いはママ。文庫版全集では孰れも「 」。但し、私はこの謎の違いを柳田は特に読者に喚起したのだと読む。

「山梨縣東山梨郡國里村の國玉組(くだまぐみ)」現在の甲府市国玉町(くだまちょう)。恐らくは、この「大橋五条天神社」のある附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。残念ながら、現存しない。ウィキの「国玉の大橋」を参照されたい。但し、その記載はこの柳田國男の「橋姫」の記載に大幅に依拠しているのでネタバレを嫌う方にはお勧めし兼ねる

「濁川」「にごりがは」。

「巨摩」「こま」。

「八代」「やつしろ」。

「甲斐國志」文化一一(一八一四)年に完成した甲斐国の地誌。全百二十四巻。編者は甲府勤番松平定能(さだまさ)。

「裏見寒話」「うらみのかんわ」と読む。甲府勤番野田成方(しげかた)が記した地誌・伝承集。宝暦二(一七五二)年序。

「猿橋」同じ旧山梨郡内、現在の大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる優れた形状を成す刎橋(はねばし)の名。ウィキの「猿橋」によれば、江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であったとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。国玉の大橋より遙か三十五キロ東方に位置する。]

 

 此話の單純な作り話で無いことは、第一にその鍔目の合はぬことが之を證據立てる。旅人がわざわざ書面を僞作して正直に持つて來たのもをかしく、其を見て橋姫が悦んだと云ふのも道理が無い。恐くは久しく傳へて居る中に少しづゝ雙化したものであらう。明治二十年前後に出版せられた山梨縣町村誌の中には、現に又更に變つた話になつて居て、此橋の上を過るとき猿橋の話を爲し或は「野宮」の謠をうたふことを禁ず、若し犯すときは必ず怪異あり。其何故たることを知らずとある。六七年前に此縣の商業學校の生徒たちの手で集められた『甲斐口碑傳説』中にある話は又斯んな風にも變化して居る。或人が早朝に國玉の大橋を渡る時に、「野宮」を謠へば怪ありと云ふことを思出し、試みに其小謠を少しばかり諷つて見た處、何の不思議も起らず二三町ほど行過ぎたが、向から美しい一人の婦人が乳呑兒を抱いてやつて來て、もしもし甚だ恐入りますが足袋のこはぜを掛けます間一寸此兒を抱いて居て下さいと言ふ。それでは私が掛けて上げようと屈みながらふと見上げると、忽ち鬼女の樣な姿になり眼を剝いて今にも喰附きさうな顏をして居たので、びつくりして一目散に飛んで歸り、我家の玄關に上るや否や氣絶した云々。是も小説にしては乳呑兒を抱けと言つたなどが、餘りに唐突(だしぬけ)で尤もらしく無い。

[やぶちゃん注:「鍔目の合はぬ」「鍔目」は「つばめ」で「鍔際(つばぎわ)」、刀身と鍔の接する箇所のこと。先の伝承のここかしこに、論理的整合性がない理解不可能な部分があることを差している。

「山梨縣町村誌」明治二十五年から二十七年(一八九二年~一八九四年)にかけて山梨市郡村誌出版所から刊行された「山梨県市郡村誌」(全三巻)のことかと思われる。

「野宮」(ののみや)は、先に出た「葵上」とは六条御息所の嫉妬と妄執をテーマとする点で共通するので大きな不審はない。時制的な経過から、現在的で強烈な生霊を主題とする「葵上」が、より夢幻能としての穏やかな「野宮」に入れ替わったのは逆に私は腑に落ちる。但し、その鬼女が後に出る妖怪姑獲鳥(うぶめ)風のものに変性する辺りには、本伝承の核にある、先に出た「金輪」に現われるような、女を鬼と成す強烈な嫉妬の情念のパワーが未だに潜在していることを逆に示すものと言えよう。

「諷つてみた」「うたつてみた」。

「六七年前に此縣の商業學校の生徒たちの手で集められた『甲斐口碑傳説』」明治末年から大正初年(明治四五(一九一二)年頃から大正二(一九一三)年頃か)にかけて編まれたものらしい。本「橋姫」の初出は大正七(一九一八)年一月の『女學世界』である。

「二三町」二百十九~三百二十七メートル。]

 

 さてどうして此樣な話が始まつたかと云ふことは、我々の力ではまだ明白にすることは難しいが、此とよく似た話が眞似も運搬も出來ぬやうな遠國に分布して居ることだけは事實である。不思議の婦人が手紙を託したと云ふ話は、先年自分の聞書きをした遠野物語の中にもある。陸中遠野の某家の主人が、宮古へ往つて歸りに閉伊川の原臺の淵の脇を通ると、若い女が來て一通の手紙を託し、遠野の物見山の沼に行き手を叩けば名宛の人が出て來るから渡して呉れと言つた。請合ひはしたものゝ氣に掛つて如何しようかと思ひながら來ると、道で又一人の六部に出逢つた。六部は其手紙を開いて見て、此を持つて行けばきつと汝の身に大きな災難がある。私がよい樣に書直してやらうと言つて別の手紙をくれた。其を携へて沼へ行き手を叩くと、果して若い女が出て書狀を受取り、其禮にごく小さな石臼を一つ與(く)れた。此臼に米を一粒入れてまはすと下から黃金が出る。それで後々は富裕の身代になつたと云ふ話である。羽後の平鹿郡大松川の奧に黑沼と云ふ景色の好い沼がある。沼尻に小さい橋があつて月夜などに美しい女神が出ることが折々あつた。昔此邊の農夫が伊勢參りの歸りに、奧州の赤沼の脇に休んで居たら、氣高い御姫樣が出て來て手紙を預け出羽へ行つたら之を黑沼へ屆けて下さい。其御禮には是をと紙に包んだ握飯のやうな重いものをくれた。此男は黑沼の近く迄來た時に、大きた聲で赤沼から手紙をことづけられたと呼ぶと、振袖を着た美しい女が出て之を受取り、大姉君の音信(たより)は嬉しいと、是も同じやうな紙包をくれたので、後に此二包を市に持出して錢に代へようとすると、汝(おまへ)一人の力ではとても錢では持つて還られまい。金で持つて還るがよいと貧つて山のやうな黃金をくれたので、忽ちにして福萬長者になつたと云ふ。此話は雪の出羽路と云ふ紀行の卷十四に出て居る。

[やぶちゃん注:「不思議の婦人が手紙を託したと云ふ話は、先年自分の聞書きをした遠野物語の中にもある」以下。一部に平仮名で私が読みを振った。カタカナのそれは原文のルビ。

   *

二七 早池峯(ハヤチネ)より出でゝ東北の方宮古(ミヤコ)の海に流れ入る川を閉伊(ヘイ)川と云ふ。其流域は卽下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池(イケ)の端(ハタ)と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、この川の原臺(ハラダイ)の淵(フチ)と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山(ものみやま)の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人いで來るべしとなり。此人請け合ひはしたれども路々(みちみち)心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部(ろくぶ)に行き逢へり。此手紙を開きよみて曰く、此を持ち行かば汝の身に大なる災(わざはひ)あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を與へたり。これを持ちて沼に行き教(おしへ)の如く手を叩きしに、果して若き女出でゝ手紙を受け取り、其の禮なりとて極めて小さき石臼を呉れたり。米を一粒入れて囘(マハ)せば下より黃金出づ。此寶物(タカラモノ)の力にてその家稍富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度に澤山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻りに自ら囘りて、終(つひ)には朝毎(ごと)に主人が此の石臼に供へたりし水の、小さき窪みの中に溜たまりてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁(カタハラ)にあり。家の名を池の端と云ふもその爲なりと云ふ。

   *

「羽後の平鹿郡大松川の奥」「黑沼」現在の秋田県横手市山内大松川にある。(グーグル・マップ・データ)。この伝承考と現況に就いては、個人ブログ「神が宿るところ」の黒沼(秋田県横手市)がよい。

「雪の出羽路」「雪の道奥雪の出羽路」かの菅江真澄が享和元(一八〇一)年に津軽から出羽に入った際の記録。]

 

 この二つの愉快な話とは反對に、氣味の惡い方面が國玉の大橋とよく似て居るのは、福山志料と云ふ書に採錄した備後蘆品郡服部永谷村の讀坂の由來談である。昔馬方が空樽を馬に附けて歸つて來る道で、一人の男に出逢つて一通の手紙を賴まれ、何心なく受取つたが屆け先の名を聞いて置かたかつたことを思ひ出し、ちやうど此坂路で出逢つた人に其狀を讀んでもらつた。名宛が怪しいので封を剝して文言を讀むと「一、空樽つけたる人の腸一具進上致候」と書いてあつた。さては河童の所業に相違なし、なるだけ川のある處を避けて還れと教へちれ、迂路をして漸く危害を免れた。其よりして此坂を讀坂と呼ぶやうになつたとある。卽ち手紙を讀んだ坂と云ふ意味である。此話に馬と空樽とは何の緣(ゆかり)も無いやうであゐが、河童は久しい以前から妙に馬にばかり惡戲(いたづら)をしたがるものである。六七年前早稻田大學の五十嵐教授が學生に集めさせて、『趣味の傳説』といふ名で公刊せられた諸國の傳説集の中にも豐後九十九峠の池の河童、旅の馬方の馬を引込まうとしてあべこべに取りて押へられ、頭の皿の水が飜れて反抗する力も無くなり、寶物を出しますから命ばかりは助けて下さい、手前の家は峠の頂上から細道を七八町入つた處にあります。そこへ此二品を持つて行つて下されば必す寶物と引換へますと言つて渡したのがやはり一通の手紙と樽であつた。此馬方は字が讀めたので、途中で樽の臭の異樣な事に心付いて手紙を開いて見ると、「御申付の人間の尻子百個の内、九十九個は此男に持參致させ候に付御受取被下度、不足分の一個は此男のにて御間に合せ被下度候。親分樣、子分」とあつたので、喫驚して逃げて來た。それより此峠の名も九十九峠と書くやうになつた云々。

[やぶちゃん注:「福山志料」福山藩(主に備後国(現在の広島県東部)南部、備中国南西部(岡山県南西部)を領有)儒官で儒医でもあった菅茶山(かんさざん)の手になる福山藩の地誌。文化六(一八〇九)年成立。

「備後蘆品郡服部永谷村の讀坂」「蘆品」は旧郡名で「あしな」と読み、この村は現在の広島県福山市駅家町(えきやちょう)服部永谷(はっとりながたに)で、現在は地区(グーグル・マップ・データ)。「讀坂」(よみざか)の位置は不明。

「空樽」文庫版全集は「あきだる」とルビする。

「腸一具進上致候」「はらわた、いちぐ(:一揃え。)、しんじやういたしさふらふ」。

「五十嵐教授」五十嵐力(いがらしちから 明治四(一八七四)年~昭和二二(一九四七)年)は国文学者。但し、彼が新設の早稲田大学文学部国文科主任教授とあるのは大正九(一九二〇)年で、本初出の後である。昭和九(一九三四)年六月単行本刊行時ならば正しい。

「『趣味の傳説』といふ名で公刊せられた諸國の傳説集の中」の「豐後九十九峠の池の河童」「趣味の傳説」は五十嵐力著として大正二(一九一三)年に二松堂書店から刊行されている。当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来。本書の「小序」によれば、明治四十年頃から数年間、五十嵐が担当した早稲田大学文科の「作文」の講義のレポートが元であり、書いた学生の姓名も一覧で記されてある。「九十九峠」は「つくもたうげ」であるが、位置が判らぬ。当初、別名「九十九(くじゅうく)曲がり」とも呼ばれる現在の熊本県阿蘇郡高森町(まち)にある高森峠かと思ったが((グーグル・マップ・データ))、リンク先の本文に出る豊後の「高瀨村」とは(グーグル・マップ・データ)で、方向違いである。識者の御教授を乞う。]

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