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2017/01/04

小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」

 

     □夫人

 

 芥川の「或舊友へ送る手記」は明らかによそゆきのものであらう。芥川が生前に白い西洋封筒にいれて封じ、僕にいくつか渡してゐたものの中の一つには、

 

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に□夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた爲に(□夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。なほ又僕と戀愛關係に落ちた女性は□夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新に情人をつくつたことはなかつた。これも道德的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を計算した爲めである。(しかし戀愛を感じなかつた譯ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と言ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。)僕はこの養父母に對する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる靑年のやうにいろいろ夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟氣違の子だつたのであらう。僕は現在僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。

              芥川龍之介

[やぶちゃん字注:署名は底本では下三字空けインデント。]

 

P.S 僕は支那へ旅行するのを機會にやつと夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客棧にストリンドベリイの「痴人の懺悔」を讀み、彼も亦僕のやうに情人に噓を書いてゐるのを知り、苦笑したことを覺えてゐる。)その後は一指も觸れたことはない。が、執拗に迫ひかけられるのは常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苫しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジュアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

 

といふのがある。

[やぶちゃん注:ここで小穴が彼宛てに昔渡されたものだとする芥川龍之介の遺書は正規の芥川龍之介の小穴隆一宛遺書として実在現存する。私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」の中から、最終的に私が読み易く整序したもの(そこでは判読原本の復元もしている)を以下に示す。句点の後の字空き(芥川龍之介は遺書では句読点を末字と同じマスに打ち、次のマスを空けている)は原稿を再現したものである。

   *

 

●6 小穴隆一宛遺書≪整序版≫

 

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。 僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。 しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。 僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。 唯相手を選ばなかつた爲に(秀夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。) 僕の生存に不利を生じたことを少なからず後悔してゐる。 なほ又僕と恋愛關係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。 しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかつた。 これも道德的につくらなかつたのではない。 唯情人をつくることの利害を打算した爲である。 (しかし恋愛を感じなかつた訣ではない。 僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、 深入りしない前に脱却した。) 僕は勿論死にたくない。 しかし生きてゐのも苦痛である。 他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。 が、 僕は一人ならば或は自殺しないであらう。 僕は養家に人となり、 我侭らしい我侭を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。 僕はこの養父母に對する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。 しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。) 今僕が自殺するのは一生に一度の我侭かも知れない。 僕もあらゆる靑年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。 けれども今になつて見ると、畢竟氣違ひの子だつたのであらう。 僕は現在は僕自身には勿論、 あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。

             芥川龍之介

[やぶちゃん字注:署名は底本では下二字半空け(一行二十字原稿用紙)インデント。]

 

 P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやつと秀夫人の手を脱した。 (僕は洛陽の客桟にストリントベリイの「痴人の懺悔」を讀み、 彼も亦僕のやうに情人に譃を書いてゐるのを知り、 苦笑したことを覚えてゐる。) その後は一指も触れたことはない。 が、 執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。 僕は僕を愛しても、 僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。 僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

 

   *

漢字表記の違いや読点の落ちを無視すると、ここに小穴が記したものとは、実に二箇所の違いしかない。

・(小穴)「計算」→(現存遺書)「打算」

・(小穴)「氣違ひ」→(現存遺書)「氣違」

されば、これは小穴隆一宛遺書の草稿ではなく、決定稿であったと考えてよい。なお、この遺書については、先の私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」の原稿復元の箇所で極めて詳細な注を附してあるので、そちらを参照されたい。ここではそれは繰り返さぬ。

 

「□夫人」「秀夫人」。既出既注の秀しげ子。

「或舊友へ送る手記」これ(リンク先は私の正字正仮名の古い電子テクスト)。旧全集の後記には昭和二(一九二七)年八月四日の雑誌『文藝時報』第四十二号に発表とあるが、死の当日の一九二七年の七月二十四日(日曜日)夜九時、自宅近くの貸席「竹むら」で久米正雄によって報道機関に発表されており、それが死の翌日の二十五日(月曜日)附『東京日日新聞』朝刊に掲載されているから、それを初出とすべきものである。]

 

芥川は僕にこれを昭和二年のはじめに渡してゐるが、それよりも前に鶴沼で、○○○子(口夫人)との交合の場合の、「動物的本能」といふか執拗といふのか、彼女のそれを、必要以上にくどくど聞かせてゐて、なぜまたそのうへにかやうに書いたものまで渡してゐたものか。(これは世に殘ることを意識して書いてゐる「或膏友へ送る手記」以前のものである。)僕にはいまだに芥川のその考へはわからない。(「或阿呆の一生」二十一、參照)

[やぶちゃん注:「○○○子(口夫人)」秀しげ子(秀夫人)。

『「或阿呆の一生」二十一』私の古い電子テクスト「或阿呆の一生」から引く。

   *

 

       二十一 狂人の娘

 

 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。

 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。

 「もうどうにも仕かたはない。」

 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。

 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

 

   *]

 芥川は僕に渡したものには、その相手の名をはつきり□夫人と書いてゐる。口夫人は、世にいふ閑秀歌人、芥川の言ふところによれば高利貸の娘であり、藝者の娘であり、狂人の子であつて○劇の電氣技師の夫人である。

[やぶちゃん注:「高利貸の娘であり、藝者の娘であり、狂人の子であつて○劇の電氣技師の夫人である」秀しげ子の父小瀧顯八(姓の読みは「をたき」或いは「をだき」。後者の可能性が高い)は高利貸業を営んでいた。母は「たすけ」で芸妓であった時期がある。しげ子は明治四五(一九一二)年四月に日本女子大学校を卒業し、程なく帝国劇場(「○劇」は「帝劇」の伏字)の電気部主任技師であった秀文逸(ぶんいつ)と結婚していた。以上は歯科医師で文学研究家の高宮檀氏の「芥川龍之介を愛した女性」(二〇〇六年彩流社刊)に拠る。]

 芥川は「河童」を書上げればもういつ死んでもよいと言つてゐた。しかし、□夫人の性情といつたものが確かに芥川の「河童」のモティフにはなつたらうが、「書上げればもういつ死んでもよい。」と言つてゐたほどの、喘ぎにあへいでゐた芥川の苦惱は、「河童」のどこににじみでてゐるといふのであらう。「河童」は餘力のなくなつた芥川といふものを考へさせる。

[やぶちゃん注:「河童」は昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表されている。私は「河童」の正規電子テクスト詳細なオリジナル注釈の外に、『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』をも電子化公開している。]

「或阿呆の一生」三十八、復讐に、帝國ホテルの露臺で口夫人が、「あの子はあなたに似てやしない?」と芥川に言ひ、芥川が「似てゐません。第一……」と言ふ、さらに□夫人が「だつて胎教といふこともあるでせう。」と言ふ會話がのつてゐる。芥川は□夫人と交合の際、コンドームを使つてゐたことを僕に言つてゐたが、コンドームが避妊用としても常に安全であるかどうかを保證するのは、その發賣元のまはし者ぐらゐのものであらう。(ともあれ□夫人と通じたことは彼には致命的な結果を招いたことの一つである。)僕は芥川に自決の志をつたへられてから、決行されてしまふまで、僕の意見を求められればともかく、ただ芥川の話を聞いてゐるだけで、なるべく芥川の氣の休まるはうへとばかり考へてゐたので、これといつて話を問ひつめて聞いた覺えはたえてないが、いづれは自殺を決行してしまふ芥川に、いやでも聞いておかなければ、生涯芥川を疑ふことになるのがいやで、唯一度、死ぬ一ト月足らず前に、「ほんとにその子は似てゐないの?」と言つたことがある。芥川はそのとき、向ふむきになり、疊の上にひつくりかへつて、「それがねえ、困るんだ。」とつぶやくやうに言つてから、またひつくりかへつて僕にゐざりよりながら、「君の足を撫でさせろよ。」と僕の踝から下のない右足を捉へてはなさずに、(僕の下宿で僕は義足をはづしてゐた、)撫でさすつてゐてから、左膝を枕にして、「ここにかうしてゐると氣が休まるよ。僕には君が僕の母親の生れかはりのやうに思へる。」としよんぼりして言つてゐた。(芥川のいふところによると、芥川の母の死んだ日か翌日かが僕の生れた日に當つてゐる。)僕はそのやうすをみてゐるので生涯芥川といふ人間を愛しつづけてゐるが、まだ一度もみてゐない子、□夫人が一人の少年をさして、「あの子はあなたに似てゐやしない?」と言つた、その子が芥川龍之介の子であるかもしれないといふ疑ひは捨てさることができない。

[やぶちゃん注:『「或阿呆の一生」三十八、復讐』同様に私の電子テクストから引く。

   *

 

       三十八 復  讐

 

 それは木の芽の中にある或ホテルの露台(ろだい)だつた。彼はそこに畫を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶緣した狂人の娘の一人息子と。

 狂人の娘は卷煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。

 少年のどこかへ行つた後(のち)、狂人の娘は卷煙草を吸ひながら、媚びるやうに彼に話しかけた。

 「あの子はあなたに似てゐやしない?」

 「似てゐません。第一………」

 「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」

 彼は默つて目を反らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、殘虐な欲望さへない譯ではなかつた。

 

   *

 

『「君の足を撫でさせろよ。」と僕の踝から下のない右足を捉へてはなさずに、(僕の下宿で僕は義足をはづしてゐた、)撫でさすつてゐてから、左膝を枕にして、「ここにかうしてゐると氣が休まるよ。僕には君が僕の母親の生れかはりのやうに思へる。」としよんぼりして言つてゐた』芥川龍之介はこの奇妙に性的なフェティシュな仕儀をしばしば小穴に望んだようである。後の「最後の會話」でも死の四日前の昭和二(一九二七)年七月二十一日にも小穴の下宿を訪れ、『僕の足を撫でて歸つた』とある。但し、その描写はここと酷似しており、同じシークエンスのように思われ、或いは「死ぬ一ト月足らず前」というのは小穴の誤認の可能性もないとは言えない。

「芥川のいふところによると、芥川の母の死んだ日か翌日かが僕の生れた日に當つてゐる」冒頭の私の注で述べた通り、小穴隆一は明治二七(一八九四)年十一月二十八日生まれであるが、その誕生日の日付は芥川の実母フクの命日(没年は明治三五(一九〇二)年)と同月同日である。]

 なぜ、芥川は自殺を擇むだか? なぜ、命數にまかせて生きることを面目を失ふ事と考へてゐたのか? なぜ、死を急ぐ必要を感じてゐたか? 狂人の子である芥川は、(「或阿呆の一生」二、母、參照)發狂を怖れてゐた。〔彼は自身で自分の破壞されてゆく頭腦の動く形を充分に承知してゐた。〕と僕は昔の「二つの繪」にはさう書いたが、最近の佐藤春夫に、『「齒車」の中に書かれてある現象、あれは眼科のはうの醫者の教科書にもあることで、芥川はそれを讀んで知つてゐて書いたことだらうか、芥川のことであるから多分讀んでゐてああいふことを書いてゐたのであらうが』と教へられたのは、參考になる話である。

[やぶちゃん注:『「或阿呆の一生」二、母』前期同様に私の電子テクストから引く。

   *

 

       二 母

 

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讚美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善(よ)い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黑光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

 

   *

『「齒車」の中に書かれてある現象、あれは眼科のはうの醫者の教科書にもあること』後に眼科医も芥川龍之介関連論文で述べているように(当該論文単行本を所持するが、書庫の底に沈んで出てこないので諦める)、「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状のことを指す。ウィキの「閃輝暗点」より引く。『片頭痛の前兆現象として現れることが多い症状で、定期的に起こる場合が多い。英語名は「偏頭痛オーラ」を意味するMigraine aura」(マイグレイン・オーラ)。Scintillating scotomaとも』称する。『まず、視覚障害が起きる。突然、視野の真中あたりに、まるで太陽を直接目にした後の残像のようなキラキラした点が現れる。視界の一部がゆらゆら動きだし、物がゆがんで見えたり、目の前が真っ暗になったり、見えづらくなる。その後、みるみるうちに点は拡大していく。ドーナツ状にキラキラと光るギザギザしたガラス片や、ノコギリのふちのようなもの、あるいはジグザグ光線のような幾何学模様が稲妻のようにチカチカしながら光の波が視界の隅に広がっていく。これは無数の光輝く歯車のような点が集まり回転しているようでもあり、視界の大部分が見えなくなることもある。これらの視覚的症状は短時間に進行する。そしてこの閃光と暗点は』五分から四十分ぐらいで『広がって、視野の外に出て消えて行く。この症状は目を閉じていても起きる。症状が治まった後、引き続いて片頭痛が始まる場合が多い。この後に頭が割れてしまいそうな激しい片頭痛が』三〜四時間『続き、強烈な吐き気・嘔吐などを伴うことが多い』。『これら症状は若年の場合、年齢と共に回数も減り』、『その内にほとんど起こらなくなる』。『中年の場合で、閃輝性暗点だけあって、その後に頭痛を伴わない場合は、まれに脳梗塞、脳動静脈奇形、脳腫瘍や、血栓による一過性の脳循環障害が原因である可能性がある』。以下「原因」の項であるが、引用元や文献が明記されていないので、一説として読まれたい。『眼球の異常ではなく、ストレスがたまり、ホッとしたときにこの症状に見舞われることが多い。片頭痛の原因は、頭の血管が何らかの誘因で収縮し、その後異常に拡張すると共に血管壁に炎症・浮腫をおこすためと言われている。閃輝暗点が起こる原因は、脳の視覚野の血管が収縮し、一時的に血の流れが変化するためと考えられている。チョコレートやワインの飲食でなりやすいと言われている』。「療法」の項。『閃輝性暗点が起きたら、眼科と神経内科のある総合病院で、コンピュータ断層撮影法(CT)や核磁気共鳴画像法(MRI)による精密検査を受診することが望ましい』。『尚、閃輝暗点が起きてからの対症療法は、閃輝暗点中に前もって「ロキソニン」「ハイペン」などの鎮痛薬を飲んでおくと、幾分軽く済むようである。 亜鉛、カルシウム、マグネシウムのサプリメントは、閃輝暗点が起きないようにするための対処法である』。『芥川龍之介の作品『歯車』のなかで、龍之介が激しい頭痛と共に目にしたと記述している「歯車」はこの閃輝暗点だと言われている』と附言されてある。]

 芥川は宇野浩二のことばかりにではなく、彼自身齋藤茂吉(故人)の診察を受けてゐる。僕は齋藤茂吉に芥川の死後二三囘會つてはゐるが、芥川のことで話をしたことは一度もなかつた。

[やぶちゃん注:「宇野浩二のこと」芥川龍之介の盟友で「文学の鬼」と呼ばれる作家宇野浩二(明治二四(一八九一)年~昭和三六(一九六一)年)は芥川龍之介自死の二ヶ月前の昭和二(一九二七)年五月末に発狂と称してよい変調をきたし、芥川龍之介は率先して齋藤茂吉の診察を受けさせ(六月二日)て入院治療を勧め、この六月上旬には嫌がる宇野を王子にあった精神科病院小峰医院に入院させている。宇野の発狂は自身の発狂の遺伝を怖れていた芥川龍之介にダメ押しの大きなショックを与えた。彼は芥川龍之介の死後、治癒したとされて文壇に復帰しているが、発症前と後の文体が完全に変化している点から見ても脳の大きな変性が疑われ、私は彼の精神異常は脳梅毒による外因性精神病、誇大妄想を顕著にする進行性麻痺であったと考えている。因みに私は宇野浩二の「芥川龍之介」(上巻下巻)を電子化注している)。なお、芥川龍之介のその衝撃は彼の自死の直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の雑誌『改造』に掲載された「三つの窓」の「三 一等戰鬪艦××」に痛ましいまでにカリカチャライズされてある。未読の方は、是非、読まれたい。]

 帝國ホテルの露臺で、「あの子を御覺なさい。似てゐませう?」と□夫人が芥川に言つた、それは、□夫人は芥川が書殘してゐるやうな復讐といふ意味でさういつたのではなく、むしろ、□夫人一人の幸福感でさう言つてた言葉であつたのかも知れない。

[やぶちゃん注:「さう言つてた」はママ。]

 

 滑稽にも女人にはをりふし、交合のない、忌嫌ふ男の容貌にさへ似た者を産む場合さへある。

 芥川は、「Oの新秋」――僕が相州鵠沼海岸伊二號に借りてゐた家の庭で、猫のやうにそうつとして松葉や松ぼくりを搔きあつめ、幾册かの大學ノートを燒いてゐたことがあつた。僕は顏をほてらしてゐる芥川を見てみぬふりで手傳はず、默つたままで然してしまふのを待つてゐたが、芥川は燃してしまふとそのまま、自分の家に歸つてしまつた。(芥川は伊四號に住む。家主はひとつ人で、庭と庭との間には垣がないのだ。四七頁の圖面參照。)

[やぶちゃん注:ダッシュの後ろが繋がっていないのはママ。底本では最後の「四七頁の圖面參照」の部分だけポイント落ちである。「圖面」とは「鵠沼」に挿入されてある小穴隆一自筆の鵠沼の小穴の借家別荘附近の見取り図。そこで掲げる。

Oの新秋」大正一五(一九二六)年九月発行の雑誌『文藝春秋』に掲載された芥川龍之介の小品。私の電子テクストを読んで戴くと判るが、ここに書かれている内容は、そこには出ない。]

 

 刻明な讀者はここで、芥川が□夫人と關係した年齡が、芥川の口で言つてることと書いてゐるものとでは、そこに一年のちがひがあるのに氣づかれてゐるであらう。芥川の大正八年九月十日の日記には「□夫人と會ふ」と誌してあるといふ。大正八年ならば口で言つてゐたその年にあたり、二十九歳と書いてあるちがひは、芥川が二十九歳のときに□夫人が出産してゐる、そのあたりからの錯覺からきてゐるのであらう。芥川は僕に、「君にもう一年はやく會つてゐたならば、僕もかういふまちがひを起さずにすんだのだが、」といふことを言つてゐたものである。

[やぶちゃん注:『芥川の大正八年九月十日の日記には「□夫人と會ふ」と誌してあるといふ』誤り。但し、この日に秀しげ子と逢ったことは間違いない。但し、これは初会ではなく、この三ヶ月前の大正八(一九一九)年六月十日の「十日會」(当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていた文学サロンで、大正五・六年から一二年の大震災までの時期は万世橋の西洋料理店「ミカド」で徳田秋声・齋藤茂吉・広津和郎らの主に若手の文学者や女流作家(画家や歌人が多かった)・作家志望の青年などが参加していた。毎月一〇日に泡鳴からの案内ハガキにより会費制で開かれていた。この六月十日当日の参加者の中に芥川龍之介のファム・ファータル、歌人秀しげ子がおり、龍之介は一目惚れしてしまうのである)が初対面である。現行知られている、その日記「我鬼窟日錄」の当日の記載は以下の通り(リンク先は私の注附き電子テクスト)。

   *

 九月十日 雨

 午後菊池の家へ行く。宮島新三郎が來てゐる。三人で月評を作る。

 夕方から十日會へ行く。

 夜眠られず。起きてクロオチエがエステテイクを讀む。

   *

但し、これは全集に載るものであり、或いは「秀夫人と會ふ」とあったとしても、おかしくはない。しかし残念ながら、「我鬼窟日錄」の原本は現在、行方不明である。「夜眠られず」は如何にも意味深長である。この晩に何かあった、或いは、密会の約束が二人の間で間で交わされたと考えてよい。二人が実際の肉体関係に堕ちたのは、この五日後の同年九月十五日であった可能性が高いと考えられている。

『芥川は僕に、「君にもう一年はやく會つてゐたならば、僕もかういふまちがひを起さずにすんだのだが、」といふことを言つてゐた』これも意味深長な謂いである。私はこの言葉の背後に芥川龍之介の小穴への強い同性愛傾向を感ずるのである。]

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