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2017/01/10

小穴隆一 「二つの繪」(14) 「妻に對する、子に對する、」

 

      妻に對する、

      子に對する、

 

 僕の家の勝手口からはいつてきた芥川は、いつもとちがつた明るい顏で言つた。

「僕はやつと安心したよ。僕の讀者は三千ある。僕が死んでも全集が三千は出るとやつとけふさう自信がついた。三千出れば死ねる。」

 朝、わりあひ早くきて、さう言ふとそのまま歸つていつた。伊四號の家から別の家に移つてゐたときのことであつたが、芥川はきまつて勝手口から音もなく(麻裏草履で砂地であるためもあるが、)すうつとはいつてきてゐた。伊四號の家にゐたときには懸垂の要領で窓から首をさきにだし、猫のやうにはいつてきて、緣側から上つてくるとか、玄關からはいつてきたといふためしはなかつた。(鵠沼での話)

[やぶちゃん注:「懸垂」「けんすい」。鉄棒のそれで、腕の力で体を持ち上げること。]

 昭和二年に、芥川の第一囘の全集が岩波から出た時の部數は五千七百、漱石全集の第一囘の時よりも七百多いといふ話であつた。全集といふものは、第一册より二册目、三册目と、多少月々に滅つてゆくものであるが、その減りかたが少ないのを木版屋の都築(故人)が感心してゐた。出版屋といふものは木版屋に十減れば十だけ注文を減らすので、割合確かな數が知れてくるものだが、芥川の全集といふものは他の人のに比べると減り方は少ないらしい。

[やぶちゃん注:「昭和二年に、芥川の第一囘の全集が岩波から出た時」昭和二(一九二七)年十一月から刊行が始まり、昭和四年二月に終了した全八巻から成る、岩波書店刊の第一次元版全集。編集委員は、この小穴隆一を始めとして、谷崎潤一郎・恒藤恭(芥川龍之介の一高以来の無二の親友。旧姓井川(いがわ)。法学博士)・室生犀星・宇野浩二・久保田万太郎・久米正雄・小島政二郎(まさじろう)・佐藤春夫・佐佐木茂索・菊地寛という錚々たるメンバーであった。装幀も小穴が担当している。

「漱石全集」夏目漱石は大正五(一九一六)年十二月九日に胃潰瘍のために満四十九歳で亡くなったが、大正七年一月一日から翌八年六月に終了したのが例の岩波書店菊版「漱石全集」十三巻であった(同年十一月に同別巻一巻を追加刊行、同補遺一巻が大正一四(一九二五)年に刊行されている)。

「都築」不詳。「木版屋」とあるから小穴隆一と親しい印刷業者であろう。]

 芥川と話をしてゐると、きまつて、「死ぬ話をしようや、」に話をもつてゆく。さういふ芥川はいつも「僕の女房は自分には過ぎた者だ。」と言つて淚を湛へてゐた。「女房も僕のやうに、過去に過失を持つてゐてくれる女であれば、また、今日に、或は先きにいつてでも過失を犯してくれるやうな人間であつてさへくれるのなら、どれほど僕の氣持は救はれるか」と搔き口説いてゐた。

 芥川の遺書のなかには、〔一、もし集を出すことあらば、原稿は小生所持のものによられたし。二、又「妖婆」(「アグニの神」に改鑄したれば、)「死後」(妻の爲に)の二篇は除かれたし。〕といふ字句があつた。

[やぶちゃん注:私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の「芥川文子宛遺書断片」を参照されたいが、現在、遺書のこの部分は現存しないのでこの小穴隆一の証言は非常に重要である

「妖婆」大正八(一九一九)年九月及び十月発行の『中央公論』に発表。当初、この怪奇小説に芥川龍之介は相当な自信を持っていたが、前半発表に直後に佐藤春夫が、最初から失敗している、と批評したからか、急速に自信を失った。生前の単行本にも未収録で、現行でも総じて評価は低く、研究者の本作への言及も少ない。以上は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の一柳廣孝氏の解説に拠った。

「アグニの神」大正一〇(一九二一)年一月及び二月発行の『赤い鳥』に発表、翌三月に刊行された第五短編集『夜來の花』、大正十一年十月刊の作品集『奇怪な再會』(金星堂刊)にも収録され、生前から企画しながら没後の刊行となった小穴隆一画に成る童話集『三つの寶』にも所収している。

「改鑄」「かいちう(かいちゅう)」鋳(い)なおすこと、鋳造し直すことで比喩表現。

「死後」大正一四(一九二五)年九月発行の雑誌『改造』に発表。私の「死後」の古い電子テクストを読んで戴くと、彼が『妻の爲に』と理由を添えた意味が判る。]

 芥川は鵠沼で、「女房のおふくろが君、自分の亭主が死んだときに、誰もわたしに再婚しろと言つてくれる人がなかつたと、まるで怒つてでもゐるやうに言つてたよ。」と言つてゐたことがある。(塚本さんの旦那さんは初瀨の機關長、日露戰爭のとき艦の沈むに殉じて死んだ。芥川の話だと、兵學校、大學ともに首席で通した人。芥川は兵學校と言つてゐたが、機關學校の言ひちがひであらう。)芥川が死にたがつてゐると知つて、塚本さんがさういふことを口にしてゐるのは了解できるが、さういふことを言はれたためであるのかどうか、芥川の夫人に宛てた遺書のなかには、僕といつしよなれと書いてあつたのもあつてみせられたが、それでもつて僕は新原得二に「六ケ月たつてみなければ……」といふ二つの意味をふくめた心外な嫌味を言はれてゐる。(芥川はこの實弟と實姉とは義絶せよと家人に書いてゐた。)多分芥川のところの年寄達も當時腹の中では、なにか新原と似た考へを持つたことであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「自分の亭主が死んだとき」芥川龍之介妻芥川(旧姓塚本)文(ふみ 明治三三(一九〇〇)年七月八日~昭和四三(一九六八)年九月十一日)は東京府生まれで、海軍少佐塚本善五郎と妻鈴の娘であった。ウィキの「芥川文」によれば、善五郎は日露戦争で第一艦隊参謀少佐として明治三七(一九〇四)年二月に新造された戦艦「初瀬」に乗艦して出征したが、同年五月十五日、旅順港外で「初瀬」が機械水雷に接触して轟沈、御真影を掲げて艦とともに運命をともにしている。鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)によれば、鈴の生年は明治一四(一九八一)年三月九日であるから、夫善五郎殉職時は未だ二十三歳で、彼女の鬱憤も判る。因みに芥川龍之介自死の折りの文は満二十七であった。

「初瀨の機關長」前注から誤り。以下の小穴隆一の推定も誤りが元だから、誤り。

「芥川の夫人に宛てた遺書のなかには、僕といつしよなれと書いてあつた」私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の「芥川文子宛遺書断片」を参照されたいが、現在、遺書のこの部分は現存しないのでこの小穴隆一の証言は非常に重要である。私は、意図的に削除されているからこそ、小穴隆一の証言は真実であると考えている。何より、芥川龍之介は「わが子等に」とした遺書(上記リンク先参照)で、

 

 小穴隆一を父と思へ。 從つて小穴の教訓に從ふべし。

 

とさえ述べているからである。

「二つの意味」私が馬鹿なのか、一つは判らぬ。誰か、教えて戴きたい。]

芥川は二度ばかり僕に「僕は子供を大事にしない女は嫌ひだ。」と言つてゐたことがあつた。いつも話になんの連絡のないとき言つたのであつたから、それがこちらには突然でて耳に殘つてゐる。

[やぶちゃん注:私は 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』で考察したが、彼の「わが子等に」とした遺書を読むに、芥川龍之介が自死したのは龍之介自身が三人の子等に対し〈より良き父〉であろうとしたことを大きな動機とするものであると大真面目に信じている人間である。]

 關東大震災のすぐあとであつた。(芥川がまだ死ぬ話をしない前のこと、)芥川のところから渡邊町へでる角のところで、(よくそこの家角までくると家庭の話を聞かせてゐたものだ。)聲を小さくして、「女房がわたしも小さい文房具屋をやつてみたいといつてゐる、」と言つてくすつと笑つてゐた。それからその場所で、「女房は子供を一人は小説家、一人は畫かき、一人は音樂家にしたいといつてゐるのだ、」といかにも滿足してゐる顏で言つてゐたこともある。

[やぶちゃん注:「渡邊町」田端の南西の旧日暮里渡辺町、現在の荒川区西日暮里四丁目一帯であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「女房は子供を一人は小説家、一人は畫かき、一人は音樂家にしたいといつてゐる」長男芥川比呂志は俳優、次男多加志は昭和二〇(一九四五)年四月十三日にビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦にて胸部穿透性戦車砲弾破片創により二十二の若さで戦死したが、芥川龍之介の遺伝子を最も受け継いでおり、生きていれば作家となっていたかも知れず(私のブログ・カテゴリ「芥川多加志」を参照)、也寸志(彼の名は後で小穴も推測している通り、龍之介の畏友恒藤恭(きょう)の「恭」の訓読みから採られたもの)は音楽家となった。]

「女房は子供たちのためにもいつしよに死ねないと言つてゐる、」と芥川は言つてゐた。子供達といふのは、比呂志(菊池寛のひろしをとつて、ひろしと名づけた)多加志(これは僕の隆一の隆をたかしと讀ませてたかしと名づけた。ビルマの最後の戰鬪で死を傳へられたままになつてゐる子供、)也寸志(この名のゆかりは恒藤恭のやすしであらう)の三君である。

 比呂志君が生れたときのことであつたと思ふが、芥川は、丁度きた屑屋の秤で目方をはかつて貰ひ、目方が多かつたといふことを言つてゐた。これは一寸、芥川らしくない話でゐて、いかにも芥川のやりさうなことだと思ふ。

 室生犀星の長男の豹太郎が死んだときに、芥川夫人がお悔みにゆくと室生夫人が、「わたしたちお互ひにおでぶちやんは……、」と言つたといふ。それで芥川夫人は家に歸つて、「わたしはおでぶちやんぢやないわ……」と言つてゐたといふが、室生夫人は子供に死なれた悲しみで一貫目瘦せて十八貫、芥川夫人は十六貫、と十二貫五百の芥川は笑つて聞かせてた。

[やぶちゃん注:「室生夫人」室生(旧姓浅川)とみ子(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年)は大正七(一九一八)年二月に犀星と結婚、大正一〇(一九二一)年五月に長男豹太郎が誕生したが、翌年に夭折している。豹太郎夭折当時、とみ子は二十七歳、芥川文は明治三三(一九〇〇)年(七月四日)生まれであるから、二十二歳。

「十八貫」六十七・五キログラム。

「十六貫」六十キログラム。

「十二貫五百」四十六キロ八百七十五グラム。]

 伊四號の家の庭のなかほどに、つゆくさが咲いてゐた。芥川は也ちやんを抱いてそこまでゆくと、下におろされても泣きもせずにあつぷあつぷ這はうとしてゐる也ちやんに、立つたままぢつと目をすゑてゐた。僕が、「しやうがないおとうさんだなあ、」と言つて抱きあげようとすると、芥川は急に抱きあげて、「この兒は君にやるよ、」と言つた。

[やぶちゃん注:「也ちやん」「やっちゃん」で三男也寸志のこと。乳飲み子であったので(大正一四(一九二五)年七月十二日生まれ)、彼は文と一緒に鵠沼について来ていた。

「つゆくさ」先の鵠沼」の小穴の見取りの中央に、『ココニ侏儒の言葉の表紙の花』とあるもので、芥川龍之介の単行本「侏儒の言葉」(没後の昭和二(一九二七)年十二月六日文藝春秋出版部刊)の印象的表紙絵で小穴隆一が素材としたそれである(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの表紙画像)。]

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