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2017/01/26

小穴隆一「二つの繪」(45) 「河郎之舍」(4) 「游心帳」

 

     游心帳

 

 サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ買ヒテ來シチリ紙ゾコレハ    我鬼

 

 游心帳には前期の物と後期の物とがある。そもそもは、僕が祖母に矢立を貰つたので、半紙を四つ折にして綴ぢた帳面を拵へ、游心帳と書いて懷にしてゐたのがはじまりでこれが前期の物、半紙二つ折の後期の物、後期の物といつても第二册目あたりからの物が碧童題とか衷平題とかなつて、碧童の筆で游心帳が游心帖、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやうなどと變り、いつとなく僕の游心帳が芥川、碧童、遠藤などとの間で雜談のをりの歌や句、畫の用にまで利用されてゐたのである。河童と豚の見世物、明治二、三年洗馬に於いて二十人を容るるほどの小屋掛けにて瓢簞に長き毛をつけたる物を河童と稱び見世物となし興行せる者あり。見料大人と小人との別あり。豚も見世物となる。といつた種類の聞書を集めたり、豆菊は慰斗代りなるそば粉哉、などといふ獨稽古の俳句を書いてゐたものが前期の物に屬し、久米正雄の河童の繪まである賑やかな物は後期の物に屬するのである。長崎の長いちり紙に添へて半紙に楷書、紙でも下敷にしたかのやうに行儀よく書かれてゐる、サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユは、これは勿論游心帳に書いてあつた歌ではなく、『後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少くない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は、畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。卽ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。芥川龍之介記』とある大正十四年九月の「改造」の「鄰の笛」、(鄰りの笛といふ題は僕が詩韻活法から拾つた、)大正九年から同十四年度に至る年代順の芥川と僕の五十句づつの句のなかにある、

   長崎土産のちり紙、尋あまりなるを貰ひて

  よごもりにしぐるる路を貰紙

といふ僕の句を思出させる芥川の歌、僕に游心帖時代を思はせる歌なのである。

[やぶちゃん注:「サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ只ヒテ衆シチタ紙ゾコレハ」この一首は、岩波版旧全集の「雜」の末尾に書誌情報なしで以下のように三行分かち書きで載るものであるが、明白な長崎関連の吟詠で、類型歌から推測して大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行での戯れ歌に見えるが、「來シ」と過去の助動詞を使っていることから、後の回想歌でないとは言えない。「赤寺」は長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院東明山興福寺。山門が唐風に朱塗りであるため、「赤寺」とも呼ばれる。寛永元(一六二四)年、中国僧真円による創建で、信徒には浙江省・江蘇省出身者が多いことから、「南京寺」とも称せられる(以上はウィキの「興福寺(長崎市)」を参照した)。

 

サミタルル 赤寺ノ

前ノ紙店ユ アカ買ヒテ

來シ チリ紙ソコレハ

 

私は「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で、『「アカ」は「閼伽」で仏に供える供物という意を掛けたものであろうか』などと半可通な注をしたが(「閼伽」では意味が通らない)、この小穴隆一の「アガ」で「吾が」と判明し、素直に腑に落ちた。

「衷平」既出既注の小澤碧童の別号。

「游心帖、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやう」歴史的仮名遣としては「いうしんてふ」或いは「いうしんでふ」が正しい。

「明治二、三年」一八六九年から一八七一年。本邦では明治五年十二月二日(グレゴリオ暦一八七二年十二月三十一日)まで旧暦を採用していたため、西暦とはズレが生じる。

「洗馬」これは「せば」で、現在の東京都八王子市堀之内附近(ここ(グーグル・マップ・データ))の旧地名か? 現在、堀之内洗馬(せば)川公園や洗馬(せば)橋の名が残る。長野県塩尻市大字宗賀(そうが)の洗馬(せば)ではあるまい。

「稱び」「よび」と訓じていよう。

「豆菊」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヒナギク属ヒナギク Bellis perennis であろう。

「慰斗」「のし」。

「獨稽古」「ひとりげいこ」。

「久米正雄の河童の繪」先の「河童の宿」に掲げたものと考えてよい。

「『後記。僕の句は……」小穴隆一が記す通り、大正一四(一九二五)年九月一日発行の『改造』に小穴隆一の発句五十句ともに「鄰の笛」という標題で掲載された芥川龍之介にしては珍しい小穴の句との合同句群である。署名は芥川龍之介(小穴をないがしろにしたとして龍之介は非常に怒った)。その文末にあるのが引用された文章で、小穴は正確に引用している。そこで掲げられた芥川龍之介の全句群は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を参照されたい。小穴の句に就いては次の次の注を参照。

「詩韻活法」明治二一(一八八八)年に滝川昇が編輯し、東京で出版された作例附き漢詩入門書。

「僕の五十句づつの句」これは「鯨のお詣り」の最後に配された「一游亭句稾」(「稾」は「稿」の異体字)冒頭に「鄰の笛」として全五十句が載る。後日、電子化する。

「長崎土産のちり紙、尋あまりなるを貰ひて」「よごもりにしぐるる路を貰紙」前注した「鯨のお詣り」の「一游亭句稾」三十七句目に、

 

   長崎土産のちり紙、尋あまりなるを貰ひて

 よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

 

とある。この「尋」は「ひろ」で長さ単位。明治以降は「一尋」は「六尺」で、約一・八メートルである。「よごもり」は「夜籠り」で「夜が更けること」「夜更け」の意。]

 僕は大正十二年の正月に右の足頸からさきを脱疽で失くなした。さうして、松葉杖にたよるやうになつてからは、

   偶興

  あしのゆびきりてとられしそのときは

  すでにひとのかたちをうしなへる

  あしのくびきりてとられしそのときは

  すでにつるのすがたとなりにけむ

  あしのくびきりてとられしそのときゆ

  わがみのすがたつるとなり

  かげをばひきてとびてゆく

といふ類の詩をつくりだしてをり、矢立は震災の直後祕露に行く遠藤に餞別として贈り、

   思遠人、南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

  獨りゐて白湯にくつろぐ冬日暮れ

などといふ句をつくつてゐる。後期の游心帳は意外にも九年十年十一年の晩秋で終つてゐる。これは僕の入院、さうして隻脚となる、半紙二つ折の物は松葉杖で步くときには懷中からとびだし、義足で步くやうになつて服になるといれどころに困る、といつた事情で自然消滅となつてしまつてゐたのであつた。

[やぶちゃん注:「偶興」という詩篇は「鯨のお詣り」の俳句の前に配された詩篇群の冒頭に全く異同なしに掲げられてある。

「祕露」「ペルー」。遠藤古原草がペルーに旅したことは、先の「手帖にあつたメモ」にもあった。

「思遠人、南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に」「獨りゐて白湯にくつろぐ冬日暮れ」は前注した「鯨のお詣り」の「一游亭句稾」四十三句目に、

 

   思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

 獨(ひと)りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひく)れ

 

と載る(読点ナシはママ)。「思遠人」は「遠き人を思ふ」(或いは「思ひて」と訓じているのであろう。「なお、下の句の「冬日暮(ふゆひく)れ」で名詞と採って、かく読みを振った。]

 游心帳に殘つてゐる芥川の筆蹟を拾つてゆくと、

  秋の日や竹の實垂るる垣の外

  落栗や山路は遲き月明り

  爐の灰にこぼるる榾の木の葉かな

  野茨にからまる萩の盛りかな

 これらの句のある帳面の表紙はとれてゐる。裏表紙には碧童刻の合掌の印が押してある。合掌といふことばは一と頃の芥川が手紙に使ひ、碧童またこのことばを珍重し印に刻むといふ時代であつた。僕はこの帳面のなかの子規舊廬之鷄頭を見て、碧童に伴はれ子規舊廬を見たこと、芥川に伴はれて瀧井孝作と共に主なき漱石山房を訪ねた日を思出した。

[やぶちゃん注:「秋の日や竹の實垂るる垣の外」は大正一五(一九二六)年十二月刊の随筆集「梅・馬・鶯」の「發句」に所収されているが、大正十一年三月発行の『中央公論』の「我鬼抄」が一番最初と思われ、書簡ではさらに前の推定大正九年十月二十一日附とする香取秀真宛(旧全集書簡番号七八七)に出る。但し、この書簡は新全集書簡第十八巻書簡Ⅲでは九月二十一日のパートに移動しているから、季から見ても大正九年九月の吟或いは決定稿と考え得る。

「落栗や山路は遠き月明り」ここにのみ見出せる芥川龍之介の句で類型句もない

「爐の灰にこぼるる榾の木の葉かな」大正九(一九二〇)年十月二十四日附小澤忠兵衛(碧童)宛(旧全集書簡番号七八九)等に、

 

 爐の灰のこぼるゝ榾の木の葉かな

 

の踊り字の形で現れる句。

「野茨にからまる萩の盛りかな」この句は先の「梅・馬・鶯」の「發句」に、

 

 野茨にからまる萩のさかりかな

 

の表記で出るが、やはり大正十一年三月の『中央公論』の「我鬼抄」、大正十二年六月発行の『ホトトギス』の「その後製造した句」、大正十四年九月発行の先の『鄰の笛』にも再録しており、芥川龍之介遺愛の句の一つであることが判る。この句について私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」で、以下のような注をした。一部に手を加えて再掲しておく。

   *

 この句は芥川龍之介遺愛の句の一つであった。また、『にひはり』大正十三年五月の「澄江堂句抄」に、「相模驛にただ見るままを。」の前書があるが、「芥川龍之介句集二 発句拾遺」の該当の句の注記で示した通り、普及版全集では、「景の詩に入る、巧を用ふるに暇あらず。」となっている。更に、中村慎一郎著「俳句のたのしみ」によれば、これが実は相模駅での嘱目吟でなく、軽井沢での作の可能性がある、とする。以下当該書を所持していないので、近代文藝社二〇〇〇年刊大須賀魚師著「芥川龍之介の俳句に学ぶ」より孫引きする(表記は引用原書のママ。)。

   《引用開始》

「これは作者が室生犀星などと共に、軽井沢に遊んで、避暑のつれづれに句作を競った時の偶作で、『景の詩に入るる巧を用ふるの暇あらず』と前書がついているが、この何気ない句に、心の通い合った友人と安らかな一刻を過ごしている平和な雰囲気が、おのづから漂っている。その時、傍らにあった大学生の堀辰雄が、この句を書き散らした紙を作者から乞い受けて、生涯の記念とした」

   《引用終了》

ここでは、詞書が微妙に違う。しかし、私は少なくとも、「軽井沢に遊んで、避暑のつれづれに句作を競った時の偶作」ではあり得ないと思う。堀辰雄が芥川龍之介から詩二篇の批評を得て、親しく交わるようになるのは、大正一二(一九二三)年の十月下旬以降のことであり、現在の芥川龍之介に関わる年譜上では、この句の発表の大正十三年五月までの間に軽井沢に避暑に行った事実はないからである。なお、中村の言うこの軽井沢行は大正十三年八月か、最後となった十四年の八月のもので(室生、堀共に両年二人共に同時に芥川と同宿している事実がある。可能性としては、時間的な余裕から言うと、後者である。但し、一般に私は知られているそれ以外にも芥川の軽井沢行はあったと確信しており、そこに堀辰雄が同行していた可能性も排除出来ない。私のブログ「松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実」等を参照されたい)、以上から、この句の成立とは全く関係なしに、堀に関わるこの中村が言うような事実があったことは想像には難くないと言い添えておく。

   *

  天雲の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも

 この歌は齋藤茂吉の歌ではないかと思つて人にたづねるとさうではないといふ。芥川が新聞の劇評を書かなければならず、帝劇の歌舞伎を見にゆくとき僕を誘つていつたが、一幕ずるけて喫煙室で僕と雜談してゐたをりに書いてゐたもの、歌のかたはらに木立の下の藁葺小屋に住む人を畫いてゐる。この帳面に碧童の鬼趣圖をみてよめる狂歌がある。この帳面の表もとれてゐる。

[やぶちゃん注:「天雪の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも」「日本の聖母の御寺」とは、日本最古の現存するキリスト教建築物である長崎県長崎市のカトリック教会大浦天主堂のこと。正式名は日本二十六聖殉教者聖堂。芥川龍之介は大正八(一九一九)年五月四日から十八日まで、菊池寛とともに長崎・大坂・京都の旅に出ており、大浦天主堂は五月六日に訪ねている。この一首は芥川龍之介の大正六(一九一七)年から大正八年に書かれたと推測される手帳「我鬼句抄」の俳句群の中に挿入された六首の内の一首として現われ、他の歌群にも類型歌が他にもあることから、芥川龍之介の改作するに足る自信対象詠の一つであったことが窺われる。「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注で「聖母」で検索されたい。]

  君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしや或はいまだ

  笹の根の土乾き居る秋日かな

 歌と句を並べ、秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉を畫いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土の字を指してゐる。表紙は糸瓜の宿の衷平(碧童)の手でゆうしんじようとなつてゐる。

[やぶちゃん注:「君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしや或はいまだ」以上は大正九(一九二〇)年から大正十一(一九二二)年に書かれたと思しい芥川龍之介の手帳「蕩々帖」(署名は「我鬼」)の中に記された短歌の一首としてあり、そこでは

 

 君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしやあるはいまだ

 

と表記されてある。「臍腐れしや」は「鯨のお詣り」では「臍腐(へそくれさ)れしや」とルビを振るのであるが、私は「ほぞくたれしや」と読みたくなる人種である。

「笹の根の土乾き居る秋日かな」も同じ「蕩々帖」の前掲の一首の前の前に、完全に同じ表記で出る。なお、私はこの一句を芥川龍之介の名句の一つと考え、はなはだ偏愛するものである。

「秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉を畫いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土の字を指してゐる」小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)に載る、

 

Akutonbokiku

 

の図である。]

  荒あらし霞の中の山の襞

 この一句のほかに

  うす黃なる落葉ふみつつやがて來し河のべ原の白き花かも  南部修太郎

  いかばかり君が歎きを知るやかの大洋の夕べ潮咽ぶ時    南部修太郎

  しらじらと蜜柑花さく山畠輕便鐡道の步みのろしも     菊池 寛

と芥川が書いてゐる。この游心帳は綴ぢも全き物、ひかた吹く花合歡(ねむ)の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ、あらぞめの合歡(がうか)あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡、雨中湯ケ原ニ來ル、道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ等の僕のものあり、次の游心帖大正十年秋湯河原ニテに連絡する物である。

  草靑む土手の枯草日影       我鬼

  曼珠沙華むれ立ち土濕りの吹く   我鬼

  家鴨眞白に倚る石垣の乾き     我鬼

 一層瘦せて支那から歸つて中西屋にゐた芥川に招ばれて碧童と僕は、首相加藤友三郎がゐたといふ部屋をあてがはれてゐた。友を訪へば、「外面の暗い秋霖の長髮をなでてゐた」といふのは碧童のその時の句である。

  山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉  我鬼

  たかむら夕べの澄み峽路透る    我鬼

 游心帳に書いてはないが、この二句も、時雨に鎖されてゐた三日間の僕らの動靜を多少は傳へてゐる隨筆(十年、十一月、中央美術)に收錄してゐたものである。「將軍」は中西屋の龜さんの話でできたと芥川は言つてゐた。

 碧童の歌には、峯見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處(ゆどころ)に來しいづこ友の屋、といふのがあつた。

[やぶちゃん注:「荒あらし霞の中の山の襞」大正十一年三月の『中央公論』の「我鬼抄」、大正十二年六月発行の『ホトトギス』の「その後製造した句」、大正十四年九月発行の先の『鄰の笛』にも再録しており、「あららし霞の中の山の襞」の表記で載る大正一〇(一九二一)年九月二十三日久米正雄宛(旧全集書簡番号九四三)が最も古い部類であるから(これ以降の書簡にもこの句を違った人々に盛んに示している)、この直前辺りの吟詠であったと考えてよかろう。小島政二郎他、芥川龍之介周辺の人物の回顧録に於いても彼が自慢げにこの句を周りの人間に示し見せたことが載り、恐らく、芥川龍之介が最も自信を持っていた句が、これである。

「しらじらと蜜柑花さく山畠輕便鐡道の步みのろしも」「菊池 寛」「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の「藤の花軒はの苔の老いにけり」の句の解説で、私は「藤の花」の句に注して、『昭和五十三(一九七八)年九月一日発行の雑誌「墨 十四 特集 芥川龍之介」に所収する短冊より。「軒は」の清音表記で一応、採っておく。解説では、『大正十年の晩秋、龍之介は湯河原に湯治に行く前、小穴氏の許に立ち寄って、「しらじらと蜜甘花咲く山畠/輕便鉄道の步みのろしも/菊池寛」と伊豆で詠んだ菊池寛の歌を笑いながら書いて紹介している。おそらく、この句もその時に出来たものだと思われる』(漢字表記はママ。記号の一部を変更した)と記す。短冊のサイズは三六〇×六〇』と書いた。「輕便鐡道」現在の東海道本線が開業する以前に小田原と熱海の間を結んでいた軽便鉄道線「熱海鉄道」のこと。但し、この時期のそれはなかなか微妙で、ウィキの「熱海鉄道」によれば、大正九(一九二〇)年七月一日に熱海線国府津―小田原間開通に伴い、当時、同路線を買収していた大日本軌道は、小田原―熱海間鉄道線を国に売却、同時に新設された熱海軌道組合は国より同区間鉄道線を借入している(後、大正十二年九月一日の関東大震災によって全線不通となり、そのまま翌年三月には全線が廃止された。しかし同年中に熱海線は予定通り、熱海駅までの開業を果たし、昭和九(一九三四)年に丹那トンネルが開通して熱海線は東海道本線へ改められた)。言わずもがな、芥川龍之介の名作とされる「トロツコ」(但し、これは芥川龍之介が指導していた湯河原出身の作家志望の力石平三が幼年期に人車軌道であった熱海鉄道の前身「豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)」から、この軽便鉄道への切替工事を見た回想形式の小説を芥川が勝手に改作してしまったものである。リンク先は私の古い電子テクスト)の舞台である。

「ひかた吹く花合歡(ねむ)の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ」底本では恰も「花合歡」の三字に「ねむ」と振るようにルビされてあるが、それでは音数律から見てもおかしく、先行する「鯨のお詣り」を見ると、そこでは、

 

 ひかた吹(ふ)く花合歡木(はながうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼(がき)ぞ立つ

 

とあって、表記が違うだけでなく、これまた、何だか、読みがおかしい。思うに私は、本「二つの繪」のこの歌は、

 

 ひかた吹く花合歡(はなねむ)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ

 

小穴隆一は自作を改作したのではないかと疑っている。なお、「ひかた吹く」は「日方吹く」で、太陽のある方角から吹く風の意である。

「あらぞめの合歡(がうか)あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡」先の「一人の文學少女」に既出既注

「雨中湯ケ原ニ來ル、道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ」これは私の直感に過ぎぬのだが、「雨中湯ケ原ニ來ル」は前書であり(「鯨のお詣り」では「雨中(ウチウ)湯(ユ)ケ原(ハラ)ニ來(キタ)ル」とルビする)、「道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ」が新傾向或いは自由律に近い「俳句」であると思う。

「大正十年秋湯河原ニテ」既にシチュエーションとして出た、大正一〇(一九二一)年十月一日の芥川龍之介の湯河原の中西屋旅館での静養(最初から秀しげ子との三角関係の確執のある南部修太郎を同伴)を指す。やはり述べたが、小穴隆一と小澤碧童は四日に来て、暫く一緒に滞在した(以下の小穴の証言が正しければ「三日間」である)。

「草靑む土手の枯草日影」と次の「曼珠沙華むれ立ち土濕りの吹く」の句は、小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」一一七ページ下段の参考写真に出るものである。これは参考資料として写真版が掲載されてある、まさにこの「游心帖」の中の一頁で、前後に小澤の異様に癖のある書体の短歌(最後に掲げられるもの)と俳句に混じって「湯河原所見」(小澤の筆)の見出しで出る。二句ともに署名は「我鬼」で、前者は「我鬼句抄」(『中央公論』大正十一年三月)に「草萌ゆる土手の枯草日かげかな」の類型句があるが、後者には類型句もない。しかしこれ、間違いなく知られていない部類の芥川龍之介の句である。]

「家鴨眞白に倚る石垣の乾き」大正一〇(一九二一)年十月八日付瀧井折柴(孝作)宛(旧全集書簡番号九五四。「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」参照)に「家鴨ま白に倚る石垣の乾き」の表記で現れるもの。]

「首相加藤友三郎」本書冒頭の龍之介先生」で既出既注。実はこの後の大正一二(一二二三)年四月上旬には湯河原中西屋で最晩年の加藤(当時首相現職)と同宿している(加藤は同年八月二十四日に死去)。

「外面の暗い秋霖の長髮をなでてゐた」「とのもの暗いしふりんのちやうはつをなでてゐた」と私は読む。新傾向俳句である。

「山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉」「たかむら夕べの澄み峽路透る」孰れも芥川龍之介の新傾向俳句。前者「下りゐ」は「をりゐ」で、後者の「たかむら」は「篁」で「竹叢(たけむら)」の意と採れ、「峽路」は「かひぢ」で山間(やまあい)の細道のこと、「透る」は「すける」と訓じていよう。大正十年十月八日附瀧井折柴(孝作)宛の南部修太郎との寄書書簡(旧全集書簡番号九五四)に、

 

山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉

 

竹むら夕べの澄み峽路透る

 

家鴨ま白に倚る石垣の乾き

 

と記し、句の前に「この頃新傾向の俳人となり句を作つた」とあり、句の後ろに「どうだ 中々うまいだろう」とあり、改行して「我鬼先生の新傾向に中毒しさうなり、助け給へ 折柴兄。修太郎生。」と修太郎の言葉が記されてある。「山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉」の方は他の同時期の書簡で、

 

山に雲下(オ)りゐ、赤らみ垂るる柿の葉

 

竹(タケ)むら夕べの澄み、峽路(カヒヂ)透る

 

(旧全集書簡番号九五五・消印十月九日・佐佐木茂索宛)などとする。この頃の新傾向俳句では、句読点やルビの意識的使用が一時期、異様に流行った。但し、本書の「たかむら」は特異点の表記である。

「時雨に鎖されてゐた三日間の僕らの動靜を多少は傳へてゐる隨筆(十年、十一月、中央美術)」不詳。宮坂覺年譜の大正十年の著作欄には十一月一日『湯河原〔→湯河原五句〕中央美術』とあるものの、これはこの小穴隆一の文章をもとにしたものであり、そのような題名の芥川龍之介の随筆を私は知らないし、「湯河原五句」(恐らくは新全集編者が勝手に付けた標題か)というのも私は知らない。識者の御教授を乞う。

『「將軍」は中西屋の龜さんの話でできたと芥川は言つてゐた』大正一一(一九二二)年一月発行の『改造』初出の問題作。芥川龍之介の作品の中で唯一、多量の十四箇所に及ぶ重要な箇所が伏字とされ、未だに復元確定出来ていない(原原稿が紛失しているため)、特異点の作品である。現在、「將軍」の起筆は湯河原から帰ったちょうど一ヶ月後の、大正十年十一月二十五日と推定されている(宮坂年譜)。

「峯見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處(ゆどころ)に來しいづこ友の屋」先に掲げた小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」一一七ページ下段の参考写真に出るもの。この一首、悪くない。]

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