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2017/01/23

柴田宵曲 妖異博物館 「猿の刀・狸の刀」

 

 猿の刀・狸の刀

 

佐竹侯の領國である羽州に山役所といふところがある。この役所を預つてゐる大山十郎といふ人が、先租より持ち傳へた貞宗の刀を祕藏して居つたが、毎年六月になれば、これを取り出して風を入れる。文政元年六月、例の如く座敷へ出して、自身もその傍を去らず番をしてゐたのに、どこからやつて來たか、三尺ばかりの白猿が、この刀を奪ひ去つた。十郎は驚いて、おつ取り刀で駈け出し、從者もそれについて飛び出したが、猿は山中に入つて行方がわからない。已むなく引返して人を語らひ、翌日大勢で山に分け入ると、奧深く廣い芝原の上に、大きな猿が二三十疋も屯(たむろ)して居つた。例の白猿は藤の蔓を帶にし、外の猿どもと何か談ずる體なので、十郎はじめ一同刀を拔き連れて斬り入つた。猿どもは悉く逃げ去る中に、白猿ばかりは貞宗の刀を拔き放ち、人々を相手に戰ふ。此方は五六人も手を負つたが、白猿は度々斬り付けられても平氣なもので、錢砲の玉も通らぬ。人々あぐみ果ててゐるうちに、更に山深く逃げ込んでしまつた。その後獵師の話を聞いて見ると、あの猿は時々見かけますが、なかなか錢砲も通りません、といふ話であつた。果してどうなつたものか、翌年かの地から來た者は、貞宗の刀は依然消息不明であると云つて居つた。

[やぶちゃん注:「佐竹侯の領國である羽州」佐竹氏が領した久保田藩=秋田藩(くぼたはん)。話柄内時制(文政元(一八一八)年六月。文化十五年は同年四月二十二日に仁孝天皇即位のため改元している)では第十代藩主佐竹義厚(よしひろ 文化九(一八一二)年~弘化三(一八四六)年)の治世。

「山役所」主に森林管理のために置かれた、山間部や木材伐採を監督するための藩の出張所。

「貞宗の刀」貞宗(元応元(一三一九)年?~貞和五(一三四九)年?)は鎌倉末期の相模国の刀工。かの名匠正宗の子或いは養子と伝えられる。現存する在銘刀はないものの、相州伝の代表的刀匠とされる。]

「兎園小説」及び「道聽塗説」に出てゐるこの猿は、宛然山賊の首領である。貞宗の刀を奪つたのは、群猿を指揮し、人間に反抗するためだとすれば、愈々以て人獸の境が明かでなくなるが、「三州奇談」の話は少し趣を異にする。丹羽武兵衞といふ人、湯涌の温泉に入湯の際、山中に遊んで腰刀を失ふ。湯治客の仕業であらうと思ひ、いろいろ詮索しても知れなかつた。入湯者の中に能州石動山の僧があつて、その占ひによれば、刀は人間の手にない、まさしく獸の手に在る。尋ねれば得られるといふことなので、翌日は多くの人夫を雇ひ、山谷を探し求めようと決心して寢に就くと、夢ともなく緣の上に案内を乞ふ者がある。障子を隔てての言葉に、私はこの山中に久しく住む者であります、一人の愛子を惡鳥のために捕られ、悲歎に堪へませんでしたが、幸ひにあなた樣がおいで下さいましたので、暫く寶劍を拜借して敵を討ちました、その御禮に參りました、とあつたので、武兵衞は忽ち目をさまし、障子をあけて見たら、大きな猿の逃げて行くところであつた。緣の上には鞘のない刀と、鷲の片身とが殘つてゐた。それよりこの刀を鷲切と名付けて祕藏したが、丹羽家重代の刀で、銘は備前の兼光だつたさうである。これは明かに敵討で、人間らしい度合は、この方が更に強いかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「兎園小説」これは同書の第十一集にある文宝堂(亀屋久右衛門・薬種商)報告になる「白猿賊をなす事」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○白猿賊をなす事

佐竹侯の領國羽州に山役所といふ處あり。此役所を預りをる大山十郎といふ人、先祖より傳來する所の貞宗の刀を祕藏して、毎年夏六月に至れば、是を取り出だして、風を入るゝ事あり。文政元六月例のごとく座敷に出だし置きて。あるじもかたはら去らず。守り居けるに、いづこよりいつのまに來りけん。白き猿の三尺ばかりなるが一疋來りて、かの貞宗の刀を奪ひ立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじもやゝといひつゝおつとり刀にて、追ひかけ出づるを、何事やらんと從者共もあるじのあとにつきて走り出でつゝ追ひゆく程に、猿は其ほとりの山中に入りてゆくへをしらず。あるじはいかにともせんすべなさに、途中より立ち歸り、この事從者等をはじめとして、親しき者にも告げしらせ、翌日大勢手配りして。かの山にわけ入り、奥ふかくたづねけるに、とある芝原の廣らかなる處に、大きなる猿二三十疋まとゐして、其中央にかの白猿は、藤の蔓を帶にしてきのふ奪ひし一腰を帶び、外の猿どもと何事やらん談じゐる體なり。これを見るより十郎はじめ、從者も刀をぬきつれ切り入りければ、猿ども驚き、ことごとく逃げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗を拔はなし人々と戰ひけるうち、五六人手負たり、白猿の身にいさゝかも疵つかず。度々切りつくるといへども、さらに身に通らず。鐵砲だに通らねば、人々あぐみはてゝ見えたるに、白猿は猶山ふかく逃げ去りけり。夫より山獵師共をかたらひけるに、此猿、たまたま見あたる時も候へども、中々鐵砲も通らずといへり。此後いかになりけん。今に手に入らざるよし、その翌年、かの地の者來りて語りしを思ひ出でゝ、けふの兎園の一くさにもと、記し出だすになん。

  文政乙酉孟冬念三   文寶堂散木記

天正兎園

   *

「文政乙酉」(きのととり)は文政八(一八二五)年。「孟冬」は「もうとう」で広義には初冬であるが、陰暦十月を指す。「念三」の「念」は短い期間を指す語であるから、同月下旬の謂いであろう。「散木」「さんぼく」で文宝堂の別号であろう。「役に立たぬ木」の意。「天正」は不明ながら、――「天」下を「正」すところの我らが「兎園」会――というグループの尊大なスローガンか?

「道聽塗説」三田村鳶魚が江戸に関わる未刊随筆類を集めた叢書「鼠璞十種(そはくじっしゅ)」に収録した林述斎門下の儒者大郷良則の随筆。文政後期から天保にかけての巷説を主とする。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。内容は「兎園小説」とほぼ全く同じである。

「三州奇談」のそれは「卷之三」の「老猿借刀」の最初に出るメインの事例。以下にそこのみを出す。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。底本編者の補訂した字はそのまま本文に入れ込んだ。一部に歴史的仮名遣の誤りがあるのはママ。

   *

 猿と獼(おほざる)とは属類すと云共、獼は性躁(さはがし)ふして、猿は其情靜也(なり)。風月の皎然たるに噓(うそぶ)き、其色も文哀然也(なり)。久(ひさ)しうして後は、義氣勇武も出來たる者とや。

 本藩の名家丹波武兵衞と云(いふ)人(ひと)若き比(ころ)より武功をはげみ、享保の末には馬𢌞頭役に登りし。彌生(やよひ)の頃痛み有(あり)て、石川郡湯桶の温泉に入湯せらる。此(この)所の地勢、深山に隣(となり)て幽陰閑寂の所也。城下よりは纔(わづか)に三里の行程なれ共、其(その)道(みち)嶮難にして步行便(たより)惡(あ)しく、自ら病疾の徒ならでは友もなし。丹羽氏徒然の余り、従者と共に藥師堂の上の山に近道せられたりし。春の老たりと云共(いへども)、深山の殘雪地冷にして、小草漸(やうや)く萌出(もへいで)て、是を摘(つみ)て小竹筒を傾けて、醉(ゑひ)に乗じ佩刀を解(とき)て、暫(しばらく)絶壁の峯によぢ登り眺望すれば、西山鐘色を礙(さ)へ、斷猿遙(はるか)に叫び、新樹暮雲に接して返照山(やま)の洞にさし入(いり)て、立居(たちゐ)し所もはや暗(くら)みければ、頓而(やがて)下りて先の所に歸り、置たる腰刀を尋(たづぬ)るに見えず。所々探し求るに、所在を不ㇾ知(しらず)。從者も爰(こゝ)かしこより來りて打驚き、是(これ)を求るに更(さら)になし。「いかさま湯治の者の中、奸徒有(あり)て盜み隱(かくし)けるにや。一刀と云共(いへども)、我家の重代の物なれば、其(その)通りにも過(すごし)がたし」と、入湯の旅人を改(あらため)、宿主或(あるひ)は村肝煎(きもいり)をして穿鑿すれ共(ども)知(しれ)ず。爰(こゝ)に湯入し中に、能州石動山の僧有(あり)て、是(これ)を占(うらな)いて曰(いはく)、「此(この)刀は人間の手に非(あら)ず、正敷(まさしく)獸の手に有。尋(たづぬれ)ば得べし」と云(いひ)ければ、丹羽氏是(これ)を聞て、「さらば明日多くの人步を以て、山谷を探し求(もとめ)ん」と其(その)用意して暫(しばらく)眠居られしに、夢(ゆめ)共(とも)なく、緣の上に案内を乞者有(こふものあり)。障子を隔(へだて)て云(いひ)けるは、「我は久敷(ひさしく)此山中に住者也(すむものなり)。一人の愛子有(あり)し。此比(このごろ)惡鳥の爲に是をとられ、悲歎腸を斷(たつ)。然(しか)るに貴客此山に光臨の幸を得て、暫(しばら)く宝剣を借(かり)て、速(すみや)かに讐を討取(うちとり)たり。依而(よつて)謝禮に來れり」と云(いふ)に、丹羽氏、忽(たちまち)目覺て障子を明(あけ)みれば、大(おほ)い成(なる)獼、忽迯去(にげさり)ぬ。緣の上には、件の刀の鞘もなくて中心(なかみばかり)斗と、鷲の片身より討落(うちおとし)たるを殘せり。丹羽氏大に悦び、則(すなはち)從者を初(はじめ)、亭主に示すに、湯治の旅客皆聞傳(きゝつたへ)て一見を乞(こひ)、驚嘆せずと云(いふ)事(こと)なし。能登の旅僧の占かたを謝し、彼(かの)刀を「鷲切」と名付て彌々(いよいよ)祕藏せられし。銘は備前の兼光也(なり)とぞ。

   *

「湯涌の温泉」「ゆわくのおんせん」とは現在の石川県金沢市湯涌町(ゆわくまち)及び湯涌荒屋町にある湯涌温泉のこと。「能州石動山」は能登国石動山(いするぎやま)。]

 もし獸顆の中に刀を用ゐる者があるとすれば、最も人間に近い猿であらう。この二つの話では、いづれも自ら所持せず、人間の一腰を失敬したのであるが、猿と刀との交渉は右の二例には止まらぬ。佐藤成裕は「中陵漫錄」に、會津山中に住む大きな猿の事を書いてゐる。これに從ふ猿が二百ばかりあつて、いづれもその猿の居る枝の下に居り、敢て上に登らうとせぬ。常に黑い一物を携へ、みづから玩弄してゐるのを見た或人が、錢砲でこの猿を打ち落したら、他の猿が來てその一物を持ち、二十間ばかり離れたところに行つて、大猿の打ち落されたのに驚いてゐる體である。更にまた鐡砲を放つて猿どもを追ひ散らし、くだんの一物を取つて來て見れば、火箸のやうに細く曲つて錆びた短刀であつた。そもそもこの猿は何處よりこの短刀を取り來つたか、いつ頃から持つて居るか。この猿は猿中の王なので、これを寶物として大切にしたらしいが、この寶物を有するが故に、人に怪しまれて一命を失ふに至つた。「寶物の身を災する事、多くは是の如し」――佐藤成裕は最後に學者らしい一語を添へてゐる。

[やぶちゃん注:「二十間」三十六メートル強。

 以上は「中陵漫錄」の「卷之五」に載る「會津の老猿」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○會津の老猿

余先年、奧州會津に在て、黑澤といふ處に至る。其處の山中に至て大なる猿あり。其猿に從ふ猿二百許ありて、皆食をはこび與へ、又其猿の居る下の枝に皆在て、必しも其上に登る事なし。是れ猿の王たる事しるべし。其猿、常に大なる黑き圓き一物を持て自ら玩弄す。或人、此山中に來て甚だ怪み、鳥銃にて此猿を打落す時は、一の猿來て其一物を持て二十間許の處に逃て行き、其打落されたるを皆驚きて、其彈丸の穴に木の葉を取りてふさぎ、血の出るを恐て皆驚き見て居るなり。又彈丸をこめて其一物を打殺しければ、此音にて二百餘の猿ども、ひらくと飛て木に移りて逃去る。其一物を取りて來りて見れば、藤葛にて一面に纏ひからげたる物なり。漸く是を切破りて見れば、火箸の如く細く曲て朽ちたる短刀なり。此猿、何より是を取來るや。何の時に持居るや。此猿、猿中の王なれば、是を寶物として常に大切にすると見えたり。此猿も此寶物ある故に、人の怪を容れて命を沒す・寶物の身を災する事多くは如ㇾ是。又賀州にて、山中の猿、常に圓き一物を持てあるくを見る。或人、鳥銃にて打て見れば、木の葉にて幾重も重ね包てある。是れを破りて見れば、内に鳥銃の彈丸(タマ)一つありと云。凡獸警人に近き者は、何となく珍しき物なりと思ひて、手に離さずして寶物と思ふなるべし。按ずるに、淵鑑類凾曰。爪哇國山多ㇾ猴。不ㇾ畏ㇾ人。授以果實則二大猴先至。土人謂之猴王。夫人食畢群猴食其餘。是れの猴にも王ある事知るべし。

   *

「淵鑑類凾」は「えんかんるいかん」と読み、一七一〇年に成立した、清の康熙帝勅撰になる類書(百科事典)。漢文を我流で訓じておく。「爪哇(そうあい)國、山、猴(さる)、多し。人を畏れず。授くるに果實を以つてすれば、則ち、其の二は、大きなる猴、先づ、至る。土人、之れ、猴の王なりと謂ふ。夫(そ)の人、食ひ畢はれば、群猴、其の餘を食らふ。」。「爪哇國」は現在のインドネシア、ジャワのこと。「夫の人」とは言わずもがな乍ら「猴の王」を指す。]

 猿の刀は武器乃至これに准ずるものであつた。こゝで目を轉じて「怪談老の杖」の狸を見ると、全く世界が違ふ。豐後の家中に何某賴母といふ勇士があつて、城下に十四五年も明いてゐる化物屋敷を、特に願ひ出て拜領した。うしろに山を負ひ、南は川に臨む景勝の地であるから、早速修理を加へ、先づ自分だけが引越して、樣子を見ることにした。勝手の圍爐裏に榾を焚き、小豆粥を煮て家來と共に食べてゐると、まだ建具が無いので、廣い家の中が一目に見渡せる。そのうちに雨戸を明けて、背の八尺ばかりもある坊主が入つて來た。賴母は少しも騷がず、ぢつとしてゐる。圍爐裏の側に、坊主がむずと坐つたので、はじめて言葉をかけた。その方は何處の者か、定めてこの地に住む者であらうが、この屋敷はこの度拜領して住むことになつた、領主の命であるから、最早自分の屋敷に相違ない、けれどもその方さへ申分なくば、こゝにゐて少しも構はぬ、つれづれの時は來て話せ、相手になつてやるぞ――坊主はこれを聞いて恭しく手をつき、畏りましたと云つて、大いに敬ふ風であつた。この夜の事は家來にも口留めし、やがて家族も引移つたが、坊主は每日のやうにやつて來て、古い昔の話などをして歸る。夏冬の衣類などは妻女が與へるといふ狀態であつた。

 然るに三年ほどたつた或夜、彼は愁然として自己の壽命の盡きることを告げ、これまでの恩誼を謝した上、この山には自分の子孫が澤山居ります、どうか私死後も相變らず御憐愍を願ひ奉ります、今夜は子供にもお目見え致させたく、御庭まで呼び寄せて置きました、と云つて障子を明けると、數十疋の狸が月下に集まり、首を垂れて賴母を敬ふ體に見えた。坊主は歸るに臨み、いや一大事を忘れて居りました、私持ち傳へました刀がございます、これをあなた樣に差上げたう存じます、と云つたが、一兩日たつて賴母が上の山に行つて見たら、幾歳とも知れぬ古狸の、毛などは皆脱けたのが死んで居つた。その傍に竹の皮に包んだものがあつたのは、彼が最後に贈ると云つた刀であつた。刀の光り爛爛として、まるで研ぎ立てのやうに見える、まことに無類の名劍であつたので、賴母はつぶさにその趣を書き付け、この一刀を領主に獻上した。

 この狸は前の山賊然たる猿や、鷲を斬つて子の敵を報いた猿などより數段上である。死に臨んで恩人に贈つた名劍が、如何なる用に供せられたかわからぬのは殊に有難い。

[やぶちゃん注:以上は「怪談老の杖」の「卷之三」の掉尾にある「狸寶劍をあたふ」である。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを振った。

   *

   ○狸寶劍をあたふ

豐後の國の家中に、名字は忘れたり、賴母(たのも)といふ人あり、武勇のほまれありて名高き人なり、その城下に化ものやしきあり、十四五年もあきやしきにてありしを、拜領して住居仕度段(すまゐしたきだん)、領主へ願はれければ、早速給はりけり、後に山をおひ、南の方(かた)ながれ川ありて、面白き所なれば、人夫を入れて、修理おもふ儘に調ひて引うつりけるが、まづその身ばかり引(ひき)こして、樣子を伺がひける、勝手に大いろり切りて、木を多くたき、小豆がゆを煮て、家來にもくはせ我も喰ひ居たり、未だ建具などはなかりければ、座敷も取はらひて、一目に見渡さるゝ樣(さま)なりしに、雨戸をあけて、背の高さ八尺ばかりなる法師出來れり、賴母は少(すこし)もさわがず、いかゞするぞとおもひ、主從聲もせず、さあらぬ體(てい)にて見て居ければ、いろりへ來りてむずと坐しけり、賴母は、いかなるものゝ、人にばけて來りしやとおもひければ、ぼうづはいづ方の物なるや、此やしきは、我れ此度(このたび)拜領してうつり住むなり、さだめて其方は此地にすむものなるべし、領主の命なれば、はや某(それがし)が屋鋪(やしき)に相違なし、其方さへ申分なくば、我等に於てはかまひなし、徒然なる時はいつにても來りて話せ、相手になりてやらん、と云ひければ、かの法師おもひの外に居なほりて、手をつき、奉ㇾ畏(おそれたてまつり)しといひて、大に敬ふ體(てい)なり、賴母は、さもあらんとおもひて、近々女房どもをも引(ひき)つれてうつるなり、かならずさまたげをなすべからず、といひければ、少しも不調法は致し申(まうす)まじ、なにとぞ御憐愍にあづかり、生涯をおくり申度(まうしたし)、といひければ、心得たり、氣遣ひなせそ、といふに、いかにもうれしげなる體(てい)なり、毎晩はなしに來(きた)れよ、といひければ、難ㇾ有(ありがたく)存候とて、その夜は歸りにけり、あけの日人の尋ねければ、何もかはりたる事なし、と答へ、家來へも口留(くちどめ)したりける、もはや氣遣なしとて、妻子をもむかへける、かゝる人のつまとなれる人とて、妻女も心は剛(かう)なりけり、あすの夜もまた來りて、いろいろふるき事など語りきかせけるに、古戰場の物語などは、誠にその時に臨みて、まのあたり見聞するが如く、後は座頭などの夜伽するが如く、來らぬ夜はよびにもやらまほしき樣なり、然れども、いづ方より來るとも、問はず語らずすましける、あるじの心こそ不敵なりける、のちには、夏冬の衣類は、みな妻女かたよりおくりけり、かくして三とせばかりも過ぎけるが、ある夜、いつよりはうちしめりて、折ふしなみだぐみけるけしきなりければ、賴母あやしみて、御坊は何ゆへ今宵は物おもはしげなるや、と問はれければ、ふとまいり奉しより、是まで御慈悲を加(くは)へ下れつるありがたさ、中々言葉にはつき申さず、しかるに、わたくし事はや命數つきて、一兩日の内には命終り申(まうす)なり、夫(それ)につき、わたくし子孫おほく、此山のうちにをり候が、私死後も、相かはらず御れんみんを願ひ奉るなり、誠にかくあやしき姿にもおぢさせ給はで、御ふたりともにめぐみおはします御こゝろこそ、報じても報じがたく、恐ながら御なごりをしくこそ存候、とてなきけり、夫婦もなみだにくれてありけるが、彼法師立あがりて、子ども御目見へいたさせ度(た)しと、庭へよびよせおき申候とて、障子を開きければ、月影に數十疋のたぬきどもあつまり、首をうなだれて敬ふ體(てい)也、かの法師、かれらが事ひとへに賴みあぐる、といひければ、賴母高聲(たかごゑ)に、きづかひするな、我等めをかけてやらん、と云ひければ、うれしげにて皆々山の方へ行(ゆき)ぬ、法師も歸らんとしけるが、一大事を忘れたり、わたくし持傳(もちつた)へし刀あり、何とぞさし上げ申(まうし)たし、といひて歸りけり、一兩日過(すぎ)て、賴母上の山へ行(ゆき)てみければ、いくとせふりしともしらぬたぬきの、毛などはみなぬけたるが死(しに)いたり、傍(かたはら)に竹の皮にてつゝみたる長きものあり、是(これ)則(すなはち)おくらんと云へる刀なり、ぬきて見るに、その光爛々(らんらん)として、新(あらた)に砥(とぎ)より出(いづ)るがごとし、誠(まこと)に無類の寶劍なり、依ㇾ之(これによりて)賴母、つぶさにその趣きを書つけて、領主へ獻上せられければ、殊に以(もつて)御感(ぎよかん)ありけり、今その刀は中川家の重寶(ちやうはう)となれり、

   *

柴田も賞讃している通り、この話柄は何か清々しい情話を読んだように美しい。]

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