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2017/01/21

小穴隆一「二つの繪」(42) 「河郎之舍」(1) 鬼趣圖

  河郎之舍

     鬼趣圖

 

Kisyuzu

 

 うさぎやが來て、碧童さんのところに芥川さんと君の合作の鬼趣圖があると言ふ。そんなものは畫いた覺えがないと言ふと、ともかくなんだか一度見てみないかと言ふ。そんな話から僕はうさぎやと一緒に十三年ぶりで、小澤碧童の家に行つてみせてもらつてきたが、それが昔の游心帳をとりあつめてその中に、

 龍之介隆一兩先生合作

 鬼趣圖をみてよめる狂歌

 ろくろ首はいとしむすめと思ひしに縞のきものの男の子なりけり

 うばたまのやみ夜をはけてからかさの舌長々し足駄にもまた

と達筆で書いた碧童の筆跡があるのをみるまでは、なかなか合點できなかつたものである。

 忘却はおそろしい。僕はやうやく碧童の持つてゐる鬼趣圖が駒込91221の消印(大正)で送られてゐた奉書の手紙を卷書に仕立ててゐたのだとはつきり氣づいた次第であつたが、當時ですら、十九年も前のことであつたから、持つてゐた碧童にも書いてゐた僕にも、ちよつとわけがわからなくなつてしまつてゐたのであつた。

 芥川と僕が合作の鬼趣圖を碧童に送つたのは十二月二十一日であるが、芥川は七日に、〔ボクは今王煙客、王廉州、玉石谷、惲南田、董其昌の出現する小説を書いてゐる、皆登場してたつた二十枚だから大したものさ、洞庭萬里の雲煙を咫尺に收めたと云ふ形だよ、コイツを書き上げ次第鮫洲の川崎屋へ行きたいが、君つき合はないか、入谷の兄貴も勿論つれ出すさ、雲田屋我鬼兵衞〕といふ手紙を僕によこしてゐた。この二十枚といふ小説が「秋山圖」であるが、芥川は自決を言ひだしてから、記秋山圖始末の載つてゐた甌香館集と新羅山人題畫詩集とを僕にくれてゐる。

[やぶちゃん注:この底本の写真は画素も荒く、右端の「鬼趣圖」の文字と左端の舌出した唐傘お化けぐらいしか判別出来ぬ代物であるが(右と中央に一体ずつ妖怪変化らしきものがあるが、形状把握も不能である。右の黒いのが髪とするなら、小澤の狂歌から轆轤首であるのかも知れぬ。なお、芥川龍之介はしばしば好んで唐傘お化けを描いている事実があることから、この左のそれは芥川龍之介の筆になる可能性が高いように思われる)、この図、私の所持する芥川龍之介関連の図譜類にも見ることが出来ないものであるからして、補正を加えて示すこととした。また、意外なことに先行する「鯨のお詣り」に同図の方がややより細部が判るので、参考に以下に掲げる。これを見ると、どうも右側の絵は藤の花房のようにも見え、轆轤首には見えず、中央の絵の下部には文字らしきものが見えるような気もする。原画を見てみたいものである。

 

Kisyuzu2

 

「うさぎや」既出既注の和菓子屋谷口喜作。

「游心帳」後の同名の章に記されてあるが、小穴隆一(彼は俳号を一游亭と言ったから、この「游」もそうした雅趣からの命名であろう)の雑記帳の名称。小穴自身の文章や俳句・スケッチなどの他、友人の談話記録や彼らが描いた戯画等も書かれたものである。

「駒込91221の消印(大正)で送られてゐた奉書の手紙」これは後の「書いてゐた僕にも」という叙述から、差出人自体は芥川龍之介ではなく、小穴隆一であるということが判る(実際、同日附クレジットの小澤宛芥川龍之介書簡なるものは存在しない)。

を卷書に仕立ててゐたのだとはつきり氣づいた次第であつたが、當時ですら、十九年も前のことであつたから、持つてゐた碧童にも、ちよつとわけがわからなくなつてしまつてゐたのであつた。

「芥川は七日に、〔ボクは今王煙客、王廉州、玉石谷、惲南田、董其昌の出現する小説を書いてゐる、皆登場してたつた二十枚だから大したものさ、洞庭萬里の雲煙を咫尺に收めたと云ふ形だよ、コイツを書き上げ次第鮫洲の川崎屋へ行きたいが、君つき合はないか、入谷の兄貴も勿論つれ出すさ、雲田屋我鬼兵衞〕といふ手紙を僕によこしてゐた」旧全集書簡番号八一八。書名は正確には「雲田屋我鬼兵エ」(「鯨のお詣り」には「くもだやがきべゑ」のリビが附されてある)。読点の有無を除くと正確に引用している。後に出るように、この「小説」は大正一〇(一九二一)年一月一日発行の『改造』初出の「秋山圖」で、脱稿は鷺只雄氏が前年の十二月七日、宮坂覺氏が九日頃とする。「王煙客(おうえんかく)」(以下総て面倒なので現代仮名遣で読みを示す)「王廉州(おうれんしゅう)」「玉石谷(おうせきこく)」「惲南田(こんなんでん)」「董其昌(とうきしょう)」と読む。以下、簡単に各人について注しておく。概ね、筑摩書房全集類聚版脚注と中文のウィキとを参考にした。

・「王煙客」(一五九二年~一六八〇年)は明末清初画家。「烟客」は号で本名は時敏。同時代の同じ「王」姓を持った山水画の代表画家であった鑑(後の王廉州のこと)王原祁・王翬(おうき:後の玉石谷のこと)とともに「四王」と称された。筑摩書房全集類聚版脚注によれば、書画は後に出る董其昌らに学び、『官を辞して子弟を養成し』たとあり、後に出る『王石谷はその門下生』で、一派を『婁(ろう)東派』と称したとある。

・王廉州(一五九八年~一六七七年)は明末清初画家。本名は王鑑。広東の廉州府の知府であったことから世に「王廉州」と言った。山水画に優れた先の「四王」の一人。

・玉石谷(一六三二年~一七一七年)は前に注した「四王」の一人で清初の画家である王翬(本名。石谷は字(あざな))。筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『古今の大家を学ん』ぶも『それに拘泥せず、天地自然の実景について研究』を重ね、『遂に南北二宋の画法を合して一家を成した』とある。

・惲南田(一六三三年~一六九〇年)は清初の文人画家・書家の惲格。字は寿平で、晩年になって南田老人と自称した。ウィキの「惲寿平」によれば、『惲一族は明代には毘陵の名家であったが、清軍によって多くの同族を殺され零落した。父・日初は清朝を嫌い僧になって身を隠し、講師などで生計を立てた。このため寿平は経済的に困窮した家庭環境に育つも、文人としての教養を磨き詩書画三絶と称された。しかし、父の遺志を受け継ぎ生涯、仕官することはなく、一時福建で遺民運動を行ったが、故郷に帰ると売画をもって生活した。甌香館を建て当代一流の文人・名流と交流したが、生活は困窮した。没後、葬儀費用がなく、友人の王翬が世話をしたという』。『画は、幼少の頃から父の従兄弟にあたる惲本初について習った。本初は元代の黄公望を敬慕して奥行き深い雄渾な山水を宗とした。しかし、寿平は王翬の山水画を目にしてその技量にはとても適わないと悟り、以降は花卉画に専念。王翬の紹介で王時敏の門下となり、北宋の徐崇嗣の画法を研究。輪郭線を描かない没骨法を取り入れ、写生を基礎に置いて鮮やかで清新な色彩の花卉図を画き、独自の画風を確立。後にこの一派を常州派といった』。また、『唐・褚遂良の書風に倣い、能書家としても知られている』とある。後に小穴が芥川龍之介から貰ったという「甌香館集」(おうこうかんしゅう)は彼の文集である(甌香館は彼の住居の雅号。この書を芥川龍之介は「秋山圖」の素材としている)。

・董其昌(一五五五年~一六三六年)は明末に活躍した文人で、特に書画に優れた業績を残した。ウィキの「董其昌」によれば、後の『清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝において正統の書とされた。また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれた』とある。

 

「新羅山人題畫詩集」は清代の画家華嵒(かがん 一六八二年~一七五六年:新羅山人は号。山水・人物・花鳥等あらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成・色彩によって新しい画境を拓いた作家として知られる)の画詩集。間違ってはいけないが、こちらは「秋山圖」には出ない。]

 

 

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