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2017/01/10

小穴隆一 「二つの繪」(15) 「友人」

 

    友 人

 

 恒藤恭(やすし)

 僕は恒藤が一度鵠沼に芥川を訪ねてきたのを知つてゐる。が、そのとき恒藤と芥川がどういふ話をしてゐたのかは全く知らない。芥川が恒藤のことを僕に話すときには、いつも恒藤に對する敬意があつた。芥川が笑つて僕に話してたのは、「恒藤(高等學校時代の)の描く畫は、いつも電信柱がないと描けないんだ。」「恒藤は君のことをいかにも山野を跋渉しさうな人だと言つてゐたが、それがかうならうとは恒藤でも……、」の二度だけだ。あとのはうの話は、僕が義足をつけてはじめてしばらくぶりで芥川の書齋にはいつたときに言つたのである。

 恒藤が社會思想方面の話で芥川に、近く日本に革命がくる、が、それは明治維新のやうな流血の慘事をともなはず、きはめておだやかにくるといつた話をしたといふ。芥川はきはめてまじめに僕にその恒藤説を傳へてゐた。

 僕は芥川の死んだとき恒藤に田端で會つて、鵠沼の海岸で撮つたあの寫眞は、と芥川のを聞いたら、恒藤はあれは、とだけ言つてゐた。あれは電信柱がなかつたので寫らなかつたのかも知れない。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の無二の親友恒藤恭(一般には「きょう」と音読みする)は、京都帝国大学経済学部助教授(但し、彼の専門は法哲学)であった大正一五(一九二六)年九月二十九日頃、アメリカから帰国したばかりの彼(恒藤は大正十三年から欧州留学中で一時帰国。留学はこの年九月までで、この時の肉体的精神的に激しい衰弱を見せていた龍之介を殊の外心配し、フランス滞在中には頻りに龍之介の来仏を誘ったりした)は鵠沼の龍之介を訪ねている。これが盟友との三年振りにして最後の邂逅となった。]

 宇野浩二

 宇野が鵠沼に芥川を訪ねてきたとき、僕は芥川のところの緣側に腰をおろしてゐた。病院にゐるとだけ思つてゐた宇野が玄關にせかせかあがつてくるのを見たとき、僕はこれはいけないと思つてそのまま庭のはうから家に歸つた。あのときの狼狙した芥川の「なに。宇野がきた?」と言つた顏色といつたものはなかつた。芥川は宇野をあづまや(旅館)につれていつて話をしたと言ふ。

[やぶちゃん注:宇野浩二の鵠沼訪問は大正十五年十一月二十七日のことで、同年十一月二十八日附佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号一五三一)に『昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた』とある。但し、「病院にゐるとだけ思つてゐた宇野」という小穴隆一のここでの記載は記憶の齟齬の可能性が疑われる。以前にも注したが、宇野が発狂と称してよい本格的な変調をきたすのは昭和二(一九二七)年五月末のことで、龍之介が率先して齋藤茂吉の診察を受けさせて(六月二日)入院治療を勧め、同六月上旬には嫌がる宇野を王子にあった精神科病院小峰医院に入院させている。小穴はその時期の記憶を混同して記している可能性が高いように私には思われる。但し、この大正十五年十一月に宇野が一時入院していないということを確認したわけではない。]

 菊池 寛

 夜の藤澤町の往來で、「菊池は軍資金をだしてやるから遊蕩をしろと勸めるのだがね、どうだい、二人分の金を貰つて二人でこれから遊蕩をはじめようか、」さういふ芥川と僕とは顏を見合せて思はずふきだした。遊蕩兒の素質は充分にあつても二人とも下戸なのだ。

 僕の父は人にくらべるとはやく老衰した。その父が、(僕は父に芥川はひどい神經衰弱だととりつくろつてゐた、)「ああいふ人は少し道樂をしなければいけない、すすめてみろ、」と言つたので、笑つてそのことを芥川に話すと「うむ、」といつて笑つてゐたが、後になつて、父が老衰してゐることを芥川に話したら、芥川は、「どうだ、君のお父さんにいつしよに遊びにゆかないかと言つてくれ、」とよろこんでゐた。

 久米正雄

 芥川は猿股の紐を食ひきつたといふ□夫人の執拗? まで言つたあと、久米のことを言つた。「久米は好きな女と對ひあつて話をしてゐる、それだけでもう洩らしてゐるんだといふが――」「誰でもさうかねえ、」と久米のことを言つて、(血氣いまださだまらざるときのことであらう、)「誰でもさうかねえ、」と眞劍になつてゐた。

 芥川は「自分にはそんなことはなかつたがね、」と言つてゐたが、死ぬ話でまはりの人達をさわがせてゐてなほそんなことを彼は言つてゐるのだ。

 芥川のところにサムホール(小型油繪具箱)か、明治にはミレー型といつたのか、それがあつた。僕がそれを見てゐると芥川は「久米といつしよに買つて房州に行つて、はがきに描いて夏目さんに送つたものだよ、」と言つてゐた。

[やぶちゃん注:「芥川は猿股の紐を食ひきつたといふ□夫人の執拗? まで言つた」これはここだけに載る閨房での秀しげ子の行動である。しかし如何にも芥川龍之介遺書(小穴隆一宛)に出現する『秀夫人の』『動物的本能の烈しさは實に甚しいものである』に相応しい仕儀ではないか。

「サムホール」“thumbhole”或いは“thumb-hold”。小型のスケッチ箱とスケッチ用の板。箱の底の穴に親指を入れて持つことから、この名がある。

「明治にはミレー型といつたのか」確認出来なかった。]

 佐佐木茂索

(新年號に近づく頃、)「文藝春秋で度々人をよこしていろいろ書かせるが、これは自分がこの頃書かないでゐる、それで困つてゐるだらうと思つて、みんなそれは佐佐木が心配して、菊池寛に話してゐてくれてるんだらうと思ふんだがね、」と言つてゐたが、佐佐木の書いた「生きてしまつた人」といふのが新聞の雜誌廣告にでてゐるのをみると、いきなり「俺はもう佐佐木とは絶交だ、」と怒鳴つてゐた。(僕は芥川のところで芥川よりはやくその廣告をみて、芥川のことを書いてゐるのではなからうが、きつと芥川は芥川のことを書かれたと思ひこむだらう、困つたことだと思つてゐた。)もつとも、それ以前に佐佐木は一度鵠沼にきて、芥川から死ぬ話を聞かされて、聞かされると僕のところにころげこむやうにはいつてきて、「君はあれを聞いたか? ああたまらん、ああをかしい、ああたまらん、」と淚を拭き拭き泣き笑つてゐた。(僕はそのとき、佐佐木といふ男は悲しみのときに人とかはつてちがつた表情をすると思つた。)僕は泣き笑つてゐた佐佐木が、芥川の死後今日に至るまで、なにも言はず芥川家のことに配慮してゐてくれてるのでありがたいと思つてゐる。

[やぶちゃん注:「生きてしまつた人」不詳乍ら、昭和二(一九二七)年年初か、前年末に発表されたものらしい。]

 芥川は僕に「民子さんのためにも僕はO君の新秋を書いたよ。」と言つてゐた。

[やぶちゃん注:「民子さん」宮坂覺年譜の大正一五(一九二六)年四月一日の条に出る、西田外彦(哲学者西田幾多郎の息子)夫妻と『高橋民子が来訪する。昨年から続いていた小穴隆一と高橋文子(幾多郎の姪)の縁談の件と思われるが、話がうまく進まずに苦慮する』とある人物と思われる。なお、見逃しやすいのであるが、先行するこの原型である「鯨のお詣り」の「友二三名について」を見ると、この一行は芥川龍之介の友である筆者小穴隆一についての一文であって、即ち、これは、

 

 小穴隆一

 芥川は僕に「民子さんのためにも僕はO君の新秋を書いたよ。」と言つてゐた。

 

とあるべきところであることが判明する。]

「ワーグネルが獨逸一國に値するその名聲よりも、乏しいなかにもほの暖い晩餐を欲してゐたその氣もちはわかるよ。」とミゼラブルな芥川がミゼラブルな僕に言つた。(但し僕は芥川に引合ひにだされてゐたワーグネルの不幸に對し、ワーネグルに恐縮しつづけてゐる、)

[やぶちゃん注:「ワーグネル」Wagner。「ヴァーグナー」と音写することが多いが、ネイティヴの「ヴァーグル」とも聴こえる。ただ読み過ごすと、これはかの作曲家ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)と読んでしまう(事実、私もそうであった)のであるが、ところがこれは先行する「鯨のお詣り」などの記載から考えて(後述)、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の名作詩劇「ファウスト」(Faust 発表は第一部が一八〇八年、第二部は一八三三年でゲーテが没した翌年)で主人公ファウスト博士のかつて(第一部)の学僕で、第二部第二幕で人造人間ホムンクルス(ラテン語:Homunculus:「小人(こびと)」の意。「ファウスト」では、そこでファウストとともに時空を超えた旅へと随行する重要な役割を担うこととなる存在である)を創造してしまう人物として示される人物を指すと考えられる。なお、先行する「鯨のお詣り」の「M女」(本書のん」の原型)の附記(本単行本「二つの繪」ではこの附記は存在しない)で小穴隆一は、この「ワーグネル」は「ゲーテ」が正しかったと言っているのである。しかし、ここではやはり「ワーグネル」のままになっている。やや不審ではある。]

「ワーネグル」恐らくは「ワーグネル」のただの誤植と思われるが、暫くそのままとしておく。]

 佐藤春夫

 これら鵠沼の話のなかには、僕でなく、佐藤春夫に「梅・馬・鶯」の裝幀を賴んでゐる芥川のこともある。佐藤に裝幀を賴んで、ひそかにこの世での別れをつげてゐるさういつた芥川である。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の随筆集『梅・馬・鶯』は大正一五・昭和元(一九二六)年十二月二十五日(この日が改元)に新潮社から刊行されている。芥川龍之介の後期の単行本の装幀は小穴隆一に多くを託しているが、本書は特に芥川龍之介から佐藤春夫に依頼し、彼が担当している。鷺只雄氏の年譜には、『これは別れの記念のつもりだったといわれている』とある。]

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