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2017/01/02

小穴隆一 「二つの繪」(4) 「二つの繪」(ここからが狭義の「二つの繪」パート)

 

 二つの繪

 

 

 

    二つの繪

 

Ryunosuke_self_portrait1921104yugaw

 

Simonohuruyowo

 

 芥川は大正十年三月支那に遊んで〔上海から江南一帶に遊び、漢口を經て洛陽龍門を觀、北京より更に大同に至る。朝鮮を經て歸れるは八月なり。〕のあと、十月一日から二十日ほどの間、湯河原の中西屋に滯在してゐた。僕と小澤碧童とは、芥川に招ばれて四日の夕方中西屋に辿りついたものである。そのときの碧童の句に、

   友を訪へば、

 外面の暗い秋霜の長髮をなでてゐた

といふのがあるが、その晩どうした話のなりゆきであつたのか、長髮の芥川が「後世などは信じられない、」短髮の碧童が、「後世を待つ、」で兩人のいさかひになつた。さうして、いらだたしさうに碧童にそつぽを向けて應答をしながら芥川が僕に畫いてみせてゐた繪が、三日月のみえる荒狂ふ海を背景にした岩の上に、長い髮で顏をかくしてうなだれてゐながら、巨大な耳をひろげてゐる人の繪であつた。芥川は僕に「君、これがなんだかわかるか、」と言ひ、僕は「わかる、」と言つたが、それを芥川の姿と感じ、芥川はなにか僕に話があるとわかつても、その心の底まではわかりかねてゐた。後日、芥川が自決の意を告げてから、「支那で幾度か死なうと思つた、」といふことを言ひ、アンテナといふ言葉を言つてゐるのを聞くやうになつて、芥川にははやくから僕に意中をうちあける樣子があつたことがはつきりわかつた。芥川は十五年の四月十五日に自決することを僕に告げた。さうしてその後しばらく僕らは鵠沼で暮らしたが、その鶴沼で芥川は星が一つ足りない北斗七星を畫いて、それに、霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉、と書いて「君、これがわかるか、」と言ふので「わかるよ、」と言ふと、畫いたものを座布團の下にさしいれていつた。星を一つ落してゐるのは、この世から消えゆくことを言つてゐるのだが、霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉といふ句は、十一年の晩秋、僕の足の痛みがリウマチといふ下島のみたてであつたので、しばらく伊香保にいつてゐることになつたときに、芥川が留別の句として示したものであつた。

 芥川は、僕が足を病み隻脚となる、さうして、義足で一人步きができるやうになるのを待つてやうやく心の底を告げた。

 芥川は退院してからの僕に、「僕はあのとき、どうしようかと思つたよ、」と言つてゐたが、あのときといふのは、芥川が留別の句を僕に示してゐたときのことで、芥川は僕に先きに死なれたらどうしようと思つたと言ふのであつた。

 

[やぶちゃん注:最初に掲げられた「二つの繪」が総標題で、次の、この小見出し標題「二つの繪」から以下、「芥川の死」に至る二十二章分がそれに含まれる。冒頭にその二枚の絵を画像で掲げたが、これは二枚とも底本の画像ではない。底本のそれは印刷のインクの載りが悪く、紙の質の劣化もあって、特に後者の星の絵は視認するに堪えない。そこで私が既に用いている別な資料から引いた。

 自画像の方は芥川龍之介の絵画作品の中では自画像でありながら、最も知られていない異様な一枚と思う。面倒なので引用元は明かさないが(文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品の写真には著作権は発生しないと規定している)、日本近代文学館蔵の当該元画で示した。私はこれを必要から、飯田蛇笏「俳人芥川龍之介」の注で既に使用している。

 後者の句と星の絵の画像は、二〇〇九年二玄社刊日本近代文学館編「芥川龍之介の書画」所収のものを用いた。くどいが、平面画像の単なる撮影物に著作権は生じないという文化庁の見解があるため、本複製は著作権法違反ではない。私はこれを「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で既に使用し、活字起こしと注も附している。紙のサイズは二四九×三三八、ほぼ半紙と同型。但し、横に使っている。句の下に星宿風に北斗七星の形が描かれているのだが、星は六つである。以下に前掲書の解説文を全文引用する(漢字表記はママ・記号の一部を変更した)。

   *

 句は大正十一年の晩秋、龍之介が最も親しくしていた画家小穴隆一(一游亭)が脱疽を病み、足の痛みで伊香保に赴くことにした折、餞別として龍之介が送ったもの。ここに挙げたものについては後に小穴氏がこう語っている。「芥川は縁側に上つてたが、めづらしくきまつてでるいつもの死の話もせずに、硯箱を引きよせ、この図と同じものを描いていた。これはなんだかわかるかねえ、と言っているので、北斗七星だろうが星がひとつ飛んで落ちていると言うと、にやっと笑って、うむ、ひとつ飛んじゃったと言い、菅笠の句を書き添えてていた。そうして一寸眺めていたが、紙をあらためて、それと同じ物をもう一枚畫いてたたんで座布団の下にはさんで帰っていった。大正十五年鵠沼も夏の終りの宵のことであった。」

   *

大正十一(一九二二)年の下りは、「やぶちゃん版芥川龍之介俳句集三 書簡俳句」の小穴隆(一游亭)宛一〇八二書簡も参照されたい。因みに冒頭注でも述べたが、小穴の脱疽は手遅れで、大正十二年一月四日の再手術で右足首から切断、この句を記した一星欠損した六星宿の色紙を受け取った時は、小穴は既に義足であったのである(これは私は偶然とは思わぬ)最後に、これは私の感じであるが、ご覧の通り「菅笠の」の「の」が、恰もその「ひとつ飛んじゃった」星の魂の昇天の如くに見える気がする――

 

「芥川は大正十年三月支那に遊んで……」私は、とうの昔に『芥川龍之介中国紀行文集「支那游記」全篇 附やぶちゃん注釈』を完遂させている。私のサイト「鬼火」の「心朽窩旧館」でお読み戴きたい。

「朝鮮を經て歸れるは八月なり」現在では芥川龍之介が毎日新聞社に中国特派旅行から田端に帰宅したのは大正一〇(一九二一)年七月二十日頃とされている。

「十月一日から二十日ほどの間、湯河原の中西屋に滯在してゐた。僕と小澤碧童とは、芥川に招ばれて四日の夕方中西屋に辿りついた」芥川龍之介は中国旅行で体調を崩し、その静養を兼ねてこの十月一日から二十五日頃まで(宮坂年譜に拠る)南部修太郎とともに湯河原の中西屋旅館(文学者御用達に宿として知られ、国木田独歩・田山花袋・志賀直哉らが贔屓にしたが、現存しない)に滞在していた。この十月四日の夕刻、龍之介が誘っていた筆者小穴隆一と俳人小澤碧童(明治一四(一八八一)年~昭和一六(一九四一)年:芥川・小穴の俳句の師匠で、芥川龍之介の友人の中では最も年嵩で、「入谷の兄貴」と称して敬愛していた)が訪れ、六日まで滞在している(宮坂年譜に拠る)。

「外面の暗い秋霜の長髮をなでてゐた」「とのもの/くらい//あきしもの//ちやうはつを/なでてゐた」であろう(斜線は私の推定ブレイク箇所)。これは破調なのではない。小澤碧童は河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒彼の主宰する『海紅』に参加して、遂には自由律俳句を詠むようになっていた(但し、関東大震災は(大正一二(一九二三)年九月一日)以降は定型に戻った)。

『「支那で幾度か死なうと思つた、」といふことを言ひ』これはこの小穴の記載以外にはまず見かけない事実(事実とすれば)である。芥川龍之介の中国行は、不倫をしたものの、急速に失望していったストーカー的な秀しげ子からの逃避感情が一つの大きな動機であったと私は考えており、それを自殺願望に繋げて解釈することは可能とは思われる。

「アンテナといふ言葉を言つてゐるのを聞くやうになつて」小穴の叙述の分かり難い部分である。ただ、第一の芥川龍之介の自画像の耳はまさにパラボラ・アンテナのような神経初的集音器官の如く見えること、一種の神経症や精神病などの神経疾患の初期症状に、決まって「誰かが電波を飛ばす」と訴える症例がしばいしば見られることと無縁ではあるまいと私は勝手に解釈してはいる。

「芥川は十五年の四月十五日に自決することを僕に告げた」田端の自邸(宮坂年譜にこの日に小穴が龍之介を訪問している)でのことである(次の「自殺の決意」も参照)。しばしばこれを鵠沼でのこととする記載を見かけるが、宮坂年譜によれば、芥川龍之介が文と三男也寸志を連れて鵠沼の東屋(あずまや)旅館へ静養に出かけるのは、この七日後の四月二十二日のことである。死に先立つこと、一年と三ヶ月前である。

「十一年の晩秋、僕の足の痛みがリウマチといふ下島のみたてであつた」誤診の医師が下島であったことは、あまり知られていないことと思われる。小穴は十一月には伊香保で療養していたが(療養先で芥川龍之介の作品集「春服」の装幀案を龍之介に送っている)、同月二十七日に小穴の病名が脱疽と判明、翌十二月十八日に順天堂病院で右足第四趾を切断した(既に述べた通り、龍之介が立ち会っている。この頃の芥川家は家族全員が健康を損ない、最悪の状況下であった)が、手遅れで、翌大正一二(一九二三)年一月四日に再手術を受け、右足首を切除した。この時も芥川龍之介が立ち会った(順天堂からの退院は三月上旬であった。以上は宮坂年譜に基づく)。これより、小穴は義足生活となった。]

 

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