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2017/01/11

小穴隆一 「二つの繪」(16) 「交靈術」

 

     交靈術

 

 藤澤劇場に奇術、交靈術、オペラコミックの一座が掛つたをり、芥川は田端から使ひも兼ねてきたのであらう蒲原(春夫)と僕とを伴れて見物に行つたが、交靈術なるものをはじめる前に、逞しい猛獸面らの座長が靈魂の不滅を説いて、演じまする交靈術が、如何に高遠な道に根ざしてゐるものなるかをながながと演説をした。それが死にたい芥川をなにか説諭でもしてゐるやうな調子に聞えてたので、ひどく芥川の癇をたかぶらせてしまつたものである。

[やぶちゃん注:この降霊術を含む一座を芥川龍之介が観た事実(それも以下に見るように二回も)は、私は他の文書では見たことがない(年譜に載らず、書簡にも出ないものと思う)が、この時の体験が或いは翌年の「河童」(昭和二年二月十三日脱稿・三月一日『改造』発表)の「十五」に出る、詩人トツクの怪しげな降霊会のヒントとなったとも言えるのかも知れぬ。なお、この当時の心霊学を巡る動向については、私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の「十五 注」を是非、参照されたい。また、この一座について何らかの情報をお持ちの方は、是非、御教授戴きたい。

「オペラコミック」“opéra-comique”は本来はフランス語。狭義には普通の台詞を交えた「カルメン」に代表される本格的な歌劇の一種を指すが、ここは浅草オペラのような滑稽を旨とする大衆歌劇と考えてよかろう。

「藤澤劇場」不詳。但し、ウィキの「藤沢市」によれば、明治四一(一九〇八)年四月一日に藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併して高座郡藤沢町が発足、その後の昭和一五(一九四〇)年十月一日に藤沢町が市制を施行して藤沢市が発足する間に、大きな町域変更がないことと、わたなべけんじ氏の「テストブログ」の「我がまち湘南藤沢」の中に、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災の為(同ページ記事内には当時、藤澤町域内では四千余戸が倒壊したとある)、藤澤警察の『廰舎倒潰シ一時藤澤町藤澤劇場ニ於テ事務ヲ執』ったという文書が示されていることから考えると(倒壊した警察庁舎から著しく離れた場所にあったのでは執務が困難を極めるであろうという推定から)、劇場名で「藤澤」を冠している以上、現在の藤沢駅周辺域にあった劇場と考えてよいであろう。

「蒲原(春夫)」(かもはらはるお 明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)は長崎の郷土史家。長崎市生まれで長崎中学卒(大正七(一九一八)年)。大正八年に芥川が五月に芥川が菊地寛とともに最初に長崎に遊んだ折り、面識を得、大正十一年にやはり芥川龍之介の弟子となる同級の渡辺庫輔(くらすけ)とともに上京して、ともに芥川龍之介に師事、創作を指南されるとともに、『近代日本文芸読本』の編集を始め、龍之介の多くの仕事を手伝った。芥川の没後は長崎へ戻り、雑貨商や古本屋を営みつつ、長崎市史の研究に取り組み、『長崎文学』を創刊して長崎ペンクラブ会長としても尽力した。小穴隆一が以下で言うように市会議員を務めたこともあるが、それは佐賀市ではなく、長崎市会議員の誤りである。芥川より八つ年下。]

 芥川は座長が交靈術にとりかかるのにいるさくらを客席からよびだしてゐるのをみると、「歸りに酒をのませるから君が出ろ、」と蒲原が尻ごみするのを叱りつけて無理無理舞臺に追ひあげてしまつた。(蒲原は終戰後であらう、比呂志君から佐賀の市會議員になつてゐると聞いた、)蒲原はてれきつてても張りきつてる顏なので、どうなることかとみてゐると、心理狀態が適さぬ者と言はれて舞臺から追ひかへされてきた。(これこそ心靈術だと僕は思つてた。)芥川は歸りに蒲原を遊廓に伴れこんで女郎屋におしあがり、宿泊帳に假名で、かまはら、と書いて金を拂つておいて、びつくりしてゐる蒲原一人殘しておいて歸つたものだが、蒲原はその日の芥川に全然おびえてたらしい。

[やぶちゃん注:「かまはら」蒲原(かもはら)春夫の姓は「かんばら」とする人名事典もあるが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項のそれ「かもはら」を正しいものとして採用した。]

 靈魂不滅を信じないと言ふ芥川でさへ家人に、「俺が死んだら大雨を降らせてやる。」僕に、「俺が死んだらあの世で君を護つてゐてやるよ。」などと言つてゐるのである。

 芥川はあくる晩にまた、夫人と僕とを伴れてその一座をみに行つてゐる。

「沙羅の花」以來「支那游記」「三つの寶」に至るまでの芥川の本の表紙の字を書いてゐた、(「三つの寶」は、芥川が死ぬと言ひだしてから、僕も鵠沼、田端と轉居、仕事があちらで少し、こちらで少しとなつてゐたので出版が死後となる、)僕の一番下の尚子が危篤で一寸東京へ行くのを、芥川は藤澤の驛までと言つて送つてきて、町で尚子にと言つて紅いばらを一束買つてくれた。どういふものかその日二人ともホームで別れるときに淚をうかべてしまつてた。東京に向つて動きだし車内でほつと一と息して、ふと前の方をみると、向ふの車から見覺えある顏が僕に近づいてくる。(ただ顏しか僕は感じなかつた、)みてゐるとそれがいま別れたばかりの芥川であつたので、丁度空いてゐた僕の前の席にそのまま腰をおろした芥川に、奧さんに心配かけるのは申譯がないから、すぐ降りて鵠沼へ戾つてくれ、それでなければ僕も降りて鵠沼に戾るからと言つて賴んだが、芥川は「一と晩でも君と離れるのはいやだ、」といつたままで動かず、日は暮れてしまひさうになつてゐるし、汽車はどんどん鵠沼を離れてしまふ、芥川は座席に橫になつてしまつて動かない、あんな困りかたもなかつた。大船でなくどこの驛であつたのであらうか、やうやく痔が痛むと言つて芥川は降りてくれたが、着ながしで麻裏をはいたままの、鵠沼で家のまはりを步いてゐるときの恰好の芥川が、薄暗いホームに立つたままこちらを見送つてゐるのをみたらまた淚がでた。一見颯颯とした趣きのあつた芥川のああいつたあまえつ兒のやうなところは、生れるときにもつてついた宿命のやうなものによるのか、芥川にはやはり芥川が言つてゐた姉さん女房いつた女房がよかつたのであらうか、麻素子さんあたりには、僕に夫人をベタぼめにほめてゐたやうにほめてゐたものか、多分多少のちがひもあらうかと思はれる。

[やぶちゃん注:以前にも注したが、これは大正一五(一九二六)年の十二月九日(芥川龍之介が自死実行日として拘った漱石の祥月命日)の出来事である。

「沙羅の花」大正一一(一九二二)年八月十三日に改造社から刊行した芥川龍之介の作品集。

「支那游記」大正一四(一九二五)年十一月三日改造社刊。

「三つの寶」既出既注の童話集。芥川龍之介一周忌直前、昭和六(一九三一)年六月改造社刊。]

 

 芥川が家人に義絶をせよと遺書にしたためてゐたその弟の新原得二は、僕と前後して鵠沼に住み、芥川が田端に戾ると田端に戾つてゐた。同じく義絶せよの姉のその當時の夫であつた西川辯護士の鐡道自殺も、僕の鵠沼のなかには忘れられない。

 僕は西川氏の死はかへつて、いろいろに芥川を頑張らせ、芥川の死を多少のばしてはゐないかと思つてゐる。

[やぶちゃん注:「新原得二」(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)は芥川の実父新原敏三と実母フクの後に、敏三の妻となったフクの妹フユとの間に生まれた芥川の異母弟。上智大学中退。新全集人名索引には、『父に似た野性的な激しい性格で、岡本綺堂について戯曲「虚無の実」を書いたりしたが、文筆に満足しなかった。のち日蓮宗に入り、早逝した』とある。私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』を参照されたいが、芥川文子宛遺書の廃棄されたと思われる一部には、ここに書かれているように、自死の年の年初一月三日に鉄道自殺した義兄西川豊の妻で龍之介の実姉ヒサ(龍之介より十二歳年上。前夫葛巻義定とは離婚していたが、芥川龍之介の自死後に西川との間に出来た子を連れて義定と復縁している)及び異母弟新原得二との義絶、並びに葛巻義敏の扶養の指示があったものと推定されている。]

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