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2017/02/28

柴田宵曲 妖異博物館 「道連れ」

 

 道連れ

 

「旅は道連れ世は情け」といふ諺を見ると、旅をする者に取つて、道連れほど賴もしいものはなささうだが、現世の事實は決してさうではない。時に道連れのために生ずる不安がある。護摩の灰などといふ連中は、道連れ業者とでも稱すべきもので、彼等に惱まされた旅人は算へきれぬほどであつた。

[やぶちゃん注:「護摩の灰」「ごまのはひ(はい)」。旅人を脅したり騙したりして金品を捲き上げる者。一説によれば高野聖のいで立ちで有り難い護摩壇で修法(ずほう)した其の霊験あらたかな灰と称して押し売りをした者のあったことからとも、別に「胡麻の蠅」と書いて「ごまのはへ(はい)」とも読むことからは、胡麻粒では蠅が留まって一寸判らぬことから昔、道中の旅人にくっついた詐欺師・人を騙る詐欺漢の謂いとなったとも言う。]

 桶南谿が備後國を旅行してゐた時、百姓らしい二人の老人と道連れになつた。南溪の樣子を見て、如何なる人で何處から何處へ行くかと問ひ、京都の醫者だとわかると、かういふことを云ひ出した。實は親しい家の女房で、難病に罹つてゐる者があるが、山里の事で診察を乞ふ醫者もない、せめて脈だけでもお取り下すつて、彼等の心を慰めていたゞくわけには參りますまいか、といふのである。何も修行であるから、承知して一緒に步み、日も傾く頃に本郷といふ寂しい里に著いた。病人は五十餘りの女で、永らくの病苦に生きた色もなかつたが、脈にはまだ慥かなところがあるので、療治を加へ、藥を與へ、今後の手當なども委しく説明して、三原の城下へ出て來た。こゝでその話をすると、それは危いことでございました、全く先生の誠意を佛神がお護り下されたものでございませう、さういふことは大方盜賊の僞りで、深山まで連れて行つて、金銀衣類を奪ふことが珍しくありません、今後は御用心なされぬと危うございます、と注意された。南谿もはじめて心付いて、自分の無事をよろこんだが、二年ばかり諸國をめぐり、京都へ歸つた後、備後國から六兵衞といふ百姓が尋ねて來た。女房の難病は全く平癒したので、先生のことは弘法大師の再來の如く尊んでゐるといふ。南谿には愉快な話であつたが、もし三原の人の云ふところが事實とすれば、世の中には危險千寓な道連れが存在するらしい。

[やぶちゃん注:以上は、「西遊記」の「卷之四」の巻頭「篤實(とくじつ)」である。例によって気持ちの悪い東洋文庫版で示す。思ったより原話は長い。読みは最小限に留めた。一部、こんな変なことをしているのに、原典の誤りのママに活字化している箇所は、勝手に訂した。

   *

 備後国を通りし時、百姓とみえし年老いし男二人、ふと道連れに成り、山の名、里の風俗など尋問いて行きたりしに、我野服(やふく)を着し、方頂巾(ほうちょうずきん)を戴だきしをあやしみて、「いかなる人にて、いずくよりいずくへ行き給うにや」と問うに、「都方(みやこがた)の医者なるが、医術修行の為に諸国に遊歴するなり」と答えしかば、「扨も頼もしき御人や。我等が住む里は向こうの山の奥なるが、親しき家の女房に奇妙の難病ありて早や二年(ふたとし)に成り、近きあたりに住み候えば聞くもいぶせく、其家にもいろいろと医療尽さざることもなけれど、露(つゆ)ばかりのしるしもなく、今は早(はや)、命だにあやうく見え候いぬ。かく山深き片田舎にて名高き医師も候わず。あわれ都近くも有るならばなど、親類の者は歎き居(い)候いぬ。きょうははからずも京都の御医と承り候えば、親類共が常々の詞(ことば)も思い出だし候いて、あわれにも候えば、何とぞ脈(みゃく)ばかりにても取らせ給いて、彼等が心をもなぐさめたまわらばや」と、誠の心言葉に出でて、又余義(よぎ)もなく見えたりしかば、「余も此道修行の事なれば、いとやすき事なり」とうけがいて、彼(かの)者共のしりえに従いて、尾の道の二三里斗(ばか)りこなたより右の方に分(わけ)入る。鹿(しか)狼(おおかみ)の通うごとき細道を、谷に下だり峯にのぼりて、ゆけどもゆけども程遠きに、日影もやや傾(かたぶ)き、腹(はら)餓え、足つかるれば、僕(ぼく)腹立てて、「程もしれぬいたずら事」とつぶやく。とこうなだめて行くほどに、ようように至り着きぬ。とある山あいのいと淋しき人里なり。本郷という所なりと。其家に入れば、病者は五十斗りなる女にて、其夫を六兵衛と云う。ものしかじかの由をいえば、家内皆驚き悦び、「去年(こぞ)の冬より淋病(りんびょう)の心地なりしが、次第に強く、露(つゆ)ばかり落つる便事(べんじ)に、其痛(いたみ)忍びがたく、内よりは頻りに通じの心きざして腹(はら)裂くる心地して、其くるしみたとえんかた無し。日々月々に病いつのり、春の頃よりは一しおにて、横に臥(ふ)せば下ばらひとしおさくるがごとく、立てばくるしく、座すれば堪(たえ)がたし。それゆえ昼夜(ちゅうや)只(ただ)火燵(こたつ)のやぐらに両手をつかえ、立ちながらうつむきて居る事のみ少し心やすらかなるようなれば、春以来は片時も座せず臥さず、只昼夜食事にも眠るにも、此通(とおり)なり。其くるしみ中々いうもおろかなり。近き頃は殊にあしければ、命の限りも遠からじと、一日も早く臨終をのみ待ち侍る也。命の事はたすかるべくも思い侍らねど、都の人と承ればゆかしくこそ候え。何とぞ一日なりとも此くるしみをたすけ給わりて、横にふしてやすらかに臨終を得さしめ給わば、上(うえ)も無き御恵(めぐみ)」と、涙を流せるさま、げに見るさえあわれなり。昼夜立ちてうつぶし居れば、足は柱(はしら)のごとく腫気(しゅき)ありて、顔も亦眼(ま)ぶちはれ、額(ひたい)も浮(う)きて、活(い)きたる人のごとくにもあらず。肛門は牡丹花(ぼたんか)のごとく、長さ五六寸もぬけたり。一しきり一しきり腹はり来たる時のくるしみの声隣(となり)を動かし、聞く者すら堪えかねたり。病体(びょうてい)は誠(まこと)にかくのごとく危く甚だしけれど、其(その)脈に見所(みどころ)有りければ、いそぎ薬を与え、猶且(なおかつ)薬湯を以て腰より漬(ひた)し、種々の療術(りょうじゅつ)を用いしかば、大小用の通利(つうり)出で来て、初めて横さまに臥(ふ)すことを得たり。猶品々(しなじな)の療治をくわえ、此以後に用いる薬方を委敷(くわしく)書しるして、猶用いかた抔(など)迄もくわしく伝え置きて、其家を辞して、数里の深山をわけ出でて三原の城下へ着きぬ。三原にて此物語をせしに、「扨(さて)もあやうき事なり。御心に誠(まこと)有りぬればこそ仏神の助(たすけ)も有りて、まことの事に逢い給うならめ。多くは、かくのごとき事は盗賊のいつわる事にて、旅する人を人なき深山に連(つれ)行き、さし殺して金銀衣類を奪う事珍らしからず。此後(のち)はかならず楚忽(そこつ)のふるまいし給うべからず」といいけるにぞ、初て心付きて恙なかりし事の嬉しかりき。

 それより諸国をめぐり、二とせをへて京へ帰り居たりしに、或日六条の旅宿のあるじたずね来たり、「一両年以前九州へおもむき給いし御医者はこなたなりや」と問う。「いかなる用ぞ」と聞けば、「備後国より六兵衛という百姓一人のぼり来たり、『下に市の字(じ)の付きたる御医師を聞及(ききおよ)ばずや。何とぞ尋ねくれよ。去々年しかじかの事にて高恩にあいぬれば、御礼(おんれい)のために来たりたり。其御名は聞かざりしかども、荷物の下(さ)げ札(ふだ)に市(いち)の字(じ)を見及びたり』という。手がかりも無き尋ねようかなと存じ候えども、其志(こころざし)の殊勝にも候えば、先(まず)試みに標札をみめぐりて、市の字を見当り候えば御尋ね申すなり」というにぞ。「其事有り」といえば、則ち帰りて、其次の日彼(かの)六兵衛同道して来たりつつ、備後畳(だたみ)をみずから持ちて礼物(れいもつ)とし、「扨も過ぎし年は不思議の御縁(ごえん)にて、妻なる者御療治に逢い、命は無きものと覚悟致し居り候いしを、其日よりしるしを得、仰置(おおせお)かれし日限(にちげん)のごとくに、かかる難病平愈して、再び常体(つねてい)の人となれる事、殊に近所の者の行逢(ゆきあ)いより始まりて御名(おんな)さえ承らず候えは、弘法大師(こうぼうだいし)の来たらせ給うなりとのみ、一村(ひとむら)の評判にこそ致し候え。京(きょう)を尋ねたりとて逢い奉るべしとははからず候えども、命たすかりし御高恩(ごこうおん)、一言(いちごん)の御礼も申さざる心の中も安からず。もし逢い奉る事なくば、東寺にても参り候て弘法大師様へ御礼申しかえるべしと存じ極めて参り侯いし也。先ずは尋当(たずねあた)りて日頃(ひごろ)の本望(ほんもう)に叶い候なり」とて、真実(しんじつ)顔色(がんしょく)にあらわれたり。余も嬉しくて、しばしもてなぐさめて帰しやりぬ。都近くの者ならましかば、百里に余れる海山を、いかではるばる尋来たるべき。辺土(へんど)の民の篤実なる事、感ずるにも猶あまりあり。

   *

文中の「野服」は『粗末な服』、「方頂巾」は『後方に垂れのある頭巾。すみずきんとも』、 「備後畳」は『備後産の畳表』、という注が、底本の校注者宗政五十緒氏によって附されてある。

 個人的にはこの話柄、非常に好きである。]

 この話は南谿の「西遊記」の中の出來事であるが、その南谿が「北窓瑣談」の中に、全く違つた場合の妙な道連れの事を書いてゐる。安永三年十月晦日、山寺何某といふ大坂の士が眞田山の邊を通りかゝると、耳許に何か頻りに人の話し聲が聞える。振返つて見ても誰も居らず、歩き出せばまた聲がする。幾度となく振返りながら行くうちに、半町ばかりもうしろの方に、羽織を著た町人と、虛無僧との話して來る姿が見えた。天蓋を上に脱ぎかけた虛無僧の顏は、まるで塵紙で作つたやうで、然も例の話し聲は依然として聞える。これはこの虚無僧が妖怪であるに相違ない、一太刀に斬らうと思ひ、愈々うしろ近くに來た時、きつと振返る途端に、わつと叫んで抱き付いたのは町人であつた。如何致したかと問へば、さてさて恐ろしい事でございます、只今まで同道して參りました虛無僧が、あなた樣のうしろを御覽なされる拍子に消えてなくなりました、といふ。こゝまで何を話しながら來たかと尋ねたら、自分は遠國の者で當地の案内を知らぬ、どこへ宿を取つたらよからうかと申しますので、幸ひ自分が宿屋をして居るから、今夜はお泊め申しませう、と云つたところです、と答へた。「山寺氏の氣、妖怪に徹して逃去りしなるべし」といふのであるが、もしこの人が行き合せなかつたならば、妖怪と同道した上に、宿まで提供するところであつたらう。

[やぶちゃん注:「安永三年十月晦日」同月は小の月であるから二十九日で、これはグレゴリオ暦一七七四年十二月二日に当たる。

「眞田山」現在の大阪府大阪市天王寺区真田山町(さなだやまちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。かの真田丸跡付近である。

「半町」約五十四メートル半。

「長町」「ながまち」で現在の大阪府大阪市中央区及び浪速区の日本橋(にっぽんばし)に相当する位置にあった、一大宿場町。この附近(グーグル・マップ・データ。示したのは浪速区の日本橋。この北に中央区部分の日本橋が続く)。

 以上は「北窓瑣談」の「卷之四」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。頭の柱「一」は除去した。妖しさ満杯の見開きの挿絵(一柳嘉言画)も添えた。

   *

 

Ayasikikomusou

 

大坂の士山寺(やまでら)何某といふ人有しが、安永甲午の年十月晦日、眞田山の邊を過(よぎり)しに、耳もとにて何か喧(かまびす)しく人の噺し聲聞ゆる故、ふりかへり見れども、うしろに人無し。其まゝ行に又人聲聞ゆ。又ふりかへり見れども人なし。如ㇾ此(かくのごとく)すること數度(あまたゝび)に及び、あまりに不思議にてうしろを遙に見るに、半丁許も隔たりて、羽織着たる町人と、天蓋(てんがい)を上にぬぎかけたる虛無僧(こむそう)と同道して物語し來るあり。此虛無僧の顏を見るに、塵(ちり)がみにて作りたる顏のごとし。不思議に思ひながら行に、耳もとの噺聲頻なり。山寺氏思ふに、此虛無僧、定て妖怪(ゑうくわい)なるべし。一太刀に切んものをと心に思ひ、しづかに歩み行(ゆき)、うしろ間近(まぢか)く來るとおもふ時、きつとふりかへり見るに、わつとさけびて抱きつゝ、急に押へて見れば、彼町人なり。何者ぞと問(とふ)に、扨て恐(おそ)ろしき事なり。只今まで同道いたし來りし虛無僧、そなた樣のうしろを御覽なさるゝと、其まゝ消失候ひぬ。あまりの恐ろしさに取付(とりつき)まゐらせしなりといふ。何事を語(かた)り合(あひ)來りしといふに、我は遠國の者なり。當地の案内をしらず、旅宿(りよしゆく)すべき町は何所(いづく)ぞと申候ひし故、某答へて、幸(さひは)ひ長町に住候ひて其業(わざ)仕り候へば、今宵は御宿進らせ申べしと、語り合(あひ)て來りし折節なりといふ。山寺氏の氣、妖怪に徹して迯去りしなるべし。

   *]

 小石川の茗荷谷に三四百坪ばかりの明屋敷があつた。主人は稻富氏といふことであつたが、入口の脇に道心者らしい男が小屋掛けのやうにして一人居る外、つひぞ出入りの人を見たことがない。いつ頃からあるのか、屋敷内に大きな石塔が三つ四つあつて、垣根より高く見えてゐる。晝でもあまり人通りのないところだから、夜に入つては猶更で、この屋敷には久しく化物が住むといふ評判であつた。或時大野三太夫といふ人が、小日向の方から大塚の組屋敷へ歸らうとして、日暮れ過にこゝを通ると、先に立つて行く出家がある。これはいゝ道連れであると足早に追ひ付き、二十間ぐらゐの距離になつたと思ふ時、その出家の丈が急に高くなつた。見る見る屋敷の垣根を越し、大石塔の五輪の上より遙かに見上げるほどになり、その門口まで行くかと見えたが、忽ち姿が見えなくなつた。この話などはまだ道連れになるところまで往かぬけれど、この人通りのない道で、道連れになつたとすれば、その先は想ひやられる。「惣じて此邊怪しきことゞも時々あり」と「望海每談」に記されてゐる。

[やぶちゃん注:「二十間」三十六メートル強。

「望海每談」筆者不詳の随筆。江戸府中の旧事及び江戸の古跡などを記す。成立は元文(一七三六年~一七四一年)から明和(一七六四~一七七二年)の間とされる。以上は同書の「大塚村怪異」の中に記されてある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]

「宮川舍漫筆」には疫神と道連れになる話が二つある。一方は物貰ひ體の女、一方は一人の男といふだけで樣子はわからぬ。女の方は空腹だといふので蕎麥を食べさせ、男の方は犬を恐れるので一緒に行つて貰ひたいといふ。別れに臨み、いづれも自ら疫神であると名乘り、疫病を免れる法を告げて去るのである。その法が一方は泥鰌、一方は小豆粥といふことで、さつぱり合致せぬのが面白い。

[やぶちゃん注:「宮川舍漫筆」は宮川政運著で安政五(一八五八)年序。筆者はの幕吏で儒者の志賀理斎の次男。以上は、同書の「卷之三」の「疫神(やくじん)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附した(一部は推定)。【 】は原典割注。本文の歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

   ○疫神

嘉永元年の夏より秋に至り、疫病大に流行なりし處、宴覽思議の一話あり。淺草邊の老女、【名を失念。】或時物貰體(ものもらひてい)の女と道連(みちづれ)になりし處、彼女いふ、私事(わたくしこと)三四日何も給(たべ)申さず、甚だ飢(うゑ)におよび申候。何とも願ひ兼(かね)候得ども、一飯御振舞の程願(ねがふ)といふ。老女答(こたへて)、夫(それ)は氣の毒なれども、折惡敷(あしく)持合せ無之(これなし)。しかし蕎麥位(ぐらひ)の貯(たくはへ)はあるべし。そばをふるまい申べしとて、蕎麥二椀たべさせける。彼女、大きに歡び禮を述(のべ)別れしが、亦々呼(よび)かけ、扨何がな御禮致(いたす)べしとぞんじ候得共、差當(さしあた)り何も無之(これなく)、右御禮には我等(われら)身分御噺(はなし)申(まうす)べし。我等儀者(は)疫神に候。若(もし)疫病(やくびやう)煩(わづらひ)候はゞ、早速鯲(どぜう)を食し給へ。速(すみやか)に本復(ほんぶく)いたすべしと教へ別れけるよし。右は友松井子の噺なり。この趣(おもむき)と同譚(どうだん)の事あり。實父若かりし時、石原町に播磨屋惣七とて、津輕侯の人足の口入(くちいれ)なりしが、兩國より歸りがけ、一人の男來り聲をかけ、いづれの方え參られ候哉(や)と問(とふ)、惣七答(こたへ)て、我等は石原の方え歸るものなりといえば、左(さ)候はゞ何卒私儀(わたくしぎ)同道下されかし。私義(わたくしぎ)は犬を嫌ひ候故、御召連下されといふ。それなれば我と一所に來(きた)れよと同道いたし、石原町入川(いりかは)の處にて、右の男、扨々ありがたくぞんじ候。私義は此御屋敷え參り候。【向坂(さきさか)といへる御旗本にて千二百石、今は屋敷替相成(あひなる)。】扨申上候。私義は疫神に候。御禮には疫病神(やくびやうがみ)入申(いりまう)さゞる致方(いたしかた)申上候。月々三日に小豆(あづき)の粥(かゆ)を焚(たき)候宅(たく)えは、私(わたくし)仲間一統(いつとう)這入(はいり)申さず候間(あひだ)、是を御禮に申上候といひて、形ちは消失(きへうせ)けるぞふしぎなれ。其日より向坂屋敷中(ちう)疫病と相成候よし。予が實父え播磨屋の直(すぐ)ばなしなり。右故(ゆゑ)、予が方にても、今に三日には小豆粥致し候。此儀に付ては我等方にても疫病神をのがれし奇談あり。二の卷にしるしおくゆえ、こゝに略す。

   *

末尾に「二の卷にしるしおくゆえ、こゝに略す」とあるが、同書の「卷之二」にはそのような記載は管見する限り、ない。或は「宮川舎漫筆」の続篇を記すつもりがあったものか。]

「搜神記」の糜竺は都から歸る途中、一人の女から車に載せてくれと賴まれた。承知して何里か來たところで、女が別れ去るに當り、自分は天使である、これから東海の糜竺の家を燒きに行くところだ、今あなたに車に載せて貰つたから、これだけ告げる、と云つた。竺は驚いて何とか免れる方法はあるまいかと賴んだけれど、一たび命ぜられた以上、燒かぬわけには往かぬ、あなたは急いでお歸りなさい、私はこれからゆつくり步くことにする、といふことであつた。竺は大急ぎで家に歸り、家財を運び出したが、果して日中に火が起り、家は全燒になつた。女は緩步によつて竺の災難を少くしたのである。かういふ連中は存外恩を忘れぬ、義理堅いところがあると見える。

[やぶちゃん注:「糜竺」(びじく ?~二二一年)は後漢末から三国時代の政治家。ウィキの「糜竺より引く。『徐州東海郡県(江蘇省連雲港市)の人。妹は糜夫人(劉備の夫人)。弟は糜芳。子は糜威。孫は糜照。本来は縻(または靡とも)と読まれるという』。『先祖代々裕福な家であり、蓄財を重ねた結果』、小作一万人を『抱え、莫大な資産を有していたという』。『陶謙に招かれ、別駕従事の職にあった』。一九四年、『陶謙の死後に遺命を奉じて、小沛に駐屯していた劉備を徐州牧に迎えた』。一九六年、『劉備が袁術と抗争し』、『出陣している時、劉備の留守につけ込んだ呂布は下邳を奪い、劉備の妻子を捕虜にした。劉備が広陵に軍を移動させていたが、糜竺は妹を劉備の夫人として差し出すとともに、自らの財産から下僕』二千人と『金銀貨幣を割いて劉備に与えた。劉備はこのお蔭で再び勢力を盛り返す事ができた』。『劉備が曹操を頼った時、糜竺は曹操に評価され、上奏により嬴郡太守の地位を与えられた。また、弟にも彭城の相の地位が授けられた。しかし劉備が曹操に叛くと、糜竺兄弟もそれに従い各地を流浪した』。『劉備はやがて荊州の劉表を頼ることを考え、糜竺を挨拶の使者に赴かせている。糜竺は左将軍従事中郎に任命された』。『劉備が益州を得ると安漢将軍に任命されたが、これは当時の諸葛亮を上回る席次の官位だった。劉備に古くから付き従った家臣である孫乾や簡雍よりも上位であったという(「孫乾伝」・「簡雍伝」)』。『糜竺は穏健誠実な人柄で、人を統率するのが苦手だったため、高く礼遇されたものの一度も軍を率いる事はなかった。一方で弓馬に長け、弓は左右どちら側からでも騎射を行なうことができた。子や孫まで皆がその道の達人だったという』。『弟は関羽とともに荊州を任されていたが』、二一九年、『個人的感情から仲違いをし、呂蒙にほとんど抵抗する事無く降伏した(「呂蒙伝」)。このため荊州に孫権軍が侵攻し、関羽は敗死してしまった。糜竺は自ら処罰を請うため自身に縄を打って出頭した。兄弟の罪に連座する事は無いと劉備に宥められたが、剛直な彼の怒りは収まる事がなく、そのまま発病して』一『年程で亡くなったという』とある。

 以上は「搜神記」の「卷四」に載る以下。中文サイトのそれを加工して示す。

   *

麋竺、字子仲、東海人也。祖世貨殖、家貲巨萬。常從洛歸、未至家數十里、見路次有一好新婦、從竺求寄載。行可二十餘里、新婦謝去、謂竺曰、我天使也。當往燒東海麋竺家、感君見載、故以相語。竺因私請之。婦曰、不可得不燒。如此、君可快去。我當緩行、日中、必火發。竺乃急行歸、達家、便移出財物。日中、而火大發。

   *

柴田宵曲 妖異博物館 「形なき妖」

 

 形なき妖

 

 鯉川といふところに住む貧乏人の夫婦の家に、何威からともなく聲が聞えて來る。形は少しも見えぬので、はじめは恐れて居つたけれど、後には馴れて話をするやうになつた。食物なども夫婦が食べたいといふ物が、何でもその家の中に出て來る。同時に近所の家では、いろいろな食物が見えなくなるので、これは狐狸の仕業だらうといふことになつた。その聲に向つて將來の事を問へば、吉凶悉く答へるのが少しも違はぬ。錢とか米とかを持つて來て、その占ひを問ふ人もあり、中にはその聲を怪しとして、正體を見顯はさうとする人もある。形は無論見えず、捻ぢ合つて角力を取る體であつたが、なかなか力が強く、人に負けることはなかつた。正體は何ともわからぬうちに、いつとなくこの怪は止んでしまつた。寶曆七年の事である(譚海)。

[やぶちゃん注:私の電子化注「譚海 卷之二 同領地十二所の人家に錢をふらす事」を参照されたい。]

 これは全然形がないのだから、捕捉することは出來ぬが、狐狸の類が人に饗應する場合、附近の品物がなくなる例はよくある。狐狸の仕業だらうといふ判斷は、あたつてゐるかも知れぬ。

「新著聞集」にある妖は、形が全然ないこともなく、さうかと云つて正體をしかと摑むことも出來ぬ、不思議なものであつた。延寶六年の冬、薩州の家中の竹内市助なる者が、夜更けてひとり歸つて來ると、向うから貝を吹いて來る者があり、それが額當つたと思ふ途端に、自分はうしろに倒れて居つた。別に身體が痛むこともないので、そのまゝ歩いて行つたところ、また同じやうに貝を吹いて來る。今度は刀を拔いて額に當てたら、刀に恐れたと見えて、脇へ外れて過つて行つた。市助は無事に歸宅して、伯父にその話をすると、そんな事に遭つた時は、もう一度行く方がいゝさうすれば後に災ひはないと聞いてゐる、と伯母が云ふので、今來た道を取つて返した。果して何事もなかつたが、慥かに步いて行つたことを證明するため、知合ひの門を敲き、夜更けて甚だ恐縮であるが、斯く斯くの次第で參つた、と云ひ捨てて歸つた。

[やぶちゃん注:「延寶六年」一六七八年。]

 

 この時の妖は殆ど形なきに近い。額に當つて倒れたのを見れば、何かの形を具へてゐたに相違ないが、捕捉し得なかつたものであらう。然るに翌年の春になつて、市助が江戸參觀の用意をしてゐた頃、一夜友達が大勢集まり、十時頃に皆歸つて行つた。市助心寂しく坐つてゐると、半分ほど明いてゐた座敷の戸の間から、顏の長さ三尺ばかりもある大坊主が顏を出した。何者だと脇差を拔いて飛びかゝるところを、箕のやうな大きな手で肩をひしと摑まれた。屈せず疊みかけて斬つたが、何だか手應へなく、綿でも切るやうで、搔き消すやうに失せてしまつた。貝を吹きながら步いて來た妖と、戸の間から顏を出した異物とは、同じであるかどうかわからない。前のは額に當つても形が見えず、後のは形を現してゐるのに、たゝみかけて斬つても手應へがないのだから、先づ似たものであらう。顏の長い大坊主や、箕のやうな大きな手は、狐狸の惡戲を思はせる。

[やぶちゃん注:以上は、「新著聞集」の「第十 奇怪篇」の「形(かた)ち有(あ)り體(てい)なき妖者(えうしや)」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柴田は変事への対応を答えたのを「伯父」とするが、原典はその妻らしき「伯母」である。一部にオリジナルに推定で歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

   ○形ち有り體なき妖者

薩州の家中の竹内市助といふ者、延寶六年の冬、夜ふけて、他所(よそ)より歸りしに、向ふより貝をふく音して來り、額(ぬか)にあたると覺えしに。アツトいふて後(うしろ)へ倒れしかど、さのみ痛む事もなかりし。訝(いぶか)りて行くに、又同じ樣にて來れり。頓(やが)て刀をぬき額にあてしかば、刀にや恐れけん。脇へそれて通り、恙なく宅に歸り、伯父なりし者にかくとかたれば、伯母、さある事に逢(あひ)ては、今一度ゆかれよ。後に災なき物と傳へ聞(きき)たりと有れば、頓(やが)て取(とり)て返しける印(しるし)にとて、しれる者の門を敲(たた)き、夜(よ)更(ふけ)ぬれど、かゝる事有(あり)て來りしと、證據にして歸りぬ。扨(さて)翌年の春、江戸參觀の用意せし比(ころ)、友多く來り、亥の刻ばかりに歸れる跡、淋しく居(をり)けるに、座敷の戸、半ば明(あき)てありしが、面(おもて)三尺ばかりの大法師(だいはうし)、さしのぞきしを、何物ぞとて脇指(わきざし)をぬき飛かゝる處に、箕(み)のごとくなる大手をのべて、肩をひしと摑(つまみ)しかど、事ともせず、たゝみかけ截(きり)けるに、何共(なんとも)、正體(しやうたい)なく、綿(わた)など切る樣(やう)に覺えし。妖者しとめたりと聲を立(たて)しかど、かの者、かきけす樣にうせしとなん。

   *]

 橘南溪が「東遊記」に書いたのは聲だけの妖である。越前國鯖江に近い新庄村の百姓家で、床下に聲あつて人の口眞似をする。家の者が驚いて床板を剝がして見たが、そこには何も居らず、床を塞いで話し出せば、また床の下で口眞似をするのである。村中の評判になつて、若い者が大勢集まり、いろいろ話をしてゐるのを悉く眞似る。上からお前は古狸だらうと云ふと、狸ではないと云ふ。それなら狐だらうと云へば、狐でもないと云ふ。猫かと云つても、さうではないと云ふ。面白がつて鼬、河太郎、獺、土鼠など、口から出まかせに竝べて見たが、聲はいづれもこれを否定した。最後に、お前はぼた餠だらうと云つた時、成程ぼた餠だと云つたところから、遂にぼた餠化物と異名して大評判になつた。この事が城下に聞えて、吟味の役人が大勢乘り込んで來たが、その時は一晩中待つても何も云はぬ。役人が歸ると、翌晩からもとの通りになる。役人は何度か來たが、その晩は一度もものを云はなかつた。已むを得ず、そのまゝ捨て置くうちに、一月ばかりで何の聲も聞えなくなつた。この話などはあらゆる妖異譚の中で、最も明るい、愛すべきものの一つであらう。

[やぶちゃん注:「鯖江に近い新庄村」現在の福井県鯖江市の南直近にある福井県越前市北町の新庄地区であろう。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「東遊記」の「後編 卷之五」の「六九 床下の聲」である。平凡社東洋文庫版のそれを示す。底本は新字の上に現代仮名遣に変換した実に気持ちの悪いものであるが、ここででも使わないと使い道がない。致し方ない。お許しあれ。

   *

  六九 床下の声

 越前国鯖江の近辺新庄村に、百姓の家の下にて、何物か声ありて人のいうことの口まねす。家内の男女大いに驚き、急に床板を引明けて見るに、何事も見えず。又床をふさぎ、人人物いう時は何事にても床の下より口まねす。後には村中の沙汰となり、若き者共毎夜大勢来り集り、色々の事をいうに、皆々床の下にても口まねす。上より「己は古狸なるべし」といえば、「狸にはあらず」という。「然らば狐なるべし」というに、「狐にもあらず」という。「描か」というに、「然らず」という。鼬(いたち)、河太郎(かわたろう)、獺(かわうそ)、鼴鼠(うごろもち[やぶちゃん注:モグラ。])など色々の名を出ずるに任せて問うに、「いずれにもあらず」と答う。「然らばおのれはぼた餅(もち)なるべし」といいしに、「なる程ぼた餅なり」という。それよりぼた餅化物(ばけもの)と異名して、其近辺(きんぺん)大評判に成れり。こころ

 此事城下に聞こえければ、奇怪(きかい)のことなりとて吟味の役人大勢来り、一夜此家に居て試(こころ)むるに何の声もせず。役人帰れば、其翌夜(よくや)は又声ありていろいろの事をいう。其後も毎度役人来たりしかど、其来たれる夜は壱度も物を云わず。故にせんかたなくて共ままに打捨(うちす)て置きしが、一月ばかりして其後は何の声もなく、怪事(かいじ)は止みにけり。何の所為(しょい)ということも知れず、いかにしてやみたりということも無くて、おのずから終りぬ。

   *

私は思うに、この家の家族の子どもの中には、高い確率で未婚の思春期の少女がいると思う。洋の東西を問わず、こうした目に見えない声だけ、或いは、突如、石が屋根の上や室内に投げられる、投げたような音がする天狗礫(てんぐつぶて)などの疑似心霊現象は、その多くがそうした精神的に不安定な時期の少女が意識的に行っていたという事実がよく知られているからである。吟味の役人が大勢来た碑時には、どう考えても子らは邪魔だから、近所の知れた者のところに預からせたのに違いない。だから怪異は起りようがなかったのである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「氣の病」

 

 氣の病

 

 或大守の姫君が、自分の鼻が少し大きいことを氣にして居られたところ、或日ふと鼻に手を觸れると、拳ぐらゐの大きさになつてゐる。鼻は次第に大きくなつて、顏中鼻といふほどに發達したから、姫君は昔風に衣引きかづきて臥し、遂に物狂ほしいまでになつた。こんな病氣になつては人に顏も見せられぬ、飮食を斷つて死なうと決意されたのを、父母の勸めに從ひ、名醫何某の藥を用ゐてゐるうちに、鼻はだんだん小さくなり、遂にもとの通りになつた。姫君が鏡を取つて見られると、以前よりも小ぶり――人竝の鼻になつてゐるので、從來の不安は全く一掃された。醫師には謝禮として多くの黃金を賜はつたと「反古のうらがき」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:以下、治癒させた医師の多くは、これを現在のノイローゼや強迫神経症様(よう)の一種と認識しており、プラシーボ(擬薬)を投与して治癒に成功させている。

 以上は「反古のうらがき」の「卷之一」の「奇病」である。以下に示す。底本は「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年第一書房刊)を用いた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部に歴史的仮名遣の表記の誤りや濁点脱落が見られるのはママである。

   *

 

  ○奇病

 

 いつの頃にや、或太守の姫君一人持玉ひけるが、二八の春を向へて、花の姿世にいつくしく生立玉ひけり、父母のよろこびめで玉ふものから、よき婿君もがなと、よりより尋玉ひけり。此姫自から思ひ玉ふに、十二分の顏色かく處はなけれども、少し鼻の大きく思ひ玉ふにぞ、つねづね、心にかゝり玉ひけり、或日何心なく自から探り見玉ふに、鼻の大きさこぶしの大きさになりけり、こわそもいかにと驚き玉ふ、いよく大きくなりて、おもてとひとしくなりけり、今はたまりあへず、衣引かづきて伏し玉ひけるが、いよいよ大きくなるにぞ、聲を上て泣叫び、物狂るはしく見え玉ひける。人々おどろき、そのよふを聞くに、吾何の因果にや、かゝる奇病にかゝりたれば、とても人に面てを見すること能はず、此儘飮食を絶ちて死んと思ふなりとて、絶て飮食もし玉はざりけり。其頃名醫の聞へありける何某とかいへる者、御藥りすゝめけれども、つやつや用ひもし玉はさりけるを、父母せちにすゝめ玉ひければ、止事を得ず用ひ玉ひけり、數日を經て少しづゝちいさくなりて、元の如くになりけり、姫君うれしく鑑を見玉ふに、元より少し小ぶりになりて、人並みになりて、はじめ心にかゝりけるも、此病のつひでにちいさくなりつることこそめでたけれとて、殊に黃金あまたをたびて、醫師に謝し玉ひけるとなん。これは世にある病にて、鼻の大きになるにあらず、かゝる心持に覺ゆる心の病也と、後醫師、人に語りけると聞けり。

 予が友櫻園鈴木分左衞門も、この病を煩ひけり、これは手の大きくなるよふに覺ゆる病也、夜の間は殊甚しく、衾の内にてだんだんと大きくなりて、後に箕の大さ程になるよふなれば、ともし火の下に出して見れば、何もかわることなし、眼を閉て寐んとすれば、だんだん大きくなる、探りてみるにやはり大きなるよふ也。かかる故に寐こと能はず、燈火明くして手を見つめて夜を明すより外なし。外に苦しむ處なしといへども、身の疲るゝこと甚しく、大病となりけり。肝氣の病なるべし、これも數月の後癒たり。予も訪ひ行けるに、先病も癒侍りとて、手を出して撫さすりつして、人に見せ侍りては、初より手の病にては非ざる物を、手を見たりとて何にかせん、かゝればこれはも肝氣の病とは知りながら、兎角に手の大きくなる病と息ふ心は忘れがたしと見ゆとて、人に語りて笑ひけり。されば彼姫君の鼻の、前よりちいさく成たるよふに覺るも埋りこそと思ひ合せて、同病とおもわるゝ也。

   *

文中に出る「櫻園鈴木分左衞門」は底本の朝倉治彦氏の注によれば、筆者醉桃子鈴木桃野の友で大田南保畝の門人であった鈴木幽谷。「櫻園」(わうえん(おうえん))は号。幕府徒(かち)目付を勤め、諸著作がある。また、そこでこれらを「肝氣の病」と断じているのは、洋の東西を問わぬ面白い一致である。西洋でも古代より「メランコリア」(現行の鬱病や抑鬱症状)は「胆汁質」タイプ(体質・性質)に発生し易い病いとされ、肝臓を病原臓器として強く挙げているからである。]

「耳鳴草」にあるのは「京都何某の婦人」とあるだけで、身分の事は書いてない。この人のは鼻の高くなる病で、次第に伸びて一二尺の高さに見える。倂し眼を閉ぢて探つて見ても、何も手に觸れぬので、自分でも氣の病であることを知り、醫を更へ藥を改めて見るが、一向癒る樣子がない。これを聞いた或醫者が、この病人を診察し、成程、私の眼にも高く見えます、藥を改めませう、と一劑を與へた。夕方にまた來て、まだ大分高いやうですが、はじめ拜見した時より低くなつたかと思ふ、如何ですか、といふ。仰しやる通り、少し低くなつたやうです、と病人も云ふので、また藥を與へて去つた。その次の日は、昨日よりもう少し低くなつた、といふと、病人もこれを肯定する。遂に日を重ねて全く病は癒えた、といふのである。

[やぶちゃん注:「耳鳴草」不詳であるが、国立国会図書館の蔵書内の明四四(一九一一)年春陽堂刊の「俳諧奇書珍書」の中に、随筆として谷田部石三著「耳鳴草」なるものがあるが、同一物かどうかは不明。]

 芥川龍之介の「鼻」の材料になつた禪珍内供の鼻は、自他ともに鼻の異常なことを認めたのであるが、右の二つの例は、他人が見ては何事もなく、自分だけ異常に感ずるのだから始末が惡い。かういふ心の病は女性の上に限るかといふと、必ずしもさうではないので、「反古のうらがき」の著者鈴木桃野の友人、鈴木櫻園の罹つたのは手の大きくなる病であつた。夜は殊にそれが甚しく、衾の中で箕のやうな大きさになる。燈火の下に出して見れば、別に變つたこともないが、眼を閉ぢて眠らうとすれば、だんだん膨脹するのである。この故に眠りをなさず、燈火を明るくして手を見詰め、夜を明すより仕方がない。苦痛は何もないけれども、身體の疲勞甚しく、數箇月を經て漸く癒えた。最初から手の病ではないので、手を見たところでどうにもならぬのだが、手が大きくなるといふことを忘れ得なかつた、と笑ひながら話したさうである。夏目漱石が若い頃晝寐をすると、よく變なものに襲はれたといふ一例として、「親指が見る間に大きくなつて、何時迄經つても留らなかつた」と「硝子戸の中」に書いてゐるが、これなどももう少し發達すれば、鈴木櫻園のやうになつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、芥川龍之介の「鼻」(大正五(一九一六)年二月『新思潮』)の主人公は「禪珍内供」ではなく「禪智内供」で誤り

 夏目漱石の「硝子戸の中」は大正四(一九一五)年一月十三日から同年二月二十三日にかけて三十九回に亙って『朝日新聞』に掲載された小品で、漱石最期の随筆となったもの漱石は翌年十二月九日に満四十九で没した)で、ここで柴田が示したのは、そのまさに掉尾から一つ前の「三十八」。短いので、全文を示しておく。底本は岩波旧全集を用いた。踊り字「〱」は正字化した。「拾い」はママ。

   *

 

     三十八

 

 私が大學で教(おす)はつたある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別を贈らうと思つて、宅(うち)の藏から高蒔繪(たかまきゑ)の緋の房(ふさ)の付いた美しい文箱(ふばこ)を取り出して來た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持つて行って貰ひ受けた時の私は、全く何の氣も付かなかつたが、今斯うして筆を執つて見ると、その文箱(ふばこ)も小搔卷(こがいまき)に仕立直された紅絹裏(もみうら)の裲襠(かいどり)同樣に、若い時分の母の面影(おもかげ)を濃(こまや)かに宿してゐるやうに思はれてならない。母は生涯父から着物を拵へて貰つた事がないといふ話だが、果して拵へて貰はないでも濟む位な支度をして來たものだらうか。私の心に映(うつ)るあの紺無地(こんむぢ)の絽(ろ)の帷子(かたびら)も、幅の狹い黑繻子(くろじゆす)の帶も、矢張嫁に來た時から既に簞笥の中にあつたものなのだらうか。私は再び母に會つて、萬事を悉く口づから訊いて見たい。

 惡戲(いたづ)らで強情な私は、決して世間の末(すゑ)ツ子(こ)のやうに母から甘く取扱かはれなかつた。それでも宅中(うちぢゆう)で一番私を可愛(かはい)がつて呉れたものは母だといふ強い親しみの心が、母に對する私の記憶の中(うち)には、何時(いつ)でも籠つてゐる。愛憎を別にして考へて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかつた。さうして父よりも賢こさうに誰の目にも見えた。氣六づかしい兄も母丈(だけ)には畏敬の念を抱(いだ)いてゐた。

「御母(おつか)さんは何にも云はないけれども、何處かに怖(は)いところがある」

 私は母を評した兄の此言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出(ひつぱりだ)してくる事が今でも出來る。然しそれは水に融(と)けて流れかゝつた字體を、屹(きつ)となつて漸(やつ)と元の形に返したやうな際(きは)どい私の記憶の斷片に過ぎない。其外の事になると、私の母はすべて私に取つて夢である。途切(とぎ)れ途切(とぎ)れに殘っている彼女の面影(おもかげ)をいくら丹念に拾い集めても、母の全體はとても髣髴する譯に行かない。その途切途切(とぎれとぎれ)に殘つてゐる昔さへ、半(なか)ば以上はもう薄れ過ぎて、しつかりとは摑めない。

 或時私は二階へ上(あが)つて、たつた一人で、晝寐をした事がある。其頃の私は晝寐をすると、よく變なものに襲はれがちであつた。私の親指が見る間に大きくなつて、何時迄(いつまで)經(た)つても留らなかつたり、或は仰向(あふむき)に眺めてゐる天井が段々上から下りて來て、私の胸を抑へ付けたり、又は眼を開(あ)いて普段と變らない周圍を現に見ているのに、身體丈(だけ)が睡魔の擒(とりこ)となって、いくら藻搔(もが)いても、手足を動かす事が出來なかつたり、後で考へてさへ、夢だか正氣だか譯の分らない場合が多かつた。さうして其時も私はこの變なものに襲はれたのである。

 私は何時何處(いつどこ)で犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金錢を多額に消費してしまつた。それを何の目的で何に遣(つか)つたのか、その邊も明瞭でないけれども、小供の私には到底(とても)償ふ譯に行かないので、氣の狹い私は寐ながら大變苦しみ出した。さうして仕舞に大きな聲を揚げて下にいる母を呼んだのである。

 二階の梯子段(はしごだん)は、母の大眼鏡と離す事の出來ない、生死事大無常迅速(しやうじじだいむじやうじんそく)云々と書いた石摺(いしずり)の張交(はりまぜ)にしてある襖の、すぐ後(うしろ)に附いてゐるので、母は私の聲を聞きつけると、すぐ二階へ上(あが)つて來て呉れた。私は其所に立つて私を眺めてゐる母に、私の苦しみを話して、何うかして下さいと賴んだ。母は其時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母(おつか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云つて呉れた。私は大變嬉しかつた。それで安心してまたすやすや寐てしまつた。

 私は此出來事が、全部夢なのか、又は半分丈(だけ)本當なのか、今でも疑つてゐる。然し何うしても私は實際大きな聲を出して母に救を求め、母は又實際の姿を現はして私に慰藉の言葉を與へて呉れたとしか考へられない。さうして其時の母の服裝(なり)は、いつも私の眼に映(うつ)る通り、やはり紺無地の絽の帷子(かたびら)に幅の狹い黑繻子の帶だつたのである。

   *

……母なる存在とは常にこういうものである…………]

 永富獨嘯庵は「漫游雜記」に、或婦人が、私の顏は今日何寸も長くなつたとか、今日は何寸短くなつたとかいふ話を書いてゐる。獨嘯庵は醫者だから、かういふ婦人は嫉妬心の強いもので、主人の多情のため、常に鬱悶を懷くと云ひ、三黃湯を氣長に服用させたら癒えた、すべて氣の病で、怪狀をなす者は大概これだといふのであるが、前に擧げた鼻の例も、この診斷に該當するのであらうか。病は鼻に在らず、顏に在らずとすれば、いくらその爲に醫療を盡したところで、驗の見える筈がない。直ちに病源を洞察して適藥を與へるのが、名醫の名醫たる所以であらう。

[やぶちゃん注:「永富獨嘯庵」「漫游雜記」永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん 享保一七(一七三二)年~明和三(一七六六)年)は江戸中期の医師。ウィキの「永富独嘯庵」によれば、『山脇東洋の門下であり、古方派の医師であるが、古方派に欠けるところは西洋医学などで補うことを主張した』。『長門国豊浦郡宇部村(山口県下関市長府町王司)に生まれ』、十三歳で『医師、永富友庵の養子となった』。十四歳で『江戸に出て医学の修業を始めるが、医学にあきたらず山県周南のもとで儒学を』び、十七歳で『帰郷して儒学を講じてすごすが、京都の古方派の山脇東洋や香川修庵の存在を知り、京都に赴き東洋の門人となった。以後、医学に熱意をもって取り組み、その才能は広く知られるようになった。諸侯から多くの招聘の声がかかるが、東洋は任官を勧めなかった』。二十一歳の『時、東洋に命じられて越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ』。二十九で、『諸国を漫遊し』、『長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ。この旅行の見聞をまとめ』たものが、ここに出る「漫遊雑記」である。同書は『華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる』。三十歳で『大阪で開業し、多くの門人を育て』たが、三十五歳の若さで病没した。彼の言葉に、『病を診すること年ごとに多きに、技(わざ)爲すこと年ごとに拙(まづ)し。益々知る、理を究(きはむ)ることは易く、事に應ずることは難きことを。』があるという。同書(漢文)は早稲田大学図書館古典総合データベースにあり、当該箇所はここ(右頁四行目)である。

「三黃湯」現行の漢方調剤に「三黄瀉心湯(さんおうしゃしんとう)」が現存する。正式な薬剤会社のデータによれば、『比較的体力があり、のぼせ気味で、顔面紅潮し、精神不安で、便秘の傾向のあるものの次の諸症』に効果があるとして、『高血圧の随伴症状(のぼせ、肩こり、耳なり、頭重、不眠、不安)、鼻血、痔出血、便秘、更年期傷害、血の道症』を挙げる。成分は「オウゴン」「オウレン」「ダイオウ」とある。]

 嘗て雜誌「阿迦雲」で讀んだ「東三筋町」(歪頭山人)の中に出て來るのは、明治のドクトルの話であつた。このドクトルのところへ來たのは、顏の長くなる患者で、どこの醫者へ行つても取合はず、或は鏡を見せて然らざる所以を證明しようとするが、患者の方は、噓の鏡を見せてごまかすのだ、と云つて承知しないのである。ドクトルはこの患者の顏をつくづく見て、先づ顏の尺を測つて見せ、幸ひにまだ手おくれにはなつて居らぬ、きつと治して上げる、と云ひ、沁みるやうな藥を塗つた上、顏にぐるぐる繍帶を卷いて、毎日通はせた。時々尺を測つて次第に短くし、遂に繍帶を外して鏡を見せた。このやり方は「耳鳴草」の醫者と同じである。かういふ病があるならば、療法に古今の差別はあるまい。このドクトルは後に大きな腦病院を經營し、代議士に出てゐたかと記憶する。

[やぶちゃん注:「阿迦雲」「あかぐも」と読み、「子規庵歌会」が昭和五(一九三〇)年から戦後の昭三〇(一九五五)年まで出していた機関誌。柴田宵曲はかつての正岡子規の門弟で、『ホトトギス』社編集員でもあった。

「東三筋町」現在の東京都台東区三筋か。

「歪頭山人」「わいとうさんじん」(現代仮名遣)と読んでおく。不詳であるが、「大きな腦病院を經營し、代議士に出てゐた」とある以上、かなり知られた人物と思われる。識者の御教授を乞う。]

 

柴田宵曲 妖異博物館 「執念の轉化」

 

 執念の轉化

 

 或家で僕を手討ちにしなければならぬことになつた。本當はそれほど大きな罪でもなかつたのであるが、この男を斬らぬと、人に對して義理の立たぬ事があつたので、已むを得ず刀の錆にせざるを得なかつたのである。僕は怨み且つ憤り、私は何も手討ちになるほどの罪があるわけではない、死後に崇りをなして、取り殺さずには置かぬといふ。その時主人は笑つて、その方にわしを取り殺すことが出來るものか。もし出來るといふなら證據を見せい、これから首を刎ねる時、その首が飛んで庭石に嚙み付いたなら、その方が祟りをなす證據としよう、と云つた。然るに刎ねられた首は、主人の云つた通り石に嚙み付いたから、家内の者の恐怖は一通りでなかつたが、祟りは一向にない。或人がその理由を尋ねたら、主人の答へはかうであつた。あの男は初め祟りをなして、わしを取り殺さうといふ心が切(せつ)であつたが、後には石に嚙み付いて證據を見せようといふ志が專らになつた、首を刎ねられる刹那には、己に崇りをなすことを忘れて居つたから、何事もないのだ。

 小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる。「小泉八雲全集」はその出所を記して居らぬが、多分右に擧げた「世事百談」の話に據つたものであらう。「世事百談」は天保十四年の刊本であるが、この話の先蹤と見るべきものが、享保十七年刊の「太平百物語」に出てゐる。

[やぶちゃん注:『小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる』これはKwaidan(一九〇四年)のDiplomacyDiplomacy:情勢を繊細且つ巧みに処理すること・公務の処理における賢明な行動・外交・外交的手腕・外交上の駆け引き・国家間交渉/他者との交渉上の駆け引き/如才なさ/礼儀の意。ラテン語で「旅券・公文書」を語源とする。原文を、英文のテクスト・サイトのこちらにあるものを一部に手を加えて示す。

   *

 

DIPLOMACY

 

IT HAD BEEN ORDERED that the execution should take place in the garden of the yashiki. So the man was taken there, and made to kneel down in a wide sanded space crossed by a line of tobi-ishi, or stepping stones, such as you may still see in Japanese landscape-gardens. His arms were bound behind him. Retainers brought water in buckets, and rice-bags filled with pebbles; and they packed the rice-bags round the kneeling man ― so wedging him in that he could not move. The master came, and observed the arrangements. He found them satisfactory, and made no remarks.

   Suddenly the condemned man cried out to him:

"Honored sir, the fault for which I have been doomed I did not wittingly commit. It was only my very great stupidity which caused the fault. Having been born stupid, by reason of my karma, I could not always help making mistakes. But to kill a man for being stupid is wrong ― and that wrong will be repaid. So surely as you kill me, so surely shall I be avenged; ― out of the resentment that you provoke will come the vengeance; and evil will be rendered for evil."

   If any person be killed while feeling strong resentment, the ghost of that person will be able to take vengeance upon the killer. This the samurai knew. He replied very gently ― almost caressingly:

"We shall allow you to frighten us as much as you please ― after you are dead. But it is difficult to believe that you mean what you say. Will you try to give us some sign of your great resentment ― after your head has been cut off?"

"Assuredly I will," answered the man.

"Very well," said the samurai, drawing his long sword; ― "I am now going to cut off your head. Directly in front of you there is a stepping-stone. After your head has been cut off, try to bite the stepping-stone. If your angry ghost can help you to do that, some of us may be frightened. . . . Will you try to bite the stone?"

"I will bite it!" cried the man, in great anger ― "I will bite it! ― I will bite ― "

There was a flash, a swish, a crunching thud: the bound body bowed over the rice sacks ― two long blood-jets pumping from the shorn neck; ― and the head rolled upon the sand. Heavily toward the stepping-stone it rolled: then, suddenly bounding, it caught the upper edge of the stone between its teeth, clung desperately for a moment, and dropped inert.

   None spoke; but the retainers stared in horror at their master. He seemed to be quite unconcerned. He merely held out his sword to the nearest attendant, who, with a wooden dipper, poured water over the blade from haft to point, and then carefully wiped the steel several times with sheets of soft paper…. And thus ended the ceremonial part of the incident.

   For months thereafter, the retainers and the domestics lived in ceaseless fear of ghostly visitation. None of them doubted that the promised vengeance would come; and their constant terror caused them to hear and to see much that did not exist. They became afraid of the sound of the wind in the bamboos ― afraid even of the stirring of shadows in the garden. At last, after taking counsel together, they decided to petition their master to have a Ségaki-service performed on behalf of the vengeful spirit.

"Quite unnecessary," the samurai said, when his chief retainer had uttered the general wish. . . . "I understand that the desire of a dying man for revenge may be a cause for fear. But in this case there is nothing to fear."

   The retainer looked at his master beseechingly, but hesitated to ask the reason of this alarming confidence.

"Oh, the reason is simple enough," declared the samurai, divining the unspoken doubt. "Only the very last intention of that fellow could have been dangerous; and when I challenged him to give me the sign, I diverted his mind from the desire of revenge. He died with the set purpose of biting the stepping-stone; and that purpose he was able to accomplish, but nothing else. All the rest he must have forgotten. . . So you need not feel any further anxiety about the matter."

   And indeed the dead man gave no more trouble. Nothing at all happened.

   *

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「はかりごと」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認することが出来る。

 なお、本作は、偏愛する平井呈一氏(一九六五年岩波文庫版及び一九七五年恒文社刊「小泉八雲作品集」)・上田和夫氏(一九七五年新潮文庫刊「小泉八雲集 怪談・骨董 他」)は孰れも「かけひき」で、私の小学校時代の小泉八雲原体験書である一九六七年角川文庫版田代三千稔氏訳「怪談・奇談」では「はかりごと」で、講談社学術文庫版「怪談・奇談」の平川祐弘氏訳では「策略」となっている。柴田の謂う、その訳標題は、第一次の小泉八雲全集(一九二六年第一書房刊)での田部隆次の訳「術數」を指しているものと思われる。因みに、小泉八雲直弟子のその田部氏の同作の訳(先の全集版と全く同じかどうかは不明だが、表題は同じく「術數」である)は、後の一九五〇年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」に載り、「日本の名作名文ハイライト」の「電子テキスト」のこちらPDF版)で入手出来、読める。

 柴田が指す「世事百談」のそれは「卷之三」に載る「欺(あざむき)て寃魂(ゑんこん)を散ず」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

 欺て寃魂を散ず

人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれ。たとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて、未來善惡の因となれる如く、狂氣するものも金銀(きんぎん)のことか。色情か。事にのぞみ迫りて狂(きやう)を發する時の一念をのみ、いつも口ばしりゐるものなり。ある人の、主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云(いふ)を、さにあらず、家業(かげふ)といへども殺生(せつしやう)の報(むくひ)はあることゝて、庭なる露しげくおきたる樹(き)をゆり見よとこたへけるま1、やがてその木(こ)の下(もと)に行(ゆき)て動(うご)しければ、その人におきたる露かゝれり。さてその人云やう、怨みのかゝるもその如く云(いひ)つけたる人よりは太刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや。諺(ことわざ)にも盜(ぬすみ)する子は惡(あし)からで、繩(なは)とりこそうらめしといへるは、なべての人情といふべし。これにつきて一話(はなし)あり。何某(なにがし)が家僕(かぼく)、その主人に對し、指(さし)たる罪なかりしが、その僕を斬(きら)ざれば(ひと)人に對して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て、主人その僕を手討(てうち)にせんとす。僕、憤り怨(うらみ)て云(いふ)、吾(われ)さしたる罪もなきに、手討にせらる。死後に祟(たゝ)りをなして、必(かならず)取殺(とりころ)すべしと云(いふ)。主人わらひて汝(なんぢ)何(なに)ぞたゝりをなして我をとり殺すことを得んや。といへば、僕、いよいよいかりて、見よとり殺さんといふ。主人わらひて、汝我を取殺さんといへばとて、何の證(しよう)もなし。今その證を我に見せよ。その證には汝が首を刎(はね)たる時、首飛(とん)で庭石に齧(かみ)つけ。夫(それ)を見ればたゝりをなす證とすべしと云(いふ)。さて首を刎(はね)たれば、首飛びて石に齧(かみ)つきたり。その後(のち)何(なに)のたゝりもなし。ある人その主人にその事を問(とひ)ければ、主人こたへて云(いふ)、僕初(はじめ)にはたゝりをなして我を取殺さんとおもふ心切(せち)なり、後には石に齧(かみ)つきてその驗(しるし)を見せんとおもふ志(こゝろざし)のみ專(もは)らさかんになりしゆゑ、たゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)たるによりて祟(たゝり)なしといへり。

   *

「天保十四年」一八四三年。

「享保十七年」一七三二年。

「太平百物語」菅生堂人恵忠居士なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。大坂心斎橋筋の河内屋宇兵衛を版元とする。五巻五十話。目次の後には後編を後に出す旨の記載があり、真正の百物語(よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない。リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附))。以下は同書の「卷一 四 富次郎娘蛇に苦しめられし事」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。挿絵も添えた。読みは歴史的仮名遣でオリジナルに添え、必ずしも参考底本には従っていない。事実、原典が歴史的仮名遣を誤っている部分もあるからである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。「步(ほ/あゆみ)」は原典の読みルビと左ルビとしてある意味風添書きを示したもの。

   *

       四 富次郎娘蛇に苦しめられし事
 

Mtomijiroumusumehebi

 越前の國に富次郎とて代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持ちたる人有り。此富次郎一人の娘をもてり。今年十五歳なりけるが、夫婦の寵愛殊にすぐれ、生れ付きもいと尋常にして、甚だみめよく常に敷島の道に心をよせ、明暮れ琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。或る時、座敷の緣に出(いで)て庭の氣色を詠めけるに、折節初春の事なれば、梅に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

  わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

   風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや聞きて、「げにおもしろくつゞけ給ふものかな。御身の言の葉にて、わらはもおもひより侍る」とて、取りあへず、

  春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝になきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠じられければ、此娘聞きて、「實(げ)によくいひかなへさせたまひける哉」と、互に親子心をなぐさめ樂しみ居(をり)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小蛇(こへび)壱疋(いつぴき)するするといでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上るほどに、「あらおそろしや」と内(うち)にかけいれば、蛇も同じく付いて入る。人々あはて立ち出でて、杖をもつて追ひはらへども、少しもさらず。此娘の行く方にしたがひ行く。母人(はゝびと)大(おほ)きにかなしみ、夫(をつと)にかくと告げければ、富次郎大きにおどろき、從者(ずさ)を呼びて取り捨てさせけるに、何(いづ)くより來たるともなく、頓(やが)て立ち歸りて娘の傍(そば)にあり。幾度(いくたび)すてゝも元のごとく歸りしかば、ぜひなく打ち殺させて、遙かの谷に捨てけるに、又立ち歸りてもとの如し。こはいかにと切れども突けども、生き歸り生き歸りて、なかなか娘の傍を放れやらず。兩親をはじめ家内の人々、如何(いかゞ)はせんと嘆かれける。娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果て、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱山伏ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(をり)ける。然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞き給ひ、不便(ふびん)の事におぼし召し、富次郎が宅に御入(おい)り有りて、娘の樣體(やうだい)、蛇がふるまひをつくづくと御覽あり、娘に仰せけるやうは、「御身(おんみ)座を立ちて、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行くべし」と。仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たす)けられ、二十步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、蛇も同じくしたがひ行く。娘とまれば、蛇もとまる。時に長老又、「こなたへ」とおほせけるに、娘歸れば蛇も同じく立ち歸る所を、長老衣の袖にかくし持ち給ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此蛇が敷居をこゆる所をつよくおさへ給へば、蛇行く事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り木刀に喰ひ付く所を、右にひかへ持ち給ひし小劍(こつるぎ)をもつて、頭を丁(てう)ど打ち落し給ひ、「はやはや何方(いづかた)へも捨つべし」と。仰せにまかせ、下人等(ら)急ぎ野邊(のべ)に捨てける。其時長老宣(のたま)ひけるは、「最早此後(のち)來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ兩親のなげきおもひやり侍るなり。今よりしては心やすかれ」とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏し拜みけるが、其後は此蛇ふたゝびきたらず。娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事かぎりなし。「誠(まこと)に有難き御僧(おんそう)かな」とて、聞く人感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では全体が一字下げ。]

評じて曰く、蛇木刀に喰ひ付きたる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび娘に付く事能(あた)はず。是れ倂(しか)しながら知識(ちしき)の行なひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一箇(いつこ)に限らず萬(よろづ)の事におよぼして、益ある事少なからず。諸人よく思ふべし。

   *]

 越前國に住む富次郎といふ分限の一人娘が、庭の梅の花を見て歌などを詠んでゐる時、時ならず這ひ出た小蛇に魅入られた。幾度取り捨てさせても歸つて來る。是非なく打ち殺させて、遙かの谷に捨てさせたが、立ち歸ることに變りはない。兩親はじめ家内の人々は深く悲しみ、娘はこれがために次第に弱つて、命も危くなつた。諸寺諸社への祈禱、山伏や聖(ひじり)の呪(まじな)ひ、あらゆる手段を講じて見たけれど、更に驗らしいものが見えず、今は死を待つばかりとなつた時、永平寺の長老が富次郎の宅に來られ、つぶさに樣子を見屆けた上、娘に向ひ、御身座を立つて向うの方に步み行くべし、と命ぜられた。娘は瘦せ細つた身を起し、漸う人に扶けられて二十步ばかり步くと、蛇も同じやうについて行く。娘が止まれば蛇も止まる。今度は此方へと命じ、娘が歸るに從つて蛇も歸るのを、長老は衣の袖に隱し持つた一尺餘りの木刀で、蛇に敷居を越えさせず、強く押へてしまつた。蛇は先へ進むことが出來ないので、木刀を遁れようとしたが、愈々強く押へられて、詮方なさに木刀に喰ひ付いた。その時長老、小劍を以て首を打ち落し、早くどこへでも捨てよと云ひ、下人等が急ぎ野邊に捨てたのを見て、もうこの後來ることはない、御安心あれと挨拶して歸られた。果して蛇は再び來ず、娘も日を經て本復したから、一同よろこぶこと限りなく、感淚を流して長老を有難がつた。

「太平百物語」はこの話に特に評を加へて、蛇は木刀に食ひ付くうち、暫く娘の事を忘れた、その執心の去つたところを首を打ち落したから、再び娘に取り付くことが出來なかつたのである。名僧智識の行ひで、凡慮の及ぶところでないが、この理はこれだけに限らぬ、萬事に及ぼして益あることが少くない、諸人よく思ふべしと云つてゐる。評の意は僕を手討ちにした主人の言葉と同じであるが、二つの話を比較すれば、「太平百物語」の方が遙かに面白い。單に殺す者が人間と異類との相違があるだけではない。一方はそれほどの罪でないのを殺すといふのが不愉快である上に、祟りをなすならば證據を見せよなどと云ひかけ、僕の心の轉化を試みたのは、小泉八雲の名付けた通り「術數」に墮してゐるからである。永平寺の長老は最初から娘の命を救ふために來り、理窟らしいことは一言も云はず、自ら刀を揮つて蛇首を斷じ去つた。前の僕に若干の同情を寄せる者と雖も、この蛇を憐れむ餘地はあるまいと思はれる。尤もこの蛇は何度も殺されてゐるのだから、亡靈になつてゐるわけであるが、その恐るべき執念を木刀の上に轉ぜしめ、徐ろに首を落したのは、活殺自在な禪僧の所行と云はなければならぬ。

[やぶちゃん注:これは私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のように私には思われる。白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である。]

 この話は兩方とも時代が書いてない。書物の刊年から見て、百年以上の距離があることは慥かである。

 

2017/02/27

柴田宵曲 妖異博物館 「小さな妖精」

 

 小さな妖精

 

 小泉八雲の書いた「ちん・ちん・こばかま」は小さな妖氣の漂ふお伽噺である。美しいけれども無性だつた女の子が、長じて立派な士と結婚する。士が戰ひに行つたあとの家庭は、寂しいと同時に氣樂なものであつたが、その家庭に測らずも不思議な事が起つた。小さな物音に目を覺ました彼女の枕許に、背の高さ一寸そこそこの小人が何百人も踊つてゐる。彼等は主人公の士が祭日に著るやうな上下を著け、小さな大小をさし、此方を見ながら笑ふ。「ちん・ちん・こばかま、よもふけさふらふ、おしづまれ、ひめぎみ、や、とんとん」といふ歌を何遍も何遍も繰り返してうたふのである。この歌の文句は今の人には少し耳遠いから、八雲に從つてその意味を書いて置いた方がいゝかも知れぬ。「私等はちん・ちん・こばかまです――時もおそうございます、おやすみなさい、姫君樣」

[やぶちゃん注:「無性」「ぶしやう」で無精なこと。

 以下の話は小泉八雲の「ちりめん本」童話Chin Chin Kobakama(明治三六(一九〇三)年刊)。“Internet Archive”こちらで美しい「ちりめん本」原画像で原文が読め、ダウンロードも出来る。]

 言葉は丁寧のやうでも、彼等が自分をいぢめるつもりであることはよくわかつた。彼等は彼女に向つて意地の惡い顏付もするからである。勇氣を起してつかまへようとしたが、すばしこくて捉へられぬ。追ひ拂はうとしても逃げず、依然として「ちん・ちん・こばかま」を歌ひ、彼女を嘲るのをやめない。彼等が小さな化物だとわかつた時、彼女は急に恐ろしくなつたが、現在武士の妻になつてゐる以上、そんな事は誰にも打ち明けられぬ。小人どもは毎晩午前二時頃に姿を現し、夜の明けるまで歌ひ且つ踊る。彼女は眠られぬためと恐怖とで遂に病氣になつた。そのうちに主人公が歸つて來た。彼女から病氣の原因を聞いた主人公は、寢間の押入れに隱れて樣子を窺ふことになつた。「ちん・ちん・こばかま」はその夜も出て踊つたので、士は一刀を拔いて斬り付けた。小人の群れは一時に消え、あとには一つかみの古楊枝が疊の上に殘つた。

 若い武士の妻は無性で爪楊枝を始末せず、疊の間に突きさして置いた。疊を大切にする化物達が腹を立てて、彼女を苦しめたのだといふ委細がわかると、この話の妖氣は忽ち消えて、例の教訓が殘る。彼女は主人公から叱られ、古い爪楊枝は燒き棄てられる。「ちん・ちん・こばかま」の歌は再び聞かれなくなつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「ちいちい袴」には以下のようにある。『ちいちい袴(ちいちいばかま)またはちいちい小袴(ちいちいこばかま)は、新潟県佐渡島に伝わる民話』で以下の通り。『その昔のこと。一人暮しの老婆が夜に家で糸を紡いでいたところ、四角張った顔の袴姿の子男が現れ』『「お婆さん淋しかろう。わしが踊って見せましょう』」『と言って

「ちいちい袴に 木脇差をさして こればあさん ねんねんや』」『と唄いながら、どこかへと消えてしまった』。『老女は気味悪く思って家の中を捜したところ、縁の下に鉄漿付け用の楊枝があった。これを焼き捨てたところ、このような不思議な出来事が起きることはなくなった』。『昔から、鉄漿付けの楊枝は古くなると焼き捨てるものだといわれる』。『岡山県、大分県にも同様の民話がある』。『近年の文献によっては、この話に登場する小男は、楊枝が化けた付喪神(器物が化けた妖怪)と解釈されている』とし、以下の本小泉八雲の「ちんちん小袴」の梗概が載る。なお、小泉八雲のChin Chin Kobakamaの最後にはごく短かく、今一つの教訓話が添えられており、そこではやはり無精な女の子が梅の種を畳に挟んで放置しておいたところ、夜中に振袖姿の小さな女たちが現れて踊り、少女の眠りを妨げて懲らしめたという。「ちりめん本」はそこをも丁寧に絵を添えていて、実に掬すべき愛書となっている。強く、ダウンロード(無論、無料)をお薦めするものである。「ちりめん本」版原画像を底本にして、以下に幾つかの英文テクストを校合して原文を示す。

   *

 

CHIN CHIN KOBAKAMA

 

THE floor of a Japanese room is covered with beautiful thick soft mate of woven reeds. They fit very closely together, so that you can just slip a knife-blade between them, They are changed once every year, and are kept very clean, The Japanese never wear shoes in the house, and do not use chairs or furniture such as English people use. They sit, sleep, eat, and sometimes even write upon the floor. So the mats must be kept very clean indeed, and Japanese children are taught, just as soon as they can speak, never to spoil or dirty the mats.

   Now Japanese children are really very good. All travelers, who have written pleasant books about Japan, declare that Japanese children are much more obedient than English children and much less mischievous. They do not spoil and dirty things, and they do not even break their own toys. A little Japanese girl does not break her doll. No, she takes great care of it, and keeps it even after she becomes a woman and is married. When she becomes a mother, and has a daughter, she gives the doll to that little daughter. And the child takes the same care of the doll that her mother did, and preserves it until she grows up, and gives it at last to her own children, who play with it just as nicely as their grandmother did. So I,― who am writing this little story for you,―have seen in Japan, dolls more than a hundred years old, looking just as pretty as when they were new. This will show you how very good Japanese children are; and you will be able to understand why the floor of a Japanese room is nearly always kept clean,― not scratched and spoiled by mischievous play.

   You ask me whether all, all Japanese children are as good as that? Well―no, there are a few, a very few naughty ones. And what happens to the mats in the houses of these naughty children? Nothing very bad ― because there are fairies who take care of the mats. These fairies tease and frighten children who dirty or spoil the mats. At least-they used to tease and frighten such mischievous children. I am not quite sure whether those little fairies still live in Japan,― because the new railways and the telegraph have frightened a great many fairies away. But here is a little story about them:―

ONCE there was a little girl who was very pretty, but also very lazy. Her parents were rich and had a great many servants; and these servants were very fond of the little girl, and did everything for her which she ought to have been able to do for herself. Perhaps this was what made her so lazy. When she grew up into a beautiful woman, she still remained lazy; but as the servants always dressed and undressed her, and arranged her hair, she looked very charming, and nobody thought about her faults.

   At last she was married to a brave warrior, and went away with him to live in another house where there were but few servants. She was sorry not to have as many servants as she had had at home, because she was obliged to do several things for herself, which other folks had always done for her. It was such trouble to her to dress herself, and take care of her own clothes, and keep herself looking neat and pretty to please her husband. But as he was a warrior, and often had to be far away from home with the army, she could sometimes be just as lazy as she wished. Her husband's parents were very old and good-natured, and never scolded her.

   Well, one night while her husband was away with the army, she was awakened by queer little noises in her room. By the light of a big paperlantern she could see very well, and she saw strange things What?

   Hundreds of utile men, dressed just like Japanese warriors, but only about one inch high, were dancing all around her pillow. They wore the same kind of dress her husband wore on holidays ,―(Kamishimo, a long robe with square shoulders), ― and their hair was tied up in knots, and each wore two tiny swords. They all looked at her as they danced, and laughed, and they all sang the same song, over and over again,―

      "Chin-chin Kobakama,

                    Yomo fuké soro,―

       Oshizumare, Hime-gimi! ―

     
Ya ton ton!" ―

Which meant: ―"We are the Chin-chin Kobakama; ― the hour is late; Sleep, honorable noble darling!"

   The words seemed very polite; but she soon saw that the little men were only making cruel fun of her. They also made ugly faces at her.

   She tried to catch some of them; but they jumped about so quickly that she could not. Then she tried to drive them away; but they would not go, and they never stopped singing

      "Chin-chin Kobakama,….."

and laughing at her. Then she knew they were little fairies, and became so frightened that she could not even cry out. They danced around her until morning;― then they all vanished suddenly.

   She was ashamed to tell anybody what had happened ― because, as she was the wife of a warrior, she did not wish anybody to know how frightened she had been.

   Next night, again the little men came and danced, and they came also the night after that, and every night ― always at the same hour, which the old Japanese used to call the "Hour of the Ox"; that is, about two o'clock in the morning by our time. At last she became very sick, through want of sleep and through fright. But the little men would not leave her alone.

   When her husband came back home, he was very sorry to find her sick in bed. At first she was afraid to tell him what had made her ill, for fear that he laugh at her. But he was so and coaxed her so gently, that after a while she told him what happened every night.

   He did not laugh at her at all, but looked very serious for a time. Then he asked:―

      "At what time do they come?"

   She answered: ―"Always at the same hour ― the 'Hour of the Ox.'"

   "Very well," said her husband,― "to-night I shall hide and watch for them. Do not be frightened."

   So that night the warrior hid himself in a closet in the sleeping room, and kept watch through a chink between the sliding doors.

   He waited and watched until the "Hour of the Ox." Then, all at once, the little men came up through the mats, and began their dance and their song:―

      "Chin-chin Kobakama,

       Yomo fuké soro……"

They looked so queer, and danced in such a funny way, that the warrior could scarcely keep from laughing. But he saw his young wife's frightened face; and then remembering that nearly all Japanese ghosts and goblins are afraid of a sword, he drew his blade, and rushed out of the closet, and struck at the little dancers. Immediately they all turned into-what do you think?

Toothpicks!

   There were no more little warriors ― only a lot of old toothpicks scattered over the mats.

   The young wife had been too lazy to put her tooth picks away properly; and every day, after having used a new toothpick, she would stick it down between the mats on the floor, to get rid of it. So the little fairies who take care of the floor-mats became angry with her, and tormented her.

   Her husband scolded her, and she was so ashamed that she did not know what to do. A servant was called, and the toothpicks were taken away and burned. After that the little men never came back again.

――――――

THERE is also a story told about a lazy little girl, who used to eat plums, and afterward hide the plum-stones between the floor-mats. For a long time she was able to do this without being found out. But at last the fairies got angry and punished her.

   For every night, tiny, tiny women ― all wearing bright red robes with very long sleeves,― rose up from the floor at the same hour, and danced, and made faces at her and prevented her from sleeping.

   Her mother one night sat up to watch, and saw them, and struck at them,― and they all turned into plumstones! So the naughtiness of that little girl was found out. After that she became a very good girl indeed.

――――――

 

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「ちんちん・こばかま」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認することが出来る。]

 かういふ小さな妖精は、西洋のお伽噺にはよく出て來るから、西洋人には却つてわかりいゝかも知れぬが、日本にはあまり同額がない。「黑甜瑣語」にあるのは、秋の夜のつれづれに獨り家に居ると、疊の間から筆の長さぐらゐの小人が三四人出て、そこらを駈け𢌞つて戰ふ。煙管でこれを打てば、皆消えてなくなつたが、暫くしてまた一人出て來た。今度は鎧冑に身を固め、大將軍の風がある。弓に矢をつがへて放つのを、また煙管で拂つたが、その時矢に射られたと思つたのは、恐らく自分の煙管で傷つけたのであらう。その時以來一眼になつた。――この小人は「黑甜瑣語」の著者も、どうやら幻想と解してゐるやうである。

[やぶちゃん注:以上は「黑甜瑣語」は「第一編卷之四」にある「棚谷家の怪事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。確かに最後のところで筆者人見蕉雨は『心鬱の祟りならんか』と述べている。悪くない。私は一読、平安末から鎌倉初期頃に描かれた私の好きな絵巻「病草紙」の、小法師の幻覚を見る男の絵、詞書に、

   *

なかごろ持病もちたるおとこありけり やまひおこらむとては たけ五寸ばかりある法師の かみぎぬきたる あまたつれだちて まくらにありと見みえけり

   *

とあるのを鮮やかに思い出した。熱性マラリアによる脳症のそれというより、私はこれは重篤な精神疾患による幻覚症状と思っている。]

「聊齋志異」の「小獵犬」は、僧院に在つて蚤蚊に苦しめられ、夜ろくろく睡り得ぬ人が、食後、橫になつてぼんやりしてゐると、小さな武士が馬に乘つて出て來た。臂にとまらせた鷹は蠅ぐらゐの大きさである。この武士が室内をぐるぐる駈け𢌞つてゐるうちに、また一人現れた。前の武士と同じやうな行裝をしてゐるが、この方は大蟻ぐらゐの犬を曳いてゐる。やがて室内には何百人といふ武士が、各々鷹を携へ犬を曳いて現れ、一齊に活動をはじめた蠅や蚊は鷹を放つて捕らせる。獵犬は牀と云はず、壁と云はず攀じ登つて、蚤や虱を退治する。瞬く間に一掃してしまつた。寢たふりをしてぢつと見てゐると、今度は黃色の著物に平らな冠をかぶつた人が出現した。これは王者の如く別の腰掛に倚る。今まで活動してゐた武士達は、悉くその周圍に集まり、獲物を獻上するやうであつたが、何を云つてゐるのか少しもわからない。黃衣の人が輦(てぐるま)に登ると同時に、武士達は慌しく馬にまたがり、紛紛としていづれへか走り去つた。その有樣は歴々と目に殘つてゐるけれど、何の痕跡もない。自分の身邊を見𢌞しても、一切が夢のやうである。たゞ夢でない證據には、壁のところに小さな犬が一疋殘つてゐた。急いでこれをつかまへ、硯箱の中に飼ふことにしたが、飯粒などは匂ひを喚ぐだけで顧みず、寢室に登り、著物の縫目を尋ねて蚤虱の類を獵る。お蔭で僧院のさういふ蟲類は全く驅除された。犬はどこかへ行つてしまつたかと思ふと、依然この室内にぢつとしてゐる。或時晝寐をした際に、ついその人の下敷きになつて死んでしまつた。「池北偶談」の記すところも、ほゞこれと同じである。黃衣の人が朱衣であるのと、一疋取り殘された獵犬が下敷きの厄に遭はぬ點が、僅かに違つてゐるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:これは私の偏愛する清代の志怪小説集である、蒲松齢の「聊齋志異」の「卷四」の「小獵犬」である。中文サイトにある原文を加工して、まず、引く。

   *

山右衞中堂爲諸生時、厭冗擾、徙齋僧院。苦室中蟲蚊蚤甚多、竟夜不成寢。食後、偃息在牀、忽一小武士、首插雉尾、身高兩寸許、騎馬大如蜡、臂上靑鞲、有鷹如蠅、自外而入、盤旋室中、行且駛。公方凝注、忽又一人入、裝亦如前。腰束小弓矢、牽獵犬如巨螘。又俄頃、步者、騎者、紛紛來以數百輩、鷹亦數百臂、犬亦數百頭。有蚊蠅飛起、縱鷹騰擊、盡撲殺之。獵犬登牀緣壁、搜噬蝨蚤、凡罅隙之所伏藏、嗅之無不出者、頃刻之間、決殺殆盡。公僞睡睨之。鷹集犬竄於其身。既而一黃衣人、著平天冠、如王者、登別榻、繫駟葦篾間。從騎皆下、獻飛獻走、紛集盈側、亦不知作何語。無何、王者登小輦、衛士倉皇、各命鞍馬、萬蹄攢奔、紛如撒菽、煙飛霧騰、斯須散盡。公歷歷在目、駭詫不知所由。躡履外窺、渺無蹟響。返身周視、都無所見、惟壁磚上遺一細犬。公急捉之、且馴。置硯匣中、反復瞻玩。毛極細葺、項上有小環。飼以飯顆、一嗅輒棄去。躍登牀榻、尋衣縫、齧殺蟣蝨。旋復來伏臥。逾宿、公疑其已往、視之、則盤伏如故。公臥、則登牀簀、遇蟲輒噉斃、蚊蠅無敢落者。公愛之、甚於拱壁。一日、晝寢、犬潛伏身畔。公醒轉側、壓於腰底。公覺有物、固疑是犬、急起視之、已匾而死、如紙翦成者然。然自是壁蟲無噍類矣。

   *

次に、やはり、私の偏愛する柴田天馬氏(パブリック・ドメイン)の訳を角川文庫版(年昭和五三(一九七八)年改版十五版・新字)で示す。注などいらぬ。充分、天馬節で判り、同時に楽しめる。

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 小猟犬

 

 山西の衛中堂がまだ諸生であった時、やかましいのを厭って、書斎を僧院に移したが、部屋(へや)には、虫(なんきんむし)や、蚊(か)や、蚤(のみ)が、ひどく多かったので、一晩苦しんで寝つかれず、食後に、牀(ねだい)で休んでいると、首に雉(きじ)の尾を插した、二寸ばかりの身のたけの小さな武士が、蜡(ろうむし)ぐらいの大きさの馬に乗り、腕に青い鞲(ゆごて)をかけ、それに蠅(はえ)ほどの鷹(たか)をとまらせて、外からはいって来ると、部屋の中をぐるぐる駆けまわるのだった。

 公が、じっと見ていると、また一人はいって来たが、やはり前のような装いで、腰に小さな弓矢をつけ、大きさが蟻(あり)ほどの野犬をひいていた。また、しばらくすると、歩(かち)の者、騎馬の者が数百人紛々とやって来た。鷹もやはり数百羽、犬もやはり数百匹だった。そうして蚊や蠅が飛びたつと、鷹を放って、ことごとく撲殺(うた)せ、野犬は寝台に登って壁をよじ、あらゆるすきまに隠れているのを、すっかり嗅ぎだし、しばらくの間に、ほとんど殺し尽くしたが、鷹や犬はねたふりをして見ている公のからだに、集ったり隠れたりするのだった。

 そのうちに、黄色い衣をき、平天冠(へいてんかん)をつけた王さまのような人が、ほかの寝台に登って、馬を葦篾(あんぺら)の上につながせると、従っている騎兵はみな馬から下りて、飛(つばさ)あるもの、走(あし)あるものをたてまつり、おそばに群れつどったが、どういうことを言っているか、わからなかった。

 まもなく、王が小さな輦(くるま)に登(の)ると、衛士はみな、あわただしく馬にまたがり、駒を並べてはせゆくありさまは、山椒の実をまきちらしたようで、土けぶりをたてて、たちまち、いなくなってしまった。

 公は、ありありと見てはいたものの、どこから来たのか、わからないので、履(くつ)をはいて出て見たがあとかたもなかった。帰ってきて見まわしたけれど、何も見えず、ただ壁瓦(かべかわら)の上に一匹の小犬が残されているだけだった。

 公は急いでそれを捉(つか)まえた。慣れているのだ。すずり箱の中に置いて、よく見ると、毛がたいそう細やかで、首に小さな環(わ)がはめてあった。飯粒をやったが、ちょっと嗅いで捨ててしまい、寝台に飛びあがって衣縫(ぬいめ)をさがし、蝨や蟣(たまご)をかみ殺すと、すぐに、また帰って来て寝ころんでいた。

 一晩すぎた。公は、それがもう、どこへか行ってしまったろうと思いながら見ると、もとのように丸くなって伏(ね)ていた。そして公が寝ると、寝台のむしろにあがって来て、虫を見さえすれば、食い殺した。蚊でも蠅でも、もらすことはなかった。

 公は犬を愛すること拱壁(たま)よりもはなはだしかったが、ある日、昼寝をしていて、犬が身のまわりに潜伏(もぐりこ)んだのを知らず、目をさまして寝がえったので腰の下に圧しつぶしてしまった。公は、きっとそれが犬だったろうと思い、急いで起きて見ると、紙を剪(き)ってつくったように、平たくなって死んでいた。しかし、それからは、虫(なんきんむし)が無噍類(たえた)のである。

   *]

 以上の三つの話は、恐らく相互に關係はなからう。小人がすべて武士であるのも偶然の類似と思はれる。「ちん・ちん・こばかま」の歌も愉快でないことはないが、憾むらくは規模が小さい。一室に鷹犬を放つて害蟲を除くの壯快なるに如かぬ。

柴田宵曲 妖異博物館 「生靈」

 

 生靈

 

「源氏物語」の中で、夕顏を頓死せしめた物の怪(け)の恐ろしいのはいふまでもないが、更に氣味の惡いのは、葵の上を惱ます六條御息所の生靈である。葵の上の樣子が俄かに變つて、調伏される身の苦を訴へる一段の鬼氣は、讀む者の心にひしひしと迫るやうに感ぜられる。

[やぶちゃん注:葵上のそれは最早、疑いなく六条御息所の生霊で疑いないのであるが、夕顔をとり殺したのは、現行では源融の河原院をモデルとする「なにがしの院」の地付きの物の怪に源氏を恋慕し、六条御息所を含めた複数の女性たちの妬心と遺恨が複合化したものだなどとまことしやかな真顔で研究者の間で語られる。しかし、事実上、決定的な怪異を目撃するのは、心理的に罪障感を持っている光唯一人であり、火が総て消えていたり、宿直人(とのいびと)が全員眠り込んでいたり、右近がヒステリー状態になったりするのは、周縁的な疑似的な見かけ上の怪異であって真の怪異とは言い難く、私は寧ろ、夕顔に実は先天的なかなり重い心臓疾患などがあったところに、頭中将の正妻からの嫌がらせなどで精神的なストレスが高まり、慢性の心身症症状がだらだらと続いていたところに、光の性急な関係要求がそれに拍車をかけて悪化させ、突然死に至ったものと考えた方が、遙かに自然で「まことしやか」であると考える人種である。]

 幽靈の話は多いが、生靈の方は少い。「雪窓夜話抄」にあるのは、野一色勘兵衞といふ人、日頃側近く召仕つた女に暇を遣り、代りに小女を召抱へた。暇を出された女はひどく恨んで、その家の老女に向ひ、小女に暇を出して、自分を呼び戾して貰ふやうに賴んだが、さうもならなかつた。然るに或夜その小女が俄かに狂人の如くなり、口走るところは悉く暇を出された女の心中の事である。勘兵衞は怪しみながら、一間に押込めて置いたが、その時何かに當つたと見えて、小女の耳の下から血が流れ、衣服を染むるに至つた。翌日はもう平生の通りになり、昨夜の事を尋ねても、少しもおぼえて居りません、といふ。耳の下の疵も綺麗になくなつてゐる。勘兵衞愈々不審に堪へず、前の女のところへ人を遣つて尋ねさせたら、昨夜から氣分が惡くて寢てゐたが、どうしたのか、耳の下に疵が付いて痛がつてゐる、といふことなので、使の者は念のため女に逢ひ、その疵を見屆けて歸つた。「然者(されば)生靈の祟りと云ふこと世にあることなり」と「古今著聞集」じみた書き方をしてゐる。

[やぶちゃん注:「雪窓夜話抄」のまさに巻頭を飾る「卷之一」の「野一色勘兵衛召仕女の生靈の事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。「野一色」が姓で「のいつしき(のいっしき)」と読んでおいてよかろう。
『「然者(されば)生靈の祟りと云ふこと世にあることなり」と「古今著聞集」じみた書き方をしてゐる』と柴田は言うが、私はその謂いが「古今著聞集」染みた常套的言い回しだとは思われない。]

 寛文の頃、阿波國美馬郡貞光といふところに住む何其の家來七兵衞、傍輩の栗といふ女と夫婦約束をしながら、人の媒酌により鄰家の娘と結婚してしまつた。栗この事を深く憤り、村つゞきの井の脇村の藥師を祈り、佛の眼耳胸三所まで釘を打つた。然るに七兵衞には何事もなく、妻女に栗の生靈が付いて、さまざまに惱ます。三年を經て已に死ぬべき樣子になつた時、東林寺の周啓和尚、病人の枕に寄り、わが聲に付いて念佛せよ、と云つて十念を授けたら、卽座に背中が輕くなつたと手を合せて喜んだ。更に三日の間精進して念佛を唱へ、全く快癒したとある(新著聞集)。

[やぶちゃん注:「寛文」一六六一年から一六七二年。

「阿波國美馬郡貞光」かつて徳島県にあった貞光町(さだみつちょう)の前身。現在の徳島県北西部に位置するつるぎ町(ちょう)内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「恐らくは旧貞光町と西で隣接していた脇町(わきちょう)の前身であろう。現在は美馬(みま)市脇町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「新著聞集」の「執心篇 第十一」にある「妬女妻を惱(なやま)し念佛たちまち治(いや)す」の一条。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

寛文のころ、阿州美馬郡貞光といふ所の、しぢらや某氏の家來七兵衞といふ者と、傍輩の栗といふ女と、夫婦の約束せしに、又其隣の娘を、人の媒にて、七兵衞妻にむかへし。栗、此事を深く憤り、村つゞきの井の脇村の藥師を祈り、佛の眼耳胸三所まで釘を打けり。然るに七兵衞は恙なくて、妻に、かの栗の生靈付て、さまざまに惱しける程に、山ぶしあまた集りて、祈り加持すれ共、さらに驗しなかりし。三年を經て、既に死すべき樣にみへし比、脇村の東林寺周譽に、此事を語りしかば、夫こそいと安き事とて、病人の枕に依て、わが聲に付て念佛せよとて、十念授けたまへば、卽座に脊かるくなりしとて、手を合せ、よろこびし。さらば三日の間精進して、隨分念佛せよとて、血脉授けたまひしに、終に快氣せり。

   *

この「血脉」は「けちみやく(けちみゃく)」で、師が教法を仏弟子に伝えることを指す。この話、しかし可哀想な栗ちゃんの側のことを何も語っていない点で私は甚だ気に入らぬ。]

「三州奇談」にあるのは、内藤善大夫といふ人の屋敷で、腰元のたよといふ者が傍輩と同じ部屋に寢てゐると、或夜の夢に見馴れぬ女が來て、さんざんに恨みかこち、果ては髻を摑んで組付いたりした。やつとの事で目が覺めたら、髮も亂れ、櫛や笄もあたりに散らばつてゐる。夢とは云ひながら、こんな難儀な目に逢つたことがない、と傍輩に語るのを聞いて、皆も氣の毒がり、外の人にも話すうちに、傍輩の一人であるたまといふ女が、ひそかにたよにかういふ話をした。實はお恥かしい話だが、私はこの家のおとな何某殿といゝ仲になつてゐる、それが本妻の方に知れたものか、夢の中に女が來て恨み、打擲されることがもう二箇月も續いてゐる、一晩も缺けたことがなかつたのに、昨夜だけは不思議に來ず、ぐつすり眠れたと思つたが、それでは間違へてあなたの方へ行つたのでせう、といふのである。二箇月も續いて來て居れば、夢にも人違などはしさうもないのに、どうしてこんな事になつたか。たよとたまでは一字違ひだが、その外に何か紛らはしい事情があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「笄」「かうがい(こうがい)」と読み、江戸時代の女性用髪飾りの一つ。髷(まげ)などに挿し、高級品は金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作った。本来は髪を整えるための実用的な「髮搔(かみかき)」が元。

 以上は「三州奇談」の「卷之四」の「怪異流行」の後半部。。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、以下に全部を示す。一部、編者の補訂挿入した字も入れてある。読みは一部に限った。

   *

 

     怪異流行

 

 材木町鹽屋何某、心易き友三人連立(つれだち)、元文元年仲秋の良夜、月見がてらに、四更の比(ころ)、紺屋坂の下堂形前の空地に至りしに、あやしや長(たけ)高き人三人裸になり、肌帶斗(ばかり)に成(なり)、衣類大小帶にてからげ、何れも頭の上に戴き、手を取組(とりくみ)、「爰は淺し、彼(かし)こは深し」と渡瀨をさぐり行(ゆく)體(てい)にて、叢を大事に歩(はこ)び行(ゆく)。「爰は水急にして渡り難し、歸らん」と云ば、又ひとりは、「我に任せよ」と云も有。「もはや水は肩に越(こえる)よ」と云聲して、終(つひ)に奥村氏の馬場の土手に登り、みを拭ひ衣類を着し、馬場の中五六返往來して、小将町の方へ行し。誠に希有の夜行也。思ふに、是好事の者、野狐をして還而疑(かへつてうたがは)しむるの術と覺へたり。

 猶又新しく聞へしは、彦三町に内藤善太夫と云人有。此屋敷・腰本(こしもと)たよと云者、同じ傍輩と枕を並べ部屋に臥たりしに、或夜の夢に見馴ぬ女來りて、散々恨みかこち、後にはたぶさをつかんで組付(くみつき)けるが、辛うじて目覺見へければ、髮も打亂(うちみだ)れて、櫛も笄もあたりへ打散(うちちり)て有し。夢とは云共(いへども)、終(つひ)に覺ざる難義の程を傍輩にも語りければ、ともども介抱して、「ふしぎ成(なる)事」と、人々にも是を語傳(かたりつた)へしに、同じ端の本[やぶちゃん注:腰元。]に玉と云る女、ひそかに私語(さゝやき)て云樣(いふやう)、「近比(ちかごろ)恥しきざんげなれ共、我等此家のおとな何某殿と密通して居る。本妻の許(もと)へ洩(もれ)けるにや、いつの比(ころ)よりか毎夜我夢に來て是(これ)を恨み、且(かつ)打擲せらゝ[やぶちゃん注:ママ。「せらるゝ」の脱字であろう。しかし、そのまま活字になっていて補正されていないのは甚だ不審でる。]事凡(およそ)二月斗(ばかり)、一夜も缺ざるに、夕部[やぶちゃん注:ママ。「ゆふべ」。]斗(ばかり)は妻女の夢に來(きた)らざりしゆへ、心よく寢入たると思へば、扨は取違へてそなたの方へ來られし物ならん」と淚ながらに語りける。生き靈の取違も亦一奇談也。

 思ふに、古き本に云(いへ)る幽靈は、必ず「申々(まうしまうし)」と呼(よぶ)。是は慥(たしか)に夫(それ)とは知ながらも、古人は物每丁寧を專(もつは)らとする故にぞ呼(よぶ)ならん。今の人の輕卒は人間世の事とのみ思ひしに、扨は幽溟へも此(この)風移りにけりな。さあらば極樂にも日々音樂に新手を工夫し、いやみの地獄を拵へしと聞(きゝ)しも、戲言のみには非ざりし。

   *

これらは疑似怪談で、後者などはもう落とし噺の域であった、原典もそれを確信犯とし、現世の礼節の劣化を歎くのが目的のようにさえ見える、劣化した怪奇談である。]

 女が男に對する恨みを、その相手の女に持つて行く。生靈の動き方は、六條御息所以來ほゞ一定してゐるやうであるが、戀に貴賤の別なしと云つても、人により品下ることは如何ともしがたい。「三州奇談」に至つては、鬼氣は殆ど失はれ、人違の滑稽が主になつてしまつた。かういふ生靈譚は、更にひろく古今東西の文獻に徴しても、或はあまり類のない珍談であらう。

 戀の恨みの生靈は、それでもまだ若干の趣がある。「新著聞集」には家主の細君に晝夜惱まされる若者の話があるが、これは大坂から叔父に呼び寄せられた利根才覺の男であつた。家主の妻はこの者が近所に居つては、自分の子供は到底競爭出來まいといふところから、びどくこの若者を憎み、取り殺してしまたいといふ一念が、若者が寢入らうとすると、咽喉を締めたりして苦しめるものとわかつた。家主は驚いて惡念を止めよと戒め、若者の叔父には事情を話して店替をして貰つた。女も五十を過ぎれば利慾の塊りのやうになつて、飛んだ生靈を演じたものである。これでは全くお話にならぬ。

[やぶちゃん注:以上は「新著聞集」の「第十二 寃魂篇」の「活靈(いきりやう)咽(のんど)を占(し)む」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みは歴史的仮名遣でオリジナルに附した。「瀨戸物棚」は長屋の固有名。「出居衆」は「でゐしゆ(でいしゅ)」とも読み、近世、武家奉公・商用などのために地方からの出稼ぎのために町方で部屋借りをして暮らした者たちを指す。

   *

江戸靈巖島瀨戸物棚(だな)、喜兵衞が家の出居衆(でゐし)に、六兵衞といふ者、年久しくありて、同じ家の店(たな)をかり、大阪より猶子(をひ)を呼下しけるが、其者は、利根才覺にて、商(あきなひ)をもよくせしが、いつとなく煩(わづらひ)しを、六兵衛も不審げにおもひ、若き者の事なれば、何にても思ふ事の有(ある)にや。假令(たとひ)金銀をつかふとても苦(くるし)からず、何とぞ、気色も取(とり)なをすやうにせよかしといひしかば、我わづらひは別儀にあらず。家主(やぬし)の妻、晝夜傍を離れず、寢入(ねいら)んとすれば咽(のんど)をしめ、さまざまにくるしむる也と語りければ、六兵衞おどろき、五十にあまる女の、戀慕にてはよもあらじ。いか樣(さま)子細有(ある)べしとて、ひそかに事の由(よし)を、喜兵衞に告ければ、大(おほい)に肝(きも)を消(けし)、妻をよび、かゝる事あり。いかに思ふ事の有(ある)にや。包つつま)ず語れと責(せめ)しかば、妻色をかへ、今は何をか隱さん。かの者は、商ひよくして、物ごと利發才覺なり。かれ此家にありなば、我子は不調法ものなれば、終(つひ)にあきなひ仕負(しまけ)、家をもとられんと、思ふが口惜(くちをし)さに、殺したしくとおもふ一念、かくこそと云(いひ)ければ、夫(をつと)聞(きき)、それは以(もつて)の外の僻事(ひがごと)かな。はやく心をあらためよ。六兵衞には、店を替(かへ)させんとなだめしかば、さもあらば、心を飜(ひるがへ)すべしと云(いひ)けり。そのおもむき、病家(ぎやうけ)につたへて、店をかへさせしより、病氣は快(くわい)なり侍りし。

   *]

柴田宵曲 妖異博物館 「光明世界」




 光明世界

 

 元文年間の話である。加賀大聖寺の家中で、小笠原長八といふ士が、夜半頃に全昌寺のうしろを通りかゝると、浦風の吹くに從ひ、火の玉がふらふらと飛んで來た。丁度長八の面前に來たところを、拔打ちに丁と斬る。玉は二つに割れて長八の顏に當つたが、途端にあらゆるものが眞赤に見える。その邊の山々や寺院なども、朱で塗つたかと思はれるほどなので、これは魔國鬼界に落ちたかと、兩手で頻りに顏をこするうちに、ねばねばした松脂のやうなものが多く衣類に付いて、次第にもとの闇夜に還つた。翌日一日は顏に糊がかゝつたやうで閉口したが、別に何といふこともなかつた。その後海邊の老人に聞いたところによれば、海月(くらげ)の中に時として風に乘じ飛行するものがある、闇夜にはそれが火のやうに光るから、多分そんなものであらう、といふことであつた。如何にもさう云はれて見ると、腥い香がしたやうに思ふ、と長八も云つてゐた(三州奇談)。

[やぶちゃん注:シチュエーションとしては浦風がかなり強く吹いていたと読めるから、実際に砂浜に打ち上げられたクラゲが、たまたま強風に煽られて長八の顔面に附着することはないとは言えない。まあ、ミズクラゲ(刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia sp.)でよかった。強毒性で乾燥した刺胞も危険な旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica、別名ハクションクラゲなんぞだったら、顔面が激しく炎症を起こし、眼は失明の可能性もあったやも知れぬ。但し、これらの種は逆立ちしても赤色発光はしないから、まんず、珍しい海月の妖怪ということにしておこうではないか。

「元文」一七三六年から一七四〇年。

「加賀大聖寺」加賀藩支藩大聖寺(だいしょうじ)藩。江沼郡にあって江沼郡及び能美郡の一部を領した(現在の加賀市・能美市、小松市の大部分・白山市の一部に相当する)。

「小笠原長八」私の持つ原典(後掲)では『小原長八』である。

 以上は「三州奇談」の「卷之一」の「火光斷絶」である。原典はかの「奥の細道」のシークエンスを語って風流な枕を置いている。以下に二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化し、読みは独自に歴史的仮名遣で附したものを示す。【 】は原典の割注。句の前後を一行空けた。

   *

 

     火光斷絶

 

 加州大聖寺の全昌寺は、元祿の比、芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり。其わかれの日、門前の柳に一章を殘し、

 

  庭掃て出でばや寺にちる柳  はせを

 

おしい哉、其柳も近年の囘祿のために跡もなけれども、高名は世に高く、其日の姿を彦根の五老井の人の摸(うつ)したるに、翁の眞蹟を張(はり)て爰(ここ)に猶のこれり。目のあたり、其日にあふ心地ぞする。其比、曾良は一日前にやどりして、旅中のなやみ心細くや有けん【世に行はるゝ芭蕉の句選に、此句、翁の句とし、金昌寺と誤る】、

 

 夜もすがら秋風聞くや浦の山  曾良

 

と聞へしも爰也。實(げに)も浦風の吹越(ふきこ)しやすく、山ひとへに北濱の大洋をへだつ佳景は、しばらく論ぜず。

 元文年中の事にや、大聖寺家中に小原長八と云(いふ)人、用の事ありと此寺の後ろを夜半比(ころ)通られしが、浦風の面に颯(さつ)と吹くにしたがふて、向ふより火の丸かぜゆらゆらと來る。此夜はことに黑闇成(なり)しも、此火出んにあたりも赤々と見えわたりけるに、長八が前に間近く飛來るを、長八も莊年の不敵者なれば、心得たりとぬきぬき打ちに一と打切りけるに、手ごたへなく、只(たゞ)空を切る如くながら、火の玉は二つに割れて、長八が顏にひたと行當(ゆきあた)りける。顏は糊などを打かぶせたる樣に覺へ、兩眼ともに赤ふみへすきて、我眼ながらあやしく、其あたりの山々、寺院なども先にて塗りたるやうにみへければ、忽ち魔國鬼界の別世界に落ちやしぬらんと、袖を上げ兩手を以頻(しきり)に面をこすり落(おと)すに、ねばねばとしたる松やにの如く成もの、たゞ衣類に付きて、次第次第に元のごとく物みへ、一時斗(ばかり)してぞ、もとの闇夜とは覺へける。何のかわりたる事もなけれども、心元なく、其あたり近き知れる人のもとを敲(たゝ)き起して、やどり灯を點じて見るに、ねばねばとしたる斗にて、何とも分つべき方なし。

 翌一日も、顏には糊のかゝりたる如く、せんかたなし。然れども、何のたゝりもなし。久敷(ひさしく)して、浦邊に老(おい)たるものに此事を尋(たづね)けるに、「海畔(うみべ)に生ずる水海月(みづくらげ)といふもの、時として風に乘じて飛行(ひぎやう)する事侍る。闇夜めぐらせば、腥(なまぐさ)さき匂ひも有けるようぞ覺へける」とは云(いひ)し。

   *

参考底本では老人の台詞の末尾は「有けるよう(に)ぞ覺へける」と推定補語がなされてある。前段の芭蕉のそれは私のシンクロニティ『「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳」』に詳しい。参照されたい。]

 もし小笠原長八が海月を斬つた爲、一時眼界が赤くなつたといふだけならば、奇談として大したものではない。同じ「三州奇談」にある話でも、「關氏の心魔」の方は大分異色がある。元祿年間加州にゐた關善右衞門といふ人は、中條流兵法の家として四方に聞え、その門には多くの弟子が集まつた。或年の冬、弟子の家に行つて談論風發し、夜更けに我家へ歸ると、妻女は縫物をして未だ寢ねず、婦女もその傍に在つて、例の如く灯を提げて迎へた。然るに不思議な事には、屋中光明赫然として七寶を鏤(ちりば)めたる如く、妻女も婦女も錦繡の袖を飜し、携へて出た行燈に至るまで、瑪瑙(めのう)瑠璃(るり)のやう見える。善右衞門は暫く眼を閉ぢて、かういふ不思議は未だ曾て聞いたこともない、今自分は狂亂の病に羅つたか、さうでなければ魔魅(まみ)の欺くものであらうと、急ぎ婦女に命じて湯を沸かさしめ、浴室に入つて見ると、こゝもまた綺麗なこと、言語の及ぶところでない。目を塞いだまゝ浴し了つて、新しい衣に著更へ、先づ燈明を點し、本尊摩利支天を押して、祕印を結び九字を修した。この人は兵法の道に達するばかりでなく、ひろく内典外典にも通じて居つたから、こゝで光明眞言、多門天の咒、般若心經、法華の陀羅尼要本、いろいろなものを誦してゐる。然る後佩刀を拔いて、祕密沓返しといふ妙手を使つたので、妖魅は自ら退散したものであらう。光輝は次第に消え失せ、心地も朗かになつて、平生に復ることが出來た。これは心魔の致すところであらうと書いてある。

[やぶちゃん注:以上は「三州奇談」の「卷之三」の「關氏心魔」。以下に同前の仕儀で示す。柴田は後半を次の段で簡単に述べているだけであるが、そこも総て示す。

   *

 

   關氏心魔

 

 元祿年中、加陽の英士・關善右衞門は、代々中僕流兵法の道に達し、其名四方に響けり。傳聞(つたへきく)富田五郎左衞門入道勢源より奧祕を傳へ、連錦[やぶちゃん注:ママ。「綿」の誤字であろう。]として不絶(たえず)。殊更此人は稽古の功積りて、甚だ精妙をえたり。剩(あまつさへ)、内外の教典にも疎(うと)からず。質直にして門人も日々增長し、其傍に出たる者數十員、車馬門前に充滿せり。去(され)ば人情の習ひ、聊か憍慢(きやうまん)の念慮有(あり)けるにや。或年の冬、門弟子の許へ行き、古今英雄を論じ、才劍の得失を談じ、稍(やゝ)深更に及(および)しが、辭して歸られけるに、我家に入(いる)に、妻女未(いまだ)縫物していねず。婦女も又傍に在(あり)て、例の如く灯を提(さげ)て迎へたるを見ければ、忽(たちまち)屋中光明赫然として、恰も七寶をちりばめ色どりかざるがごとし。妻女も婦女も、衣裳皆悉く錦繡の袖を飜し、携へよる行燈に至る迄も瑪瑙瑠璃の類ひにして、知ず天上に生るゝかと怪しまる。善右衞門須臾(しばらく)開眼して案(あんず)るに、「我(われ)如斯(かくのごとく)の奇事有(ある)事、古今其例を不聞(きかず)。疑(うたがふら)くは、我(われ)今(いま)狂氣の病(やまひ)にかゝれるや。さらずば魔魅の欺(あざむ)くものならん」と、急ぎ婢に命じて湯を湧(わか)さしめ、沐浴せんとするに、浴室に入(いり)て見れば、爰も又奇麗なる事言語の及ぶ所に非ず。玉のいしだゝみ暖かにして、七寶のいさごを敷(しき)、金銀の盥(たらひ)及び硨磲(しやこ)の提子(ひさげ)に水を入(いれ)たり。めを塞(ふさい)で浴し終り、新敷(あたらしき)衣に布衣(ほい)を着し、まづ燈明を點し、本尊摩利支天の像を拜し畢而(おはりて)、祕印を結び九字を修し、光明眞言七返、多聞天の呪二十一返、般若經・法華の陀羅尼要品(だらにえうぼん)を誦し、佩刀を拔(ぬき)て當流の祕密沓返(ひみつくつがへし)と云妙手を遣ひければ、彼(かの)妖魅退(のき)しにや、「漸々(やうやう)として光輝消失せ、心地朗(ほがら)かに成(なり)て平常に歸し」と、門人藤井氏へ物語有し也。是は心魔の遮(さへぎ)る成(なる)べし。強氣も又邪を退(しりぞけ)るにや。

 古寺町福藏院には、菅神(かんじん)の傍に稻荷の社も有(あり)。此社内廣ければ、片町石浦屋書兵衞借屋・原屋久右衞門と云(いふ)足駄(あしだ)を作る男有(あり)し。彼(かの)下駄の下地桐(したぢぎり)・柵檀(さくだん)などの割木(わりき)を多く夏に乾置(ほしおき)しに、或(ある)夕暮に此割木を片付けるに、狐壱つ飛出(とびいだ)しを、したゝかに割木を以て打たゝき、追散(おひちら)して家に歸る。二階に上り伏(ふし)けるに、其夜何とやらんいね難く、二階の障子を明(あけ)みるに、爰は石浦屋の土藏に對すべき所なるに、此藏忽(たちまち)福藏院の向ひ安部氏の居宅と見え、式臺の手燭(てしよく)輝き、金屛數多(あまた)引(ひき)つらねたる如くに覺えし程に、我(われ)居る所も我家に非ず、福藏院の社地に替り、寢所の上に奉納の繪馬出來(いでき)たり。松梅の樹木多く吹鳴(ふきなり)て、心茫然とせしかば、「扨は未歸らで福藏院の庭にゐるにや。去(さる)にても家に歸るべし」と思ひ、立出(たちいで)んとせしが、慥(たしか)に我は家に歸り二階に臥(ふし)たる物をと思ひ定め、「是は必定(ひつぢやう)、物のたぶらかす成(なる)べし。何條(なんでふ)鬼魅に負(おふ)べきや」と、寢處の上敷(うはじき)の片端を力(ちから)につかんで急度(きつと)心を靜(しづめ)たりしに、少(すこし)は燈明もうすく彩光も減ぜし樣なれ共(ども)、目を明(あく)るに又宮殿・金屛あたりに立(たち)て思ひ分(わけ)がたく、一夜(ひとよ)直(ただ)に不眠(ねむらず)。「寢衾(ねぶすま)を引きちぎり引きちぎりしてこらへたりしに、曉の鐘明(あけ)ても猶不消(きえず)、日出(いづ)る比(ころ)迄は石浦屋の土藏式臺前の體(てい)有(あり)しが、人通り多く、日明らかに出ければ、消(きえ)て本(もと)の如し」と語りぬ。是も又此怪の類(たぐひ)にや。術無故(すべなきゆゑ)、久消(ひさしくきえ)ざりしか。

   *]

「三州奇談」はこの話に硬いて、原屋久右衞門といふ足駄作りの男が、似たやうな不思議を見ることを述べてゐるが、かういふ現象は昔の加州に起つただけではない。もつと近い時代にもあつた證據として、「山居」(小杉放庵)の記載を擧げなければならぬ。

 小川芋錢が東京から牛久の我家に歸る。停車場から宿(しゆく)を出拔けて村に到る畑道を、闇夜に躓きもせず歩いて來ると、忽然としてあたりは一面の銀世界になつた。見馴れた桑も大根もすべて銀色である。これはたゞ事でないと思つて、やはり銀色になつた草の上に腰を据ゑ、瞑目閉息の後眼を開いたら、もとの闇に過つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:『「山居」(小杉放庵)』小杉放庵(明治一四(一八八壱)年~昭和三九(一九六四)年)は洋画家。短歌もよくした。但し、「山居」(昭和一七(一九四二)年中央公論社刊)はまさに歌集と思われ、私は彼の著作を持たないので何とも言えないが、柴田は何らかの小杉の隨筆集を誤認しているのかも知れぬ。「芋錢」(うせん)は私が愛する数少ない日本画家であるが、この怪異譚は初めてこれで読んだ。引用元について、識者の御教授を乞う。

「小川芋錢」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は日本画家。本名は茂吉。ウィキの「小川芋銭」によれば、生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。]

 もう一つの例は川上眉山で、深更厠に立つて手洗ひの窓を開くと、庭の中の松の木が根から幹から葉先まで、すべて銀色にはつきり見えた。月もなければ灯もさして居らぬので、庭に下りて袂の紙を小撚りにし、枝に結んで寢に就いたが、翌朝何よりも先に庭に出て見たら、小撚りは慥かに松の枝にあつたといふ。

[やぶちゃん注:「川上眉山」(明治二(一八六九)年~明治四一(一九〇八)年)は小説家。大阪生まれ。当初の「硯友社」同人から離れ、『文學界』のメンバーと親交を結んだ。反俗的な社会批判を含む観念小説「書記官」「うらおもて」などを発表したが、文学的行き詰まりから剃刀で咽喉を切って自殺した。彼は最晩年にはある種の精神疾患が疑われるようにも思われる。このエピソードの引用元を知りたい。識者の御教授を乞う。

「小撚り」「こより」。紙縒(こよ)り。]

 芋錢は狐狸の業(わざ)かと自ら話したさうだが、眉山のは自分の庭で、狐狸が特伎を揮ひさうな舞臺でもない。明治藝苑の大家に似たやうな現象のあつたことは、「三州奇談」を讀む興味を更に深いものにする。

 

鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介と盟友の画家小穴隆一の二人(ににん)句集で、大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句と小穴一游亭隆一の発句五十句から成るものとして発表されたものである。私は当該初出誌を所持せず、現認したこともないので断言は出来ないが、龍之介のものが「芥川龍之介」署名である以上、以下の小穴隆一分も「小穴隆一」署名と考えてよいと思う)。

 今回、小穴隆一の随筆集「鯨のお詣り」の全電子化注をブログで完遂したが、その中に小穴隆一分の「鄰の笛」が掲載されていた。そこで岩波書店の正字の旧「芥川龍之介全集 第九卷」の「詩歌」に載る「鄰の笛」の芥川龍之介分と、その小穴隆一分を合わせて、形の上での初出形を、推定復元したものが本テクストである。当該「芥川龍之介全集第九卷」の編者の「後記」によると、文末に「後記」で始まる一文があるとされているので、そこに載るその「後記」を小穴隆一分の後に配してみた。順序は芥川龍之介・小穴隆一とした。小穴隆一を前に持ってくることは改造社側が認めなかったであろうと推断したからである。また、柱がないとおかしいので、頭にそれぞれ「芥川龍之介」「小穴隆一」という署名を配した芥川龍之介のパートの最後に『――計五十句――』とあるので、同じものを小穴隆一パートの最後にも附してみた。くどいが、推定復元であって、初出実物は見ていないので注意されたい

 なお、大正十四年七月、芥川龍之介は、この二人句集「鄰の笛」掲載について以下のような記載を残している

 七月二十七日附小穴隆一宛葉書(旧全集書簡番号一三四八書簡)では、

「冠省 僕の句は逆編年順に新しいのを先に書く事にする、君はどちらでも。僕は何年に作つたかとんとわからん。唯うろ覺えの記憶により排列するのみ。これだけ言ひ忘れし故ちよつと」

とある。続く八月五日附小穴隆一宛一三五〇書簡では、

「あのつけ句省くのは惜しいが 考へて見ると僕の立句に君の脇だけついてゐるのは君に不利な誤解を岡やき連に與へないとも限らずそれ故見合せたいと存候へばもう二句ほど發句を書いて下さい洗馬の句などにまだ佳いのがあつたと存候右當用耳」

と続き、八月十二日附小穴隆一宛一三五四書簡では、

「けふ淸書してみれば、君の句は五十四句あり、從つて四句だけ削る事となる 就いては五十四句とも改造へまはしたれば、校正の節 どれでも四句お削り下され度し。愚按ずるに大利根やもらひ紙は削りても、お蠶樣の祝ひ酒や米搗虫は保存し度し。匆々。」

最後に八月二十五日附小穴隆一宛一三五八書簡で、

「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に候。」

となって、出版社関係の個人名が挙げられ、経緯と今後の対応が綴られている(ちなみに筑摩書房全集類聚版の同書簡では、ここが八十二字分削除されてある)。

 察するに、芥川龍之介は親友の小穴を軽く見た、『改造』編集者への強い不快感を持ったのである(それと関係があるやなしや分からぬが、翌大正十五年の『改造』の新年号の原稿を芥川は十二月十日に断っている。以上は私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で注した内容の一部に手を加えたものである)。

 なお、その経緯の中に現われる「大利根や」は以下の小穴隆一の、

 

大利根や霜枯れ葦の足寒ぶに

 

の句を、「もらひ紙」は、

 

よごもりにしぐるる路を貰紙

 

を、「お蠶樣の祝ひ酒」は、

 

ゆく秋やお蠶樣の祝ひ酒

 

を「米搗虫」は、

 

ゆく秋を米搗き虫のひとつかな

 

の句を指すから、当然と言えば当然乍ら、芥川龍之介の望んだ句は削除対象四句から外されていることが判る。さらに、「鯨のお詣り」の「鄰の笛」の後には、追加するように、

 

  小春日

蘇鐡(そてつ)の實(み)赤きがままも店(みせ)ざらし

 

  歳暮の詞

からたちも枯れては馬の繫(つな)がるる

 

ゆく年やなほ身ひとつの墨すゞり

 

  アパート住ひの正月二日

けふよりは凧(たこ)がかかれる木立(こだち)かな

 

四句が掲げられて、その後に前の「隣りの笛」を含めて『大正九年――大正十四年』のクレジットを打っている。このことから、小穴隆一が自分の五十四句の中から、芥川龍之介の五十句に合わせるために送られてきた「鄰の笛」校正刷で削除した四句は以上の四句である可能性が高いと私は考えている。

 芥川龍之介の「鄰の笛」は、既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」で電子化注しているが、今回、初学者向けに注を大幅に追加した。相同句や改稿句があり、それらについて注をしたものが「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」にあるので、それらも参照されたい。

 芥川龍之介と小穴隆一の友情の思い出に――【2017年2月27日 藪野直史】]

 

 

 

 鄰の笛

   ――大正九年より同十四年に至る年代順――

 

 

 

 芥川龍之介

 

 

竹林や夜寒のみちの右ひだり

 

木枯や目刺にのこる海のいろ

 

臘梅や枝まばらなる時雨ぞら

 

[やぶちゃん注:「臘梅」「らふばい(ろうばい)」と読む。双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ Chimonanthus praecox。中国原産。一月から二月にかけて、やや光沢を持った外側の花弁が黄色、内側中心にある花弁が暗紫色の、香りの強い花を開く。「梅」と附くが、バラ科サクラ属スモモ亜属ウメ Prunus mume の仲間と思われがちであるが、全くの別属である。唐の国から来たこともあり唐梅とも呼ばれ、また中国名も蠟梅であったことに因む。本草綱目」によれば花弁が蠟のような色であって尚且つ臘月(旧暦十二月の異名)に咲くことに由来するという(以上は主にウィキの「ロウバイ」の記載を参考にした)。]

 

お降りや竹深ぶかと町のそら

 

[やぶちゃん注:「お降り」「おさがり」と読む。元日又は三が日の雪又は雨を言う。新年の季語。]

 

  一游亭來る

草の家の柱半ばに春日かな

 

白桃の莟うるめる枝の反り

 

[やぶちゃん注:「白桃」は「はくたう(はくとう)」で桃(バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica)の品種水蜜桃の一種。明治三二(一八九九)年に岡山県で発見された。

「莟」「つぼみ」と読む。]

 

炎天にあがりて消えぬ箕のほこり

 

[やぶちゃん注:「箕」「み」と読む。穀物を篩(ふる)って、殻(から)や芥(ごみ)を分けるための農具。]

 

桐の葉は枝の向き向き枯れにけり

 

元日や手を洗ひをる夕ごころ

 

  湯河原

金柑は葉越しにたかし今朝の露

 

  あてかいな、あて宇治の生まれどす

茶畠に入日しづもる在所かな

 

白南風(しらばえ)の夕浪高うなりにけり

 

[やぶちゃん注:「白南風」は「しろはえ」とも読み、梅雨が明ける六月末ごろから吹く南風を言う。夏の季語。]

 

秋の日や竹の實垂るる垣の外

 

[やぶちゃん注:「竹の實」種によって大きく異なるが、竹類(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科 Bambusoideae)は非常に長いスパン(六十年から百二十年周期)で開花し、尖塔状部の頭にごく小さな実をつけ、全個体が枯死する。人間の寿命から見ると非常に珍しい現象に見え、竹林全体(同一個体群であることから)や同一種群が大規模に共時的且つ急速に衰滅することから、鼠が多量に発生するとか、広く凶事の前兆ともされてきた。タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides で百二十年周期とされ、地球規模で一九六五年から一九七〇年頃に一斉開花したことから、次期の開花は孟宗竹(タケ亜科マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla forma pubescens)で推定六十七周期と言われる(但し、事実上の確認は二度しかなされていない)。私は確かに小学校六年の終り、一九六八年の冬に裏山で沢山のそれを見た。先っぽには米粒のような小さな白い実が入っていた。次期の真竹の開化は二〇九〇年前後、私はもう、いない。]

 

野茨にからまる萩のさかりかな

 

荒あらし霞の中の山の襞

 

  洛陽

麥ほこりかかる童子の眠りかな

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の中国特派を素材とした随想「雜信一束」の「十 洛陽」を参照されたい(リンク先は私の注釈附電子テクスト)。]

 

秋の日や榎の梢(うら)の片なびき

 

[やぶちゃん注:「梢(うら)」「末」とも書く。「梢(こずえ)」と同義で枝先のこと。]

 

 

  伯母の言葉を

薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

 

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)二月一日発行の雑誌『女性』に、全集後記によると「冬十題」という大見出しで掲載された(これは諸家十人の冬絡みの小品と言う意味であろう)、「霜夜」参照とある。該当部分をすべて以下に引用する。太字「はんねら」は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

        霜 夜

 

 霜夜の句を一つ。

 いつものやうに机に向かつてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寢ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉ぢ、それからあした坐り次第、直に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の始末をする。はんねらの瓶に鐵瓶の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黑くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸氣ももやもやと立ち昇る。何か樂しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床は次の間にとつてある。次の間も書齋も二階である。寢る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。今夜もそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外を通りかかると、六十八になる伯母が一人、古い綿をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。

 「伯母さん」と云ふ。「まだ起きてゐたのですか?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寢るのだらう?」と云ふ。後架の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる。風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。ただ寒い夜に封じられてゐる。

     薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

 

   *

「はんねら」とは南蛮焼の一種で、江戸時代に伝わった、無釉又は白釉のかかった土器。灰器としては、普通に用いられたようである。]

 

庭芝に小みちまはりぬ花つつじ

 

  漢口

ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏

 

[やぶちゃん注:先に引いた「雜信一束」の「二 支那的漢口」では、この句を示す前の本文に「漢口」に対して「ハンカオ」とルビしている。ここでもそう読むべきであろう。

「籃」は「かご」。

「巴旦杏」は「はたんきよう(はたんきょう)」と読む。これは本来は、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウPrunus dulcis、所謂「アーモンド」のことを言う。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではないように私は思う。実は中国から所謂「スモモ」が入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏(ぼたんきょう)」・「巴旦杏(はたんきょう)」という字が当てられてきた。従って、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicina の意でこれを用いていると考えるのが妥当であると私は考えている。]

 

  病中

赤ときや蛼鳴きやむ屋根のうら

 

[やぶちゃん注:「赤とき」は「曉(あかつき)」に同じい。

「蛼」は「いとど」。本来、狭義には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ Diestrammena apicalis を指すが、本種は無翅で鳴かないので、ここは、剣弁亜目コオロギ上科 Grylloidea のコオロギ類を指すと読んでよかろう。]

 

唐黍やほどろと枯るる日のにほひ

 

[やぶちゃん注:「唐黍」「たうきび(とうきび)」で玉蜀黍(とうもろこし)のこと。

「ほどろ」は、はらはらと散るさまであるが、ここでは唐黍の穗のほおけたさまを指すのであろう。]

 

しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり

 

[やぶちゃん注:「堀江」は大阪市の真ん中、道頓堀と長堀の間にある地名。堀江堀がそこを南北に分けていて、待合茶屋が多かった。]


  再び長崎に遊ぶ

唐寺の玉卷芭蕉肥りけり

 

[やぶちゃん注:唐寺は唐四箇寺とも呼ばれ、中国様式建築の顕著な崇福(そうふく)寺・興福寺・福済(ふくさい)寺・聖福(しょうふく)寺の四寺があるが、これはその中で最も古いとされる崇福寺と思われる。]

 

木の枝の瓦にさはる暑さかな

 

蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花

 

  一游亭を送る

霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

 

  園藝を問へる人に

あさあさと麥藁かけよ草いちご

 

山茶花の莟こぼるる寒さかな

 

  菊池寛の自傳體小説「啓吉物語」に

元日や啓吉も世に古簞笥

 

[やぶちゃん注:「啓吉物語」は大正一三(一九二三)年二月に玄文社より出版されたもの。岩波版新全集「隣の笛」の本句の注解で山田俊治氏は『「啓吉」「雄吉」「準吉」などの作者を思わせる人物[やぶちゃん補注:作者とは菊池。]を主人公にして、その幼年期から学生時代、そして結婚生活を描いた短編を収録。この句はその表紙を飾る』とあり、更に「世に古簞笥」については『「世に経(ふ)る」を掛ける。』とし、太祇(該当注解では「祗」を用いているがこれは誤りである)の「元日の居ごころや世にふる疊」『を参考にして新婚の菊池の箪笥が古くなるように、啓吉物も一巻になったことを祝す』歳旦句と解説している。]

 

雨ふるやうすうす燒くる山のなり

 

  再び鎌倉の平野屋に宿る

藤の花軒ばの苔の老いにけり

 

[やぶちゃん注:(京都の平野屋の支店)」現在の鎌倉駅西口の、私の好きな「たらば書房」から、市役所へ抜ける通りの右側一帯にあった平野屋別荘(貸別荘。旧料亭。現在の「ホテルニューカマクラ」(旧山縣ホテル)の前身)。「京都の平野屋」は愛宕街道の古道の一の鳥居の傍らで四百年の歴史を持つ鮎茶屋のことと思われる。京都でも私の特に愛する料亭である。]

 

  震災の後、增上寺のほとりを過ぐ

松風をうつつに聞くよ夏帽子

 

春風の中や雪おく甲斐の山

 

[やぶちゃん注:『改造』初出はこれ但し、この句、底本の岩波旧全集では、芥川龍之介の他でのこの句の上五が総て、

 

春雨の中や雪おく甲斐の山

 

となっていることから、誤植と判断して改めている(後記からの推定)。確かに「春風」では句としても変である。]

 

竹の芽も茜さしたる彼岸かな

 

風落ちて曇り立ちけり星月夜

 

小春日や木兎をとめたる竹の枝

 

[やぶちゃん注:「木兎」は「づく(ずく)」或いは「つく」で、所謂、「ミミズク」のこと。鳥綱フクロウ目フクロウ科 Strigidae のフクロウ類の内、羽角(うかく。兎に「耳」のように毛が立っている部分)を持つ種の総称である。古名は「つく」であるが、ここは「ずく」と読みたい。]

 

切利支丹坂は急なる寒さ哉

 

[やぶちゃん注:「切利支丹坂」現在の文京区小石川にあった切支丹屋敷近くの急坂。現行では「庚申坂」の方が一般的。サイト「東京坂道ゆるラン」の「謎多き数々のキリシタン坂」に江戸時代から現代に至る地図と詳しい解説が載る。「切支丹坂」と呼ばれた場所は複数あり、リンク先を見ると、文京区公認の切支丹坂が如何にもそれらしいが、しかし、芥川龍之介がそこを確かに名指していると明確な断定は出来ぬ。]

 

初午の祠ともりぬ雨の中

 

乳垂るる妻となりつも草の餠

 

[やぶちゃん注:大正十三年五月二十八日付室生犀星宛旧全集書簡番号一一九八書簡によれば、五月十五日に犀星の世話で兼六公園内の茶屋三芳庵別荘に二泊した旅での詠吟の改作。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄) 附 辞世」を参照されたい。]

 

松かげに鷄はらばへる暑さかな

 

[やぶちゃん注:「鷄」は「とり」。鷄(にわとり)。]

 

苔づける百日紅や秋どなり

 

[やぶちゃん注:「百日紅」はフトモモ目ミソハギ科サルスベリ属サルスベリ Lagerstroemia indica であるが、音数律から見て、音の「ひやくじつこう(ひゃくじつこう)」で読んでいよう。]

 

 

  室生犀星金澤の蟹を贈る

秋風や甲羅をあます膳の蟹

 

  一平逸民の描ける夏目先生のカリカテユアに

餠花を今戸の猫にささげばや

 

[やぶちゃん注:「一平逸民」漫画家岡本一平。「逸民」(いつみん)とは、世を逃れて気楽に暮らしている人のこと。この句については芥川龍之介の「澄江堂雜詠」(リンク先は私の電子テクスト)の『四 「今戸の猫」』の本文と私の注を参照されたい。

「カリカテユア」カリカチュア(英語:caricature:イタリア語語源)。戯画・漫画・風刺画の意。]

 

明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす

 

[やぶちゃん注:「ちろり」は銅や真鍮製のお燗に用いる容器。筒形や円錐形で下の方がやや細く、注ぎ口と取手とがある。この句も芥川龍之介の「澄江堂雜詠」の「二 ちろり」参照されたい。]

 

  寄内

臀立てて這ふ子おもふや笹ちまき

 

[やぶちゃん注:「寄内」は漢文表記で「内(ない)に寄す」で、妻への贈答句の意。]

 

日ざかりや靑杉こぞる山の峽(かひ)

 

臘梅や雪うち透かす枝のたけ

 

[やぶちゃん注:この句も芥川龍之介の「澄江堂雜詠」の「一 臘梅」を参照されたい。]

 

春雨や檜は霜に焦げながら

 

鐵線の花さき入るや窓の穴

 

[やぶちゃん注:「鐵線」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 連センニンソウ属 Clematis subgenus Clematis亜属Clematis section Viticella Clematis subsection Floridae テッセン Clematis florida。原産地は中国で、現地では「鉄線蓮」と呼ばれ、本邦への移入は万治四・寛文元(一六六一)年~寛文一一(一六七一)年頃とされる。]

 

            ――計五十句――

 

 

 

 小穴隆一

 

 

  信濃洗馬にて

雪消(ゆきげ)する檐(のき)の雫(しづく)や夜半(よは)の山(やま)

 

[やぶちゃん注:「洗馬」は「せば」と読む。中山道の宿名。現在の長野県塩尻市洗馬。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

伸餅(のしもち)に足跡つけてやれ子ども

 

雨降るや茸(たけ)のにほひの古疊(ふるだたみ)

 

百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り

 

  雨日

熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

 

けふ晴れて枝(えだ)のほそぼそ暮(くれ)の雪

 

  庚申十三夜に遲るること三日 言問の

  渡に碧童先生と遊ぶ

身をよせて船出(ふなで)待つまののぼり月(づき)

 

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、前書を改行した。以下、長いものでは同じ仕儀をした。以下、この注は略す。

「庚申十三夜」旧暦九月十三日の十三夜に行う月待(つきまち)の庚申(こうしん)講(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事)。但し、ここの「庚申」とは、その定日や狭義の真の庚申講(庚申会(え))を指すのではなく、ただの夜遊びの謂いと思われる。

「言問の渡」「こととひのわたし」。浅草直近東の、現在の隅田川に架かる言問橋(ことといばし)の附近にあった渡し場。架橋以前は「竹屋の渡し」と称した渡船場があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

薯汁(いもじる)の夜(よ)から風(かぜ)は起(た)ち曇(くも)る

 

山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)

 

[やぶちゃん注:「山鷄(やまどり)」鳥綱キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii を指すが、ここは広義の山野の鳥の謂いで、必ずしも同種に限定する必要はなく、もっと違う小型の山野鳥のように思われる。

「霞網(かすみ)」二字へのルビ。]

 

手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉

 

  厠上

木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「厠上」後でルビを振っているが「しじやう(しじょう)」と読み、「厠(かわや)にて」の意。]

 

鳥蕎麥(とりそば)に骨(ほね)もうち嚙むさむさ哉

 

わが庭をまぎれ鷄(どり)かや殘り雪

 

  暮秋

豆菊(まめぎく)は熨斗(のし)代(がは)りなるそば粉哉

 

[やぶちゃん注:「豆菊(まめぎく)」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヒナギク属ヒナギク Bellis perennis のことか。]

 

籠(かご)洗ひ招鳥(をどり)に寒き日影かな

 

[やぶちゃん注:「招鳥(をどり)」は現代仮名遣「おとり」で、「媒鳥」「囮」の字を当てる。鳥差しに於いて仲間の鳥を誘い寄せるために使う、飼い慣らしてある鳥のこと。「招き寄せる鳥」の意である「招鳥(おきとり)」が転じたものとも言われる。秋の季語である。]

 

  冬夜 信濃の俗 鳥肌を寒ぶ寒ぶと云ふ

寒(さ)ぶ寒ぶの手を浸(ひた)したる湯垢(ゆあか)かな

 

雉(きじ)料理(れう)る手に血もつかぬ寒さかな

 

壜(びん)の影小窓に移す夜寒(よさむ)哉

 

鶴の足ほそりて寒し凧(いかのぼり)

 

大利根(とね)や霜枯(しもが)れ葦(あし)の足(あし)寒(さ)ぶに

 

尺あまり枝もはなれて冬木立(ふゆこだち)

 

まろまりて落つる雀の雪氣(ゆきげ)哉

 

  三の輪の梅林寺にて

厠上(しじやう) 朝貌(あさがほ)は木にてかそけき尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「三の輪の梅林寺」現在の東京都台東区三ノ輪にある曹洞宗華嶽山梅林寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「厠上」は電子化した通り、句上部に同ポイントで入る。但し、これは句の一部ではなく、句意を強調するために前書とせずに句頭に掲げたもので、或いは小穴隆一はポイントを小さくする予定だったものかも知れぬ。似たような用例は芭蕉の名句、

 狂句こがらしの身は竹齋(ちくさい)に似たる哉(かな)

は言うに及ばず、後の芥川龍之介の大正一五(一九二六)年九月の『驢馬』「近詠」欄初出形、

 破調(はてう) 兎(うさぎ)も片耳垂(かたみみた)るる大暑(たいしよ)かな

でも見られる。そこでは芥川龍之介は「破調」のポイントを落している。但し、後に龍之介はこれを前書に移している。]

 

  すでに冬至なり そこひの伯父は

  庭鳥の世話もづくがなければ賣つ

  ぱらふ

餌(ゑ)こぼしを庭に殘せる寒さかな

 

[やぶちゃん注:「そこひ」漢字では「底翳」と書き、視力障害を呈する眼疾患の広く指す古語。現在でも以下の眼疾患の俗称として用いられている。「白そこひ」(白内障)・「青そこひ」(緑内障)等。

「づくがなければ」こちらの記載によれば長野方言のようである(現代仮名遣では「づく」は「ずく」のようである)。「億劫でそれをする気が起こらない・根気がない・やる気が続かない」といった感じの意味合いを持つものと考えてよい。

「庭鳥」「にはとり」。鷄。]

 

連れだちてまむしゆびなり苳(ふき)の薹(たう)

 

[やぶちゃん注:「まむしゆび」別名「杓文字(しゃもじ)指」とかなどと呼ばれるが、医学的には「短指症(たんししょう)」と称し、指が正常より短い形態変異を広く指す。爪の縦長が短く、幅があって、横に爪が広がっているような状態に見える。実際には手の指より足の指(特に第四指)に多く見られ、成長とともに目立つようになるという。女性に多く見られる遺伝的要因が大きいとされる先天性奇形の一種であるが、機能障害がない限り(通常は障害は認められない)は治療の対象外である。ここは蕗の薹を採るその手(兄弟の子らか)であるから、手の指、特に目立つ親指のそれかも知れぬ。一万人に一人とされるが、私は多くの教え子のそれを見ているので、確率はもっと高く、疾患としてではなく、普通の他の個体・個人差として認識すべきものと考える。ここは姉妹か兄弟か、孰れにせよ童子をキャスティングするのがよい。]

 

  望郷

四五日は雪もあらうが春日(はるひ)哉

 

庭の花咲ける日永(ひなが)の駄菓子(だぐわし)哉

 

  端午興

酒の座の坊(ぼう)やの鯉(こひ)は屋根の上

 

桐の花山遠(とほ)のいて咲ける哉

 

夏の夜の蟲も殺せぬ獨りかな

 

豌豆(ゑんどう)のこぼれたさきに蟆子(ぶと)ひとつ

 

[やぶちゃん注:「蟆子(ぶと)」「蚋」(ぶゆ・ぶよ)に同じい。昆虫綱双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae に属するブユ類の総称。体長は標準的には二~八ミリメートルで蠅に似るものの小さい種が多い(但し、大型種もいる)。体は黒又は灰色で、はねは透明で大きい。♀の成虫は人畜に群がって吸血し、疼痛を与える。これ自体も(「豌豆」は夏)夏の季語である。]

 

餝屋(かざりや)の槌音(つちおと)絶ゆる夜長かな

 

  澄江堂主人送別の句に云ふ 

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

  卽ち留別の句を作す

木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や

 

  望郷

山に咲く辛夷(こぶし)待つかやおぼろ月

 

しやうぶ咲く日(ひ)のうつらうつら哉

 

庭石も暑(あつ)うはなりぬ花あやめ

 

  長崎土産のちり紙、尋あま少なるを貰ひて

よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

 

  大正十二年正月脱疽にて足を失ふ

  松葉杖をかりて少しく步行に堪ふるに

  及び一夏を相模鎌倉に送る 小町園所見

葉を枯(か)れて蓮(はちす)と咲(さ)ける花(はな)あやめ

 

[やぶちゃん注:「小町園」鎌倉の現在の横須賀線ガードから東北部分にあった料亭。芥川龍之介が独身の時から贔屓にしていた。なお、後にここの女将(おかみ)となった野々口豊(とよ)は既婚者であったが、龍之介と彼女とは間違いなく関係があったと推定され、彼女に龍之介は心中を懇請した可能性も深く疑われている。]

 

  短夜

水盤に蚊の落ちたるぞうたてなる

 

[やぶちゃん注:「水盤」(すいばん)は底の浅い平らな陶製又は金属製の花活け。楕円形や長方形のものが多く、盛り花や盆栽・盆景などにも使用される。夏の季語。]

 

  平野屋にて三句

藤棚の空をかぎれをいきれかな

 

山吹を指すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ)

 

月かげは風のもよりの太鼓かな

 

  思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

 

[やぶちゃん注:「鯨のお詣り」の「游心帳」で前書にルビを振っており、「思遠人」は「ゑんじんをおもふ」で、「祕露」は「ペルー」。

「蒔淸遠藤藤兵衞」遠藤古原草(こげんそう 明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名は清平衛。「蒔淸」は「まきせい」でその組み合わせによる、一種の綽名であろう。「海紅」同人で、前に出た小澤碧堂や、また小説家仲間の滝井孝作(俳号・折柴)の紹介で知り合った。]

 

しぐるるや窓に茘枝の花ばかり

 

[やぶちゃん注:「茘枝」は「れいし」で、ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis。花はこれ(ウィキ画像)。]

 

  よき硯をひとつほしとおもふ

ゆく秋を雨にうたせて硯やな

 

  せつぶんのまめ

よべの豆はばかりまでのさむさかな

 

みひとつに蚊やりうち焚く夜更けかな

 

笹餅は河鹿(かじか)につけておくりけり

 

[やぶちゃん注:「河鹿」これは奇異に思われる向きもあろうが、私は断然、これは両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri であると思う。その何とも言えぬ美声を賞玩するために人に贈ったのである。これは近代まで嘗ては普通に季節の贈答として行われていたからである。]

 

ゆく秋やお蠶樣(かひこさま)の祝ひ酒

 

ゆく秋を米搗(こめつ)き虫(むし)のひとつかな

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属する小型昆虫の総称。但し、和名を「コメツキムシ」とする種は存在しない。仰向けになると自ら跳ねて音を立てて元に戻る種が多く、それが米を搗く動作に似ていることからの呼称である。]

 

            ――計五十句――

 

 

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

柴田宵曲 妖異博物館 「手を貸す」

 

 手を貸す

 

 忙しい時に人手を借りるのは普通の話で、昔の人は猫の手も借りたいなどとよく云つたものだが、さういふ一般的な意味でなしに、實際に手を借りる話が二つある。

「耳囊」に見えてゐるのは、小日向邊住む水野家の祐筆を勤める者が、或日門前に出てゐると、通りかゝつた一人の出家が、今日はよんどころない事で書の會に出なければならぬ、あなたの手をお貸し下さい、と云つた。祐筆は更に合點が往かず、手を貸すといふのは如何樣の事かと尋ねたが、別に何事もない、たゞ兩三日貸すといふことを、御承知下されば宜しいのぢや、といふ。怪しみながら承知の旨を答へた後、主人の用事で筆を執るのに一の字を引くことも出來なくなつてゐた。兩三日すると、前の出家がやつて來て禮を述べ、何も御禮の品もないからと云つて、懷中から紙に書いたものを取出し、もし近郷に火災があつた節は、この品を床の間に掛けて置けば、必ず火災を免れます、と告げて去つた。祐筆の手は元の通りになり、貰つた紙は主人が表具して持つて居つたが、その後度々の火災に水野家はいつも無事であつた。或時藏へしまひ込んで、床の間へ掛ける暇が無かつたら、住居は全部燒失し、怪しげな藏だけが一つ殘つた。

[やぶちゃん注:以上は「耳嚢卷之一」のコーダ百話目の「怪僧墨蹟の事」で、個人的に好きな話柄である。私の電子化訳注でお楽しみあれ。]

「三養雜記」にある祥貞和尚の話は、室町時代の事だから大分古い。順序はほゞ同じで、或時天狗が來て和尚の手を暫く借りたいといふ。手を貸すのはお易い御用だが、引拔いて行かれたりしては困ると答へると、そんなことではない、貸すとさへ云へばそれでいゝのだ、といふ挨拶である。それなら貸さうと云つた日から、和尚の手は縮んで伸びなくなつた。あたりの人々は、和尚の事を手短かの祥貞と呼ぶに至つたが、三十日ばかりしたら、天狗がまた來て、拜借の手はお返し申すと云ひ、火防(ひぶせ)の銅印を一つくれた。和尚の手は忽ち舊に復し、火防の銅印を得たせゐか、和尚の書もまた火防の役に立つと評判された。

[やぶちゃん注:「三養雜記」のそれは、「卷之二」の「天狗の銅印」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣の一部に誤りがあるがそれは底本のママである。

   *

下野国字都宮のほとりに、東盧山盛高寺といふ精舍あり。第四世を祥貞和尚といひて、永平十一世の法裔、文明、明応のころ、此寺に住職たり。永正八年遷化といへり。さてかの祥貞和尚の手かく技に拙からざりしが、ある時、天狗の来りていへるは、和尚の手をしばしがほど、借うけ申たきよし、達て所望なりと云。和尚こたへていふ、手をかさんことは、いと心やすき望なれど、引ぬきてもち行れんことなどは諾なひがたし。さるのぞみならば、ゆるしたまはれといひけれは、天狗云、さにはあらず。たゞ借すとさえいはゞ、それにてこと足れりといへば、さらば借しまゐらすべしといふに、彼天狗謝してかへりぬ。それより後、和尚の手、いつとなくしゞまりてのびず。さればあたりの人々、和尚を手短の祥貞とあだなしてよびたりとかや。三十日ばかりすぎて、天狗再び來りて、さいつ頃、借申したる手を、返し申よしいひて、火防の銅印一枚を贈りて歸りしとぞ。その後、和尚の手、もとの如くにのびたりといへり。祥貞和尚の書も亦、火防になるよしいへり。この一条は、外岡北海、かの地に遊歷のをりから、きゝたりとて話なり。

 且火防の銅印の押たるも、そのころ贈られたり。

Tengunodouin

   *

文末にその銅印の印影があるので、トリミングして上に掲げておいた。「永正八年」は一五一一年である。但し、「三養雜記」は江戸時代の随筆家・雑学者であった、かの滝沢馬琴らの耽奇会・兎園会の常連、山崎美成(寛政八(一七九六)年)~安政三(一八五六)年)の、天保一一(一八四〇)年巻末書記の考証随筆なので、勘違いされぬように。

「耳嚢」の出家の正體は何とも書いてないが、「三養雜記」の方は明かに天狗になつてゐる。手を借りられた者が字が書けなくなり、禮にくれるものが火防の役に立つあたり、二つの話は同類項に屬すと見てよからう。人間なら代筆を賴めば濟むところを、實際に能書の人の手を借りて行くのは、人間より自在なるべき天狗の方が、この却つて融通が利かぬらしい。

2017/02/26

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の爪」

 

 天狗の爪

 

 因幡國高草郡荒田村の百姓嘉右衞門なる者が、六十六部に出て越中の立山に登山した時、山の半腹に年頃十五六歳ばかりの童子が現れた。宗右衞門に一物を渡し、これは天狗の爪甲である、これを紙に捺して家の内に貼つて置けば、火難、盜難、一切の災厄を遁れることが出來る、お前は信心深い者だから、これを與へる、と云つた。その後姿を見送つてゐると、俄かに山鳴り谷響き、大木倒れ大石轉び、大地震動したが、暫くにして夢がさめたやうになつた。山中に何の別條もない。世にいふ天狗倒しとはこれだらうと思はれた。宗右衞門は後年になつて、その時附與された物を見せてくれたが、その形は失の根に似、色は瑠璃紺にしてビイドロの如く、表裏すき通つて見える。如何さま天狗の爪甲でなければ、世にこんなものはあるまいと思はれる不思議なものであつた。

[やぶちゃん注:「因幡國高草郡荒田村」「高草」は「たかくさ」と読む。荒田村は認められない。但し、旧高草郡は現在の鳥取市の一部に相当し、現在の鳥取県鳥取市良田(よしだ)に荒田神社という神社がある。ここと関係があるか?

「六十六部」狭義には、「法華経」六十六部分を書き写して日本全国の六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧を指した。鎌倉時代から流行が始まり、江戸時代には遊行(ゆぎょう)聖以外に、諸国の寺社に参詣する巡礼者をも指すようになり(ここはそれ)、白衣に手甲・脚絆・草鞋掛けという出で立ちで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠を被った独特の姿で国を廻った。後にはそうした巡礼姿ながら、実際には米や銭を請い歩いた乞食も多く出た。単に「六部」とも呼称する。

「爪甲」そのまま音読みすると「さうかふ(そうこう)」。「つめ」のこと。]

「雪窓夜話抄」の著者が、この天狗の爪を見せられたのは、寶曆元年三四月の頃と書いてあるが、大田南畝の「一話一言」にも天狗の爪に關し「民生切要錄」を引いてゐる。能登の石動山の林中に天狗の爪といふものがある。色靑黑く、長さ五分ばかり、石のやうで、先は尖り、後の幅が廣く、獸の爪に似てゐる。土地の人は雷雨の後などに、林の中でこれを拾つて來る。これを水中に投じてその水を飮むと、瘧(こり)を患ふ者は癒える。倂し何物であるかわからない。思ふに金石の類なので、人誑(あざむ)いて神物とするか、とある。

[やぶちゃん注:これは「雪窓夜話抄」の「卷六」の「天狗の爪の事幷に其の解釋」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。

「寶曆元年」一七五一年。

『大田南畝の「一話一言」』幕府御家人で支配勘定でありながら、狂歌師でもあり、天明期を代表する文人であった大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)の随筆であるが、全五十六巻もの大著である。私は所持しない。複数の画像データベースで見られるが、調べる気力が湧かぬ。悪しからず。

「民生切要錄」元禄五(一六九二)年成立で、恒亭主人守株子なる人物の纂輯になること以外は不明。妖怪関連の記載があるらしい。

「五分」一・五センチメートル。]

 越中も能登も北陸道で鄰り合つた國だから、似たやうな云ひ傳へがあつても不思議はない。雨後の林中で拾つて來るといふ點から見れば、雨のために土中から現れるものの如くであるが、特に雷雨と斷つてあるのは、雷との間に何かの連關を認めたのかも知れぬ。

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の夜宴」

 

 天狗の夜宴

 

 どこの飛脚であつたか、二人連れで箱根を踰えようとした時、寂然たる夜更けの山上に當り、何か人聲が聞える。不審に思ひながら行くうちに、路傍に幕を打ち𢌞してあるところに出た。中は數人群宴の體で、或は舞ひ、或は歌ひ、或は賑かな絃聲が聞える。路は幕に遮られて進むことが出來ないので、二人は相談の上、幕の中に向つて、急ぎの者でございます、何卒こゝをお通し下さい、と聲をかけた。幕の中から聲がして、通りなされい、といふ。恐る恐る幕の中に入つた(と思ふと、今まであつた幕は忽ち消滅し、笑語も歡聲も絶えて、物音もない深山の中に立つて居つた。二人は驚いて走り過ぎたが、暫く來れば、絃歌人聲またもとの如くである。振り返つて見ると、最初の通り幕が張られてゐる。二人は益々驚き、飛ぶが如く走り續けて、漸く人家のあるところへ出た。世にいはゆる天狗なる者がこれであらう、といふことになつてゐる(甲子夜話)。

[やぶちゃん注:「踰えよう」「こえよう」。越えよう。

 以上は「甲子夜話卷之廿三」の十条目の「飛脚、箱根山にて怪異に逢ふ事」である。以下に示す。「闌」は「たけなは」(ここは深夜の意)、「交起り」は「こもごもおこり」、「故」は「もと」(元)、「疾行」は「とくゆき」と読む。「顧望すれば」は私は「かへりみすれば」と訓じたい。

   *

何れの飛脚か二人づれにて箱根を踰けるとき、夜闌に及びひとしほ凄寥たる折から、山上遙に人語の喧々たるを聞く。二人不審に思ひながら行くに、程なく山上の路傍、芝生の處に幕打𢌞し、數人群宴の體にて、或は酔舞、或は放歌、弦聲交起り、道路張幕の爲に遮られて行こと能はず。二人相言て曰。謁を通じて可ならんと。因て幕中に告ぐ。幕中の人應て云ふ。通行すべしと。二人卽幕に入れば幕忽然として消滅し、笑語歡聲も絶て寂々たる深山の中なり。二人驚き走行くに、やゝありて弦歌人聲故の如し。顧望すれば幕を設くること如ㇾ初。二人益々驚き、疾行飛が如くにしてやうやく人居の所に到りしと。これ世に所謂天狗なるものか。

   *]

 鎌倉圓覺寺の誠拙和尚が、南禪寺の招きによつて上京し、暫く逗留して居つたが、その時寓居の院は、南禪寺の山中でも嶮しい峯の下に在つた。然るに和尚の逗留中、晴れて月のいゝ晩などには、時時深更に及んで、峯頭に數人で笛を吹き、太鼓を鳴らし、歌舞遊樂の聲が何時間も聞える。この峯頭は尋常人の至るところでないから、初めのうちは從者なども怪訝に堪へなかつたが、一山中の故老の話によれば、昔からこの山中に吉事がある時は、必ず峯頭に歌舞音曲の聲が聞える、これは守護神が歡喜するのである、といふことであつた。守護神は卽ち天狗である。「甲子夜話」はこの話の末に「印宗和尚話」の五字を註してゐる。

[やぶちゃん注:「誠拙和尚」誠拙周樗(せいせつしゅうちょ 延享二(一七四五)年~文政三(一八二〇)年)は伊予生まれの傑出した臨済僧で歌人としても知られた。円覚寺の仏日庵の東山周朝に師事し、その法を継ぎ、天明三(一七八三)年に円覚寺前堂首座に就任した。書画・詩偈も能くし、茶事にも通じ、出雲松江藩第七代藩主で茶人としても知られた松平不昧治郷とも親交があった。香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。文政二(一八一九)年に相国寺大智院に師家として赴任したが翌年、七十六で示寂した。(以上は思文閣の「美術人名事典」及びウィキの「誠拙周樗に拠った)。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五年上になるが、同時代人である。

「印宗和尚」不詳。明山印宗という法力抜群の禅僧がいるが、誠拙周樗より前の人物であるから、違う。

 以上は「甲子夜話卷之六十四」の三条目、「南禪寺守護神」である。東洋文庫版を参考に、恣意的に正字化して以下に示す。後半の漢文部分は訓点を除去したもの(句読点は残した)をまず示し、後に〔 〕で訓点に従って(一部に訓点の脱落が疑われるところがあり、そこは参考底本のそれに従わずに訓読し、また句読点はオリジナルに変えて増やしてある)書き下したもの(一部に推定で読みを歴史的仮名遣で附し、送り仮名の一部や記号もオリジナルに加えた)を示した。特に「自爾」の箇所は参考底本では「自ㇾ爾となっているが私は全く従わずに二字で「おのづから」と読んだ)。「淹留」は「えんりう(えんりゅう」と読み、長く同じ場所に留まること、滞在の意。「頻」は「しきり」と読む。二箇所の「ノ」はママ。【 】は原典の割注。参考底本では漢文の末に鍵括弧閉じる配されて、本文が続くが、改行した。

   *

享保辛酉[やぶちゃん注:享保年間に辛酉(かのととり)の年はない。享保二(一七一七)年丁酉(きのととり)或いは享保六(一七二一)年辛丑(かのとうし)の誤りであろう。]の夏、鎌倉圓覺寺の誠拙和尚、京都南禪寺の招に依て上京淹留す。このとき寓居の院は、南禪の山中嶮峰の下に在り。然るに和尚淹留中、晴天月夜などには、時々深更に及び峰頂にして數人笛を吹き、鼓を鳴し、歌舞遊樂の聲頻なること數刻。この峰頂は尋常人の至る處にあらず。因て初は從徒もあやしみ驚きたるが、山中の古老曰ふには、この山中、古代より吉事ある時は、必ず峰頂に於て歌舞音曲の聲あり。これ守護神の歡喜する也と。守護神は天狗なりと言傳ふ【印宗和尚話】。

『高僧傳』云。正應間、龜山上皇在龍山離宮、妖怪荐作、妃嬪媵嬙屢遭魅惑。上皇大惡之、乃集群臣議其事。僉曰。此地妖怪聞之久矣。非佛法力、決不可治。於是命南北高德。百計無效。時西大睿尊律師有戒行譽。勅棲宮闈。尊率沙門二十員、晝夜振鈴誦咒。至三閲月。而妖魅尚驕、投飛礫於護摩壇。尊不辭而退。群臣奏門德望【釋普門號無關。東福ノ開山聖一國師ノ弟子。逝年八十。嘉元間、勅諡佛心禪師。元亨三年、加賜大明國師】。乃召下宮。且宣曰。卿能居乎。門奏曰。妖不勝德。世書尚有之。況釋氏乎。釋子居之。何怪之有。上皇壯其言、勅有司俾門入宮。門但與衆安居禪坐、更無他事。自爾宮怪永息。上皇大悦、乃傾心宗門、執弟子禮、習坐禪受衣鉢。因革宮爲寺。雖梵制未備、特勅門爲開山始祖。後來伽藍具體。號三太平興國南禪禪寺。

〔『高僧傳』に云く、正應の間、龜山の上皇、龍山の離宮に在(おは)すに、妖怪、荐(しきり)に作(なし)て、妃嬪媵嬙(ひひんようしやう)、屢(しばしば)魅惑に遭ふ。上皇大(おほい)に之れを惡(にく)み、乃ち、群臣を集めて其の事を議す。僉(みな)曰く、「此の地の妖怪、之れを聞くこと久し。佛法の力に非ずんば、決して治むべからず。」と。是に於いて南北の高德に命ず。百計、效(かう)、無し。時に西大睿尊(えいぞん)律師、戒行(かいぎやう)の譽(ほまれ)有り。勅して宮闈(きうゐ)に棲(す)ましむ。尊、沙門(しやもん)二十員を率(ひき)ひ、晝夜、鈴を振り、咒(じゆ)を誦(とな)ふ。三たび月を閲(み)るに至る。而れども、妖魅、尚ほ驕(おご)り、飛礫(とびつぶて)を護摩壇に投ず。尊、辭せずして退(しりぞ)く。群臣、門の德望を奏す【釋の普門、無關と號す。東福の開山聖一國師の弟子。逝(ゆけ)る年、八十。嘉元の間、勅して佛心禪師と諡(おくりな)す。元亨三年、加へて大明國師と賜ふ】。乃(すなは)ち下宮に召し、且つ、宣(せん)して曰く、「卿(けい)、能く居(をら)んや。」と。門、奏して曰く、「妖は德に勝たず。世書(せいしよ)にも尚ほ之れ有り。況んや釋氏をや。釋子、之れに居(を)る。何の怪か、之れ、有らん。」と。上皇、其の言を壯(さう)とし、有司(いうし)に勅して門をして宮に入らしむ。門、但だ、衆と安居禪坐(あんごぜんざ)し、更に他事(たじ)無し。自爾(おのづから)、宮怪、永く息(や)む。上皇、大いに悦び、乃(すなは)ち、心を宗門に傾け、弟子の禮を執り、坐禪を習ひ、衣鉢(いはつ)を受く。因りて宮を革(あらた)め、寺と爲(な)す。梵制、未だ備はらずと雖も、特に勅して、門、開山(かさん)・始祖と爲す。後來(こうらい)、伽藍(がらん)體(てい)を具(そな)ふ。「三太平興國南禪禪寺」と號す。〕

然れば怪此時より有しなり。今は還て穩なるは太平の號、由る所あり。

   *

亀山天皇が譲位して上皇となったのは文永一一(一二七四)年一月で、彼は嘉元三(一三〇五)年に亡くなっているので、その間の出来事となる。文中の「妃嬪媵嬙」は皇后の次席が「妃」でその次が「嬪」、以下、「媵」「嬙」と続くが、これは一般に女官級である。「睿尊」(建仁元・正治三(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)「叡尊」とも書く。律宗僧。大和の出身。当初は密教を学んだが、後に戒律復興を志して奈良西大寺を復興。蒙古襲来の際には敵国降伏を祈願して神風を起こしたと伝えられる。貧民救済などの社会事業を行い、また殺生禁断を勧めた。「宮闈」は宮中で后妃の居所。後宮。「釋の普門、無關」は臨済僧大明国師無関玄悟(むかんげんご 建暦二(一二一二)年~正応四(一二九二)年)。信濃出身で「南禅」と号した。京の東福寺の円爾(えんに)の法を継いだ。建長三(一二五一)年宋に渡海、断橋妙倫の印可をうけて十二年後に帰国、後に東福寺三世となった。ここに書かれている通り、亀山上皇の離宮に出る妖魅を鎮めたことから、その離宮を改めて創建したこの南禅寺の開山として招かれた。「普門」は房号。「壯」は「強いこと」。「有司」は役人。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(3)/「天狗の誘拐」~了

 天狗のところから戻る徑路は、本人にも不明瞭なのが多いやうだが、中にはそこに一くさり話の加はつてゐるのがないでもない。江戸白金の瑞聖寺にゐた七助といふ男は、朝飯を焚いてゐるうちに行方不明になつた。六年ばかりたつて、七助が紛失したその月その日に、門前に罵り騷ぐ人聲が聞えるので、何事かと寺僧が出て見ると、遠かなる空中より、一むらの黑雲の如きものが次第に地に下りて來る。やがて瑞聖寺の庭に落ちたのは大きな蓮の葉であつた。その中にうごめく者があるのを開けば、七助が茫然として這ひ出した。一兩日經て彼の語るところを聞くに、或僧に伴はれて天竺まで行つた、その土地の人物言語、甚だ異樣である、たまたま火事があつて大騷ぎになつた時、この蓮の實の中に入つてゐよ、と云はれ、包んで抛り出されたと思つたが、その後は何も覺えてゐないといふのである(譚海)。

[やぶちゃん注:「瑞聖寺」「ずいしょうじ」(現代仮名遣)と読み、現在の東京都港区白金台三丁目にある黄檗宗系禅宗寺院である紫雲山瑞聖寺。本尊は釈迦如来。創建は寛文一〇(一六七〇)年で開山は本邦の臨済宗黄檗派(黄檗宗)第二代の明の渡来僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年:江戸時本山黄檗山萬福寺開山で黄檗宗祖隠元隆琦(一五九二年~寛文一三(一六七三)年:福建省福州福清県生まれ。萬福寺は生地福清の古刹)の弟子)。江戸時代は幕末まで江戸黄檗宗の中心寺院として壮大な伽藍を誇った。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「譚海」の「卷の二」にある「江戸白銀瑞聖寺什物(じふもつ)天竺蓮葉の事」。この話はかなり有名なもので、私が「譚海」電子化の底本としている一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂注版の注によれば、これに基づいた多数の伝承が存在するらしい。読みは私が推定(歴史的仮名遣)で添えて以下に示す。「苒々」はオノマトペイア(擬態語)。二箇所の「覺へ」はママ。
   *

○江戸白銀瑞聖寺は、黃檗山(わうばくさん)の旅宿寺也。瑞聖寺に年來(としごろ)勤め居たる男七助と云(いふ)もの、一日朝飯焚(たき)ゐたるが、そのまゝ跡をかくし行方なし。月日を經(ふ)れば入水(じゆすゐ)などせしにやなど皆々申(まうし)あひたるに、六年過(すぎ)て七助うせたる其月のその日に、門前にて人ののしりあざむ事甚し。何事にやと寺僧も出(いで)て見るに、遙(はるか)なる空中より一むら黑雲の如きもの苒々(ぜんぜん)に地へ降る、是をみて人騷動する也。さて程なく空中のものくだり來て瑞聖寺の庭に落たり、大なる蓮の葉也。その内にうごめく物有(あり)、人々立寄(たちより)て開きみれば件(くだん)の七助茫然として中より這出(はひいで)たり。奇怪なる事いふばかりなし。一兩日過(すぎ)て、七助人心地(ひとごこち)付(つき)たる時、何方(いづかた)より來(きた)るぞと尋(たづね)たれば、御寺に居たるに僧一人來りて天竺へ同伴せられしかば、共に行(ゆく)と覺えしに、さながら空中をあゆみて一所に至る時、其所の人物言語共に甚(はなはだ)異也(ことなり)、天竺なるよし僧のいはれしに、折しも出火ありてさはがしかりしかば、此僧われにいはるゝ樣(やう)、この蓮の葉に入(いり)てあれと入(いれ)たれば、やがて包みもちて投(なげ)すてらるゝと覺へし、その後(のち)何にも覺へ不申(まうさず)といひけり。此蓮の葉は天竺の物なるべし、八疊敷程ある葉也。寺庫に收(をさめ)て今にあり、蟲干の節は取出(とりいだ)し見する也。此七助その後八年程ありて七十二歳にして寺にて卒したり。此蓮の葉彼寺の蟲干の節行逢(ゆきあひ)て、正しく見たる人の物語也。

   *

この話、個人的には好みである。]

 加藤嘉明の家來小嶋傳八の一子に惣九郎といふのがあつたが、十一歳の春の末に行方不明になつた。百方搜索しても更にわからぬ。唯一の手がかりといふべきは、古手屋甚七なる者が、朝早く店戸をあけると、大山伏が二人、惣九郎を中に挾み、前後に立つて東に向ひ道を急いで來る、一人の山伏が甚七のところへ來て、この邊に十歳ばかりの子供の穿く草鞋の質物はないかと尋ねたので、無いと答へたらそれきりどこかへ行つてしまつた、といふ報告だけである。傳八夫婦は天狗にさらはれたものとし、妙法寺の日覺上人といふ大德に祈禱を乞うた。早速護摩壇を飾り、法華坊主二十人ばかりで讀經祈禱を續けるほどに、滿願の七日の晝中、一點の雲もない青空にぽつりと小さい物が見えた。見物の諸人は山をなして、いづれもこれを仰いでゐると、東の方より大鳶一羽來つて、これをさらひ取らうとすることが度々であつたが、一羽の金色の鴉がどこからか現れて、この鳶を隔てて近付かせぬ。だんだん地に下つて來て、三十番神の壇に落ちたのを見れば、紛れもない小嶋惣九郎であつた(老媼茶話)。

[やぶちゃん注:「加藤嘉明」(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で大名。豊臣秀吉の子飼衆で賤ヶ岳の七本槍一人。伊予松山藩・陸奥会津藩の初代藩主。

「小嶋傳八」不詳。

「古手屋」「ふるてや」と読み、古着や古道具を売買する店。

「三十番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。

 以上は「老媼茶話」の「卷の三」の、ズバリ、「天狗」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して以下に示す。但し、そこでは小島傳八の主君を『加藤嘉成』とする。実名表記を憚った意識的変更か。最後の「空氣」は「うつけ」と読む。

   *

 加藤嘉成の士に小嶋傳八一子惣九郎、十一の春の暮、何方へ行けるかかひくれて見へす。さまさま尋見れ共、行衞更に知れす。傳八夫婦鳴悲しみ、佛神へきせいをかけ御子・山伏を賴み、色々祈願なす。甲賀丁に古手屋甚七といふもの、傳八方へ來り申けるは、「是の惣九郎樣廿日斗前の曉頃、我等用事有てはやく起、見せの戸をひらき候折、大山伏兩人跡先に立、惣九郎樣を中にはさみ、東へ向きて道をいそき候か、壱人の山伏我等か方へ参り、「此辺に十斗成子共のはくへきわらちのうりものは、これなきや否や」と申。「無」と答へ候へは、夫よりいつく江行候や、姿を見失ひ申候」と語る。

 傳八夫婦聞て、「扨は天狗にさらわれたるもの也」とて、其頃妙法寺の日覺上人といふたつとき出家を賴、五の町車川の端に護摩壇をかさり、法家坊主弐拾人斗にて經讀祈禱する。七日にまんする日中、一點の雲なき靑天虛空にちいさき物見ゆる。見物の諸人山をなして空を見るに、東より大とび壱羽飛來り。是をさらい取んとする事度々なり。時に壱羽金色の烏何方共なく飛來り。此鳶を隔て近つけす、段々に地にくたり、間近く見るに人なり。三拾番神の壇に落たるを見るに、小嶋惣九郎也。諸人奇異の思ひをなし、其頃、日覺上人をは佛の再來也と諸人沙汰せしといへり。惣九郎は一生空氣に成、役にたゝさりしと也。

   *]

 この歸還の模樣は、前の瑞聖寺の七助の話と相通ずるものがある。たゞ違ふのは、七助が七十二まで瑞聖寺にながらへたといふのに、惣九郎は一生うつけのやうになつて物の役に立たなかつたといふ點である。

 以上の誘拐談と少し型の違ふのが「雪窓夜話抄」に出てゐる。西野午之進といふ人が讚岐に居つた頃、乳母が三四歳ばかりになる甥を抱いて、日の暮れ方門外に居るところ、山伏が一人やつて來て、さてもよい生れつきである、この子はよい相を備へてゐる、ちよつと抱かせられい、と云つて抱き取るが早いか、飛鳥の如く見えなくなつた。乳母は泣きわめいて追駈けたが、更に行方知れず、父母も午之進も四方に人を出して搜させたけれども、その踪跡は杳として不明であつた。それから十五六年たつて、三四人連れの山伏が、午之進に逢ひたいと云つて訪ねて來た。不審に思ひながら座敷に通すと、上席に坐つた山伏が、こゝに居る若者は正しくあなたの甥である、成長の樣をお目にかけようと存じ、これまで連れて參つた、よくよく御覽なされい、と云ふ。午之進は感淚に堪へかね、その手を執つて父母にも逢はせ、せめて一兩日も逗留させたいと云つたが、人家に宿る者ではないと云つて承知しない。煮焚きしたものは一切食はぬといふので、瓜などを出してもてなした。午之進はその後因幡へ來て主取りをしたが、或時百姓が摩尼山へ薪を採りに行くと、山伏が七八人、摩尼の奧の院、立岩のあたりに休んでゐる。そのうちの一人が百姓に向ひ、當國に西野午之進といふ人が居る筈だが、今も息災であるか、と尋ねた。無事の旨を答へたら、今に武運長久の祈念を怠らぬと、午之進殿に傳へて貰へぬか、といふ。御名はと聞いても、名は申すに及ばぬ、自分は午之進の甥だから、さう云へばわかる、たゞ何となく傳へて貰ひたい、と云つて立ち去つた。午之進は百姓からこの話を聞いて幾度かうなづき、自分の甥は天狗になつて、この御國へも來たに相違ない、と答へた。

[やぶちゃん注:「踪跡」(そうせき)は「蹤跡(しょうせき)」に同じい。行方(ゆくえ)の意。

「主取り」(しゆうどり(しゅうどり))は、新たに主人に仕えることや武士などが主君に召し抱えられることを指す。

「摩尼山」(まにさん)は現在の鳥取県鳥取市にある山。標高三百五十七メートル。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「雪窓夜話抄」の「卷上」の「卷一」にある「西野午之進が甥の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のと次で視認出来る。]

 この話の中で常に午之進が登場し、兩親は陰になつてゐるのは、午之進に子がなくて特にその甥を可愛がつたとか、ゆくゆくは養子に貰ふ約束があつたとか、何か事情がなければなるまい。甥が因幡まで來て午之進の安否を問ひ、武運長久を祈つてゐるなどといふのも、單なる叔姪の關係ではなささうに思はれるが、「雪窓夜話抄」はこの點には少しも解れずにゐる。

[やぶちゃん注:「叔姪」「しゆくてつ(しゅくてつ)」と読み、叔父と姪又は甥のこと。]

 

2017/02/25

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)

 天狗に誘拐される話は、「四不語錄」「黒甜瑣語」「續道聽塗説」「梅翁隨筆」「耳囊」等に記されてゐるが、天狗とあるだけで、畫にあるやうな鼻高の姿などはない。登場するのはきまつて山伏である。知らぬ間に遠隔の地に伴はれ、未知の山川を見て歸る。山伏でなくても、不思議な人物に出遭ひ、忽ちのうちに戾つて來るといふのが多いやうに思ふ。たゞ少し變つた例として、「甲子夜話」の記載を一つ擧げて置きたい。

 嵯峨の天龍寺に近い遠離庵といふ尼寺に、十九になる初發心の尼が居つたが、或時尼達四五人連れで、近くの山へ蕨採りに行つたところ、庵へ歸つて見ると、十九の尼だけがゐない。途中で災難に遭つたか、狐狸にでもたぶらかされたかと心配して、皆で祈禱などをしてゐるうちに、それから三日ほどたつて、淸瀧村の木樵が山中の溪川で、若い尼が衣を洗つてゐるのを見かけた。顏色も靑ざめてゐるので、どうしてこんな山奧に來たか、と尋ねたら、自分は愛宕山に籠つてゐる者だと答へる。木樵がいろいろと賺(すか)して淸瀧村まで連れ歸り、遠離庵へ知らせて來たから、その夜駕籠で迎へにやつた。その尼は實體な無口の者であつたのに、庵へ歸つて後も、頻りに大言壯語して人を罵る。飯を三椀ほど山盛りにして食べると、そこに仆れて、その後は鎭靜に還り、最初からの話をした。蕨を採つてゐるうちに、年頃四十ばかりの僧が杖をついて近付いて來た。その言葉に從ひ、杖を持ち眼を塞いでゐたら、大分遠いところへ來たと覺しく、金殿寶閣などが見えた。團子のやうなものを與へられたが、非常に旨く、更に空腹を感じなかつた。僧は尼に向ひ、そなたは貞實な者であるから、愛宕へ往つて籠れば善い尼になれるであらう、追々方々見物させる、讚岐の金毘羅へも參詣させるなどと云つた。庵に歸つた翌日も、あの坊さんがおいでになつたと云つたが、他の人には何も見えぬので、天狗の所爲といふことに定め、尼は親旦に歸すことにした。「甲子夜話」はこの記事の末に「或人云ふ、これまでは天狗は女人を取り行かぬものなるが、世も澆季に及びて、天狗も女人を愛することになり行きたることならんか」といふ評語を插んでゐる。

[やぶちゃん注:「遠離庵」「おんりあん」と読んでおく。「厭離」と音通するからである。

「淸瀧村」現在の京都市右京区嵯峨清滝町。ここは「嵯峨の天龍寺」現在の右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)の臨済宗霊亀山天龍寺(清滝の南方)とを測っても直線で三キロほどしか隔たっていない。失踪して三日後に発見された場所が、何百キロも離れた場所ではなく、樵しか入らぬ奥深き渓谷とはいえ、あまりに近くて、妖異の「ヨ」の字も感じられない

「澆季」「げうき(ぎょうき)」と読む。「澆」は「軽薄」、「季」は「末」の意で原義は「道徳が衰え、乱れた世」で「世も末だ」と嘆息するところの「末世」を指す。単にフラットな「後の世・後世・末代」の意もあるが、ここで静山が言っているのは、鎖国で閉塞して爛れきった江戸時代の末期の世相を前者として捉えていたものでもあろう。

 以上は「甲子夜話」の「卷之四十九」の第四十条目の「天狗、新尼をとる」である。「哺時」は午後の非時(ひじ)である「晡時」は音は「ほじ」で申(さる)の刻。現在の午後四時頃を指す。また広く「日暮れ時」を言うので、ここは「ひぐれどき」と訓じている可能性もある。但し、私はここは尼寺でのシチュエーションであるからには、「晡」ではなく「時」(ホジ:食事の時間。本来は仏僧は午前中一回の食事しか摂らず、それを「斎(とき)」と称するが、それでは実際にはもたないので、午後に正規でない「非時」として晩飯を摂る)の誤記であると(同じく午後四時頃になる)注すべきかと考える。「少尼」は「わかきあま」と読む。「芴然」は「こつぜん」で「芴」は野菜、特に蕪(かぶら)の類。柴田は菜っ葉の真っ青に意でとっているが、或いは根茎の白さで青白い謂いかも知れぬ。

   *

嵯峨天龍寺中瑞応院と云より、六月の文通とて印宗和尚詰る。天龍寺の領内、山本村と云に尼庵あり。遠離庵と云。その庵に年十九になる初發心の尼あり。この三月十四日晡時のほどより、尼四五人て後山に蕨を採にゆき、歸路には散行して庵に入る。然るに新尼ひとり歸らず。人不審して狐狸のために惑はされしか、又は災難に遭しかと、庵尼うちよりて祈禱宿願せしに、明日に及でも歸らず。その十七日の晡時比、隣村淸滝村の樵者薪採にゆきたるに、深溪の邊に少尼の溪水に衣を濯ふ者あり。顏容芴然たり。樵かゝる山奥に何かに、して來れりやと問へば、尼我は愛宕山に寵居る者なりと云。樵あきれて彼れをすかして淸滝村までつれ還り、定めしかの庵の尼なるべしと告たれば、其夜駕を遣はして迎とりたり。尼常は実体なる無口の性質なるが、何か大言して罵るゆゑ、藤七と呼ぶ俠氣なる者を招て、これと對させたれば、尼還る還る云て、去らば飯を食せしめよと云ふ。乃食を與へたれば、山盛なるを三椀食し終り卽仆れたり。其後は狂亂なる體も止て、一時ばかりたちたる故、最初よりのことを尋問たれば、蕨を採ゐたる中、年頃四十ばかりの僧、杖をつきたるが、此方へ來るべしと言ふ。。その時何となく貴く覺へて近寄りたれば、彼僧この杖を持候へと云て、又眼を眺ぐべしと云しゆゑ、其若く爲たれば、暫しと覺へし間に遠方に往たりと見へて、金殿寶閣のある處に到り、此所は禁裡なりと申し聞かせ、又團子のやうなる物を喰ふべしとて與へたるゆゑ、食ひたる所、味美くして今に口中にその甘み殘りて忘られず、且少しも空腹なることなし。又僧の云ひしは、汝は貞實なる者なれば、愛宕へ往きて籠らば善き尼となるべし。近々諸方を見物さすべし。讚岐の金比羅へも參詣さすべしなど、心好く申されたるよし云て、歸庵の翌日も又、僧の御入じやと云ゆゑ、見れども餘人の目には見へず。因てこれ天狗の所爲と云に定め、新尼を親里に返し、庵をは出せしとなり。或人云ふ。是まで天狗は女人は取行かぬものなるが、世も澆季に及びて、天狗も女人を愛することに成行たるならんか。

   *

この話、私は全く妖気(ようい)を感じない寧ろ、佯狂(ようきょう)を疑う善意に解釈するなら、このなったばかりの若き尼は、実は尼になりたいなどとは思っていなかったか、同じ修行の尼僧らとの関係に於いて実は激しいストレスを持っていたことから、一種の精神的な拘禁反応による心因性精神病からヒステリー症状を発し、突発的に山中へ遁走してしまい、保護されて庵に戻ってからも病態が変化しただけで、遂には幻視(僧の来庵)を見るようになっただ、と診断出来なくもないが、それより全部が芝居と考えた方が遙かにずっと腑に落ちる静山の最後の皮肉も実はそうした悪心をこの尼の心底に見たからではあるまいか、とも思われるのである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」 (1)

[やぶちゃん注:本話は特異的に長く、注も長くなったので、分割して示す。]
 

 天狗の誘拐

 

 天狗にさらはれた話は、江戸時代の書物にいろいろあるが、その内容は必ずしも一樣でない。「甲子夜話」に記されてゐるのは、東上總の農夫の子で、後に松浦邸内の下男になつた者の話であるが、この男は子供の時分天狗に連れて行かれた經驗を持つてゐる。七歳の時の祝ひに、馬の模樣を染めた著物を著て、氏神の八幡宮に詣でたところ、その社の邊で山伏に誘はれ、それきり行方不明になつた。子供の事ではつきりわからぬが、八年ばかりたつた時、前の山伏が、お前の身はもう不淨になつたからと云つて、相州の大山に置いて行かれた。里人がそれを見付け、腰の札に記された國郡等により、宿(しゆく)送りで家に歸つた。不思議な事には、七歳の時に著て出た馬の模樣の著物は少しも損じてゐなかつたさうである。爾來三年は家に居つたが、十八歳の時、前の山伏が迎へに來て、また連れて行つた。この時は背に負ひ、目を瞑つて居れと云つて、帶の如きものが眉にかゝると思つたら、風の音の中を行くやうで、やがて越中の立山に著いて居つた。こゝに天狗界に關する種々の見聞が記されてゐるが、長くなるから省略する。

[やぶちゃん注:「宿送り」は既注であるが、再掲しておく。特別な身分の者や行路病者などを、町内の自身番や宿(しゅく)役人などの責任に於いて、順に隣りの正規宿へ送り届けるシステムを指す。

 以上は「甲子夜話卷之七十三」の第六条「天狗界の噺(はなし)」である。柴田がカットした部分も含め、総て以下に示す(これぞ、私の注の本領発揮たる所以である)。《 》部は原典の欄外注記、【 】は割注。一部に参考底本(平凡社東洋文庫版一九七八年刊。但し、新字体)版組の関係上、二箇所で改行の有無が不明な箇所があったが、前後の記載法と内容から、孰れも改行した。

   *

我邸中の僕に、東上總泉郡中崎村《泉『和名鈔』云。上總國夷灊(イシミ)郡。灊『説文』水出巴郡宕渠西南シテ入ㇾ江。○中崎村、同書。同郡長狹(ナカサ)。蓋此處》の農夫源左衞門、酉の五十三歳なるが在り。この男嘗天狗に連往れたりと云。その話せる大略は、七歳のとき祝に馬の模樣染たる着物にて氏神八幡宮に詣たるに、その社の邊より山伏出て誘ひ去りぬ。行方知れざるゆゑ、八年を經て佛事せしに、往ざきにて前の山伏、汝が身は不淨になりたれば返すと云て、相州大山にさし置たり。夫より里人見つけたるに、腰に札あり。能く見れば國郡其名まで書しるせり。因て宿送りにして歸家せり。然るに七歳のとき着たりし馬を染たる着物、少しも損ぜざりしと。これより三ケ年の間はその家に在しが、十八歳のとき嚮の山伏又來り云ふ。迎に來れり。伴ひ行べしとて、背に負ひ目を瞑(ネム)りゐよ迚、帶の如きものにて肩にかくると覺へしが、風聲の如く聞へて行つゝ、越中の立山に到れり。この處に大なる洞ありて、加賀の白山に通ず。その中塗に二十疊も鋪らん居所あり。ここに僧、山伏十一人連坐す。誘往し山伏名を權現と云ふ。又かの男を長福房と呼び、十一人の天狗、權現を上坐に置き、長福もその傍に坐せしむ。此とき初て乾菓子を食せりと。又十一人各口中に呪文を誦する體なりしが、頓て笙篳篥の聲して、皆々立更りて舞樂せり。

かの權現の體は、白髮にして鬚長きこと膝に及ぶ。温和慈愛、天狗にてはなく僊人なりと。かの男諸國を𢌞れる中、奧の國は昔の大將の僊となりし者多しと。

又伴はれて鞍間、貴船に往しとき、千疊鋪に僧達多く坐しゐたるに、參詣の諸人種々の志願を申すを、心中口内にあること能く彼の場には聞ふ。因て天狗議す。其の願は事當れり。協へつかはすべし。某は咲ふべし。或は癡愚なり迚、天狗大笑するも有り。又は甚非願なり。協ふべからずとて、何にか口呪を誦すること有るもありと。

又諸山に伴はれたるに、何方にても天狗出來て、劍術を慣ひ兵法を學ぶ。かの男も授習せしとぞ。又申樂、宴歌、酒客の席にも伴なはれ往しと。師天狗權現は毎朝天下安全の禱とて勤行せしと。

又或時、昔一谷の合戰の狀を見せんと云こと有しときは、山頭に旌旗返翻し、人馬の群走、鯨波の聲、その場の體、今何にも譬へん方なしと。妖術なるべし。

又世に木葉天狗と云者もあり。彼境にてはハクラウと呼ぶ。此者は狼の年歷たるがこれに成るとぞ。定めし白毛生ぜし老物なるべければ、ハクラウは白狼なるべし。

又十九歳の年、人界へ還す迚、天狗の部類を去る證狀と兵法の卷軸二つを與へ、脇指を帶させ、袈裟を掛けて歸せしとぞ。

始め魔界に入しとき着ゐたりし馬の着服、幷に兵法の卷軸と前の證狀と三品は、上總の氏神に奉納し、授けられし脇指と袈裟は今に所持せりと。予未ㇾ見。

又或日奉納せし卷物を社司竊に披き見しに、眼くらみ視ること協はず。因て其まゝ納め置しと。卷物は梵字にて書せりと。

又天狗何品にても買調る錢は、ハクラウ【白狼なり】ども薪など採り賣代なし、或は人に肩をかし抔して、その賃を取聚め、この錢を以て辨ずるとぞ。天狗は酒を嗜むと云。

又南部におそれ山と云高山あり。この奧十八里にして、天狗の祠あり。ぐひん堂と稱す【ぐひん、『合類集』云。狗賓、俚俗所ㇾ言。天狗一稱】。この所に毎月下旬信州より善光寺の如來を招じ、この利益を賴でハクラウの輩の三熱の苦を免れんことを祈る。そのときは師天狗權現その餘皆出迎ふ。如來來向のときは炬火白晝の如しと。

又源左衞門この魔堺にありし中、菓子を一度食して、常にもの食ふことなし。因て兩便の通じもなしと。

以上の説、彼僕の所ㇾ云と雖ども、虛僞疑なきに非ず。然ども所ㇾ話曾て妄ならず。何かにも天地間、この如き妖魔の一界あると覺ゆ。

   *

 

原典の「僊人」は仙人と同音同義であろう。]

 子供を連れて行くのは誘拐し易いためと思はれるが、同じ「甲子夜話」には四十一歳でどこかへ誘はれた男の話がある。兩國橋のあたりで氣持が惡くなつたといふだけで、如何なる者に誘はれたかも不明だけれど、氣が付いた時は信濃の善光寺の門前に立つて居つた。兩國橋の邊に行つたのが三月五日で、氣が付いたのは十月二十八日だから、半年以上經過してゐる。衣類はばらばらに破れ裂け、月代(さかやき)は伸びて禿のやうになつて居つた。幸ひ故郷の知人に出遭つたので、その人と一緒に江戸へ出たが、歸つて後も五穀の類は食はれず、薩摩芋だけ食つて居つた。厠に上る每に木の實の如きものが出たが、それが止むと穀食に還つた。この誘拐者を天狗らしく感ぜしめるのは、最後の穀食を嫌ふ一條である。これも上總の男で、松浦家の馬丁か何かであつたらしい。あまり似通ぎてゐるから、或は同一人ではないかといふ氣もするが、それにしては話の内容が一致せぬ。しばらく別人として置く。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話卷之三」の二十七条目の「上總人足、天狗にとられ歸後の直話」である。

   *

予が厩に使ふ卑僕あり。上總の産なり。此男嘗天狗にとられたると聞ば、或日自ら其ことを問に、奴云ふ。今年五十六歳、さきに四十一の春三月五日の巳刻頃、兩國橋のあたりにて心地あしく覺たる計にて、何なる者より誘れたるも曾て不ㇾ知。然して十月廿八日のことにて、信濃國善光寺の門前に不圖立居たり。それまでのことは一向覺ず。衣類は三月に着たるまゝ故、ばらばらに破さけてあり。月代はのびて禿の如なりし。其時幸に、故郷にて嘗て知し人に遭たる故、それと伴て江戸に出たり。其本心になりたる後も、食せんとすれば胸惡く、五穀の類は一向食れず。たゞ薩摩芋のみ食したり。夫より糞する每に木實の如きもの出て、此便止、常の如くなりてよりは、腹中快く覺て穀食に返しとなり。然れば天地間には人類に非るものも有るか。

   *]

 京都西洞院武者小路に宇兵衞といふ銀工があつた。享保十二年七月十四日の暮方、西陣に用事があると云つて出たきり歸らぬので、兩親をはじめ皆心配してゐると、三日目の五ツ時(午後八時)頃、無事に戻つて來た。彼の語るところによれば、あの日一條戾り橋のところで一人の僧に逢つた。前々から懇意の人のやうに會釋して、そなたは日頃大峯へ參りたい念願であつたが、何とこれから參詣なさらぬか、同道しよう、といふ。云はれるまゝに連れ立つて、東堀河を南へ下り、黑川又四郎といふ名高い狂言師の家の前に出た。宇兵衞と又四郎とはかねて親しい間柄で、將棋の仲間である。わしはこゝに待つてゐるから、中へ入つて將棋二三番さしておいでなさい、三番とも勝つやうにわしが祈念して進ぜる、と僧が勤めるので、宇兵衞は心得て案内を乞うた。又四郎の方では、夜中突然の訪問を多少不審に思つたやうであつたが、將棋と聞いて直ちに盤に向ふ。京中で二三のさし手と云はれる又四郎が、先づ平手、次に角落ち、更に飛車落ちで、三番立て續けに負けてしまつた。それから大峯をめぐり、吉野から伊勢に出、奈良、初瀨、龍田、法隆寺を一覽し、今度は東國の方を見物させよう、と云つて步いて來ると、向うから緋の衣を著た老僧が、五六十人も僧を隨へてやつて來る。老僧は此方の僧を見るなり、お前がその人を取り隱した爲、兩親の悲歎は一通りでない、早くもとのところへ還すがよい、と頭から叱り付けた。此方は一も二もなく恐れ入つて、老僧一行の姿が見えなくなるのを待ち、それでは故郷へ歸らせよう、と云つて一二町步いたと思ふ間もなく、こゝは一傑西の洞院ぢや、こゝまで來ればもう案内せずともよからう、と云ひ捨てたまゝ、どこかへ行つてしまつた。氣が付いて見れば慥かに一條西の洞院の辻なので、直ぐ家に歸つたといふのであるが、一座の者は一人も宇兵衞の言葉を信じない。今宇兵衞の話した名所古跡は、十四五日もかゝらなければ見物出來ない、それを三日で步いたなどといふのは、多分狐に化かされたのだらう、と云つて取り合はぬ。宇兵衞は大峯で共に登山した人、東大寺で逢つた人等の名を擧げ、それらの人が下向したら、聞いて見ればわかる、と主張する。果して彼が云ふ通りであつた。宇兵衞の遍歷は僅か三日間であつたが、その間に何か天狗から學び得たらしく、醫者の療治の叶はぬ病人などは、彼に加持せしめれば立ちどころに不思議の效驗があるので、宇兵衞の家は貴賤群集する盛觀を呈した。「雪窓夜話抄」の著者は、これを武者小路新町に住む名古屋玄二といふ人から聞いて、委しく書き留めてゐる。

[やぶちゃん注:「享保十二年」一七二七年。原典(後注参照)の条の擱筆に『享保丁未の事なり』とあるのによる。

「黑川又四郎」不詳。

 以上は「雪窓夜話抄」の「卷六」にある「天狗に誘はれて名所巡覽の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

 正德年間の話で、江戸神田鍋町の小間物屋の丁稚が、手拭を持つて錢湯へ出て行つたと思ふと、暫くして裏口に佇む者がある。誰だと咎めたら、今し方錢湯へ出かけた丁稚が、股引草鞋の旅姿で、藁苞(わらづと)を杖にかけてゐる。主人は驚いた樣子も見せず、先づ草鞋を解いて足を洗へ、といふ。丁稚は畏まつて足を洗ひ、臺所の棚から盆を出して來て、苞から出した野老(ところ)を積み、これがお土産でございます、と云つて差出した。今朝はどこから來たのかと聞くと、秩父の山中を今朝出ました、永々留守に致しまして、さぞ御事缺けでございましたらう、といふ返事である。愈々不審になつて、一體いつ家を出たのだと云へば、十二月十三日の煤掃(すすはき)の晩でございます、それから昨日まであの山に居りまして、每日お客の御給仕を致しました、お客は皆御出家ですが、昨日の話に、明日は江戸へ歸してやらう、土産に野老を掘るがいゝ、といふことで、これを掘つたのでございます、と答へた。倂しこの家では丁稚が煤掃の晩から姿を隱したことを誰一人知らなかつた。恐らく錢湯へ出かけるまで、誰かが身代りを勤めてゐたのであらう。話はこゝに至つて妖氣を帶びて來る。丁稚はその時十四五歳であつた(諸國里人談)。

[やぶちゃん注:「正德年間」一七一一年から一七一五年。先の享保の前。柴田にしては珍しい梗概の落としがあって、原典(後掲)では丁稚(でっち)が銭湯に行った日を『正月十五日』と明記してある。即ち、丁稚の本体が失踪していたのは二十九日或いは三十日(旧暦の正一ヶ月分)の間であったことがこれによって判る

「神田鍋町」現在の東京都千代田区神田鍛冶町三丁目。附近(グーグル・マップ・データ)。

「藁苞(わらづと)」藁を編んで物を包むようにしたもの。そこから転じて「土産物」の意ともなった。

「野老(ところ)」山芋。

「御事缺け」「ことかけ」は「ことかき」と同じで「必要な物を欠くこと」の意であるから、ここは御不自由(をおかけしたこと)の謂い。

 以上は「諸國里人談」の「卷之二」「四 妖異部」の「雇天狗」(天狗に雇はる)の一条。以下に示す。「調市」(「ちょういち」→「丁一」→「丁稚」)は「でつち」の当て字。オリジナルに歴史的仮名遣で読みを振り、直接話法を鍵括弧として改行、句読点も追加した。

   *

正德のころ、江戸神田鍋町(なべちやう)小間物(こまもの)商ふ家の十四五歳の調市(でつち)、正月十五日の暮かた、錢湯へ行(ゆく)とて、手拭など持出(もちいで)けり。少時(しばらく)して、裏口に彳(たたず)む人あり。

「誰ならん。」

と、とがむれば、かの調市なり。股引草鞋(ももひきわらぢ)の旅すがたにて、藁苞を杖にかけて、内に入(いり)けり。主人、了(さと)き男にて、おどろく体(てい)なく、

「まづわらんじを解(とき)、足をすゝぐべし。」

といへば、かしこまりて足をあらひ、臺所の棚より盆を出し、苞をほぐせば、野老なり。これを積(つみ)て、

「土産(みやげ)なり。」

とて出(いだ)しぬ。主人の云(いはく)、

「今朝(けさ)はいづかたよりか來れる。」

「秩父の山中を今朝出(いで)たり。永々(ながなが)の留主(るす)、御事かけにぞ侍らん。」

といへり。

「いつ、家を出たる。」

と問ふに、

「旧臘(きうらう)十三日、煤(すす)をとりての夜(よ)、かの山に行(ゆき)て、きのふまで其所(そこ)にあり。每日の御客にて給仕し侍り。さまざまの珍物(ちんもつ)を給はる。客はみな、御出家にて侍る。きのふ、仰せつるは、明日は江戸へかへすべし。家づとに野老をほるべし。」

とあるによつて、これを掘(ほり)ける、など語りぬ。その家には此もの、師走(しはす)出(いで)たる事を曾(かつ)てしらず。其(その)代(しろ)としていかなるものか化(か)してありけると、後にこそはしりぬ。其後何の事もなく、それきりにぞすみける。

   *

「旧臘」「臘月」は旧暦十二月の異名。去年の師走の謂い。]

 これと似たやうで違ふのが、「黑甜瑣語」にある秋田の話で、雄猿部(をさるべ)といふ深山の楠の梢に、百姓作之丞といふ者の屍が倒しまにかゝつてゐる。高い山の岨(そば)から深い谷へ垂れさがつた木なので、杣や木樵でも近寄ることは出來ない。たゞ遠くから見て、それらしいと云ふに過ぎなかつた。作之丞の家は無事に殘つて居つたが、或時昔の作之丞が突然歸つて來た。彼の物語りによれば、自分が四十歳に近い頃、山深く爪木を伐つてゐると、一人の大男がやつて來て、何か一つ二つ話すうちに、お前は過去が見たいか、未來が見たいかと云ひ出した。過ぎ去つた事は話にも聞けますが、行く末の事は壽命がなければ見られぬと思へば、ひとしほなつかしうございます、と答へたら、それでは今お前の命を縮め、八十年後に再生せしめて、更に三十年の壽命を與へよう、さうすれば百年後の世界が見られるわけだ、と云つて自分を見詰めた眼色の恐ろしさは何とも云ひやうがない。魂が消えるやうになつて、ひたすら詫言を云つたけれど、何事も宿業の致すところだ、と云つて自分は即座に縊られてしまつた。その後の事は固より何も知らぬが、此間ふと氣が付いて見ると、例の大男が側に居つて、自分を仰臥させ、絶身を按摩してくれた上、今こそ許して歸す、長い間木の上で苦しかつたらう、と云ひ、歸る道を教へてくれた。その山を出れば雄猿部の頂きであつた。山の木立、里の住居も變つたやうだが、自分の里に間違ひはない、と云つた。家人も訝しく思ふものの、過去の話をすれば悉く證據がある上に、前に見えた梢の屍が見えなくなつてゐるので、家の先祖として敬つたといふ話である。作之丞はそれから三十年たつて、正德の未に病死したといふから、彼が怪しい大男に逢つたのは百餘年前の勘定になる。

[やぶちゃん注:「雄猿部」現在の秋田県北秋田市七日市(なぬかいち)地区に「雄猿部川」という川名を現認出来る。であろう(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「黑甜瑣語」の「四編卷之三」の「雄猿部の尸(かばね)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗(慢心)」

 

 天狗(慢心)

 

 伏見が繁昌した頃といへば、無論豐臣氏の時代であらう。内野七本松で勸進角力を催された。勸進元の取手には、立石、伏石、荒浪、立浪以下三十人ほどあり、これに對する寄手は畿内をはじめ諸國から集まつた武士であつたが、いつも勸進元の勝になつた。この上は如何なる人にても、名乘り出る者があれば取り續ける、といふことになつたけれども、さて出て取らうといふ者は一人もない。その時、暫く角力をお待ち下され、お望みの方がござる、といふ聲が聞えたので、行司もその儀ならば早くお出なされ、といふ。果してどんないかめしい男が出るかと見てゐると、立出でたのは年頃二十歳ばかりの比丘尼である。行司の問ふのに答へて、私は熊野邊の者でございますが、常々若い方々が角力をお取りなさるのを見て居ります、今日もこゝで皆樣がお取りなさるのを羨ましく存じ出て參りました、女の身と申し、比丘の分際ではあり、歷々の方々が居竝んでおいでになりますので、まことにお恥かしうございます、と云つた。見物の人達も驚いたが、とにかく前代未聞の事であるから、早速取らせたらよからうと所望する。立石は苦笑して、かやうな微弱な者は十人も十五人も一つまみに出來る、自分が相手になるのは大人氣ないから、若い小角力に取らせたらよからう、と辭退したけれども、比丘尼は承知しない。いえいえ、どうせ取るならば、勸進元の上の方を出して下さい、それでなければ取りますまい、といふ。見物の貴賤も、それは面白い、立石取れといふことになつて、立石も仕方なしに土俵に上つた。比丘尼が帷子を脱いで出たのを見ると、下には縞のカルサンを著けてゐる。行司が兩方を合せ、立石が大手をひろげて立つのを、比丘尼がつツと飛び込んだと思つたら、立石の身體は仰向けに突き倒されて居つた。これは侮り過ぎて不覺を取つたと、その次は愼重に構へ、比丘尼の寄つて來る右手を捉へ、三度ばかり振り𢌞したが、比丘尼は驚かず、後脛を取つて、今度は仰向けに投げ倒した。滿場鬨の聲を揚げて囃したが、比丘尼の投げ口は電光石火の如く、立石に次いで出た角力も皆やられた。比丘尼はその後も各所の角力場に姿を現し、連勝の勢ひを見せた。これは葛城山の天狗が假りに比丘尼となり、力に驕る者どもの頭を押へたものと取沙汰された(義殘後覺)。

[やぶちゃん注:「内野七本松」現在の上京区下長者町通七本松西入鳳瑞町の内。(グーグル・マップ・データ)。

「帷子」「かたびら」。袷(あわせ)の「片ひら」の意で、裏を付けない衣服。単衣(ひとえ)。

「縞のカルサン」縞織りの「輕衫」(かるさん)。軽衫は袴の一種。筒が太く、裾口が狭いもの。裾には横布があってきゅっとしまっている。語源は「ズボン」の意のポルトガル語“calção”(音写「カァルソン」)。初期形態は渡来人のそのものであったが、次第に日本化してゆき、踏込袴・裁付(たっつけ)袴・山袴と酷似したものとなり、当初の括緒(くくりお)袴様(よう)のものから、裾に襞をとって幅の狭い横布を附けた形態へと変化した。縞は細かな縦縞であろう。

 これは「義殘後覺」の「卷五」の「比丘尼相撲の事」である。坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」のこちらにある電子テクストを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認しつつ、電子化する。一部にオリジナルに句読点・記号及び歴史的仮名遣による読みを附し、読み易さを考え、直接話法(心内語を含む)を改行した。

   *

京伏見、はんじやうせしかば、諸國より名譽のすまふども到來しけるほどに、内野七本松にて勸進すまふを張行(ちやうぎやう)す。くわんじんもとの取手にハ、立石・ふせ石・あらなみ・たつなみ・岩たき・そりはし・藤らふ・玉かつら・くろ雲・追風・すぢがね・くわんぬきなどをはじめとして、都合三十ばかり有けり。よりには京邊土畿内、さてハしよこくの武家よりあまりてとりけれども、さすかに勸進すまふをとるほどのものなれハ、いつにても、とりかちけり。寄手の人々、

「こはくちをしきかな、いかなる人もあらば、もとめて、取おほせたくこそ存づれ。」

など、ぎしける處に、ある日、立石、せきにいづるとき、行事、申(まうし)けるは、

「御芝居にすまふハつき申候や。もし、御望のかた御座候ハゝ、只今御出(おいで)候へ。さらば、なのり申(まうす)。」

と、よばゝりけれども、いでん、といふ人、壹人もなし。かゝる處に、ねずみ戸(ど)よりも、

「しばらく、相撲をは、まち給へ。御のぞみのかた御座候。」

と申ほどに、行事、

「そのぎならハ、はやく御出候へ。」

と申けれハ、いでにけり。人々、何たるいかめしき男なるらん、と見る所に、としの比(ころ)、はたち斗(ばかり)なる、びくになり。行事、

「こハいかなる人ぞ。」

と申けれハ、比丘尼(びくに)、申けるは、

「さん候。我ハ熊野あたりの者にて候が、常にわかき殿ばら、たちすまふをとらせ給ふを見および候によつて、人々とらせ給ふがうらやましさにまいりて候。女と申(まうし)、比丘と申、似合ぬ事にて候へハ、れきれきの殿ばらたち、並居(なみゐ)させ給へば、はつかしくこそ候へ。」

と申けれハ、芝居中(ぢう)、是をきゝてみれハ、いとやさしきあまなり。

「かゝる中へ、かやうの事をいふてすまふをのぞむハ、いかさま、きゝもおよばぬふしぎかな。いそぎあはせ給へ。」

といひけれハ、立石、申けるハ、

「かやうのびじやくなるものハ、十人も十五人も一つまみづゝにすべきに、いかで、それがし、おとげなくも、とるべきぞ。わかき小ずまふの候ハんに、あはせ給へ。」

といひけれハ、比丘、聞(きき)て、

「いやいや、とる程ならば、勧進本(もと)にてうわすまふをいたし給へ。さなくば、とるまじき。」

と申(まうす)。見物のきせん、これをきゝて、

「まことにおもしろし。立石、とれ。」

と一同に所望しければ、ちからなく、取(とり)にける。さて、びくに、かたびらをぬぎていでけるをみれハ、下には島(しま)のかるさんをぞきたりける。行事、すまふをあはするとき、立石、大手(おほで)をひろげて、

「やつ。」

といふて、かまへけれハ、びくにハ、つつ、と入(いり)て、あをのけにぞつきたをしける。芝居中、是を見て、あきれはてゝぞほめたりける。立石、くちおしくおもひ、

「なめ過(すぎ)てまけゝる。」

と思へば、こんどハ、小躰(こてい)にかまへてかゝる所に、比丘ハ、つゝ、と、よりけれハ、立石、弓手(ゆんで)のかいなをとつて、三ふりばかりふりけるか、ふられて、びくハ、うしろすねのおつとりをとつて、うつふさまにぞなげたりける。芝居中ハ、ときのこゑをつくつて、わらひけるほどに、しばしハ、なりもやまざりける。それより、もふせいし・くわんぬきなどいでゝとれども、後、次第に、びくにがなげぐちハ、でんくわう・いなびかりのごとくに、いかゝとるやらん、目にも見へず、手にもためずぞとつたりける。かくて、すまふハ此びくにせきをとられければ、芝居ハ則(すなはち)退散、それより又、伏見にて、くわんじんすまふありけるに、又、このびくにいでゝ、とりおほせけり。醍醐・大さかなどまて行(ゆき)て、世にすくれたる大すまふといへは、ひろひけるほどに、世中の人、

「これは、たゞものにてハあるまじき。」

と、おそれをのゝきけるが、後にきけは、かつらき山の天狗、おごるをにくみて、頭をおさんがために比丘となつてとりける、と、きこゆ。奇代の事と、さたしけり。

   *

文中の「ねづみど」は「鼠木戸(ねずみきど)」のこと。近世に於いて芝居・見世物などの興行場の観客の出入り口を指す。無料入場を防ぐためにわざと狭くしたことから、かく称した。]

 これは角力譚の一の型で、いろいろなものに出て來る。蕪村の「飛入の力者怪しき角力かな」や太祇の「勝逃の旅人あやしや辻角力」なども、當然この範疇に入るべきものである。角力ほど華々しくはないけれども、深川永代八幡の社地に爲朝明神の開帳があつた時、力自慢の男どもが集まつて、五十貫、七十貫、百貫の石を手輕に持ち、或は牛を舟に載せなどして見せた。その日も夕暮近くなつて、見物の人も散りかけた頃、二十四五歳の色白な瘦せ形の武士が出て、さてさていづれも珍しい大力である。某も聊か力があるつもりだが、まだこんな大石を試したことがない、一つ試して見たくなつたから、お許し願へまいか、と云つた。力自慢の面々は、その人の弱々しげな樣子を見て、笑ひながら、どうぞ御自由に、と云つたところ、武士は兩刀も取らず、羽織袴のまゝ、八十貫といふ大石を、何の苦もなく三度まで差上げ、音もなく地におろし、丁寧に一禮を述べて立ち去つた。力自慢の連中は呆然として一語も發せず、見物の中には天狗だらうといふ者もあつたが、後に聞くところによれば、四谷左門町の組屋敷に居る人だつたさうである(眞佐喜のかつら)。

[やぶちゃん注:「飛入の力者怪しき角力かな」岩波文庫版尾形仂(つとむ)校注「蕪村俳句集」(一九八九年刊)によれば、「とびいりのりきしやあやしきすまひかな」と読み、推定で明和七(一七七〇)年七月十一日の作とする。

「太祇」老婆心乍ら、炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の江戸生まれの俳人。まさに前の与謝蕪村とも交流があったとされる。

「勝逃の旅人あやしや辻角力」「かちにげのたびびとあやしやつじすまふ」或いは「つじすまひ」であろう。「辻角力」は大道芸人や好事の者らが道端で即席に興行した素人相撲のこと。早稲田大学図書館古典総合データベースので自撰「不夜菴太祇發句集」の当該句の影印が視認出来る。そこでは、

 

勝迯の旅人あやしや辻角力

 

となっている。

「眞佐喜のかつら」は以前に述べたように所持しないので原典を示せない。]

 前の角力の話は微弱な比丘尼が現れて、片端から投げ倒すところに驚異がある。後の力石にしても、色白の瘦男なるが故に效果を發揮する。かういふ人物の出現に際し、人は先づたゞ者でないと感じ、天狗の仕業であらうといふ結論に達するらしい。

 比丘尼の角力を傳へた「義殘後覺」は、別に武田信玄に就いてこんな話を書いてゐる。信玄に仕へた容顏美麗の少年があつた。小坊主にして茶堂重阿彌に預けたが、甚だ怜悧で信玄にも一方ならず寵愛を受けてゐた。或時この小坊主に茶を挽かせてゐると、若侍の中に口論がはじまり、物騷がしい物音がする。信玄これを聞いて、予が庭前にかゝる狼藉を仕るは何者か、一々討ち果すべしと云ふに、小坊主は緣の前の障子をあけて庭の樣子を見定め、十人ばかり入り亂れて斬合つて居る模樣でございます、と報告し、次の間に立てて置いた薙刀を持つて來た。薙刀ではいかぬ、弓を持つて參れと命じ、聲のする方角に矢を放つたら、それきり物音は聞えなくなつた。そこで信玄が、これは不思議である、予が明け暮れ弓箭の計り事を工夫するにより、胸中を測らんため、天狗がかゝる業(わざ)をして驚かすと見えた、人の所爲ではあるまいと云ふと、小坊主畏つて、御意御尤もに存じますると云ひ、その晩から姿が見えなくなつた。さては魔の所行疑ひなし、油斷あるべからずといふのであるが、この場合、信玄もやはり天狗に歸してゐる。庭前の物音ばかりではない、やんごとなき人の子なりといふその小坊主が已に怪しく思はれる。

[やぶちゃん注:「茶堂」原典もママであるが、後の高田衛氏のテクスト(後述)から、茶道と同義であることが判る。高田氏はこれを、広義の茶道ではなく、『茶道を以て仕える戰國大名の側近衆。伽の衆でもあった』と注され、職掌としてのそれであることを示しておられるから、だとすると「茶堂」とも呼んだものかも知れぬ。

「重阿彌」「じふあみ」。不詳。

 以上は「義殘後覺」の「卷三」の「五 小坊主、宮仕への事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここからでも視認出来るが、ここは岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(上)」(一九八九年刊)に載るものを参考底本としつつ、恣意的に漢字を正字化、直接話法部を改行して以下に示す。

   *

 或る時信玄公へ、やんごとなき人の子なりとて、年十五、六歳なる、容顏美麗の若衆を連れて參り、

「召し使はれ侯はばや」

と申し上げければ、信玄御覽ずるに、世に類なき美しきかたちなれば、召しおき給ひて、やがて頭を剃り、法師になして、茶道重阿彌にあづけ給ふ。

 かくて御腰元にて召し使はるるに、信玄公の御心をかさねて悟り、物ごとに先へ整のへて置くやうにしけるほどに、御意にいる事たぐひなし。かくて二年あまり宮仕へけるが、ある夜、信玄公、この小法師を召されて、茶を御前にて挽(ひ)かさせ給ふときに、御陣の内に、若侍の十人ばかり寄合ひ、物語りする聲して、擧句には口論し、後にはさんざんに斬り合ふ音のしければ、小法師申しけるは、

「御坪の内にて、若侍衆、口論つかまつり、只今討ち合ひ侯」

と申しければ、信玄、聞召(きこしめ)して、いと騷ぎ給はず、

「誰れ誰れにて有るやらん」

と仰せければ、

「いづれにて候やらん。聞きなれぬ聲にて侍る」

と申す。

「憎き奴輩(やつばら)かな。予が庭前にて何者なれば、かかる狼籍をつかまつるらん。いちいちに討ちはたすべき」

と仰せられければ、小法師、茶を挽きさして、づんと起つて、緣の前なる障子をさらりと明けて、庭を急度(きつと)と見、立ちもどつて申すやうは、

「十人ばかり、打ち亂れて斬り合ひ申し侯。御用心候へ」

とて、次の間に立て置きたる御長刀(なぎなた)を取つて、參らせければ、信玄公仰せられけるは

「長刀を差しをき、弓を參らせよ」

と仰せらるるほどに、かしこまつて七所籐(ななどころどう)の弓をそへて奉りける。

 信玄公、ひつくわへ、よつぴいて、放し給へば、

「どつ」

といふ聲して、ことごとく退散して、何の音もせざりけり。そのとき仰せらるるは

「あな不思議や。これはひとへに天狗の所爲なるべし。予があけくれ弓箭のはかり事のみ、工夫するによつて、胸中をつもらんがために、かかる業をなして驚かすかと見えたり。まつたく人にはあるまじ」

と仰せられければ、

「御意もつともに候」

とて、その夜、かきくれて見えずなりにけり。信玄公さては魔の所行、疑ひなし。油斷有るべき事ならずとぞ、覺しける。

   *

文中の「七所藤の弓」とは弓の彎曲部の七ヶ所に籐(とう)を卷いた強弓と底本の高田氏の脚注にある。「弓箭のはかり事」は「きうぜんのはかりごと(きゅうぜんのはかりごと)」で、戦さに於ける戦略戦術法の謀議・研究の意。「胸中をつもらんがために」同じく高田氏注に『見すかそうとして』とある。]

 日光山は天狗が住んで恐ろしいところと云はれて居るが、或浪人が知音あつて山中の院に寄宿してゐた。一夜人々集まつて碁を打つのに、この浪人に敵する者がなかつたので、院中には自分に先させて打たうと云ふ者はあるまい、と自慢しはじめた。その時側に居つた僧が、左樣な事はこゝでは申さぬものぢや、鼻の高い人があつて、びどい目に遭ひまするぞ、と注意するや否や、明り障子を隔てた庭の方で、こゝに聞いて居るぞ、といふしはがれた聲がした。浪人は忽ち顏色を失ひ、碁盤碁石を片付け、夜の明けるのを待ちかねて、下山してしまつた(譚海)。

[やぶちゃん注:「自分に先させて打たうと云ふ者」「先」は「せん」と読んでおく。私は囲碁を全く知らぬ迂闊な人間だが、それでも対局者の強弱がはっきりしている場合は弱い者が黒石を持って先手(せんて)になること、それを「先(せん)」と呼ぶことぐらいは知っている。さればここはそれに照らせば、この一言で、この浪人の驕りのさまが手にとるように知れるということなのであろう。

 これは「譚海」の「卷の五」の「下野山日光山房にて碁を自慢せし人の事」である(「下野山」の「山」はママ。原典の「國」の誤記が疑われる。底本の誤植可能性は低い。私が「譚海」電子化注(作業中)で使用している底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本(大正六(一九一七)年もこうなっている。底本は東北大学付属図書館蔵の狩野文庫本とその国書刊行会本を対照校訂しているからである。読みは私がオリジナルに推定で歴史的仮名遣によって附している。

   *

○下野國日光山は、天狗常に住(すみ)ておそろしき處なり。一とせある浪人、知音(ちいん)ありて山中の院に寄宿し居(ゐ)けるが、一夜(ひとよ)院内の人々集(あつま)りて碁を打(うち)たるに、この浪人しきりに勝(かち)ほこりて、皆(みな)手にあふものなかりしかば、浪人心おごりて、此院中に我(われ)に先(せん)させてうたんと云(いふ)人はあらじなど自讚しける時、かたへの僧左樣成(さやうなる)事こゝにてはいはぬ事なり、鼻の高き人有(あり)て、ややもすればからきめ見する事多しと、刺しける詞(ことば)に合(あは)せて、明り障子を隔てて庭のかたにからびたる聲して、爰(ここ)に聞(きき)て居(を)るぞといひつる聲せしかば、浪人顏の色も菜(な)のごとくに成(なり)て、ものもいはず碁盤碁石打(うち)すて置(おき)て寢(いね)、翌日のあくるを待(まち)あへずして、急ぎ下山して走り去りぬとぞ。

   *]

 天狗といふ言葉は現在でも慢心を現す言葉になつてゐる。鼻が高いとか、鼻を高くするとかいふ言葉も、皆それから出たものであらう。然るに以上の話では、天狗そのものが慢心を警める役に𢌞つてゐる。天狗の鼻が高いのは何でもないが、人が妄りに鼻を高くするのは危い。そこで鼻高族の天狗が何等かの形で警告を與へるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「警める」「いましめる」と訓ずる。]

2017/02/24

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗になつた人」

 

 天狗になつた人

 

 京都の東松崎に日蓮宗の寺があつた。こゝの上人は高才の人であつたが、病氣になつて遷化(せんげ)も遠からずと見えた頃から、何となく容貌が物凄く變り、看護の人達も心許なく思ふうちに、ふと起き上つて、只今臨終ぞと四方を見る眼が輝き、鼻が高くなり、左右の肩に羽が生え、寢室より走り出て、緣側へ行つたと見る間もなく、如意ガ嶽に飛び去り、行方が知れなくなつた。上人には有力な弟子が五人ほどあつたが、師の成行きを見て、いづれも宗旨を改めた。そのうちの一人が淨土宗になり、了長坊と稱して東山で念佛をすゝめて居つた。この人の口から、上人の天狗に化して飛び去つた時の恐ろしかつたことが傳へられた(新著聞集)。

[やぶちゃん注:「東松崎」現在の京都市左京区松ヶ崎東町、この附近か(グーグル・マップ・データ)。

「心許なく思ふ」何とも心配で、気掛かりに思う。

「如意ガ嶽」如意ヶ嶽(にょいがたけ/にょいがだけ)は山頂が京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町にある京都東山の標高四百七十二メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の松ヶ崎東町からは、南東に五・五キロメートルの位置にある。

 以上は「新著聞集」の「第十四 殃禍篇」(「殃禍」は「わうくわ(おうか)」で「災い・災難」の意)の「日蓮學僧活(いき)ながら天狗となる」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した。

   *

洛陽の東松が崎に、日蓮宗の寺あり。此上人、高才の人にて、門弟にも、上人分(ぶん[やぶちゃん注:師の才智に相応しただけの知力を持っているの謂いであろう。])の聖(ひじり)あまたありし。師煩(わづらひ)て遷化遠(とほ)からず見へし比(ころ)より、何となく、面像(めんざう)のあたり物すごくて、看病の面々、心もとなく思ひしに、不圖(ふと)をきあがり、只今臨終ぞとて、四方を吃(きつ)と見たる眼(まなこ)かゞやき、見る見る鼻高くなり、左右に、羽(は)がひ生(はへ)て、閨(ねや)より走り出(いで)て、緣(ゑん)ばなに行(ゆく)とみへしが、むかふの如意(によい)が岳(たけ)に飛(とび)さり、行方(ゆくへ)なく成(なり)し。弟子の上人五人、みなみな宗旨をあらためし中(うち)に、浄土宗に獨り成(なり)て、名を了長坊とあらため、東山におはして、多くの人に念佛をすゝめたまひし。此人の、くはしく語りて、舌を振(ふり)ておそれあへり。まことに其上人の日來(ひごろ)の行跡樣(ぎやうせきやう)、おもひやられて哀(あはれ)なり。

   *]

 近江の長命寺に居つた普門坊といふ僧は、松ガ崎の巖上に百日の荒行をして、終に生身の天狗になつた。この僧は長命寺に近い牧といふ村の者で、何某忠兵衞といふ郷士の家から出た。天狗に化して後、一度暇乞ひに來て、以後はもう參りますまい、といふ聲だけ聞えた。「今は百有餘年前のことゝかや」と「閑田耕筆」に書いてある。「閑田耕筆」は享和元年版だから、先づ元祿末年の事と見てよからう。

[やぶちゃん注:「長命寺」琵琶湖畔に聳える長命寺山の山腹、現在の滋賀県近江八幡市長命寺町にある天台宗姨綺耶山(いきやさん)長命寺(ちょうめいじ)。創建は推古天皇二七(六一九)年とし、聖徳太子を開基と伝える古刹で(但し、伝承の域を出ず、確実な史料上の長命寺寺号の初見は承保元(一〇七四)年)、参照したウィキの「長命寺」によれば、伝承によると、第十二代景行天皇の御世、かの『武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り』長寿を祈願したことから、宿禰は三百歳の『長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている』とある、私に言わせれば、天狗を産み出しそうな面妖な寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「普門坊」「ふもんばう(ぼう)」。非営利教育機関「JAPAN GEOGRAPHIC」公式サイト内の長命寺ページ(写真多数)の中山辰夫氏の記載によれば、寺の境内の一番奥まったところに「太郎坊権現社」が祀られており、これが普門坊が天狗となったものを祭祀したものと記しておられる。以下に引く。『この祠の両脇にも巨石がゴロゴロ。割れ目のある岩は女性とされる』。『祀られているのは、太郎坊という大天狗。もとは、長命寺で修行をしていた普門坊という僧で、厳しい修行の結果、超人的、神がかり的能力を身につけ、大天狗になって、寺を守護しているのだとか』。『屋根に覆い被さるような巨石は「飛来石」』。京の天狗のメッカ、『愛宕山に移り住んだ太郎坊が、長命寺を懐かしく思って、近くにあった大岩を投げ飛ばし、長命寺の境内に突きささったものだとか』とある。

「松ガ崎」地図上では確認出来ないが、こちらの方の記載中に、『長命寺の山を下りて、すぐ目の前にある「名勝 松ヶ崎」という場所』で撮った琵琶湖への落日の写真があるので、長命寺の直下にある湖岸の呼称であることは間違いない。

「牧」現在の近江八幡市牧町(まきちょう)。現行の牧町は長命寺の南から南西方向の四キロメートル圏内にある。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「閑田耕筆」の「卷之三」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した(カタカナは原典のもの)。

   *

淡海(あふみ)長命寺に普門坊といへる住侶(じふりよ)、其(その)麓(ふもと)松が崎の巖上(ぐわんじやう)に百日荒行(あらぎやう)して、終(つひ)に生身(しやうしん)天狗に化(か)したりとて、其(その)社(やしろ)、卽(すなはち)松が崎の上(うへ)本堂の裏面の山に有(あり)。此僧の俗性(ぞくせう)は、此長命寺のむかひ牧(マキ)といふ村にて、某氏(ばうし)忠兵衞といふ郷士(がうし)の家(いへ)より出(で)たりしが、化して後、一度至り暇乞(いとまごひ)し、今よりは來(きた)らじと聲計(ばかり)聞えてされりとなん。今は百有餘年前のことゝかや。今も年々某(ばう)月日(つきにち)、此社の祭は彼(かの)忠兵衞の家より行ふとぞ。

   *

「享和元年」一八〇一年。

「元祿末年」元禄は十七年(グレゴリオ暦一七〇四年)の三月十三日に宝永に改元している。]

 倂し天狗になる者は必ずしも出家方外の人には限らぬ。信州松本の藩士萱野五郎太夫といふ人は、文武兩道の嗜みがあり、萬事物堅い人物であつたが、その代り物に慢ずるところがあつた。或年の正月、大半切桶を新たに作らせ、幾日の晝頃には必ず出來(しゆつたい)するやうにと、嚴しく下男に命じた。果して何事がはじまるのか、訝りながらその通り調製すると、今度は新しい筵十枚をとゝのへ、餠米四斗入三俵を赤飯にしろといふ。十枚の筵は座敷に敷かせ、大半切桶には赤飯を盛つて筵の上に据ゑ、自分は日の暮を待つて沐浴し、麻上下を身に著けた。家人は悉く退け、無刀でその一間に閉ぢ籠つたので、氣が違つたのではないかと思つたが、他には別に不審の事もなく、殊に無刀であるから、五郎太夫の云ふに任せた。その夜半頃になつて、人數ならば三四十人も來たやうな足音であつたが、もの言ふ聲は少しも聞えない。曉方にはひつそりして、やがて夜も明け放れたのに、何の音もなくしづまり返つてゐる。こはごは襖を少し明けて覗いたら、人影は全くないのみならず、あれほどの赤飯が一粒もない。五郎太夫の姿も見えぬので、方々搜したが、結局行方不明であつた。そのまゝには捨て置けず、領主へ屆け出たところ、常々貞實の者であり、不埒な事で出奔したといふでもないが、理由なく行方不明になつた以上、家名は斷絶、代々の舊功により、倅を新規に呼び出し、もと通りの食祿で召仕はれることになつた。翌年の正月、誰が置いたかわからぬ書狀が一通、床の間にあつて、紛れもない五郎太夫の筆蹟で、自分は當時愛宕山に住んで、宍戸シセンと申す、左樣に心得べしと書いてあつた。尚々書に「二十四日は必ず必ず酒を飮むまじく候」とあつたが、その後變つた事もなかつた。たゞ領主はその年故あつて家名斷絶した。シセンの文字も書狀にはちやんと書いてあつたのだけれど、傳へた人が忘れたのださうである(耳囊)。この話は五郎太夫に心願があつて、天狗になつたものと解せられるが、天狗にならうとした動機、天狗になつてからの消息は、一通の書狀の外、何もわからない。

[やぶちゃん注:これは「耳囊」の「卷之十 天狗になりしといふ奇談の事」である。私の電子テクスト訳注でお楽しみあれ。]

 永祿頃の話といふから少し古いが、川越喜多院の住持が天狗になつて、妙義山中に飛び去つた。代代の住職の墓の中に、この住持の墓だけないといふ話がある。この住持が天狗になつた時、使はれてゐた小僧も天狗となり、同じやうに飛立つたが、まだ修行が足りなかつたのであらう、庭前に墜ちて死んだ。その小僧は恰も味噌を摺りつゝあつたが、摺粉木を抛り出して飛び去つた。そのためかどうか、今でもこの院で味噌を摺ると、必ず何者かが摺粉木を取つて行つてしまふ。味噌を摺ることが出來ないので、槌で打つて汁にすると「甲子夜話」に書いてある。たゞこの話には、小僧の墜ちたところに小さな祠を建てたとある外、天狗になつた後日譚は何も見當らぬ。

[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年で室町末期。

「川越喜多院」現在の埼玉県川越市小仙波町(こせんばまち)にある天台宗星野山(せいやさん)喜多院。鬼となって厄病を防いだかの元三大師良源を祀り、「川越大師」の別名でも知られる。五百羅漢の石像でも有名。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「甲子夜話」の「卷之四十二」にある、川越喜多「院に味噌をすること成らず」である(原典目次は前が同じ川越喜多院の話柄であることから「同院」となっている)。以下に示す。「搨」は「する」(擂る)と読んでいる。

   *

又永祿の頃とか。喜多院の住持、天狗となりて、妙義山中の嶽と云に飛去りたりとぞ。因て住職代々の墓の中に、この住持の墓ばかりは無しとなり。又この住持の使ひし小僧も天狗となり飛立しが、庭前に墜て死す。故にその處に今小祠を建てあり。この小僧飛去る前に味噌を搨りゐたるが、搨こ木を擲捨て飛たりとぞ。その故か、今にこの院内にて味噌を搨れば、必ず物有て搨こ木を取去ると。因て味噌を搨ことならざれば、槌にて打て汁にするとぞ。是も亦何かなる者の斯くは爲る乎。

   *]

2017/02/23

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の姿」

 

 天狗の姿

 

 天狗の話は澤山あるが、明かにその姿を見た者は存外少い。山中で出會つたり、誘拐されたりした話を見ても、大體は山伏姿である。「梅翁隨筆」その他に見えた加賀國の話のやうに、たまに天狗らしい風體の者があると思へば、それは金を欲しがる贋天狗で、傘を持つて上から飛び下りることは出來るが、飛び上ることは曾てならぬといふ心細い手合であつた。

[やぶちゃん注:「梅翁隨筆」のそれは「卷之五」の「加賀にて天狗を捕へし事」である。柴田は贋天狗の笑い話なので、妖異に当たらぬものとして本文では少ししか語っていないので、ここは一つ、お慰みに、吉川弘文館随筆大成版を参考に例の仕儀で加工して示そうぞ。頭の柱「一」は除去した。オリジナルに歴史的仮名遣で読みを推定で附した。本文の「いわく」はママ。

   *

加州金澤の城下に堺尾長兵衞といふて數代の豪家(がふけ)あり。弥生(やよひ)半(なかば)の頃、まだ見ぬかたのはなを尋(たづね)んとて、手代小ものめしつれて、かなたこなたとながめけるに、ある社(やしろ)の松の森の方より羽音(はおと)高く聞えける故、あふぎ見れば天狗なり。あなおそろしやとおもふ間もなく、この者の居(ゐ)たる所へ飛來(とびきた)るにぞ、今ひき裂(さか)るゝやらんと、生(いき)たる心地もなくひれふしけるに、天狗のいわく、其方にたのみ度(たき)子細あり。別儀に非ず。今度(このたび)京都より仲ケ間(なかま)下向(げかふ)に付(つき)、饗応(きやうわう)の入用(にふよう)多き所、折ふしくり合(あは)せあしくさしつかへたり。明後日晝過(すぎ)までに金子三千兩此所(ここ)へ持參して用立(ようだつる)べしといふ。長兵衞いなといはゞ、いかなるうきめにや逢(あは)んと思ひて、かしこまり候よし答へければ、早速(さつそく)承知(しやうち)過分なり。しからばいよいよ明後日此處(ここ)にて相待(あひまつ)べし。もし約束違(たが)ふことあらば、其方(そのはう)は申(まうす)に及ばず、一家のものども八裂(やつざき)にして、家藏(いへくら)ともに燒(やき)はらふべし。覺悟いたして取計(とりはから)べしといひ捨て、社壇のかたへ行(ゆき)にける。長兵衞命(いのち)をひろひし心地して、早々我家に歸り、手代どもへ此よしをはなしけるに、或は申(まうす)に任(まか)すべしといふもあり。又は大金を出す事しかるべからずといふもありて、評議まちまちなりけるに、重手代(おもてだい)のいわく、たとひ三千兩出(いだ)したりとも、身(しん)だいの障(さは)りに成(なる)ほどの事にあらず。もし約束をちがへて家藏を燒はらはれては、もの入(いり)も莫大ならん。其上(そのうへ)一家のめんめんの身の上に障る事あらば、金銀に替(かふ)べきにあらず。三千兩にて災(わざはひ)を轉じて、永く商売繁昌の守護とせんかたしかるべしと申(まうし)けるゆへ、亭主元來其(その)心なれば、大(おほい)に安堵(あんど)し、此(この)相談に一決したり。されば此(この)沙汰(さた)奉行所へ聞えて、其(その)天狗といふものこそあやしけれ。やうす見屆けからめ取(とる)べしと用意有(あり)ける。扨(さて)その日になりければ、長兵衞は麻上下(あさがみしも)を着(ちやく)し、三千金を下人に荷(にな)はせ、社の前につみ置(おき)、はるか下つて待(まち)ければ、忽然と羽音高くして天狗六人舞(まひ)さがり、善哉(よきかな)々々、なんぢ約束のごとく持參の段(だん)滿足せり。金子(きんす)は追々返濟すべし。此返禮には商ひ繁昌寿命長久うたがふ事なかれと、高らかに申(まうし)きかせ、彼(かの)金を一箱づゝ二人持(もち)して、社のうしろのかたへ入(いり)ければ、長兵衞は安堵して、早々我家へ歸りける。かくて奉行所より達し置(おき)たる捕手(とりて)のものども、物蔭に此体(てい)をみて、奇異のおもひをなしけるが、天狗の行方(ゆくへ)を見るに、谷のかたへ持行(もちゆき)ける。爰(ここ)にて考(かんがへ)みるに、まことの天狗ならば三千兩や五千兩くらひの金は、引(ひつ)つかんで飛去(とびさ)るべきに、一箱を二人持(もち)して谷のかたへ持行(もちゆく)事こそこゝろへね。此うへは天狗を生捕(いけどり)にせんとて、兼(かね)ての相圖なれば、螺貝(ほらがひ)をふき立(たつ)るとひとしく、四方より大勢寄(より)あつまり、谷のかたへ探し入(いり)、六人ながら天狗を鳥(とり)の如く生捕にして、奉行所へ引來(ひききた)れり。吟味するに鳥の羽、獸(けもの)の皮にて身をつゝみこしらへたるものにて、實の天狗にてはあらず。されば飛下(とびくだ)ることは傘(かさ)を持(もち)て下るなれば自由なれども、飛上(とびあが)る事とては曾てならずとなり。扨(さて)是(これ)をば加賀國にて天狗を生捕たるはなしは末代(まつだい)、紙代(しだい)は四文(しもん)、評判々々と午(うま)の八月江戸中をうり歩行(ありきゆき)しは、此(この)事をいふ成(なる)べし。

   *]

「甲子夜話」にあるのは深山幽谷でも何でもない、江戸は根岸の話である。千手院といふ眞言宗の寺に、大きな樅の木があつたが、朝の五ツ時(午前八時)頃、その枝間に腰をかけてゐる者がある。顏赤く鼻高く、世にいふ天狗といふ者そつくりであつた。目撃者は數人あつたといふが、あとも先もない。全く繪に畫かれたと同じ存在である。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」は全巻所持するが、探すのが面倒なので、発見し次第、追記する。悪しからず。]

 そこへ往くと「雪窓夜話抄」の記載は大分特色がある。因幡國の頭巾山は昔から魔所と呼ばれ、寶積坊權現の社が山上に在つた。そこの神主田中主税重矩といふ人が、享保十一年六月十八日に登山して、神前に一七日の斷食をした。二十三日の申の刻(午後四時)時分、神前に三四間ぐらゐある大石が三つ四つ重ねてあるのにもたれ、ひとり煙草をのんでゐると、遙かな谷底より大夕立の降つて來るやうな音がする。一天雲なく、雨の降りさうな樣子もないので、風の音かと見るのに、木の葉一つ搖がうともせぬ。そのうちにもたれてゐた石の上に、ひらりと飛び下りる人影があつた。主税とは五六尺の距離だから、手に取る如く鮮かに見えたが、相對すること半時ばかり、一語も發せず、左右を見𢌞すこともなく、立つたまゝ主税をぢつと見詰めるだけである。その眼つきにも人を憎むやうなとこ

ろはない。やがて人形を絲で引上げるやうな風に、七八間も空中に騰つたが、その時仰ぎ見て、はじめて兩翼のあることがわかつた。翼は背中で合せたやうになつてゐるので、石上に立つ間は少しも見えなかつた。翼は背中で左右にひろがり、前の方へ俯向いたかと思ふと、隼落しに谷底へ落ち込んだ。その時にも大夕立のやうな羽音が聞えたさうである。

[やぶちゃん注:「因幡國の頭巾山」「ときんやま」で、鳥取県鳥取市にある三角山(みすみやま:「三隅山」とも書く)の別名。「襟巾山」とも書き、「とっきんざん」とも読む。標高五百十六メートル。山頂には三角山神社がある。

「寶積坊權現」「ほうしゃくぼうごんげん」(現代仮名遣)と読むと思われる。ウィキの「三角によれば、『三角山は、古くは「滝社峰錫(ほうしゃく)権現(峰錫坊権現、峯先錫坊権現)」といい、山岳信仰・修験道の修行地で、江戸時代には鳥取藩の祈願所が置かれていた』。『山域は太平洋戦争前までは女人禁制で、麓には垢離場や女人堂が残されている』。『このため用瀬では山や神社を「峰錫さん」とも呼ぶ』。『祭神は猿田彦大神である』とあり、この「峰錫(ほうしゃく)」は「寶積」と音通であるからである。また、猿田彦神はしばしば天狗の形象と相似する点でも親和性が強いと言える。

「田中主税重矩」「たなかちからしげのり」の読んでおく。

「享保十一年」一七二六年。

「三四間」五メートル半から七メートル強。

「五六尺」一・五~一・八メートル。

「半時」約一時間。

「七八間」十二メートル半強から十四メートル半ほど。

 ここ以下の話は「雪窓夜話抄」の「卷下」の「卷六」巻頭にある「因州頭巾山に天狗の飛行(ひぎやう)を見る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

 この時主税の見た姿は、面體などは常の人に變らず、一尺二三寸もあらうといふ長い顏で、五月幟に畫いた辨慶のやうな太い目鼻であつたが、殊に口の大きいのが目に付いた。眼光はぎらぎらして凄まじく、目と目を見合せることは困難であつた。筋骨逞しく赤黑く、髮は縮んで赤い。木の葉のやうなものを綴つて身に纏つてゐたとおぼしく、それが膝頭まで垂れてゐた。自分の心は常よりしつかりしてゐて、別に恐ろしいとは思はなかつたが、五體は全くすくんで手も足も動かぬ。既に空中に飛び上り、眞逆樣に谷へ落ち込んだと思つたら、はじめて夜の明けた心持になり、手足も縛られた繩を解かれた如く自由になつた。こゝに至つて漸く、只今目のあたり拜んだのが寶積坊であつたらうと考へ及んだ、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「一尺二三寸」三十七~三十九センチメートル。]

 主税が頭巾山の頂上で一七日斷食をすると聞いて、その安否を氣遣ひ、わざわざ登山した醫者があつた。恰も天狗の姿を見た日の五ツ(午後八時)頃、主税が大きな洞穴に引籠つて、火を焚いてゐるところへやつて來たので、今日の話などをしてゐると、夜半頃になつて、また谷の方から大きな羽音が聞えて來た。今度は晝の經驗があるので、思はず身の毛よだち、身を詰めて二人とも洞中に屈伏してゐたが、この時は地には下りず、遙か空中を翔り過ぎた。數百疋の狼が聲を合せたやうな、大きな聲で咆哮し、空中を通る時、山に響き谷に應(こた)へ、大地も震ふばかりであつたけれども、少しの間でそれもやみ、山は閑寂たる狀態に還つた。一日に二度不思議を見聞したわけである。

[やぶちゃん注:先のリンク先を見て貰うと判るが、原典では医師の来訪の前の部分に別の伝聞が挿入されており、しかもその直後に『(中畧)』とあって医師来訪後の夜の話があるから、原話はもっともっと長いことが判るのである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗と杣」

 

 天狗と杣

 

 山城國淀の北橫大路といふ里の庄屋善左衞門の家は、裏の藪際に土藏があり、その土藏の傍に大きな銀杏樹があつた。近年大風などの際、銀杏樹の下枝が土痺の瓦を拂ひ落すことがあるので、善左衞門が仙を雇つて下枝を切り拂はせた。だんだん下から切つて行つて、三ツ又のところに到り、その太い枝を切らうとすると、俄かに陰風吹き來り、首筋を何者か摑むやうに覺えてぞつとした。仙大いに恐怖し、急に逃げ下りたが、顏色土の如く、首筋元の毛が一摑みほど拔かれてゐる。これは天狗の住まれるところを切りかゝつたためと思はれます、もう少しぐづぐづしてゐたら、命はなかつたかも知れません、と云ひ、その上の崇りを恐れて、俄かに樹木に神酒を供へ、ひたすら罪を謝した上、その日の賃錢も取らずに歸つてしまつた。三ツ又のところは、琢(みが)いたやうに淸淨になつてゐたので、如何にも神物の久しく住んでゐたものであらうと、善左衞門もこの樹を敬ふやうになつた。寛政四年四月の話である(北窓瑣談)。

[やぶちゃん注:「杣」「そま」と読む。樵(きこり)のこと。

「寛政四年」一七九二年。

 以上は「北窓瑣談」の「卷之三」に出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「一」は除去した。歴史的仮名遣の誤りが見られるが、ママとした。

   *

寛政四年壬子四月の事なりし。山城國淀(よど)の北橫大路(よこおほぢ)といふ里あり。其村の庄屋を善左衞門といふ。其家の裏の藪際(やぶぎは)に土藏あり。土藏の傍に大なる銀杏樹(いちやうのき)あり。近年大風などふく度に、土蔵の瓦を下枝(したえだ)にて拂ひ落しければ、善左衞門、仙(そま)をやとひ下枝を切拂はせけるに、段々下より切りもてゆきけるに、やうやう上に登り、三ツまたの所に到りて、件の三ツまたに成たる枝を切んとせしに、俄に陰風(いんふう)吹來り、杣が首筋を何やら物ありて、つかむやうに覺へて、身の毛ぞつと立ければ、杣、大いに恐れて急に迯下り見るに、首筋元(くびすじもと)の毛一つかみほど、引ぬきて、顏色土のごとくに成たり。善左衞門も怪みて何事にやといふに、杣、恐れて天狗の住給ふ所を切かゝりし故にとぞ思はる。今少しおそく下らば、一命をも失れんを、猶此上の祟(たゝり)もおそろしとて、俄に樹木に神酒(みき)を備へ、罪を謝し過(あやまち)をわびて其日の賃錢さえ取らで迯歸れり。其三ツまたの所は、甚だ淸浄にて琢(みがき)たるやうに有ける。何さま神物の久しく住ける處にやと、善左衞門も恐れて、此銀杏樹を敬しける。此事、善左衞門親類の嘉右衞門物語りき。

   *]

 天狗と樹木とが密接な關係を有する以上、樹を伐る杣の上に怪異が伴ふのは怪しむに足らぬ。美濃の郡上郡、武儀郡、賀茂郡、惠那郡あたりでは、はじめて山に斧を入れる時、先づ狗賓餠(ぐひんもち)といふものを拵へて山神に供へ、人々もこれを祝つて後、木を伐るので、さうしなければ種々の怪異があつて、なかなか木が伐れない、と「想山著聞奇集」にある。怪といふのも一樣でないが、多くは杣の道具を取るとか、使つてゐる斧の頭を拔き取るとかいふ類の事で、或時は山上より大木大石を落す音をさせたり、進んでは山を崩し巖を拔く勢ひを示したりする。そこで怪異の小さいうちに恐れをなし、狗賓餠を供へて神を祭り、御詫びをしてから木を伐ることになつてゐる。長い間木を伐つて𢌞る山などでは、時々狗賓餠を供へて祭り直しをしないと、木を伐ることがならぬのである。

[やぶちゃん注:「郡上郡」現在の岐阜県郡上(ぐじょう)市の大部分と下呂市の一部に相当する旧郡。

「武儀郡」「むぎぐん」と読む。旧郡。現在の美濃市全域と関市の大部分とその他で、旧郡上郡の南に接していた。

「賀茂郡」岐阜県加茂郡は現存するが、旧郡域は現在より遙かに広域で旧武儀郡の東方に接していた。

「惠那郡」旧郡。現在の岐阜県恵那(えな)市と中津川市の大部分と瑞浪(みずなみ)市の一部に加え、愛知県豊田市の一部も含まれていた。

「狗賓餠(ぐひんもち)」「狗賓」とは天狗の一種の個別呼称。ウィキの「狗賓」によれば、『狼の姿をしており、犬の口を持つとされ』た天狗の一種とする。一般的には『著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗が修験道や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の土俗的な神に近い。天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた』。『狗賓は山の神の使者ともいえ、人間に山への畏怖感を与えることが第一の仕事とも考えられている。山の中で木の切り倒される音が響く怪異・天狗倒しは狗賓倒しとも呼ばれるほか、天狗笑い、天狗礫、天狗火なども狗賓の仕業といわれる。このように、山仕事をする人々の身近な存在のはずの狗賓が怪異を起こすのは、人々が自然との共存と山の神との信頼関係を続けるようにとの一種の警告といわれているが、あくまで警告のみであるため、狗賓が人間に直接的な危害を加える話は少なく、人間を地獄へ落とすような強い力も狗賓にはない』。『しかし人間にとって身近といっても、異質な存在であることは変わりなく、度が過ぎた自然破壊などで狗賓の怒りを買うと人間たちに災いを振りかかる結果になると信じられており、そうした怒りを鎮めるために岐阜県や長野県で山の神に餅を供える狗賓餅など、日本各地で天狗・狗賓に関する祭りを見ることができる』。『また、愛知県、岡山県、香川県琴平地方では、一般的な天狗の呼称として狗賓の名が用いられている』。『ちなみに広島県西部では、他の土地での低級な扱いと異なり、狗賓は天狗の中で最も位の高い存在として人々から畏怖されていた。広島市の元宇品に伝わる伝説では、狗賓は宮島の弥山に住んでいると言われ、狗賓がよく遊びに来るという元宇品の山林には、枯れた木以外は枝一本、葉っぱ一枚も取ってはならない掟があったという』とある(下線やぶちゃん)。

 以上と後の二段の内容は総て、「想山著聞奇集」の「卷之一」の「天狗の怪妙、幷(ならびに)狗賓餠の事」に拠るものである。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年三一書房刊)挿絵とともに以下に示す。〔2017年3月11日追記:「想山著聞奇集」の電子化に伴い、本条をこちらで別個に電子化注した。こちら画像は容量を食うので除去した。リンク先で見られたい。〕「武儀(むげ)郡」の読みはママ。【 】は原典の二行割注。

   *

 

  天狗の怪妙、狗賓餅の事

 

 天狗の奇怪妙變は、衆人の知恐るゝ事にて、人智の量(はか)るべきにあらねども、その種類も樣々有事としられ、國所(くにところ)によりては、所業(なすわざ)も又、色々替りたるかと思はる。爰に北美濃郡上(ぐじやう)郡・武儀(むげ)郡、東美濃賀茂(かも)郡・惠那(ゑな)郡邊の天狗は、其所業、一條ならずといへども、大概、同樣の怪をなすなり。先(まづ)、山の木を伐時に、初て斧を入る節は狗賓餅(ぐひんもち)と云を持て山神に供へ、人々も祝ひ食てのち木を伐也。然らざれば、種々の怪ありて、中々木を伐事、成難し。長く所々木を伐𢌞る山などは、折々狗賓餅をして、齋(ものい)み仕直さねば、怪有て、木を伐事ならぬと也。扨、其怪、種々にて一樣ならざれども、多くは杣道具をとり、又、遣ひ居る斧の頭を拔取、或は山上より大木大石を落す音をさせ、甚敷時は、山をも崩し巖をも拔の勢を爲故、小怪の内に甚恐れをなし、直(ぢき)に狗賓餅をして神を祭り、厚く詫を乞て木を伐る事也。或時、濃州武儀郡志津野村の【中山道鵜沼宿より三里許北の方】村續きの平山を伐たり。是は山と云程の所にもなく、殊に古樹の覆ひ繁りたる森林(もりはやし)にもなく、村續きの小松林の平山にて、中々天狗など住べき所とは、誰人も思はざるゆゑ、かの狗賓餅をもせずして、木を伐るとて、杣ども寄合て伐初ると、皆、振上る斧の頭をとられたり。それ天狗出たりとて、道具を見れば、悉く失せたり。是にては、中々けふは仕事ならず、いざ狗賓餅をなすべしとて、おのが家々に歸(かへ)り、支度して餅を拵へ、山神を祭りて詫をなし、やがて道具を得て、翌日より無事に木を伐たりと。一年(ひとゝし)此村のよし松と云ものを、予が下男となして聞しる所也。木を伐居たるとき、斧を振上て木へ打付る間に、聊も手ごたへなくして、頭(かしら)なくなり、柄斗(ばかり)となるを知ずして、木へ打付て後、始て頭をとられし事をしるなり。不思議と云も餘り有る事也。其時は、杣道具も、いつの間にか取れて失(うせ)ぬるなり。しかれども、狗賓餅をしてわびぬれば、失たる道具も、いつとなく、元の所へ戾し置ことなりとぞ。其邊にては、か樣の怪異も常の事故、さして不審とはせざれども、餘國の人の見聞く時は奇怪なる事也。

[やぶちゃん注:以下の一段落分は底本では全体が二字下げ。]

狗賓餅を行ふ時は、先村内(むらうち)にふれて、けふは狗賓餅をするに來れといへば、老少男女大勢山に集りて、さて飯を強(こは)く焚き、それを握り飯となして串に貫き、能(よく)燒て味噌を附け、先(まづ)初穗を五つ六つ木の葉などに盛り、淸き所に供へ置て、其後各心の儘に飽まで喰ひぬる事となり。甚だ旨き物なれど、此餅を拵ると天狗集り來るとて、村内の家屋にては一切拵へざると也。同國苗木邊にては是を山小屋餅と云て大燒飯となす也。又、小くも拵て串に貫き燒たるをごへい餅と云り。【御幣餅の意か辨へずと云り】國所(くにところ)によりて、製し方も名付方も變るべし。是古に云粢餅(しとぎ)の事(こと)にて、今も江戸近在の山方にては粢餅と云とぞ。

 又文政七八年の事なるが、苗木領の二ツ森【城下より西北二里程の所】の木を伐出す迚、十月七日に山入してごへい餅を拵しが、山神へ供る事を忘れて皆々食盡したり。さて夜(よ)に入(い)ると大木を伐懸る音して一山荒出せし故、漸と心附、早々餅を拵、詫入て無事にて濟たる事あり。夫より以來は右邊にては、わけて意(こゝろ)を込て大切に供る事と、苗木侯の山奉行何某の咄なり。

 又、越後の國蒲原(かんばら)郡・磐船(いはふね)郡の杣人に聞に、山に入て木を伐る時、其一枝を折、異なる所に差て、是を祭らざれば、大木などには、殊に其祟有由なり。又、越後の國・出羽の國などにては、杣人にても狩人にても、山に入時は、鮝魚と云魚を懷中して入なり。大木を伐に難儀なる時、是を供れば、難なく安く伐得。又、狩人も終日狩て得物なき時は、山の神へ祈請して、鮝魚の頭を少し見せかけて、獸を得せしめ給ふて、感應あらせ給はゞ、全形を見せ參らせんと祈る也。しかする時は、速かに感應有事とぞ。されども、中々輙(たやすく)は行はぬことにて、其究る時ならざれば、感應もなしと云り。

   *

これは私には非常に興味深い話である。天狗どころか、所謂、山の神信仰の古形がはっきりと保存されている記載だからである。なお、幾つか語注をしたい。

・「武儀郡志津野村」現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「鵜沼宿」現在の岐阜県各務原市鵜沼附近。(グーグル・マップ・データ)。志津野の南。

・「苗木」現在の岐阜県中津川市苗木(なえぎ)。美濃苗木藩は美濃国恵那郡の一部と加茂郡の一部を領有していた、江戸時代最小の城持ちの藩であった。(グーグル・マップ・データ)。

・「粢餅(しとぎ)」「しとぎ」はここでは二字へのルビである。「しとぎ」は「糈」とも書き、水に浸した生米(粳(うるち)米)を搗き砕き、種々の形に固めた食物で、神饌に用いるが、古代の米食法の一種とも謂われ、後世では糯(もち)米を蒸して少し搗いたところで卵形に丸めたもの指すようになった。

・「文政七八年」文政七年は一八二四年。

・「苗木領の二ツ森」前の前のグーグル・マップ・データを参照。同地区外の北西に「二ツ森山」を確認出来る。

・「越後の國蒲原郡」新潟県の旧郡。現行の多数の市域等を含む広域なのでウィキの「蒲原郡を参照されたい。

・「磐船郡」新潟県に「岩船郡」として現存する。現在は関川(せきかわ)村と粟島浦(あわしまうら)村の二村のみであるが、旧郡域は現在の村上市を含む新潟県の最北端に位置していた郡である。ウィキの「岩船郡を参照されたい。

・「苗木侯」藩主遠山氏。江戸時代を通じて、ほぼ財政窮乏が続いた。「文政七八年」当時は第十一代藩主遠山友寿(ともひさ 天明六(一七八七)年~天保九(一八三九)年)。

・「鮝魚」これで「をこぜ(おこぜ)」と読む。生物種としては、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目オニオコゼ科(フサカサゴ)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus を指し、「オニオコゼ」には「鬼鰧」「鬼虎魚」の漢字を当てたりする。別に「ヤマノカミ」という俗称を持つが、これは古くから本種の干物を山の神への供物にする風習があったことに由来する。伝承によれば、女神である「山の神」は不器量で、しかも嫉妬深いとされたことから、醜悪な「おこぜ/おにおこぜ」の面(つら)を見ると、安心して静まり、山の恵みを与えて呉れるとされ、現在でもこれを祭る儀式は山間部や林業職に関わる人々の間で今なお保存され続けている(なお、同種は背鰭の棘条が鋭く、しかも毒腺を持っているので取扱いには注意を有する)。これについては私の古い電子テクスト、方熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」(明治四四(一九一一)年二月発行の『東京人類学会雑誌』初出)を読まれたい。]

 或時武儀郡志津野村の村續きにある平山を伐つたが、これは山といふほどのところでもなし、小松林の平山で、誰しも天狗の住みさうなところとは思はぬので、狗賓餠もせずに伐りはじめた。やゝあつて氣が付くと、振上げる斧の頭がない。さてこそ天狗が出たと、道具を見ると皆なくなつてゐる。これでは到底今日は仕事が出來ぬといふので、家へ歸つて狗賓餠を拵へ、山神を祭つて詫びをしたら、なくなつた道具もどこからか出て來て、翌日は無事に伐木を了へた。或男の如きは、いくら斧を振上げても手ごたへがない。柄ばかりになつてゐるのを知らずに、木へ打付けてはじめて頭を取られたことを知つた、といふやうな話もある。

 狗賓餠といふのは飯を強(こは)く焚き、握り飯にしたのを串に貫き、よく燒いて味噌を付けるので、その初穗を五つ六つ木の葉に盛つて淸淨なところに供へ、然る後皆集まつて食ふ。甚だ旨いものであるが、この餠を拵へると天狗が集まつて來るといふので、村内の家屋では一切拵へぬことになつてゐる。ところによつて山小屋餠といひ、小さく拵へて串に貫き燒いたのを御幣餠といふ。文政七八年頃、苗木領の二ツ森山の木を伐り出した時は、山入りして御幣餠を拵へたが、山神に供へるのを忘れて、皆で食ひ盡してしまつた。夜に入ると大木を伐りかゝる音がして、一山が荒れ出したから、漸く氣が付き、匆々に餠を拵へて詫びたなどといふ話もある。

   天狗住んで斧入らしめず木の茂り 子規

といふ句は、諸國に傳はるかういふ話を考慮に入れて解すべきものと思ふ。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三五(一九〇二)年の作で、民俗を詠んで面白くはあるものの、句としてはそれほどともとれぬのだが、これ、「病牀六尺」に記された結果、人口に膾炙してしまったものと言えよう(私もそれで覚えていた)。同書の「八十五」章である。全文を引いて、注の〆と致す。底本は岩波文庫版の一九八四年改版を恣意的に正字化して示した(読みは一箇所を除いて除去した)。句の前後を一行空けた。

   *

○この頃茂りといふ題にて俳句二十首ばかり作りて碧虛兩氏に示す。碧梧桐は

 

     天狗住んで斧入らしめず木の茂り

 

の句善しといひ虛子は

 

     柱にもならで茂りぬ五百年

 

の句善しといふ。しかも前者は虛子これを取らず後者は碧梧桐これを取らず。

 

     植木屋は來らず庭の茂りかな

 

の句に至りては二子共に可なりといふ。運座の時無造作にして意義淺く分りやすき句が常に多數の選に入る如く、今二子が植木屋の句において意見合したるはこの句の無造作なるに因るならん。その後百合の句を二子に示して評を乞ひしに碧梧桐は

 

     用ありて在所へ行けば百合の花

 

の句を取り、虛子は

 

     姫百合やあまり短き筒の中

 

の句を取る。しかして碧梧桐後者を取らず虛子前者を取らず。

 

     畑もあり百合など咲いて島ゆたか

 

の句は餘が苦辛(くしん)の末に成りたる物、碧梧桐はこれを百合十句中の第一となす。いまだ虛子の説を聞かず。贊否を知らず。

   *

因みに、私は敢えて選ぶとすれば、「姫百合やあまり短き筒の中」を善しとする者である。]

 

柴田宵曲 妖異博物館 「秋葉山三尺坊」

 

 秋葉山三尺坊

 

 秋葉の三尺坊の天狗咄は、西鶴の「好色一代女」(貞享三年)に出てゐるが、それは人の噂に過ぎなかつた。「一代女」より三年後の「本朝故事因緣集」(元祿二年)にも「遠州秋葉山三尺坊奇瑞」といふ話が書いてある。近頃この山の麓で大鐡砲を放つた者があり、その昔と同時に虛空に飛び上り、片時の間に信州諏訪の衣ガ崎に行つて居つた。これが天狗の仕業なので、汝は大鐡砲を放つてわしの眠りを驚かしたが、その罪は赦してやる、これから富士を見せよう、と云つたと思へば、忽ちに頂上に登り、田子の浦を眺めてもとの所へ歸つて來た。こゝで空から墮されたけれど、何の怪我もなかつたといふのである。秋葉山の靈異はかなり廣く傳播されたものであらう。鳥取の人の手に成つた「雪窓夜話抄」なども、いろいろ委しい消息を傳へてゐる。

[やぶちゃん注:「秋葉山三尺坊」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん:赤石山脈南端・標高八百六十六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ))の、火防(ひぶせ)の神である「秋葉大権現」という山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神の別称。但し、明治の廃仏毀釈によって秋葉山本宮秋葉神社と秋葉寺に分離したが、後者は明治六(一八七三)年)に廃寺となり、現在、その仏像仏具類は本寺であった現在の静岡県袋井市久能にある「可睡斎(かすいさい)」に移され、「三尺坊」の神像もそこに現存する。現在、静岡県浜松市天竜区春野町に秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉山(しゅうようざん)秋葉寺という寺があるが、これは明治一六(一八八三)年に再建されたものである。詳しくは、参考にさせて戴いた「ぞえじい」氏のサイト「ぞえじいの福々巡り」の「秋葉山 秋葉寺(三尺坊)」「可睡齋」の記載や、個人ブログ「神が宿るところ」の「秋葉山総本山 秋葉寺(三尺坊)」を参照されたい。なお、後者のブログ記載によれば、『「秋葉大権現」が「三尺坊大権現」という天狗として認識されるようになったのは、次のような伝承による。即ち、三尺坊は』、宝亀九(七七八)年、『信濃国・戸隠(現・長野県長野市)生まれで、母が観音菩薩を念じて懐胎し、観音の生まれ変わりといわれた神童だったという。長じて、越後国・栃尾(現・新潟県長岡市)の蔵王権現堂で修行し、僧となった。「三尺坊」というのは、長岡蔵王権現堂の子院』十二坊の内の一つで、その名を取ったものであり、『ある日、不動三昧の法を修し、満願の日、焼香の火炎の中に仏教の守護神である迦楼羅天を感得し、その身に翼が生えて飛行自在の神通力を得た。そして、白狐に乗って飛行し、遠江国秋葉山のこの地に降りて鎮座したとされる』。『現在も頒布されている秋葉山の火防札には「三尺坊大権現」の姿が描かれているが、猛禽類のような大きな翼が生え、右手に剣、左手に索を持ち、白狐の上に立っている姿である。火炎を背負い、身体は不動明王のようだが、口は鳥のような嘴になっている。これは、もともとインド神話の鳥神ガルーダが仏教に取り入れられた迦楼羅天』(かるらてん:八部衆・後の二十八部衆の一つ。)『の姿に、不動明王を合わせ、更に白狐に乗るところは荼枳尼天の形が取り入れられているようだ。実は、この姿は、信濃国飯縄山の「飯縄権現(飯縄大明神)」とほぼ同じである。「飯縄権現」は、飯縄智羅天狗とも呼ばれ、日本で第』三『位の天狗(「愛宕山太郎坊」(京都府)、「比良山次郎坊」(滋賀県)に次いで「飯縄山飯縄三郎」とも呼ばれる。)とされる。こうしたこともあり、「三尺坊大権現」は、その出自や修行地からして、戸隠や白山などの修験者の影響が強いようだ。そうすると、火難避けの神様としての秋葉山信仰は、古くても中世以降、民衆レベルでは江戸時代以降なのではないかと思われる。江戸時代には、資金を積み立てて交代で参拝する秋葉講が盛んに組織された』とある。

『西鶴の「好色一代女」(貞享三年)に出てゐる』「貞享三年」は一六八六年。これは同作の「卷三」巻頭の「町人腰元」の冒頭、

   *

十九土用とて人皆しのぎかね。夏なき國もがな汗かゝぬ里もありやと。いうて叶はぬ處へ鉦女鉢を打鳴し。添輿したる人さのみ愁にも沈まず跡取らしき者も見えず。町衆はふしやうの袴肩衣を着て珠數は手に持ながら掛目安の談合。あるは又米の相場三尺坊の天狗咄し若い人は跡にさがりて。遊山茶屋の献立禮場よりすぐに惡所落の内談それよりすゑずゑは棚借の者と見えて。うら付の上に麻の袴を着るも有。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

を指すのであろう。

『「本朝故事因緣集」(元祿二年)』「元祿二年」は一六八九年。「遠州秋葉山三尺坊奇瑞」は同書「卷之二」のそれ。「国文学研究資料館」公式サイト内のここの画像で読める。

「雪窓夜話抄」のそれは同「下卷」の「遠洲秋葉山靈異の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。読まれれば判るが、次段の内容がそれである。]

 寛延年間の話らしい。紀州から御代參として、長谷川右近といふ物頭(ものがしら)が登山した。前夜は山下の在家に止宿するのであつたが、この山中に雉子が澤山居ると聞いて、それを料理して出すやうに命じた。それは御登山以後になされた方がよろしうございませう、當山は餘所とは異り、いろいろ怪異のある山ですから、今夜は御精進なされた方が御爲であると存じます、と亭主はしきりに止めたけれど、橫紙破りの右近は聞き入れない。本人ならば精進すべきであらうが、拙者は代參であるから、その必要はない、三尺坊は神である、魚鳥を食ふ者を忌み嫌ふ理由はない筈だ、と云ひ張るので、云ふなりに料理して出し、主從十六人、したゝかに食べた。然るに翌日登山すると、八九分通り上つたところで、一天雲霧が覆ひかゝり、一寸先も見えなくなつた。一同居すくみといふものになつて、生きた心地もなかつたが、十六人悉く山上から投げ落された。暫くたつて雲霧は晴れ、夜の明けたやうになる。人人目を開いてあたりを見廻せば、誰も怪我した者はなく、秋葉山の絶頂から五六里も麓に寢て居つた。どうしてこゝへ來たものか、前後不覺で更にわからぬ。この怪異に恐れて、再び登山する勇氣を失つたが、代參として參詣した以上、登山しないでは歸られず、秋葉寺の役僧に内談して、紀州より持參した神柄の物を供へ、例の如く符守を頂戴して歸國したいと賴んだ。寺の方では、未だ登山せぬ人に符守などを進ずることは出來ないと斷つたけれど、この御禮には一たび紀州に歸つた上、必ずまた引返して登山し、神前に於て懺悔する、と云つたので、何しろ歷々の士の死活に關する事であるから、符守を取り揃へて渡すことになつた。右近は本國に歸つて、御代參の次第を申上げ、自分宿願ある由を以て御暇を願ひ、一日もその足を休めずに引返して、秋葉に參詣したさうである。

[やぶちゃん注:「寛延年間の話らしい」先に示した「雪窓夜話抄」の原文を見ると、『今年(寶曆三年)より五六年には過ざる事なり』とあるから、数えでの謂いと考えると、宝暦三(一七五三)年から四、五年前は寛延元年・延享五(一七四八)年か寛延二年となるも、「過ぎざる」と言うのだから、柴田の寛延年間は正しい謂いとなる。

「物頭」武頭(ぶがしら)とも称し、弓組・鉄砲組などを統率する長を指す。

「符守」「ふしゆ」は「神符守札(しんぷしゅれい)」の略。神社等で出す護符、御守りの御札のこと。]

 秋葉山の靈異に就いてはいろいろな話があつて、西國方の大名から代參として登山した足輕などは、道中で身持の惡い事があつたと見え、權現に攫まれて行方不明になつた。その男は引裂かれ、大木の松の枝に久しく懸つてゐたさうである。この話を聞かされた岩越分四郎といふ人が、自分は精進潔齋の心持で來たから、何の障礙もあるまいと思ふが、薄氣味惡くなつて、竹輿を舁く者にさういふと、その御心配はありません、障りのあるなしは麓の光明山あたりで知れます、身持の惡い人を舁いて行く場合には、光明山あたりまで參るうちに、同じところを何遍もぐるぐる𢌞つたり、五町も十町も登つたと思ふのに、やはりもとのところにゐて、どうしても登山出來ません、今日は麓まで何の子細もなく、光明山も遙かに過ぎましたから、御別條はありますまい、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「光明山」秋葉山のほぼ南、天竜川を挟んだ六・五キロメートルの位置にある山。ここ(グーグル・マップ・データ)。秋葉台権現の火伏せの霊験に対し、水難避けの神として信仰を集める(暴れ川天竜の近くなれば納得)。現在、曹洞宗金光明山光明寺(静岡県浜松市天竜区山東地内)が山麓に建つ。

「五町」約五百四十五メートル半。]

 秋葉權現は火防(ひぶせ)の神と云はれてゐるが、毎年十一月の祭日には、近國から夥しい人が集まつて通夜をする。深山の事であるから、暫くも火を離れては居られぬ。手に手に薪を持つて來て、堂上堂下の差別なく、大篝りを焚いて寒氣を凌ぎ、一夜を明すので、火の用心などといふことは少しもないに拘らず、どこにも火の燃え付くことはない。また時により曇つて小雨降る日の暮方、無數の魚が谷川に充ち滿ちて見えることがある。この時は三尺坊が遊獵にお出かけになると云つて、家々は門を鎖して用心する。はじめ秋葉の山上にほのかに火が一つともるかと思ふと、時の間に二つ三つと數が殖え、山も谷も一面の火になる。やがてその火が崩れかゝり、谷川の上から下へ、非常な迅さで翔(かけ)り去る。川端にあるものは何によらず、龍卷に卷かれたやうになくなつてしまふが、山中でこの不思議に出遭つた人は、平地に伏して目を塞いでゐれば何事もない。風雲の吹いて通るやうなもので、數萬の火は消えて、もとの闇に還ると云はれてゐる。

[やぶちゃん注:現在の秋葉神社で十二月十六日に行われている「秋葉の火まつり」の原型であろう。同神社の公式サイトの同祭の頁をリンクさせておく。]

 この秋葉の火に就いては、「耳囊」にも簡單な記載がある。山上に火が燃えて遊行し、雨などの降る時は、川に下りて水上を遊行する。土地の者はこれを天狗の川狩りと稱し、戸を鎖して愼んでゐるといふのは、「雪窓夜話抄」と變りがない。「諸國奇人談」にある大井川の天狗なども、多分秋葉山に屬するものであらう。翅の直徑六尺ばかりある大鳥の如きもの、深夜の川面に飛び來り、上り下りして魚を捕る。人音がすれば忽ち去るので、土手の陰に忍んで、ひそかに窺ふより仕方がない。これは俗にいふ木葉天狗の類だらうといふことである。

[やぶちゃん注:以上の「耳囊」のそれは「卷之三 秋葉の魔火の事」である。私の原文電子化訳注を参照されたい。

『「諸國奇人談」にある大井川の天狗』これは「諸國里人談」の誤りである。同書の「卷之二」の「木葉天狗(このはてんぐ)」のこととしか思われないからである。以下に示す。

   *

駿遠の境大井川に天狗を見る事あり。闇なる夜深更におよんで、潛に封疆塘の陰にしのびてうかゞふに、鳶のごとくなるに翅の徑り六尺ばかりある大鳥のやうなるもの、川面にあまた飛來り、上りくだりして魚をとるのけしきなり。人音すれば忽に去れり。是は俗に云術なき木の葉天狗などいふ類ならん。

   *

文中の「封疆塘」は「どてづつみ」(土手堤)と読むものと思われる。「云術なき」(じゆつなき)と読んでおく。恐らくは「特に神通力を持たない下級の」という意味と判ずる。

「六尺」一・八メートル。思うにこれは、私の好きな哲学者然とした、翼開長が一五〇~一七〇センチメートルにもなる、鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属アオサギ Ardea cinerea の誤認ではないかと疑うものである。]

 

2017/02/22

柴田宵曲 妖異博物館 「適藥」

 

 適藥

 

 

 京の油小路二條上ル町、屛風屋長右衞門の倅長三郎、十二歳になる少年が不思議な病にかゝつた。腹に出來た腫物に口があつて、はつきりものを云ひ、食物は何によらず食ふ。あまり食ひ過ぎては如何かと云つて食はせぬと、大熱を發し、樣々に惡口する。醫師が代る代る治療を加へても、何の利き目もなかつた。病のはじめは五月中旬であつたが、七月に至り菱玄隆といふ博識の名醫に診察を乞うたところ、かういふ病人は本朝では聞いたことがない、異朝の書物に見えてゐるといふことで、先づいろいろな藥を例の口に食はせて見た。然る後、彼が厭がつて食はぬもの五七種を集めて調劑し、病人に服用させた。定めし惡口を云ふであらうが、構はず服藥をお續けなさい、と云つて飮ませて見ると、もの言ふ聲も次第に嗄れ、食物も漸く減じて來た。十日ばかりたつて、長さ一尺一寸、頭に一角のある雨龍の如きものが糞門から出たのを、直ちに打ち殺した。元祿十六年の話といふことになつてゐる(新著聞集)(元祿寶永珍話)。

[やぶちゃん注:私の好きな人面疽(じんめんそ)・人面瘡(そう)物である。因みに言っておくと、しかし、私は人面疽物では手塚治虫の「ブラックジャック」の「人面瘡」以外は面白いと思った作品がない。映画の二重体物の「バスケット・ケース」などはあまりのレベルの低さに最後は大笑いしてしまった。

「嗄れ」「しやがれ」。

「元祿寶永珍話」筆者未詳。本書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。以下に「新著聞集」の方の「雜事篇第十」の「腹中に蛇を生じ言をいひて物を食ふ」を何時もの仕儀で以下に引く(これは同書の掉尾に配されたものである)。

   *

京あぶら小路二條上ル町、屛風や長右衞門といふ者の子、長三郎とて十二歳になりし、元祿十六年五月上旬に、夥しく發熱し、中旬にいたり、腹中に腫物の口あきて、其口より、言便あざやかに、本人の言にしたがひて、ものをいひ、又食事、何によらずくらひけり。若食過ていかゞやとて、押へて噉さゞりければ、大熱おこり、さまざま惡口し、罵り辱しめたり。医師、代る代る來りて、巧をつくしゝかど、何のしるしなかりしが、七月におよび、菱玄隆とて、博識の高医、懇に見とゞけて、かゝる病人、本朝にはいまだつたへ侍らず。異朝の書典にみへ侍りしとて、種々の藥味を、件の口にくはせ試て、かれがいなみて喰はざるものを、五七種あつめ配劑し、さだめてかれ、いぶせくおもひて、いかばかり惡口せんずれ共、すこしもいとひなく服用したまへとて、本人にたてかけ呑せければ、一兩日にぜんぜんに件の口のこゑかれ、食物もやうやくに減少し、十日ばかりして、糞門より、長一尺一寸、額に角一本ありて、その形、雨龍のごとくなる者飛出しを、卽時に打殺してけり。

   *

何やらん、実在するヒト寄生虫らしいしょぼい結末については次段の注の引用も参照されたい。]

 腹中に物あつて何か言ふ話は、應聲蟲と称する。「鹽尻」の記載は殆ど右の通りで、菅玄際なる醫者が、雷丸の入つた湯藥三帖を服せしめんとするに、腹中の聲大いに拒んで、その藥用ふべからずといふ。強ひて飮ませた結果、日を經て聲嗄れ、一蟲を下す。蜥蜴(とかげ)の如くにして額に小角ありといふ。菱玄隆と菅玄際の如きは、筆寫の際に生じた誤りと見るべきであらう。

[やぶちゃん注:「應聲蟲」ウィキには「応声虫」の項がある。以下に引いておく(下線やぶちゃん)。『応声虫による症状』『があらわれた人物の説話は、中国の『朝野僉載』や『文昌雑録』、『遯斎間覧』などに記述がみられ、本草書である『本草綱目』には応声虫に効果があったとされる雷丸(らいがん)や藍(あい)の解説文中にもその存在が言及されている』。『応声虫が人体の中に入り込むと、本人は何もしゃべっていないのに腹の中から問いかけに応じた返事がかえって来るとされる。雷丸(竹に寄生するサルノコシカケ科の一種で漢方薬の一つ』(信頼出来る漢方サイトによれば、サルノコシカケ科 Polyporaceae のライガン Omphalia lapidescens の菌核を乾燥したものとあった)『を服用すれば効果があり、虫も体外に出るという』。『腹の中から虫が声を出すという症状を受け、中国では「自分の意見をもたず付和雷同した意見のみを言う者」を応声虫と揶揄して呼んだともいう』。『日本においても、回虫などの寄生虫のように人間の体内に棲む怪虫によって引き起こされる病気であるとされ、人間がこの病気に冒されると、高熱が』十『日間ほど続いて苦しんだ後、腹に出来物ができ、次第にそれが口のような形になる。この口は病気になった者の喋ったことを口真似するため、応声虫の名がある。喋るだけでなく食べ物も食べる。自ら食べ物を要求し、これを拒むと患者を高熱で苦しめたり、大声で悪口を叫んだりもする』。『江戸時代に記された説話集『新著聞集』や随筆『塩尻』に見られる説話では、以下のように語られている』(ここに原典を出した「新著聞集」の梗概があるが省略する)。また、「閑田次筆」には以下のような話がある。元文三(一七三八)年、『応声虫に取り憑かれているという奥丹波の女性の話を見世物小屋の業者が聞きつけ、見世物に出そうと商談に訪れた。その女性の家を訪ねたところ、女性は確かに応声虫の病気を患っているらしく、腹から声を出していた。女性の夫が言うには、寺へ参拝に行った際、腹から出る声を周囲の人々が怪しみ、とても恥ずかしい思いをしたので、見世物など到底無理とのことだった。こうして業者の思惑は外れてしまったという』。『これらの話は、実在の寄生虫である回虫を綴ったものであり、回虫が腹にいることによる異常な空腹感や、虫下しを飲んで肛門から排泄された回虫の死骸を描写したものであるとも考えられている』『が、前述のように応声虫はもともと中国に存在する説話であり、また『新著聞集』にあるものなどは中国に伝わるものに人面瘡の要素(口のようなできものが発症する点)が加わっており、中国の文献を単純に換骨奪胎し脚色しただけのものであるとする説もある』とある。

「鹽尻」江戸中期の尾張藩士で国学者であった天野信景寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)の随筆。全千巻とも言われる一大随筆集(現存は百七十巻程)。私は所持しない。]

「齊諧俗談」に「遯齋閑覽」を引いてゐるのは、一人の道士の説により、本草を讀んで、その声に應ぜざる藥を飮ませよといふことになる。雷丸に至つて遂に答へなきを見、雷丸を服せしめて癒えたとある。異朝の書物に見えてゐるといふのは、或はこれかも知れぬ。併し「酉陽雜俎」には左の腕に出來た腫物の話がある。この腫物はいはゆる人面瘡で、ものを言ふことはなかつたが、酒を與へれば吸ひ盡し、食物も大概のものは呑却する。名醫の言に聞いて、あらゆるものを與へてゐるうちに、貝母といふ草に逢著したら、腫物は眉を寄せ、口を閉ぢて、敢て食はうとせぬ。貝母の適藥であることを知り、この搾り汁を注いで難病を治し得た。本草を讀んで雷丸に至り答へぬなどは、いさゝか留學的知識に富み過ぎてゐる嫌ひがある。「酉陽雜俎」の記載が古いところであらう。

[やぶちゃん注:「齊諧俗談」「せいかいぞくだん」と読む。大朏東華(おおでとうか:江戸の者とする以外の未詳)著の怪異奇談集。記載は「卷之三」の「應聲蟲」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

遯斎閑覧(とんさいかんらん)に云、往古(むかし)人あり。其人、言語を發する度に、腹中にて小き聲ありて是に應ず。漸々に其聲大なり。然るに一人の道士ありて云、是(これ)應聲蟲なり。但本草を讀べし。其答ざるものを取て、是を治せとおしゆ。困て本草を讀に、雷丸に至て答へず。終に雷丸を數粒服して、すなはち愈たりと云。

   *

「遯齋閑覽」中文サイトによれば、宋代の范正敏の撰になる歴代笑話集とある。中文サイトで同書を閲覧したが、この叙述は見当たらなかった。

「酉陽雜俎」「ゆうようざっそ」(現代仮名遣)と読む。唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。ここで言っているのは、以下。記事にある原文を加工させて貰い、頂戴した。

   *

許卑山人言、江左數十年前、有商人左膊上有瘡、如人面、亦無它苦。商人戲滴酒口中、其面亦赤。以物食之、凡物必食、食多覺膊内肉漲起、疑胃在其中也。或不食之、則一臂瘠焉。有善醫者、教其歷試諸藥、金石草木悉與之。至貝母、其瘡乃聚眉閉口。商人喜曰、此藥必治也。因以小葦筒毀其口灌之、數日成痂、遂愈。

   *

「貝母」「ばいも」と読む。これは中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方される用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要(ここはウィキの「アミガサユリに拠った)。]

柴田宵曲 妖異博物館 「煙草の效用」

 

 煙草の效用

 

 落語の「田能久」で大蛇の化けた老人が、柿澁と煙草の脂(やに)が大嫌ひだと云つたのは、どこまで本當であるかわからぬが、煙草の脂に關する話は若干ないでもない。

[やぶちゃん注:「田能久」「たのきう(たのきゅう)」と読む。個人サイト「落語ばなし」のこちらが痒いところに手が届く優れたシノプシスと解説となっている。必見!]

 備後福山の家中内藤何某が、或時庭に出て來た蛇を杖で強く打つたら、そのまゝ逃れて穴に入つてしまつた。暫くたつて下男が發見して、先ほどの蛇が草の中で死んで居りますといふので、杖でそれを搔きのけようとした時、蛇は頭を擧げて煙の如きものを吹きかけた。煙は内藤の左の眼に入り、蛇は倒れて死んだが、内藤の眼は俄かに痛んで腫れ上り、熱が出て苦しんだ。已に命も危く見えたのを、煙草の脂が蛇に毒であることを思ひ出し、脂を眼に入れたら、次第に腫れが減り痛みもなくなつた。あとはたゞ眼が赤いだけであつたが、日々脂を入れることを怠らず、五六日で快癒した。翌年のその時節にまた眼が痛くなり、醫者の治療を受けてもなほらず、また脂を用ゐてなほつた。こんな話が「北窓瑣談」に出てゐる。著者は醫者だから、全くの浮説でもあるまい。一説に蛇を打つたのは助

左衞門といふ人で、内藤は毒の側杖を食つたのだといふが、これはいづれでも差支へない。肝腎なのは脂が蛇毒に利くといふことだけである。

[やぶちゃん注:以上は「北窓瑣談」の「卷之四」の一節。挿絵とともに吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。冒頭の柱の「一」は除去した。

   *

Karasuhebi

備後福山の家中内藤何某といふ人、或時、庭に出たりしに、烏蛇(うじや)を見付たりしかば、杖もて強く打けるに、其まゝ走りて巣中に入りければ、草の上より頻りに打て尋求けれども、つひに見失ひぬ。暫程へて奴僕見當りて、草中に蛇死し居れりと告しかば、内藤出て、杖もてかきのけんとしける時、其蛇、頭をあげ内藤に向ひ、烟草(たばこ)の煙のごときものを吹かけゝるが、其烟、内藤が左の目に當りて、蛇は其まゝ倒れ死しける。内藤が眼、俄に痛てはれあがり、寒熱(かんねつ)出て苦惱言んかたなし。既に命も失ふべく見えし程に、内藤、煙草のやにの蛇に毒なることを思ひ出して、煙管のやにを眼中に入れしに、漸々に腫消し痛みやはらぎて、一日中に苦惱退き、眼赤きばかりなりしかば、日々にやにを入れたるに、五六日して全く癒たり。其翌年、其時節又眼(め)痛(いたみ)出したるに、色々の眼科醫(めいしや)の治療を施しけれども癒(いえ)ざりしかば、蛇毒の事を思ひ出し、又煙管のやにを入れしに、忽ち癒たり。二三年も其時節には、必眼目痛ければ、いつも其後はやにを入れて癒ぬ。此事、村上彦峻(げんしゆん)物語なりき。又云、蛇(じや)を打し人は助左衞門と云人にて、毒に當りし人は、其庭に居合せし内藤なりとぞ。

   *

「烏蛇」一般にかく古くから呼び慣わす(訓で「からすへび」)のは無毒の有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata の黒変個体である。]

 上總の鹿野山では時々人が行方不明になることがあつた。狒々(ひひ)といふ獸の所爲だと云はれ、人々恐怖するものの、往來に避けられぬ道なので、やはり通らざるを得ない。寛政三年の夏、或村の商人が煙草を一駄買つて、この麓を通り過ぎた時、俄かに山鳴りがしたので、何事かと見上げたところ、恐ろしい蟒(うはばみ)が山から出て、この人を目がけて迫つて來る。一所懸命に逃げ出したけれど、到底蟒の速力にはかなはぬ。路傍の木に大きなうつろがあつたので、急いで逃げ込まうとすると、已に追ひ迫つた蟒がうしろから一呑みにしようとする。辛うじて頭を突込んだだけで、足はまだ外に在つたが、蟒は大口をあけ、背に負つた煙草の荷を一口に呑み去つた。商人は暫くうつろの中に小さくなつてゐるうち、物音もしづまつたやうだから、恐る恐る這ひ出して、跡をも見ずに逃げて歸つた。年頃人を取つたのは、狒々ではなしにこの蟒であつたかと、人々怖毛(おぞけ)をふるつたところ、それから日數を經て、この山を通つた人が、谷間に大きな蟒の死んでゐるのを見出した。已に死骸は腐爛しかけてゐたけれど、頭は例によつて四斗樽ほどあつたから、「その丈もおもひやるべし」とある。煙草は蛇に大毒だから、商人の荷を呑んだため、その毒に中つたものだらうといふ評判であつた(譚海)。

[やぶちゃん注:「上總の鹿野山」これで「鹿野山(かのうざん)」と読む。現在の千葉県君津市にある、千葉県では二番目に高く、上総地方では最高峰である。三峰から成り、白鳥峰(しらとりみね)(東峰)が最高標高で三百七十九メートルある。

「寛政三年」一七九一年。

「一駄」「駄」は助数詞で馬一頭に負わせる荷物の量を「一駄」として、その数量を数えるのに用いた。江戸時代には「一駄」は「三十六貫」(約百三十五キロ)を定量としたが、ここではちょっと重過ぎる。有意に大きな背負い荷物分ぐらいな意味にとっておく。

 以上は「譚海」の「卷之七」の冒頭にある「上總鹿納山(かなうやま)うはゞみの事」である(「鹿納山」はママ)。以下に示す。読みは私のオリジナル。

   *

○上總の加納山には、人(ひと)とり有(あり)て每年人うする事(こと)有。ひゝといふけだ物の所爲(しよゐ)ななどいひ傳へて、人々恐るれども、往來によけぬ道なれば、人のとほる所なり。寛政三年の夏、ある村の商人、たばこを壹駄買(かひ)得て、背に負て麓を退けるに、夥(おびただ)しく山鳴りければ、何事ぞと見あげたるに、すさまじきうはばみ、山のかたより出て、此人をめがけて追來(おひきた)りければ、おそろしきにいちあしを出(いだ)してにげけれども、うはばみやがて追(おひ)かゝりてせまりければ、今はかなはじとおもひて、かたへの木の大成(だいなる)うつろの有けるに、にげ入らんとするに、うはばみ追付(おひつき)てのまんとす。其人ははふはふうろたへかしらさし入(いれ)たれど、足はまだ外に有けるに、此うはばみ大口(おほぐち)をあきて、負(おひ)たるたばこ荷(に)を一口にのみてさりにけり。商人(あきんど)久しくうつろのうちにありて聞(きく)に、やうやう物の音しつまりければ、をづをづはひ出(いで)て跡も見ずはしり歸りつゝ、しかじかの事、あやうき命ひろひつなどかたるに、さればとし頃(ごろ)人とりのあるは、此うはばみ成(なり)けりなど、人々もおのゝき物がたりあひしに、日ごろ經(へ)てある人此(この)山を過(すぎ)たるに、大成(なる)うはばみ谷あひに死してあるを見て、驚きはしりかへりて人に告(つげ)ければ、みなうちぐして行(ゆき)て見るに、はやう死(しに)たる事としられて、體もやうやうくちそこなひ、くさき香(か)鼻をうちてよりつくべうもなし。かしらは四斗樽ほど有けるとぞ、其丈(たけ)もおもひやるべし。さればたばこ蛇のたぐひにきわめて毒なるものなれば、此うはばみたばこの荷をのみたるに、あたりて死たる成(なる)べしといへり、めづらしき事に人いひあへり。

   *]

 まことに十坂峠の老蟒われを欺かずである。それほど毒な煙草の荷を一口に呑却したところを見れば、この蟒も大分あわてたか、然らずんばいさゝか空腹だつたに相違ない。この話は數多い日本の蟒ばなしの中で、最もユーモアに富んだものの一つで、前半が恐ろしさうなだけ、後年に轉化の妙がある。少し工夫して見たら、落語にしても「田能久」に對抗することが出來るかも知れぬ。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(93)「後記」 /「鯨のお詣り」~了

 

 後記

 

「鯨のお詣りは如何した鯨も隨分ながい晝寢だなあ」。「お詣りの道中はなかなかながいですねえ。」と、人々が笑へば、自分も笑つてゐた。その間に、ここまる一年の月日がたつてしまつてゐた。一年の月日が自分に窮餘の一策を教へた。自分は一策を得た。それで「この九月には、いよいよ鯨をお詣りさせてしまひせせう。」といふ橋本政德君の言に同感の意を表することとした。窮餘の一策、それは、この本の扉の文字を松下英麿君に書いて貰ふことにあつあ。松下君の筆を煩はしたのは、同君が、この本を出版しようと言ひ出した中公論社内の發願人であらう、それに對しての愛想ではない。日頃、豪快に飮み、帋縑と見るや、則ち墨塗りの至藝を發揮するといふ噂のある同君の藝當に執着してしまつてゐるからである。

[やぶちゃん注:「橋本政德」不詳。中央公論社の編集者か。

「松下英麿」(明治四〇(一九〇七)年~平成二(一九九〇)年)編集者で美術研究家。長野県生まれ。早稲田大学英文科卒業後、中央公論社に入社、本書刊行の昭和一五(一九四〇)年からは『中央公論』編集部長を務めた。

「帋縑」「シケン」と音読みする。「帋」は「紙」に同じで、「縑」は訓「かとり」(「固織(かたお)り」の音変化)で、「目を緻密固く織った平織りの絹布」、「かとりぎぬ」のことで、要は墨書・揮毫し得るものという謂いであろう。]

 文字や表紙等の板の彫りには伊上次郎君を煩はした。次郎君は、拙い自分の畫を生かして彫つてくれてゐた、故伊上凡骨の息子である。たとへば、芥川龍之介之介の黃雀風の表紙、あの當時の凡骨の彫師としての氣合ひは、今日では感謝の種である。

[やぶちゃん注:「伊上凡骨」「いがみぼんこつ」と読む。木版画彫師。本名は純蔵。徳島県生まれで、浮世絵版画の彫師大倉半兵衛の弟子。明治時代に於ける新聞・雑誌の挿絵は原画の複製木版画であったが、凡骨は洋画の筆触・質感を彫刀で巧みに表現し、名摺師の西村熊吉の協力を得て、美事な複製版画を作った(以上は「百科事典マイペディア」に拠った)。Kozokotani氏のブログ『「北方人」日記』の記事によれば、「伊上次郎」は実際には実子ではなく養子で、後に二代目「凡骨」を継いだらしい。]

 見返しには父の生家の林泉圖を複製して用ゐた。安政二卯年調であるから、亡父誕生十年前の林泉である。

 

  昭和十五年夏       小穴 隆一

 

 

[やぶちゃん注:以下に奥付を画像で示す。]

 

Kujiranoomairiokuduke



小穴隆一「鯨のお詣り」(92)「一游亭句集」(4)「田端」 /「鯨のお詣り」本文~了

 

 田端

 

 

 からたちの芽やいつしかにつくし草

 

 からたちは玉(たま)となるかや梅雨ぐもり

 

   一昔たちて大阪に人を訪ぬ

 白壁(しらかべ)はまぼし小皿(こざら)のわらびもち

 

 食(を)すも旅わらびもちなとひるさがり

 

   靑梅にて二句

    壜の中の皆二匹づゝなれば、どれが

   雌か雄かと言ひ、雌を容れておいては

   鳴かぬと言ひ切らる。

 おぞましく事(こと)たづねたり河鹿(かじか)どの

 

 旅立つや雨にぬれたる草ばうき

 

 今年の丈(たけ)のびきりつ葉鷄頭(はげいとう)

 

   雨の夜將棋盤を購ふ

 これはこれ獨り稽古の將棋盤

 

[やぶちゃん注:私は将棋の「金」「銀」の駒の動かし方も知らぬ輩であるが、恐らくは湿気を嫌う将棋板を雨の夜に買うというシチュエーションに既にして句の翳りがセットされているのではあろう。]

 

 山獨活(やまうど)を食(た)ぶる冥利の淸水(しみづ)哉

 

   東海道

 ひがん花(ばな)富士はかうべに晝の月

 

   三千院、寂光院へまゐる

 ひがん花殘りてぞあれ大原(おほはら)や

 

 白萩(しらはぎ)や目に須磨寺(すまでら)の昔かな

 

          昭和二年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。以上の以って「後記」を除いた「鯨のお詣り」の本文は終わっている。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(91)「一游亭句集」(3)「鵠沼」

 

 鵠沼

 

   卽事

 甲蟲(かぶとむし)落ちて死んだるさるすべり

 

   海濱九月

 膝ををる砂地(すなぢ)通(かよ)ふや黃(あめ)の牛

 

   二百二十日も無事にすみたるにて

 去年(こぞ)の栗ゆでてすみたるくもりかな

 

 潮騷(しほさ)ゐや鶺鴒(せきれい)なとぶ井戸の端(はた)

 

 らん竹(ちく)に鋏(はさみ)いれたる曇り哉

 

[やぶちゃん注:「らん竹」「蘭竹」であるが、これは特定の植物種ではなく、東洋文人画の蘭と竹を配したもの絵を指している。蘭・竹・菊・梅の四種の植物は、中国では古来より「四君子(しくんし)」と称され、徳・学・礼・節を備えた人のシンボルであった。蘭は〈高雅な香と気品〉を、竹は冬にも葉を落とさず青々として曲がらぬところから〈高節の士〉を指すとされた。ここはそうした絵に鋏を入れて切り裂くという画家ならではの反逆的シチュエーションと私は採る。大方の御叱正を俟つ。]

 

 ひときはにあをきは草の松林

 

 わくら葉(ば)は蝶(てふ)となりけり糸すゝき

 

 この釜(かま)は貰ひ釜(がま)なるひとり釜(がま)

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「鵠沼・鎌倉のころ」パートの「鵠沼」に参考画像として私が出したの釜であろう。]

 

   人に答へて

   鵠沼はひとり屋根にもの音をきく

 湯やたぎる凍(し)みて霜夜(しもよ)の松ぼくり

 

 夜具綿(やぐわた)は糸瓜(へちま)の棚に干しもせよ

 

   若衆二人にて栗うりをなすに

 大(おほ)つぶもまじへて栗のはしり哉

 

 うすら日(ひ)を糸瓜(へちま)かわけり井戸の端(はた)

 

 鳳仙花種をわりてぞもずのこゑ

 

 つぼ燒きのさざえならべて寒(かん)の明け

 

 足袋(たび)を干す畠(はたけ)の木にも枝のなり

 

 垣(かき)に足袋干させてわれは鄰りびと

 

 

   しちりんに手をかくること

   またあるべくもなき鵠沼を去るにのぞみ

 一冬(ひとふゆ)は竈(かまど)につめし松ぼくり

 

          大正十五年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。]

 

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(90)「一游亭句集」(2)(四句)

 

         ○

 

   小春日

 蘇鐡(そてつ)の實(み)赤きがままも店(みせ)ざらし

 

   歳暮の詞

 からたちも枯れては馬の繫(つな)がるる

 

 ゆく年やなほ身ひとつの墨すゞり

 

   アパート住ひの正月二日

 けふよりは凧(たこ)がかかれる木立(こだち)かな

 

          大正九年――大正十四年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。

 考えるに、この添えられた句数は四句、しかも「鄰の笛」と纏めて作句年代が最後にクレジットされてあるということは、この四句こそが小穴隆一が「鄰の笛」のために校正段階で芥川龍之介の句数五十句に合わせて削除した幻しの四句と断じてよかろう。妙な褒め方であるが、正しい削除である。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(89)「一游亭句集」(1)「鄰の笛」(全)~芥川龍之介との二人句集の小穴隆一分五十句全!

 

 一游亭句集

 

 

  鄰の笛

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介との二人(ににん)句集で大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句とともに掲載されたものの小穴一游亭隆一の発句五十句である。

 芥川龍之介分の五十句は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「鄰の笛――大正九年より同十四年に至る年代順――」を参照されたい。近い将来、芥川龍之介のそれとこの小穴隆一のこれをカップリングした、初出「鄰の笛」の原型に近いものを電子テクスト化したいと考えている。暫くお待ちあれかし。

私は当該初出誌を所持せず、現認したこともないので断言は出来ないが、龍之介のものが「芥川龍之介」署名である以上、以下の小穴隆一分も「小穴隆一」署名と考えてよいと思う)。岩波書店旧「芥川龍之介全集」の編者の「後記」によると、文末に次の一文があるとする。

   *

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

   *

なお、大正十四年七月、芥川龍之介はこの二人句集「鄰の笛」掲載について以下のような記載を残している

 七月二十七日附小穴隆一宛葉書(旧全集書簡番号一三四八書簡)では、

「冠省 僕の句は逆編年順に新しいのを先に書く事にする、君はどちらでも。僕は何年に作つたかとんとわからん。唯うろ覺えの記憶により排列するのみ。これだけ言ひ忘れし故ちよつと」

とある。続く八月五日附小穴隆一宛一三五〇書簡では、

「あのつけ句省くのは惜しいが 考へて見ると僕の立句に君の脇だけついてゐるのは君に不利な誤解を岡やき連に與へないとも限らずそれ故見合せたいと存候へばもう二句ほど發句を書いて下さい洗馬の句などにまだ佳いのがあつたと存候右當用耳」

と続き、八月十二日附小穴隆一宛一三五四書簡では、

「けふ淸書してみれば、君の句は五十四句あり、從つて四句だけ削る事となる 就いては五十四句とも改造へまはしたれば、校正の節 どれでも四句お削り下され度し。愚按ずるに大利根やもらひ紙は削りても、お蠶樣の祝ひ酒や米搗虫は保存し度し。匆々。」

最後に八月二十五日附小穴隆一宛一三五八書簡で、

「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に候。」

となって(太字やぶちゃん)、出版社関係の個人名が挙げられ、経緯と今後の対応が綴られている。[ちなみに全集類聚版ではここが八二字削除されている]。

 察するに、芥川龍之介は親友の小穴を軽く見た、『改造』編集者への強い不快感を持ったのである(それと関係があるやなしや分からぬが、翌大正十五年の『改造』の新年号の原稿を芥川は十二月十日に断っている)。以上は私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で注した内容の一部に手を加えたものである。

 なお、その経緯の中に現われる「大利根や」は以下の、

 

大利根や霜枯れ葦の足寒ぶに

 

の句を、「もらひ紙」は、

 

よごもりにしぐるる路を貰紙

 

を、「お蠶樣の祝ひ酒」は、

 

ゆく秋やお蠶樣の祝ひ酒

 

を「米搗虫」は、

 

ゆく秋を米搗き虫のひとつかな

 

の句を指すから、当然と言えば当然乍ら、芥川龍之介の望んだ句は削除対象四句から外されていることが判る。]

 

 

   信濃洗馬にて 

 雪消(ゆきげ)する檐(のき)の雫(しづく)や夜半(よは)の山(やま)

 

 伸餅(のしもち)に足跡つけてやれ子ども

 

 雨降るや茸(たけ)のにほひの古疊(ふるだたみ)

 

 百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り

 

   雨日

 熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

 

 けふ晴れて枝(えだ)のほそぼそ暮(くれ)の雪

 

   庚申十三夜に遲るること三日 言問の

   渡に碧童先生と遊ぶ

 身をよせて船出(ふなで)待つまののぼり月(づき)

 

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、前書を改行した。以下、長いものでは同じ仕儀をした。以下、この注は略す。

「庚申十三夜」旧暦九月十三日の十三夜に行う月待(つきまち)の庚申(こうしん)講(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事)。但し、ここの「庚申」とは、その定日や狭義の真の庚申講(庚申会(え))を指すのではなく、ただの夜遊びの謂いと思われる。

「言問の渡」「こととひのわたし」。浅草直近東の、現在の隅田川に架かる言問橋(ことといばし)の附近にあった渡し場。架橋以前は「竹屋の渡し」と称した渡船場があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 薯汁(いもじる)の夜(よ)から風(かぜ)は起(た)ち曇(くも)る

 

 山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)

 

 手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉

 

   厠上

 木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「厠上」後でルビを振っているが「しじやう(しじょう)」と読み、「厠(かわや)にて」の意。]

 

 鳥蕎麥(とりそば)に骨(ほね)もうち嚙むさむさ哉

 

 わが庭をまぎれ鷄(どり)かや殘り雪

 

   暮秋

 豆菊(まめぎく)は熨斗(のし)代(がは)りなるそば粉哉

 

 籠(かご)洗ひ招鳥(をどり)に寒き日影かな

 

[やぶちゃん注:「招鳥(をどり)」は現代仮名遣「おとり」で、「媒鳥」「囮」の字を当てる。鳥差しに於いて仲間の鳥を誘い寄せるために使う、飼い慣らしてある鳥のこと。「招き寄せる鳥」の意である「招鳥(おきとり)」が転じたものとも言われる。秋の季語である。]

 

   冬夜 信濃の俗 鳥肌を寒ぶ寒ぶと云ふ

 寒(さ)ぶ寒ぶの手を浸(ひた)したる湯垢(ゆあか)かな

 

 雉(きじ)料理(れう)る手に血もつかぬ寒さかな

 

 壜(びん)の影小窓に移す夜寒(よさむ)哉

 

 鶴の足ほそりて寒し凧(いかのぼり)

 

 大利根(とね)や霜枯(しもが)れ葦(あし)の足(あし)寒(さ)ぶに

 

 尺あまり枝もはなれて冬木立(ふゆこだち)

 

 まろまりて落つる雀の雪氣(ゆきげ)哉

 

   三の輪の梅林寺にて

 厠上(しじやう) 朝貌(あさがほ)は木にてかそけき尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「三の輪の梅林寺」現在の東京都台東区三ノ輪にある曹洞宗華嶽山梅林寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「厠上」は電子化した通り、句上部に同ポイントで入る。但し、これは句の一部ではなく、句意を強調するために前書とせずに句頭に掲げたもので、或いは小穴隆一はポイントを小さくする予定だったものかも知れぬ。似たような用例は芭蕉の名句、

 狂句こがらしの身は竹齋(ちくさい)に似たる哉(かな)

は言うに及ばず、後の芥川龍之介の大正一五(一九二六)年九月の『驢馬』「近詠」欄初出形、

 破調(はてう) 兎(うさぎ)も片耳垂(かたみみた)るる大暑(たいしよ)かな

でも見られる。そこでは芥川龍之介は「破調」のポイントを落している。但し、後に龍之介はこれを前書に移している。]

 

   すでに冬至なり そこひの伯父は

   庭鳥の世話もづくがなければ賣つ

   ぱらふ

 餌(ゑ)こぼしを庭に殘せる寒さかな

 

[やぶちゃん注:「づくがなければ」こちらの記載によれば長野方言のようである(現代仮名遣では「づく」は「ずく」のようである)。「億劫でそれをする気が起こらない・根気がない・やる気が続かない」といった感じの意味合いを持つものと考えてよい。

「庭鳥」「にはとり」。鷄。]

 

 連れだちてまむしゆびなり苳(ふき)の薹(たう)

 

[やぶちゃん注:「まむしゆび」別名「杓文字(しゃもじ)指」とかなどと呼ばれるが、医学的には「短指症(たんししょう)」と称し、指が正常より短い形態変異を広く指す。爪の縦長が短く、幅があって、横に爪が広がっているような状態に見える。実際には手の指より足の指(特に第四指)に多く見られ、成長とともに目立つようになるという。女性に多く見られる遺伝的要因が大きいとされる先天性奇形の一種であるが、機能障害がない限り(通常は障害は認められない)は治療の対象外である。ここは蕗の薹を採るその手(兄弟の子らか)であるから、手の指、特に目立つ親指のそれかも知れぬ。一万人に一人とされるが、私は多くの教え子のそれを見ているので、確率はもっと高く、疾患としてではなく、普通の他の個体・個人差として認識すべきものと考える。]

 

   望郷

 四五日は雪もあらうが春日(はるひ)哉

 

 庭の花咲ける日永(ひなが)の駄菓子(だぐわし)哉

 

   端午興

 酒の座の坊(ぼう)やの鯉(こひ)は屋根の上

 

 桐の花山遠(とほ)のいて咲ける哉

 

 夏の夜の蟲も殺せぬ獨りかな

 

 豌豆(ゑんどう)のこぼれたさきに蟆子(ぶと)ひとつ

 

[やぶちゃん注:「蟆子(ぶと)」「蚋」(ぶゆ・ぶよ)に同じい。昆虫綱双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae に属するブユ類の総称。体長は標準的には二~八ミリメートルで蠅に似るものの小さい種が多い(但し、大型種もいる)。体は黒又は灰色で、はねは透明で大きい。の成虫は人畜に群がって吸血し、疼痛を与える。これ自体も(「豌豆」は夏)夏の季語である。]

 

 餝屋(かざりや)の槌音(つちおと)絶ゆる夜長かな

 

   澄江堂主人送別の句に云ふ 

    霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

   卽ち留別の句を作す

 木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や

 

   望郷

 山に咲く辛夷(こぶし)待つかやおぼろ月

 

 しやうぶ咲く日(ひ)のうつらうつら哉

 

 庭石も暑(あつ)うはなりぬ花あやめ

 

   長崎土産のちり紙、尋あま少なるを貰ひて

 よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

  

   大正十二年正月脱疽にて足を失ふ

   松葉杖をかりて少しく步行に堪ふるに

   及び一夏を相模鎌倉に送る 小町園所見

 葉を枯(か)れて蓮(はちす)と咲(さ)ける花(はな)あやめ

 

   短夜

 水盤に蚊の落ちたるぞうたてなる

 

   平野屋にて三句

 藤棚の空をかぎれをいきれかな

 

 山吹を指すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ)

 

 月かげは風のもよりの太鼓かな

 

   思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

 獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

 

[やぶちゃん注:先行する帳」で前書にルビを振っており、「思遠人」は「ゑんじんをおもふ」で、「祕露」は「ペルー」。]

 

 しぐるるや窓に茘枝の花ばかり

 

[やぶちゃん注:「茘枝」ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis。花は(ウィキ画像)。]

 

   よき硯をひとつほしとおもふ

 ゆく秋を雨にうたせて硯やな

 

   せつぶんのまめ

 よべの豆はばかりまでのさむさかな

 

 みひとつに蚊やりうち焚く夜更けかな

 

 笹餅は河鹿(かじか)につけておくりけり

 

 

[やぶちゃん注:「河鹿」これは奇異に思われる向きもあろうが、私は断然、これは両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri であると思う。その何とも言えぬ美声を賞玩するために人に贈ったのである。これは近代まで嘗ては普通に季節の贈答として行われていたからである。]

 

 ゆく秋やお蠶樣(かひこさま)の祝ひ酒

 

 ゆく秋を米搗(こめつ)き虫(むし)のひとつかな

 

[やぶちゃん注:「虫」はママ。ここまでが「鄰の笛」の小穴隆一分全五十句である。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(88)「答人」

 

 答人

 

 童(わらべ)ありて、駱駝(らくだ)を描(ゑが)くに、

 駱駝の顏、

 まこと駱駝の顏なれど

 駱駝の足(あし)、

 駱駝の足はまこと松葉杖をつきたらむにも似つ、

 さればわれわが杖をとりて庭に出(い)で、

 首(かうべ)をのべて童にわが駱駝の足を見するかな。

 

 童あり、脱疽にて足頸(あしくび)を失へるわが脚(あし)、

 わが脚は袋(ふくろ)かむせてあれば、

 馬の首(くび)馬の首とてうち囃(はや)す。

 まこと馬の首に似つ、わが脚。

 さればわれわが片足を撫(ぶ)して立ち、

 馬首(ばしゆ)を廻(めぐら)して童に嘶(いなゝ)きてみするかな。

 

 童あり、「おまきかへ」をするわが部屋に入込(いりこ)みて、

 踵(くびす)なきわが足の創口(きりくち)を窺(のぞ)き、

 象(ぞう)の鼻(はな)象の鼻とて喜悦す。

 まことわが足は象の鼻の如くなりて癒ゆるかな。

 さればわがこころ象となりて、

 わが象の鼻をのばし、ふりたてて童に戲むる。

 

[やぶちゃん注:「答人」の標題にルビはない。謂いは「人に答ふ」であるが、「タフジン(トウジン)」と音で読ませる気かも知れぬ。

「おまきかへ」老婆心乍ら、「お卷き替へ」で切断面をカバーしている繃帯を取って交換し、巻き替えることである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(87)「秋色」

 

 秋色

 

    行く秋や身に引まとふ三布蒲團   芭蕉

 

 紅葉(もみぢ)は

 ――庭の落葉(おちば)

 桐油合羽(とおゆ)を通(とほ)したのは

 ――障子が開(あ)いてゐて吹きこんだ時雨(しぐれ)

 遠く辿(たど)つてゐた小徑(こみち)は

 

 ――廊下

 

 林の中に佇んでゐたが

 ――それは茶を汲みに這入(はい)つた茶間(ちやのま)

 さうして樹(き)の上のあの猿は

 ――如何(どう)した事か微(うす)ぐらい部屋の隅の簞笥(たんす)の上に

 日頃(ひごろ)元氣な兒(こ)がくぼまつてゐたのだ

 

[やぶちゃん注:私は本パート五篇の内、最も好きなものである。最後のシークエンスが慄っとするほど素敵だ!

 芭蕉の添え句は「韻塞(いんふたぎ)」「泊船」などに載り、服部土芳編「蕉翁句集」(=蕉翁文集一冊「風」・宝暦六(一七五六)年完成)では貞享五・元禄元(一六八八)年作とする句。「三布蒲團」(小穴はルビを振っていない)は「みのぶとん」と読み、「三幅布團」とも書く。三幅(みの:「の」は和装織物の最も一般的な幅。和服地では鯨尺九寸五分で約三十六センチ。「みの」はその三倍であるから一メートル八センチ相当)の大きさに作った布団。如何にも貧弱で、事実、寒い。芭蕉庵の独り寝の侘びしさを伝える。

「桐油合羽(とおゆ)」四字へのルビ。桐油(とうゆ)は桐油紙(とうゆがみ)で油紙(美濃紙などの厚手の和紙に柿渋を塗って乾燥させてその上に桐油または荏油(えのあぶら)を何度も塗り乾かした強靱な防水紙)。これを表の素材とし、裏に薄布を合わせた防水着を「桐油合羽(とうゆがっぱ)」と名づけ、古くから外出着・旅行用合羽として用いられた。]

2017/02/21

小穴隆一「鯨のお詣り」(86)「儚なきことすぎて」

 

 儚なきことすぎて

 

 はかなきはことすぎて

 きおくにかへることぞ

 あはれたらちねのははの骨(こつ)

 おのれがたけよりもおほいなる甕(かめ)にいるるとて

 のぞきみしたるおぼえはあれど

 さて

 そのふたいかにせしかはおほえずによ――

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(85)「雨中山吹」

 

 雨中山吹

 

 あしくびはやきばにゆきていづこゆきたらむ

 あはれはらばひてとざせるへやをいづるに

 いつもいつもさかぬやまぶきはなつきて

 あめのしもとあめのしもと

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(84)「偶興」

 

[やぶちゃん注:以下、小穴隆一「鯨のお詣り」の詩篇パート。散文では散々読者を苦しめる小穴隆一であるが、詩篇では俄然、その朦朧体が優れたサンボリスムを醸し出すことが判る。孰れも、いい。

 

 

 偶興

 

 あしのゆびきりてとられしそのときは

 すでにひとのかたちをうしなへる

 あしのくびきりてとられしそのときは

 すでにつるのすがたとなりにけむ

 あしのくびきりてとられしそのときゆ

 わがみのすがたつるとなり

 かげをばひきてとびてゆく

 

 

[やぶちゃん注:この詩篇の本文自体(標題「隅興」」は無し)は既に游心帳で掲げてはいる。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(83)「又三郎の學校」

 

 又三郎の學校

 

 四十年も前の事である。母に死なれた子供達はその父に連れられて函館から祖父が住む信州に、倅(せがれ)に後添(のちぞへ)が出來た、孫共は祖父に連れられて再び函館の倅へといつた次第で、そのをりの私の祖父の長帳(ながちやう)に綴ぢた道中記には確か松島見物の歌などもあつた筈ではあるが、東北の人に東北は始めてですかと聞かれれば、始めてですと答へるよりほかにないその東北に、物の一つ一つが珍しい旅をすることができた。尤も私が步いたのは單に花卷(はなのまき)、盛岡、瀧澤の範圍だけである。

[やぶちゃん注:「長帳」主に近世の商人(あきんど)が営業用に用いた帳簿の一つ。その形式。

「瀧澤」現在の岩手県の中部に位置する滝沢市。盛岡市の北西に接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 私は最近坪田讓治から宮澤賢治といふ名を始めて聞いた。書店は私に宮澤賢治全集、宮澤賢治名作選、註文の多い料理店等(など)の本を呉れた。また賢治の會(くわい)といふものが、東京から盛岡にかけて幾箇(いくつ)かある事も聞かされた。

[やぶちゃん注:「宮澤賢治全集」文圃(ぶんぽ)堂版全三巻本と思われる(昭和九(一九三四)年~ 昭和十年刊行)。

「註文の多い料理店」短編集「注文の多い料理店――イーハトヴ童話――」の初版本は大正一三(一九二四)年十二月一日に盛岡市杜陵出版部及び東京光原社を発売元とし、千部が自費出版同様に出版されたている(発行人は盛岡高等農林学校で一年後輩に当たる近森善一)が、当時、賢治は一部の識者以外には殆んど知られておらず、定価一円六十銭と当時としては比較的高価であったこともあり、殆どが売れ残ったという(ウィキの「註文の多い料理店」に拠る)。本文で書店が呉れたと小穴は言っているから、ずっと後の、別書店からの再刊本であろう。]

 しかしながら自分のやうな者は、本來安井曾太郎と中川一政の二人を偉いと思つてゐればよいので、正直なところ宮澤賢治の故郷花卷(はなのまき)のはづれや、瀧澤から二つさきの放牧場で、向うの山の麓(ふもと)、あれが啄木の出たところですと人々に指さし教へられても、これはなかなか戰國時代だなあと腹の中に呟きこんでゐたのである。

[やぶちゃん注:言わずもがな、現在の岩手県盛岡市渋民。ここ(グーグル・マップ・データ)。実際には啄木は現在の盛岡市日戸(ひのと)生まれ(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、一歳で渋民に移っており、ここもそちらと採っておく。]

 私はただ「風の又三郎」の作者を生んだ土地を見、かたがたのその又三郎を入れるのに適當な學校を探すために、遙々(はるばる)奧州へも下つてみたのである。

 斯う書けば、宮澤賢治の敬愛すべき父母(ふぼ)、またよきその弟、また幾箇(いくつ)かの賢治の會(くわい)、この賢治の會には、賢治が彼の意圖(いと)のコンパスを擴(ひろ)げて土を耕し小屋を建て、その小屋に童共(わらべども)を集めてグリムやアンデルセンの物を聞かせてゐったと聞く、當時の童が今日は齡(よはひ)二十四五、農學校に教諭として彼を持つた生徒の齡は三十三四、斯ういつた人達もゐるであらうに、私の感情が冷たいとの誤解があるかも知れない。

 私が又三郎を入れる學校は、彼(かれ)宮澤賢治がその作物を盜みぬかれてゐたその一つ一つの跡へ、薄(すゝき)の穗を一本づゝ插しておいたといふ畑の橫を流れてゐる北上川の渡を渡つて行つた島(しま)分教場であつた。

 島分教場は兒童の在籍數

 

Matasaburounogakkou

 

といふ學校である。[やぶちゃん注:以上は底本をスキャンし、画像で取り込んだ。]

 讀者はこの學校の所在地を貧窮なものとして考へるかも知れない。私も見ないうちはさう考へてゐた。見ればその部落は甚だ綺麗で、作物も立派であり、家々は少くとも私の家よりは堂々としてをり、そこに豐かで落ついた靜かな暮しが想はれるのである。

 それに戸每(こごと)の戸袋(とぶくろ)には意匠がほどこしてあるのである。一軒の家に殊に立派なものがあつた。私は一寸見た時始め佛壇が戸外(こぐわい)に安置されてゐるのかと思つた。漆喰(しつくひ)でかためたものであつた。私の興味は花卷(はなのまき)に殘つてゐる足輕(あしがる)同心(どうしん)の家よりもあの部落の戸袋に殘つてゐる。

 風の又三郎を讀んでゐる人の中には、先生が三人、生徒が計百十一人といふ學校では、少々建物(たてもの)が大きすぎるといふ人があるかも知れない。

  ツヤ(クレヨン)

  四年京子(綴方(つゞりかた))六錢預(あづか)り

           十月二日

 と書いてある職員室の黑板から目を離して、室(しつ)の入口に立戾つて、改めて入口から室にはいるその眞正面を見れば、そこにはお宮(みや)が安置されてあるのを見るが、短い廊下を左に廻れば、又三郎の學校に相應(ふさ)ふべき狀(さま)の臍緒(へそのを)が、雨天體操場(うてんたいさうぢやう)にも講堂にもならうといふやうに改造されてはゐるが、依然として今日でも殘されてゐるのである。臍緒(へそのを)、つまり現在島(しま)分教場となつてゐるそもそもの建物(たてもの)は、講堂と講堂正面の黑板の左の玄關、右の先生の部屋それなのである。

 先生の部屋か住居(すまゐ)か、柱のカレンダーは今日(けふ)の日を示してゐるとは思はれないほどの、幾(いく)十年かの昔の空氣を持つてゐた。その講堂の黑板の中央の上にもお宮が安置されてゐた。校舍のなかがあまりに淸潔で、一寸私にお宮のなかを步ある)かせられてゐるといふ奇異な感じを持たせ、講堂のお宮の橫にくつついて大きなベルがあつたことが、

「これは大變だ、神樣も耳のそばでベルを鳴らされたのではおちおち晝寢もできまい。」と思はず私に私達を案内して呉れた先生の前でも言はせてしまつたのである。

 黒板の左が玄關、玄關といつても、そこは今日(こんにち)玄關として使用されてはゐない。暗い小さいその部屋には小使(こづかひ)であらう婦人が一人靜かに爐の火を搔立(かきた)ててゐた。入口はといふ淸六さんの問ひに先生は、

「そこの窓のところです。」と答へた。私はその窓とすれすれに桑の畑を見た。

[やぶちゃん注:「淸六さん」宮澤賢治の実弟宮澤清六(明治三七(一九〇四)年~平成一三(二〇〇一)年)。]

 私達は再び織員室に戾つて茶の馳走になり、今日の玄關の入口の前の二宮金次郎の銅像にも別れを告げて歸路についた。

「どうもあの先生は神主くさい。」

 といふ私の言葉に、淸六さんが、

「神主です。いまでも何かの時には神主の裝束(しやうぞく)をつけて出かけてゆくのです。」と答へた。

 何年か前の花時(はなどき)の事、女房と近所の童女を連れて上野の動物園に行つたことがあつた。一わたり園内を歩き廻つて、燈火(とうくわ)がつき夜間開場あることに氣づいた。さうして、だんだん世智辛(せちから)くなると動物園の動物まで夜勤をしなければ喰(た)べてゆかれぬのかと思つた。しかし、あの島分教場の講堂の上の神樣には、ベルが鳴る度(たび)ににこにこして扉のなかから兒童の姿を見てゐるのである。私は日も落ちてしまつ北上川の渡船(わたしぶね)のなかの空氣、暗(やみ)のなかにさくさくと草を喰(は)む馬のけはひ、ああいつたものに再び出會ふことを夢にも考へてゐなかつた。私は幸福であつた。その日(ひ)森さんが路の落栗(おちくり)を一つ拾つて私に呉れた。私は家に持つて歸つて女房に渡した。女房は東北の人間である。この栗が私の家の申譯(まうしわけ)ばかりの庭に芽を生やす時こそ見物(みもの)である。

[やぶちゃん注:「森さん」不詳。]

 盛岡といふ所も甚だ愉快に思へた。私を愉快にしたのは何も賢治の會の方々ではないのである。私は公園で、オホコノハヅクと梟(ふくろ)を樂(たのし)んで見た。盛岡の高橋さんは私に教師の手帖といふ隨筆集を呉れた。高橋さんの隨筆集を讀めば、梟(ふくろ)は善(よ)い鳥ではないらしい。しかし、小桶(こをけ)の中に入つては水を浴び、まつ黑い鐡砲玉のやうな目をきよとんとさせては、ぷるぷると羽根をふるはせてゐる梟(ふくろ)の顏をみてゐれば、飽きもせぬたのしさを時(とき)をすごすものである。

[やぶちゃん注:「オホコノハヅク」フクロウ目フクロウ科 Otus 属オオコノハズク Otus lempiji

「梟(ふくろ)」同前フクロウ科 Strigidae の他種を広範囲に指す。

「高橋さん」不詳。]

 盛岡は明るいユウモワがある土地である。案内役を買つて呉れた菊池さんの兄さんの小泉さんの家(うち)に一夜(や)の宿を借りたのであるが、翌朝の私は鳶(とび)の聲で目が醒めた。寢床に起きなほつて枕の覆ひの手拭(てぬぐひ)に目を落すと、鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)といふ文字が染出されてゐたのである。鳶に鷹がこれほどにぴつたりこようとは思ひもつかなかつた。

[やぶちゃん注:「菊地さん」不詳。

「鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)」不詳。]

 馬賊鬚(ばぞくひげ)を生やし、よく乾燥した、つまり筋肉が引きしまつて精悍な小泉さんは瀧澤の種畜場(しゆちくぢやう)に電話をかけて馬車の交渉をして、私を瀧澤の放牧地へ連れて行つて呉れたのであるが、南部の鼻まがりに對し何(なん)とかのまがり家(や)といつて、居(ゐ)ながらに馬ツ子(こ)に注意ができるやうになつてゐる民家を見ながら、相當の距離を走つてゐた時であつた。私達男ばかりがざつと十人も乘込んでゐる馬車をたつた一人の男が止めたのである。

[やぶちゃん注:「小泉さん」不詳。]

 私は何かと思つた、誰(た)れかが馬車を止めた相當の年配をした堂々たる體軀(たいく)の其(その)男に錢(ぜに)を渡した。するとその男が馬車を離れて馭者が馬に鞭を加へた。

 馬車の後ろに席をとてつてゐた私には、その男が何者であるかを了解できなかつたのであるが、馬車とその男の間(あひだ)にへだたりができて始めて、股引(もゝひき)もなく半纏(はんてん)だけの膝(ひざ)を叩いて笑つてこちらを見送つてゐる、その男の膝のところに偉大なるものが笑つてゐるのを認めて一切を了解した。私は馬を見にきて馬を見ずに馬のやうな奴を見たとと言つた。するとそれ迄は一言(ひとこと)も言はなかつた皆(みんな)が急に陽氣に笑つた。ことによると、人々が東北健兒の物のサンプルと思はれては困ると心配してゐたのかも知れない。

 私は私達のその日の愉快なピクニツクで、始めて馬も喰はぬといふ鈴蘭に赤い綺麗な實み)があるのもみた。馬車の馬も車を離れて飛び廻つての歸途、夫人子供を連れた知事が瀧澤の驛から種畜場(しゆちくぢやう)迄私達を運んだ馬車に乘つて後(あと)から驅けてきた。知事に先に路を讓つた私達に知事は目禮して行つたが、私達は知事もやはり偉大なる魔羅に喜捨をとられたであらうと笑ひながら心配してゐた。

 以前の場所に以前の男が矢張(やは)りゐた。既に喜捨をした一行とみて今度は近よりかけてやめてしまつた。實話雜誌の社長といふものは私達と違つて何でも知つてゐるらしいが、私達が、知事は婦人子供の手前二十錢もとられたらうと騷いだといふ話をしたら、一度見たい、盛岡までは自分はよく行くからと言つてゐた。謹嚴な坪田讓治でさへもが、井上友一郎(ともいちらう)勵ます會(くわい)に出席してこの瀧澤の傑物(けつぶつ)の話を傳へて人々を喜ばせたさうである。

 男子は須(すべ)からく男根隆々たるべきか。

[やぶちゃん注:「井上友一郎」(明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は作家。大阪市生まれ。早稲田大学仏文科卒。『都新聞』記者となり、昭和一四(一九三九)年に『文学者』で『残夢』を発表、作家生活に入った。風俗小説作家として活躍し、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、昭和二四(一九四九)年発表の小説「絶壁」が宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると非難されて抗議を受け、一九七〇年代には忘れられた作家となった(以上はウィキの「井上友一郎に拠った)。

「男子は須からく男根隆々たるべき」ここで本書後半では久しぶりに芥川龍之介に繋がるように書かれてある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(82)「一游亭雜記」(13)「ミコチヤン」

 

         ミコチヤン

 

 ミコチヤンが家(うち)の前を行き過ぎると、「おい、赤坊(あかんぼう)が通るよ。」ミコチヤンが垣根のそとに立つてゐると、「おい、赤坊がゐるよ。」と私は女房に呼ばはる。また、ミコチヤンも女房に逢ふ度(たび)ごとに何時(いつ)も、「ヲヂチヤンナニシテヰル。」と聞くといふ。しかし、ミコチヤンは何時(いつ)となく私を避けてゐるのである。さうなつてからの一日(にち)、私の晩めしの前に坐つていつしよに食事をするミコチヤンの顏に、私はミコチヤンを認めたのである。私は臺所の女房に、「おい、赤坊は赤坊といはれるのをいやがるんだねえ。」と言つた。すると「ウン、ミコチヤンダヨ、」と、ミコチヤンが小聲で言つてにつこりした。ミコチヤンは小さい口を開けては私の箸の先から魚肉を食べてゐたのである。ミコチャンももう數へ歳(どし)で三つになつてゐた。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(81)「一游亭雜記」(12)「カザグルマ」

 

         カザグルマ

 

(女房の先生のそのまた先生の學生時代の話。)

 女房の女學校の御作法(おさはふ)の先生が始めて唱歌を習つた時には、

「ミヅグルマー」

「ミヅノマアニマアニメグルナリー」チヨン

 と、先生が拍子木(ひやうしぎ)を打つて教へてゐたといふ。

「カザグルマー」チヨン

「カゼノーマアニマアニメグルナリー」チヨン

 があまりに可笑しいので先生は笑つて、先生に叱られた由。またこの話を聞かされた生徒一同は皆(みな)笑つて、「何が可笑しいんです」と東北辯(べん)の先生、卽ち拍子木の生徒に叱られてしまつたといふ。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(80)「一游亭雜記」(11)「昔ばなし」

 

         昔ばなし

 

          1

 

「兵隊さんのおならはネトネトしてる」

 喇叭(らつぱ)のリズムをとつて、斯(か)ういふ言葉を歌にしてゐる童(わらべ)の聲を垣根のそとに聞いた時に、わたしの心には卒然として、

「ちよこちよこ連隊十三聯隊、まら○○前へおーい」

 と、いふ言葉が湧(わ)いた。

 三十何年の前にもなる日露戰爭當時の佐世保、服部中佐の銅像がある軍港佐世保その街で、わたし達少年は舟越海軍少佐の子も品部陸軍大尉の子も、喇叭のリズムに合はせて、ちよこちよこ聯隊十三聯隊まら○○前へおーいを、息脹(いきふくら)めて歌つてゐたのである。

[やぶちゃん注:「まら○○」「○○」には子らの姓が入るのか。「まら」は男根の意か。好く判らぬ。識者の御教授を乞う。

「服部中佐の銅像」戦前にあった海軍中佐の銅像(昭和十八年頃の軍事物資不足による金属供出で消失したものであろう)。よく判らぬが、日清戦争の大沽砲塁の戦いで戦死した海軍指揮官の服部雄吉中佐のことか?

「舟越海軍少佐」日露戦争の第二艦隊司令部の参謀に船越海軍少佐というのがいるが、これか?

「品部陸軍大尉」不詳。]

 

          2

 

 當時の佐世保尋常小學校には唱歌室などはなく、樂器の何物をも持たない先生が手ぶらで教壇に立つて、まづ一小節を歌つては口うつしで萬事(ばんじ)わたし達に歌はせてゐたものである。諸君が歌つてゐる軍隊の行進を思浮(おのひうか)べてくれれば幸(さいはひ)である。先生は一小節ごとに手拍子足拍子で、「アヽ、コリヤコリヤ」と合(あひ)の手を入れた、日露の戰(いくさ)まつさかりの時故(ゆゑ)、教(をそは)つたものは軍歌の類と、美しき天然(てんねん)である。

「アヽ、コリヤコリヤ」

 われら生徒は歌の興(きよう)酣(たけなは)なるにいたれば、机を叩き、床を蹴り、一小節ごとに聲を張上げてゐたのである。

 

          3

 

 何時(いつ)か、「アヽ、コリヤコリヤ」の先生、そのわたし達を受持つてゐた先生が去つて、何時か神戸から新任の先生が來た。

 唱歌の時間、この紙戸から來た先生とて、樂器無しには無論(むろん)口うつし法であつた。神戸の先生にとつての最初の唱歌時間、先生の歌に、アヽ、コリヤコリヤといつせいに合(あひ)の手を入れた生徒達を先生は驚いたらしい。東京から來た生徒、卽ち、わたしも初めは不思議な土地だと思つてもゐたのである。

「皆(みんな)が何時もさういふことをいふのか。」

「ハイ。前の先生には左樣にして教(をそ)はつてをりました。」「アヽ、コリヤコリヤは下等だから止めなければいけない。」と、いつたやうな先生と生徒、三十何年前の古き時代の神戸の先生、その羊羹色(やうかんいろ)の服は、モーニング・コートであつた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(79)「一游亭雜記」(10)「賣れつ子」

 

         賣れつ子

 

(RESTURANT・Xにて)

 一番の賣れつ子といふものはなかなか閙(いそが)しい。だから不潔で年中虱(しらみ)をわかしてゐる。

(BAR・Yにて)

 あの洋裝のモガ? あれはこないだ階段から落ちて、ズロースの奧までみせたからもうこの店には出てゐない。

(CAFE・Zにて)

 はだかのキユーピーに六十圓も衣裝代をかけたここのKチャンは、ここのマネーヂヤアと結婚、幸福で目出度い。

 こんな話はY君の話である。

 このY君は、知らぬこととはいへ知らぬ間(ま)に、自分がこの不景氣に一人でも失業者を出してゐたといふことは、氣の毒なことをしたと思つてゐる。と、車のなかで、笑ひながら話してゐた。

 Y君がY君の義兄の家に行つて、話をしてゐたら、知らぬ間にそこの女中に箒(はうき)を逆さにたてられてゐた。姉がそれを知つて咎めた。女中は斷然非を認めない。姉も斷然あやまれと言ふ。あやまらない女中は馘首(くわくしゆ)されたといふのである。

[やぶちゃん注:「閙」(音「ドウ」)は一般には「騒がしい」の意味である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(78)「一游亭雜記」(9)「白と赤」

 

         白と赤

 

 白のパジヤマを着てウクレレを持つのはモデル女。

 ――顏は黑い。ポーズが終了してもなほそのパジヤマの白を凌がんがほどにお白粉を亂用してゐる。

 赤のセミ・イーヴニングを着てバンジオを持つのはお孃さん。

 ――顏は白い。ポーズが終ればそのドレスに似せて色取(いろど)れる顏を拭(ぬぐ)ひ跡を人に示さない。

[やぶちゃん注:「バンジオ」弦楽器のバンジョー(banjo)。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(77)「一游亭雜記」(8)「自畫像」

 

         自畫像

 

 二人の時、飯を食ひながら女房は私に斯う言つたものである。

「あなた、あんなお母さんの子にどうしてあんな可愛らしいお孃さんが出來たんだらう、ねえ。」

 三人の時、火鉢を圍みながらの話にお孃さんは斯う私達に語つた。

「母と一緒に歩くとはづかしい。」

 ――乍去(さりながら)描(か)かれた畫面をみれば、悲しむべし。母娘(おやこ)の相違は、單に娘が斷髮であり、洋裝であるといふ以外に示す何物もない。私をして愕然たらしめたものは、おそるべし。お孃さん自身の手になる木炭畫の數枚、その自畫像であつた。私は最初母親がポーズしたものと思つた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(76)「一游亭雜記」(7)「襁褓」

 

         襁褓

 

 實の子供を生んで育てて、夫と子供二人計三人を同時に失つた母親が口をとんがらせて言ひつのつた。

「このおしめだつてさ、かう天日(てのぴ)で乾(かはか)したのと炭火で乾したのとでは違ふんだよ。お前達は子供を産んだことがないから知らないだらうが、お母さんなんぞはさんざんためしてきたんだからね。」

 すると、もうやがて年頃の娘が突如としてその母親を詰(なじ)つた。

「あら、さう、お母さんはわたしをためしに使つたの?」

 母親はふてくされてしまつた。

「ああ、さうさ、お母さんの言ふことは、みんないろいろにためしてきたことなんだからねえ」

 娘の顏は蒼ざめて既に大人である表情を現はしてゐた。

 

[やぶちゃん注:「襁褓」私は「むつき」と読みたくなるが、ここは本文に即して「おしめ」と読んでいよう。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(75)「一游亭雜記」(6)「廣告術」

 

         廣告術

 

「今日は三越明日は帝劇」といふ言葉は、濱田氏が往年まだ三越の平社員である時代に、考へついた言葉である。しかし、株式會社がこれを使用するに至るまでには、これまた一年の考慮があつたといふ。濱田氏がその「今日は三越、明日は帝劇」で年金を貰つたか如何(どう)かは知らない。(江川正之から聞いた話。)

[やぶちゃん注:ウィキの「三越」によれば、この宣伝文句の使用は大正二(一九一三)年のことで、『東宝が日本初の西洋式の劇場として帝国劇場を開設。来場客に無料で配付した一枚刷りの「筋書き」(プログラム)に掲載された広告のキャッチ・フレーズ』に用いられたのが初回であったという。『「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」は当時の有閑富裕階級の女性を象徴する一般庶民の憧れだと鮮烈に印象付けた。コピーライターは浜田四郎(三越の広告担当)。ポスター用の婦人画は竹久夢二だった』とある。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(74)「一游亭雜記」(5)「初戀の味は年金」

 

         初戀の味は年金

 

 初戀の味については演説の必要もないであらう。

 僕はここに、「初戀の味」といふことばを考へた、世にも幸福なその一人の人物を人々に紹介してみたいのである。

 始めに、彼は地方の中學の漢文の教師であつた。と書かなければならない。およそそれに似合はしくもない漢文の教師が「カルピスの味は初戀の味」といふ言葉を得た。ともかくも彼はそこに初戀の味といふ言葉を考へ得たとみえる。先生が斷じた「初戀の味」といふ言葉をカルピス社が拾つた。會社は、初戀の味に關する東西古今の文獻、小説、戲曲などについて、改めて調査する事一年の長きに亙つたといふが、結論して現はれてきたものも、初戀の味といふものがやはりさう惡いものではない。唯(たゞ)、それにつきてゐたといふ。結果、會社がこれを廣告用の字句として採用することに一決して、羨むべし漢文の先生! 先生は先生が考へた「初戀の味」といふ言葉に對して、カルピス會社から光榮ある年金を獲得するに至つたのである。

 自分がこの話を書く今日、時遲く、すでに肝心の漢文の先生は幸福にも地下に眠つてゐる。先生の年金も亦今日では先生の遺族扶助料に變じてゐるといふのである。(江川正之から聞いた話。)

[やぶちゃん注:ここに記されていることは事実で、「カルピス㈱」公式サイトの「創業者三島海雲」にも記されている。この考案者は三島の学生時代の後輩で、当時の中学校国漢教師であった驪城(こまき)卓爾である。それによれば、大正九(一九二〇)年、驪城が『甘くて酸っぱい「カルピス」は「初恋の味」だ。これで売り出しなさい』と提案したが、海雲は一度は『とんでもない』と断ったとあり、結局、それが採用されて最初に用いられたのは、大正一一(一九二二)年四月の新聞広告のキャッチ・フレーズとしてであったとあり、その画像も小さいながら、見ることが出来る(視認するに『カルピスの一杯に初戀の味がある』とある)。彼は少なくとも大阪府立今宮中学校に奉職していいた時期があり、こちらのページで驪城氏の顔写真も見ることが出来る。

「江川正之」出版者。純粋造本を志向した江川書房の創立者として知られる。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(73)「一游亭雜記」(4)「金田君と村田少將」

 

        金田君と村田少將

 

 醫學士金田君は、高等學校時代に、弓で鳴らしたものだといふのが蒔淸(まきせい)の話である。

[やぶちゃん注:「金田君」不詳。

「蒔淸」遠藤古原草。]

 然し彼金田君に於いては、一日(にち)、庭木に猫を吊るして矢を放つたところ、如何(どう)間違つてか、猫は繩からはなれて金田君よりも死物狂(しにものぐる)ひに金田君に飛びついてきた。それで、弓術名譽の彼が無慙(むざん)にも、目をつぶつてめくらめつぱうに地蹈鞴蹈(ぢたんだ)んで、弓で地べたを叩きまはつてゐた。と、告白してゐる。

 爾來十數年、人には怖ぢぬ金田君の猫をこはがることこれはまた尋常ではない。であるから僕は、もし金田君との喧嘩ならば猫を連れてゆかうとひそかに思つてゐる。

 

 玉突場がへりの途(みち)で蒔淸から聴いた話である。

 ――村田少將は、あの村田銃のさ、金田は一度弓道部の學生として、少將の家に行つたさうだ。金田のことだから例の調子でしやべりたてたことだらう。とにかく村田少將、キユーを手にしてゐたのださうだがね、撞球(どうきう)の數學的であり且つまた全身にわたる運動である所以(ゆゑん)を盛んに説いてゐたさうだ。それからそのその頃弓銃(きうじう)の考案をやつてゐて、障子を明けると書割のやうに正面に的場(まとば)が出來てゐたといふが、それを珠臺(たまだい)のこつちから射(う)つてみせて弓銃の效能を述べてゐたさうだ。

 

 僕の玉は? 僕は中學で幾何(きか)では零點(れいてん)を貰つたことがあるのである。おまけに中年(ちうねん)隻脚(せききやく)となつてしまつた。到底村田少將のやうなわけにはゆかん。

 勝負は氣合(きあひ)ものときめてゐる。

[やぶちゃん注:「村田少將」「あの村田銃の」旧薩摩藩藩士で日本陸軍軍人の村田経芳(天保九(一八三八)年~大正一〇(一九二一)年)。明治一三(一八八〇)年に最初の国産銃である十三年式村田銃を開発した人物。

「キユー」ビリヤード(billiards)のキュー(cue)。

「弓銃」所謂、洋弓、クロスボウ(crossbow)のことか。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(72)「一游亭雜記」(3)「臼井君」

 

         臼井君

 

 昨日は朝五時に起きた。玄關に行つてみたが新聞もきてかない。ゼリーで腹をこはしたやうだから自分で風呂を焚いてはいつた。風呂から出たら步けると思つた。そこで自分の足で往復できる臼井君の家(いへ)まで行つた。お役人の臼井君は日曜の朝寢をやつてゐた。それで庭のはうにまはつてみたら、普通ならば石が竝べてありさうなところを、夥(おびただ)しい靴墨ととお白粉(しろい)との空瓶(あきびん)がさしたててあつて、乏しい葉つぱの紫蘇(しそ)などが大切に圍はれてあつた。それで自分は、臼井君のために、臼井君の日本(につぽん)の生活が今日では三年に及んでゐることを嘆じた。が、それと一しよに、その殺伐なる庭のなかに、郊外の一風景を發見して立つてゐた。

[やぶちゃん注:「臼井君」不詳。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(71)「一游亭雜記」(2)「老紳士」

 

         老紳士

 

 僕の家(いへ)の前を二丁ほど行くとゴルフ練習場に出る。このゴルフ場の橫に空地がある。そこを木村壯八(さうはち)のところの若者達が三角ベースで野球をする場所としてゐる。またこの傍(そば)には、早慶戰のレコードなどかけてゐる郊外建(だ)ての家がある。その家の主人公は、女中に練習場のキヤデイと同じやうな小さいバケツを持たせて、一人で悠々と二月の風のさなかを、僕等の三角ベースのグラウンドで、ゴルフに興じてゐたのである。

[やぶちゃん注:「木村壯八」(明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)は東京生まれの洋画家・版画家・随筆家。ルビは「そうはち」だが、一般には「しょうはち」(現代仮名遣)と読む。岸田劉生と親しく、大正元(一九一二)年の「ヒュウザン会」結成に参加している。大正一一(一九二二)年の「春陽会」創設には客員として参加、大正末頃から小説の挿絵の注文が増え、特に昭和一二(一九三七)年の『朝日新聞』に連載された永井荷風の「濹東綺譚」では作品とともに爆発的人気を博した。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(70)「一游亭雜記」(1)「男の子」

 

 一游亭雜記

 

 

         男の子

 

 別に通る人もない二月なかばの日の事である。

 夕方、一軒を置いて隣同志の男の子供達は、めいめいの家(いへ)の門(もん)を出てかちあつた。ことによるとそれは、僕の家で買つてゐたときらしい。子供達が豆腐屋の桶をのぞきこんだ。七つの子が五つの子に

「コノナカニオシツコヲスルト、アワガブクブクタッチオモシロイヨ。」

 と言つた。

 五つの子はちんちを出してみた。七つのはうもちんぽこを出した。さうして、同時にオシツコをしてしまつた。子供達が愉快とした事も、その桶のなかのアブクから露顯してしてしまつて、雙方の親が桶の豆腐を辨償した。わるいことには、豆腐屋はその豆腐を捨てずに、またほかに持ちまはつて賣つてゐたものらしいのである。

 氣持ちのいいものだ。僕は少年時代に度々(たびたび)浴槽のなかで小便をした。その話を、話を聞かせた家人に聞かせて、自今(じこん)豆腐は豆腐屋まで買ひにゆくべしと堅く申渡しておいた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(69)「子供」(7)「角力」

 

         角力

 

 繼母(けいぼ)ができた。私達はまた函館に戾された。さうしてまた東京に來た。私は永代橋の上から一錢蒸気を眺めて暮してゐた。(函館の港のふちで暮した自分は船大工(ふなだいく)になるつもりでゐた。)家(いへ)は深川からまたすぐ本郷に移つた。これでは私の父がルンペンであつたかの樣であるが、その頃の父は郵船の社員で、轉任また轉任が、私の尋常一年を函館、深川、小石川と三つの學校に分けてもゐたのである。

 本郷に移つて私にはまだ一人(ひとり)の友達もない。私は家の近所を一人でしよんぼり步きまはつて、いつか路地のなかで角力(すまふ)をして遊んでゐる一團の子供の集りをみてゐた。みてゐるうちに私にも角力が面白く思へた。行司をのぞいた角力のなかで一番強い子供をみてゐると如何(どう)したのか、なんだこんな奴、耳を引つぱつてしまへばなんでもないと思ひだした。

 すると腕がむずむずして、

「かててけれやあ」

 と言つた。すると、皆が何だいと聞きなほしたから、また「かててけれやあ」と言つた。

「なんだ田舎つぺい、面白いぞ、いれてやれ」といつて皆が角力仲間にしてくれた。私は函館で相撲見物につれていつて貰ひ、何枚かの一枚繪を買つて貰つた覺えはあるが、本職の角力を見物したのは、天にも地にもそれかぎりであるし、まして子供に四十八手もなにもなかつた。ガムシヤラなフンバリで順々に相手を負かし、最後に一番強さうな子が出てきた時に、私はいきなり相手の左右の耳をぎゆつとつかんでフンバツタ。皆がやあやあ言つてゐたが、やあやあもへつたくれもなくガンバツテゐるうちに私の勝になつた。向ふも耳の吊出(つりだ)しの手で、もう一度もう一度でくるのを我慢しとほしたら、「やあ、この田舍つペ強いぞ、またおいで、」と行司がまた遊びにこいと誘つてくれた。

 私は私が耳の吊出しで勝つた相手の子と後(のち)に偶然同じ學校で同級生となつた。高木といふ米屋の子であつた。

 私は高木の耳をみて大きなとんがつた耳だなあと思つた。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(68)「子供」(7)「銅像の手」

 

         銅像の手

 

 一體私の幼年時代の大人という者はげえねえ、子供のこはがる話ばかりして聞かせてゐたものである。萬藤(まんとう)の先代が大學病院に入院してゐた頃、伯母も松本から來てゐて、私の家(いへ)に泊つてゐた。入院してゐた萬藤の伯父は、病院の銅像がいけない子供を喰べて地だらけな口をして、每晩夜中になると窓から自分の室(しつ)に遊びにきていろいろな話をする、そんな話を私に聞かせた。私は或る晩私の胸に觸つた手を、銅像の手だと思つて、聲も出せず蒲團のなかで兩手を力いつぱいに握りつづけてゐたが、床をならべて寢てゐた伯母の手にちがひないのである。私は後年、每晩子供を喰べる銅像の前に改めて立つてみて妙な氣がした。先代の萬藤は寫眞を見れば全くにが蟲を嚙潰(かみつぶ)したといふ面(つら)である。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。私なら事実でなくても、エンディングを「私は後年、每晩子供を喰べる銅像の前に改めて立つてみて妙な氣がした。先代の萬藤は寫眞を見れば全くその銅像と瓜二つの、にが蟲を嚙潰したといふ面であつたからである。」としたであろう。小穴隆一の嘘はつけない生真面目さが伝わってくる。

 

「萬藤」不詳。小穴の親族であろうが、商家の屋号のようである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(67)「子供」(6)「地震」

 

         地震

 

 子供の時靑瓢簞(あをべうたん)と人に言はれた。またこの靑瓢簞は靑瓢簞なるとともに存外の臆病者であつたのである。

 或る晩のこと、ふと目をさますと大頭の大(おほ)どろばうが唐紙の䕃に蹲(うづくま)まつて、こちらの部屋の樣子をぢつとみてゐる。敷居のところに大きな顏を半分出してゐるのである。私はいつしよに寝てゐる父を起こすこともできずに、蒲團のなかにぴつたりとなつたまま、掛蒲團の橫の下から大頭の人間をそうつと見つめてゐた。すると家が搖れだした。私はどろばうが家(いへ)を搖すぶつてゐるのだと思つたから、一層默つたまま蒲團にしがみついてゐた。すると父が大聲で私の名を呼立(よびた)てて、蒲團をはぎとつて私を引立(ひきた)てた。夜の明け方の地震であつたのである。大頭の大どろばうは家の提燈(ちやうちん)であつた。

 私はこはがつても、泣くとか、聲をたてるとかといふことはしなかつた。非常にこはいと思つた時には敷蒲團の偶に潜つてゐた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(66)「子供」(5)「旗」

 

         

 

 食べられない河豚(ふぐ)を釣る。あれも釣りであらう。幼稚園から尋常一年になる頃函館にゐて、河豚を釣つては下駄で潰してぽんと音をたてるのをたのしんでゐた。その力(ちから)をこめて河豚の腹を蹈潰(ふみつぶ)してゐた足が今日では義足である。日露戰爭の時には佐世保にゐて、島屋(しまや)のをぢさんに一度烏賊(いか)釣りに連れていつて貰つた。

 どうも釣りの樂しさは食べられない河豚を釣つてゐる幼年の頃にあるやうだ。

 函館といへば、私の母は函館で亡くなつたのであるが、朝起こされて便所につれてゆかれ小便をしたら、一枚あけた雨戸の間から母が庭へ凧(たこ)を出し、すうつとそれがあがつたのが目についてゐるのである。儚(はか)ないが私が母に對する記憶はこの一つしかない。凧の形はハタといふのである。(私とすぐ上の姉とは長崎生れである。)ハタが繪も字もないまつ白なものであつたのは、ことによると母が夜なべにこしらへておいたものなのかも知れない。

小穴隆一「鯨のお詣り」(65)「子供」(4)「子供の復讐」

 

         子供の復讐

 

 草箒(くさばうき)を持つて、大勢で赤とんぼを追ひかけまはつてゐた私、お菓子は家(いへ)の玄關のわきの部屋にはいるといつでもあつた。胸の高さまであつたその木箱に、そつと手を入れては、いつぱいに摑出(つかみだ)してゐた私、おばあさんから黑砂糖を貰つてしやぶつてゐた私。

 日野家(ひのや)はおぢいさんの家に向つて左鄰(どな)り、右鄰りの家に二人の子がゐた。

 私はなんで腹を立ててたか、兄弟、その弟が家の前を通るのをめがけて家のなかにつつたつたままで石を投げた。石はその子の頭にあたつて、その子は頭をおさへて泣きながら家にとんでいつてしまつた。頭から血が流れてゐたやうに思つてゐるが、おぢいさんから叱られた記憶もなし、その事あつて間もなくその子の家に行つて、茶の罐(くわん)の蓋を薄い餅にあてて、せんべいを何枚かつくつて遊んだ覺えのあるところを思ひ考へると、せいぜい瘤(こぶ)の一つ位(ぐらゐ)といふところかも知れない。

 私は私のしたことを忘れてゐて、一日(にち)、私が石を投げつけたその兄弟に誘はれて山に行つた。兄弟は麥畑(むぎばたけ)の上に屋根を出してゐる牛屋(うしや)を指さして、一寸あそこまで行つてくるからここに待つておいでと、私を殘したまま靑い麥畑の中に驅込むんでしまつた。どの位(くらゐ)待つてゐたかいまもつてわからないが、私は殘されてぢつと待つてゐた。日がとつぷり暮れて私はその山路(やまぢ)に泣いてゐた。暗いなかから私に聲をかけた大人がゐた。その大人は私の伯父であつた。私は薪(まき)を背負つた伯父に連れられておぢいさんのところに歸つてきた。

 後年幾度か、私は、私が六歳の時泣いて立つてゐた場所を、なつかしんでそこに立つてみた。

 私はうし公(こう)とそれから私に復讐をしたその兄弟がなつかしく、度々(たびたび)人々にその行方を聞いてもみたが、誰(だ)れもうし公やその兄弟の事を忘れてゐて知つてゐる者がない。

小穴隆一「鯨のお詣り」(64)「子供」(3)「洗馬宿」

 

         洗馬宿(せばじゆく)

 

 村のまんなかにあつた學校の屋根は、高い高い、ものであつた。

 さうして、その學校のうしろには大きい山があつた。

 學校、奇異なその建物(たてもの)のてつぺんには、木曾義仲が馬の脚を洗つてゐる刻物(ほりもの)がのつかつてゐた。

 時をり、自分はしみじみとしてそれを眺めてゐた。

 晴れた日の空のなかに高く、川は群靑(ぐんじやう)に、鎧(よろひ)が紅(あか)で、流れで馬の脚を洗つてやつてゐるその木曾の義仲はすつかり自分の氣に入つた。しかし、いくつもの峠を馬に乘つてきた自分を、山の中におぢいさんの家にゐる自分を、――お父さんは一人で函館に歸つてしまつた。――私の好きな海に大きい汽船が浮いてゐる函館を――ぼんやり考へてゐた。

[やぶちゃん注:標題柱にルビが振られているのは本書ではこの章のみである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(63)「子供」(2)「とんもろこし」

 

         とんもろこし

 

 母は函館で死んだ。それで一時、私達、二人の姉と一人の弟と私、四人の孫が信州のおぢいさんの家に預けられた。私は鄰の日野家(ひのや)のうし公(こう)から小便で泥饅頭(どろまんぢう)をつくることを教(をそ)はつた。土をよせあつめてそこを肱(ひぢ)でちよいちよいと凹(へこ)ませて、小便を少しづつたらせばいくつかの饅頭が出来る愉快な遊び、あれである。

 私が日野家からどれだけのとんもろこしを貰つたものか見當もつかないでゐる。しんばかりになつたのを持つてゆくとまた實(み)のついたのが貰へたから。

 日野家には牛がいくつかゐて、私が食べたあとのしんをみんな引受けてくれてゐたのである。

小穴隆一「鯨のお詣り」(62)「子供」(1)「猫におもちや」

 

 子供

 

 

         猫におもちや

 

 仔猫を貰つて大事にしてゐたものである。その頃の私は月に二三囘外出するかしないかのの暮しをしてゐた。それは足がわるくてろくろく步けないから、長い間にさういふ習慣が自然と私についてしまつてゐたのだ。私は外出をする。さうすると、必ず猫のために何か買つてやらなければ、落着いて街にゐるわけにもゆかなかつた。私はいつも氣をつけて猫のよろこびさうなおもちやを街でさがしてきたが、畢竟私は人間であり、仔猫といへども猫は獸であるから、私の買つてきたものに猫はいつも滿足してはゐなかつた。猫に買つたのではあるが、人の子のおもちやはこれを人の子に、いつか一つ二つと人の子にやつてしまつた。

 私には子供がない。それがために、いつか大道商人がらスモール・バアドを買つて、「坊チヤンが喜びますぜ」と愛嬌をふりまかれた私は、私の笑ひをしたがその時の笑ひを依然として今日(こんにち)でも持つてゐる。

 猫のおもちやだといつて人の子のおもちやがなかなか買へるものではない。

[やぶちゃん注:「スモール・バアド」子供の大型玩具の乗用ペダル・カーに同名のものがあるが、これは戦後の一九六〇年代以降の出現であるし、流石に猫のためのおもちゃには買って帰るまい。デコイ風の小鳥の木製フィギアか、小鳥の形をした木笛か(しかし後者だったら小穴隆一ならそう説明する気もする)。識者の御教授を乞う。]

2017/02/20

小穴隆一「鯨のお詣り」(61)「伯父」(2)「T伯父」

 

         T伯父

 

 T伯父さんは私の祖父の實家の人である。T伯父、この伯父は舊家に生れた有德(うとく)の人である。はつきりと言へば、今井四郎兼平の嫡流と書かなければならない。

[やぶちゃん注:「今井四郎兼平」(仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年)は言わずと知れた、木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人で、粟津の戦いで討死にした義仲の後を追って凄絶な自害を遂げた人物である。]

 私は一度父に連れられて、この伯父と淺草に一緒に行つた子供の頃の記憶を持つのである。珍世界の鄰の小屋では芝居をやつてゐたと思ふ。私は楠公子別(なんこうこわか)れの場面が描(か)いてあつたその小屋の繪看板に見惚(みと)れて、もう少しのところで、迷子になつてしまふところであつた。何處(どこ)ぞで御飯も食べた。何を食べたかは憶えてもゐない。廊下を步いてゆく藝者と姐(ねえ)さんの髪飾(かみかざり)が不思議であつたらしい。

[やぶちゃん注:「珍世界」明治三五(一九〇二)年から明治四十一年まで浅草六区にあった妖しげな珍奇博物標本を展示した見世物感覚のテーマ・パーク。小穴隆一は明治二一(一八九四)年十一月二十八日生まれであるから、「子供の頃」とある以上、開館当時の十四歳頃か。]

 伯父はまた一度、私が描いた風景畫を見て、これはどこの眞景かと聞いたことがある。伯父の眞景といふ言葉は私の耳に甚だ愉快ではあつたと同時に、伯父と私との年齡の開きを非常に感じさせられもした。

 私が二十何歳の頃であつたか、記憶にのぼるかぎりではこれが始めてではあるが、私はK伯父さんに連れられてT伯父さんの家(いへ)に行つた。

 T伯父をはじめてその家に訪ねた時に、私に文具料と書いて水引のかけてある立派な紙包を貰つた。さうして伯父の家を辭してから、K伯父と私は眞晝の上諏訪と下諏訪との間の道をてくてくと步いてゐた。この途中茶屋のやうな家で鮨(すし)を食べた。その勘定の時に、私はK伯父にさとられぬやうにこの紙包の金に手をつけた。包の中にはきちんとした一枚の一圓札がはいつてゐたのである。後で祖母にT伯父からお金を貰つたが、途中でつかつてしまつたといつたら叱られた。私はK伯父の汽車賃やら何やら立替(たてか)へてゐたものであるからともいへずに、頭を搔いてしまつた。この文具料から後(のち)十五年以上も經過して、私は父に信州にあつた空家(あきや)を一軒貰つたのである。空家にあつた物は、十七歳の時から國を出た父のあらかたの手紙、鼠の糞にまみれたさういふ物ばかりで、その間から

[やぶちゃん注:以下、特異的に漢文体の書状を一切の読み無しで掲げ、後に【 】で最低の読みを附して示した。原文は総ルビである。最後の署名以下はブラウザの不具合を配慮して字配を操作した。]

  敬白

 父上様母上様御中日久しく度々不和相生候段誠に以て私儀心配仕淚胸中に滿ち難忍落淚仕事更に無之候依て父の御惠愛を以て此事御聞入被下置偏に御中睦親之段只管に奉悃願候此事情口上にて申上べく之所鈍愚之口に恐懼して難述依て如此相認御忿如をも不顧諫書仕候此段偏に御聞入被下度肺肝を碎き奉歎願候

右之情皆下女○○より起りたる事に御座候間彼をお雇なく暇遣候ば宜敷御座候彼有らば愈家に大害を生じ御名を汚すに至るかと奉存候此段御聞屆之程偏に奉願候

右之條々私心を御洞察被下御聞入被下置候はば雀躍歡喜生涯中之幸福元より大なるは無候之偏に奉歎願候

    ○○○○

         頓首謹白

  ○○父上大君樣

【 敬白

 父上様母上様御中(おんなか)日久(ひひさ)しく度々(たびたび)不和相生候段(あひしやうじさふらふだん)誠に以て私(わたくし)儀心配仕(つかまつり)淚胸中に滿ち難忍(しのびがたく)落淚仕(つかまつりし)事更に無之(これなく)候依(よつ)て父の御(ご)惠愛を以て此(この)事御聞入被下置(おきゝいれくだされおき)偏(ひとへ)に御中(おんなか)睦親(ぼくしん)之(の)段只管(ひたすら)に奉悃願(こんぐわんたてまつり)候此(この)事情口上(こうじやう)にて申上(まうしあぐ)べく之(の)所鈍愚(どんぐ)之(の)口(くち)に恐懼(きようく)して難述(のべがたく)依(よつ)て如此(かくのごとく)相(あひ)認(したゝめ)御忿如(ごふんじよ)をも不顧(かへりみず)諫書(かんしよ)仕(つかまつり)候此(この)段偏(ひとへ)に御聞入被下度(おきゝいれくだされたく)肺肝(はいかん)を碎き奉歎願候(たんぐわんたてまつりさふらふ)

右之(の)情皆下女○○より起りたる事に御座候間(あひだ)彼をお雇(やとひ)なく暇(いとま)遣候(つかはしさふらは)ば宜敷(よろしく)御座候彼(かれ)有らば愈(いよいよ)家(いへ)に大害(たいがい)を生(しやう)じ御名(おんな)を汚(けが)すに至るかと奉存候(ぞんじたてまつりさふらふ)此段御聞屆(おききとどけ)之(の)程偏(ひとへ)に奉願候(ねがひたてまつりさふらふ)

右之條々私心(ししん)を御洞察(ごどうさつ)被下(くだされ)御聞入被下置候(おきゝおきくだされさふらは)はば雀躍歡喜生涯中(ちう)之(の)幸福元より大なるは無候(なくさふらふ)之(これ)偏(ひとへ)に奉歎願候(ぐわんたてまつりさふらふ)

    ○○○○

         頓首謹白(とんしゆきんぱく)

  ○○父上大君(たいくん)樣】

 と認(したゝ)めた一通の書狀が出た。

 伏字以外は原文どほりである。

 正にT伯父が少年時代の筆蹟と思はれる物、私はこれを別にして保存してゐた。保存しておいて三年、たまたま叔母の死ぬに遇つて、諏訪に行つた時に、私はその席で伯父に幾年ぶりかで逢へた。

[やぶちゃん注:以下、同然の異例の処置を施した。]

 芳簡拜披殘暑今以て殘り候處益益御健勝奉賀候偖先日○○にてお話有之候祕書御戾し被下難有受納致候老生多年心掛り之品入手致し安堵之至云々

【芳簡(はうかん)拜披(はいひ)殘暑今以て殘り候處益益(ますます)御健勝奉賀(がしたてまつり)候偖(さて)先日○○にてお話有之(これあり)候祕書(ひしょ)御戾し被下(くだされ)難有(ありがたく)受納(じふなふ)致候老生(らうせい)多年心掛り之(の)品(しな)入手致し安堵之(の)至(いたり)云々】

 これが伯父が生涯中(ちう)に唯一度(ど)私に書いた手紙である。

 T伯父、これもまた數年前(ぜん)に死んでしまつてゐるのである。

 私はいま、どうしてそれが私のおぢいさんの手にあつたものか。どうしてまた私のところに移つたものか。その時分はおやぢの前に出てはとても物などいへるものではない。それで、あれを書いてそつとおやぢの机の上にのせて置いたものだが、それについておやぢは一言(こと)もいはず、自分もまた一言もいへず、人に話しもできず、ただその後(あと)はその書いた物をおやぢはどうしたかと、そればかり苦(く)になつてゐて、未だに苦にしてゐた物だ。と言つてゐた伯父に親しむ。

 長者の髭鬚(ししゆ)を生(はや)した、謹嚴でにこやかな伯父が、瞼(まぶた)をすこしあからめて、いふところの祕書(ひしよ)を得て喜び安堵したといふわけかどうかしらぬ。その後(ご)幾何(いくばく)もなくこの伯父の訃告(ふこく)に接した。

[やぶちゃん注:これは、本書中、白眉の一章と言える。芥川龍之介も生きておれば、きっと「いいものを書いた。」と小穴を讃えたものと疑わぬ。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(60)「伯父」(1)「K伯父」

 

 伯父

 

 

         K伯父

 

 さうよ、松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となりとなるかな、俺らはどうもといふのが、やはり順なのであらう。彼處(あそこ)は木曾の三宿の一つで、貫目改所(かんめあらためじよ)があつた土地である。地名の由來が、遠い昔、木曾ノ義仲がその馬の脚の疵(きず)を自分で洗つてやつた、といふにあるかと思へばまた、ここで二人あすこで三人と飯盛女を抱へてゐた。木曾街道六十九次、廣重の錦繪で見ると、さびゆく秋の色ぞかなしきであるが、木曾の奥からは女房子(にようぼうこ)が馬を曳いておらやとつさを迎へに出張(でば)つてもきや賑やかな場所であつたはずである。はるばる江戸まで稼ぎにいつて錢を持つたとつさが、郷里(きやうり)のちかまでやれやれと大事なところでゆるみだし、少しは財布の紐もはづさうか、かかさはさはさせじの木曾の入口、そこがK伯父さんの生れた土地なのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。以下、同じ。

「木曾の三宿」奈良井宿・妻籠宿・馬籠宿。但し、以下の木曾義仲の馬の脚云々は中山道の洗馬(せば)宿の由来譚であり、実際、「北国西街道」(善光寺街道・善光寺西街道とも称した)が「中山道」から分岐していた洗馬宿内には、街道を通行する伝馬の荷物の重量を検査するための貫目改所が置かれたから、どうもここは洗馬宿を指しているように思われ、また歌川広重の描いた「木曾街道六十九次」では、洗馬宿のそれこそが「さびゆく秋の色ぞかなしき」に相応しいと思う私にははなはだ不審ではある。

「貫目改所」江戸幕府が問屋場に置いた機関で、街道を往来する荷物の貫目(重量)の検査に当った。大名や旗本が過貫目の荷物を運搬させて宿や助郷(すけごう)の人馬役業務を苦しめたことを鑑みて設置されたものであるが、通過荷物の重量を総てをここで改めていたのでは往還の業務に支障を来たすため、実際には荷物付け替えの際に重い荷物のみを改めたという。伝馬(てんま)荷物は一駄(だ)三十二貫目、駄賃荷物は四十貫目を標準とした。]

 K伯父さん、この伯父はその一生をまことに不遇で終つてしまつた。小言も言はず、物もくれなかつたかはりに、げえもねえ話でも、ただありのままにそのままに昔話にしてくれた伯父であつた。

 げえもねえ話のげえもねえ話の例をあげると、

 棒(ぼう)ちぎりに黐(もち)をつけて、納戸(なんど)のなかの樽の呑口(のみくち)につつこみ、錢を釣上(つりあ)げては持出してつかつてゐた話(物價が、一、二錢四厘男ぞうり三足(ぞく)。一、八錢、女わらぞうり十足。といつた時の、また一昔(むかし)も二昔も前の時代である。)積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら、通りがかりの人に梅毒だと教へられた話(褌(ふんどし)もせずにちんぽこを出して知らずに遊んでゐたありさまの子供、花柳病の名も知らぬうちに左樣な病氣を持たされた土地、また時代でもあつたとみえる。伯父は何も知らぬのだからちんぽこを出してゐたのだと言つてゐた。宿場女郎であるのか飯盛女か、その相手がそれを聞いて藥を屆けてよこしたといふのである。)本箱を持つて諏訪に遊學してゐたときには、塾生(じゆくせい)一同が本を賣つてまでして、…………………………たものであるが、先生に……………………しようではないかといふことになつて、けいあんに周旋(しうせん)をたのんでおいたところ、先生の家の玄關に連れてきたのが、以前自分達が雇うつてゐてお拂箱(はらいばこ)にした女であつたので、自分達も驚いたが女も驚いた話。神戸(かうべ)の遊廓では夜中に、コロリだ、コロリだ、といふ騷ぎがあつて皆狼狽しておもてに飛出したら、コロリでなくて心中があつての騷動であつた話。等々(とうとう)である。

[やぶちゃん注:「積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら……」以下の部分、勿論、その後の点線で伏字にしてある部分がまるで分らぬ。チンポコを丸出しにしている子どもへの冗談としても、「梅毒」はよく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「けいあん」は「桂庵」「慶庵」などと書き、縁談や奉公の仲介を生業(なりわい)とする者、口入れ屋のことである。寛文年間(一六六一年~一六七三年)頃の江戸の医師大和桂庵が奉公や縁談の世話をしたことに由る呼称とされる。ここは特に縁談のそれであろう。確かにそれなら吃驚りする。]

 私は信州人の子であり、またこの八年前からは戸籍も信州生れとなつたのであるが、育つた土地ではないので、信州の地理にも委しくなくて困るが麻市(あさいち)があると聞いた大町(おほまち)、日本アルプスの登山口であらうか、あの大町にあそこに高遠(たかとほ)の長尾無墨(ながをむぼく)が塾を開いてゐた時、伯父はその塾に塾生となつてゐたといふ。さうして或る日、文武兩道の士この無墨に連れられて一同が有明山(ありあけさん)に登つた時のことであるが、無墨は武士のさういふときの姿、伯父達は當時の流行で紫の片面引染(かためんひきぞめ)の木綿の三尺帶、それに一本ざしで出掛けたものの夜(よる)宿(やど)をとつて泊つたところが、階下の爐ばたに一晩中人が集まつてゐて、その騷ぎでうるさくて睡られもせず、夜が明けて騷ぎの仔細を尋ねたら、人の出入りがはげしかつたのも道理、里の人々のはうでは一行を山賊と思ひこんで、若者達を狩集めて夜中警戒をしてゐたのだといふには呆れたともいふ。それに明治五年もうその歳(とし)の暮におしつまつて曆法改正のことがあつた時には、(明治五年十二月四日の次の日を六年一月一日(じつ)として太陽曆となる。)他の土地から集つてきて佑た塾生高の間で、新曆の正月で休みをとる者と舊曆の正月で休みをとる者とを二組にわけて、じやんけんがあつたといふことである。通ひの門弟もあるし、塾生全部が新曆で休みをとることは許されなかつたといふ。通ひの門弟にとつては、新曆で休むといふことが左ほどに痛切ではなかつたと思ふ。明治五年は伯父が十六歳の時であらう。

[やぶちゃん注:ここの叙述、暦制変更に関わる市井の状況を伝えるという点でも面白い叙述である。

「長尾無墨」(?~明治二七(一八九四)年)は官吏で日本画家。維新前は信濃高遠藩士で藩校進徳館の大助教であった。維新後は筑摩県に勤務し、明治七(一八七四)年に県権令永山盛輝に従って県下の教育事情を調べ、「説諭要略」に纏めた。退職後、田能村竹田(たのむらちくでん)の門に学び、雁の絵を良くしたという。本姓は宇夫形(うぶかた)。著作に「無墨山人百律」「善光寺繁昌記」がある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

「さうさなあ、英京龍動(えいきやうロンドン)が佛國(ふつこく)パリスにでも行つたならばどうか知らんが、面白いことはあまりないずら。」と言つてゐた晩年の伯父に、無墨について私は何故もう少し聞いてはおかなかつたかと今日一寸後悔してゐるのである。一二年前(ぜん)の文藝春秋に、向島に住んでゐた明治中半(なかば)の文人墨客(ぼつきやく)についてたれかが書いてゐた。そのなかに無墨の名も交つてはゐたが、人は長尾無墨の名などはあまり知らぬらしい。K伯父が少しでも詩書畫(ししよぐわ)に志(こゝろざし)を持つてゐた人であれば、その不遇の一生のなかにも、これまた風流の趣(おもむき)を捉らへ得た筈であると密かに考へもするその私にしてからが、無墨が私の祖父の家で畫(か)いた繪を持ち、未だにこれを表具(へうぐ)もさせずにゐるのではある。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「英京龍動(えいきやうロンドン)」はイギリスの首都ロンドン、「佛國(ふつこく)パリス」はフランスの首都パリ、の意である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(59)「鯉」

 

 

 

 睡蓮の鉢を三つ四ついれられる程の池を去年の庭にこしらへた。ついでにめだかをいれておいた。すると秋にはめだかの子が出來た。そこでこれは別にガラスの器に收容してその池にいれておいた。然し始めてのことなので注意が足りず、一夜の雨に五十ぴきばかりの子を一つも殘さずなくなしてしまつた。めだかの子は器から溢れだして親に喰べられてでもしまつたらしい。そこで今年は用心して、櫻の花びらがお向ひから一つ二つとこの池に浮んでゐる日頃(ひごろ)から、再びめだかの卵をみつけだした。注意よろしく現在は、人が「やあ、熱帶魚?」と聞く程、卽ち大方の人にはまだめだかかとはつきりわからぬ五六分(ぶ)位(ぐらゐ)の魚(さかな)となつてゐる。

[やぶちゃん注:「五六分」一・五~一・八センチメートルほど。]

 お向ひのお醫者さんの家には池らしい池があつて五六圓どこの鯉が泳いでゐるのだ。このお醫者さんのおばあさんにめだかの卵を若干進呈した。すると俄然お向ひの人達は自家(じか)の池、金魚鉢などのなかに魚(さかな)の卵を物色しはじめた。さうして鯉の卵だといふものを僕の家(うち)に呉れた。家(うち)の細君は欣喜(きんき)として、砂糖甕(さたうがめ)だか味噌甕(みそがめ)だか知らぬが甕(かめ)を庭に出してきて、この鯉の卵の目鼻に注意を集中しだした。卵は甕にあること一兩日で孵り何やら魚(さかな)のかたちはして菱(ひし)の葉の陰に動きだした。

 この鯉が生れてから幾日であつたであらうか。

 関西に轉地してゐた年下の友人が、昨夜突然夫婦づれで我家(わがや)を訪れてきた。この人達もめだかの子をつかまへて「やあ、熱帶魚ですか。」と言つてゐる。甕を疊の上に持出して鯉の子を見せたら、「あら、これが鯉? 丸煮(まるに)に出來るあの鯉?」と妻君は感心してゐた。

 僕は若い女の凄い空想に驚いた。

 

         ○

 

 小さい庭のまんなかに醬油樽を埋(い)けて、金魚の池としてゐたことがある。然しこれは、實際には犬の水呑場(みづのみば)やあつたのかも知れない。

 始め庭さきで、ぢやぶ、ぢやぶつ、といふ音がした時には何んだと思つた。まだあの時は犬を飼つてはゐなかつた。

 その池? に鯉を買つていれておきたいと細君はいふ。

 入物(いれもの)が小さいから駄目だと自分はいふ。その夏はそれですんだ。翌年またも鯉を買つてはいけないかといふ。承知をしたら、ほんとは去年に買うつてあるのだといふ。どこに置いてあるのだと聞くと預けてあるといふ。どうせ十錢か十五錢の鯉なら小つぽけなものだらう、それにしても一年もたつてゐればまた少しは大きくなつてもゐるだらう。とつて來いと言つたら早速に飛出して行つた。行つたら店(みせ)の親爺が、どの鯉を預つたのだかわからなくなつてしまつたからどれでも好きなのを持つてゆけと言つたといふ。そこで細君は一番大きいのを貰つて元氣で歸つてきた。それは到底醬油樽に住(すま)へる代物(しろもの)ではない。樽から飛出すのをつかまへて入れ入れしてゐるうちに、何時(いつ)か猫か犬にとられてしまつた。

 以前借家に居た時の話である。

[やぶちゃん注:志賀直哉風の小品である。小穴隆一の文章にしては、迂遠な表現やまどろっこしい描写が殺がれており、微笑ましい。しかし、芥川龍之介が生きていたとして、これを褒めたかどうかは別問題ではある。私は基本、志賀が嫌いだから判らぬと言っておくにとどめる――と――小穴隆一風に終わることとしよう。]

柴田宵曲 妖異博物館 「人の溶ける藥」

 

 人の溶ける藥

 

 旅商人が越後で大蛇の人を呑み、且つ傍らの草を舐めると、膨れた腹が忽ちもとのやうになるのを見、その草を摘んで歸る。江戸へ歸つてから、蕎麥を五六十食べると云ひ出して賭になる。二十五ばかり食べたところで廊下に出して貰ふ約束で、ひそかにその草を嘗めたのはいゝが、元來人を溶かす藥であつたので、蕎麥が羽織を著て坐つてゐたといふ落語がある。

[やぶちゃん注:この落語は一般に江戸落語では「そば清(せい)」と呼ばれるもので、蕎麦を手繰る音が極め付けの私も好きな演目である。別名を「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」などとも称する。ウィキの「そば清」よりシノプシスを引く。江戸の『そば屋で世間話をしている客連中は、見慣れぬ男が大量の盛りそばを食べる様子を見て非常に感心し、男に対し、男が盛りそばを』二十『枚食べられるかどうか、という賭けを持ちかける。男は難なく』二十『枚をたいらげ、賭け金を獲得する』。『悔しくなった客連中は、翌日再び店にやってきた男に』三十『枚への挑戦を持ちかけるが、またしても男は完食に成功し、前日の倍の賭け金を取って店を出ていく。気の毒がったひとりの常連客が、「あの人は本名を清兵衛さん、通称『そばっ食いの清兵衛』略して『そば清』という、大食いで有名な人ですよ」と、金を奪われた客連中に教える』。『悔しさがおさまらない客連中は、今度は』五十『枚の大食いを清兵衛に持ちかける。清兵衛は自信が揺らぎ、「また日を改めて」と店を飛び出して、そのままそばの本場・信州へ出かけてしまう(演者によっては、清兵衛は行商人として紹介され、信州へ商用で出かけたと説明する)。』『ある日、清兵衛は信州の山道で迷ってしまう。途方にくれ、木陰で休んでいると、木の上にウワバミがいるのを見つけ、声が出せないほど戦慄する。ところがウワバミは清兵衛に気づいておらず、清兵衛がウワバミの視線の先を追うと、銃を構える猟師がいるのが見える。ウワバミは一瞬の隙をついてその猟師の体を取り巻き、丸呑みにしてしまう。腹がふくれたウワバミは苦しむが、かたわらに生えていた黄色い(あるいは赤い)草をなめると腹が元通りにしぼみ、清兵衛に気づかぬまま薮のむこうへ消える。清兵衛は「あの草は腹薬(=消化薬)になるんだ。これを使えばそばがいくらでも食べられる。いくらでも稼げる」とほくそ笑み、草を摘んで江戸へ持ち帰る』。『清兵衛は例のそば屋をたずね、賭けに乗るうえ、約束より多い』六十『枚(あるいは』七十『枚)のそばを食べることを宣言する。大勢の野次馬が見守る中、そばが運び込まれ、大食いが開始される。清兵衛は』五十『枚まで順調に箸を進めたが、そこから息が苦しくなり、休憩を申し出て、皆を廊下に出させ(あるいは自分を縁側に運ばせ)、障子を締め切らせる。清兵衛はその隙に、信州で摘んだ草をふところから出し、なめ始める』。『観客や店の者は、障子のむこうが静かになったので不審に思う』。『一同が障子を開けると、清兵衛の姿はなく、そばが羽織を着て座っていた。例の草は、食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。]

 幸田露伴博士が「圏外文學雜談」に記すところに從へば、この話は元祿六年の「散人夜話」に出てゐるさうである。延享五年の「教訓しのぶ草」には、蕎麥でなしに餠になつてゐるといふ。「散人夜話」はどうなつてゐるか、見たことがないからわからぬが、文政三年の「狂歌著聞集」にあるのも牡丹餅であつた。先づ元祿あたりが古いところであらう。

[やぶちゃん注:「幸田露伴」の「圏外文學雜談」は書誌情報さえ未詳。識者の御教授を乞う。

「元祿六年」一六九三年。

「散人夜話」寛文一一(一六七一)年頃に会津藩藩主保科正之に招かれて以後、三代に亙って藩主侍講を勤めた後藤松軒の儒学随筆(kitasandou2氏のブログのこちらの情報に拠る)らしい。

「延享五年」一七四八年

「教訓しのぶ草」不詳。識者の御教授を乞う。

「文政三年」一八二〇年。

 

「狂歌著聞集」江戸前期の俳人椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永六(一七〇九)年頃?:京都生まれ。松永貞徳・山本西武(さいむ)門。寛文三年に「茶杓竹(ちゃしゃくだけ)」を著わして安原貞室を論難した。後、大坂で説話作者となった)の説話集。詳細不祥。]

 大坂ではこの落語を「蛇含草」と称するさうだが、この名前は落語家がいゝ加減につけたものではない。「子不語」に白蛇來つて雞卵を呑む。然る後樹に上り、頸を以て摩すると、膨れた卵は忽ち溶けてしまふ。そこで戲れに木を削つて雞卵の中に入れ、もとの處に置いたら、これを呑んだ蛇は大いに窘(くる)しみ、遂に或草の葉を取つて前の如く摩擦し、木卵を消し去つた。消化不良の際、その草を以て拂拭するに、立ちどころに癒えざるなしとある。こゝまでは至極無事であつたが、鄰人の背中に腫物が出來た時、食物なほ消す、毒また消すべしといふわけで、煎じて飮ませたところ、この應用は失敗に了つた。背中の腫物は癒えたが、飮んだ人の身體がだんだん小さくなり、これを久しうして骨まで溶けて水になつた。この事が蛇含草といふことになつてゐる。日本でも寛政九年版の「北遊記」に蛇含草の名が用ゐてあるが、これは醫者が難病を治するまでで、身體が溶けるやうな危險はなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「蛇含草」「蛇眼草」とも表記する。ウィキの「そば清」より「蛇含草」のシノプシスを引く。『夏のある日。一人の男が甚平を着て友人(東京では隠居)の家に遊びに行ったところ、汚れた草が吊ってあるのを見つける。友人は「これは『蛇含草』と呼ばれる薬草で、ウワバミ(=大蛇)が人間を丸呑みにした際、これをなめて腹の張りをしずめるのだ」と言う。珍しがった男は、蛇含草を分けてゆずってもらう』。『そんな中、友人が火を起こし、餅を焼き始める。男は焼けたばかりの餅に手を伸ばし、口に入れる。友人は「誰が食べていいといったのか」と、いたずらっぽくたしなめ、「ひと言許しを得てから手を付けるのが礼儀だろう。それならこの箱の中に入った餅を全部食べてくれても文句は言わない」と言い放つ。男は面白がり、「それなら、これからその餅を全部食べてやろう」と宣言する』。『男は「『餅の曲食い』を見せよう」と言って、投げ上げた餅をさまざまなポーズで口に入れる曲芸を披露する(「お染久松相生の餅」「出世は鯉の滝登りの餅」といった、滑稽な名をつける)など、余裕を見せるが、ふたつを残したところで手が動かなくなり、友人に「鏡を貸してくれ」と頼む。友人が「今さら身づくろいをしても仕方がないだろう」と聞くと、男は「いや、下駄を探すのだ。下を向いたら口から餅が出てくる」』『長屋に帰った男は床につき、懐に入れた蛇含草のことを思い出して、「胃薬になるだろう」と口に入れてみる』。『その後、心配になった友人が長屋を訪れ、障子を開けると、男の姿はなく、餅が甚平を着てあぐらをかいていた。蛇含草は食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。

 「子不語」に載る以上の話は「第二十一卷」の「蛇含草消木化金」である。中文サイトのそれを加工して示す。

   *

張文敏公有族姪寓洞庭之西磧山莊、藏兩雞卵於廚舍、每夜爲蛇所竊。伺之、見一白蛇吞卵而去、頸中膨亨、不能遽消、乃行至一樹上、以頸摩之、須臾、雞卵化矣。張惡其貪、戲削木柿裝入雞卵殼中、仍放原處。蛇果來吞、頸脹如故。再至前樹摩擦、竟不能消。蛇有窘狀、遍歷園中諸樹、睨而不顧、忽往亭西深草中、擇其葉綠色而三叉者摩擦如前、木卵消矣。

張次日認明此草、取以摩停食病、略一拂試、無不立愈。其鄰有患發背者、張思食物尚消、毒亦可消、乃將此草一兩煮湯飮之。須臾間、背瘡果愈、而身漸縮小、久之、並骨俱化作水。病家大怒、將張捆縛鳴官。張哀求、以實情自白、病家不肯休。往廚間吃飯、入内、視鍋上有異光照耀。就觀、則鐵鍋已化黃金矣、乃捨之、且謝之。究亦不知何草也。

   *

次の段に書いてある内容が末尾にある。

「寛政九年」一七九七年。

「北遊記」ネット上で見出せる寛政九年板行の勢州山人著「諸国奇談北遊記」(四巻四冊)か。それ以上の書誌などは現在、不明。]

 蛇含草は人を溶かすが、それを煎じた鍋は鐡化して黄金となると「子不語」に書いてある。「日陰草」といふ寫本の隨筆は、その成つた時代を詳かにせぬが、外國の事として「子不語」の話の後年を傳へ、煎じた釜が金になつたことまで記してゐる。たゞいさゝか不審なのは、「子不語」が「究むれども亦何草たるを知らざるなり」と云つてゐるこの事に就いて、「いでや此草は金英草とて、鐡を點して金となす草也、されども大に毒草也、馬齒莧に似て紫なる草也となり、見知ておくべき物也」などと知識を振𢌞てゐる一事である。尤も「子不語」は背瘡の患者に與へたのに、この書は「腹脹をやめる人」となつてゐるから、兩者の間にもう一つ記載があり、「日陰草」はそれによつて書いたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「日陰草」現在の秋田県能代の住吉神社別当を勤めた修験者で国学者の大光院尊閑(たいこういんそんかん 慶安四(一六五一)年~元禄一四(一七三七)年:役 尊閑(えき(えん?)のたかやす)とも称した)の著に同名の書があるが、それか。

「金英草とて……」以下の叙述と酷似する者と思われる内容が、中文(簡体字)サイトのここにある。別称とする「透山根」の方をやはり中文サイトを調べると、ここには誤食すると即死するとある! しかも……写真入り! なんじゃあ、こりゃあ! 柴田じゃあないが、今以ってネットでも「知識を振𢌞てゐる」と言える記載である。

「點して」不詳。ある熱による変化を与えて変性させて、という意味か。

「馬齒莧」音なら「バシケン」或いは「バシカン」であるが、これが現代中国語で、庭の雑草としてよく見かける(私の家の庭にもよく蔓延る)、食用になるナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea のことである。]

 蛇含草の名は見えぬけれども、同じ話は「子不語」より古く「耳奇錄」に出てゐる。鹿を呑んだ大蛇が一樹に就いてその實を食ふと、腹中の物は次第に消え去つた。これを目擊した官人が、從者に命じてその葉を採らしめ、家に歸つた後、飽食の腹を減ぜんとして、例の葉を煎じて飮む。一夜明け午になつても起きて出ぬので、布團を剝いで見たら、殘るところ骸骨のみで、餘は水になつてゐた。結局原産地は支那で、林羅山が「怪談全書」に紹介した頃は醫療譚であつたのが、一轉して大食譚になり、遂に蕎麥が羽織を著て坐つてゐる話までに發展したものと思はれる。

[やぶちゃん注:「耳奇錄」不詳。識者の御教授を乞う。

『林羅山が「怪談全書」に紹介した』「怪談全書」は江戸初期の朱子学派の儒者で林家の祖たる林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)が出家後の号林道春(どうしゅん)の名で著した中国の志怪小説の翻訳案内書。全五巻。漢字カナ混じり文。ここで柴田が言っているのは同書「卷之二」の「歙客(せふかく)」である。所持する三種の別テクストを校合し、最も読み易い形に私が成形したものを以下に示す。

   *

 歙客(せふかく)と云ふ者、潛山(せんざん)を行き過ぐる時、蛇の腹、腫れふくれて、草の内に這ひ顚(ころ)ぶ。一つの草を得て、之れを咬み、腹の下に敷きて摺りければ、脹の腫れ、消して常の如し。蛇、走り去る。客(かく)の心に此の草は脹滿腫毒(ちやうまんしゆどく)を消(しよう)する藥なりと思ひ取りて、箱の内に入れおく。

 旅屋に一宿するとき、隣りの家に旅人有りて、病ひ痛むの聲、聞ゆ。客(かく)、行きて之れを問へば、

「腹、脹りて痛む。」

と云ふ。即(すなは)ち、彼(か)の草を煎(せん)じ、一盃、飮ましむ。暫く有りて苦痛の聲なし。病ひ、癒えたりと思へり。

 曉(あかつき)に及びて水の滴(も)る聲、有り。病人の名を呼べども答へず。火を曉(とも)して是れを見れば、其の肉、皆、融けて水と成り、骨許(ばか)り殘りて床(ゆか)に有り。客(かく)驚き周章(あはて)て、未明に走り行く。

 夜明けて、亭主、之れを見て、其の故(ゆゑ)を知らず。其の殘る所の藥の入れたる釜、皆、黃金(わうごん)となる。不思議の事也。潛(ひそか)に彼(か)の人の骨を埋(うづ)む。

 年を經て、赦(しや)を行はれければ、彼(か)の客(かく)、皈(かへ)り來つて、此の事を語る。故に、世人、傳へ聞けり。【「春渚記聞」に見えたり。「本草綱目」に「海芋(かいかん)」と云ふ草を練りて黃金(わうごん)に作ると云へり。此の草の事にや。】

   *

この最後の割注に出る「春渚紀聞」(現代仮名遣「しゅんしょきぶん」)は宋の何子遠(かしえん)の小説集で、同書の「卷十記丹藥」の「草制汞鐵皆成庚」を指している。以下に中文サイトより加工して示す。

   *

朝奉郎劉筠國言、侍其父吏部公罷官成都。行李中水銀一篋、偶過溪渡、篋塞遽脱、急求不獲、即攬取渡傍叢草、塞之而渡。至都久之、偶欲求用、傾之不復出、而斤重如故也。破篋視之、盡成黃金矣。本朝太宗征澤潞時、軍士於澤中鐮取馬草、晚歸鐮刀透成金色、或以草燃釜底、亦成黃金焉。又臨安僧法堅言、有歙客經於潛山中、見一蛇其腹漲甚、蜿蜒草中、徐遇一草、便嚙破以腹就磨、頃之漲消如故。蛇去、客念此草必消漲毒之藥、取至篋中。夜宿旅邸、鄰房有過人方呻吟床第間。客就訊之、云正爲腹漲所苦。卽取藥就釜、煎一杯湯飮之。頃之、不復聞聲、意謂良已。至曉、但聞鄰房滴水聲、呼其人不復應、卽起燭燈視之、則其人血肉俱化爲水、獨遺骸臥床、急挈裝而逃。至明、客邸主人視之、了不測其何爲至此、及潔釜炊飯、則釜通體成金、乃密瘞其骸。既久經赦、客至邸共語其事、方傳外人也。

   *

「本草綱目」の「海芋」は中文ウィキソース本草の「六」「1.51 海芋として載る。そこには先に出た「透山根」が附録として掲げられ、その中には「金英草」も出、やはり両者がごく近縁種であることが確認出来、しかもやっぱり『大毒』とある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(58)「東郷大將」

 

 東郷大將

 

 先月のことと思ひます。

 畫人(ぐわじん)石井鶴三は春陽會洋畫研究所の學生達を前にして東郷大將がとつた丁字(ていじ)戰法を論じ人間東郷を更に見直させ、而して鶴三一流に、人間一生の腹の据ゑ樣(やう)をば説きました。

[やぶちゃん注:「石井鶴三」(明治二〇(一八八七)年~昭和四八(一九七三)年)は彫刻家・洋画家。

「春陽會」大正一一(一九二二)年一月に設立された在野の現存する洋画団体。ウィキの「春陽会」によれば、『院展の日本画部と対立、脱退した洋画部同人を中心に創立された。創立時のメンバーは、小杉放庵らの日本美術院洋画部系の画家と、岸田劉生や梅原龍三郎らだった。その後、梅原と岸田は脱会し、河野通勢や岡本一平らが参加』とある。

「東郷大將がとつた丁字戰法」日露戦争の日本海海戦に於いて連合艦隊司令長官東郷平八郎(弘化四(一八四八)年~昭和九(一九三四)年:事蹟はウィキの「東郷平八郎」を参照)が《採ったとされる》砲艦同士の海戦術の一つ。敵艦隊の進行方向を遮るような形で自軍の艦隊を配し、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中できるようにして敵艦隊の各個撃破を図る戦術を指す。しかし、日本海海戦では、この戦法は採用はされたものの、実際にはその配置にはならず、「丁字戦法」は結果的には形勢されなかったとされている。まず、ウィキの「日本海海戦」を見よう。『連合艦隊は秋山参謀と東郷司令長官の一致した意見によって、敵前の大回頭と丁字戦法を実施することを考えていたが、黄海海戦での失敗を受けて連携水雷作戦を海戦で使用することを決めた。しかしそれも当日の荒天により使用が不可能になると、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝くことと、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を並航砲撃戦に持ち込む方法に切り替えた』。『当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭』(しかも二分余りを費やして一五〇度も回頭せねばならなかった)『は危険な行為であった。実際、回頭中はともかく、その後の同航戦中は旗艦であり先頭艦であった三笠は敵の集中攻撃に晒され、被弾』四十八発の内、四十発が『右舷に集中していた。しかし、一見冒険とも思える大回頭の』二『分間には、日本海軍の計算が込められていた。それは次のようなものである』。『確かに連合艦隊は』二分間余り、『無力になるが、敵も連合艦隊が回頭中はその将来位置が特定できず、バルチック艦隊側も砲撃ができない(実際、三笠が回頭を終えた後に発砲してきている)』。ジャイロ・コンパスが発明されていない当時、一点に『砲弾を集中し続けることは事実上できなかった』。『当時は照準計の精度が悪く、第』一『弾が艦橋や主砲などの主要部に』一『発で命中することはごく稀であった』。そのため、第一弾の『着弾位置(水柱)から照準を修正して、第』二『弾からの命中を狙うことが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第』二『弾を放つまでに時間が掛か』。即ち、回頭中に第二弾は『飛来しないか、飛来するとしても慌てて撃つため命中精度が低い』。『バルチック艦隊が、それでも仮に一点に砲撃を集中したとしても、わざわざ砲撃が集中している場所に後続艦は突っ込まずに回避すればよい』。『バルチック艦隊は旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った』。万一、『三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした』。『また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った』。『こうして敵前回頭は行われたが、実際の海戦ではその後の両艦隊は並列砲戦に終始し、今まで言われているような「日本側は丁の字もしくはイの字体形に持ち込み丁字戦法を行った」という事実はなかった』(下線やぶちゃん)。『日本側はウラジオストクに逃げ込もうとするロシア艦隊に同航戦を強要し、かつロシア艦隊より前に出ることはできたが、相手の進路を遮断することはできておらず、このため現場のどの部隊も「日本海海戦で大回頭後に丁字(もしくはイの字)体形になった」とは思っておらず、一次資料の各部隊戦闘詳報にも公判戦史にも書かれていない。ところが海戦直後の新聞紙面で初めて「丁字戦法」のことが触れられ世間に広まり』、『一次史料にはどこにも書いていないのに、やったかのようになってしまった』とあり、また、ウィキの「丁字戦法」にも(戦術図有り)、『日本海海戦において日本海軍の東郷平八郎連合艦隊司令長官は戦艦』四隻・装甲巡洋艦八隻を『率いてロシアのバルチック艦隊主力』(戦艦八隻・装甲巡洋艦一隻・海防戦艦三隻)『を迎え撃った』。一九〇五年五月二十七日十四時七分、『ロシア艦隊と反航戦の体勢で進んだ日本側は敵の面前で左へ』百六十五度の『逐次回頭を行った。これを日本側は丁字戦法と説明している』が、予想に反して、三十『分程度で主力艦同士の砲戦は決着がつき、ロシア艦隊は大損害を受けて統制を失った。日本艦隊は主力艦の喪失ゼロに対して、ロシア艦隊は最終的に沈没』二十一隻・拿捕六隻・中立国抑留六隻と『壊滅的な打撃を受け、ウラジオストク軍港にたどり着いた軍艦は巡洋艦』一隻と駆逐艦二隻に『過ぎなかった』。『実際にはバルチック艦隊の変針により並航戦へすぐ移り、「敵艦隊の進路を遮る」事が遂にできず通常の同航戦でみられる様な「ハ」の字、若しくは「リ」の字に近い形で推移、完全な丁字は実現しなかった』(下線やぶちゃん。以下も同じ)。『また戦闘詳報や各種一次資料に「日本海海戦で敵前大回頭後に丁字戦法をした」という記述はないことから、このため当事者たち自身は大回頭後に「丁字」若しくは「イの字」の体勢が出来たとは考えていないと推測される』。但し、『戦策の丁字戦法には「敵の先頭を圧迫する如く運動し」という記述があり、戦闘詳報に「敵の先頭を圧迫」という記述は存在する』。後に半藤一利は海戦直後の五月二十九日、『詳細な報告も無いまま軍令部よりマスメディアに対して「日本海海戦は丁字戦法で勝てた」と虚偽の発表がなされ、翌日の紙面にそれが掲載されそれがそのまま世間に浸透してしまったという説を唱えているが』、『実際に発表されたのは』六月二十九日の『ことであり』、六月三十日『の朝日新聞に掲載されている』とあるのである。なお、後者のウィキによれば、丁字戦法は『同方向に併走しながら戦う同航戦や』、『すれ違いざまに戦う反航戦から丁字戦法を成り立たせるためには、敵艦隊より速力で上回り敵先導艦を押さえ込めること、丁字の組み始めから完成までに比較的長く敵の攻撃にさらされる味方先導艦が充分な防御力を持つこと、丁字完成後も丁字を長く維持するための艦隊統制及び射撃統制が取れることなどが必要なため、着想は容易だが実行は難しい戦法であるといえる』とある。]

 そこで私も亦、東郷大將についていまここにお話しをする光榮を持ちたいと思ひます。

 私のいふ東郷大將、東郷元帥のことでありますが この東郷さんの姿を遠くからでもよい、一度でも實際に見たといふ人はこれは存外に少ないと思ひます。唯一度(ど)ではあるが私は東郷さんをまのあたりに見た過去を有します。而も、幸運あつて乃木大將と二人を同時に一しよに見てゐるのであります。それは私が小學生の時にでありました。

[やぶちゃん注:「乃木大將」乃木希典(まれすけ 嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年九月十三日:事蹟はウィキの「乃木希典」を参照されたい)。]

 私は本郷の西片町(にしかたまち)、東片町で育ちました。その私には、自分の學校の歸りに二三の友達と大學の構内で一わたり遊んでから、家に戾る習慣を持つてゐた時期がありまして、巡視にひどく叱られたこともあります。その時代にです。日露戰爭後で、明治は何年頃(ごろ)でしたか。ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオといふ歌、河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた年頃か、その一寸後(のち)のことでせう。

[やぶちゃん注:「ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオ」私は野球のルールも知らない異常な人間であるが、野球用語を覚えるための子どもの遊び唄であろうか。識者の御教授を乞う。

「河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた」不詳。同前。]

 その日もまづ大學の柔道場ののぞきから始まり、御殿御殿と言つてゐた池のふちの建物の側(そば)までまはつていつた時に、幕にそつて建物の方に何か人々がぞろぞろ這入(はい)つてゆく、その中に私達も混つていつかそのなかに這入てしまつたのです。建物のなかに這入ると皆がしーんとしてゐました。なんといふことなく私達も膝を折つてしまつて隅から室(しつ)のまん中を見詰めてををりした。その時です。私達の傍(そば)を東郷大將、乃木大將が通つたのです。

 あれは道場開きででもあつたのでせうか。二三番見たかその後で私は來賓としての乃木大將と高商の人の(どういふものか高商の文字だけ不思議に忘れません)劍道の試合を見ることになりました。しかしその試合を前にして、東郷大將はまた私達の傍を通つて今度は歸つてゆくのです。

[やぶちゃん注:「高商」一橋大学の前身。]

「如何(どう)して歸るんだらう。」「東郷さんは如何して、乃木さんの試合を見てゆかないのだらう。」とさうけげんには思ひながら片方を見ますれば、かが乃木大將は面、籠手(こて)をつけ、竹刀(しなひ)を持つて道場のまん中に立つてをります。乃木さんのその時の恰好はたゞのお爺さんくさく見えました。相手學生の方はきちんとして強さうに見えました。二三合(がふ)あつたかのうちに、學生の體當(たいあた)りを喰つて乃木さんはどんと仰のけにひつくりかへりました。あつと思つて私は隨分心配したものです。また高商の人も困るだらうなあと思ひました。しかし乃木さんが直(すぐ)に起上り、再びぽかぽかと打合つたかと思ふと、あつけなくそれがその試合の引分けでした。

 私の東郷大將の話はたつたこれだけで終りです。

 何故、東郷さんは乃木さんの試合を見ずに歸つたのか。これを今日(こんにち)、私がみだりに論じたくはありません。また一方乃木大將の場合、自分があの時の乃木さんを見ておかなければ、芥川龍之介の「將軍」によつて、私の一生乃木大將を見る目に歪(ゆが)みをつけたかも知れぬと思つてをります。

[やぶちゃん注:「將軍」大正一一(一九二二)年一月『改造』発表。芥川龍之介の作品の中で、唯一、激しい伏字が今も復元されずにある(現行紛失のため)唯一の作品である。

 小穴隆一の朦朧体に加えて、刊行時期が時期なだけに(昭和一五(一九四〇)年十月)末尾部分、小穴の心境は汲み取り難くされてある。しかし素直に読むなら、小穴隆一は芥川龍之介の「將軍」に示された、異様にマニアックな乃木のイメージを暗に支持しているものと読める。だから主題を乃木とせずに、東郷平八郎の思い出にずらしてあるのだと思う。なお、芥川龍之介の遺児たちは特に父の書いたこの「將軍」故に、陰に陽に学校や軍隊内でいじめを受けたのであった。]

北條九代記 卷第十一 北條時宗卒去 付 北條時國流刑

 

      ○北條時宗卒去  北條時國流刑

 

同七年四月四日、北條相摸守時宗、病(やまひ)に依(よつ)て、剃髮し、法名道果(だうくわ)とぞ號しける。去年の春の初より何となく心地煩ひ、打臥(うちふ)し給ふ程にはあらで、快らず覺え、關東の政治も合期(がふご)し難く、北條重時の五男彈正少弼業時(だんじやうのせうひつなりとき)を以て執權の加判せしめらる。今年になりて、時宗、取分(とりわ)けて、病、重くなりければ、内外の上下、大に驚き奉り、樣々醫療の術を賴みて耆扁(ぎへん)が心を差招(さしまね)くといへども、更に其驗(しるし)もなし。今は一向(ひたすら)打臥し給ひ、漿水(しやうすゐ)をだに受け給はねば、諸人、足手(あして)を空(そら)になし、神社に幣帛を捧げ、佛寺に護摩を修(しゆ)し、精誠(せいじやう)の祈禱を致さるといへども、天理に限(かぎり)あり。命葉、保(たもち)難く、漸々(ぜんぜん)に気血(きけつ)衰耗し、この世の賴(たのみ)もなくなり給ひて、圓覺寺佛光禪師祖元を戒師として、出家せられしが、同日の暮方に遂に卒去し給ひけり。行年三十四歳。寳光寺殿(どの)とぞ稱しける。去ぬる文永元年より今弘安七年に至る首尾二十一年、天下國家の政道に晝夜その心を碎き、朝昏(てうこん)其(その)思(おもひ)を費し、未だ榮葩(えいは)の盛(さかり)をも越えずして、命葉(めいえふ)、忽(たちまち)に零(お)ち給ひけるこそ悲しけれ。嫡子左馬權頭貞時十四歳にて、父の遺跡を相續し、將軍惟康(これやす)の執權たり。彈正少弼業時、加判して、政治を行はれ、貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛、陸奥守に任ぜられ、その威、既に八方に盈(み)ちて、その勢(いきほひ)、四境に及び、肩を竝(ならぶ)る者なし。奉行、頭人(とうにん)、評定衆も先(まづ)この人の心を伺ひ、諸將、諸司、諸大名も、偏(ひとへ)にその禮を重くせしかば自(おのづから)執權の如くにぞ侍りける。同五月、北條時國、六波羅南の方として、西國の成敗を致されし所に、如何なる天魔の入替りけん、如何にもして世を亂し、關東を亡(ほろぼ)して、我が世を治めて執權となり、眉目嘉名(びもくかうめい)を天下後代(こうだい)に殘さばやとぞ思ひ立たれける。内々その用意ある由(よし)聞えければ、關東より飛脚を以て「俄に密談すべき子細あり」と申上せられしかば、時國、思も寄らず、夜を日に繼ぎて、鎌倉に下向せられしを、是非なく捕へて常陸國に流遣(ながしつか)はす。一味與黨の輩、憤(いきどほり)を挾(さしはさ)み、常州に集(あつま)り、時國を奪取(うばひと)りて大將とし、北陸の軍勢を催し、城郭に楯籠(たてこも)り、討死すべき企(くはだて)ありと聞えしかば、潛(ひそか)に配所に人を遣し、時國をば刺殺(さしころ)しければ、その事、終(つひ)に靜りけり。

[やぶちゃん注:「同七年」弘安七(一二八四)年。

「合期」思うようなる、思い通りに展開すること。

「北條重時の五男彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には重時の四男であったが、年下の異母弟義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。

「時宗、取分けて、病、重くなりければ」時宗は満三十二歳の若さで亡くなっているが、死因は結核とも心臓病ともされる。孰れにせよ、執権職の激務も死を早めた要因ではあろう。

「耆扁(ぎへん)」名医。歴史上、名医とされる耆婆(ぎば)と扁鵲(へんじゃく)から。耆婆(生没年不詳)はインドの釈迦と同時代の医師で、美貌の遊女サーラバティーの私生子であった。名医として知られ、釈尊の教えに従った。扁鵲(生没年不詳)は中国の戦国時代(前四〇三~前二二一)の名医で、事実上の中国医学の祖師とされる人物。渤海郡(現在の河北省)の生まれで、「史記」によれば、各地を遍歴して施術を行い、特に脈診に優れていたとされる。彼の才能に嫉妬した秦の太医によって殺害された。

「心を差招く」懇切に依頼して招聘する。

「漿水」飲料水。

「足手(あして)を空(そら)になし」なすすべもなく、途方に暮れ。

「精誠(せいじやう)の」精魂込めた。

「命葉」後で「めいえふ」(めいよう)とルビが振られる。「命数」に同じい。

「気血」漢方医学に於ける人体内の生気と血液で、経絡の内外を循環する生命力の源とみなされる。

「圓覺寺佛光禪師祖元」無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。諡は「仏光国師」。弘安二(一二七九)年に執権時宗の招きに応じ、来日、蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となった。懇切な指導法は「老婆禅」と呼ばれ、時宗を始めとして多くの鎌倉武士の厚い帰依を受け、弘安五年には時宗が元寇での戦没者追悼のために創建した円覚寺の開山となり、本邦に帰化して無学派(仏光派)の祖となった。建長寺で示寂し、墓所も同寺にある。

「文永元年」一二六四年。

「榮葩(えいは)」「葩」は「花」「華やかさ」の意で「栄華」のに同じい。

「零(お)ち」前の「葩」の落花・凋落に掛けたもの。

「嫡子左馬權頭貞時」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)。かの悪名高き第十四代執権北条高時は彼の三男である。

「加判」連署職。

「貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八(一二八五)年)は有力御家人安達義景の三男。異母妹(後の覚山尼(かくさんに))を猶子として養育して、弘長元(一二六一)年に時宗に正室として嫁がせ、北条時宗の外戚となり、得宗家との強固な関係を決定的にし、幕府の重職を歴任、栄華を誇った。時宗の死後、「弘安徳政」と称される幕政改革も行ったが、内管領平頼綱と対立、弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」で一族郎党とともに滅ぼされた。北条貞時の側室で高時の母となる後の覚海円成(えんじょう))も、彼の次兄安達景村の子泰宗の娘であった。

「陸奥守に任ぜられ」弘安五(一二八二)年のこと。この時、泰盛は「秋田城介」を嫡子宗景に譲り、その代りとして「陸奥守」に任ぜられている。ウィキの「安達泰盛」によれば、『陸奥守は幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた』とあり、彼の権勢が、ここにかたっれるように名実ともに最も輝いた頂点の時であったと言える。

「同五月」弘安七(一二八四)年五月。

「北條時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年十月三日(但し、異説有り。後注参照))は北条氏佐介流の一族で「佐介時国」とも呼ばれた。「卷第十 改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基」の私の注を参照されたい。

「如何なる天魔の入替りけん」如何なる悪辣なる天魔がその心と入れ替わってしまったものか。

「眉目嘉名(びもくかうめい)」「嘉名」は通常、歴史的仮名遣でも「かめい」で「名声」の意。「眉目」もここは「面目・名誉」の意。

「申上」「せられしかば」と続くので「しんじやう」と音読みしておく。

「潛に配所に人を遣し、時國をば刺殺しければ」ウィキの「北条時国」によれば、この時国の死は「鎌倉年代記」の建治元(一二七五)年の条では『常陸国伊佐郡下向、十月三日卒』、「武家年代記」の建治三年条では十月三日に「於常州被誅了」とする一方、「六波羅守護次第」では十月四日に自害とするが、異説として九月、常陸にて逝去とも伝える。「關東開闢皇代並年代記事」の「北條系圖」でも死因を自害としているが、その時期を遡る八月としており、「尊卑分脈」や「續群書類從」所収の「北條系圖」及び「淺羽本北條系圖」では八月十三日に「被誅」(誅さる)とする、とある。如何にも怪しい。]

2017/02/19

柴田宵曲 妖異博物館 「乾鮭大明神」

 

 乾鮭大明神

 

 岡田士聞の妻が安永六年に奧州の旅をして「奧の荒海」といふ紀行を書いた。北から來て廣瀨川、名取川を渡り、武隈明神に詣でた後のところに、からさけ大明神の事が記されてゐる。昔松前に赴いた一商人が乾鮭を持つてゐたが、行程の長いのに思ひ煩ひ、乾鮭を松の枝に掛け、この處の主となれ、と戲れて立ち去つた。暫くたつてこの魚が光りを放つのを奇瑞とし、土地の人が神と崇めるに至つた。この神が生贄(いけにへ)を好むため、所の歎きになつて居つたが、或人不審してこれを窺ひ、古狸の仕業と判明したとある。

[やぶちゃん注:「岡田士聞」河内の出身の儒者岡田鶴鳴(寛延三(一七五〇)年~寛政一二(一八〇〇)年)の字(あざな)。代々、幕臣水野家に仕え、河内片野神社神職も兼ねた。彼の妻となった「奥の荒海」の作者小磯逸子は、京出身で、右大臣花山院常雅の娘敬姫の侍女っであった。敬姫は松前藩藩主に嫁いだが亡くなり、安永六(一七七七)年に京都へ帰る途中の事柄を日記にしたものが「奥の荒海」だという(小磯逸子については、msystem氏のブログのこちらの記載に拠った)。以上の箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのちらの画像で視認出来る。]

「怪談登志男」にあるのは飛驒の話で、黐繩(もちなは)に雁が一羽かゝつたところへ、越後より通ふ商人が四五人通り合せて雁を取り、代りに馬につけた乾鮭をかけて去る。これを見て獵師が先づ不思議がり、それからそれと話は大きくなつて、から鮭大明神の社造營となつた。翌年の春、越後の商人が歸りがけにこの社を見、去年は無かつた筈だと里人に尋ね、はじめてその由來がわかる。商人等顏を見合せて笑ひ出し、その乾鮭は自分達が掛けて行つたのだ、神樣でも何でもないと立ち去つた。信仰忽ち崩れ、社は毀たれたが、これには生贊だの、古狸の仕業だのといふ怪談めいた事は一切書いてない。

[やぶちゃん注:この話は後で柴田も挙げているように明らかに中国の説話由来である。これ、授業でやったわ! 木の股の洞に水が溜まったところに魚の行商人が悪戯に売れ残った鰻(原文は「鱣」)を投げ入れて立ち去った。後から来た男がその鰻を見つけて、こんな所に鰻がいるはずがない、これは霊鰻だということになり、社(やしろ)が出来、栄えた。暫くして、先の行商人がそこを通り、件の霊験譚を耳にし、それを取って調理して食ってしまい、見る間にその社は廃れた、という話である。調べたところ、これは宋の劉敬叔の志怪小説集「異苑」(但し、一部は発見された明末の増補と考えられている)の「卷五」の以下であった。

   *

○原文

會稽石亭埭有大楓樹、其中空朽。每雨、水輒滿溢。有估客載生鱣至此。聊放一頭於朽樹中、以爲狡獪。村民見之、以魚鱣非樹中之物、咸謂是神。乃依樹起屋、宰牲祭祀、未嘗虛日。因遂名鱣父廟。人有祈請及穢慢、則禍福立至。後估客返、見其如此、卽取作臛。於是遂

○やぶちゃんの書き下し文

 會稽の石亭埭(せきていたい[やぶちゃん注:堤の名であろう。])に大楓樹、有り。其の中(うち)は空朽(くうきう)なり。雨ふる每(ごと)に、水、輒(すなは)ち滿溢(まんいつ)す。估客(こきやく[やぶちゃん注:行商人。])の生鱣(せいせん[やぶちゃん注:生きた鰻。])を載せて此に至る有り。聊(いささ)か一頭を朽樹(きうじゆ)の中に放ち、以つて狡獪(かうくわい)を爲す。村民、之れを見て、魚鱣(ぎよせん)は樹中の物に非ざるを以つて、咸(みな)、是れ、神なりと謂ふ。乃(すなは)ち、樹に依りて屋(をく)起(た)て、牲(にへ)を宰(をさ)めて祭祀し、未だ嘗て虛日(きよじつ)あらず[やぶちゃん注:供養しない日はなかった。既にして大盛況となっていることを指す。]。因りて遂に「鱣父廟(せんぽべう)」と名づく。人、有りて祈請し、穢慢(ゑまん[やぶちゃん注:穢れのある行為や、祭祀を怠ること。])に及べば、則ち禍・福、立ち至る。後に估客、返りて、其の此(か)くのごときを見て、卽ち、取りて臛(あつもの)と作(な)す。是(ここ)に於いて遂に絶ゆ。

   *

 「怪談登志男」は「かいだんとしおとこ」(現代仮名遣)と読み、寛延三(一七五〇)年刊の慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)著の怪談集。私の好きな怪談集で、いつかは全文を電子化したいと考えている。以上は「卷之三」の冒頭にある「十二 乾鮭の靈社」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。]

 田中丘隅が妻の實家を訪ふに當り、川狩りをしてギヽウといふ魚一尾を獲た。これを携へて道を急ぐうち、或山中で獵師の張つた網に雉子がかゝつてゐるのを見付け、姑への土産にはこの方がよからうといふので、雉子を取つて代りにギヽウを置いて行つた。そのあとに來た獵師はこれを見て大いに驚き、水に住む魚が山の中の網にかゝるのは不思議だと云ひ出し、陰陽師に占はせた結果、これは山神の崇りである、速かにこの魚を神に祭るべし、といふことになつた。ギヽウ大明神の岡は忽ち出來上つたが、たまたま大風雨があつたので、村民は神變と心得て、神前に湯花を捧げ、神樂(かぐら)を奏する。この間に乘ずる謠言などもあつて、騷ぎは次第に大きくなつた。丘隅はこの事を聞き、ギヽウ大明神の崇りは某が鎭めよう、どんな事があつても驚いてはならぬぞ、と戒めた上、祠を毀つて燒き、ギヽウを燒いて食つたのみならず、神酒まで飮んで歸つて行つた。村民はびつくり仰天し、山神の崇りを恐れたが、その後何事もなかつた。

[やぶちゃん注:「田中丘隅」江戸中期の農政家・経世家(政治経済論者)田中休愚(きゅうぐ 寛文二(一六六二)年~享保一四(一七三〇)年)の別名である(同じく「きゅうぐ」と読むか)。ウィキの「田中休愚」によれば、『武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都あきる野市平沢)出身。大岡越前守忠相に見出され、その下で地方巧者として活躍した。なお、共に大岡支配の役人として活動した蓑正高は休愚の娘婿にあたる』。『平沢村の名主で絹物商を兼業する農家・窪島(くぼじま)八郎左衛門重冬の次男として生まれる』。『子供の頃から「神童」の誉れが高かった休愚は、兄の祖道とともに八王子の大善寺で学んだ後、絹商人となる。その後、武蔵国橘樹(たちばな)郡小向村(神奈川県川崎市)の田中源左衛門家』『で暮らすようになる。これが縁で東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、その家督を継いで』、宝永元(一七〇四)年四十三歳の時、『川崎宿本陣名主と問屋役を務め』、宝永六(一七〇九)年には『関東郡代の伊奈忠逵(ただみち)と交渉して、江戸幕府が経営していた多摩川の六郷渡しを、川崎宿の経営に変えることで、付近の村の村民が人足に駆り出されることがないようにし、同時に川崎宿の復興と繁栄をもたらす基礎を築』いた。正徳元(一七一一)年五十歳に『なった休愚は猶子の太郎左衛門に役を譲り、江戸へ出て荻生徂徠から古文辞学を成島道筑から経書と歴史を学』んだ。享保五(一七二〇)年、四国三十三ヵ所巡礼から帰宅した彼は、『自分が見聞きしたことや意見等をまとめた農政・民政の意見書』民間省要の執筆を開始』、翌六年に『完成させる(田中丘隅名義)。『民間省要』を上呈された師の成島道筑は、当時関東地方御用掛を務めていた大岡忠相を通じて幕閣に献上。時の将軍・徳川吉宗は、大岡と伊奈忠逵を呼んで休愚の人柄を尋ねた後』、享保八(一七二三)年に『休愚を御前に召』した。当時六十二歳に『なっていた休愚は、将軍からの諮問に答え、農政や水利について自身の意見を述べ』、『この一件で休愚は支配勘定並に抜擢され』、十人扶持を『給され、川除(かわよけ)普請御用となる。荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水、大丸用水、六郷用水の改修工事、相模国(神奈川県)酒匂川の浚渫・補修などを行』った。『富士山の宝永大噴火の影響で洪水を引き起こしていた酒匂川治水の功績が認められ、支配勘定格に取り立てられて』三十人扶持を給されて三万石の『地の支配を任される』。享保一四(一七二九)年七月には遂に代官となり、『正式に大岡支配下の役人として、地元の武蔵国多摩郡と埼玉郡のうち』三万石を支配、殖産政策にも携わって、同年中には『橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区)から櫨(ろうそくの原料)の作付状況が報告されたという記録が残されている』という。『死後、子の田中休蔵が遺跡を引き継ぐ。なお、休愚の急死は、六郷用水の補修で世田谷の領地を突っ切ったことで、伊奈家から大岡に苦情があったため、切腹したとされる伝説も残っている』という。

「ギヽウ」古くから食用とされた川魚である条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps こと。和名はオノマトペイアで、彼らが水中で腹鰭の棘と基底の骨を擦り合わせて「ギーギー」と低い音を出す(陸の人間にも聴き取れる)ことに由来する。また背鰭・胸鰭の棘が鋭く、刺さるとかなり痛いので注意が必要である。]

「百家琦行傳」は丘隅の話を傳へた後に、「風俗通」の話を掲げてゐる。その話は先づ田の中で麞(くじか)を拾ひ得たことに始まる。これを澤の中に置いてどこかへ行つたあとに、魚商人が通りかゝり、商賣物の鮑魚(ほしうを)を麞に換へて去る。麞を置いた男は、その俄かに鮑魚と變じたのを神異とし、鮑魚神と祭られるに至る。數年たつてから前の魚商人が來て、これ我が魚なり、何ぞ神ならんやと云ひ、祠に入つて鮑魚を持ち去つた。順序は田中丘隅の話と同じである。鮑魚神の話は「怪談登志男」にも引いてあつた。

[やぶちゃん注:「百家琦行傳」「ひゃっかきこうでん」(現代仮名遣)は八島五岳著。五巻五冊。天保六(一八三五)年自序で弘化三(一八四六)年刊。以上は「卷之四」の「田中丘隅右衞門」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。

「風俗通」後漢末の応劭の「風俗通義」の略称。諸制度・習俗・伝説・民間信仰などに就いて記す。以上のそれは「怪神」の中の「鮑君神」である。中文サイトより加工して示す。

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謹按、汝南鮦陽有於田得麇者、其主未往取也。啇車十餘乘經澤中行、望見此麇著繩、因持去。念其不事、持一鮑魚置其處。有頃、其主往、不見所得麇、反見鮑君、澤中非人道路、怪其如是、大以爲神、轉相告語、治病求福、多有效驗、因爲起祀舍、眾巫數十、帷帳鍾鼓、方數百里皆來禱祀、號鮑君神。其後數年、鮑魚主來歷祠下、尋問其故、曰、此我魚也、當有何神。上堂取之、遂從此壞。傳曰、物之所聚斯有神。言人共獎成之耳。

   *

「麞(くじか)」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis(一属一種)。体長 七十五~九十七センチ、体高約五十センチメートル。雄の上犬歯が長く、牙状(この歯は下顎の下方にまで達する)を呈することが名の由来。川岸の葦原や低木地帯に小さな群れを成して棲息する日中活動性の鹿である。「風俗通義」の「麇」は近縁種のノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus

「鮑魚」「はうぎよ(ほうぎょ)」で、これは魚の種を指すのではなく、広く塩漬けにして保存食とした魚の加工品を指す。]

 支那にはこの類の話が多く、「太平廣記」などにも、「異苑」「抱朴子」等からいくつかの話を擧げてゐる。民間信仰の起りにはかやうのものが多いから、強ひてからさけ大明神を以て支那渡りとするにも當らぬが、魚の祭られる一點は同一系統に屬すると云へるかも知れぬ。たゞ「太平廣記」にある話は悉く魚ではない。

[やぶちゃん注:「太平廣記」宋の太宗の勅命によって作られた、稗史(はいし:中国で公的な正史の対語で、民間から集めて記録した小説風の歴史書を指す)・小説その他の説話を集めた李昉(りぼう)らの編に成る膨大な小説集。五百巻。九七八年成立。神仙・女仙・道術・方士以下九十二の項目に分類配列されており、これによって散逸してしまった書物の面影を今に知ることが出来る貴重な叢書である。

「抱朴子」「はうぼくし(ほうぼくし)」は晋の道士葛洪(かっこう)の著作。三百十七年に完成した。内篇は仙人の実在及び仙薬製法・修道法・道教教理などを論じて道教の教義を大系化したものとされ、外篇は儒教の立場からの世事・人事に関わる評論。]

 貞享三年の「其角歳旦牒」にある

 

  干鮭も神といふらし神の春   仙化

 

といふ句も、から鮭大明神に因緣あるらしく思はれるが、これだけでは十分にわからぬのを遺憾とする。

[やぶちゃん注:句の前後を空けた。字配は再現していない。

「貞享三年」一六八六年。

「歳旦牒」「歳旦帳(帖)」。月の吉日を選び、連歌師・俳諧師が席を設けて門人と歳旦の句を作り披露する「歳旦開き」に披露するため、前年中に歳暮・歳旦の句を集めて版行した小句集。これを出すことが俳諧師の面目であり、門下を拡大する必須行為でもあった。

 

「仙化」(生没年未詳)「せんか」と読む。直接の蕉門の門人。芭蕉庵で行われた句会を元にした貞享三(一六八六)年閏三月板の「蛙合(かわづあはせ)」を編している。この集中で、かの蕉風開眼とされる「古池や蛙飛びこむ水の音」に対し、「いたいけに蝦(かはづ)つくばふ浮葉哉(かな)」の句をものしており、別号も青蟾堂(せいせんどう)である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(57)「鯨のお詣り」

 

 鯨のお詣り

 

 ――一度(ど)どうもあなたそれはどつさり鯨が捕れたんでしたつけがねえ どうもそれはどつさり捕れたんですよ ええ 鯨つてえものはどうも大きなものですねえ

 どうして丈(たけ)なんざあ大人が寢た位(くらゐ)大人が寢た位もあるんですからねえ 頭なんてものも大きなもので さあこちらの火鉢程ありませうかね ねえあなた なにしろ頭が火鉢位(ぐらゐ)なんですからねえ どうも大層なものですね ねえあなた

 一度それがどうもどつさり捕れましてね どうもあなた どつさり捕れたんですが それを濱でもつてね みんなで切りましてね ねえあなた 鋸(のこぎり)で切るんで御座いますね どうもそれを鋸でもつてみんな一尺位(ぐらゐ)に切りましてね どうも鋸でもつてみんな 一尺位に切つてしまつてね 切つてしまつたんですが なんでもその時そこにぶらさがつている樣な囊(ふくろ)がどつさり出ましたんですがね どつさり出たんですよ ええ

 ――その氷囊(ひようなう)かえ

 ――ええ そこにぶらさがつてる樣な囊なんですがね ええ なんでもどつさり出ましたよ ええ まつちろなのがぶつぶつ浮いてましたけがね

 あなた

 それでもつてみんな切つて賣るところは賣り とつとくところはとつとくとこで鹽(しほ)に漬け 賣るところは賣り とつておくとこはとつておくところで鹽に漬け どうも大變な騷ぎでしたがねえ なんですよあちらではお魚(さかな)だらうがなんだらうが女(おんな)がみんな持つて賣りに歩くんですからね どうも女衆(おんなしう)の忙しいことつたら それはなんですよお魚でも捕れるとみんなそれは夜中であらうがなんであらうがそれを持つて擔いでゆくんですからねえ どうしてあなた

 さうしてそのまあをかしいぢやありませんか ねえほんとでせうか いつたいこんなことがあるもんでせうかねえ ほゝほゝゝゝゝ

 鯨がお詣(まゐ)りするなんて事が全くありますかねえ あなた 鯨がお詣りするなんてねえあなた可笑(をか)しいぢやありませんか あなた ほんとでせうかね そのまあ鯨を切りました人がね 晩になるとそれはどうも大層な熱で苦しんだと申しますがねえ それでもつて御不動樣へ御祈禱を賴みにいきますとね これは鯨はやはたの八幡へお詣りに來たところをまだお詣りもすまさないうちに捕つたのでその祟(たゝ)りだと申しましたさうですがね あなた いくらなんだつて鯨がお詣りするなんてそんな事がほんとでせうかね でもね 御祈禱して貰つたらすぐ治(なほ)つたつて言ひますがね あなた ほんとでせうかね いくらなんだつて あなた ほゝほゝゝゝ お神主(かんぬし)は殺したものは仕方がないから卒塔婆(そとば)でも建ててやれと申したさうですが そのとほりにしたらぢき治つたさうですよ ええ 

 ――さあ鯨は三十ぴきも來ましねかねえ

 

Gungeisankeizu

 

   群鯨參詣圖について

 私が「鯨のお詣り」を書いたのは大正十二、三年の頃と思ふ。家の婆やの話が面白くて、そのままに書いておいたのを、芥川さんがまた面白がつてこれに僕が挿畫を畫いて載せようと、いつか先に立つて、「人間」であつたか、「隨筆」であつたかに送つてしまつた。この鯨のお詣りは芥川さんが送つたのではあるが、運わるく、その雜誌社そのものが、芥川さんの折角の畫は板にまでしながら、雜誌に載せもせぬうちに廢滅してしまつて、印刷にならなかつたものである。未だインキに汚れてもゐない凸版の板木は神代種亮がその折に貰つて手に入れてゐた。昭和八年に江川正之が雜誌「本」を創めるに當つて、私はこの自分の鯨のお詣りを江川に贈り、あはせて神代氏から芥川さんの群鯨參詣國の板木を借出すやうにすすめたものであつたが、さうした今日、私は私の隨筆集の上梓に當つて、神代氏も既に亡き人なるを思ひ、いまは誰れがその板木を持つてゐるのか、これを江川に問合せてみた。江川からは、「本」の印刷所に預けたままになつてをりましたが、先年その印刷所が全燒してしまひ、何とも申譯なきこと乍ら炎上いたしてしまひました。といふ返事があり、神代氏所有の板木も既に、神宮繪畫館正面突當りにある愛光堂が全燒の際烏有に歸してゐるといふのである。群鯨參詣圖の原畫の行衞については私は全くの知らずである。ともあれ、芥川さんの、遂に潮を吹上げなかつ畫の鯨を、私は「本」創刊號の寫眞版から再製して、ここに使はせて貰ふこととした。

[やぶちゃん注:以上は、我鬼山人の署名と落款を持つ芥川龍之介の描いた「群鯨參詣圖(ぐんげいさけいず)」(原画では「參」は「参」である)のキャプションとして下にポイント落ちで示されたものである(標題「群鯨參詣圖について」もポイント落ちであるが、それよりも更にキャプション本文はポイントが落ちる)。絵とキャプションは「鯨のお詣り」の本文の途中、左ページを使って挟まれてある。

 このキャプションの内容は後の昭和三一(一九五六)年中央公論社刊の「二つの繪」の芥川の畫いたさしゑにも書かれているが、小穴隆一の「ばあや」の話はここでしか読めない。最早、焼失してしまった芥川龍之介の「群鯨參詣圖」と、この「ばあや」の話を一緒に読めるのは、本書以外には、ない。私はそれをこのネット上で再現出来たことを、心から嬉しく思っている。

 

 なお、この「ばあや」の語りの中に出てくる鯨の体内から多量に出て来たという氷囊のような形状の物体ととはなんであろう? 海洋生物フリークの私でも一寸判らぬ。識者の御教授を切に乞うものである。

小穴隆一「鯨のお詣り」(56)「遠征會時代」

 

 遠征會時代


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[やぶちゃん注:本章は本「鯨のお詣り」の中で初めて芥川龍之介とは全く関係のない小穴隆一個人の随筆として出るものである。個人的には全体的には幾分、時勢に媚びた如何にもな文章であるようにも私は感ずるのであるが、それはまた、今のダレ切った日本の「おぞましき私」の感想に過ぎぬのかも知れぬ。注する意欲も特異的にかなり失われた。悪しからず。]

 

 父は親孝行といふことはしたことのない私(わたし)に、空家になつてゐた田舍の家(いへ)を一軒殘しておいてくれた。私はその家を貰つた。さうして、これは誰も持出(もちだ)してゆきてが無つた。紙魚(しみ)の這出(はいだ)す塵が飛び散る古文書(こぶんしよ)や古新聞のきれぎれが詰つてゐる、二つの行李も貰つたのである。

[やぶちゃん注:「はいだ」の読みはママ。

「田舍の家」小穴隆一は北海道函館市生まれであるが、長野県塩尻市の祖父のもとで育った。しかし父は中山道洗馬宿(現在の塩尻市洗馬)の旧家である志村家の出であった。この田舎の家がどこを指すかはよく分らぬが、塩尻であることは間違いないように思われる。]

 家は持歸(もちかへ)ることができず何年か前の村の火事で燒失(やけう)せてしまつた。

 中の物は七八年も風にあてておいたから、鼠の小便のにほひも漸く薄れてきた。親孝行といふことはしたことのない私であつても、年をとり古いものをとりひろげて、私共の父母が生れて死んだその間(あひだ)の、時代の動きを思ひ、靜かにしてゐることば格別に樂しい。

 遠征會要領なるものも私は古行李(ふるかうり)から拾つたものであるが、私はいま別してこの遠征會について知りたいのである。私がここに書いてみようとしてゐる話は甚だ口惜しいが、昔、私が東片町(ひがしかたまち)に父と暮してゐた當時、母が動物園の話から、「あの福島中佐の馬、あれは如何(どう)してゐるかねえ。」と言つてその子供達の笑ひを買つたそれと大差のない物だ。

[やぶちゃん注:「東片町」町名だけを出して読者に判るとなれば、これは東京の地名で、駒込東片町か。現在の文京区向丘・西片・本駒込附近に相当する。

「福島中佐」日本陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「福島安正」によれば、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩士福島安広の長男として生まれ、慶応三(一八六七)年に江戸に出、『幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦』、明治二(一八六九)年には『藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学』んだ。その後、明治六(一八七三)年四月に明治政府に仕官、司法省から文官として明治七(一八七四)年に陸軍省へ移った。二年後の明治九年には七月から十月までアメリカ合衆国に「フィラデルフィア万国博覧会」への陸軍中将西郷従道(つぐみち)に随行、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では福岡で征討総督府書記官を務めた。明治二〇(一八八七)年、陸軍少佐に昇進した彼はドイツのベルリン公使館に武官として駐在し、公使西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設情報などを報告しているが、明治二五(一八九二)年の帰国に際して、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を』日本陸軍に齎したことで知られる。ここで小穴隆一の母が言っている「馬」とは、その「シベリア単騎横断」の際の馬のことである。福島の「シベリア単騎横断」については、未完ながら、こちらに詳しい解説がある。小穴隆一の以下の叙述に従うなら、この馬は幸せにも本邦に戻って動物園で余生を暮したということであろう。その動物園は伊勢雅臣氏のこちらの記事によって上野恩賜動物園であったこと、馬は一頭ではなく、三頭であったことが判る。]

 私はあと一週間たてば一寸俗用があつて、二三日の豫定で信州に行く。行けばまた福島中佐について何か若干知るてとが出來るかもしれない。

 私もまたずうつと子供のころほひに動物園でみた福島中佐の馬、小舍(こや)にしよぼしよぼとなつてゐた馬、あれは一體、あの時の馬は何歳であつたものであらう。

 

○日本地圖

明治十年の大日本(だいにつぽん)地圖

 明治十年の二月に出版されや地圖には、臺灣もまた樺太もないのである。ましてや朝鮮などがありやう筈はない。まだ頭も尻もないこの大日本地圖、富士山が最高を、信濃川が最長を示してゐる日本地圖で、私が持つてゐる物には下等小學第貮賞品の印(いん)が押されてゐるのだ。

 私共は小學校の昔、「四千餘萬の兄弟(あにおと)どもよ。」の歌を唱(うた)つた。私は母の前で、四千餘萬の兄弟どもよ。」と唱つて「おや、三千餘萬ではなかつたのかねえ、この頃は四千餘萬になつたのかねえ、といはれたこともある。然しながらまた私の女房になると、「北は樺太千島より」で、「七千餘萬の兄弟どもよ。」と習つたといつてゐる。現在支那事變この方、私はラヂオで一億の日本國民といふ言葉を聞き、六十年も昔のこの地圖を再びとりひろげてみて、丁度私共の父母が生れたあたりの時代から漲るいぶきが、如實にかんじられるのを、樂しまざるをえない。

 なほ、この地圖は十年二月十六日出版御屆(おんとゞけ)となつてゐるのであるが、御屆一日(にち)前の二月十五日といふ日は、私學校(しがくかう)の生徒が西郷隆盛を擁して鹿兒島を出發して兵一萬五千に桐野利秋、篠原國幹(くにもと)、別府晋助、村田新八等(ら)が動いてゐた時でもあるのだ。

 

 

  ○作文

  明治十年頃の兒童の作文、一例。

 

  加藤淸正

 身體長大ニシテ力(チカラ)極メテ強ク知力アリ夫(ソ)レ天下ニ高名ノ人物ニシテ始終豐臣秀吉ニ事(ツカ)ヘ戰ニ出ヅル每(ゴト)ニ偉功(ヰカウ)アリ殊ニ志津嶽(シヅガタケ)ノ戰(イクサ)ノ如キ尤モ大功(タイコウ)ヲナシ武威ヲ一世ニ輝カシ福島正則、加藤嘉明、糟谷武則、平野長泰、片桐且元(カツモト)、脇坂(ワキザカ)泰治ト共ニ志津嶽七本槍ト稱シ後世ニ英名ヲ存(ソン)シ又朝鮮征伐ノ時其勢(イキホヒ)破竹ノ如クニテ向(ムカ)フ所殊(コトゴト)ク(悉くの誤りであらう。)之ヲ破リ大功ヲ顯ハシ、實(ジツ)ニ未曾有之(ノ)豪傑ナリ然(シカ)リ而(シカウ)シテ方今(ハウコン)如此(カクノゴト)キ人物アラバ何ゾ薩賊ヲ伐(ウ)ツニ足ラン、鳴呼淸正ノ偉(ヰ)而(シカシテ)大(ダイ)ナラン哉(ヤ)

[やぶちゃん注:「方今(ハウコン)」まさに今。ただ今。]

 

 私は、この作文加藤淸正なるものは父が書いたのであると思つてゐるのだが[やぶちゃん注:「書いたのである」は底本では「書いのである」であるが、意味が通じないので、脱字と断じて特異的に訂した。]、或は他の人の物であるのかも知れぬ。父とすれば、これは父が十三歳の時の物である。私の父は信州人であり、耳學問では松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となる順序であるが、父が生れた土地といふものは元來が天領であつたやうである。

 九段の遊就館の第十一室(維新前後及(および)明治時代)には、熊本ニ於テ薩軍ヨリ投ジタル文(ブミ)として、然ルニ當縣鎭臺名義ヲ辨セズ城(シロ)ヲ閉ヂテ云々なる物が陳列されてゐるが、私には父の「加藤淸正」にも甚だ興味があるのである。私は思ふのである。當時薩摩の兒童に加藤淸正の題を與へて文章をつゞらせてゐたものならば、薩賊のかはりには如何なる言葉が現はれてゐたであらうか。

 加藤淸正を書いた父も血氣定まらぬ時代には、孤軍奮鬪圍(カコミ)ヲ衝(ツ)イテ歸ルと兵兒(へこ)の謠(うた)を愛吟してゐた筈である。私は、「敵の大將たるものは古今無双の英雄ぞ。」といふ歌を小學校で習つた。當時は漫然たゞこの古今無双の英雄ぞといふ文句が好きであつたが、今日では古今無双の英雄ぞと句が使はれてゐるその意氣がありがたいと思はざるをえない。

  ○徴兵

 明治十二年十月八日東京日日新聞掲載の寄書(きしよ)

  ○徴兵論 北總(ほくそう) 林彦兵衞

 この論文は、明治十二年の日本では、理(リ)ハ情(ジヤウ)ヲ得テ通ズル底(てい)の物であつたあらうが、今日(こんにち)に於いては全文の掲載にすこしく不安を感ずる。

[やぶちゃん注:「林彦兵衞」不詳。同一姓の通名で、千葉在の同時代の教育関係者がいるが、軽々に同一人物と比定するには、事蹟を読む限りでは不審があるので、敢えて示さない。識者の御教授を乞うものである。]

 明治十二年十月といへば既に招魂社(十二年現稱靖國神社に改む)も建てられてゐた。

 この徴兵論は、慶應三年將軍慶喜大政奉還、王政復古の大號令、慶應四年が明治元年となり、五箇條の御誓文の宣布、御(ご)卽位式、明治四年全國に四鎭臺(東京、仙臺、大阪、熊本)を置き舊藩の武士から兵を徴す。五年十二月詔(せう)して、全國徴兵の制を定められ翌六年正月徴兵令發布、といふこの今日の陸海軍之(の)制の礎(いしずゑ)をつくつた兵部大輔(ひやうぶだいすけ)大村益次郎が在京師爲兇人所成薨(けいしにありてきようじんのためにこうぜられて)から後(のち)十年の物である。男子の散髮令、取平民に苗字を呼YO)ぶことを許されてから九年、帶刀禁止令があつてから三年目、大正天皇御降誕の年の物である。さうして、これを掲げた日(ひ)の「日日」の一面には陸軍省録事(ろくじ)として○達(たつし)甲第拾六號(陸軍士官學校生徒入學檢査格例(かくれい)の續き、陸軍士官學校生徒入學心得書(しよ)等(とう)、四面公告には、志願人(にん)檢査課目が載せられてゐるが、士官學校人學願(ねがひ)のところで、

  年號何年何月何日生(うまれ)

 明治十二年十二月何年何ケ月に目をとめて數(かず)をはかると、志願人は安政四年から文久三年の間(あひだ)に生まれた人達に限られてゐて、元治(ぐわんぢ)、慶應に生れた人では未だ入學を許可される年齢に達してもゐない。さういふ今日(こんにち)から五十八年も前の時代の物であることを知る。

 私はこの林彦兵衞といふ人物については全然何も知らない。(明治の初めに働いた人達といふ者は、年は若くとも私共とは違つて、隨分圖太(づぶと)く性根(しやうね)を据ゑて事(こと)にかゝつたらしい。林彦兵衞も彼が存外若い時にこの徴兵論を書いたものとして命數のながい人であれば、八十何歳かで昭和十二年に生きてゐるかも知れぬ。)

 日本も、五十八年前の日本には林彦兵衞の徴兵論が必要であつたと思はれる。私はこの林彦兵衞の徴兵論をひろひとつて一讀した時に、日露開戰前の私共小學生の姿を再び思出した。如何(どう)いふものか當時東京の子供達の間(あひだ)にでも、君のところは士族か平民かと聞合(きくあ)ふ習慣のやうなことがあつた。私のところは平民であるから今日でもこれを忘れずにゐるのである。私は、明治十二年頃では士族對平民の感情も、どこかここ十年か前の水平社の人達の思ひにも似たものがさしはさまつてゐたのではなからうかとも思ふ。今日は今年二一歳の末弟の如き、「いまでも士族といふものがあるかねえ。」と言つてゐる次第であるが。

 明治十二年、十二年十月の東京日日新聞には、マイエツト氏日本(につぽん)公債ノ辯(べん)も連載してゐるのである。

[やぶちゃん注:「マイエツト氏」ポール・マイエット(Paul Mayet 一八四六年~一九二〇年)はドイツの政治経済学者で「お雇い外国人」教師。明治九(一八七六)年に来日し、東京医学校ドイツ語教師や農商務省調役等として活躍、公債の諸制度や統計院・会計検査院の設置に関する建議・立案のため奔走した。一八九三年に帰国した後はドイツ統計局員を務めた。「日本公債弁」(一八八〇年)等の著書を持つ(以上は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠った)。]

(マイエツト氏日本公債ノ辯カラ鈔寫(セウシヤ))

 附言――將(マ)タ千八百七十六年一月一日(ジツ)ノ計算デハ四十萬八千八百六十一名ノ士族ハ其家族トモ百八十九萬四千七百八十四人ニシテ全國ノ人口ノ十八分ノ一ニ當リ内(ウチ)十二萬ノ千八百八十一名ノ士族ニシテ元來俸祿ヲ有セス或ハ業(ゲフ)已ニ之ヲ奉還セシモノハ其家族トモ五十九萬四千零(レイ)四十二人又(マタ)二十八萬六千九百八十名ノ士族ニシテ尚ホ之ヲ有(イウ)セシモノハ其(ソノ)家族トモ百二十萬零(レイ)七百四十二人卽チ全國ノ人工二十六分ノ一ナリ(尤モ右計算ニ從ヘバ俸祿受領人ハ此外(コノホカ)ニ家族二千九百二十九人ヲ有シタル四百六十六名ノ華族ト家族三萬零(レイ)二十六人ヲ有シタル平民五百四十二名アリ但シ俸祿受領人ノ統計表ニ於テハ皆各(カク)其(ソノ)數(スウ)ヲ異(コト)ニス是レ全ク編纂ノ時日(ジジツ)同ジカラザル故(ユヱ)ニ因(ヨ)ル)――

 

 鳥羽・伏見の戰(いくさ)、上野戰爭、函館戰爭、佐賀の亂、熊本・萩の亂、西南の役、明治元年か明治十二年の間(あひだ)に日本人(につぽんじん)を敵にしてこれだけの戰(くさ)をしてゐたのでる。私は先日神戸の湊川神社に參拜した。さうして竝んで神前に額(ぬか)づく兵士の列を(うしろ)のはうからをがんだ。楠正成もなにもない。ただ神が神にお辭儀をしてゐるその姿に思はず掌(て)を合はせてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「鳥羽・伏見の戰」慶応四年一月三日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十七日)に起こった旧幕府軍及び会津・桑名藩兵と薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で、徳川慶喜の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、慶喜を擁して鳥羽・伏見で薩長軍と交戦したが、慶喜は江戸に逃げ帰った。戊辰戦争の発端となったが、旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢がここに確立した。

「上野戰爭」慶応四(一八六八)年五月十五日、江戸城無血開城を不満として江戸上野の寛永寺に立て籠もって抵抗した彰義隊を新政府軍が壊滅させた戦い。

「函館戰爭」「五稜郭の戦い」とも称する。明治元(一八六八)年から翌年にかけて箱館五稜郭を中心に榎本武揚ら旧幕臣が臨時政府を創って官軍に抵抗した戦い。榎本らの降伏によって終結し、鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はこれをもって終焉を迎えた。

「佐賀の亂」明治七(一八七四)年、征韓論争に敗れて下野した前参議江藤新平が中心となって、島義勇(しまよしたけ)の率いる憂国党と結んで佐賀で蜂起した、反政府派士族による反乱。征韓・攘夷・旧制度復古をスローガンとしたが、期待していた西郷隆盛らの応援もなく、全権を受けた大久保利通の指揮下の追討政府軍に鎮圧され、敗れた江藤・島は晒し首に処せられた。

「熊本・萩の亂」前者は明治九(一八七六)年十月に熊本に起こった反政府暴動「神風連(しんぷうれん/じんぷうれん)の乱」のこと。新政府の開明政策に不満を抱いた旧士族太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)らが結成した政治団体の「神風連」(敬神党)が、国粋主義を掲げて鎮台・県庁を襲撃したが、ほどなく鎮圧されたものを指す。後者は同明治九年、山口県の萩で前兵部大輔前原一誠(まえばらいっせい)ら不平士族が蜂起した反政府反乱。先の熊本神風連の乱や、秋月(あきづき)の乱(同年十月に福岡県秋月(現在の朝倉市)で旧秋月藩士宮崎車之助(しゃのすけ)らが起こした反乱。政府の対韓政策を批判して立ったが小倉鎮台兵に鎮圧された)と呼応して政府粛正の奏上を計画、山陰道を上京しようとしたが、政府軍に平定された。

「西南の役」西南戦争。明治一〇(一八七七)年に西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱。征韓論に敗れて帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成、政府との対立が次第に高まり、遂に私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが、政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の城山で自刃した。明治維新政府に対する不平士族の最後の反乱となった(私は維新史に興味がないため、オリジナルに記す力がない。以上の注は総て信頼出来る辞書解説に拠った)。

「湊川神社」現在の兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る明治になって創建された神社。