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2017/02/25

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗(慢心)」

 

 天狗(慢心)

 

 伏見が繁昌した頃といへば、無論豐臣氏の時代であらう。内野七本松で勸進角力を催された。勸進元の取手には、立石、伏石、荒浪、立浪以下三十人ほどあり、これに對する寄手は畿内をはじめ諸國から集まつた武士であつたが、いつも勸進元の勝になつた。この上は如何なる人にても、名乘り出る者があれば取り續ける、といふことになつたけれども、さて出て取らうといふ者は一人もない。その時、暫く角力をお待ち下され、お望みの方がござる、といふ聲が聞えたので、行司もその儀ならば早くお出なされ、といふ。果してどんないかめしい男が出るかと見てゐると、立出でたのは年頃二十歳ばかりの比丘尼である。行司の問ふのに答へて、私は熊野邊の者でございますが、常々若い方々が角力をお取りなさるのを見て居ります、今日もこゝで皆樣がお取りなさるのを羨ましく存じ出て參りました、女の身と申し、比丘の分際ではあり、歷々の方々が居竝んでおいでになりますので、まことにお恥かしうございます、と云つた。見物の人達も驚いたが、とにかく前代未聞の事であるから、早速取らせたらよからうと所望する。立石は苦笑して、かやうな微弱な者は十人も十五人も一つまみに出來る、自分が相手になるのは大人氣ないから、若い小角力に取らせたらよからう、と辭退したけれども、比丘尼は承知しない。いえいえ、どうせ取るならば、勸進元の上の方を出して下さい、それでなければ取りますまい、といふ。見物の貴賤も、それは面白い、立石取れといふことになつて、立石も仕方なしに土俵に上つた。比丘尼が帷子を脱いで出たのを見ると、下には縞のカルサンを著けてゐる。行司が兩方を合せ、立石が大手をひろげて立つのを、比丘尼がつツと飛び込んだと思つたら、立石の身體は仰向けに突き倒されて居つた。これは侮り過ぎて不覺を取つたと、その次は愼重に構へ、比丘尼の寄つて來る右手を捉へ、三度ばかり振り𢌞したが、比丘尼は驚かず、後脛を取つて、今度は仰向けに投げ倒した。滿場鬨の聲を揚げて囃したが、比丘尼の投げ口は電光石火の如く、立石に次いで出た角力も皆やられた。比丘尼はその後も各所の角力場に姿を現し、連勝の勢ひを見せた。これは葛城山の天狗が假りに比丘尼となり、力に驕る者どもの頭を押へたものと取沙汰された(義殘後覺)。

[やぶちゃん注:「内野七本松」現在の上京区下長者町通七本松西入鳳瑞町の内。(グーグル・マップ・データ)。

「帷子」「かたびら」。袷(あわせ)の「片ひら」の意で、裏を付けない衣服。単衣(ひとえ)。

「縞のカルサン」縞織りの「輕衫」(かるさん)。軽衫は袴の一種。筒が太く、裾口が狭いもの。裾には横布があってきゅっとしまっている。語源は「ズボン」の意のポルトガル語“calção”(音写「カァルソン」)。初期形態は渡来人のそのものであったが、次第に日本化してゆき、踏込袴・裁付(たっつけ)袴・山袴と酷似したものとなり、当初の括緒(くくりお)袴様(よう)のものから、裾に襞をとって幅の狭い横布を附けた形態へと変化した。縞は細かな縦縞であろう。

 これは「義殘後覺」の「卷五」の「比丘尼相撲の事」である。坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」のこちらにある電子テクストを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認しつつ、電子化する。一部にオリジナルに句読点・記号及び歴史的仮名遣による読みを附し、読み易さを考え、直接話法(心内語を含む)を改行した。

   *

京伏見、はんじやうせしかば、諸國より名譽のすまふども到來しけるほどに、内野七本松にて勸進すまふを張行(ちやうぎやう)す。くわんじんもとの取手にハ、立石・ふせ石・あらなみ・たつなみ・岩たき・そりはし・藤らふ・玉かつら・くろ雲・追風・すぢがね・くわんぬきなどをはじめとして、都合三十ばかり有けり。よりには京邊土畿内、さてハしよこくの武家よりあまりてとりけれども、さすかに勸進すまふをとるほどのものなれハ、いつにても、とりかちけり。寄手の人々、

「こはくちをしきかな、いかなる人もあらば、もとめて、取おほせたくこそ存づれ。」

など、ぎしける處に、ある日、立石、せきにいづるとき、行事、申(まうし)けるは、

「御芝居にすまふハつき申候や。もし、御望のかた御座候ハゝ、只今御出(おいで)候へ。さらば、なのり申(まうす)。」

と、よばゝりけれども、いでん、といふ人、壹人もなし。かゝる處に、ねずみ戸(ど)よりも、

「しばらく、相撲をは、まち給へ。御のぞみのかた御座候。」

と申ほどに、行事、

「そのぎならハ、はやく御出候へ。」

と申けれハ、いでにけり。人々、何たるいかめしき男なるらん、と見る所に、としの比(ころ)、はたち斗(ばかり)なる、びくになり。行事、

「こハいかなる人ぞ。」

と申けれハ、比丘尼(びくに)、申けるは、

「さん候。我ハ熊野あたりの者にて候が、常にわかき殿ばら、たちすまふをとらせ給ふを見および候によつて、人々とらせ給ふがうらやましさにまいりて候。女と申(まうし)、比丘と申、似合ぬ事にて候へハ、れきれきの殿ばらたち、並居(なみゐ)させ給へば、はつかしくこそ候へ。」

と申けれハ、芝居中(ぢう)、是をきゝてみれハ、いとやさしきあまなり。

「かゝる中へ、かやうの事をいふてすまふをのぞむハ、いかさま、きゝもおよばぬふしぎかな。いそぎあはせ給へ。」

といひけれハ、立石、申けるハ、

「かやうのびじやくなるものハ、十人も十五人も一つまみづゝにすべきに、いかで、それがし、おとげなくも、とるべきぞ。わかき小ずまふの候ハんに、あはせ給へ。」

といひけれハ、比丘、聞(きき)て、

「いやいや、とる程ならば、勧進本(もと)にてうわすまふをいたし給へ。さなくば、とるまじき。」

と申(まうす)。見物のきせん、これをきゝて、

「まことにおもしろし。立石、とれ。」

と一同に所望しければ、ちからなく、取(とり)にける。さて、びくに、かたびらをぬぎていでけるをみれハ、下には島(しま)のかるさんをぞきたりける。行事、すまふをあはするとき、立石、大手(おほで)をひろげて、

「やつ。」

といふて、かまへけれハ、びくにハ、つつ、と入(いり)て、あをのけにぞつきたをしける。芝居中、是を見て、あきれはてゝぞほめたりける。立石、くちおしくおもひ、

「なめ過(すぎ)てまけゝる。」

と思へば、こんどハ、小躰(こてい)にかまへてかゝる所に、比丘ハ、つゝ、と、よりけれハ、立石、弓手(ゆんで)のかいなをとつて、三ふりばかりふりけるか、ふられて、びくハ、うしろすねのおつとりをとつて、うつふさまにぞなげたりける。芝居中ハ、ときのこゑをつくつて、わらひけるほどに、しばしハ、なりもやまざりける。それより、もふせいし・くわんぬきなどいでゝとれども、後、次第に、びくにがなげぐちハ、でんくわう・いなびかりのごとくに、いかゝとるやらん、目にも見へず、手にもためずぞとつたりける。かくて、すまふハ此びくにせきをとられければ、芝居ハ則(すなはち)退散、それより又、伏見にて、くわんじんすまふありけるに、又、このびくにいでゝ、とりおほせけり。醍醐・大さかなどまて行(ゆき)て、世にすくれたる大すまふといへは、ひろひけるほどに、世中の人、

「これは、たゞものにてハあるまじき。」

と、おそれをのゝきけるが、後にきけは、かつらき山の天狗、おごるをにくみて、頭をおさんがために比丘となつてとりける、と、きこゆ。奇代の事と、さたしけり。

   *

文中の「ねづみど」は「鼠木戸(ねずみきど)」のこと。近世に於いて芝居・見世物などの興行場の観客の出入り口を指す。無料入場を防ぐためにわざと狭くしたことから、かく称した。]

 これは角力譚の一の型で、いろいろなものに出て來る。蕪村の「飛入の力者怪しき角力かな」や太祇の「勝逃の旅人あやしや辻角力」なども、當然この範疇に入るべきものである。角力ほど華々しくはないけれども、深川永代八幡の社地に爲朝明神の開帳があつた時、力自慢の男どもが集まつて、五十貫、七十貫、百貫の石を手輕に持ち、或は牛を舟に載せなどして見せた。その日も夕暮近くなつて、見物の人も散りかけた頃、二十四五歳の色白な瘦せ形の武士が出て、さてさていづれも珍しい大力である。某も聊か力があるつもりだが、まだこんな大石を試したことがない、一つ試して見たくなつたから、お許し願へまいか、と云つた。力自慢の面々は、その人の弱々しげな樣子を見て、笑ひながら、どうぞ御自由に、と云つたところ、武士は兩刀も取らず、羽織袴のまゝ、八十貫といふ大石を、何の苦もなく三度まで差上げ、音もなく地におろし、丁寧に一禮を述べて立ち去つた。力自慢の連中は呆然として一語も發せず、見物の中には天狗だらうといふ者もあつたが、後に聞くところによれば、四谷左門町の組屋敷に居る人だつたさうである(眞佐喜のかつら)。

[やぶちゃん注:「飛入の力者怪しき角力かな」岩波文庫版尾形仂(つとむ)校注「蕪村俳句集」(一九八九年刊)によれば、「とびいりのりきしやあやしきすまひかな」と読み、推定で明和七(一七七〇)年七月十一日の作とする。

「太祇」老婆心乍ら、炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の江戸生まれの俳人。まさに前の与謝蕪村とも交流があったとされる。

「勝逃の旅人あやしや辻角力」「かちにげのたびびとあやしやつじすまふ」或いは「つじすまひ」であろう。「辻角力」は大道芸人や好事の者らが道端で即席に興行した素人相撲のこと。早稲田大学図書館古典総合データベースので自撰「不夜菴太祇發句集」の当該句の影印が視認出来る。そこでは、

 

勝迯の旅人あやしや辻角力

 

となっている。

「眞佐喜のかつら」は以前に述べたように所持しないので原典を示せない。]

 前の角力の話は微弱な比丘尼が現れて、片端から投げ倒すところに驚異がある。後の力石にしても、色白の瘦男なるが故に效果を發揮する。かういふ人物の出現に際し、人は先づたゞ者でないと感じ、天狗の仕業であらうといふ結論に達するらしい。

 比丘尼の角力を傳へた「義殘後覺」は、別に武田信玄に就いてこんな話を書いてゐる。信玄に仕へた容顏美麗の少年があつた。小坊主にして茶堂重阿彌に預けたが、甚だ怜悧で信玄にも一方ならず寵愛を受けてゐた。或時この小坊主に茶を挽かせてゐると、若侍の中に口論がはじまり、物騷がしい物音がする。信玄これを聞いて、予が庭前にかゝる狼藉を仕るは何者か、一々討ち果すべしと云ふに、小坊主は緣の前の障子をあけて庭の樣子を見定め、十人ばかり入り亂れて斬合つて居る模樣でございます、と報告し、次の間に立てて置いた薙刀を持つて來た。薙刀ではいかぬ、弓を持つて參れと命じ、聲のする方角に矢を放つたら、それきり物音は聞えなくなつた。そこで信玄が、これは不思議である、予が明け暮れ弓箭の計り事を工夫するにより、胸中を測らんため、天狗がかゝる業(わざ)をして驚かすと見えた、人の所爲ではあるまいと云ふと、小坊主畏つて、御意御尤もに存じますると云ひ、その晩から姿が見えなくなつた。さては魔の所行疑ひなし、油斷あるべからずといふのであるが、この場合、信玄もやはり天狗に歸してゐる。庭前の物音ばかりではない、やんごとなき人の子なりといふその小坊主が已に怪しく思はれる。

[やぶちゃん注:「茶堂」原典もママであるが、後の高田衛氏のテクスト(後述)から、茶道と同義であることが判る。高田氏はこれを、広義の茶道ではなく、『茶道を以て仕える戰國大名の側近衆。伽の衆でもあった』と注され、職掌としてのそれであることを示しておられるから、だとすると「茶堂」とも呼んだものかも知れぬ。

「重阿彌」「じふあみ」。不詳。

 以上は「義殘後覺」の「卷三」の「五 小坊主、宮仕への事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここからでも視認出来るが、ここは岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(上)」(一九八九年刊)に載るものを参考底本としつつ、恣意的に漢字を正字化、直接話法部を改行して以下に示す。

   *

 或る時信玄公へ、やんごとなき人の子なりとて、年十五、六歳なる、容顏美麗の若衆を連れて參り、

「召し使はれ侯はばや」

と申し上げければ、信玄御覽ずるに、世に類なき美しきかたちなれば、召しおき給ひて、やがて頭を剃り、法師になして、茶道重阿彌にあづけ給ふ。

 かくて御腰元にて召し使はるるに、信玄公の御心をかさねて悟り、物ごとに先へ整のへて置くやうにしけるほどに、御意にいる事たぐひなし。かくて二年あまり宮仕へけるが、ある夜、信玄公、この小法師を召されて、茶を御前にて挽(ひ)かさせ給ふときに、御陣の内に、若侍の十人ばかり寄合ひ、物語りする聲して、擧句には口論し、後にはさんざんに斬り合ふ音のしければ、小法師申しけるは、

「御坪の内にて、若侍衆、口論つかまつり、只今討ち合ひ侯」

と申しければ、信玄、聞召(きこしめ)して、いと騷ぎ給はず、

「誰れ誰れにて有るやらん」

と仰せければ、

「いづれにて候やらん。聞きなれぬ聲にて侍る」

と申す。

「憎き奴輩(やつばら)かな。予が庭前にて何者なれば、かかる狼籍をつかまつるらん。いちいちに討ちはたすべき」

と仰せられければ、小法師、茶を挽きさして、づんと起つて、緣の前なる障子をさらりと明けて、庭を急度(きつと)と見、立ちもどつて申すやうは、

「十人ばかり、打ち亂れて斬り合ひ申し侯。御用心候へ」

とて、次の間に立て置きたる御長刀(なぎなた)を取つて、參らせければ、信玄公仰せられけるは

「長刀を差しをき、弓を參らせよ」

と仰せらるるほどに、かしこまつて七所籐(ななどころどう)の弓をそへて奉りける。

 信玄公、ひつくわへ、よつぴいて、放し給へば、

「どつ」

といふ聲して、ことごとく退散して、何の音もせざりけり。そのとき仰せらるるは

「あな不思議や。これはひとへに天狗の所爲なるべし。予があけくれ弓箭のはかり事のみ、工夫するによつて、胸中をつもらんがために、かかる業をなして驚かすかと見えたり。まつたく人にはあるまじ」

と仰せられければ、

「御意もつともに候」

とて、その夜、かきくれて見えずなりにけり。信玄公さては魔の所行、疑ひなし。油斷有るべき事ならずとぞ、覺しける。

   *

文中の「七所藤の弓」とは弓の彎曲部の七ヶ所に籐(とう)を卷いた強弓と底本の高田氏の脚注にある。「弓箭のはかり事」は「きうぜんのはかりごと(きゅうぜんのはかりごと)」で、戦さに於ける戦略戦術法の謀議・研究の意。「胸中をつもらんがために」同じく高田氏注に『見すかそうとして』とある。]

 日光山は天狗が住んで恐ろしいところと云はれて居るが、或浪人が知音あつて山中の院に寄宿してゐた。一夜人々集まつて碁を打つのに、この浪人に敵する者がなかつたので、院中には自分に先させて打たうと云ふ者はあるまい、と自慢しはじめた。その時側に居つた僧が、左樣な事はこゝでは申さぬものぢや、鼻の高い人があつて、びどい目に遭ひまするぞ、と注意するや否や、明り障子を隔てた庭の方で、こゝに聞いて居るぞ、といふしはがれた聲がした。浪人は忽ち顏色を失ひ、碁盤碁石を片付け、夜の明けるのを待ちかねて、下山してしまつた(譚海)。

[やぶちゃん注:「自分に先させて打たうと云ふ者」「先」は「せん」と読んでおく。私は囲碁を全く知らぬ迂闊な人間だが、それでも対局者の強弱がはっきりしている場合は弱い者が黒石を持って先手(せんて)になること、それを「先(せん)」と呼ぶことぐらいは知っている。さればここはそれに照らせば、この一言で、この浪人の驕りのさまが手にとるように知れるということなのであろう。

 これは「譚海」の「卷の五」の「下野山日光山房にて碁を自慢せし人の事」である(「下野山」の「山」はママ。原典の「國」の誤記が疑われる。底本の誤植可能性は低い。私が「譚海」電子化注(作業中)で使用している底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本(大正六(一九一七)年もこうなっている。底本は東北大学付属図書館蔵の狩野文庫本とその国書刊行会本を対照校訂しているからである。読みは私がオリジナルに推定で歴史的仮名遣によって附している。

   *

○下野國日光山は、天狗常に住(すみ)ておそろしき處なり。一とせある浪人、知音(ちいん)ありて山中の院に寄宿し居(ゐ)けるが、一夜(ひとよ)院内の人々集(あつま)りて碁を打(うち)たるに、この浪人しきりに勝(かち)ほこりて、皆(みな)手にあふものなかりしかば、浪人心おごりて、此院中に我(われ)に先(せん)させてうたんと云(いふ)人はあらじなど自讚しける時、かたへの僧左樣成(さやうなる)事こゝにてはいはぬ事なり、鼻の高き人有(あり)て、ややもすればからきめ見する事多しと、刺しける詞(ことば)に合(あは)せて、明り障子を隔てて庭のかたにからびたる聲して、爰(ここ)に聞(きき)て居(を)るぞといひつる聲せしかば、浪人顏の色も菜(な)のごとくに成(なり)て、ものもいはず碁盤碁石打(うち)すて置(おき)て寢(いね)、翌日のあくるを待(まち)あへずして、急ぎ下山して走り去りぬとぞ。

   *]

 天狗といふ言葉は現在でも慢心を現す言葉になつてゐる。鼻が高いとか、鼻を高くするとかいふ言葉も、皆それから出たものであらう。然るに以上の話では、天狗そのものが慢心を警める役に𢌞つてゐる。天狗の鼻が高いのは何でもないが、人が妄りに鼻を高くするのは危い。そこで鼻高族の天狗が何等かの形で警告を與へるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「警める」「いましめる」と訓ずる。]

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