フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小穴隆一「鯨のお詣り」(10) 「Ⅳ」 | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(12) 「二つの繪」(1)「二つの繪」 »

2017/02/05

小穴隆一「鯨のお詣り」(11) 「芥川龍之介全集のこと」

 

 芥川龍之介全集のこと

 

[やぶちゃん注:以下は、巻数から考えて昭和二(一九二七)年十一月から刊行が開始され、昭和四年二月に完了した、岩波書店刊「芥川龍之介全集」全八巻、所謂、第一次元版全集と岩波が呼称しているものと考えてよい。小穴隆一は本全集の装幀を担当した(本書の刊行(昭和十五年)までには、この後、昭和九年十月から翌年八月にかけて同じ岩波から発行された、通称で第二次普及版全集と呼ばれる十巻本がある(旧の私が電子テクストで依拠する正字体の岩波全集はこれが元である)。新書判の大きさの、通称、第三次新書版全集と称するそれは、戦後の昭和二九(一九五四)年の刊行である)。なお、これは「二つの繪」には所収していない。]

 

   裝幀について

 

        文字のこと

 

 箱、表紙、扉の文字は、尋常二年生芥川比呂志君の筆(ふで)です。

 改造社の「沙羅(さら)の花」の文字(もんじ)は僕の末(すゑ)の妹尚子(ひさこ)が尋常小学校二年生の時に書きました。尚子は度々、芥川さんの本の字を書きましたが、まだ、女學校の生徒とならないうちに病氣で死にました。

 私(わたし)は字が下手です。書家の字も困ります。

[やぶちゃん注:「書家の字も困ります」意味不明。或いは「書畫」の誤字ではあるまいか? 但し、教え子曰く、――書を生業とする、若しくは書を以て世に知られたる人の書いた字など、小穴の居心地を悪くする――の意ではないかと言う。それも小穴隆一ならここで突如、言いそうだ。附加しておく。

 

        表紙のこと

 

 布(ぬの)は武州靑梅で、手織(ており)でもつてつくらせました。染色(そめいろ)は――色氣(いろけ)は、澄江堂主人、又は私の好みですか? 私は阿蘭陀(オランダ)書房の「羅生門」を思ひ出しました。「羅生門」も亦同一の色氣でかざりととのへてゐるからです。私にあつても、全く偶然の初めと終りだと思ひます。

[やぶちゃん注:底本では「靑梅」には「あをめ」、「羅生門」には二箇所ともに「らじやうもん」と振ってあるが、読者の躓きを起すだけなので意図的に振らなかった。

「羅生門」大正六(一九一七)年五月二十三日発行の第一作品集は芥川龍之介自装である。全集と同じ濃い藍色は龍之介が特に好んだ色である。]

 

        綴ぢのこと

 

 綴ぢについては佐藤春夫さんの注意もあつて、もつと、明るく、愉快に表紙がひらく綴ぢがよかつたのですが、背を皮にするとか、なんとかならなければ、どうも綴ぢが脆くていけません。私も製本屋には考へたには考へたのです。

 

        用紙のこと

 

 紙は英國製コツトン。我鬼先生が厚ぼつたい紙を使つたは、一つは、作品の數がすこしであつたこと。一つは、短篇作家であつたことでせう。

[やぶちゃん注:この謂い方から、芥川龍之介は生前から作品集にこうした厚ぼったい紙を好んで用い、その理由がこれだと小穴隆一は推理しているということを示す。この小穴特有の意味深文脈からは芥川龍之介が生前に死後の全集は厚めの紙を指示していたとも読めなくはない。

「コツトン紙」コットン紙(cotton paper)。厚みのある書籍用紙の総称。初期は木綿の襤褸(ぼろ)を用いたが、現在は化学パルプを原料とする。軽く、柔らかくて弾力性があり、粗面に仕上げてある。]

 

        箔のこと

 

 たとへば、背の文字(もんじ)を黑るしでやれとか、また、文字(もんじ)が曲つてゐるとか、其他種々(いろいろ)の意見はありました。箔はわざわざ加賀の國で打たせたと岩波では言つてをります。

 從來、製本所で使用する箔(はく)のなかには、靑金(あをきん)いいのが無いといふ話を初めて聞かされました。

[やぶちゃん注:「靑金」は青みを帯びた金色を指し、物理的な色としては金色の中に銀色の含まれる割合が二十%を超えないと青金とは呼べない(因みに「赤金」という赤みを帯びた金色もあり、これは金色の中に銅色を二十五%から五十%程度含んだものを呼ぶ)。]

 

        箱のこと

 

 箱は著者在世中の本に比較して、綺麗でないといふ攻擊が、仲間の編纂擔當者からありました。私はこの全集に限つては、相當の室(しつ)、相當の書棚を考へてゐたので、箱をとりさつての本の並(ならび)を考へてゐました。ですから、それでもつてなんと言はれても頭が働きませんでした。

 

 全集物の裝幀について、芥川さんは、大體、アルス版の子規全集の好みに賛成してゐたのです。

[やぶちゃん注:「アルス版の子規全集」全十五巻。大正一五(一九二六)年から昭和三(一九二八)年。これ(ヤフオク画像)。当時は豪華製本とされたが、今見ると、地味で落ち着いている。]

 

    見返しの繪について

 

        第一卷

 

 第一卷の見返しには、大正十年に了中(れうちう)、これは芥川さんのこと、淸中(せいちう)、最中(さいちう)、圓中(ゑんちう)、これは私のこと、この四人で、布佐(ふさ)、取手(とりで)に一泊の遠足をやつた、その時の道々でこしらへた繪卷物のなかからとりました。一月三十日、一晩泊つて三十一日、我孫子(あびこ)から取手、布佐を一トまはりしたときに、奉書の卷紙二(ふた)まきに、まき納めた私共の樂書(らくがき)、そのなかからとりました。了中、芥川さんのは原寸でゆきました。

[やぶちゃん注:ここに書かれている一泊旅行は「二つの繪」の「河童の宿」及び私の注を参照されたい。私は元版全集を所持しないので、この絵を特定出来ない。識者の御教授を乞う。

「淸中」遠藤清兵衛古原草の別号。同絵巻の一つ「布施辯天」(絵巻巻頭の標題。「辯」はママ)では「靑中」と出るのも同一人物。

「最中」小澤碧童の別号。

「圓中」以下に続くように小穴隆一の別号。これらは芥川了中龍之介を含めた彼等四人の中での、うちうちの集まりの際に盛んに用いられた号であるようだ。]

 

        第二卷

 

 表のぶんは、私の游心帳からとりました。

 ――昔、久米さんが三丁目――本郷――にゐた頃、菊池さんが富坂にゐた頃、私が脱疽などに罹らない頃、さうして芥川龍之介が往來の一高の生徒の寮歌に合せて彼も亦、それを口ずさんだ日。私は年を記憶してゐない。

「僕は今日財布を忘れてきた。久米がゐるだらう、久米に御馳走にならう。」

 私はその言葉を覺えではゐるが、晩秋? 初冬? 何日(いつ)であつたか。遠野物語、爐邊叢書。さういふもので私達は河童をでつちあげてゐた。と書いてゆかれればよいのであるが億劫(おくこふ)になつてしまふので事務的に書くことにする。

 この見返しの畫は現物よりも心もち縮まつてをります。

 江知勝(えちかつ)で飯(めし)を食べてゐた時に、私の矢立(やたて)をとつて、芥川さんが、右手の河童を振りおとして馳けだす馬を畫いてみせました。また「ほう」とばかりに感心した久米さんは、左手の馬のをつぽに摑(つかま)つてゐる河童を畫いてみせました。もしも人あつて、落款をみてあやしとするならば? さうであれば甚だ愉快であるが、落款、三汀の字は芥川龍之介の筆(ふで)。芥川龍の三字は久米正雄の筆であります。

(游心帳は半紙二ツ折(をり)にして綴ぢた物。)

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「河童の宿」参照。ここで説明されている絵もそこに掲げてある二枚である。但し、ここでは二枚の絵の描かれ方の順序が逆になっている

「私は年を記憶してゐない」この二枚の絵は、現行では大正一一(一九二二)年の作と比定されている。因みに、これと次のそれにインスパイアされた芥

「游心帳」元は小穴隆一の「半紙二ツ折にして綴ぢた」メモを含むスケッチ帳であったが、後には芥川龍之介や仲間連中の寄せ書き帳と化した。

「遠野物語」明治四三(一九一〇)年、岩手県遠野地方に伝わる伝承を同土淵村出身の民話蒐集家で小説家の佐々木喜善の話を柳田國男が纏める形で刊行された説話集。発行部数三五〇部(二〇〇部は柳田買い取りで諸家に寄贈)であるが、芥川龍之介も購入している。

「爐邊叢書」柳田國男肝煎の郷土研究社の民俗学叢書。

「江知勝」現在も文京区湯島二丁目で営業する、明治四(一八七一)年創業のすき焼き屋の老舗。]

 

        第三卷

 

 樹木。これは佐佐木茂索君の持物です。

 ――ふるい作です。普通の小形の色紙に畫(か)いてあります。

 圖は原寸でゆきました。

[やぶちゃん注:全集現物を確認していないが、佐佐木茂索蔵の「樹木圖」となると、この色紙のそれか。小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)のものを示す。

 

Jyumokuzu

 

違う場合は、お教え戴きたい。]

 

        第四卷

 

 水虎晩歸圖――畫(ゑ)の因緣に就いては、石黑定一氏の手紙があります。そのまゝ、こゝに拜借させて頂きます。

 以下――

 芥川氏が先年上海(シヤンハイ)に滯在の折の夕方、芥川氏と私(わたし)とは古本漁りの後(あと)で、四馬路(スマろ)の靑蓮閣へ登つて野鷄(ヤチー)を素見(ひやか)してから日本人街へ黃包車(ワンポツ)に乘つて引き返しました。芥川氏は夕食として、カフエ、トロキヤデロのビイフ、テイを飮まうといはれたのを、私が無理に引張つて乍浦路(チヤツポろ)の「月廼家(つきのや)」といふ料理屋に連れて行きました。そして鷄(とり)をつゝいて御飯を食ひ、御酒も少しばかり二人とも呑みました。

 その時、座敷へ來てゐた二人の藝者のうち、一人はたしか東京の者のやうに覺えてゐますが、芥川氏は非常に不愉快らしく、私は自分の我儘を通したことを、今でも濟まなく思てゐます。

 その中、どうして私の同行者が芥川氏であることを聞き出したのか、藝者が羽織を持ち出したり、絹地(きぬぢ)を持ち出したりして、是非、何か書いて呉れと、くどく賴み出すので、氏は非常に迷惑がられた。

「俺のいふことを聞けば書いてあげよう。」

 なんて狡猾(ずる)い顏付をして藝者の表情が、どういふ風に動くか、窺きこんだりして、なかなか書かれなかつた。それでも、その自分には、芥川氏の心持ちは、大分、輕く明るくなつてゐました。

 その中に、その料理屋の帳場で働いてゐるその時、二十六七になつた若い××君が、一階へ上つて來て、橫一尺二三寸、縱一尺位の粗惡な隅のはつきり切れてゐない絹地を持つて來て、私に是非、書いて貰ふやう賴んで呉れと懇請するので、私は同君が上海在住のサラリイメンの間に評判よく、金のない時には何時(いつ)も氣持ちよく借金を延ばしてくれる俠氣(けふき)のある男であることを芥川氏に語りましたら、芥川氏は喜んで「それぢや、書かう」と言つて、その××君に墨をすらせて書いてくれました。そして、芥川氏はその時、チヨツキのポケツトから靑銅の古ぼけた小さい印を引張り出して「これは、この間、城内の古道具屋で買つて來たんだ。」と私に説明した後(のち)、我鬼醉墨(がきすゐぼく)と書いたその下へ無雜作にその印を捺(お)されました。

 ところが、その印が逆さだつたので、一寸、しかし、輕く笑ひ驚いて「やあ、逆さになつてしまつた。いや、醉墨から、この方が却つて面白い。」といつて、側(そば)に禮儀正しく坐りこんでゐる××君に氣輕に渡しておやりでした。その男は勿論、疊に頭をすりつけんばかりに御禮をいつて引き退(さが)らうとするので、私が生意氣に「その繪は今に箆棒(べらぼう)な値が出るぜ」といつてやりますと「はあ、さうですか」と輕く返事をして飛び下りるやうにして、階段を降り、帳場へ行つて皆(みんな)のものに、自慢をしてゐ譚たやうでした。その晩、十二時近く芥川氏の泊つてゐられる萬歳館といふ旅館へお送りした時、同氏はかなり氣持がよかつたやうでした。――下略

 

 この繪は後に永見德太郎氏の所有に歸してゐます。

[やぶちゃん注:これは岩波の正しき旧芥川龍之介全集の表紙見返しの一部で使用されている絵で、これは実に芥川龍之介がこうした本格の河童を最初に描いたとされるものである。旧全集から複写しておく。

 

Suikobankizu

 

「石黑定一」(明治二九(一八九六)年~昭和六一(一九八六)年)は芥川龍之介が中国に特派員として旅した当時、三菱銀行上海支店に勤務しており、上海で知り合った人物である。彼については研究者の間でも驚くほど情報が少ないが、芥川の石黒への思いが半端なものでないことは、廬山からの五月二十二日附石黒定一宛書簡(旧全集書簡番号九〇二)でも明白である。

 

上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ

 

     留別

 

   夏山に虹立ち消ゆる別れかな

 

更に、芥川龍之介の「侏儒の言葉」には、実に彼に捧げられた次の有名な一節さえあるのである。

   *

 

       人生

        ――石黑定一君に――

 

 もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。

 我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。

 成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでおり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に步み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 

       又

 

 人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危險である。

 

       又

 

 人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。

 

   *

後の二つは石黒に献呈されたものではないかも知れぬが、そうだとも言えぬ。しかも後の二つは「侏儒の言葉」の中では超弩級に有名な短章であるにも拘わらず、それが先の長い石黒への献辞を持つものの「又」でしかないことを知る方は少ないので敢えて長々と引かせて貰った。

「四馬路」「馬路」は北京語で「マールー」、上海語で「モル」、現代中国語で「道路」という意であるが、現在の上海人民公園は旧上海租界の競馬場であったため、この周辺の道は日々馬の調教のための散歩に使用された。そのためこの界隈の比較的大きな道を「馬路」と呼ばれるようになったとも言われる。「四」はこの競馬場の北に位側にある南京東路・九江路・漢口路・福州路の四本の通りが、当時は最北から順に「大馬路(タモル)」「二馬路(ニモル)」「三馬路(セモル)」「四馬路(スモル)」と上海語で呼ばれたことによるとする。現在、福州路は書店・文房具店・ギャラリーが立ち並ぶが、租界の頃は遊郭域であったらしい。因みに、「二馬路」の発音が「リャンモル」でなく「ニモル」なのは、上海語の古語では日本語と同じく「二」が「ニ」の発音であったからで、今でもたまに使われるそうである(以上は、個人サイト「私の上海遊歩人2」の「四馬路(スマル)って、なあに?」を参照にさせて頂いた)。

「靑蓮閣」現在の福州路(旧四馬路)にあった上海有数の茶館兼遊芸場。現在、外文書店。私娼の溜まり場であり、それを求める客も集まって大変繁盛した。

「野鷄(ヤチー)」「上海游記 十四 罪」に出る「野雉(イエチイ)」と同じい、街娼のこと。路をうろついて客をひくさまを野鷄=雉子(キジ)に喩えたもの。

「黃包車(ワンポツ)」“huáng bāo chē”。中国式人力車。黄色い覆いをかけたことから言う。人力車は明治初期の日本がルーツで、中国には一九一九年頃に入って、爆発的に流行した。一九四九年以降は中国共産党の指示によって廃止されている。

「トロキヤデロのビイフ」不詳。フランス租界にでもあったレストランか?(「トロキヤデロ」は“Place du Trocadero”でパリのセーヌ川右岸の丘の上に建つシャイヨー宮(Palais de Chaillot)の正面(東側)にある半円状広場(対岸にあるエッフェル塔を眺められる)であろうと思ったからである)。

「乍浦路(チヤツポろ)」バンドの西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「月廼家(つきのや)」不詳。ただ、倉橋幸彦の「『上海本』蒐録(3)」(PDF)のナンバー六十六の「長澤写真館」(長澤虎雄)の写真集「最近の上海 View of Shanghai」の目次の中に『六三園と月廼家花園』という名を見出せる。

「萬歳館といふ旅館」「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「二 第一瞥(上)」を参照されたい。教え子の解説(写真附き)で詳細な注を施してある。

「永見德太郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎生まれで生地で倉庫業を営んでいた。俳句・小説を書く一方、大正八(一九一九)年五月に最初に芥川龍之介が長崎を訪れた際に宿所を提供して以来、親交を結んでいた。南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。龍之介より二歳年上。]

 

        第五卷

 

 傘(からかさ)は、美濃(障子紙)を縱に畫(ゑが)いたものであります。ですから、版では、ずつと小さくなつております。

 この傘(からかさ)は名入りであります。さと子といふ女(ひと)は芥川さんの姪です。繪を所有してゐるのは、勿論、その里子女史です。

 世間の人が我鬼醉墨、漁樵問答(ぎよせうもんだふ)(水虎)、水虎晩歸之圖(すゐこばんきのづ)なるものを知つてしまつたとき

「君。なにか新手(あらて)はないかねえ。」

 我鬼窟の主(あるじ)は當時は――まだ我鬼窟――さういふ嘆きを致しました。

 そこで、私は銀閣寺には蕪村の傘(からかさ)があるし、また、初心の士(し)には蜻蛉(とんぼ)などがよからんと申しますと「それ、それ、それにかぎる。」といふ話になりました。

[やぶちゃん注:芥川龍之介はここに書かれたように、唐傘や唐傘お化けの絵を好んで描き、多く残しているが、「さと子」という名を入れたそれは見たことがない。

「さと子」芥川龍之介の実姉ヒサと最初の夫葛巻義定と間に出来た長女葛巻さと子。義敏の一つ違いの妹。

「我鬼醉墨」前章「第四卷」で語ったそれ。

「漁樵問答」既に掲げた、大正九年九月二十二日附小穴隆一書簡(葉書)に描かれた芥川龍之介の「水虎問荅図」(表記は芥川龍之介の表記で示した。この画像を参照のこと)のこと。

「水虎晩歸之圖」前章「第四卷」のそれでは先とダブるから、それ以降に芥川龍之介が好んで描いた別なそれ(同題でかなりの数を描いている)を指すと読まねばならぬ。]

 

        第六卷

 

 我鬼句抄、我鬼窟抄、似無愁抄(にむしうせう)、蕩々帖(とうとうてふ)、同、我鬼窟日錄(にちろく)、ひとまところ、などを見てそのなかから拾ひました。原物は半紙判(ばん)の罫紙(けいし)を綴ぢたもので、表紙が澁紙(しぶがみ)の、いくらも世間で賣つてゐる例の帳面、京都の旅に懷中してゐたものであらう物にあります。版(はん)は默つてゐれば氣づかれない位(くらゐ)――全體で一分(ぶ)程、實物よりは小さいのです。もつとも、張りまぜ風にして使つてゐる蜻蛉(とんぼ)のはうは、これは、まことに、とうすみのやうになつてをりますが、原物は、やんまの大きさでいつてをります。半切(はんせつ)で「野茨(のいばら)にからまる萩のさかりかな」の自畫自贊。浦和の松本秋(あき)三さんの持(もち)です。

 ところで、一力(りき)のお秋さんは如何(どう)いふ女(をんな)かといふと「お秋さんは奈良人形やうに肥(ふと)つた仲居なり」といふそのほかに何(なん)の報告もありませんでした。

 大正十一年の五月です。

[やぶちゃん注:「我鬼句抄、我鬼窟抄、似無愁抄、蕩々帖、同、我鬼窟日錄、ひとまところ」総て芥川龍之介の個人的な詩歌・創作メモ・スケッチなどを記した本格的なノート(手帳類とは別物なので注意)の芥川龍之介がつけた帖名。「蕩々帖、同」とあるのは、「蕩々帖」は同題で別な一冊があるからである。

「一分」百分の一。だから「默つてゐれば氣づかれない」というのであろう。

「張りまぜ風にして使つてゐる蜻蛉(とんぼ)のはう」「浦和の松本秋三さんの持」ちのそれは知らぬが、「小穴隆一遺墨」に堀辰雄の妻『堀多惠子氏藏』として載るものに、ごくごく近いもの(ご覧の通り、「野茨にからまるはきのさかり哉 龍之介」という同じ自畫自贊。小穴隆一はその解説でも、この絵を見た時、松本氏蔵のそれを見た時と、極めて近い感動をしたことを記している)であると思われる。同書より引いておく。

 

Noibaradonbo

 

「とうすみ」灯芯のこと。

「半切」全紙の半分、三十四・八×一三六・三センチメートル。

「一力(りき)のお秋さん」不詳。馴染みの茶屋の仲居か。]

 

        第七卷

 

 この卷(くわん)は私所持の北斗七星を使ひました。

 星が一つ飛んでしまつてゐて、六つしかありません。當時、私達は鵠にをりましたが(大正十五年)私の家(うち)で座の紙筆(しひつ)をとつて「君。これなんだか解かるか。」と芥川さんがさしだしたのは、易者の看板かと間違へる北斗七星でした。

「わかる。北斗七星。星が一つ足りない。」

「うむ。星は一つ飛んぢやつた。」

 このわびしい問答の後(のち)、更に畫(か)いて、さうして、そつと私の坐つてゐる蒲團の下に差込(さしこ)むだのが、この畫(ゑ)です。

[やぶちゃん注:「二つの繪」の冒頭に満を持しておかれた「二つの繪」を参照されたい。この絵である。]

 

第八卷

 

 原稿は畫帖であります。

 版は原寸とまでいつてをきます。

 これをみると私は行燈會(あんどんくわい)の時を思ひます。

 燭臺は芥川さんのところでみたものか、私が私の、おばあさんのところでみたものか、私の記憶はぼやけてゐます。

 たゞ、芥川さんが、らふそくの火(ほ)さきを、にじませて畫(か)くことを覺えて喜んだことだけは存じてをります。

 

        ×

 

 木版。彫師は久保井市太郎。六十餘歳の人。市太郎さんの親方、都築(つづき)德三郎さんの言葉を紹介すると、

「彫刻をたくさんたべました。」

 この彫りには隨分苦勞しました、の意。

[やぶちゃん注:前段に記された絵は恐らく、岩波の正しき旧芥川龍之介全集の表紙見返しの一部で使用されている絵と思われる。旧全集から複写しておく。

 

Usuwatatousin

 

灯台に添えられた句は、

 

  伯母の云ふ

 

うす綿は

  のはしかね

 たる霜夜哉

 

という芥川龍之介自信作の一句。この句に関わって龍之介は大正十三(一九二四)二月一日発行の雑誌『女性』に以下の文章を発表している(太字「はんねら」は底本では傍点「ヽ」)。

 

        霜夜

 

 霜夜の句を一つ。

 いつものやうに机に向かつてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寢ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉ぢ、それからあした坐り次第、直に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の始末をする。はんねらの瓶に鐵瓶の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黑くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸氣ももやもやと立ち昇る。何か樂しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床は次の間にとつてある。次の間も書齋も二階である。寢る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。今夜もそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外を通りかかると、六十八になる伯母が一人、古い綿をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。

 「伯母さん」と云ふ。「まだ起きてゐたのですか?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寢るのだらう?」と云ふ。後架の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる。風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。ただ寒い夜に封じられてゐる。

 

     薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

 

   *

「はんねら」とは南蛮焼の一種で、江戸時代に伝わった、無釉又は白釉のかかった土器。灰器としては、普通に用いられたようである。

 芥川龍之介が生前最後に言葉を交わしたのも、夜なべをしていた、この伯母フキであった。

「行燈會」既出既注。「河郎之舍の印」参照。

「私が私の、おばあさんのところでみたものか、私の記憶はぼやけてゐます」小穴隆一特有の夢幻的記述である。こういうのは困りもするが、また、面白くも、ある。

「久保井市太郎」久保井市太郎(くぼい いちたろう 生没年未詳)は木版彫師職人。「近代日本版画家名覧(1900-1945)」(PDF)によれば、明治三六(一九〇三)年頃、『三宅克己と多色摺木版による水彩画複製(水彩画の木版色摺)図版の試みを行ったのを手始めに』、一九〇五年には十月発行の『平旦』第二号に『「木版彫刻」として名が示されている。『版画 CLUB』でも彫師としての活動が判り』、昭和一七(一九四二) 年には『版元中島重太郎の青果堂から『新編大東亜戦史ノ内 昭南抄』(佐藤春夫作・大内青圃画)を出版』、翌年には『『小川芋銭子賦彩版画集』、建艦献金全作品集『大東亜の花嫁』等の版画の彫を行っている。(岩切)』とある。

「都築(つづき)德三郎」詳細事蹟は不詳だが、木版彫刻師として知られた人物のようである。]

« 小穴隆一「鯨のお詣り」(10) 「Ⅳ」 | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(12) 「二つの繪」(1)「二つの繪」 »