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2017/02/02

小穴隆一「二つの繪」(61) 「奇怪な家ダニ」(5) 血はおそろしい

 

     血はおそろしい

 

 去年の夏、文藝春秋の句會の時に、久保田(万太郎)さんと座に並んだ。久保田さんはどこでから聞いたのか、僕に「葛卷君は共産黨だといふ話だが」といつた。僕は嚙んで吐きだすやうに「あれがほんとの共産黨だ」といつたので(葛卷は鵠沼で共産黨支部のなにかやつてゐるとの話)、久保田さんは意味がとれなかつたのか、きよとんとしたやうで默つてしまつたが、向う側のほうにゐた永井(龍男)君が、こちらをみてて、永井君特有の笑ひをみせてゐたので、永井君も流聞は耳にしてゐるなと思つた。かれこれふた昔も前のことにならう、僕は奧さん(芥川夫人)が僕の家で「義ちやんには、食べるほかにお小使が月八十圓かかります」といつたので(當時大工の日當が一圓五十錢)、たのまれもせぬのに佐佐木(茂索)君のところにいつて、「菊池(寛)さんが久米(正雄)さんに義ちやんと僕の四人の時、小穴君と葛卷君の今後の生活は自分が引受けるから、芥川の家のあとのことはなにぶんたのむ」といつてゐたことがあるから、義ちやんを文藝春秋で使つてもらへないかとたのんだものだ(佐佐木君が留守で房子さんにたのんでおいた)。ところがつぎに房子さん(ささき・ふさ)に會ふと、「義ちやんに文藝春秋で使ふといつたら、義ちやんは自分を文藝春秋で使ふとはなにごとだ、といつてゐるばかりか、妹のお嫁にいつたのが戾つてきてるから、田端へすぐきて話を聞いてくれといつてゐる。うちで世話したひとでもなし、戾つてこようがなにしようが知つたことぢやない、大體、うちがなんで義ちやんに呼びつけられるわけがあるの」と僕を叱りつけてでもゐるやうにして憤慨してゐた。(芥川の姉は葛卷を連れ子して西川氏に嫁ぐ。葛卷中學二年の時西川家を飛出して北隆館に潛つて働く、悲しき身の上なり、芥川あはれに思ひこれを家に引取る。)僕が入院中(僕は大正十一年の暮から春にかけて三月ほど順天堂にゐた)、暮もおしつまつたときのことであつたと思ふが、夜、見舞にきてくれた芥川が「姉の子が家出したので隨分心配した。それをやつとさがしてきてほつとした」といつてゐた、その子葛卷が、芥川が死ぬとたちまち、「芥川龍之介の跡繼は自分だ。ここの家の物はなにからなにまで自分のものだ」(昭和九年に奧さんが僕の家で語る)と芥川家の家ダニになつてゐるのである。

 葛卷はT君に芥川家の印税を三分の一とつてゐる點を聞かれると、藥をふりかけられたダニのやうにうろたへて、あちこちにそのことばかりいつて手紙を書いてはゐるが、自分の持物を僞物だとかなんとかいはれた人達の腹立ちや、中村君はじめ(編集同人達はもちろん)岩波の人達のいきどほりには氣がつかないのだ。僕らは葛卷に對しては、芥川家の人達のやうに無抵抗ではありえない。葛卷は係の婦人のなかにA週刊誌の記者の奧さんがゐて(A紙の記者室達のなかにも芥川の愛讀者は多い)、する事なす事が筒ぬけにA週刊誌の編集室に知れてゐることも知らずに威張つてゐた。A紙は葛卷がひまわり社から「椒圖志異」を禁轉載として出すと、すぐ「椒圖志異」は全集に載せるか載せないのかと岩波へ電話をかけてゐるすばやさである。

 發行部數三〇〇部といふ「椒圖志異」の檢印、これはまた今日の葛卷の頭のなかさながらの奇異である。妙なことに、岩波の編集部が二册購入したところのものには、一册が葛卷義敏といふ四字の印と龍一字の印、一册は葛卷の二字芥川の二字の印、所謂三文判が押してある。

 葛卷たるもの、かかることこそとりあげて大いに爭ふべきであらう。

 無職渡世、芥川の死後三十年間、芥川家の者が受取る印税で、女房つ子親妹までの命をつなぎつづけながら、芥川家の物を持ちだしてゐて、なほ持去つて最後の全集に妨害を加へつづけて、僕らのたづさはつた仕事を嘲ける葛卷をみて、僕は地下の芥川を叩き起したくなつた。奧さんが鶴沼にでかけて、三日泊りこんでたのんだが、葛卷は渡さなかつたといひます、と岩波のK君にいはれたときは、僕はなんとも情けなかつた。芥川には女房も子もないのかと怒り叫んだ。家ダニは肉を食ひ骨をしやぶり、なほその上に芥川家の版權がきれる日を待つてゐることを彼自身はつきりうちだしてゐる(T新聞の記事及びT君との談話において)。葛卷はかねて用意の物(芥川家から持出してゐる芥川關係の物)をもつて紙屋と印刷所を相手に腹を肥やさうといふのであらうが、それは見ものだ。

 芥川は奧さんに、姉(葛卷の母)と弟(芥川の實家を繼いだ新原得二、この人芥川の死後いくばくもなくして死ぬ)とは義絶をしろ、義敏の生活は三年間みてやれといふ遺書をのこしておいた。葛卷は姉と弟と義絶をしろといふ自分に困るところは切りすてておいて、三年間みてやれの都合のよいところばかりの遺書を持つてゐて、それをT君にふりかざして、自分はこんなにも愛されてゐたといつてゐたといふ(こんなにも芥川を穢した者があらうか)。僕には葛卷のこの症状が、彼の叔父の新原の症狀と同一のもののやうに思はれるのだ。新原は家人が人人に遺書をみせてゐたのできまりが惡く、芥川に書いて貰つた南無妙法蓮華經と書いたものを當時持つてまはつて、皆に兄貴はこんなにも自分を愛してゐたといつて見せてゐた。(この男日蓮信者、思春期から妙になつたといふ。葛卷は共産黨、芥川の死を境に妙な人間となつてしまつてゐる。)

 芥川は僕に新原のことを「僕の弟は上野の圖書館に弓削の道鏡のことを書いた本がある、それで宮内大臣を不敬罪だといつて訴へてゐる、さういふ馬鹿なことばかりしてゐて困る」といつてゐた。

 僕がいま芥川家の家ダニのことを芥川の何萬かの愛讀者に向つて訴へたいのは、佐藤(春夫)さんが書いた刊行の辭のなかの「淸純掬すべきその人柄の美を未だ十分に認識するに到らない憾が多い」のことばに應へて、芥川が自分の過失を恥ぢてゐて、「僕は普通の墓を建てて貰ふ資格のない人間だから、上野の山のロハ臺のやうなのの、極く小さいのをこしらへておいてくれたまへ、人に腰をかけられ足をかけられるやうなのの」とたびたび僕にいつておいて、家人には自身圖まで書いて殘してある、それをなぜか提出してもらへなかつた口惜しさからである。(僕はこの五月の旅に出る前に、Uさん(岩波にゐた人)にいろいろある遺書の數々の内容を教へておいて、芥川家について確めてもらつた。奧さんはUさんにことごとくみせてくれたやうだ。ただ、奧さんは、姉と弟とは義絶をしろは、あれは親類間のことだから燒いてしまつてないといつてゐたといふ。葛卷は三年間を三十年間にしてなほその先も食はうといふのだ。)

[やぶちゃん注:ある意味、かくも強烈な啖呵を切ってしまった結果が、芥川龍之介の盟友であった小穴隆一の最晩年を、一層、孤独なものにしてしまったとも言えるように思われるのである。まあ、葛巻も一蓮托生で抱えて、冥海へと能登守教経のようにどんぶと飛び込んだとも、言えるのかも知れぬ。

「永井(龍男)」(明治三七(一九〇四)年~平成二(一九九〇)年)は格調高い文章で知られる短編の名手で、芥川龍之介を継ぐ存在とも言われた。芥川賞選考委員を長く務めたが、昭和五一(一九七六)年の村上龍「限りなく透明に近いブルー」の授賞に抗議し、選考委員辞任を申し出(慰留を受けて在任)、翌年の池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」の受賞決定に対し、前々回での「限りなく」とともに「前衛的な作品」と述べつつも、全否定の見解を述べて委員を退任した時、個人的には、彼は芥川龍之介の名を冠した芥川賞の文学性を守った最後の良心だったと感じている(一部でウィキの「永井龍男」を参考にした)。

「妹」葛巻義定と芥川龍之介の姉ヒサとの間の実妹である、さと子のことか。

「北隆館」「牧野日本植物圖鑑」などの図鑑出版で知られる北隆館(明治二四(一八九一)年創業)のことか。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「葛巻義敏」の項に、『大正一二(一九二三)年初頭、銀座の出版社の「小僧さん」になっていた』とあり、宮坂年譜には同年一月(下旬か)頃、当時十三歳であった彼を芥川龍之介が田端の芥川邸に引き取って同居させた、とある。

「葛卷はT君に芥川家の印税を三分の一とつてゐる」先の「芥川龍之介新辞典」の同項によれば、出版関連の事務に不慣れな未亡人の芥川『文が葛巻に万事を任せていたらしいという証言もある』とある。

「中村君」中村真一郎。

「發行部數三〇〇部といふ「椒圖志異」の檢印、これはまた今日の葛卷の頭のなかさながらの奇異である。妙なことに、岩波の編集部が二册購入したところのものには、一册が葛卷義敏といふ四字の印と龍一字の印、一册は葛卷の二字芥川の二字の印、所謂三文判が押してある」「葛卷たるもの、かかることこそとりあげて大いに爭ふべきであらう」私は出版時の当時の検印システムに詳しくないが、これは版元の「ひまわり社」が葛巻の検査を受けずに勝手に販売したということを匂わせるものか?

「葛卷は渡さなかつた」現在、葛巻の芥川龍之介関連文書は、葛巻の死後、一九九六年になって藤沢市に寄贈され、同市文書館(私の居所に近い)に保存されてはいるが、例えばその中の所謂、芥川龍之介の創作メモランダの「手帳」の一部などは、最早、判読に堪えぬほど劣化してしまっている。もっと早い時期に葛巻がこれらをしかるべき施設に寄贈し、それが正しく保存されていたなら、と私は非常に残念に思うことがある。

「新原は家人が人人に遺書をみせてゐたのできまりが惡く」遺書の破棄された部分に新原得二(芥川龍之介の実母フクの妹で敏三の後妻となったフユが母)との義絶の指示があったこと(推定)を指す。この芥川龍之介の異母弟得二(明治三二(一八九九)年七月十一日~昭和五(一九三〇)年二月十八日)については情報が極めて少ない。新全集の人名解説索引では、上智大学中退、父敏三に似た野性的な激しい性格で、岡本綺堂についての戯曲「虛無の實」を書いたりしたが、文筆に満足せず、後に日蓮宗に入信したという記載があるだけである。

「芥川に書いて貰つた南無妙法蓮華經と書いたもの」不詳。

『佐藤(春夫)さんが書いた刊行の辭のなかの「淸純掬すべきその人柄の美を未だ十分に認識するに到らない憾が多い」のことば』不詳。文脈上はおかしいが、旧芥川龍之介全集の孰れかの推薦文か。

「ロハ臺」「只(ただ)」を分解してカタカナに変え、座るにタダであることから、公園などに設けたベンチの謂い。

「家人には自身圖まで書いて殘してある」前にも注したが、残っていない。

「葛卷は三年間を三十年間にしてなほその先も食はうといふのだ」葛巻義敏は昭和六〇(一九八五)年十二月十六日に没している。芥川龍之介自死から五十八年と百四十五日後のことであった。]

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