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2017/02/18

柴田宵曲 妖異博物館 「山中の異女」

 

 山中の異女

 

 寛文元年五月、安藝國府川の深山に容顏美麗の女人が現れた。金襴の衣を重ね、人のやうでもあるが、また人でないやうなところもある。最初に發見した樵夫が驚いて山を下り、村中に解れ𢌞つたので、百姓が大勢山に入つてその姿を見た。天人影向(やうがう)かと覺えて、或者が近くに寄り、御名を名乘り給へと云つたところ、自分はこの山に住居する山女である、自分の住所が近日破滅の憂ひがあるため、今こゝに來てゐる、と答へた。たとひ何人にもあれ、捕へて國主の一見に供へよう、と云ひ出す者があつて、大勢立ちかゝると、その姿は搔き消すやうに失せてしまつた。近村の男女大勢、雲霞の如く山を圍み、山中隈なく搜したけれども、遂にわからない。翌日その山鳴動して、一方崩れ落ちたが、その崩れた跡に穴があり、恰も漆を以て塗つたやうであつた。近邊には大豆のやうな白土の玉が谷を埋めてゐた(本朝故事因緣集)。

[やぶちゃん注:「寛文元年」一六六一年。

「安藝國府川」現在の広島県府中市府川町(ふかわちょう)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「影向(やうごう)」現代仮名遣は「ようごう」で、神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨の意。

「白土」原典(次注リンク先参照)では「シラツチ」とルビする。

「本朝故事因緣集」作者未詳。元禄二(一六八九)年に刊行された、説法談義に供された諸国奇談や因果話を収めた説話集。全百五十六話。同話は「卷之五」の「百廿二 山女(やまじよ)出現」で、「国文学研究資料館」公式サイト内画像データベースのこちらから視認出来る。]

 山中に時折出現する女人は、多く神異的色彩を帶びてゐる。「醍醐隨筆」に記されたのは土佐國の話で、鹿を捕へようとして山中に入り、魔笛を吹いたところ、俄かに山鳴り騷いで、茅葦が左右に分れ、何者か來るけはひである。樹の間に陰れて鐡砲を構へてゐると、向うの伏木の上に頭ばかり見えたのが、色白く髮うるはしく、眉目晴れやかな美しい女であつた。頭から下は見えぬけれど、場所が場所だけに、その美しいのが寧ろ凄まじく感ぜられる。危く鐡砲を放つところであつたが、萬一打ち損じては一大事と、身動きもせずにゐるうち、かの首は暫く四方を見𢌞して引込んでしまつた。再び風吹く如く茅が左右に分れ、もと來た道へ引返したらしい。此方も恐ろしくなつて、後をも見ずに逃げ出したとある。

[やぶちゃん注:以上の「醍醐隨筆」それは国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(右上末行から)で視認出来る。]

「奧州波奈志」にあるのは、菅野三郎といふ者、朝早く起きて薪を取りに山へ行くと、松山の木の間を髮を亂して歩いて來る女がある。何者であらうと見守るほどに、次第に近寄つて來て、松の上から顏をさし出した。色白く髮黑くはいゝが、朝日にきらきら光る眼は慥かに人間ではない。束ねかけた薪も、持つてゐた鎌も抛り出して逃げ歸り、その後この山へは行かなかつた。家に歸つて考へて見るのに、松山の梢から頭が出る以上、どうしても身の丈二丈ぐらゐなければならぬ。頭の大きさも三尺ばかりと思はれた。多分これが山女であらうといふことである。

[やぶちゃん注:「二丈」六メートル十センチ弱。

「三尺」約九十一センチ。

 以上は「奧州波奈志」の「三郎次」にある。以下に例の仕儀で示す。【 】は原典の割注。

   *

 

     三郎次

 

 又爰なる家人に、菅野三郎次といふもの有し。【若きほどの名なり。今は三力と云。】知行は平地にて、【大みち】一里[やぶちゃん注:これは現行の一里、三・九キロメートル強相当。]の餘をゆかねば山なし。故に薪に不自由なれば、十六七の頃、さしたる役もなき故、朝とくおきて、一日の薪をとりにいつも山に行しに、ある朝、松山の木の間より、女の髮をみだしてあゆみくるを見て、いづちへ行ものならん、髮をもとりあげずして、早朝にたゞ壱人、爰を行はと、心とゞめてまもりをれば、こなたをさして、ちかよりこしが、松の上より頭ばかり出て、面(おもて)が見あはせしに、色白く髮は眞黑にて末はみえず、眼中のいやなること、さらに人間ならず。朝日に照て、いとおそろしかりしかば、つかねかけたる薪も鎌もなげすてゝ、逃歸りしが、二度その山にいらず。家にかへりておもひめぐらせば、松山の梢の上より頭の出しは、身の丈二丈もやあらん。頭の大さも三尺ばかりのやうにおぼえしとぞ。これ、世にいふ山女なるべし。

   *]

「甲子夜話」にある神遊行(しんゆぎやう)といふのは、立花家の臣某が、明け方山狩りに行くと、平素來馴れた路に、殊の外いゝ香が濡つてゐる。怪しみながら行くほどに、人の丈ばかりも茂つた茅原が、風もないのに自ら左右に分れ、何者か山を下つて來るやうなので、思はず傍に寄つてこれを避けたが、地を離るゝこと八九尺と覺しきところを、端嚴微妙、繪に畫いたやうな天女が、袖を飜しながら麓をさして來る。鐡砲を倒し平伏してゐたら、天女が一町ばかりも過ぎたらうと思はれる頃、漸く人心地がついた。それから狩り暮したけれども、遂に一物を獲ず、またもとの路に出た時、麓の方より茅が左右に分れ、天女は奧山に還られる樣子であつた。この話は前に引いた「醍醐隨筆」の記載に似たところがある。「醍醐隨筆」では首だけ出してあたりを見𢌞すところを、全然一顧も與へず、茅を分けて來り、茅を分けて去るのが如何にも神遊行にふさはしい。

[やぶちゃん注:以上と次段及び次々段のそれは総て「甲子夜話」の「卷之十二」の「筑後の八女津媛(やとつめひめ)の事 幷(ならびに) 神女の事」である。以下に示す。【 】は原典の割注。平仮名の読みは私が推定して附加した。漢文訓点は参考底本としている東洋文庫のそれをほぼ再現したが、一部におかしな箇所があるので、そこは私が正しいと思うもので訂した。

   *

或人の曰、三十五六年前柳川侯の【筑後の領主】公族大夫に立花某と云あり。其領せる所を矢部(ヤベ)と云ふ。此地古(いにしへ)は八女(ヤメノ)県(あがた)と云しなり。又八女(ヤメノ)國とも云しこと『日本紀』に見ゆ。其山は侯の居城の後まではびこりし高山と云ふ。或日大夫の臣某、山狩に鳥銃(つつぱう)を持、拂曉(ふつげう)に往(ゆき)しに、常に行馴(ゆきなれ)たる路殊の外に異香(いかう)薰(くん)じたれば怪みながら向(むかふ)さして行(ゆく)ほどに、丈(たけ)計(ばかり)も生立(おひたち)たる茅原(かやはら)の人もなきに左右へ自(おのづか)ら分れ、何か推分(おしわけ)て山を下るさまなれば、傍へに寄てこれを避(さく)るに、人は無くて地を離るゝこと八九尺と覺しきに、端嚴微妙まことに繪がける如き天女(てんによ)の、袖ふき返しながら麓をさして來(きた)るなり。因て駭(おどろ)き鳥銃(てつぱう)を僵(たふ)し平伏してありしが、やがて一町も過たりと覺しき頃、人心地(ひとごこち)つきて山に入り狩(かり)くらしたれど、一物をも獲ずして復(また)もとの路に囘(かへ)るに、麓の方より又茅(かや)左右に偃(ふし)て今朝のさまなれば、路傍に片寄り避てあるに、かの天女は奥山さして還り入りぬ。人々奇異の思をなしたりとなり。又彼(かの)藩の臼井省吾と云しは博覽の士なりしが、是を聞てそれぞ『日本紀』に見ゆる筑紫後(ノミチノシリノ)國の八女(ヤトメ)県の山中に在(おは)すと云(いふ)八女津媛(ヤトツメヒメ)ならんに、今に至て尚其神靈あるなるべし。景行紀、十八年秋七月辛卯朔甲午【四日也】〕到筑紫後(ミチノシリノ)國御木タマフ於高田行宮(カリミヤ)、丁酉【七日也】到八女(ヤメノ)県。則前山以テ南望粟ノ岬、詔シテㇾ之、其山峰岫重疊シテ美麗之甚シキ、若クハ神有。時水沼(ミヌマノ)県主猿大海(サルオホミ)奏シテ、有女神八女津媛(ヤトツメヒメ)。常レリ山中。故八女(ヤメノ)國之名由ㇾ此レリ也。是を證すべし。

又八九十年にも過(すぎ)ん、予が中に大館逸平(おほだていつぺい)と云(いへ)る豪氣の士あり。常に殺生を好み、神崎と云ふ処の【平戸の地名】山谿(さんこく)に赴き、にた待(まち)とて鹿猿の洞泉に群飮(ぐんいん)するを鳥銃(てつぱう)を以て打(うた)んとす。此わざはいつも深夜のことにして、時は八月十五日なるに、折しも風靜(しづまり)月晴(はれ)、天色淸潔なりしが、夜半にも過んと覺しきに、遙に歌うたふ聲きこへければ、かゝる山奥且(かつ)深夜怪しきことと思ふうち、やゝ近く聞こゆるゆゑ、空を仰ぎ見たれば、天女なるべし、端麗なる婦人の空中を步み來れり。その歌は吹けや松風おろせや簾(すだれ)とぞ聞へける。逸平卽(すなはち)鳥銃(てつぱう)にて打(うた)んと思(おもひ)たるが、流石(さすが)の剛強者(がうきやうもの)も畏懼(ゐく)の心生じ、これを僵(たふし)て居(をり)たれば、天女空中にて、善(よ)き了見(りやうけん)々々と言(いひ)て行過(ゆきすぎ)しとなり。是(きれ)らも彼の八女津媛(やとつめひめ)の肥の國までも遊行(ゆぎやう)せるものか。又前さき)の逸平の相識(あひし)れる獵夫も、平戸嶋志自岐(しじき)神社の近地(きんち)の野徑(のみち)を深夜に往行(わうかう)せしに、折から月光も薄く、人に逢(あひ)たり。獵夫乃(すなはち)これを斬(きら)んと思(おもひ)たるが、頻(しきり)に懼心(くしん)生じ刀を拔得(ぬきえ)ずして過(すぐ)したり。是より深夜に山谷(さんこく)をば行(ゆく)まじと云しと語傳(かたりつた)ふ。亦かの神遊行(かみゆぎやう)の類(たぐひ)か。

   *]

「甲子夜話」が擧げたもう一つの例は、神崎といふ平戸の山谿の話である。大館逸平といふ者、常に殺生を好み、鹿や猿の水を飮みに集まるのを錢砲で擊つ。この獵は深夜に限るのであつたが、十五夜の月明の空に遙かに歌聲が聞える。かゝる山奧に、夜半を過ぎて何事と思ふうちに、歌聲は次第に近付き、天女と思はれる端麗な婦人が空中を步み來つた。その歌の文句は「吹けや松風おろせや簾」といふやうである。はじめは鐡砲で擊つつもりであつたが、さすがに畏懼の心を生じ、銃を倒してゐると、天女は空中で「よき料簡々々」と云つて行き過ぎた。立花家の臣の遭遇した神は、筑後國八女郡の山中に在す八女津媛であらうといふ説があるが、同じ神の肥前まで遊行せらるゝのであらうかと「甲子夜話」は記してゐる。

[やぶちゃん注:「水」「たにみづ」と訓じておく。

 大館逸平のよく識つてゐる獵師は、平戸嶋志岐神社の近くで容貌正しい婦人に出違つた。時は丑の刻(午前二時)で、月の光りも薄かつたのに、衣裳は鮮明に見えたさうである。獵師は怪ならんかと疑ひ、一たび斬らうとしたが、頻りに懼心を生じ、刀を拔くことが出來ず、もうこれから深夜に山谷を行くことは止めると云つた。これもまた神遊行の類かも知れぬ。

「想山著聞奇集」の「狩人異女に逢たる事」は、大體に於て「甲子夜話」の第一の例に近いが、場所は信州御嶽山の麓である。夜明けの篠竹を分けて來る女人を變化(へんげ)と思ひ込み、鐡砲を構へてゐると、そなたに告げたい事がある、と云つてこれを制し、次第に近付いて來たのは、容貌美麗なる十六七の少女である。自分は飯田領何村の何某の娘である、十三年前の七月、川へ物洗ひに行つた際、遁れられぬ因緣あつて山へ入り、山の神となつた、故郷の父母はこれを知らず、その日を忌日として供養してくれるのは忝いが、自分にはそれが却つて障礙になつてゐる、來年は鈴鹿山の神になる順序のところ、この七月は十三囘忌といふことで、また佛事供養などを營まれると、鈴鹿の神となることも叶はぬ、どうか父母に逢つて、この子細を告げ、今後佛事は勿論、佛供一つも供へぬやうにして貰ひたい、と云ひ了つてその姿は消え失せた。狩人奇異の思ひをなし、狩裝束を脱ぎ捨てて信州に赴き、云はれた通りをその父母に告げた。娘が家を出たのは十六歳の時であつたが、狩人の前に現れた姿も十六歳ぐらゐに見えた。その容貌のあでやかな事は、人間とは思へなかつたさうである。狩人はこの女神から殺生をやめよと云はれたことを深く肝に銘じ、名古屋に出て武家奉公などをし、遂に江戸に來て市ケ谷自稱院の道心坊となつた。時代は寛政か享和頃といふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:「障礙」「しやうがい」。障害・障碍に同じい。

「自稱院」原典(後掲)では『自證院』である。

「寛政か享和頃」寛政は享和の前であるから、一七八九年から一八〇四年の間。

 「想山著聞奇集」のそれは「卷の參」の「狩人(かりうど)、異女(いぢよ)に逢(あひ)たる事」である。【2017年5月3日改稿】「想山著聞期奇集」の電子化注で、そこに辿りついたのでリンクに変更した。

 神自ら姿を現じ、自分の身の上話をして、故郷への傳言を賴むなどといふのは、この類話の中に一つもない。篠竹を分けて現れ、搔き消すやうに失せるあたり、正に型の通りであるが、「甲子夜話」の神遊行の如き神韻縹渺たる趣は缺けてゐる。右に擧げた或者は神に近く、或者は怪に近く、一概に論じがたいけれど、出現の段取りは共通するところが多い。もう一つ參考のため、「甲子夜話」の第三例に近い小佛峠の話を「梅翁隨筆」から擧げよう。こゝに出て來る百姓與右衞門なる者は、肥前國嶋原領の男であるが、所用あつて江戸へ出、甲斐國龍玉村の名主を尋ねるため、小佛峠を越えた。俄かに日が暮れて道もわからず、あたりに家もないから、是非なく步いて行つたら、神さびた社のところに出た。今夜はこゝに一宿することにして、次第に夜も更け渡つた頃、年の頃二十四五位と思はれる、賤しからぬ女が現れ、與右衞門の側近く立𢌞ること數度である。これは化生(けしやう)の者に相違ない、近寄つたら一打ちにしようと思つたが、五體がすくんで全く動かぬ。女が少し遠ざかれば自由になり、近寄ればまた動けない。そのうちにだんだん近付いて來る模樣だから、或は食ひ殺されるかも知れぬ、それはあまり殘念だと、思ひ切つて女の帶をしつかり銜へた。その時女は恐ろしい顏になつて、今にも食はれさうであつたが、途端に身體が自由になつたので、脇差を拔いて切り拂ふ。女の姿は消えてしまつた。倂し考へて見ると、この神が人を厭ひ給ふこともあるかと氣が付き、直ちにそこを去つて夜道を急いだ。その後は甲州に到るまで、何の怪しいこともなかつた。――この話は神と怪との中間に在る。平戸の獵師が斬らんとして斬り得なかつた話に比べても、慥かに怪に一步近付いてゐるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「小佛峠」「こぼとけたうげ」は高尾山北側の山麓を貫く旧甲州街道内のの峠。現在の東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区の間にあり、標高は五百四十八メートル。

「數度」「あまたたび」。

 以上の「梅翁隨筆」のそれは、「小佛峠の怪異」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。本文文頭の柱の「一」は除去した。

   *

  ○小佛峠怪異の事

肥前國島原領堂津村の百姓與右衞門といふもの、所用ありて江戸へ出けるが、甲州巨摩郡竜王村の名ぬし傳右衞門に相談すべき事出來て、江戸を旅立て武州小佛峠を越て、晝過のころなりしが、一里あまり行つらんとおもひし時、俄に日暮て道も見えず。前後樹木生茂りて家なければ、是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。次第に夜も更、森々として物凄き折から、年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、賤しからぬが步行來り、與右衞門が側ちかく立𢌞る事數度なり。かゝる山中に女の只壱人來るべき處にあらず。必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、五體すくみて動き得ず。こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。又近よる時は初のごとく動きがたし。かくする内に猶近々と寄り來る故、今は我身喰るゝなるべし。あまり口おしき事に思ひければ、女の帶を口にて確とくわへければ、この女忽ちおそろしき顏と成て喰んとする時、身體自由に成て脇ざしを拔て切はらへば、彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。扨おもひけるは、此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。其後は怪敷ものにも出合ずして、甲斐へいたりぬとなり。

   *]

「閑田次筆」の獵師は寶寺の下に住む者である。その後他へ移つたが、或朝猪を狙つて山に入り、思ひがけず容顏美麗の女に逢つた。所がら怪しく思ひ、あとをつけて行くと、女はしづかに小倉明神といふ社(やしろ)をめぐる。獵師も共にめぐるうち、その女が見返つた顏を見れば、眼が五つある。驚いて走り歸り、ふつと殺生をやめて百姓になつたが、ほどなく足腰が立たなくなつた。これは神社が出て來る點で、平戸の話及び小佛峠の話に似てゐる。たゞ五つ眼といふやうな異形の話は、他にないところで、先づ怪と見る外はあるまい。

[やぶちゃん注:「寶寺」「たからでら」で、現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(ちょう)大字大山崎字銭原(ぜにはら)にある真言宗宝積寺(ほうしゃくじ)のことか。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「閑田次筆」の「卷之四 雜話」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。頭の柱「○」を除去した。

   *

此筆記を草する時、山崎の者、ことのついでにかたらく、寶寺の下に住ける獵師、鐵炮甚だ上手にて、飛鳥をもよくうち落せしが、後其近村山家(ヤマガ)といふへ移(ウツ)り住て、一朝猪をねらひて山へ入しに、おもほえず容顏美麗の女にあへり。所がらあやしけれども從ひゆくに、小倉明神とまうす社をめぐる。おのれも共にめぐりしに、彼女吃(キ)と見おこせ睨(ニラミ)たるを見れば、限五になりたり。驚きて走(ハシ)り歸り。此後殺生を止(トヾ)め、農業をつとむ。されども從來の罪によりてや、ほどなく足腰不ㇾ起(タヽズ)。子は二人有しも、一人は早世し、一人は白癩(シロコ)にて、あさましき者なりといへり。常に見聞に、鳥屋には支離(カタハ)もの多、あるひは終をよくせざるもの多し。さるべき道理なり。

   *

「シロコ」は「白癩」の左意訳を示すルビ。本来は「びやくらい(びゃくらい)」と読んでいよう。多様な皮膚変性症状を呈するハンセン病の一つの病態の古称。身体の一部或いは数ヶ所の皮膚が斑紋状に白くなる症状のものを指した。]

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