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2017/02/12

小穴隆一「鯨のお詣り」(33) 「二つの繪」(22)「彼に傳はる血」

 

        彼に傳はる血

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「橫尾龍之助」の原型。]

 

 彼に傳はる血。自分の知るところは、彼が「大導寺信輔」等(など)を書いて示してゐた以上を、知るとは言へない。

[やぶちゃん注:「大導寺信輔」芥川龍之介の自伝風の実験作品(事実上は未完と言えると私は思う)「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(大正一四(一九二五)年一月『中央公論』)のこと(リンク先は私の草稿附きテクスト)。]

 彼の話に間違いなくば、彼の實母は、晩年を一人しよんぼり二階に暮してゐたやうである。人が紙を渡しさへすれば、お稻荷樣ばかり畫(か)いてゐたといふ。彼も亦、恐るおそる二階に首をのべて、紙を差出(さしだ)し、お稻荷樣を書いて貰つたことがあるといふ。

 ここに一人の傳記作者があつて、氣違ひとなつた芥川龍之介は、その生母が稻荷樣を畫いてゐたやうに、(何を畫いても、實際皆、顏は狐だつたといふ。)河童ばかり畫いてゐたと、斯樣(かやう)に書いてゐたとしても、不幸にして笑へぬ程の因緣を自分は見る。

 長男の位置であらうにも關(くわん)せず、彼は芥川家の養子となつてゐる。彼は新原(にいはら)家の人ではないのか? 大正十四年四月一日新潮社發行、現代小説全集、芥川龍之介集によつて調べる。

 芥川龍之介年譜

 明治二十五年三月一日(じつ)、東京市京橋區入船町(いちふねちやう)に生まる。新原敏三の長男なり。辰年辰月(づき)辰日(じつ)辰刻(たつこく)の出生(しゆつせう)なるを以て龍之介と命名す。生後母の病(やまひ)の爲、又母方に子無かりし爲(ため)當時本所區小泉町(こいづみちやう)十五番地の芥川家に入(い)る。養父道草(みちあき)は母の實兄なり。

 三十一年本所區元町(もとまち)江東(かうとう)小學校に入學。成績善(よ)し。

 三十五年實母を失ふ。――

 ここに、彼自身作製したのであらうこの年語に書落しはないのか? 芥川龍之介全集月報第八號所載の寫眞(寫眞參照)を見る。芥川龍之記(き)のの字を、人々は既に見てゐる。さうして自分は、勇気を出してぶちまければ、――彼の棺に釘を打つときに、「これを忘れました。」――惶急(こうきふ)に彼の夫人が自分に渡した紙包は○○龍之。彈じて龍之介とは書いてなかつた臍緒の包(つゝみ)である。のみならず新原・芥川そのいづれでもない苗字を讀んだ。臍緒に姓名の誤記といふ事が彼の一家の人々を見渡して考へられやうか。あの場合の自分の視力を今日に至つても自分は疑へない。――夏の日四日も棺のなかにおかれた人の顏を、永遠に形を失ふ前の彼の顏を人は見たいといふのか。死體から立つ臭氣と撒(ま)かれた香水のにほひに、(昭和二年改造九月號、通夜(つや)の記、犬養健(けん))を讀まれたい。忘れ得ぬものが自分の胸底(むなぞこ)にはある。

[やぶちゃん注:太字「助」は底本では傍点「◦」である。

「芥川龍之介全集月報第八號所載の寫眞(寫眞參照)」元版月報で私は所持しないので何の写真なのか不詳であるが、別にどうといことはない。高等小学校時代の手書き回覧雑誌『日の出』の「西洋お伽噺」の自筆署名は『芥川龍之助述』であり、そもそもが、彼の名作「鼻」の『新思潮』初出は作者名を『芥川龍之助』と印刷してある一部で言われている「助」の字が大嫌いで、宛名がそう誤っていたものは封を切らずに捨てた、などというまことしやかな話は実は都市伝説の類いであることが、これらからも判る

「惶急」「惶」には「畏れる」以外に「急」と同じく「慌ただしい」の意がある。

「○○龍之助」「橫尾龍之助」の伏字。ここで言っておくと、これは所謂、驚天動地の芥川龍之介私生児説なのであるが、私は思うに、この芥川龍之介の臍の緒の表書きは、

 

 臍尾 龍之助

 

だったのでではあるまいか?

それを小穴隆一は「橫尾」と読み違えたのではないか?

と実は深く疑っているのである

「昭和二年改造九月號、通夜の記、犬養健」私はこの「通夜の記」の原文を読んだことはないが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項「葬儀」の中にそこからの引用があるので孫引きしておく。但し、漢字を恣意的に正字化した(「添え」はママ)。『棺のうへの寫眞には、頰杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此處には滿室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に醉ふもののあるくらゐに強い』。]

「ことによると目玉が暑さで流れてゐるかも知れない。」この谷口の注意によつておわかれを家族がする前に、三人が、(竹内仙治郎、谷口、小穴、)立つて先に棺のなかを改めた。南無妙法蓮華經を大音聲(だいおんじやう)に唱へながら棺に手をかけた谷口は、「あ、駄目だ。」とこれ亦大聲にわめいた。――彼の顔に被せた白いきれはすつかり濡れてゐた、にじみだした人間の膏(あぶら)はきれを赤土で煑染(にし)めたが樣(やう)に染めてゐた。――故に、取拂(とりはら)ふ必要を認めぬ程、濡れてぴつたり顏に着いたきれは、土中(どちう)に埋(うづ)まる落葉(らくえふ)のなかの顏のやうに、瞼(まぶた)の輪廓(りんかく)を示してゐた。相見(あひみ)て三人は彼の家族に見ることを許さぬ程にとけた顏、――等々(とうとう)をここに自分は語らうといふのではない。

 二十七日の告別式に至つて遂に自分は、自分の嘗て見知らぬ○○龍之助の前に始めて立つた。

 ――○○龍之助が芥川龍之介とする。然らば、何故芥川龍之介はその間の消息を一度も人に語らずして死んでゐるのであらうか。謎である。苦痛と考へた考へに生きてゐることが、苦痛を孕(はら)むでゐた種(たね)は、もしやといふ考へを持たせる。この疑惑は、正確な自畫像が描(ゑが)けなかつた彼の弱點に結ぶべき根本(こんぽん)のものであつたのではなからうか。依然たる自分にとつての今日(こんにち)の謎である。

 燒場(やきば)の竃(かまど)に彼の寢棺(ねぐわん)が納められて鍵が卸(おろ)されてしまつた。

 焼場の者の單なる偶然の過失は、竈(かまど)の門扉(もんぴ)に掛けてゐた名札を、芥川龍之助と書いてゐた。さうして竈の前に、再び自分の見知らぬ芥川龍之介の面差を自分は見詰めて立つてゐた。谷口喜作は燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改(かきあらた)めさせた。恒藤恭(つねとうやすし)が、よく注意してくれた、と谷口に禮を述べてゐた。自分は、ただ自分の見知らぬ芥川龍之介を思ひ、考へてゐた。

 

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