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2017/02/20

小穴隆一「鯨のお詣り」(60)「伯父」(1)「K伯父」

 

 伯父

 

 

         K伯父

 

 さうよ、松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となりとなるかな、俺らはどうもといふのが、やはり順なのであらう。彼處(あそこ)は木曾の三宿の一つで、貫目改所(かんめあらためじよ)があつた土地である。地名の由來が、遠い昔、木曾ノ義仲がその馬の脚の疵(きず)を自分で洗つてやつた、といふにあるかと思へばまた、ここで二人あすこで三人と飯盛女を抱へてゐた。木曾街道六十九次、廣重の錦繪で見ると、さびゆく秋の色ぞかなしきであるが、木曾の奥からは女房子(にようぼうこ)が馬を曳いておらやとつさを迎へに出張(でば)つてもきや賑やかな場所であつたはずである。はるばる江戸まで稼ぎにいつて錢を持つたとつさが、郷里(きやうり)のちかまでやれやれと大事なところでゆるみだし、少しは財布の紐もはづさうか、かかさはさはさせじの木曾の入口、そこがK伯父さんの生れた土地なのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。以下、同じ。

「木曾の三宿」奈良井宿・妻籠宿・馬籠宿。但し、以下の木曾義仲の馬の脚云々は中山道の洗馬(せば)宿の由来譚であり、実際、「北国西街道」(善光寺街道・善光寺西街道とも称した)が「中山道」から分岐していた洗馬宿内には、街道を通行する伝馬の荷物の重量を検査するための貫目改所が置かれたから、どうもここは洗馬宿を指しているように思われ、また歌川広重の描いた「木曾街道六十九次」では、洗馬宿のそれこそが「さびゆく秋の色ぞかなしき」に相応しいと思う私にははなはだ不審ではある。

「貫目改所」江戸幕府が問屋場に置いた機関で、街道を往来する荷物の貫目(重量)の検査に当った。大名や旗本が過貫目の荷物を運搬させて宿や助郷(すけごう)の人馬役業務を苦しめたことを鑑みて設置されたものであるが、通過荷物の重量を総てをここで改めていたのでは往還の業務に支障を来たすため、実際には荷物付け替えの際に重い荷物のみを改めたという。伝馬(てんま)荷物は一駄(だ)三十二貫目、駄賃荷物は四十貫目を標準とした。]

 K伯父さん、この伯父はその一生をまことに不遇で終つてしまつた。小言も言はず、物もくれなかつたかはりに、げえもねえ話でも、ただありのままにそのままに昔話にしてくれた伯父であつた。

 げえもねえ話のげえもねえ話の例をあげると、

 棒(ぼう)ちぎりに黐(もち)をつけて、納戸(なんど)のなかの樽の呑口(のみくち)につつこみ、錢を釣上(つりあ)げては持出してつかつてゐた話(物價が、一、二錢四厘男ぞうり三足(ぞく)。一、八錢、女わらぞうり十足。といつた時の、また一昔(むかし)も二昔も前の時代である。)積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら、通りがかりの人に梅毒だと教へられた話(褌(ふんどし)もせずにちんぽこを出して知らずに遊んでゐたありさまの子供、花柳病の名も知らぬうちに左樣な病氣を持たされた土地、また時代でもあつたとみえる。伯父は何も知らぬのだからちんぽこを出してゐたのだと言つてゐた。宿場女郎であるのか飯盛女か、その相手がそれを聞いて藥を屆けてよこしたといふのである。)本箱を持つて諏訪に遊學してゐたときには、塾生(じゆくせい)一同が本を賣つてまでして、…………………………たものであるが、先生に……………………しようではないかといふことになつて、けいあんに周旋(しうせん)をたのんでおいたところ、先生の家の玄關に連れてきたのが、以前自分達が雇うつてゐてお拂箱(はらいばこ)にした女であつたので、自分達も驚いたが女も驚いた話。神戸(かうべ)の遊廓では夜中に、コロリだ、コロリだ、といふ騷ぎがあつて皆狼狽しておもてに飛出したら、コロリでなくて心中があつての騷動であつた話。等々(とうとう)である。

[やぶちゃん注:「積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら……」以下の部分、勿論、その後の点線で伏字にしてある部分がまるで分らぬ。チンポコを丸出しにしている子どもへの冗談としても、「梅毒」はよく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「けいあん」は「桂庵」「慶庵」などと書き、縁談や奉公の仲介を生業(なりわい)とする者、口入れ屋のことである。寛文年間(一六六一年~一六七三年)頃の江戸の医師大和桂庵が奉公や縁談の世話をしたことに由る呼称とされる。ここは特に縁談のそれであろう。確かにそれなら吃驚りする。]

 私は信州人の子であり、またこの八年前からは戸籍も信州生れとなつたのであるが、育つた土地ではないので、信州の地理にも委しくなくて困るが麻市(あさいち)があると聞いた大町(おほまち)、日本アルプスの登山口であらうか、あの大町にあそこに高遠(たかとほ)の長尾無墨(ながをむぼく)が塾を開いてゐた時、伯父はその塾に塾生となつてゐたといふ。さうして或る日、文武兩道の士この無墨に連れられて一同が有明山(ありあけさん)に登つた時のことであるが、無墨は武士のさういふときの姿、伯父達は當時の流行で紫の片面引染(かためんひきぞめ)の木綿の三尺帶、それに一本ざしで出掛けたものの夜(よる)宿(やど)をとつて泊つたところが、階下の爐ばたに一晩中人が集まつてゐて、その騷ぎでうるさくて睡られもせず、夜が明けて騷ぎの仔細を尋ねたら、人の出入りがはげしかつたのも道理、里の人々のはうでは一行を山賊と思ひこんで、若者達を狩集めて夜中警戒をしてゐたのだといふには呆れたともいふ。それに明治五年もうその歳(とし)の暮におしつまつて曆法改正のことがあつた時には、(明治五年十二月四日の次の日を六年一月一日(じつ)として太陽曆となる。)他の土地から集つてきて佑た塾生高の間で、新曆の正月で休みをとる者と舊曆の正月で休みをとる者とを二組にわけて、じやんけんがあつたといふことである。通ひの門弟もあるし、塾生全部が新曆で休みをとることは許されなかつたといふ。通ひの門弟にとつては、新曆で休むといふことが左ほどに痛切ではなかつたと思ふ。明治五年は伯父が十六歳の時であらう。

[やぶちゃん注:ここの叙述、暦制変更に関わる市井の状況を伝えるという点でも面白い叙述である。

「長尾無墨」(?~明治二七(一八九四)年)は官吏で日本画家。維新前は信濃高遠藩士で藩校進徳館の大助教であった。維新後は筑摩県に勤務し、明治七(一八七四)年に県権令永山盛輝に従って県下の教育事情を調べ、「説諭要略」に纏めた。退職後、田能村竹田(たのむらちくでん)の門に学び、雁の絵を良くしたという。本姓は宇夫形(うぶかた)。著作に「無墨山人百律」「善光寺繁昌記」がある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

「さうさなあ、英京龍動(えいきやうロンドン)が佛國(ふつこく)パリスにでも行つたならばどうか知らんが、面白いことはあまりないずら。」と言つてゐた晩年の伯父に、無墨について私は何故もう少し聞いてはおかなかつたかと今日一寸後悔してゐるのである。一二年前(ぜん)の文藝春秋に、向島に住んでゐた明治中半(なかば)の文人墨客(ぼつきやく)についてたれかが書いてゐた。そのなかに無墨の名も交つてはゐたが、人は長尾無墨の名などはあまり知らぬらしい。K伯父が少しでも詩書畫(ししよぐわ)に志(こゝろざし)を持つてゐた人であれば、その不遇の一生のなかにも、これまた風流の趣(おもむき)を捉らへ得た筈であると密かに考へもするその私にしてからが、無墨が私の祖父の家で畫(か)いた繪を持ち、未だにこれを表具(へうぐ)もさせずにゐるのではある。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「英京龍動(えいきやうロンドン)」はイギリスの首都ロンドン、「佛國(ふつこく)パリス」はフランスの首都パリ、の意である。]

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