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2017/02/14

柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」

 

  

 

 

 果心居士

 

 西鶴は「織留」の中に「左慈道人、我朝の果心居士」と對(つゐ)にして書いた。この方面から和漢の代表者を選ぶとすれば、先づ兩人を首に推さなければならぬ。他はよほど有名な人物でも、この兩人の前に持つて來ると小さく見える。

[やぶちゃん注:「果心居士」(くわしんこじ(かしんこじ) 生没年不詳)は室町末期の話柄に登場する伝説の幻術師。ウィキの「果心居士」によれば、『七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。筑後の生まれともされ、『大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆』「古老茶話」によると、慶長一七(一六一二)年七月、『因心居士』(彼の別名ともされるもの)『というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八歳と答えたとする。また天正一二(一五八四)年六月に『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とするが、『果心居士に関する資料の多くは江戸時代に書かれたものであり、これらの逸話は事実とは考えられないが、奇術の原理で説明できるものとして「果心居士=奇術師」という説もある』とある(幾つかのエピソードは本文に出るものと重複するので大幅にカットした)。柴田宵曲の勘所を押さえた訳で居士を楽しみたくば、リンク先は見ぬがよろしかろう。

「織留」作者名を冠して「西鶴織留(さいかくおりどめ)」と呼ばれる、浮世草子。六巻五冊。元禄七(一六九四)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションなどで視認は出来るが、私は読んだことがなく、どこにあるのか指示することが出来ない。悪しからず。

「左慈道人」「さじだうじん」(生没年未詳)は後漢末期の方士で、字は元放、揚州廬江郡(現在の安徽省合肥市廬江県)の人。ウィキの「左慈」によれば、正史では『後漢書』第八十二巻「方術列傳下」に伝記があり、そのほかにも「捜神記」「神仙伝」や「三国志演義」などにも出る妖術使いのチャンピオンである。正史に於いては、『左慈はかつて司空』(ここは後の叙述から治水関連の長官か)『であった曹操の宴席に招かれ、曹操がふと「江東の松江の鱸があればなあ」と呟いた時、水をはった銅盤に糸を垂らして鱸を釣り上げてみせた。曹操は手を打って大笑いし、さらに「巴蜀の生姜がないのが残念だ」とこぼして「使者に蜀の錦を買いに行かせたが、あと二反を買い足すように伝えておいてくれ」と言った。左慈はすぐに生姜を手にして帰ってきた。後日、使者は益州から帰ってきた時、左慈に会ったので錦を買い足したと証言した』。『曹操が従者百人程を連れて近くまで出かけた折り、左慈は酒一升と干し肉一斤を携えてそれを配った。従者たちは皆酩酊し、満腹した。曹操が不思議に思って調べさせると、酒蔵から酒と干し肉がすっかり無くなっているとの事。このため、曹操が腹を立てて左慈の逮捕を命じれば、左慈は壁の中に消えていった。また、市場でその姿を見たという者があったので追及させると、市場にいる人々が皆左慈と同じ姿であった』。『陽城山の山頂で左慈に会ったとの証言を得たので、逮捕に向かわせると、左慈は羊の群れに逃げこんだ。曹操が「殺すつもりはない。君の術を試したかっただけだ」と伝えさせたところ、一頭の雄羊が二本足で立ち上がって人間の言葉で返事をした。皆で一斉に飛びかかると、数百頭の羊が皆立ち上がって人間の言葉を話したので、捕まえる事ができなかった』とある。「三国志演義」での彼はリンク先を参照されたい。

「首」「かしら」と訓じておく。]

 果心居士の話は「義殘後覺」に書いてあるのが古いらしい。伏見に勸進能があつた時、果心居士も見に來たが、已に場内一杯の人で入る餘地がない。これはこの人達を驚かして入るより外はないと考へた居士は、諸人のうしろに立つて自分の頤をひねりはじめた。居士の顏は飴細工の如く、見る見るうちに大きくなつたから、傍にゐる人はびつくりして、これは不思議だ、この人の顏は今までは人間竝だつたが、あんなに細長くなつてしまつたと、皆立ちかゝつて見る。遂に居士の顏は二尺ぐらゐになつた。世にいふ外法頭(げはうかしら)といふのはこれだらう、後の世の語り草に是非見て置かなければならぬと、誰れ彼れなしに居士の顏を見物に來る。能の役者まで樂屋を出て見に來るに至つたので、居士は忽ちその姿を消し、人々茫然としてゐる間に座席を占め、十分に能を見物することが出來た。

[やぶちゃん注:「頤」「おとがひ(おとがい)」。下顎(したあご)。

「外法頭」「げはうあたま」とも読み、原義は人間の頭蓋骨を用いて行われた外法(げほう:妖術)に用いる髑髏(どくろ)であるが、ここは普通と異なる、福禄寿のような、上部が大きくて下が小さな異形畸形の頭或いはそのように伸縮する妖しい頭を指す。

 以上と以下は、「義殘後覺」の「卷四」の「二 果進居士の事」(これも彼の別名とする)である。岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(上)」に載るものを参考底本としつつ、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像で校合しつつ、恣意的に正字化して以下に示す。直接話法形式の部分は改行して読み易くした。文中の「日能大夫」は不詳なれば、読みも不詳。

   *

中比(なかごろ)、果心居士といふ術法を行なふ者ありけり。上方へとこころざして、筑紫よりのぼりけるが、日をへて伏見に來たりぬ。をりふし日能大夫、勸進能をしけるが、見物の貴賤、芝居の内外に充滿せり。果進居士も見物せばやと思ひて、内へいりて見けるに、なかなか上下の見物人は尺地も(せきち)すかさず立込みたり。

 果進居士まぢかくよつて見るべき所もなければ、爰はひとつ芝居をさはがせて後、入らんと思ひて、諸人のうしろに立ちて、頤(おとがひ)をそろりそろりとひねりければ、みるうちに顏のなり、大きになるほどに、人々是をみて、

「ここなる人の顏は不思議なる事かな。いままでは何事もなかりしが、みるうちに細長くなる事のふしぎさよ。」

と、恐しくもをかしくも、これを立ちかかりて見るほどに、果進居士は少し傍(かたはら)へ退ぞきけるが、芝居中は上下もちかへして、入れかはり立ちかはり見るほどに、のちには顏二尺ばかり長くなりてければ、人々、

「外法頭(げはうかしら)と云ふものはこれなるべし。是を見ぬ人やあるべき。末の世の物語にせよや。」

とて、押しあひへしあひ立ちかかるほどに、能の役者も樂屋をあけてぞ見物しける。

 居士はいまはよき時分と思ひければ、搔き暗(く)れてうせにけり。見る人、

「こはいかに。稀代(きたい)不思議の化け物かな。」

と、舌のさきを卷きてあやしみける。

 さて果進居士は芝居ことごとく空きたるによつて、舞臺さきの良きところへ、編笠引きこみて、座をとりて、見物おもふさまにぞしたりけり。

 また中國廣島といふ所に久しく居住したりけり。そのあひだ、ある商人(あきんど)の金銀を借りて事をととのへけるが、のぼりさまに一錢も返辨せず、しのびて京へきたりけるが、この商人、

「にくき居士かな。何地(いづち)へか逃げうせたるらん。」

と、くやめども、甲斐なくして打ち過けるが、あるとき、商買(しやうばい)のために京へ上りけるが、鳥羽の邊にて、此の果進居士に十文字に行き逢ふたり。商人(あきんど)、そのまま居士を捉へて、

「さても久しき居士かな。それにつけて御身はずいぶん某(それがし)馳走に思ひて、金銀共の外ひかへ候ふて、とかくと勞(いたは)り侍りしかひもなく、夜拔けにして上り給ふこと、さりとては屆かぬ御心中にて有るものかな。」

と、恥(はぢ)しめければ、果進居士、何とも面目なくや思ひけん、この人を見つけぬるより、又、頤(おとがひ)をそろりそろりと撫でければ、顏橫(かほよこ)ふとりて、眼(なまこ)まろくなり、鼻きわめて高く、向(むか)ふ齒一ぱい大きに見えわたりければ、この商人(あきんど)も、これはと思ひけるが、居士、申しけるは、

「何と仰せ候や。それがしは、かつて御身は存ぜぬ人にて候が、まさしき近づきのやうに仰せ候はおぼつかなし。」

と申しければ、商人(あきんど)、はじめは果進居士とただしく思ひしが、見るほど各別の人なれば、さては見誤まりたると思ひて、

「まことに卒爾(そつじ)なる事を申し侍るものかな。我らが存じたる人かと思ひて見あやまりしが許し候へ。」

と申して通りにける。後に人々風聞して、

「これは何よりも習ひたき術なり。」

とぞ笑ひにける。

 又、あるとき、戸田の出羽と申す兵法者、無雙の聞え有りけるがもとへ、ゆきて近づきになりぬ。さていろいろさまざま物語をしけるほどに、居士、申しけるは、

「それがしも兵法を少し心がけ申し候。さのみ深き事も存ぜねども、世の常の人に仕負け候はんとは思はず。」

と云ふ。戸田、開き給ひて、

「それは奇特なる事にて候。その儀ならば、ちと御身の太刀筋が見申したく候。」

と申されければ、居士、

「さあらば。」

とて、木刀を取つて立ちあひ、

「やつ。」

といふと思へば、こびんをちやうと打つ。出羽は夢のごとくにて、更に太刀筋も覺えざるなり。

「今一度。」

といへば、

「心得たる。」

とて、またうつに、右のごとし。戸田は、

「さりとては御邊の太刀は兵法の上には離れて、術道を行ふによつて、各別の法なり。」

と打ち笑ひにける。

 其の後申されけるは、

「何と御邊に八雲り立ちかかつて打つときにも、身には當たるまじきか。」

と問ひければ、

「思ひもよらぬ事。」

と云ふ。

「さあらば。」

とて、十二疊敷の座敷へ弟子ども七人、わが身ともに八人、果進居士を中に置きて、座敷の四方の戸を立てて、打ちけるに、

「やつ。」

と云ふと思へば、居士は塊(くれ)に見えず[やぶちゃん注:塊り(物体)としての存在を消滅して見えず。]、

「こは、いかに。」

と人々あきれ、

「果進居士、果進居士。」

と呼びければ、

「やつ。」

といふ。

「何處(いづく)にか在るらん。」

といへば、

「ここにある。」

と云ふ。座敷中には塵もなきによつて、

「さあらば、緣の下にかがみゐるならん。證據のために見ん。」

とて、疊をあげて、くわしく見けるに何もなし。

「果進居士。」

と呼べば、答ふる。さりとては希代(きたい)不思議ともいふばかりなしと、人々呆れはててゐければ、まん中へ出でて、

「何と尋ね給ふぞや。」

といふ。人々、

「さりとては、とかういふばかりなし。」

と、顏をまもりゐたり。

「かかる上は、たとへば百人千人寄りたりとも、かなふ事にあらず。」

といひて、うらやみにける。

   *]

 果心居士は長いこと廣島に住んでゐたが、そこの町人から金銀を大分借りた。さうして一錢も返濟せずに京へ來てしまつたので、町人はびどく腹を立てた。その後町人も二見へ上ることがあつて、鳥羽の邊でばつたり果心居士に出逢ふと、口を極めて居士を罵倒する。借金をしたのは事實だから、一言の申し開きもしなかつたが、居士は例の如く自分の頤をひねりはじめた。今度は伏見の能見物の時と違つて、顏の横幅が廣くなつて、目は丸く鼻は高く、向う齒が一杯に見える、世にも不思議な顏になつてしまつた。町人もいさゝか驚いてゐると、居士はすましたもので、拙者はこれまであなたにお目にかゝつたことがござらぬが、何でそのやうに心易げに申さるゝか、と反問した。町人が見直すまでもなく、全く別の顏だから、まことに卒爾を申しました、と平あやまりにあやまつて別れて行つた。

 或時戸田出羽といふ武藝者と懇意になつて、いろいろの話をして居つたが、居士の話に、拙者もいさゝか武藝を心がけて居ります、さのみ深いことは存じませねど、世の常の者には負けようとも思ひませぬ、といふことであつた。それは御奇特な事ぢや、その儀ならばちと御身の太刀筋が拜見したい、となつた時、居士は木刀を執つて立ち合ひ、やつと云つたかと思へば、もう出羽は小鬢を打たれて居つた。出羽は夢のやうで、更に太刀筋もわからぬので、今一度と云ふと、また同じやうに打たれる。さてさて御身の太刀は武藝ではなしに、術道を行はれるのだから何ともならぬ、と云つて苦笑するより外はなかつた。その後また出逢つて、御身に八方より打ちかゝつて打つたら、身體に當るまいかと出羽が尋ねたら、思ひもよらぬ事と居士が答へる。そこで十二疊の座敷の戸を立て、出羽及びその弟子七人が、果心居士を中に置いて打ちかゝつたけれど、やつと云ふかと思へば、もう居士の姿は見えぬ。果心居士々々々々と呼ぶと、やつと云ふ。どこに居られるかと問へば、こゝに居りますと云ふ。座敷の中は塵一つもないので、緣の下にでも跼んでゐるのだらうと云つて、疊を上げて子細に見てもわからぬ。呼べば答へるだけである。一同呆れてゐる眞中へ居士が姿を現して、何をお尋ねになりますか、と云ふ。これでは百人千人かゝつたところで、到底かなふことではない、と武藝者の方が羨ましがつてゐた。

「義殘後覺」に出てゐる話はこんなところである。大體に於て惡戲の程度にとゞまつてゐるが、元興寺の塔へどこからか上つて、九輪の頂上に立ち、著物を脱いで打ち振ひ、やがてもとの通り著て、頂上に腹掛けたまゝ四方を眺めてゐる「玉箒木」の話になると、大分放れたところが出て來る。或晩奈良の手飼町の或家で、客を四五人呼んで酒宴を開いた時、客の中に果心居士をよく知つた者が居つて、頻りに幻術の妙をたゝへたところ、それなら居士をこの座へ招き、吾々の見てゐる前で幻術をさせて下さい、お話ほどの事もありますまい、と少し疑惑を懷く者もあつた。はじめに居士の話をした者が出て行つて、間もなく居士と一緒に戾つて來たが、その時少し疑惑を持つ一人が進み出て、私は小智偏見で大變奇特を見たことがありません、どうか私の身について奇特をお見せ下さい、と云つた。居士は笑つて、自分が見ないからとて他の奇特をお疑ひめさるな、と云ふが早いか、座中の楊枝を手に執り、その人の上齒を左から右へさらさらと撫でた。上齒は一遍にぶらぶらして、今にも脱け落ちさうになつたので、その人大いに驚き悲しみ、恐れ入りました、御慈悲にもとのやうにして下さい、と歎願に及ぶ。おわかりになりましたか、これにお懲りなさい、と再びかの楊枝で右から左へ撫でると、齒はひしひしと固まつて、もとの通りになつた。人々今更の如く感歎し、とてもの事に今夜この座敷で、すさまじい幻術をお見せ下さい、子々孫々までの話の種に致します、と所望する。お易い事と呪文を唱へ、座敷の奧の方を扇を揚げて麾(まね)けば、どこからか大水が涌き出して、座敷にあるほどの物が全部流れはじめた。水は忽ちに座敷に充ち滿ち、逃げようにも逃げられなくなつたところへ、十丈ばかりもある大蛇が、角を振り口を開き、波を蹴立ててやつて來る。皆々水底に打ち伏し、溺れ死んだと思つたが、翌日人に起されて座敷を見れば、平生と變つたところは何もない。かういふ不思議を示したので、當分の間はこの評判ばかりであつた。

[やぶちゃん注:「十丈」三十メートル二十九センチメートル。

 以上と以下は、「玉箒木」の卷三」の「果心幻術」である。Google ドライブのこちらの電子データを基礎に(但し、これは頭の一部が欠損している)、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから画像で読めるそを視認して電子化する。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを施した。

   *

   ○果心幻術

ちかき頃大和國に、魔法幻術を行ふ果心居士といふ者あり、種々の奇特をなして人の耳目を驚しけり、ある時元興寺(がごじ)の塔へいづくよりかのぼりけん、九輪(くりん)の頂上に立居て、衣服ぬぎて打ふるひ裸になり、しばらくありてまたもとのごとく打着て帶しめ、頂上に腰かけて四方を詠めりけり、おりたき時はいづくともなく下ける、又ある時猿澤の池のほとりを過けるに、人皆見知て幻術懇望しければ、かたはらなる篠の葉をちぎり、何やらん咒文をとなへ皆々池水にちらしければ、ことごとく大魚となり、尾をふりひれをあげてはねまはりけり、又ある夜奈良の手飼町ある家に、客五六人招待して、酒飯をとゝのへ座敷の興を催しけるに、その客の内一人果心居士をよくしりて、かの幻術の奇妙なる事どもかたり出ければ、滿座耳をかたぶけあやしみけるが、又一人いふやう、あはれその居士此座へ迎へ、此人々の中にて何にても幻術をさせてみまはし、さまでの奇特はよもあらじなど、すこしはうたがひけり、始の一人さおもひ給ふはことはりなり、我は此ごろ心やすくかたらへば、今夜よびにやりてみせ侍らんかといふ、人々大によろこび、いそぎよび給へといふほどに、かの人ぢきによびに出、しばらくして居士と同道してきたれり、滿座出むかへ、夜中俄に請待せし所に、早速の來臨かたじけなきよしのべたり、居士さしもことごとしきけしきもなく、しづかに座敷になをり、幸近所に居侍るまゝ來りしなり、何にてものぞみ給へ、慰にみせ侍らんといふ、かのすこしうたがひたる一人出て、それがし小智偏見にして、終にかゝる大變奇特をみず、あはれ何ぞ先それがしが身につゐて、奇特をみせ給へといふ、居士打わらひて、わが見ざるをもつて他の奇特をうたがひ給ふなとて、座中の楊枝をとり、かの人の上齒をさらさらと左より右へ一遍なでければ、たちまち上齒殘らずぶらぶらとしてうき出、ぬけ落なんとしける、かの人大におどろきかなしみ、あはれ御慈悲にもとのごとくなしてたべと、淚をながし詫(わび)けり、居士よく覺へ給ひたりや、是(これ)にこり給へとて、また右の楊枝にて、このたびは右より左へ一遍なでければ、ひしひしとかたまりてもとのごとくなりける、人々おどろきあやしみ、とてもの事に此座敷のまん中にて、何ぞおびたゞしくすさまじき幻術をあらはしみせ給へかし、我々末代まで子孫物語の種(たね)となし侍らんとのぞみければ、居士それこそやすき事なれとて、何やらん咒文を唱へ、座敷の奧の方を扇にてさしまねきければ、そのまゝ大洪水わき出るほどこそあれ、これはこれはとおどろくうちに、器財雜具すべて座敷に有(ある)ほどの物、皆々うかびながれ、はや人々の腰なるより上まで水にひたり、足の立(たつ)ども覺へず、十方にくれてあきれたるに、猶々水はうづまきてわきまさり、四方一面にみちみち、大波しきりにうちかさなって、いづくへにげんやうもなく、いかに成行(ありゆく)事やらんと、是さへおそろしきに、又奧の方より長十丈ばかりの大蛇、角をふり口をあきて人々を目がけ、波を蹴立(けたて)て出きたる、此時人々おそろしさいはんかたなく、目くれ魂(たま)きへて、にぐるともなくころぶともなく、座敷のそとへかけ出むとせしかども、さばかりの洪水におし流され、皆々水底に打臥し、溺れ死けると覺へける、あくる日、人に起されて座敷をみるに、すべて常にかはる事なし、かゝ奇變をなしけるゆへ、いづくにてもたゞ此さたのみいひやまざりける、その頃松永彈正久秀、多門城に居住しけるが、此よしをきゝつたへて居士をまねき、いとまある時はかたりなぐさみける、ある夜、久秀、居士にむかひ、我(わが)一生いくばくの戰場にのぞみ、刃(やいば)をならべ、鉾をまじゆる時にいたりても、終(つひ)におそろしと覺へたることなし、すべて物をぢせざる天性なり、汝こゝろみに幻術を行ふて、我をおどして見てんや、といひける、居士こゝろへ侍る、しからば近習の人々をしりぞけ、刃物は小刀一本をも持(もち)たまはず、燈もけしたまへ、などいへば、彈正、その言のごとく、人をしりぞけ、大小の刀をわたし、くらがりにたゞ一人閑坐して居れり、居士、ついと座をたち出、廣椽{ひろえん)をあゆみ、前栽(せんざい)の方へ行(ゆく)とぞ見へし、俄(にはか)に月くらく雨そぼふりて、風さらに蕭々たり、蓬(よもぎ)、窻(まど)の裡にして瀟湘(せうしやう)にたゞよひ、荻花の下にして潯陽(じにゃう)にさまよふらんも、かくやと思ふばかり、物がなしくあぢきなき事いふばかりなし、さしも強力武勇の彈正も氣よはく、心ぼそふしてたへがたく、いかにしてかくはなりぬるやらんと、はるかに外を見やりたれば、廣椽にたゞずむ人あり、雲すきにたれやらんと見出しぬれば、ほそくやせたる女の、髮ながくゆりさげたるが、よろよろとあゆみより、彈正にむかひて坐しけり、何人(なんぴと)ぞととへば此女大息つき、くるしげなる聲して、今夜はいとさびしくやおはすらん、御前に人さえなくてといふをきけば、うたがふべくもあらぬ五年以前病死して、あかぬわかれをかなしみぬる妻女なりけり、彈正、あまりすさまじくたえがたさに、果心居士、いずくにあるぞや、もはや、やめよ、やめよ、とよばはるに、件の女、たちまち、居士が聲となり、侍るなり、といふをみれば、居士なりけり、もとより雨もふらず、月もはれわたりてくもらざりけり、いかなる魔法ありてか是ほど人の心をまどはすらんと、さばかりの彈正もあきれけるとぞ、

   *

次段で出る「松永久秀」(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)は専横の限りを尽くした戦国武将。当初は三好長慶(ながよし)の家老として権勢を揮い、信貴山(しぎさん)城・多聞城にあって大和を支配したが、長慶死後は将軍足利義輝を弑(しい)し、三好三人衆と対立した(彼らとの戦いによって東大寺大仏殿が焼失している)。永禄一一(一五六八)年に織田信長に降伏して大和を安堵されるも、直に信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もって、信長が欲しがった平蜘蛛茶釜とともに爆死したことで知られる、とりわけトンガッた存在として知られる男であるだけに、この彼が心底ビビッたエピソードはより面白いと言える。]

 その頃大和の多門城には、松永彈正久秀が居住して居つた。異心居士の噂を聞いてこれを招き、暇のある時は話し相手にしてゐたが、或晩久秀が居士に向ひ、自分はこれまで幾度となく戰場に臨み、刀を竝べ鉾を交ふる時に至つても、終に恐ろしいと思つた事がない、その方幻術を以て自分を脅すことが出來るか、と尋ねた。居士はこれに答へて、りました、然らば近習の人も退け、刀物は小刀一本もお持ちなされず、燈も消していたゞきたうございます、と云ふ。久秀はその通り人を遠ざけ、大小の刀を渡し、眞暗な中にたゞ一人坐つてゐると、居士はついと座を立ち、廣緣を步いて前栽の方へ出て行つた。俄かに月が曇つて雨が降り出し、風肅々として、さすがの松永彈正も何だか心細くなつて來た。どうしてこんな氣特になつたかと怪しみながら、ぢつと暗い外を見てゐるうちに、誰とも知らず廣緣に佇む人がある。細く瘦せた女の髮を長く搖り下げたのが、よろよろと步いて來て、彈正に向つて坐つたけはひなので、思はず何者ぢやと聲をかけた。その時女大息をつき、苦しげな聲で、今夜はお寂しうございませう、見れば御前に人さへなくて、と云ふのは、五年前に病死した妻女の聲に紛れもない。彈正もこゝに至つて我慢出來なくなり、果心居士はどこに居る、もうやめい、と叫ばざるを得なかつた。件(くだん)の女は忽ち居士の聲になつて、これに居りまする、と云ふ。もとより雨などは降らず、皎々たる月夜であつた。

 この話は「玉箒木」より前に「醍醐隨筆」に出て居り、文章も多少修飾を加へた程度に過ぎぬ。「煙草と惡魔」(芥川龍之介)の中に「松永野正を飜弄した例の異心居士と云ふ男」とあるのは、この一條を指したものである。果心居士は大和の生れで、桑山丹後守の在所の者だといふから、大和に關する話が多いのは怪しむに足らぬであらう。

[やぶちゃん注:「醍醐隨筆」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のの左上部中頃から視認出来る。

「煙草と惡魔」芥川龍之介二十四歳の時の初期作品。大正五(一九一六)年十一月発行の『新思潮』初出。引用箇所は末尾の筆者の印象的な後書きの中に現われる。以下の示す。底本は岩波旧全集に拠った。

   *

 それから、先の事は、あらゆるこの種類の話のやうに、至極、圓滿に完をはつてゐる。卽、牛商人は、首尾よく、煙草と云ふ名を、云ひあてゝ、惡魔に鼻をあかさせた。さうして、その畑にはえてゐる煙草を、悉く自分のものにした。と云ふやうな次第である。

 が、自分は、昔からこの傳説に、より深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、惡魔は、牛商人の肉體と靈魂とを、自分のものにする事は出來なかつたが、その代に、煙草は、洽く日本全國に、普及させる事が出來た。して見ると牛商人の救拔が、一面墮落を伴つてゐるやうに、惡魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。惡魔は、ころんでも、たゞは起きない。誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。

 それから序に、惡魔のなり行きを、簡單に、書いて置かう。彼は、フランシス上人が、歸つて來ると共に、神聖なペンタグラマの威力によつて、とうとう、その土地から、逐拂はれた。が、その後も、やはり伊留滿のなりをして、方々をさまよつて、步いたものらしい。或記錄によると、彼は、南蠻寺の建立前後、京都にも、屢々出沒したさうである。松永彈正を飜弄した例の果心居士と云ふ男は、この惡魔だと云ふ説もあるが、これはラフカディオ・ヘルン先生が書いてゐるから、こゝには、御免を蒙る事にしよう。それから、豐臣德川兩氏の外教禁遏に會つて、始の中こそ、まだ、姿を現はしてゐたが、とうとう、しまひには、完く日本にゐなくなつた。――記錄は、大體こゝまでしか、惡魔の消息を語つてゐない。唯、明治以後、再、渡來した彼の動靜を知る事が出來ないのは、返へす返へすも、遺憾である。……

   *

本篇部は「青空文庫」のここで読める(但し、新字体である)。]

「果心居士」は小泉八雲によつて世界的になつた。八雲は「夜窓鬼談」(石川鴻齋)の記事に據つたものの如くであるが、これを見ると、松永彈正ばかりではない、織田信長も明智光秀も大分飜弄されてゐる。居士は祇園社頭の木に掛けて因果應報の理を説いた地獄變相の圖を、織田信長から所望されたが、容易に肯んじない。もし是非といふことならば黃金一百兩いたゞきたいと云つた。信長はそれほど大金を投ずる意志がなく、家來が居士を斬つて變相の圖を奪ふといふ非常手段に出た。けれども殺した筈の果心居士は死なず、繪は掛物から飛び去つて白紙に替る。奉行所で調べられた居士は、信長公は掛物の正當な所有者でないから白紙に替つたので、最初に申し上げた代償をお拂ひ下されば、繪はもと通りになる、と申立てる。已むを得ず拂はれた一百兩によつて、變相の圖は舊に復したが、何となく精彩がない。最初の繪は何人も價のつけられぬ價値であったが、今は黃金一百兩を現してゐる――果心居士はその理由をかう説明した。こゝで居士は再び信長の家來に斬られるが、殺しても命を奪はれぬことは同じであつた。居士は大醉して信長の邸前に睡り、捕へられて牢に入れられながら、一向目をさまさず、十日十夜といふもの間斷なく睡り續けた。その間に信長の運命は急轉して、明智光秀のために殺されてしまつた。

[やぶちゃん注:『「果心居士」は小泉八雲によつて世界的になつた』小泉八雲の一九〇一年刊のA Japanese Miscellany(「日本雑記」)の中のThe Story of Kwashin Koji(「果心居士の話」)。私御用達の“Internet Archive”こちらで英文原典を本のように読める。私の果心居士原体験こそがこれであった。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから訳文(但し、逐語訳ではない)を視認出来る。

「夜窓鬼談」石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:近代最後の正統的漢学者の一人で、画もよくした)の漢文体の重厚な怪奇談集。当該のそれは「果心居士 黃昏艸」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認して訓読(一部に送り仮名を追加、句読点・記号等は私の判断で変更、読み易くするためにシークエンスごとに改行を加え、直接話法も改行させた)、一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを振った。左に和訓訓読の添書きがあるものはそれを利用して敷衍訓読した箇所がある。従って、世に二つとない私の訓読文である。ごくストイックに文中にオリジナル注を挿入した。私は長い間、この「夜窓鬼談」の訓読を試みたかったのである。ありがとう! 宵曲!!

   *

     果心居士 黄昏艸

 天正年間、洛北に果心居士なる者あり。年六十餘、葛巾(かつきん)道服(だうふく)、鬚髯(しゆぜん)、雪のごとし。祇園の祠(やしろ)に在りて、樹下に地獄變相(じごくへんさう)の圖を掲げ、舂(つ)く・磨(ひ)く・割(さ)く・烹(に)る、慘酷の諸刑、歷々として眞に迫る。人をして戰慄(をのゝ)くに勝へざらしむ。居士、自(みづか)ら、鈎(によい)を把(と)つて、之れを諭示し、因果應報の理(ことはり)を説く。善を勸め、惡を懲し、以つて佛道に誘導す。老若(らうにやく)の群集(ぐんじゆ)、錢を擲(なげう)つこと、山のごとし。

 時に織田信長、畿内を治む。其の臣荒川某、覩(み)て之れを奇とし、還りて右府(うふ)に告ぐ。右府、人をして之れを召さしめ、幅を座傍に展す。彩繪精密、閣魔羅卒・諸罪人等、殆んど活動するがごとく、觀(み)ること、之れを久しうして、鮮血、迸(ほとばし)り出で、號、幽かに聞ゆ。試みに手を以つて之れを拭へば、傅着(ふちやく)する者なし。右府、大いに怪しみ、乃ち、其の筆者を問へば、曰く、

「小栗宗丹、淸水觀世音に祈りて、齋戒百日、遂に之れを作る。」

と。右府、之れを欲す。荒川氏をして意を達せしむ。居士曰く、

「我れ、是の幅を以つて續命(しよくみやう)の寶(たから)となす。若(も)し、之れを亡(ばう)せば、簞瓢罄空(たんへうれいくう[やぶちゃん注:米を入れる瓢簞が忽ちのうちに空となること。オマンマの食い上げ。])、生を全(まつた)くすること能はざるなり。」

と。然れども強いて之れを欲す。

「請ふ、官金を賜へ。以つて、養老の資となさん。然らずんば、愛を割くこと能はず。」[やぶちゃん注:この「愛」はママ。しかしこれ、「爰」の誤判読ではあるまいか?]

と。右府、喜ばず。荒川、其の貪を怒り、且つ、右府に諂(へつら)ひ、將に圖(はか)る所、有らんとし、窮かに其の意を告ぐ。右府、之れを頷(ぐわん)す。乃(すなは)ち、錢を賜ひて之を反(か)へす。居士、去る。

 荒川、居士を追ひて往く。日、まさに昏れなんとす。漸く山麓に遇ひ、前後二人無き時に居士を捕へて曰く、

「汝一畫を恡(おし)み百金を貪ぼる。我れ、三尺の鐵、有り。以つて汝に與ふべし。」

と、言(げん)、いまだ竟(おは)らざるに刀を拔きて路傍に斃(たふ)す。幅を奪ひて還る。

 明日(みやうじつ)、右府に進む。右府、喜ぶ。之れを展ずれば、則ち、白紙のみ。荒川、愕然、流汗、衣に透(とほ)る。主を欺くの罪を以つて、門を閉ぢて蟄居す。

 居ること、十日、一友人來たり告げて曰く、

「昨(きのふ)、北野の祠を過ぐ。老樹の下(もと)、一道士、幅を掲げ捨財を集む。容貌・衣服、居士と異ることなし。居士に非ざるを得んや。」

と。荒川、大いに怪しみ、前罪を贖(あがな)はんと欲し、卒を率ゐて北野に到る。到れば則ち、渺たり[やぶちゃん注:姿が見えぬ。]。荒川、益々、怒る。然れども、之れを如何ともすることなし。

 既にして孟蘭盆會(うらぼんゑ)に及び、諸寺、佛會(ぶつゑ)を修す。或る人曰く、

「居士、淸水寺に在りて、場を設け、俗を誘ふ。」

と。荒川、喜ぶ。急(すみや)かに徒を從へて到る。往來紛雜憧々(しようしよう[やぶちゃん注:うろつくこと。])、織るがごとし。而して其の在る所を見ず。馳驅(ちく)索搜するも、相ひ似たる者なし。悒鬱(いふうつ[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じい。])として望みを失ふ。歸路、八坂(やさか)を過ぐ。居士、一酒肆(しゆし)に在りて、榻(しじ)に坐して飮む。卒(そつ)、之れを認めて荒川に告ぐ。荒川、之れを窺ふに、果して居士なり。輙(すなは)ち肆に入りて居士を捕ふ。居士曰く、

「暫く待て。飮み了りて將に往かんとす。」

と。數十碗を傾け、餐𩟖(むさぼりくら)ひて漸く盡く。曰く、

「足れり。」

と。卽ち、縛に就きて去る。直ちに廳前(てうぜん)に坐す。之れを誚(せ)めて曰く、

「汝、幻術を以つて人を欺く。罪、大惡、極る。若(も)し、眞物を以つて上(かみ)に獻ぜば、其の罪を免るべし。若し匿(かく)して譌(いつは)らば、應に以つて重刑に處すべし。」

と。居士、呵々大笑して、荒川に謂ひて曰く、

「我れ、本(もと)、罪、無し。汝、主に媚び、我れを殺して幅を奪ふ。其の罪、至重(しちやう)なり。我れ、幸ひに傷つかず、今日、有るを致す。我れ、若し、死せば、汝、何を以つてか罪を贖(あがな)ふ。幅のごときは、汝が奪掠(だつりやく)に任(まか)す。我が有る所は其の稿本(こうほん)のみ。汝、反(かへ)りて之れを匿し、主を欺くに白紙を以つてす。而して其の罪を掩(おほ)はんとす。我れを捕(とら)へて幅を求む。我れ、安(いづく)んぞ之れを知らんや。」

と。荒川、奮怒(ふんぬ)して拷掠(ごうりやく)して實(じつ)を得んと欲す。上官、荒川を疑ふ。因つて荒川を詰責(きつせき)す。兩人、紛爭して、判ずること、能はず。乃(すなは)ち居士を一室に囚(しう)す。嚴(げん)に荒川を鞠訊(きくじん[やぶちゃん注:罪を調べ問い糺すこと。])す。荒川、口(くち)訥(とつ)にして[やぶちゃん注:訥弁。話し方が滑らかでないこと。言説による主張が苦手なこと。]、冤(ゑん)を辯ずること能はず。頗る苦楚(くそ[やぶちゃん注:楚(しもと:鞭)などによる激しい拷問。])を受く。肉、爛れ、骨、折る。殆んど、死に垂(たら)んとす。居士、囚に在りて之れを聞き、獄吏に謂ひて曰く、

「荒川は姦邪の小人たり。我れ、之れを懲さんと欲す。故に一時、酷刑を與ふ。子、上官に告げよ。實(じつ)は荒川の知る所に非ず。我れ、明らかに之れを告げん。」

と。上官、居士を召して之れを訊(と)ふ。居士曰く、

「名畫、靈、有り。其の主に非れば則ち、留まらず。昔、法眼元信、群雀を畫く。一、二、脱し去る。襖(ふすま)、その痕(あと)を遺す。馬を畫けば、馬、夜、出でて艸を食(くら)ふ。是れ皆、衆人、知る所なり。顧(かんが)ふに、右府は其の主に非ず。故に脱し去るのみ。然れども、初め百金を以て價を約す。若し、百金を賜はば、或いは原形に復することあらんか。請ふ、試みに我れに二百金を賜へ、若し、復せずんば、速やかに返し奉らん。」

と。右府、其の言を奇とし、則ち、百金を賜ふ。幅を展ずれば、畫圖、現然たり。然れども、諸(もろもろ)を前畫に比すれば、筆勢、神(しん)無く、彩澤(さいたく)、太(はなは)だ拙なり。仍(よ)つて居士を詰(なぢ)る。居士曰く、

「前畫は則ち、無價の寶なり。後畫は百金に價する者。安(いづく)んぞ相ひ同じきを得んや。」

と。上官・諸吏、對(こた)ふること能はず。遂に二人を免す。

 荒川の弟武一は、兄の苛責(かしやく)に遇ひ、筋骨摧折(ざいせつ)するを悲しみ、居士を讎視(しうし)して之れを殺さんと欲し、密かに跡を追ひて往く。又、一酒肆に飮むを見る。躍り入つて之れを斫(き)る。衆、皆、驚き散ず。居士、牀下に朴(たふ)る。乃(すなは)ち其の首を斷じて帛に裹(つつ)み、併せて金を奪ひて去り、家に還りて兄に示す。兄、喜ぶ。帛を解へば則ち、一(いつ)の酒壜(さかどつくり)のみ。二人、愕然たり。其の金を見れば、則ち、土塊(つちくれ)のみ。武一、切齒(せつし)して右府に告ぐ。物色して之れを索(もと)む。渺として知るべからず。

 之れを久しうして門側に一醉人有り。横臥して、鼾(いびき)、雷のごとし。諦觀すれば、則ち、居士なり。急(すみや)かに之れを捕へて獄中に投ず。醒めず。𪖙々(こうこう[やぶちゃん注:鼾のオノマトペイア。])と四隣を驚かす。十餘日に至るも猶、未だ覺めず。時に右府安土に在りて將に西征せんとし、軍を率ゐて本能寺に館(やかた)す。光秀、反し、府を弑(しい)して洛政を執る。居士の仙術有るを聞き、獄を開(かい)して之れを召す。居士、漸く覺(さ)む。乃(すなは)ち、光秀の館に至る。光秀、酒を勸め、之れを饗して曰く、

「先生、酒を好む。飮むこと、幾何(いくばく)ぞ。」

と。曰く、

「量、無く、亂るに及ばず。」

と。光秀、巨盃を出して侍をして酒を盛らしめ、隨ひて飮み、隨ひて盛る。數十盃を傾く。瓶(かめ)已に罄(つ)きたり。一坐、大いに駭(おどろ)く。光秀曰く、

「先生、未だ足らざるか。」

と。曰く、

「少實する[やぶちゃん注:少しばかり満足する。]を覺ゆ。請ふ。一技(いちぎ)を呈せん。」

屛に近江八景を畫ける有り。舟、大いさ寸餘り。居士、手を揚げて之れを招く。舟、搖蕩(えうたう)として屛を出で、大いさ數尺に及ぶ。而して坐中、水、溢(あふ)る。衆、僉(み)な、惶駭(こうがい)して、袴を褰(かか)げて偕立(かいりつ)す[やぶちゃん注:一斉に立ちあがる。])。俄然として股を沒す。居士、舟中に在り。偕工(かいこう)[やぶちゃん注:「偕」は「棹(さお)」で船頭のこと。]、槳(かぢ)を盪(うごか)し、悠然として去る。之(ゆ)く所を知らず。

[やぶちゃん注:以下、原典では全体が一字下げ。]

嘗て聞く、西陣に片岡壽安なる者あり。醫を業とし、頗る仙術を好む。一道士、有り。壽菴を見て曰く、[やぶちゃん注:「安」と「菴」の違いはママ。]

「子、仙骨あり。宜(よろ)しく道を修むべし。」

と。仍(すなは)ち一仙藥を授く。大いさ棗核(なつめのみ)のごとし。之れを服すれば、身、輕く、神(しん)、爽(さう)なり。復た、穀食を念はず[やぶちゃん注:空腹にならない。]。

 一日(いちじつ)、奴(ど[やぶちゃん注:下僕。])と爭ふ。怒り、甚し。杖を以つて之れを擊つ。忽ち、道士あり。汝、俗心、未だ脱せず。道に入ること能はず。乃(すなは)ち鉤(によい)を擧げて背を打つ。服する所の仙藥、口より出づ。道士、取りて去る。是れより復た、食を貪ること、常のごとし。或いは曰く、道士は則ち、果心居士なり、と。

   *

私は実はこの屏風中の湖面へと消えて行く果心居士が、すこぶる附きで好きであるによって、そこにあるその挿絵をも以下に示しておくこととする。

 

Kasinkoji

 

なお、再利用する場合は必ず国立国会図書館デジタルコレクションの画像であることを明記されたい。]

 牢から出た果心居士は、惟任(これたふ)將軍の前に姿を現す。それは罪人としてでなしに、光秀の饗應を受けるためであつた。この席上、居士は自分から小技を御覽に入れると云ひ、八曲屛風を指して、皆さんこれを見てゐて下さい、と云つた。近江八景の中に畫かれた小さな舟は、居士の招くまゝに動き出した。舟の近付くに從つて、琵琶湖の水は室内に溢れる。席上の人は立つて著物をかゝげなければならなかつた。舟が眼前まで來た時、居士はひらりとそれに乘り、船頭は速かに漕ぎ去つた。舟は次第に退き、室内の水も屛風の中に還る。たゞ舟だけは最初の繪より小さくなり、最後に沖の一點となつた。終にはそれも見えなくなつたが、この舟の消えると同時に、果心居士の姿は再び日本に現れなかつた。――最後に水の座敷に溢れるところは「玉箒木」の中の話に似てゐる。或は果心居士得意の幻術だつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「惟任(これたふ)將軍」明智光秀のこと。彼は天正三(一五七五)年に、朝廷から惟任(これとう)を賜姓され、従五位下日向守に任官、惟任日向守となっている。但し、この「將軍」は彼が征夷大将軍に任ぜられたという怪しい風説に基づく仮の呼称に過ぎない。]

 果心居士が戰國の諸將を飜弄した模樣は、左慈が曹操を手玉に取つたのとよく似てゐる。如何なる難題を出しても更に辟易せぬ左慈を憎んだ曹操が、これを殺さうとすると、左慈は逸早く察知して逃げてしまふ。あらゆる場合、あらゆる手段を講じてどうにもならぬ左慈の存在は、日本に於ける果心居士の立場と全く同樣であつた。英雄の武力、權謀術數が何の威力も發揮し得ぬのが、左慈とか、果心居士とかいふ人達の住む世界なのである。

 

[やぶちゃん注:因みに、司馬遼太郎に「果心居士の幻術」(昭和三六(一九六一)年三月『オール読物』初出)があり、私は平成元(一九八九)年版新潮文庫の同題作品集で読んだが、私は司馬の本をこれ一冊しか持っていない(妻は持っている模様)。私は彼の「果心居士の幻術」を読んで、つまらん、としか思わなかった。私の特異な読書嗜好と作家好悪がこの一事で明らかである。]

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