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2017/02/19

小穴隆一「鯨のお詣り」(56)「遠征會時代」

 

 遠征會時代


Dainipponnzenzu_2

[やぶちゃん注:本章は本「鯨のお詣り」の中で初めて芥川龍之介とは全く関係のない小穴隆一個人の随筆として出るものである。個人的には全体的には幾分、時勢に媚びた如何にもな文章であるようにも私は感ずるのであるが、それはまた、今のダレ切った日本の「おぞましき私」の感想に過ぎぬのかも知れぬ。注する意欲も特異的にかなり失われた。悪しからず。]

 

 父は親孝行といふことはしたことのない私(わたし)に、空家になつてゐた田舍の家(いへ)を一軒殘しておいてくれた。私はその家を貰つた。さうして、これは誰も持出(もちだ)してゆきてが無つた。紙魚(しみ)の這出(はいだ)す塵が飛び散る古文書(こぶんしよ)や古新聞のきれぎれが詰つてゐる、二つの行李も貰つたのである。

[やぶちゃん注:「はいだ」の読みはママ。

「田舍の家」小穴隆一は北海道函館市生まれであるが、長野県塩尻市の祖父のもとで育った。しかし父は中山道洗馬宿(現在の塩尻市洗馬)の旧家である志村家の出であった。この田舎の家がどこを指すかはよく分らぬが、塩尻であることは間違いないように思われる。]

 家は持歸(もちかへ)ることができず何年か前の村の火事で燒失(やけう)せてしまつた。

 中の物は七八年も風にあてておいたから、鼠の小便のにほひも漸く薄れてきた。親孝行といふことはしたことのない私であつても、年をとり古いものをとりひろげて、私共の父母が生れて死んだその間(あひだ)の、時代の動きを思ひ、靜かにしてゐることば格別に樂しい。

 遠征會要領なるものも私は古行李(ふるかうり)から拾つたものであるが、私はいま別してこの遠征會について知りたいのである。私がここに書いてみようとしてゐる話は甚だ口惜しいが、昔、私が東片町(ひがしかたまち)に父と暮してゐた當時、母が動物園の話から、「あの福島中佐の馬、あれは如何(どう)してゐるかねえ。」と言つてその子供達の笑ひを買つたそれと大差のない物だ。

[やぶちゃん注:「東片町」町名だけを出して読者に判るとなれば、これは東京の地名で、駒込東片町か。現在の文京区向丘・西片・本駒込附近に相当する。

「福島中佐」日本陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「福島安正」によれば、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩士福島安広の長男として生まれ、慶応三(一八六七)年に江戸に出、『幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦』、明治二(一八六九)年には『藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学』んだ。その後、明治六(一八七三)年四月に明治政府に仕官、司法省から文官として明治七(一八七四)年に陸軍省へ移った。二年後の明治九年には七月から十月までアメリカ合衆国に「フィラデルフィア万国博覧会」への陸軍中将西郷従道(つぐみち)に随行、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では福岡で征討総督府書記官を務めた。明治二〇(一八八七)年、陸軍少佐に昇進した彼はドイツのベルリン公使館に武官として駐在し、公使西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設情報などを報告しているが、明治二五(一八九二)年の帰国に際して、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を』日本陸軍に齎したことで知られる。ここで小穴隆一の母が言っている「馬」とは、その「シベリア単騎横断」の際の馬のことである。福島の「シベリア単騎横断」については、未完ながら、こちらに詳しい解説がある。小穴隆一の以下の叙述に従うなら、この馬は幸せにも本邦に戻って動物園で余生を暮したということであろう。その動物園は伊勢雅臣氏のこちらの記事によって上野恩賜動物園であったこと、馬は一頭ではなく、三頭であったことが判る。]

 私はあと一週間たてば一寸俗用があつて、二三日の豫定で信州に行く。行けばまた福島中佐について何か若干知るてとが出來るかもしれない。

 私もまたずうつと子供のころほひに動物園でみた福島中佐の馬、小舍(こや)にしよぼしよぼとなつてゐた馬、あれは一體、あの時の馬は何歳であつたものであらう。

 

○日本地圖

明治十年の大日本(だいにつぽん)地圖

 明治十年の二月に出版されや地圖には、臺灣もまた樺太もないのである。ましてや朝鮮などがありやう筈はない。まだ頭も尻もないこの大日本地圖、富士山が最高を、信濃川が最長を示してゐる日本地圖で、私が持つてゐる物には下等小學第貮賞品の印(いん)が押されてゐるのだ。

 私共は小學校の昔、「四千餘萬の兄弟(あにおと)どもよ。」の歌を唱(うた)つた。私は母の前で、四千餘萬の兄弟どもよ。」と唱つて「おや、三千餘萬ではなかつたのかねえ、この頃は四千餘萬になつたのかねえ、といはれたこともある。然しながらまた私の女房になると、「北は樺太千島より」で、「七千餘萬の兄弟どもよ。」と習つたといつてゐる。現在支那事變この方、私はラヂオで一億の日本國民といふ言葉を聞き、六十年も昔のこの地圖を再びとりひろげてみて、丁度私共の父母が生れたあたりの時代から漲るいぶきが、如實にかんじられるのを、樂しまざるをえない。

 なほ、この地圖は十年二月十六日出版御屆(おんとゞけ)となつてゐるのであるが、御屆一日(にち)前の二月十五日といふ日は、私學校(しがくかう)の生徒が西郷隆盛を擁して鹿兒島を出發して兵一萬五千に桐野利秋、篠原國幹(くにもと)、別府晋助、村田新八等(ら)が動いてゐた時でもあるのだ。

 

 

  ○作文

  明治十年頃の兒童の作文、一例。

 

  加藤淸正

 身體長大ニシテ力(チカラ)極メテ強ク知力アリ夫(ソ)レ天下ニ高名ノ人物ニシテ始終豐臣秀吉ニ事(ツカ)ヘ戰ニ出ヅル每(ゴト)ニ偉功(ヰカウ)アリ殊ニ志津嶽(シヅガタケ)ノ戰(イクサ)ノ如キ尤モ大功(タイコウ)ヲナシ武威ヲ一世ニ輝カシ福島正則、加藤嘉明、糟谷武則、平野長泰、片桐且元(カツモト)、脇坂(ワキザカ)泰治ト共ニ志津嶽七本槍ト稱シ後世ニ英名ヲ存(ソン)シ又朝鮮征伐ノ時其勢(イキホヒ)破竹ノ如クニテ向(ムカ)フ所殊(コトゴト)ク(悉くの誤りであらう。)之ヲ破リ大功ヲ顯ハシ、實(ジツ)ニ未曾有之(ノ)豪傑ナリ然(シカ)リ而(シカウ)シテ方今(ハウコン)如此(カクノゴト)キ人物アラバ何ゾ薩賊ヲ伐(ウ)ツニ足ラン、鳴呼淸正ノ偉(ヰ)而(シカシテ)大(ダイ)ナラン哉(ヤ)

[やぶちゃん注:「方今(ハウコン)」まさに今。ただ今。]

 

 私は、この作文加藤淸正なるものは父が書いたのであると思つてゐるのだが[やぶちゃん注:「書いたのである」は底本では「書いのである」であるが、意味が通じないので、脱字と断じて特異的に訂した。]、或は他の人の物であるのかも知れぬ。父とすれば、これは父が十三歳の時の物である。私の父は信州人であり、耳學問では松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となる順序であるが、父が生れた土地といふものは元來が天領であつたやうである。

 九段の遊就館の第十一室(維新前後及(および)明治時代)には、熊本ニ於テ薩軍ヨリ投ジタル文(ブミ)として、然ルニ當縣鎭臺名義ヲ辨セズ城(シロ)ヲ閉ヂテ云々なる物が陳列されてゐるが、私には父の「加藤淸正」にも甚だ興味があるのである。私は思ふのである。當時薩摩の兒童に加藤淸正の題を與へて文章をつゞらせてゐたものならば、薩賊のかはりには如何なる言葉が現はれてゐたであらうか。

 加藤淸正を書いた父も血氣定まらぬ時代には、孤軍奮鬪圍(カコミ)ヲ衝(ツ)イテ歸ルと兵兒(へこ)の謠(うた)を愛吟してゐた筈である。私は、「敵の大將たるものは古今無双の英雄ぞ。」といふ歌を小學校で習つた。當時は漫然たゞこの古今無双の英雄ぞといふ文句が好きであつたが、今日では古今無双の英雄ぞと句が使はれてゐるその意氣がありがたいと思はざるをえない。

  ○徴兵

 明治十二年十月八日東京日日新聞掲載の寄書(きしよ)

  ○徴兵論 北總(ほくそう) 林彦兵衞

 この論文は、明治十二年の日本では、理(リ)ハ情(ジヤウ)ヲ得テ通ズル底(てい)の物であつたあらうが、今日(こんにち)に於いては全文の掲載にすこしく不安を感ずる。

[やぶちゃん注:「林彦兵衞」不詳。同一姓の通名で、千葉在の同時代の教育関係者がいるが、軽々に同一人物と比定するには、事蹟を読む限りでは不審があるので、敢えて示さない。識者の御教授を乞うものである。]

 明治十二年十月といへば既に招魂社(十二年現稱靖國神社に改む)も建てられてゐた。

 この徴兵論は、慶應三年將軍慶喜大政奉還、王政復古の大號令、慶應四年が明治元年となり、五箇條の御誓文の宣布、御(ご)卽位式、明治四年全國に四鎭臺(東京、仙臺、大阪、熊本)を置き舊藩の武士から兵を徴す。五年十二月詔(せう)して、全國徴兵の制を定められ翌六年正月徴兵令發布、といふこの今日の陸海軍之(の)制の礎(いしずゑ)をつくつた兵部大輔(ひやうぶだいすけ)大村益次郎が在京師爲兇人所成薨(けいしにありてきようじんのためにこうぜられて)から後(のち)十年の物である。男子の散髮令、取平民に苗字を呼YO)ぶことを許されてから九年、帶刀禁止令があつてから三年目、大正天皇御降誕の年の物である。さうして、これを掲げた日(ひ)の「日日」の一面には陸軍省録事(ろくじ)として○達(たつし)甲第拾六號(陸軍士官學校生徒入學檢査格例(かくれい)の續き、陸軍士官學校生徒入學心得書(しよ)等(とう)、四面公告には、志願人(にん)檢査課目が載せられてゐるが、士官學校人學願(ねがひ)のところで、

  年號何年何月何日生(うまれ)

 明治十二年十二月何年何ケ月に目をとめて數(かず)をはかると、志願人は安政四年から文久三年の間(あひだ)に生まれた人達に限られてゐて、元治(ぐわんぢ)、慶應に生れた人では未だ入學を許可される年齢に達してもゐない。さういふ今日(こんにち)から五十八年も前の時代の物であることを知る。

 私はこの林彦兵衞といふ人物については全然何も知らない。(明治の初めに働いた人達といふ者は、年は若くとも私共とは違つて、隨分圖太(づぶと)く性根(しやうね)を据ゑて事(こと)にかゝつたらしい。林彦兵衞も彼が存外若い時にこの徴兵論を書いたものとして命數のながい人であれば、八十何歳かで昭和十二年に生きてゐるかも知れぬ。)

 日本も、五十八年前の日本には林彦兵衞の徴兵論が必要であつたと思はれる。私はこの林彦兵衞の徴兵論をひろひとつて一讀した時に、日露開戰前の私共小學生の姿を再び思出した。如何(どう)いふものか當時東京の子供達の間(あひだ)にでも、君のところは士族か平民かと聞合(きくあ)ふ習慣のやうなことがあつた。私のところは平民であるから今日でもこれを忘れずにゐるのである。私は、明治十二年頃では士族對平民の感情も、どこかここ十年か前の水平社の人達の思ひにも似たものがさしはさまつてゐたのではなからうかとも思ふ。今日は今年二一歳の末弟の如き、「いまでも士族といふものがあるかねえ。」と言つてゐる次第であるが。

 明治十二年、十二年十月の東京日日新聞には、マイエツト氏日本(につぽん)公債ノ辯(べん)も連載してゐるのである。

[やぶちゃん注:「マイエツト氏」ポール・マイエット(Paul Mayet 一八四六年~一九二〇年)はドイツの政治経済学者で「お雇い外国人」教師。明治九(一八七六)年に来日し、東京医学校ドイツ語教師や農商務省調役等として活躍、公債の諸制度や統計院・会計検査院の設置に関する建議・立案のため奔走した。一八九三年に帰国した後はドイツ統計局員を務めた。「日本公債弁」(一八八〇年)等の著書を持つ(以上は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠った)。]

(マイエツト氏日本公債ノ辯カラ鈔寫(セウシヤ))

 附言――將(マ)タ千八百七十六年一月一日(ジツ)ノ計算デハ四十萬八千八百六十一名ノ士族ハ其家族トモ百八十九萬四千七百八十四人ニシテ全國ノ人口ノ十八分ノ一ニ當リ内(ウチ)十二萬ノ千八百八十一名ノ士族ニシテ元來俸祿ヲ有セス或ハ業(ゲフ)已ニ之ヲ奉還セシモノハ其家族トモ五十九萬四千零(レイ)四十二人又(マタ)二十八萬六千九百八十名ノ士族ニシテ尚ホ之ヲ有(イウ)セシモノハ其(ソノ)家族トモ百二十萬零(レイ)七百四十二人卽チ全國ノ人工二十六分ノ一ナリ(尤モ右計算ニ從ヘバ俸祿受領人ハ此外(コノホカ)ニ家族二千九百二十九人ヲ有シタル四百六十六名ノ華族ト家族三萬零(レイ)二十六人ヲ有シタル平民五百四十二名アリ但シ俸祿受領人ノ統計表ニ於テハ皆各(カク)其(ソノ)數(スウ)ヲ異(コト)ニス是レ全ク編纂ノ時日(ジジツ)同ジカラザル故(ユヱ)ニ因(ヨ)ル)――

 

 鳥羽・伏見の戰(いくさ)、上野戰爭、函館戰爭、佐賀の亂、熊本・萩の亂、西南の役、明治元年か明治十二年の間(あひだ)に日本人(につぽんじん)を敵にしてこれだけの戰(くさ)をしてゐたのでる。私は先日神戸の湊川神社に參拜した。さうして竝んで神前に額(ぬか)づく兵士の列を(うしろ)のはうからをがんだ。楠正成もなにもない。ただ神が神にお辭儀をしてゐるその姿に思はず掌(て)を合はせてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「鳥羽・伏見の戰」慶応四年一月三日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十七日)に起こった旧幕府軍及び会津・桑名藩兵と薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で、徳川慶喜の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、慶喜を擁して鳥羽・伏見で薩長軍と交戦したが、慶喜は江戸に逃げ帰った。戊辰戦争の発端となったが、旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢がここに確立した。

「上野戰爭」慶応四(一八六八)年五月十五日、江戸城無血開城を不満として江戸上野の寛永寺に立て籠もって抵抗した彰義隊を新政府軍が壊滅させた戦い。

「函館戰爭」「五稜郭の戦い」とも称する。明治元(一八六八)年から翌年にかけて箱館五稜郭を中心に榎本武揚ら旧幕臣が臨時政府を創って官軍に抵抗した戦い。榎本らの降伏によって終結し、鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はこれをもって終焉を迎えた。

「佐賀の亂」明治七(一八七四)年、征韓論争に敗れて下野した前参議江藤新平が中心となって、島義勇(しまよしたけ)の率いる憂国党と結んで佐賀で蜂起した、反政府派士族による反乱。征韓・攘夷・旧制度復古をスローガンとしたが、期待していた西郷隆盛らの応援もなく、全権を受けた大久保利通の指揮下の追討政府軍に鎮圧され、敗れた江藤・島は晒し首に処せられた。

「熊本・萩の亂」前者は明治九(一八七六)年十月に熊本に起こった反政府暴動「神風連(しんぷうれん/じんぷうれん)の乱」のこと。新政府の開明政策に不満を抱いた旧士族太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)らが結成した政治団体の「神風連」(敬神党)が、国粋主義を掲げて鎮台・県庁を襲撃したが、ほどなく鎮圧されたものを指す。後者は同明治九年、山口県の萩で前兵部大輔前原一誠(まえばらいっせい)ら不平士族が蜂起した反政府反乱。先の熊本神風連の乱や、秋月(あきづき)の乱(同年十月に福岡県秋月(現在の朝倉市)で旧秋月藩士宮崎車之助(しゃのすけ)らが起こした反乱。政府の対韓政策を批判して立ったが小倉鎮台兵に鎮圧された)と呼応して政府粛正の奏上を計画、山陰道を上京しようとしたが、政府軍に平定された。

「西南の役」西南戦争。明治一〇(一八七七)年に西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱。征韓論に敗れて帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成、政府との対立が次第に高まり、遂に私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが、政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の城山で自刃した。明治維新政府に対する不平士族の最後の反乱となった(私は維新史に興味がないため、オリジナルに記す力がない。以上の注は総て信頼出来る辞書解説に拠った)。

「湊川神社」現在の兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る明治になって創建された神社。ウィキの「湊川神社」によれば、勤皇の忠臣楠木正成は延元元(一三三六)年五月二十五日にこの湊川の地で足利尊氏と戦って亡くなった。その墓は長らく荒廃していたが、元禄五(一六九二)年に、『徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った』。慶応三(一八六七)年、『尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ』、明治元(一八六八)年、『それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ』、翌年、墓所や最期の地を含む場所を境内地と定め、明治五(一八七二)年五月に湊川神社が創建されているとある。]

 私を生んだ母の弟で、私より僅か六つだけ年長の叔父が、私共の祖父にあたるその父に、子供の時、德川家をとくがはけといつて叱られて、何故とくがはけといつては惡いかと言葉をかへすと、とくせんけと言へと毆(なぐ)られた話にも驚きはしない。私は五箇條の御誓文の宣布以後、臺灣征伐、江華島事件、朝鮮京城の變、東學黨の亂、日淸戰爭、に至るに及んで一新(しん)祖國日本(につぽん)といふ心がまへが、本當に日本人全體に漲るやうになつたと考へてかゐるのである。

[やぶちゃん注:「五箇條の御誓文の宣布」明治天皇が天地神明に誓約する形で公卿・諸侯などに示した明治政府の基本理念である「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」は慶応四年三月十四日(グレゴリオ暦一八六八年四月六日)に布告された。

「臺灣征伐」第一次「台湾出兵」、「征台の役」とも称する。明治四(一八七一)年に台湾に漂着した琉球島民五十四人が殺害された事件及び明治六年に岡山県の船員が略奪されたことを理由に清政府に犯罪捜査を要請したところ、清政府はこれを「台湾人は化外の民(統治から遠く離れて支配の力が及ばない人民、未開人・野蛮人といった蔑視的ニュアンスをも含む語)で清政府の責任範囲にない(清政府が実効支配してない管轄地域外での)事件)」として拒否、責任を回避したことから、当時、征韓論を唱えて大陸進出を画策していた外務卿副島種臣らが、明治七(一八七四)年、明治政府が台湾への犯罪捜査名目で出兵した事件を指す。政府は大規模な殺戮事件であったことから警察ではなく軍を派遣したと称したが、日本軍が行った最初の海外派兵となった。

「江華島事件」明治八(一八七五)年九月、日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が朝鮮の江華島付近に進入、砲撃されたため、これに対して砲台を撃破した事件。これを理由として維新後間もなかった明治政府は欧米列強に倣うやり方で朝鮮政府に迫り、鎖国政策をやめさせ、翌年二月には不平等条約である「日朝修好条規」を結ばせて朝鮮半島侵略の手懸りとしたのであった。

「朝鮮京城の變」朝鮮国の京城(日本統治時代のソウルの名。但し、この時点で朝鮮は独立国であり、ここは「漢城」といった)で起った一八八二年(明治十五円相当)の壬午事変(興宣大院君らの煽動を受けて漢城に於いて大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃(みんぴ/びんぴ)一族の政府高官・日本人軍事顧問・日本公使館員らが殺害されて日本公使館が襲撃を受けた事件)、一八八四年(明治十七年相当)の甲申政変(漢城で発生したクーデター事件。開化派(独立党)の金玉均・朴泳孝らが朝鮮独立と政治改革を掲げて日本政府の援助を受けて王宮を占領したものの、二日後に清の武力干渉によって失敗した)という二つの排日運動を背景とした事件の総称であるが、近年は使用されなくなった。

「東學黨の亂」「甲午農民戦争」とも呼ぶ。一八九四年(明治二十七年相当)に起こった朝鮮歴史上最も大規模な農民蜂起。この事件を端緒として、清の勢力を排除し、朝鮮を支配下におくことを画策していた日本政府は公使館警護と在留邦人保護の名目によって大軍を繰り出し、「日清戦争」を引き起こすこととなった。以下、小学館「日本大百科全書」の馬渕貞利氏の解説を引く(読みを概ね除去した)。『当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた』、一八九〇『年代の初めには干魃が続いて未曽有の飢饉に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった』。五『月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り』、五『月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約』・六月十日)。『全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや』、一八九四年(明治二十七年)七月二十三日、『王宮を占領し、親日政府を組織させた』。『清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは』十月『なかばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は』二十『万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年』一月、農民軍は壊滅、全準は三月末にソウル(京城)で処刑された、とある。

「日淸戰爭」明治二七(一八九四)年八月から翌年にかけて、日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は宗主権を主張する清国と対立、前述の甲午農民戦争を機に両国が朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃して開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、一八九五年四月に下関で講和条約を締結した(私は近代史に不学であるため、オリジナルに記す力がない。以上の注は総て信頼出来る辞書解説に拠った)。]

 

  ○遠征會

   遠征會要領

 本會ハ福島安正氏ノ單騎遠征ノ偉業ヲ表彰シ後進者ヲシテ氏(シ)カ餘風ニ起(オコ)ラシムルノ目的ヲ達センカ爲メ信濃人(シナノジン)若クハ信濃ニ關敬係アル有志者(シヤ)ヨリ義金(ギキン)ヲ募リ單騎遠征獎學資金トスルノ主旨ニシテ爾來幸(サイハヒ)ニ賛同者ノ衆(オホ)キヲ加フルニ至レリトイエドモ醵金(キヨキン)猶未タ少額ナルヲ以テ益々同志ヲ得ルコトニ黽勉(ビンベン)シ居レリ。

[やぶちゃん注:「黽勉(ビンレイ)」「僶俛」とも書く。務め励むこと。精を出すこと。]

 然ルニ熟々(ツラツラ)宇内(ウダイ)ノ形勢ヲ察スルニ今ヤ歐洲列國強國ノ勢力東亞ヲ凌壓(リヨウアツ)スルノ狀(サマ)日(ヒ)ニ甚シキニ至レリ之カ對抗ノ策ヲ講スルハ實(ジツ)本邦人(ホンパウジン)ノ須臾(シユユ)モ忽(ユルガセ)ニスヘカラサルノ秋(トキ)ナリ必竟福島氏ノ先(マ)ツ亞細亞大陸遠征ノ偉業ヲ立テラレルモ其意蓋(ケダ)シ玆(ココ)ニ在(ア)ラン斯(カク)ノ如キ危殆(キタイ)ノ狀勢ナルヲ以テ嚮(サキ)ニ本會カ主旨トシタルトコロノ學生ヲ養成スル目的ヲ以テ進ンテ探檢ヲ繼カシメント欲ス仍(ヨツ)テ單騎遠征彰功會(シヤウコウクワイ)ヲ改テ遠征會ト稱ス

 今ヤ遠征ノ事ニ從フヤ先(マ)ツ東亞及び南洋各邦(カクハウ)ノ實況ヲ視察シ之カ研究ヲ爲サヽルベカラス故ニ西比利亜(シベリヤ)、滿洲、支那(シナ)、及南洋諸島ニ着手シ進ンテ西亞諸邦(セイアシヨハウ)ニ及ホシ之カ探檢ヲ爲サシムヘシ

 此撰ニ充(アツ)ルモノ士ハ信濃人(ジン)ニシテ勇敢堅忍艱辛(カンシン)ヲ甞(ナ)メ冒險之レ事(コト)ニ堪ユヘキ軀幹(クカン)學識アル者ヲ要ス然シテ本會ハ之ニ適當ナルヘキモノヲ得ルニ於テ既ニ望ムトコロノモノアルアアリ

 前段ノ目的ヲ達セントスルニハ最も幾多ノ金額ヲ要ス依ツ近クハ信濃人若クハ信濃ニ關係アル者ニ就キテ同志ノ義金ヲ募リ又他(タ)ノ地方人ト雖モ此旨趣(シシユ)ヲ賛成セントスルモノハ之ニ應スヘシ

 

  明治廿六年十一月  遠征會

 私は今日(こんにち)この面白さうな遠征會についてその詳細を知りたいと思ふのである。私には祖父志村巖(いはほ)が義金(ぎきん)金(きん)三圓以上の寄附と、その所掌(しよしやう)村内(そんない)で凡(およそ)金貮拾圓以上の募集方(かた)、この二つを遠征會委員から冀望(きぼう)されていたまでしかわかつてゐない。遠征會委員は伊藤大八、今村淸之助、石塚重平(いしづかぢうへい)、原卓爾(はらたくじ)、大濱忠三郎、小笠原久吉(ひさきち)、田中平八、辻新六、中村彌(や)六、山田莊(そう)左衞門、丸山名政(なまさ)[やぶちゃん注:読点ナシ。]牧野毅(たけし)、皆川(みながは)四郎、兩角(もろずみ)彦六。事務所は東京市神田一ツ橋通町(とほりまち)廿一番地にあつたのである。

[やぶちゃん注:「冀望」「希望」に同じい。

「伊藤大八」(安政五(一八五八)年~昭和二(一九二七)年)は政治家・実業家。帝国議会衆議院議員を五期務めている。長野県下伊那郡上殿岡村(現在の飯田市上殿岡)生まれウィキの「伊藤大八」を参照されたい。

「今村淸之助」(嘉永二(一八四九)年~明治三五(一九〇二)年)は実業家。信濃国伊那郡出原村(現在の長野県下伊那郡高森町)生まれウィキの「今村清之助」を参照されたい。

「石塚重平」(安政二(一八五五)年~明治四〇(一九〇七)年)は衆議院議員。信濃国北佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)生まれウィキの「石塚重平」を参照されたい。

「原卓爾」不詳でるが、恐らく、佐原六良氏の論文「諏訪市湖南地 区南真志野の教育」(PDF)に出る、明治七(一八七四)年一月二十五日附『筑摩県吏原卓爾の巡視の際に提出した届書』(筑摩県は明治四(一八七一)年に飛騨国及び信濃国中部・南部を管轄するために設置された県。現在の長野県中信地方・南信地方及び岐阜県飛騨地方と中津川市の一部に相当する)とある役人と同一人物と考えられる。

「大濱忠三郎」(明治四(一八七一)年~大正一四(一九二五)年)相模国(神奈川県)生まれ。東京専門学校(早稲田大学の前身)英語本科卒後、家業の洋糸織物商を継いだが、横浜市議・同議長・神奈川県議などを経、大正九(一九二〇)年から衆院議員に当選(二回)、また、横浜生命保険社長・横浜倉庫取締役・横浜取引所理事長・神奈川県農工銀行取締役などを務めた(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「小笠原久吉」不詳。同名人物が複数いるが、軽々に比定出来ない。

「田中平八」(天保五(一八三四)年~明治一七(一八八四)年)は信濃生まれの実業家。開港後の横浜で「糸屋」と称して生糸を売り込み、洋銀売買などで活躍、「天下の糸平(いとへい)」と称された。維新後は洋銀相場会所・田中銀行などを設立した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「辻新六」不詳。

「中村彌六」(安政元(千八百五十五)年~昭和四(一九二九)年)は林業学者で農商務官僚・政治家。日本における林学博士第一号で、原敬首相を暗殺した犯人中岡艮一(こんいち)の大叔父に当たる。信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者中村元起二男として生まれた。中村家は代々高遠藩藩儒の家柄であった。詳しくはウィキの「中村弥六」を参照されたい。

「山田莊左衞門」(嘉永四(一八五一)年~大正六(一九一七)年)は政治家。信濃東江部(ひがしえべ)村(現在の長野県中野市)の大地主の息子として生まれた。十二代荘左衛門を襲名、北信商社の創立に参画、明治一三(一八八〇)年に県会議員、明治二十三年には貴族院議員、明治三十一年には衆議院議員となった。

「丸山名政」(安政四(一八五七)年~大正一一(一九二二)年)は政治家・官僚で実業家。信濃国須坂藩家老丸山兵衛次郎本政長男として江戸藩邸で生まれた。明治法律学校(明治大学の前身)卒業後、内務省地理局勤務を経て、自由民権運動に入り、嚶鳴社員として立憲改進党結成に参画、東京横浜毎日新聞記者・下野新聞主筆などを務めた後、明治一八(一八八五)年に代言人(現在の弁護士)となった。第二回・第八回の衆議院議員総選挙に当選、実業家としては日本証券株式会社社長・松本瓦斯株式会社取締役など、多くの会社の経営に参画、明治三六(一九〇三)年~明治三十八年には東京市助役も務めている(ウィキの「丸山名政」に拠った)。

「牧野毅」(弘化元(一八四五)年~明治二七(一八九四)年)は陸軍少将・大阪砲兵工廠提理(「主任」相当)。近代日本の砲兵術・製鉄事業の先駆けの一人。信州松代藩士大島規保次男として生まれた。ウィキの「牧野毅」を参照されたい。

「皆川四郎」(嘉永五(一八五二)年~明治四四(一九一一)年)は実業家。信濃国伊那郡中村(現在の長野県飯田市)の岩崎家に生まれたが、飯田城下の皆川家の養子となったウィキの「皆川四郎」によれば、『維新後に上京し、安井息軒に師事した後、代言人となったが実業界に転身する。渋沢栄一夫人の妹と結婚し、第一銀行に入行し、石巻支店長を経て、東京電灯会社支配人となる。また株式会社化した東京歌舞伎座』(第二期)を創立、明治三一(一八九八)年の第五回衆議院議員総選挙に長野県第七区から出馬し、当選している。

「兩角彦六」(慶応元(一八六五)年~明治四一(一九〇八)年)は信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)に諏訪藩士の子として生まれた、司法官僚・弁護士で衆議院議員。ウィキの「両角彦六」から引く。明治一七(一八八四)年に『司法省法学校予科を修了』後、明治二十一年には『東京帝国大学法科大学を卒業した』。『判事試補、司法省参事官試補、宮城控訴院書記長、函館地方裁判所判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事を歴任』したが、明治二六(一八九三)年に『退官し、弁護士を開業した』。また、『和仏法律学校(現在の法政大学)の理事兼講師、明治法律学校(現在の明治大学)講師、専修学校(現在の専修大学)講師を務めた』。明治三五(一九〇二)年の第七回『衆議院議員総選挙に出馬し、当選』。第八回の同『総選挙でも再選を果たし』ている。]

 福島安正氏單騎遠征ノ偉業ヲ繼キ且(カツ)時勢忽(ユルガ)セニスヘカラサルヲ感シ東亜及南洋諸島探檢ノ事業ヲ企圖致シ候(サフラフ)遠征會については、全く私も人にこれを聞かなければならぬのである。私がいまたまたま手廻りにあつた明治二十七年一月十二日の信府日報(しんぷにつぱう)に、林政文(はやしまさぶみ)氏の出發今囘亞細亞大洲(だいしう)の跋渉(ばつせふ)を試むる長野町(まち)なる林政文(はやしまさぶみ)氏(松本町田生)は愈々來る十四日を以て長野を出發することに定めしといふ雜報記事を發見して、遠征會を結びつけて考へなぞしてゐる有樣(ありさま)である。

[やぶちゃん注:「信府日報」『信陽日報』が明治二四(一八九一)年に改称して出来た地方紙であるが、これが松本に於ける政党系新聞の走りとされている。東京経済大学山田晴通氏の講演記録「戦前における松本の日刊新聞-ユタ日報と同時代の小さな新聞を読む-」に拠った。

「林政文」現在、金沢に本社を置く「北国(ほっこく)新聞」の第二代社長林政文(明治二(一八六九)年~明治三二(一八九九)年)か。この人物も信州出身である。]

 

Hukusimayasumasa

 

(福島中佐の寫眞は手札(てふだ)型の物。裏面(りめん)に福島安正君松本彰※會(しやうくくわい)之印あり、□印(じるし)のところの文字は肉のつきわるく讀難(よみがた)し。私の父が持つてゐた物。(福島中佐の單騎遠征は明治二十五年である。)

[やぶちゃん注:「※」の部分は「」(太字ママ)の中に太字の「」の字が書かれた活字。このためにわざわざ活字を彫ったものと思われる。後の後の「□印のところ」とは「※」の部分を指す。「讀難し」と言っている割にはちゃんと示している。]

 座右の百科辭典に依れば、福島中佐は、

 福島安正(一八五二―一九一九)軍人嘉永五年信州松本に生る。慶應元年十四歳にして江戸に出(いで)て、講武所(こうぶしよ)に入りてオランダ典式を學び、後(のち)、大學南校に學んだが、家貧にして資給せざりしため學費を得る能はず故に私塾の教員となり或は身を林信立(はやしのぶたつ)、江藤新平等(ら)の家(いへ)に寄せて慘憺たる苦學を重ねた。江藤はその才氣の非凡なるを認めて明治二年司法省十三等(とう)出仕に補(ほ)したが七年陸軍省に移つて十一等出仕となつた。西南戰役には征討軍筆記生として從軍し、平定の後(のち)陸軍中尉に任ぜられ明治二十年少佐にて在ドイツ公使館武官に補せられ、二十五年任滿ちて歸朝するに當り單騎ベルリンを發し、露都(ろと)を過ぎウラルを越え、シベリヤより蒙古に入(い)り、再びシべリヤに歸り、黑龍江の氷上を渡つて滿洲に入り三度(たび)旦シべリヤを通つて二十六年六月浦鹽(うらじほ)に着いて歸朝したが、この壯擧により彼の名は内外に喧傳(けんでん)し、明治天皇 は勳三等を賜り、その壯擧を嘉賞(かしやう)し給ひ、國民また歡呼(くわんこ)して、彼を迎へた。その後(ご)幾度(いくたび)か歐亞を旅行して足跡殆ど世界の半ばに亙り、十箇國以上の語に通じ、軍部第一の地理學者と称せられた。日淸戰爭には參謀として出征、三十三年の北淸事變には少將を以て最初の日本(につぽん)軍司令官として出征、日露戰爭には滿洲軍參謀として出征して功あり三十九年參謀次長に補せられ、七月中將に進み四十年男爵を授けらる。四十五年四月關東都督に任ぜられ、大正三年九月十五日大將に進むとともに後備役(こうびえき)に入り八年二月十九日六十八歳で歿す。

――である。

 私は小學校の昔、福島中佐萬歳萬歳萬々歳(ばんばんざい)といふ唱歌を知つてゐた。悲しい哉、今日その唱歌も萬歳萬歳萬々歳といふところだけしかの記憶になつてしまつた。のみならず單騎遠征は日淸戰爭の二年前であるべきに、日露戰爭の二年前とまでも誤つて考へてゐたほどの盲(めくら)になつた。私の網膜に映るのはただ昔(むかし)上野の動物園でみた福島中佐の馬(中佐を乘せて西比利亞(シベリヤ)を橫斷してきた馬、)偶然松本に行つてゐてみてみた福島中佐の歸省姿(私の見たのは福島大將)である。

 明治二十七年一月十二日の信府日報には又郡司大尉一行の近況が掲載されてゐる。寫して備忘としておきたい。

[やぶちゃん注:「郡司大尉」郡司成忠(万延元(一八六〇)年~大正一三(一九二四)年)は海軍軍人で探検家・開拓者。海軍大尉を退いて予備役となり、一民間人として千島を目指すことにした。開拓事業団「報效義会」を結成して北千島の探検・開発に尽力した。小説家幸田露伴は弟である。彼の事蹟の詳細はウィキの「郡司成忠」を参照されたい。]

   ○郡司大尉一行の近況

 千嶋の占守(しゆむしゆ)、シャシコタン、擇捉(えとろふ)へ分住(ぶんぢう)して越年の準備中なりし那司大尉一行の近狀を聞くに占守嶋(しゆむしゆたう)なる大尉外七名は最初より食料の準備充分なる上相應の獲物(えもの)あり又シャシコタン島(たう)なる一團も食料は前程には充分ならざれど獲物も隨分多ければ孰れも心配無かるべし又擇捉嶋(えとろふたう)なる大尉一行の家族百餘人は各所に散在し居りしも最早冱寒(ごかん)の候(こう)に向ひたれば留別(るべつ)と紗那(しやな)との二箇所に集合する事となり留別の方は獨身者二十五人紗那の方は其他の八十餘人なり同島(どうたう)には豫(かね)て食料として米百四十俵の用意ある上に有志者の寄附金にて買入れたる米五百九十俵幷に海軍部内より寄附の米五十五俵も到着したれば都合七百八十五俵の米あるのみならず此百餘名の内には乳兒凡そ七八十人位(ぐらゐ)もある事ゆゑ食物は最早充分にして本年の初航海には占守(しゆむしゆ)へ向け其内の四十俵を送致する見込なるよし左(さ)れば各嶋(かうたう)とも目下(もくか)は航海の便(べん)杜絶して其後の狀況を知るに由なきも食料にして已に充分なれば孰れも無事に此寒氣を過ごすべしと云へり。

[やぶちゃん注:「占守」千島列島北東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ロシア名はシュムシュ島(Шумшу)。ウィキの「占守島より引く。『サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある』。『元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる』。『島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている』。『南西から北東へ約』三十キロメートル、幅は最大で二十キロメートルの『大きさで、全体的に楕円形の島である。北東のカムチャツカ半島のロパトカ岬とは千島海峡』に、西の幌筵(ほろむしろ/ぱらむしる)島とは『幌筵海峡』によって『隔てられている』。『島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある』。海抜二百メートル『くらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。草原にはかつて日本人の住居があったが、現在は何も残っていない』。『現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない』。リンク先の「歴史」の項に、ここに記されてあるように、明治二六(一八九三)年八月三十一日に郡司成忠が創立した開拓事業団「千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)」の会員がこの島に上陸して越年している、とある。

「冱寒(ごかん)」「冱」は「凍る」の意。凍り閉ざされるほどの激しい寒さを指す。

「留別(るべつ)」留別村。ウィキの「留別村によれば、『現在の北海道根室振興局択捉郡に属する村』であるはずで、『村名の由来は、アイヌ語のル・ペッ(道・川)からで、日本で最も面積の広い村である』。但し、ロシア連邦が占領、実効支配中である。択捉島の凡そ西半分に相当する地域。

「紗那(しやな)」紗那(しゃな)村。択捉島中央に位置し、明治期の択捉島では最も栄えた地域であった。]

 

 追記。私はこの遠征會時代を書いた後で、雜誌明治文化に、田邊尚雄(ひさを)氏の「明治年間の亞細亞探檢紀行」が掲載されてゐるのを知つた。また明治廿六年十月に發行された、畫工(ぐわこう)香朝樓國貞(かうてうろうくにさだ)となつてゐる。單騎旅行福島中佐軍歌壽語祿(すごろく)と昭和十四年東亞協會發行の福島將軍大陸征旅(せいりよ)詩集も購(あがな)つた。明治廿九年の文藝俱樂部にある須藤南翠の小説今樣水鏡(いまやうみづかゞみ)は――千萬年の後(のち)までも印度洋(いんどやう)とやらを通る人は玆(こゝ)で日本帝國の軍艦畝傍(うねび)號が沈沒した其折には乗組一同潔よく隊を整へ色(いろ)も變らず溺死したと言ふであらう其隊長こそ我良人(をつと)海軍大尉波多忠澄(はたたゞすみ)と名は知らぬまでも自然に名譽となる譯柄(わけがら)其妻が未練に‥‥アヽ此上は紀念兒(きねんじ)の巖(いはほ)を我が力(ちから)で育上(そだてあ)げ良人(をつと)に勝(まさ)るとも劣らぬやうな海軍士官に――といふやうな、波多忠澄の妻を書いてゐるのではあるが、それに絡む惡漢有賀泰介(ありがたいすけ)は月並として、久兵衞巖(いはほ)を座敷に密(そつ)と下(おろ)しサア坊樣(ぼうさま)今御覽なすツた福島中佐の油繪のお話しをなさいまし坊樣も今に彼の通りにお成なさるのです、のあたりは大佐に進級してしまつてゐる福島安正の目に觸れたものなのであらうかなどと思ひもするのである。

[やぶちゃん注:「明治文化」吉野作造を中心に大正十三(一九二四)年に結成された歴史研究団体「明治文化研究会」(めいじぶんかけんきゅうかい)の機関誌『新旧時代』(のち『明治文化研究』と改題)の別称。

『田邊尚雄氏の「明治年間の亞細亞探檢紀行」』不詳。同姓同名で知られた東洋音楽学者がいるが、内容的に彼とはちょっと思われない。識者の御教授を乞う。

「明治廿六年」一八九三年。

「香朝樓國貞」浮世絵師三代目歌川国貞(嘉永元(一八四八)年~大正九(一九二〇)年)。「香朝樓」は号の一つ。

「昭和十四年」一九三九年。本書刊行の前年。

「須藤南翠」(安政四(一八五七)年~大正九(一九二〇)年)は伊予(愛媛県)出身の小説家。改進党系の政治紙『改進新聞』などに発表した政治小説で文名をあげ、後に『大阪朝日新聞』」に招かれた。事蹟はウィキの「須藤南翠がよい。

「今樣水鏡」明治二九(一八九六)年二月十日発行の『文藝俱樂部』(第二巻第三編)。署名は南翠外史(日本近代文学館編「文芸倶楽部明治篇総目次・執筆者索引」に拠る)。私は未読。読みたくも、ない。

「軍艦畝傍」大日本帝国海軍の防護巡洋艦で、フランスで建造された最初の日本海軍軍艦。明治一九(一八八六)年十月に完成、日本に回航される途中、同年十二月上旬、シンガポール出発後、行方不明となった。フランス人艦長ルフェーブル、飯牟礼(いいむれ)俊位(「としひら」と読むか)海軍大尉以下の日本海軍将兵及び駐日フランス人家族合わせて全乗客乗員計九十名の消息は未だ不明とウィキの「畝傍防護巡洋艦にある。

「波多忠澄」不詳。須藤南翠の創った仮想人物か?

「紀念兒」形見の嬰児の謂いか。

「巖(いはほ)」その忘れ形見の男の子の名前であろう。

「久兵衞」波多家の老僕か。直系親族の台詞とは一寸思われない。

「大佐に進級してしまつてゐる福島安正の目に觸れたものなのであらうかなどと思ひもするのである」実に下らんことを気にするところは実に小穴隆一らしいと思う。]

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