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2017/02/26

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の夜宴」

 

 天狗の夜宴

 

 どこの飛脚であつたか、二人連れで箱根を踰えようとした時、寂然たる夜更けの山上に當り、何か人聲が聞える。不審に思ひながら行くうちに、路傍に幕を打ち𢌞してあるところに出た。中は數人群宴の體で、或は舞ひ、或は歌ひ、或は賑かな絃聲が聞える。路は幕に遮られて進むことが出來ないので、二人は相談の上、幕の中に向つて、急ぎの者でございます、何卒こゝをお通し下さい、と聲をかけた。幕の中から聲がして、通りなされい、といふ。恐る恐る幕の中に入つた(と思ふと、今まであつた幕は忽ち消滅し、笑語も歡聲も絶えて、物音もない深山の中に立つて居つた。二人は驚いて走り過ぎたが、暫く來れば、絃歌人聲またもとの如くである。振り返つて見ると、最初の通り幕が張られてゐる。二人は益々驚き、飛ぶが如く走り續けて、漸く人家のあるところへ出た。世にいはゆる天狗なる者がこれであらう、といふことになつてゐる(甲子夜話)。

[やぶちゃん注:「踰えよう」「こえよう」。越えよう。

 以上は「甲子夜話卷之廿三」の十条目の「飛脚、箱根山にて怪異に逢ふ事」である。以下に示す。「闌」は「たけなは」(ここは深夜の意)、「交起り」は「こもごもおこり」、「故」は「もと」(元)、「疾行」は「とくゆき」と読む。「顧望すれば」は私は「かへりみすれば」と訓じたい。

   *

何れの飛脚か二人づれにて箱根を踰けるとき、夜闌に及びひとしほ凄寥たる折から、山上遙に人語の喧々たるを聞く。二人不審に思ひながら行くに、程なく山上の路傍、芝生の處に幕打𢌞し、數人群宴の體にて、或は酔舞、或は放歌、弦聲交起り、道路張幕の爲に遮られて行こと能はず。二人相言て曰。謁を通じて可ならんと。因て幕中に告ぐ。幕中の人應て云ふ。通行すべしと。二人卽幕に入れば幕忽然として消滅し、笑語歡聲も絶て寂々たる深山の中なり。二人驚き走行くに、やゝありて弦歌人聲故の如し。顧望すれば幕を設くること如ㇾ初。二人益々驚き、疾行飛が如くにしてやうやく人居の所に到りしと。これ世に所謂天狗なるものか。

   *]

 鎌倉圓覺寺の誠拙和尚が、南禪寺の招きによつて上京し、暫く逗留して居つたが、その時寓居の院は、南禪寺の山中でも嶮しい峯の下に在つた。然るに和尚の逗留中、晴れて月のいゝ晩などには、時時深更に及んで、峯頭に數人で笛を吹き、太鼓を鳴らし、歌舞遊樂の聲が何時間も聞える。この峯頭は尋常人の至るところでないから、初めのうちは從者なども怪訝に堪へなかつたが、一山中の故老の話によれば、昔からこの山中に吉事がある時は、必ず峯頭に歌舞音曲の聲が聞える、これは守護神が歡喜するのである、といふことであつた。守護神は卽ち天狗である。「甲子夜話」はこの話の末に「印宗和尚話」の五字を註してゐる。

[やぶちゃん注:「誠拙和尚」誠拙周樗(せいせつしゅうちょ 延享二(一七四五)年~文政三(一八二〇)年)は伊予生まれの傑出した臨済僧で歌人としても知られた。円覚寺の仏日庵の東山周朝に師事し、その法を継ぎ、天明三(一七八三)年に円覚寺前堂首座に就任した。書画・詩偈も能くし、茶事にも通じ、出雲松江藩第七代藩主で茶人としても知られた松平不昧治郷とも親交があった。香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。文政二(一八一九)年に相国寺大智院に師家として赴任したが翌年、七十六で示寂した。(以上は思文閣の「美術人名事典」及びウィキの「誠拙周樗に拠った)。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五年上になるが、同時代人である。

「印宗和尚」不詳。明山印宗という法力抜群の禅僧がいるが、誠拙周樗より前の人物であるから、違う。

 以上は「甲子夜話卷之六十四」の三条目、「南禪寺守護神」である。東洋文庫版を参考に、恣意的に正字化して以下に示す。後半の漢文部分は訓点を除去したもの(句読点は残した)をまず示し、後に〔 〕で訓点に従って(一部に訓点の脱落が疑われるところがあり、そこは参考底本のそれに従わずに訓読し、また句読点はオリジナルに変えて増やしてある)書き下したもの(一部に推定で読みを歴史的仮名遣で附し、送り仮名の一部や記号もオリジナルに加えた)を示した。特に「自爾」の箇所は参考底本では「自ㇾ爾となっているが私は全く従わずに二字で「おのづから」と読んだ)。「淹留」は「えんりう(えんりゅう」と読み、長く同じ場所に留まること、滞在の意。「頻」は「しきり」と読む。二箇所の「ノ」はママ。【 】は原典の割注。参考底本では漢文の末に鍵括弧閉じる配されて、本文が続くが、改行した。

   *

享保辛酉[やぶちゃん注:享保年間に辛酉(かのととり)の年はない。享保二(一七一七)年丁酉(きのととり)或いは享保六(一七二一)年辛丑(かのとうし)の誤りであろう。]の夏、鎌倉圓覺寺の誠拙和尚、京都南禪寺の招に依て上京淹留す。このとき寓居の院は、南禪の山中嶮峰の下に在り。然るに和尚淹留中、晴天月夜などには、時々深更に及び峰頂にして數人笛を吹き、鼓を鳴し、歌舞遊樂の聲頻なること數刻。この峰頂は尋常人の至る處にあらず。因て初は從徒もあやしみ驚きたるが、山中の古老曰ふには、この山中、古代より吉事ある時は、必ず峰頂に於て歌舞音曲の聲あり。これ守護神の歡喜する也と。守護神は天狗なりと言傳ふ【印宗和尚話】。

『高僧傳』云。正應間、龜山上皇在龍山離宮、妖怪荐作、妃嬪媵嬙屢遭魅惑。上皇大惡之、乃集群臣議其事。僉曰。此地妖怪聞之久矣。非佛法力、決不可治。於是命南北高德。百計無效。時西大睿尊律師有戒行譽。勅棲宮闈。尊率沙門二十員、晝夜振鈴誦咒。至三閲月。而妖魅尚驕、投飛礫於護摩壇。尊不辭而退。群臣奏門德望【釋普門號無關。東福ノ開山聖一國師ノ弟子。逝年八十。嘉元間、勅諡佛心禪師。元亨三年、加賜大明國師】。乃召下宮。且宣曰。卿能居乎。門奏曰。妖不勝德。世書尚有之。況釋氏乎。釋子居之。何怪之有。上皇壯其言、勅有司俾門入宮。門但與衆安居禪坐、更無他事。自爾宮怪永息。上皇大悦、乃傾心宗門、執弟子禮、習坐禪受衣鉢。因革宮爲寺。雖梵制未備、特勅門爲開山始祖。後來伽藍具體。號三太平興國南禪禪寺。

〔『高僧傳』に云く、正應の間、龜山の上皇、龍山の離宮に在(おは)すに、妖怪、荐(しきり)に作(なし)て、妃嬪媵嬙(ひひんようしやう)、屢(しばしば)魅惑に遭ふ。上皇大(おほい)に之れを惡(にく)み、乃ち、群臣を集めて其の事を議す。僉(みな)曰く、「此の地の妖怪、之れを聞くこと久し。佛法の力に非ずんば、決して治むべからず。」と。是に於いて南北の高德に命ず。百計、效(かう)、無し。時に西大睿尊(えいぞん)律師、戒行(かいぎやう)の譽(ほまれ)有り。勅して宮闈(きうゐ)に棲(す)ましむ。尊、沙門(しやもん)二十員を率(ひき)ひ、晝夜、鈴を振り、咒(じゆ)を誦(とな)ふ。三たび月を閲(み)るに至る。而れども、妖魅、尚ほ驕(おご)り、飛礫(とびつぶて)を護摩壇に投ず。尊、辭せずして退(しりぞ)く。群臣、門の德望を奏す【釋の普門、無關と號す。東福の開山聖一國師の弟子。逝(ゆけ)る年、八十。嘉元の間、勅して佛心禪師と諡(おくりな)す。元亨三年、加へて大明國師と賜ふ】。乃(すなは)ち下宮に召し、且つ、宣(せん)して曰く、「卿(けい)、能く居(をら)んや。」と。門、奏して曰く、「妖は德に勝たず。世書(せいしよ)にも尚ほ之れ有り。況んや釋氏をや。釋子、之れに居(を)る。何の怪か、之れ、有らん。」と。上皇、其の言を壯(さう)とし、有司(いうし)に勅して門をして宮に入らしむ。門、但だ、衆と安居禪坐(あんごぜんざ)し、更に他事(たじ)無し。自爾(おのづから)、宮怪、永く息(や)む。上皇、大いに悦び、乃(すなは)ち、心を宗門に傾け、弟子の禮を執り、坐禪を習ひ、衣鉢(いはつ)を受く。因りて宮を革(あらた)め、寺と爲(な)す。梵制、未だ備はらずと雖も、特に勅して、門、開山(かさん)・始祖と爲す。後來(こうらい)、伽藍(がらん)體(てい)を具(そな)ふ。「三太平興國南禪禪寺」と號す。〕

然れば怪此時より有しなり。今は還て穩なるは太平の號、由る所あり。

   *

亀山天皇が譲位して上皇となったのは文永一一(一二七四)年一月で、彼は嘉元三(一三〇五)年に亡くなっているので、その間の出来事となる。文中の「妃嬪媵嬙」は皇后の次席が「妃」でその次が「嬪」、以下、「媵」「嬙」と続くが、これは一般に女官級である。「睿尊」(建仁元・正治三(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)「叡尊」とも書く。律宗僧。大和の出身。当初は密教を学んだが、後に戒律復興を志して奈良西大寺を復興。蒙古襲来の際には敵国降伏を祈願して神風を起こしたと伝えられる。貧民救済などの社会事業を行い、また殺生禁断を勧めた。「宮闈」は宮中で后妃の居所。後宮。「釋の普門、無關」は臨済僧大明国師無関玄悟(むかんげんご 建暦二(一二一二)年~正応四(一二九二)年)。信濃出身で「南禅」と号した。京の東福寺の円爾(えんに)の法を継いだ。建長三(一二五一)年宋に渡海、断橋妙倫の印可をうけて十二年後に帰国、後に東福寺三世となった。ここに書かれている通り、亀山上皇の離宮に出る妖魅を鎮めたことから、その離宮を改めて創建したこの南禅寺の開山として招かれた。「普門」は房号。「壯」は「強いこと」。「有司」は役人。]

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