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2017/02/21

小穴隆一「鯨のお詣り」(83)「又三郎の學校」

 

 又三郎の學校

 

 四十年も前の事である。母に死なれた子供達はその父に連れられて函館から祖父が住む信州に、倅(せがれ)に後添(のちぞへ)が出來た、孫共は祖父に連れられて再び函館の倅へといつた次第で、そのをりの私の祖父の長帳(ながちやう)に綴ぢた道中記には確か松島見物の歌などもあつた筈ではあるが、東北の人に東北は始めてですかと聞かれれば、始めてですと答へるよりほかにないその東北に、物の一つ一つが珍しい旅をすることができた。尤も私が步いたのは單に花卷(はなのまき)、盛岡、瀧澤の範圍だけである。

[やぶちゃん注:「長帳」主に近世の商人(あきんど)が営業用に用いた帳簿の一つ。その形式。

「瀧澤」現在の岩手県の中部に位置する滝沢市。盛岡市の北西に接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 私は最近坪田讓治から宮澤賢治といふ名を始めて聞いた。書店は私に宮澤賢治全集、宮澤賢治名作選、註文の多い料理店等(など)の本を呉れた。また賢治の會(くわい)といふものが、東京から盛岡にかけて幾箇(いくつ)かある事も聞かされた。

[やぶちゃん注:「宮澤賢治全集」文圃(ぶんぽ)堂版全三巻本と思われる(昭和九(一九三四)年~ 昭和十年刊行)。

「註文の多い料理店」短編集「注文の多い料理店――イーハトヴ童話――」の初版本は大正一三(一九二四)年十二月一日に盛岡市杜陵出版部及び東京光原社を発売元とし、千部が自費出版同様に出版されたている(発行人は盛岡高等農林学校で一年後輩に当たる近森善一)が、当時、賢治は一部の識者以外には殆んど知られておらず、定価一円六十銭と当時としては比較的高価であったこともあり、殆どが売れ残ったという(ウィキの「註文の多い料理店」に拠る)。本文で書店が呉れたと小穴は言っているから、ずっと後の、別書店からの再刊本であろう。]

 しかしながら自分のやうな者は、本來安井曾太郎と中川一政の二人を偉いと思つてゐればよいので、正直なところ宮澤賢治の故郷花卷(はなのまき)のはづれや、瀧澤から二つさきの放牧場で、向うの山の麓(ふもと)、あれが啄木の出たところですと人々に指さし教へられても、これはなかなか戰國時代だなあと腹の中に呟きこんでゐたのである。

[やぶちゃん注:言わずもがな、現在の岩手県盛岡市渋民。ここ(グーグル・マップ・データ)。実際には啄木は現在の盛岡市日戸(ひのと)生まれ(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、一歳で渋民に移っており、ここもそちらと採っておく。]

 私はただ「風の又三郎」の作者を生んだ土地を見、かたがたのその又三郎を入れるのに適當な學校を探すために、遙々(はるばる)奧州へも下つてみたのである。

 斯う書けば、宮澤賢治の敬愛すべき父母(ふぼ)、またよきその弟、また幾箇(いくつ)かの賢治の會(くわい)、この賢治の會には、賢治が彼の意圖(いと)のコンパスを擴(ひろ)げて土を耕し小屋を建て、その小屋に童共(わらべども)を集めてグリムやアンデルセンの物を聞かせてゐったと聞く、當時の童が今日は齡(よはひ)二十四五、農學校に教諭として彼を持つた生徒の齡は三十三四、斯ういつた人達もゐるであらうに、私の感情が冷たいとの誤解があるかも知れない。

 私が又三郎を入れる學校は、彼(かれ)宮澤賢治がその作物を盜みぬかれてゐたその一つ一つの跡へ、薄(すゝき)の穗を一本づゝ插しておいたといふ畑の橫を流れてゐる北上川の渡を渡つて行つた島(しま)分教場であつた。

 島分教場は兒童の在籍數

 

Matasaburounogakkou

 

といふ學校である。[やぶちゃん注:以上は底本をスキャンし、画像で取り込んだ。]

 讀者はこの學校の所在地を貧窮なものとして考へるかも知れない。私も見ないうちはさう考へてゐた。見ればその部落は甚だ綺麗で、作物も立派であり、家々は少くとも私の家よりは堂々としてをり、そこに豐かで落ついた靜かな暮しが想はれるのである。

 それに戸每(こごと)の戸袋(とぶくろ)には意匠がほどこしてあるのである。一軒の家に殊に立派なものがあつた。私は一寸見た時始め佛壇が戸外(こぐわい)に安置されてゐるのかと思つた。漆喰(しつくひ)でかためたものであつた。私の興味は花卷(はなのまき)に殘つてゐる足輕(あしがる)同心(どうしん)の家よりもあの部落の戸袋に殘つてゐる。

 風の又三郎を讀んでゐる人の中には、先生が三人、生徒が計百十一人といふ學校では、少々建物(たてもの)が大きすぎるといふ人があるかも知れない。

  ツヤ(クレヨン)

  四年京子(綴方(つゞりかた))六錢預(あづか)り

           十月二日

 と書いてある職員室の黑板から目を離して、室(しつ)の入口に立戾つて、改めて入口から室にはいるその眞正面を見れば、そこにはお宮(みや)が安置されてあるのを見るが、短い廊下を左に廻れば、又三郎の學校に相應(ふさ)ふべき狀(さま)の臍緒(へそのを)が、雨天體操場(うてんたいさうぢやう)にも講堂にもならうといふやうに改造されてはゐるが、依然として今日でも殘されてゐるのである。臍緒(へそのを)、つまり現在島(しま)分教場となつてゐるそもそもの建物(たてもの)は、講堂と講堂正面の黑板の左の玄關、右の先生の部屋それなのである。

 先生の部屋か住居(すまゐ)か、柱のカレンダーは今日(けふ)の日を示してゐるとは思はれないほどの、幾(いく)十年かの昔の空氣を持つてゐた。その講堂の黑板の中央の上にもお宮が安置されてゐた。校舍のなかがあまりに淸潔で、一寸私にお宮のなかを步ある)かせられてゐるといふ奇異な感じを持たせ、講堂のお宮の橫にくつついて大きなベルがあつたことが、

「これは大變だ、神樣も耳のそばでベルを鳴らされたのではおちおち晝寢もできまい。」と思はず私に私達を案内して呉れた先生の前でも言はせてしまつたのである。

 黒板の左が玄關、玄關といつても、そこは今日(こんにち)玄關として使用されてはゐない。暗い小さいその部屋には小使(こづかひ)であらう婦人が一人靜かに爐の火を搔立(かきた)ててゐた。入口はといふ淸六さんの問ひに先生は、

「そこの窓のところです。」と答へた。私はその窓とすれすれに桑の畑を見た。

[やぶちゃん注:「淸六さん」宮澤賢治の実弟宮澤清六(明治三七(一九〇四)年~平成一三(二〇〇一)年)。]

 私達は再び織員室に戾つて茶の馳走になり、今日の玄關の入口の前の二宮金次郎の銅像にも別れを告げて歸路についた。

「どうもあの先生は神主くさい。」

 といふ私の言葉に、淸六さんが、

「神主です。いまでも何かの時には神主の裝束(しやうぞく)をつけて出かけてゆくのです。」と答へた。

 何年か前の花時(はなどき)の事、女房と近所の童女を連れて上野の動物園に行つたことがあつた。一わたり園内を歩き廻つて、燈火(とうくわ)がつき夜間開場あることに氣づいた。さうして、だんだん世智辛(せちから)くなると動物園の動物まで夜勤をしなければ喰(た)べてゆかれぬのかと思つた。しかし、あの島分教場の講堂の上の神樣には、ベルが鳴る度(たび)ににこにこして扉のなかから兒童の姿を見てゐるのである。私は日も落ちてしまつ北上川の渡船(わたしぶね)のなかの空氣、暗(やみ)のなかにさくさくと草を喰(は)む馬のけはひ、ああいつたものに再び出會ふことを夢にも考へてゐなかつた。私は幸福であつた。その日(ひ)森さんが路の落栗(おちくり)を一つ拾つて私に呉れた。私は家に持つて歸つて女房に渡した。女房は東北の人間である。この栗が私の家の申譯(まうしわけ)ばかりの庭に芽を生やす時こそ見物(みもの)である。

[やぶちゃん注:「森さん」不詳。]

 盛岡といふ所も甚だ愉快に思へた。私を愉快にしたのは何も賢治の會の方々ではないのである。私は公園で、オホコノハヅクと梟(ふくろ)を樂(たのし)んで見た。盛岡の高橋さんは私に教師の手帖といふ隨筆集を呉れた。高橋さんの隨筆集を讀めば、梟(ふくろ)は善(よ)い鳥ではないらしい。しかし、小桶(こをけ)の中に入つては水を浴び、まつ黑い鐡砲玉のやうな目をきよとんとさせては、ぷるぷると羽根をふるはせてゐる梟(ふくろ)の顏をみてゐれば、飽きもせぬたのしさを時(とき)をすごすものである。

[やぶちゃん注:「オホコノハヅク」フクロウ目フクロウ科 Otus 属オオコノハズク Otus lempiji

「梟(ふくろ)」同前フクロウ科 Strigidae の他種を広範囲に指す。

「高橋さん」不詳。]

 盛岡は明るいユウモワがある土地である。案内役を買つて呉れた菊池さんの兄さんの小泉さんの家(うち)に一夜(や)の宿を借りたのであるが、翌朝の私は鳶(とび)の聲で目が醒めた。寢床に起きなほつて枕の覆ひの手拭(てぬぐひ)に目を落すと、鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)といふ文字が染出されてゐたのである。鳶に鷹がこれほどにぴつたりこようとは思ひもつかなかつた。

[やぶちゃん注:「菊地さん」不詳。

「鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)」不詳。]

 馬賊鬚(ばぞくひげ)を生やし、よく乾燥した、つまり筋肉が引きしまつて精悍な小泉さんは瀧澤の種畜場(しゆちくぢやう)に電話をかけて馬車の交渉をして、私を瀧澤の放牧地へ連れて行つて呉れたのであるが、南部の鼻まがりに對し何(なん)とかのまがり家(や)といつて、居(ゐ)ながらに馬ツ子(こ)に注意ができるやうになつてゐる民家を見ながら、相當の距離を走つてゐた時であつた。私達男ばかりがざつと十人も乘込んでゐる馬車をたつた一人の男が止めたのである。

[やぶちゃん注:「小泉さん」不詳。]

 私は何かと思つた、誰(た)れかが馬車を止めた相當の年配をした堂々たる體軀(たいく)の其(その)男に錢(ぜに)を渡した。するとその男が馬車を離れて馭者が馬に鞭を加へた。

 馬車の後ろに席をとてつてゐた私には、その男が何者であるかを了解できなかつたのであるが、馬車とその男の間(あひだ)にへだたりができて始めて、股引(もゝひき)もなく半纏(はんてん)だけの膝(ひざ)を叩いて笑つてこちらを見送つてゐる、その男の膝のところに偉大なるものが笑つてゐるのを認めて一切を了解した。私は馬を見にきて馬を見ずに馬のやうな奴を見たとと言つた。するとそれ迄は一言(ひとこと)も言はなかつた皆(みんな)が急に陽氣に笑つた。ことによると、人々が東北健兒の物のサンプルと思はれては困ると心配してゐたのかも知れない。

 私は私達のその日の愉快なピクニツクで、始めて馬も喰はぬといふ鈴蘭に赤い綺麗な實み)があるのもみた。馬車の馬も車を離れて飛び廻つての歸途、夫人子供を連れた知事が瀧澤の驛から種畜場(しゆちくぢやう)迄私達を運んだ馬車に乘つて後(あと)から驅けてきた。知事に先に路を讓つた私達に知事は目禮して行つたが、私達は知事もやはり偉大なる魔羅に喜捨をとられたであらうと笑ひながら心配してゐた。

 以前の場所に以前の男が矢張(やは)りゐた。既に喜捨をした一行とみて今度は近よりかけてやめてしまつた。實話雜誌の社長といふものは私達と違つて何でも知つてゐるらしいが、私達が、知事は婦人子供の手前二十錢もとられたらうと騷いだといふ話をしたら、一度見たい、盛岡までは自分はよく行くからと言つてゐた。謹嚴な坪田讓治でさへもが、井上友一郎(ともいちらう)勵ます會(くわい)に出席してこの瀧澤の傑物(けつぶつ)の話を傳へて人々を喜ばせたさうである。

 男子は須(すべ)からく男根隆々たるべきか。

[やぶちゃん注:「井上友一郎」(明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は作家。大阪市生まれ。早稲田大学仏文科卒。『都新聞』記者となり、昭和一四(一九三九)年に『文学者』で『残夢』を発表、作家生活に入った。風俗小説作家として活躍し、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、昭和二四(一九四九)年発表の小説「絶壁」が宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると非難されて抗議を受け、一九七〇年代には忘れられた作家となった(以上はウィキの「井上友一郎に拠った)。

「男子は須からく男根隆々たるべき」ここで本書後半では久しぶりに芥川龍之介に繋がるように書かれてある。]

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