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2017/02/07

小穴隆一「鯨のお詣り」(19) 「二つの繪」(8)「鵠沼」

 

        鵠沼

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「鵠沼」の原型。以下、冒頭に漢文が出るが、底本では完全訓点(返り点とカタカナ送り仮名)附きで全体が一字下げである。ブラウザ上の不具合を考え、返り点のみを附し、後に私が小穴隆一の訓点に従って訓読したもの(今回は句読点と鍵括弧の他に一部の送り仮名や歴史的仮名遣の読みを私の判断で変更・挿入した)を【 】で附した。また、本文注の漢文は今回は可能な限り、そのまま(一部の送り仮名の不具合や脱落を補った)を再現した。]

 

君子有三戒。少之時。血氣未ㇾ定。戒ㇾ之在ㇾ色。及其壯也。血氣方剛。戒ㇾ之在ㇾ鬪。及其老也。血氣既衰。戒ㇾ之在ㇾ得。

【「君子に三戒有り。少(わか)き時は、血氣、未だ定まらず。之(これ)を戒むる、色に在り。其の壯(さう)なるに及びてや、血氣、方(まさ)に剛(かう)なり。之を戒むる、鬪(たう)に在り。其の老(らう)に及びてや、血氣、既に衰ふ。之を戒むる、得(とく)に在り。」と。】

 制服を着た大學生芥川龍之介が夏目漱石を始めて訪ねた時に、(始めて、の文字を、僕は自分が始めて云々の彼の直話(ぢきわ)に依つて使ふ。彼の讀者は別に、「漱石山房の冬」を記憶しえはゐよう。)その彼を戒むるに漱石は子曰の血氣をもつてしたといふ。がこの言葉は、始めてなつめ漱石に會つた彼にとつて、何故(なにゆゑ)に漱石がこの言葉をもつて彼を戒めたものかは自身にとつては全く不可解であつたと、後年文壇の一流の人として、――ここに又彼をして言はしむれば、「自分の仕事はもう今日(こんにち)これ以上には進みはしない。が自分はただこの儘にしてゐさへすればおのづと、世間では自分を押しも押されもせぬ大家(たいか)として扱つてゆくだらう。無爲(むゐ)にしてさうされてゆく事は恥辱に思つてゐる。それにつけても一日(にち)も速かに死んでしまひたい。」さう思うひながら纔(わづか)に生きてゐるやうになつてからの彼、卽ち彼が三十六歳でしかない短い一生の晩年に至つて始めて「夏目先生の言はれてゐた言葉の意味が此(この)歳になつて自分には本當に解つた。今迄はなんで先生がそれを自分に言つてゐたのか解らなかつた。」(君には解るか。自分はここに手摩(てず)れたポケツト論語の一册を彼の脇に置いて思ひうかべる。)斯(か)く告白し呟き、また朗々として、時としてはニコチン中毒の顏の頰にほのかにも(初々(うひうひ)しく見えた。)血色(けつしよく)をさへ見せて、人、少時、血氣未ㇾ定マラ、戒ムルㇾ之ㇾ色。及ビテナルニ也。血氣――。繰返し誦してゐたあの芥川龍之介を何時(いつ)の頃からか自分は見なければならなかつたか。(また、子曰賢者ㇾ世。其ㇾ色。其ㇾ言。この辟色(いろをさく)を論語を手にした事のない自分が諳(そらん)じてゐたところをもつて考へるならば、これを龍之介門前の小僧として知つてゐたものか、その告白と共に彼が僕を教へ諭(さと)してゐたか、或は漱石が彼を戒めてゐた言葉なのか混沌未分(こんとんみぶん)の自分をもそこに置いて囘想する。)

[やぶちゃん注:この原型から、単行本「二つの繪」の「鵠沼」の、『この色を辟くまでを論語を手にしたことがなかつた僕が暗んじてゐたところをもつて考へると』の「暗」は「諳」の誤植である可能性が極めて高いことが判る。

 

「彼が三十六歳でしかない短い一生」この年齢は数えによる享年。満では三十五歳と五箇月弱であった。]

 スクキテクレ アクタカワ

彼の言葉を借りれば僕の‥‥、必ず數日のうちに金澤から上京して來る者と自分とのためにも亦○・○○――グラムの致死量、――蓄音機の針の箱のなかに綿に包んである一匹の小さなスパアニツシユ・フライ、果してこれによつて人が死に得るか、信じ、疑ひ、狼狽してクレープの襯衣(しやつ)の隱(かくし)に箱を縫付(ぬひつ)けてしまつた自分は、――自分はこの電報で既に自分にとつては始めての地土地鵠沼に來てしまつたのである。‥‥

[やぶちゃん注:この原型の表記は非常に興味深い。何故なら「○・○○――グラムの致死量」は「○」(まる)であって「〇」(ゼロ)ではないからである! 単行本「二つの繪」の「鵠沼」の箇所では、ここが、『〇・〇〇1グラムが致死量』となっている。これはそちらで注したようにとんでもない誤りであって、精製されたカンタリジンでもその致死量は約三〇ミリグラムであり、そもそもが致死量〇・〇〇一グラムの劇薬なんて聴いたこともないのだ! そうだ! もともと小穴隆一はこの致死量を道徳的に読者に伏せる目的で――×・××グラムの致死量――として誤魔化したに過ぎなかったのである! にしても小数点を配しているところからは、小穴はカンタリジンの致死量をごく微量と認識していた、勘違いしていたことは確かであろうけれども。

 松葉杖を抱経僕は葛卷義敏と車を連らねて彼の寓居へ急いでゐた。(彼の身邊が會はないでゐた短時日(たんじじつ)の内に如何程危險に差し掛かつたのか、萬が一、芥川龍之介の面目(めんぼく)にかけてもすぐに死を擇(えら)ばなければならぬとあれば腕を拱(こまぬ)いて、唯、斷(だん)。さう答へようとした自分の當時ではあつた。)

[やぶちゃん注:「斷」「最早、万事休す」「決定(けつじょう)」「容赦なき決断の砌り」といった謂いであろう。]

 

Kugenumamitorizugen

 

 (繪圖參酌(さんしやく))。門(もん)で車を降りた自分の目にはまづ淸々(すがすが)しい撥釣瓶(はねつるべ)を見た。――意外は彼が留守にしてゐた事であつた。(唯今をる所はヴアイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃(ばかばやし)し、謠(うたひ)攻(ぜ)めにて閉口、云々。八月十二日、下島勳宛の彼の書翰に示すが如き事情で、もう少し閑靜な夫人の里方(さとかた)の家に原稿を書きに行つてゐた。)

[やぶちゃん注:「(繪圖參酌)」は底本ではポイント落ちである。鵠沼の見取り図は単行本「二つの繪」のそれとは違う手書きの原型版で、「二つの繪」のものよりも、電子化するまでもない、遙かに読み易い字で記されている。是非、比較されたい。キャプションの内、大きく違うのは、「あづまや」の左のそれで、『海水浴場は一寸步く』である。他は「二つの繪」の方の注を参照されたい。]

 間は机となつてゐる茶ぶ臺に、若干の飮みもの喰ひものが竝んで、歸つてきた彼と一わたりの話がすむと、「散步をしようや。」で自分は伴出(つれだ)された。何年ぶりでさうは步けもしない者を、人目をつつむで、小路(こみち)へ小路へと引つぱりまはしておいて、「あれを持つてきたか。」「うむ。」でまた隨分步かせられた。――砂丘に出て海を見ながら休息した。夕陽を浴びて其の話す話は、彼の妻子の事だけであつたので、自分の氣持ちも非常にのびやかなものであつた。――

(さうして、その日彼の家に泊つた。また僕一個の事柄は七月二十九日を頂上として終つたやうのものであつた。五分(ぶ)五分に貰へる約束であつた「三つの寶」の印税の中から、貮百圓(?)を改造社に出して貰つて、彼及び彼の夫人のためにもの約を含み、そこに僕らの鵠沼生活は始まつたのであるが、いま、僕の二册の小さい手帳をみるとそこらも亦切りとつてあつて、アツパルトウマンから引移つたその日までとは、正確になし得ない。)

[やぶちゃん注:「三つの寶」既出既注の童話集。実際に刊行されたのは、芥川龍之介一周忌直前、昭和六(一九三一)年六月(改造社刊)であった。

「アツパルトウマンから引移つたその日までとは、正確になし得ない」小穴隆一が、当時、芥川龍之介が借りていた鵠沼の東屋の貸別荘の一軒挟んだ隣りの貸別荘「伊(イ)の二号」に移住したのは、大正一五(一九二六)年の七月末のこととされる(新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。]

 芥川夫人の場合にあつても六年前(ぜん)の僕らの鵠沼生活といふものは、あのみじめななかにあつてすら、否、あんなみじめな思ひの暮しに置れてゐたがためにこそ、彼女の生涯での幸福を、その夫になほ持ちつづけ得られてゐると自分は思ふものである。(ちよつと、我々の二度目の新所帶(しんじよたい)に先生をお迎へして、御飯の一杯もさしあげたい念願であります。下島勳宛の書翰より)――僕にあつては、――僕の場合はいまここに芥川龍之介の姿を見失つて、自分自身の過去の生活に佇んでゐる、それは暫時も許されてゐない事なのだ。

(よし、ここにメモワールの若干を作製して、彼の鵠沼を通過してみよう。)

[やぶちゃん注:私は以上の叙述から、本「鯨のお詣り」の発刊された昭和一五(一九三〇)年十月以前、小穴隆一は芥川龍之介の亡くなった後の芥川家とは関係が決定的に途絶えていたと読むものである。

「ちよつと、我々の二度目の新所帶に先生をお迎へして、御飯の一杯もさしあげたい念願であります。下島勳宛の書翰より」大正一五(一九二六)年八月二十四日附(即ち、小穴隆一鵠沼移転から約一ヶ月後と推定される)の旧全集書簡番号一五一〇書簡。以下に示す。

   *

冠省、大分お凉しくなりました。當地も避暑客は大分へりました。しかしまだ少しは避暑地らしい氣もちも殘つてゐます。二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして御飯の一杯もさし上げたい念願があります。どうか何とか御都合をおつけ下さい。右御勸誘まで 頓首

    八月二十四日   芥川龍之介

   下島先生

  二伸 もうお孃さんと同じ位の令孃は余りをりませんから、その邊はどうか御心配なく。

   *

追伸に芥川龍之介の優しさが偲ばれる。下島勲はこの年の三月十六日に小学校六年生であった養女行枝を肺炎のために亡くしている。芥川龍之介は彼女を非常に可愛がっていた。下島に乞われて龍之介は、

 

    悼亡

 更けまさる火かげやこよひ雛の顏

 

の句を捧げている。]

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