フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 柴田宵曲 妖異博物館 「飯綱の法」 | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(41)「河郎之舍」(4)「游心帳」 »

2017/02/16

柴田宵曲 妖異博物館 「命數」

 

 命數

 

 賣卜者が扇を求め、いつまでこれを持つてゐるかと占つたら、今日中になくなるといふ卦が出た。何でそんな。とがあらうと不審に思ひ、日の暮れるまで面前に開いて、ぢつと見守つてゐたところ、夕飯の支度が出來たと云つて、勝手から頻りに呼ぶ。遂に小童が駈けて來て、開いた扇の上に倒れ、さんざんに破つてしまつた。賣卜者も奇異の思ひをなすと同時に、我ながら占ひの妙を感じた。數の盡くる時に至れば、金城湯池に籠めたものと雖も、これを免れがたい。昔或人が陶の枕で晝寢してゐる顏の上へ、何者かばつたり落ちて來た。驚いて眼を開けば、鼠が天井から落ちたので、こそこそと梁へ這ひ上らうとする。枕を把つて投げ付けたが、鼠には中(あた)らず、枕の方が三つに割れてしまつた。中に數箇の文字が染め付けてあつて、この枕某の紀年に造る、これより幾年を經て、其の甲子鼠に抛つが爲に壞る、と讀めた。陶の枕を抛つなんぞは亂暴な話で、恐らく晝寢の夢をさまされて、意識朦朧たる狀態に在つたものと思はれるが、それも畢竟枕の命數が盡きた爲にさうなつたのであらう。

[やぶちゃん注:「賣卜者」「ばいぼくしや」。金銭を取って占いをするところの辻占を生業(なりわい)としている業者を指す。]

「黑甜瑣語」は物に定數あるを説くのに、この二つの例を擧げた。無生物たる扇や枕がさうであるとすれば、生物の命盡くる期は更に昭々たるものがあるに相違ない。鯰江六太夫といふ笛吹きがあつた。國主の祕藏する鬼一管といふ名笛は、この人以外に吹きこなす者がないので、六太夫に預けられたほどの名人であつたが、何かの罪によつて島へ流された。笛の事は格別の沙汰もなかつたのを幸ひに、ひそかにこの鬼一管を携へ、日夕笛ばかり吹いて居つた。然るにいつ頃からか、夕方になると、必ず十四五歳の童が來て、垣の外に立つて聞いてゐる。雨降り風吹く時は、内に入つて聞くがよからう、と云つたので、その後はいつも入つて聞くやうになつた。或夜の事、一曲聞き了つた童が、かういふ面白い調べを聞きますのも今宵限りといふ。不審に思つてその故を問ふと、私は實は人間ではありません、千年を經た狐です、こゝに私のゐることを知つて、勝又彌左衞門といふ狐捕りがやつて參りますから、もう逃れることは出來ません、といふ返事であつた。そこで六太夫が、知らずに命を失ふならともかくも、それほど知つてゐながら死ぬこともあるまい、彌左衞門が島にゐる間、わしが匿まつてやらう、と云つたけれども、狐は已に觀念した樣子で、こゝに置いていたゞいて助かるほどなら、自分の穴に籠つても凌がれますが、彌左衞門にかゝつては神通を失ひますので、命を失ふと知つても近寄ることになるのです、今まで笛をお聞かせ下さいましたお禮に、何か珍しいものを御覽に入れませう、と云ひ出した。それでは一の谷の逆落しから源平合戰の樣子が見たい、と云ふと、お易い事ですと承知し、座中は忽ち源平合戰の場と變じた。一切が消え去つた後、狐は更に六太夫に向ひ、何月幾日には殿樣が松ガ濱へ御出馬になりますから、その時鬼一管をお吹きなさいまし、必ずよい事がございませう、と告げて去つた。彌左衞門の掛けた罠は七度まで外したが、八度目に遂に捕へられた。六太夫は深く狐の事を憐れみながら、教へられた日に鬼一管を取り出して吹くと、この音が松ガ濱の殿樣の耳に入り、それが動機になつて、六太夫は狐の豫言通り召し還された(奧州波奈志)。

[やぶちゃん注:第一段落の内容は「黑甜瑣語」の「第三編」の「物に數あり」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「期」「とき」と当て訓したくなる。

「昭々たる」「せうせう(しょうしょう)たる」は、対象が隅々まで明らかなさまを言う。

「鯰江」「まなづえ(なまずえ)」列記とした姓氏(及び地名)である。ウィキの「鯰江」によれば、『藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流』。『荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた』。永禄一一(一五六八)年に『鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて』天正元(一五七三)年九月に『鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし』、『毛利氏となった』。『なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している』。このほかにも、『豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという』とある。

「六太夫」この通称と「笛吹き」から見て能の囃子笛方か。

「鬼一管」「きいちかん」と読んでおく。原典にもルビはないが、「鬼一」を前の持ち主の名とし、これは通称としては「きいち」が一般的である。

 以上は、満を持して「奥州波奈志」の巻頭を飾る「狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管」である。以下に示す。【 】は原典の割注、《 》は同頭注。

   *

 此宮城郡なる大城の、本川内にすむ小身者に、勝又彌左衞門といふもの有き。天生狐をとることを得手にて、若きよりあまたとりしほどに、取樣も巧者に成て、この彌左衞門が爲に數百の狐、命をうしなひしとぞ。狐はとらるゝことをうれひ歎て、あるはをぢの僧に【狐の、をぢ坊主に化るは、得手とみへたり。】化て來り、「物の命をとることなかれ」といさめしをも、やがてとり、又、何の明神とあふがるゝ白狐をもとりしとぞ。其狐の、淨衣を着て明神のつげ給ふとて、「狐とることやめよ」と、しめされしをもきかで、わな懸しかば、白狐かゝりて有しとぞ。奇妙ふしぎの上手にて有しかば、世の人「狐とり彌左衞門」とよびしとぞ。其とりやうは、鼠を油上にして味をつけ【此の味付るは口傳なり。】、其油なべにてさくづ[やぶちゃん注:宮城方言で「米糠」のこと。]をいりて、袋にいれ懷中して、狐の住野にいたりて、鼠をふり𢌞して、歸りくる道へいり、さくづを一つまみづゝふりて、堀有所へは、いさゝかなる橋をかけなどして、家に歸入て、我やしきの内へわなをかけおくに、狐のより來らぬことなし。ある人、「目にもみえぬきつねの有所を、いかにして知」と問ひしかば、彌左衞門答、「狐といふものは、目にみえずとも、そのあたりへ近よれば、必(かならず)身の毛たつものなり。されば野を分めぐりて、おのづから身の毛たつことの有ば、狐としるなり」とこたへしとぞ。勝又彌左衞門と書し自筆の札をはれば、狐あだすることなかりしとぞ。《解云、相模の厚木より甲州のかたへ五里ばかりなる山里、丹澤といふ處に、平某といふものあり。これも狐を捕るに妙を得たり。土人彼を呼て丹平といふといふ。その術、大抵この書にしるす所と相似たり。享和年間、予相豆を遊歷せし折、是を厚木人に聞にき。》

 又其ころ、鯰江六太夫といふ笛吹きの有し。國主の御寶物に、鬼一管といふ名笛有けり。是は昔鬼一といひし人のふきし笛にて、餘人吹ことあたはざりしとぞ。さるを六大夫は吹し故、かれがものゝごとく、あづかりて有しとぞ。【世の常の笛と替りたることは、うた口の節なし。もし常人ふく時は、かたき油にてふさげば、ふかるゝとぞ。】故有て六大夫、網地二(あせふた)わたし[やぶちゃん注:現在の宮城県石巻市の沖合、牡鹿半島突端の南西海上に位置する網地島(あじしま)であろう。ウィキの「網地島」によれば、『江戸時代には浪入田』(なみいりだ)『金山があって採掘された。隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという』とある。]といふ遠島へ流されしに、笛のことは、御沙汰なかりし故、わたくしにもちて行しとぞ。島にいたりては、笛をのみわざとして吹たりしに、いつの頃よりともしらず、夕方になれば、十四五歳ばかりなる童の、笆[やぶちゃん注:「ませ」或いは「まがき」と読む。「籬」と同義。竹や木で作った目の粗い低い垣根のことで、庭の植え込みの周りなどに設ける。]の外に立て聞ゐたりしを、風ふき雨降などする頃は、「入てきけ」といひしかば、後はいつも入て聞ゐたりしとぞ。かくて數日を經しに、ある夜この童、笛聞終りて、なげきつゝ、「笛の音のおもしろきを聞も、こよひぞ御なごりなる」といひしかば、六大夫いぶかりて、その故をとふに、童のいはく、「我まことは人間にあらず。千年を經し狐なり。爰に年經し狐有としりて、勝又彌左衞門下りたれば、命のがるべからず」と云。六大夫曰、「しらで命をうしなふは、世の常なれば、是非もなし。さほどまさしう知ながら、いかでか死にのぞまん。彌左衞門がをらん限りは、我かくまふべし。この家にひしとこもりて、のがれよかし」といひしかば、「いや、さにあらず。家にこもりてあらるゝほどの義ならば、おのが穴にこもりてもしのぐべし。彌左衞門がおこなひには、神通をうしなふこと故、命なしとしるくも、よらねばならず。いまゝで心をなぐさめし御禮に、何にても御のぞみにまかせて、めづらしきものをみせ申べし。いざいざ望給へ」といひしかば、「一の谷さかおとしより、源平合戰のていをみたし」といひしかば、「いとやすきことなり」といふかと思へば、座中たちまちびやうびやうたる山とへんじ、ぎゞ[やぶちゃん注:「巍々」。厳(おごそ)かで威儀のあるさま。]どうどうとよそほひなしたる合戰の躰、人馬のはたらき、矢のとびちがふさま、大海の軍船に追付くのりうつるてい、おもしろきこといふばかりなしとぞ。ことはてゝ消ると思へば、もとの家とぞ成たりける。さて童のいふ、「何月幾日には、國主松が濱へ御出馬有べし。そのをりから、鬼一管をふき給ふべし。必吉事あらん。我なき跡のことながら、數日御情の御禮に、教奉るなり」とて、さりしとぞ。扨、彌左衞門わなをかけしに、七度までははずしてにげしが、八度目に懸りて、とられたりき。六大夫是を聞て、いと哀とおもひつゝ、教の如く、其日に笛を吹しに、松が濱には、空晴てのどかなる海づらを見給ひつゝ、國主御晝休のをりしも、いづくともなく笛の音の、浦風につれて聞えしかば、「誰ならん、今日しも笛をふくは」と、御あたりなる人に問はせ給ひしに、こゝろ得る人なかりしかば、浦人をよびてとふに、「是は網地二わたしの流人、鯰江六大夫が吹候笛なり。風のまにまに聞ゆること常なり」と申たりしかば、君聞しめして、「あな、けしからずや。是よりかの島までは、凡(およそ)海上三百里と聞くを、【小道なり。[やぶちゃん注:「小道」(こみち)とは一里を六町(六百五十四メートル半)とする東国で用いられた里程単位で「坂東道」「田舎道」などとも呼称したもの。従って「三百里」は凡そ百九十六キロ半に当たる。但し、ここに出る「松が濱」を現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町松ヶ浜(ここ(グーグル・マップ・データ))と比定するならば(ロケーションや島との位置関係からはここがよいと私は思う)、網島までは真西に三十六キロメートル程しかないから、誇張表現となる。]】ふきとほしける六大夫は、實に笛の名人ぞや」と、しきりに御感有しが、ほどなくめしかへされしとぞ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

 狐の笛をこのみて、後(のち)化をあらはし、源平の戰のていをしてみせしといふこと、兩三度聞しことなり。其内、是は誠に證據も有て、語つたへしおもむきもたゞしければ、是をもとゝして、外を今のうつりとせんか。又、是も狐の得手ものにて、をぢの僧に化るたぐひならんか。笛吹は猿樂のもの故、さるがくの中に、やしま、一の谷などのたゝかひを、おもしろく作りなしてはやす故、笛吹の心みなこのたゝかひを見たしと、願ことも同じからんか。かの笛いまは上の寶物と成て有。金泥にてありしことどもを、蒔繪にしたるといふ。

   *]

 これと同じ話は「蕉齋筆記」に明石の話として出てゐる。源平合戰の有樣を見せるまで全く變りはないが、從容として死に就く最後の一段を缺いてゐる。「奧州波奈志」の狐は千年、明石の狐は八百五十年といふことだから、百五十年ばかり修行不足の點があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左下段中程)から視認出来る。しかしこれ、エンディングが浅ましく油で揚げた鼠を喰らつて狐が死ぬという展開がおぞましく下卑ていて厭だ。それを見て主人公の御隠居が出家して諸国廻国するなんざ、糞オチもいいところである。]

 「想山著聞奇集」にあるのは狐でなしに狸であつた。稻葉丹後守正通が貞享二年に越後國高田へ國替になつた時、隨從した大野與次兵衞といふ者の屋敷へ、突然十七八歳の若者が現れ、爐のほとりに居つた老婆といろいろ話をする。これが狸なので、遂にその事が主君の耳に入り、微行の形で與次兵衞の家に見えられたが、當夜は全然影も見せなかつたなどといふ話もある。或晩この狸が鬱然として樂しまず、自分は明夜獵師のために一命を落すことを告げた。順序は三段になつてゐて、晝の内の錢砲は避け得る、夕方の落し穴も免れる、夜の罠にかかつて死ぬといふ。それほど運命を豫知する通力がありながら、どうして助かることが出來ぬかといふ問に答へて、天運の盡くるところは是非に及ばぬ、かねて罠にかゝると知つてゐても、その期に及んでは恍惚として覺えなくなるのだ、と云つた。すべて鯰江六太夫に於ける狐と同じである。たゞこの狸は源平合戰の幻術などは見せず、紙と墨を乞うて右の掌の形を捺しただけであつたが、それは全く獸の足跡であつた。

[やぶちゃん注:「稻葉丹後守正通」「まさみち」と読む。江戸前期譜代大名で老中でもあった稲葉正往(まさみち 寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年:「正通」とも書いた)相模小田原藩三代藩主・越後高田藩主・下総佐倉藩初代藩主。彼は確かに貞享二(一六八五)年に京都所司代を免職となり(貞享元(一六八四)年に親戚であった若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を暗殺した事件で連座して遠慮処分となったことによる)、高田藩に国替させられている

「微行」「びかう(びこう)」は、身分の高い人などが身をやつして密かに出歩くこと。忍び歩き。

 以上は「想山著聞奇集」の「卷之四」の「古狸 人に化て來る事 幷 非業の死を知て遁れ避ざる事」である。かなり長いが、所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)を底本として挿絵とともに以下に示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。また、【 】は原典割注を示し、〔 〕は底本で前の字の右手に打たれてある、底本編者による補正字である。読みは底本には殆んどないが(太字がそれ)、オリジナルに推定で歴史的仮名遣で附加した。

   *

 

 古狸、人に化て來る事

  幷、非業の死を知て遁れ避ざる事

 

 稻葉丹後守正道朝臣は相州小田原の城守なりしが、京都諸〔所〕司代職に命ぜられて、家中の上下勤役の者を撰(えら)み、彼(かの)地へ隨從なさしめ姶ふ、夏に大野與次兵衞と云(いふ)家士有(あり)て、死して後、其子四太郎、父の祿を承繼(うけつぎ)て、童形のまゝ勤仕(ごんし)なし居て、漸十六歳と成(なり)けるが、老母壹人(ひとり)のみにて、兄弟共外、親屬迚(とて)も一人もなし。しかれども、與四太郎も此撰(せん)の内に預りて、京都へ隨從する命を蒙りたり。由老母の孝養表すべきものなきを以(もつて)、京地へ母同道の儀を願ひて、速(すみやか)に聞濟(ききずみ)と成(なり)、元服して父の名に改(あらため)て、與次兵衞と云。然るに貞享二年【乙丑】正通朝臣、諸司代職退役の臺命(たいめい)有て、越後國高田の城へ替地仰付られ、高田は是迄、越後中將光長卿の領所にして、城も大きく、家中の家敷も分に過(すぎ)て廣く、由(よつ)て役人宍戸五太夫と云者、主命を請(うけ)て、屋敷割をして、與次兵衞にも廣き家敷を賜りて住居(すまゐ)す。元來、與次兵衞は未だ妻子もなく、老母と二人にて、僕從の外には、京都にて抱(かかへ)おきたる老婆壹人のみにて、【此処老婆は、もと京の片田舍醍醐のものなるが、不幸にして世にたつきなく、妹聟の元に育(やしな)はれ居て、漸(やうやう)妻木(つまぎ)を商ひて助(たすけ)となして、かすかに世を渡り居るものを抱て遣ひたり、此老婆、若かりし時は雲上方(うんじやうかた)にも奉公なし、賤敷(いやしき)身ながらも心も優にして、聊か和歌の道にも心有(あり)て、與次兵衞母子に仕(つかへ)る事類ひなくやさしかりけれは、母子の悦び大かたならずして、厚く目を懸(かけ)て遣ひけるにより、姥(ばば)も甚だ悦びて事はるゝ所に、俄に斯(かく)所領替(かは)りて、夢にも知らぬ越路の住居と成(なり)、馴染みたる老婆に別(わかるる)事、名殘(なごり)をしさよと母子の語り合ふを聞(きき)て、姥は忝(かたじけな)き事に思ひ、迚もよるべなき身なれば、生涯を見屆け給らば、ゆかりのものに談(はな)し合(あひ)、越後までも參りて事(つか)へ奉らんとて、身寄のものにも談合して、はるばる越路へ付行(つきゆき)たる女なり。】は至(いたつ)て人小(せう)なれば、爾(いよいよ)以(もつて)、家居(いへゐ)も廣過(ひろすぎ)て、こぼち取たる所も有て、本家と長屋の間も遙に隔り居て、猶更、淋敷(さびしき)事也。越後は雪國と云(いふ)内にも、高田は別して雪の甚敷(はなはだしき)所にて、今年も雪、殊の外降積(ふりつもり)、寒氣も甚敷(はなはだしく)、初て住居する輩は、一入(ひとしほ)、寒苦を愁ふ、主君も、心欝々として、冬籠りをなし居られ、居間の次には諸士を寄(よせ)られて、己がさまさま日夜の物語りするをきゝて、慰(なぐさま)れける故、與次兵衞も、夜話晝詰(ひるづめ)に、隙(ひま)なく出仕なしたりける。或夜、寒さも一入強く、與次兵衞は例の夜話に出(いで)、本家には、老母と老婆とのみ、るすして居たりしに、初更過る頃、十七八歳計なる見馴ぬ奴僕一人、臺所の戸を外より明けて、老婆の圍爐裏に燒火(やきび)して居たる傍へ來り、婆さま、御淋敷(おさびしく)候半(さふらはん)、今宵は一入寒しと云を、能(よく)みれども、知らぬ者故、誰(たれ)にやと問ふに、長屋へ洗濯に來るもの也、氣遣ひ給ふな、我等も其火にあて給へとて、近く居寄(ゐよる)故、何方(いづかた)の人なるぞと問(とへ)は、直(ぢき)屋敷のうしろ近き所に住むもの也とのみ云て、四方山の物語りす。老婆も心解(こころとけ)て、語合(かたりあひ)しが、我等は始て此國に來り、雪中の苦寒には誠に堪兼(たへかね)るといへば、左こそ候半、御身は京師(けいし)醍醐の人なれば、かゝる雪には馴給はねば、嘸(さぞ)、難儀なるべしと云。老婆驚き、そなたは今宵始て來りたる人なるに、如何して我等が故郷(ふるさと)をしり居らるゝぞと怪(あやし)みて問ふに、彼男、夫(そえ)は我等は譯(わけ)有(あり)てしり居るなり、怪み給ふなと云て、餘事(よじ)の咄(はなし)をなして後、夜も大に更(ふけ)たり、歸りなん、又こそ來り候らはめとて出行(いでゆき)ぬ。かくする事、夜々に及びしかは、與次兵衞の老母も不審に思ひ、毎夜、老婆は人と物語りをなす、殊に男の聲なり、いぶかしき事也と怪しみ、老婆に問ふに、誰とは知り申さゞりしが、長屋へ洗濯の用有て來る者也と申せし由、答へければ、今宵も來らば、住居を問ふて、其故(ゆゑ)を能(よく)尋(たづね)よと有しかば、其夜來りし時、老婆、委敷(くはしく)尋探(たづねさぐ)りたるに、實は我は此屋敷の後(うしろ)に年經て住(すめ)る狸なるが、御身の心正直にして、聊も矩〔拒〕(こばみ)給ふこゝろなきまゝ、我も又、其仁心(じんしん)に馴(なれ)て來り、燒火にあたりて寒苦を凌(しの)ぐ事幸(さひはひ)なれば、夜每に來りぬ。聊(いささか)たりとも害はなさゞれは、怪(あやし)み恐れ給ふまじといへり。翌日、此旨を老母へ語りければ、老母も實(まこと)しからぬ程怪しみながら、邊土の山地には、かゝる事も有らん、重(かさね)て來らば、左程に身を變じて人語をもなし、通力自在を得るものならば、與次兵衞の俸祿をもまし、役儀をも進む樣に、君公、又は執柄の老臣へも訴へ呉(くる)る能(よき)方便もあるらんに、賴みてみよと云(いひ)しまゝ、夜の更(ふく)るを待居(まちを)ると、いつもの通り、かの狸、化(ばけ)來りて、老婆を守り見て云樣(いふやう)は、姥(ばゞ)樣は正直にして仁ある故、今迄は來りしが、なんぞや、與次兵衞殿の立身加祿あらせん事を、我に賴み給ふ心の侍るこそ興なき事なれ、是見給へ、我は此通りに、日果を繰(くる)事數年也とて、懷より念珠一連出して見せ、これ全く他の望に非らず、只人間に成度(なりたき)事を願ふ、然(しかれ)ども、其願、中々叶はず、然るに、夫程貴き人身を受(うけ)、殊に四民の第一なる武士と生れ給ひて、此稻葉の御家において、御祿も賤(いやし)からずして重く召使(めしつか)はれ、殊に君の御座右に扈從(こじふ)せらるゝは、是に過(すぎ)たる事、有べからず、所詮、人間の習ひ、何に成(なり)ても望み願ひの絶(たえ)る事はあるべからず、左樣の心を振捨て、君には忠勤をなし、親には孝行をなして、身を正直に職を守り給はゞ、終(つひ)には天道の惠み來るべし、去(さり)ながら、若(もし)、人知(しれ)ぬ變事なんどのあらん時は、前方(まへかた)に心付(こころづき)て告(つげ)奉る程の事はなし申さんといへるゆゑ、老婆も甚だ感服し、さこそ侍らん、かゝる凡心(ぼんしん)の願望は止(やむ)べしとて、其夜は酒を與へ、折節、有合(ありあは)せし小豆飯を與へて歸らせ、其由、具(つぶさ)に老母へも話せしとなり。故又、主君は雪中の徒然に、將棊(しやうぎ)を翫(もてあそ)び給ひしが、家士丹羽武太夫といふもの敵手にて、晝の勤仕を免(ゆる)され、夜每に登城して、君の相手をなせり。其頃、武太夫、母の病氣にて、或夜、病用に取込居て、登城も遲刻となり、由(よつ)て至(いたつ)て差急(さしいそ)ぎ駈行(かけゆく)所に、右の與次兵衞が門前にて雪鞜(ゆきぐつ)の紐を踏切、難儀に及びしまゝ、門(かど)に居たる與次兵衞が僕(しもべ)を賴み、鞜の紐を付かへ貰ふ折節、與次兵衞は今宵は登城ならん、老母もまめにて、其外、家内に替(かは)る事もなきやと問(とふ)に、僕答(こたへ)て云(いふ)には、何れも御機嫌能(よく)候らへども、屋敷の裏に年來(としごろ)住居たる古狸、毎夜、小者に化來(ばけきた)りて、京都より供して來り居候老婆と中よく咄しするに、人間に少しも替る事御座なく、或時は酒を飮(のみ)、又、或時は飯をもたべさせ、珍敷(めづらしき)事に御座候と云故、夫(それ)は甚だ珍敷事なり、實事かと問返(とひかへ)すと、何の虛(そらごと)を申上べきぞと云内に、鞜の紐も直りたる故に、武太夫は急ぎて登城をなすと、先刻より追々尋させ給ふと、朋輩の告(つぐ)を得て、急ぎ御前へ出(いづ)るとて、武太夫申(まうす)には、時刻後れて急ぎて出る道にて、大野與次兵衞の門前にて鞜の紐をきり、甚だ難儀して、やうやうと與次兵衞が僕を賴て、鞜の紐を直し貰ひ、一入(ひとしほ)、遲(おそ)りたり。夫(それ)に付、右の僕の咄には、與次兵衞が墓所へは、毎夜、狸が人に化て出來り、京より連來(つれきた)りし老婆と咄するといふ珍敷事を聞來(ききた)りたりと云故、夫は珍敷事などゝ人々噂する間もなく、直(ぢき)に主君の耳に入(いり)、夫こそ奇成(なる)事也、速(すみやか)に尋(たづ)ぬべしとて、與次兵衞を御前へ呼出(よびいだ)され、汝が家にかやうの事有(あり)と聞(きく)、日頃、何にても、珍敷事は、自國他國の事によらず、聞(きき)及びて慰む折節なるに、何とて夫程の事を今迄は申さゞりしと尋給ふゆゑ、與次兵衞、謹(つつしみ)て申(まうす)やう、されば其儀にて候、只今、武太夫申上候由の趣(おもむき)に相違は御座なく候へども、あまり怪敷(あやしき)事故、先々(まづまづ)遠慮仕候(しさふらふ)て、是迄は、親敷(したしき)朋輩(はうばい)等(など)へも、一切咄し申さず、仍(よつ)て言上(ごんじやう)も仕らず候と答へけるに、主君も、左(さ)も有(あり)なんとて、夫より與次兵衞の咄しを具(つぶさ)にきゝ給ひて、扨々(さてさて)珍敷面白き事也、何卒、竊(ひそか)に汝が宅に我等も行(ゆき)て、其狸の奴僕(ぬぼく)と成來(なりきた)りて物語りするを見聞したきまゝ、明夜、汝が家に至るべしと云出し給ふ故、老臣、此事を承り、此儀は然るべからず候、假令(たとひ)、御城下と云(いへ)、御譜代の與次兵衞にもせよ、夜陰の御忍び步行(ありき)は、御愼(おつつしみ)の足(たら)ざるに似たり。殊に怪談を聞召(ききめさ)れて、化物を御覽に入らせられ候と申は、あまり淺々(あさあさ)しき御儀(おんぎ)にて候と諫め申せば、正道(まさみち)朝臣(あそん)申さるゝは、尤(もつとも)の云(いひ)事なれども、與次兵衞の咄し、僞(いつはり)にあらず、また再度(ふたたび)有(ある)べき事ならねば、行(ゆき)て見置(みおく)べしと申さるゝ故、老臣の申は、然らば、御鷹狩との披露にて、前後の御行粧(ごぎやうさう)を御調(おんととの)へ渡らせられ候へと申上れば、正通朝臣申さるゝには、夫にては、必定(ひつじやう)、かのもの出(いづ)べからず迚(とて)、唯々(ただただ)諸向(しよむき[やぶちゃん注:いろいろな担当者・方面の意であろう。])へ極(ごく)内々にて、彌(いよいよ)與次兵衞の宅へ至らるゝに事極(きはま)りて、其時刻に至りて、近習のもの計(ばかり)、纔(わづか)召連られて、其供人も皆々與次兵衞が門前に殘し置(おき)、主君は近臣兩三輩とともに、竊(ひそか)に與次兵衞が家に入、每(いつも)小者と化來りて、老婆と物語する上の間(ま)の隅に、障子一間(けん)を隔(へだて)て、極々隱れ忍びて、靜かに潛り居られて、狸にしられまじと、火鉢をも進めず、もとより酒食もなくて、數刻得るれども、其夜に限り、妖怪出來らず。既に夜半も過(すぐ)れども來らざれば、雪中の寒苦甚敷(はなはだしく)、上下(うへした)とも堪兼(たへかね)、今宵は先(まづ)歸りて、明夜は寒氣を凌ぐ手當(てあて)はじめ、酒肴も調へて、是非來るべしとて歸り給へば、其跡にて、間もなく、例の僕、出來りて、婆樣いかにと云故、今宵は每(いつも)の時刻に來られぬ故、如何成(いかなる)事かと思ひ居(をり)しに、なぜ遲く來られしと問ふに、僕が曰、そなたは知(しり)給はぬにや、今宵は大守、家内に至らせられて、巍々然(ぎぎぜん)としてましませしに、かゝる高位高祿の貴人に間近く我等の入(いる)べきにあらざれば、其(その)歸らせらるゝを待つ(まち)て來りたる也と語りたるゆゑ、姥(ばゞ)又曰、たとへ大守の御入(おいり)にもせよ、忍びて入らせらるゝのなれば、何も夫程、恐懼するには及ぶまじ、重(かさね)ては遠慮なく來るべしと云と、夫は思ひもよらぬ事也、たとへ再度來り給ふとも、大守のまします内は、百度とも出べからずと云たる故、翌日、與次兵衞出仕して、右の趣を具に言上せしかば、然らば、我等が見聞(みきか)ん事叶ふべらずとて、主君は息思ひ止(とどま)り給ひしとぞ。夫より年月を經ても、僕の來る事、始のごとくなりしが、或夜、來りて一向に物も云はず、氣色(けしき)常に替りて、欝然として樂しまず、食物抔(など)、進むれども食せず、甚だ心痛なる樣子に見ゆる故、姥も不審におもひ、何故に今宵は常に替りしぞ、心配なる事にても有(ある)かと強(しい)て聞(きき)ければ、さればにて候、我(わが)運、已に盡(つき)て、明夜は獵師の爲に一命を落(おと)すに極(きはま)れり、今迄、年來(としごろ)、一形(ひとかた)ならず芳志(はうし)に預りたる事、御禮(おんれい)、言葉に盡し難し、是迄、然るべき期(とき)もなくて、させる御禮をもなさず、是限りに死に行(ゆく)事の殘(なご)り多さよとて落淚す。明日は、晝の内に、鐡砲の難あれども、是は避(さく)べし、又、夕方、穽(おとしあな)の危きに望めども、是も免(まぬか)るべし、夜に入て罠(わな)に懸りて死す。此時は免るべからずと語る故、老婆問て曰く、夫程、未前を能(よく)知る通力有(あり)て、形をも人と變じ、言語も人に替る事なき變化(へんげ)自由の身を持(もち)て、其罠に懸る事を止(とめ)樣(やう)はなき歟(か)、又、たとへ、罠に懸りたりとも、助(たすか)るべき術(すべ)はなきか、夫(それ)ほどしり居(をり)ながら、其罠に懸りて死ねばならぬといふ事、我等には合點(がてん)行(ゆか)ずといへば、天運の盡(つく)る所は、如何とも是非に及ばざる事にて、兼て罠に懸るとは知居(知りゐ)ても、其期(そのとき)に至りては、心恍惚として覺えなく、縊(くびり)て死せん事、鏡にかけたる如く知居(しりを)れども、遁(のが)るゝに所なし。最早、今宵限一りに此家へも再び來(きた)るまじ、御主人へも宜(よろしく)禮を申呉(まうしくれ)られよと打(うち)しほれて語るに、老婆も甚だ名殘惜(なごりおし)く、且は(かつ)氣の毒に思ひ、汝死(しし)て後、其尸(しかばね)に印(しるし)有(あり)やと問ふに、如何にも、古き狸の尾の、今は白きが我にして、罠にて死(しぬ)故、一身に疵(きず)なし、是、我尸なりと云。斯(かく)年月(としつき)、心易くちなみし故、實々(げにげに)殘(なご)り多し、一つの印(しるし)を殘すべしとて、紙墨を乞(こひ)て、右の掌(てのひら)に墨をぬり、紙に押(おし)と見えしが、全く獸(けもの)の足跡なり。是(これ)ぞ形見の手形なりといふ。老婆曰く、迚(とて)もの事に、今一(ひとつ)紙得させよと乞しに、あら心なの事よ、かやうの印は二つ殘すものに非ずと云(いひ)て、夫切(それきり)に去(さり)て見えず。仍(よつ)て老婆、狸の云たる事どもを、具(つぶさ)に與次兵衞が母に告(つげ)しが、老母もさすがに哀(あはれ)に思ひて、翌日、近邊の獸を鬻(ひさ)ぐ市店(いちみせ)へ人を遣はし、寒中、狸を藥用になす事有(ある)まゝ、一身に疵なくて尾先の白からんを得ば、價(あたひ)は望みに任せんと觸置(ふれおき)せしに、其翌日、只今、獵師の手より得たるは、御注文通り也とて持來るを見れば、縊れ死せしものと見えて、惣身に疵なく、尾の半(なかば)は白し。常に來りてまみへたる時は、纔(わづか)廿(はたち)計(ばかり)にも成兼(なりかね)たる若き奴僕(ぬぼく)にてありしが、死せる形を見れば、一際(ひときは)小さくて斑毛(まだらげ)多く、如何にも年經(としふり)たる古狸とみえたり。老母も怪みながら、稀有の思ひをなして、高田へ所替(ところがへ)の後(のち)、菩提所に賴置(たのみおき)たる同所東雲寺といふ寺の現住(げんじゆう)へ、有(あり)し事どもを具(つぶさ)に語り、畜生ながら、一入(ひとしほ)不便(ふびん)の事に思ふまゝ、厚く吊(とむら)ひ給へと賴み、施物(せもつ)を添(そへ)て、尸(しかばね)を彼(かの)寺へ送りければ、住僧も奇異の事に思ひて、人を葬るごとく、念頃(ねんごころ)に囘向(ゑかう)を成遣(なしつかは)しければ、老母も悦びて、此狸の爲に、此寺に石塔を建て、今猶、印(しるし)も殘し有(あり)となん。其後、元祿十四年【辛巳(かのえみ)[やぶちゃん注:一七〇一年。]】稻葉家へ臺命(たいめい)有(あり)て、下總(かづさ)の國佐倉(さくら)の城主戸田家と【能登守忠直朝臣】所替(ところがへ)ありて、其頃は最早、醍醐の姥(ばば)は死して、老母は存命にて、母子、佐倉へ至りたれども、未(いまだ)諸士の屋敷定(さだま)らざる内、城下の山崎といふ所の名主又兵衞といふものゝ家に、與次兵衞旅宿す。此時、佐倉の勝胤寺の一梁禪師、與次兵衞の老母より直(ぢか)に聞置(ききおき)し物語を、聢(しかと)と覺え居(ゐ)て咄されたるを、源の信友(のぶとも)[やぶちゃん注:後注参照。]と云(いふ)人、此物語りの口談にのみ殘り居て、其事跡の絶たえ)ん事を恐れて、寶暦四年【甲戌(きのえいぬ)[やぶちゃん注:一七五四年。]】の春に至りて、懇(ねんごろ)に筆記なし置(おき)たる記錄を得て、寫し置たり。かの狸、老婆と夜な夜なの物語には、計らぬ面白き話も多かるべきに、漸(やうやう)、其初(はじめ)・中(なか)・終(おはり)の有さまだけ、慥(たしか)に殘(のこ)りたるは、殘り多き中にも、又々幸(さひはひ)なる事と思はる。予、此書卷を筆記成し置事(おく)、意、玆(ここ)に有(あり)。兎角、物每(ごと)、委敷(くはしく)筆記なし置(おか)ば、千歳(せんざい)の昔も目前に在(ある)が如く、此書も、貞享年中[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。元禄の前。]の後、寶曆年中に至りて、信友の其事跡の絶果(たえはて)ん事を憂ひて筆記なし置たるは、七十年後(のち)の事にして、右の筆記あらざれば、今は絶(たえ)て知(しる)ものもあるまじく、扨又、其信友の筆記なし置し寶曆四年の後は、今天保十五年[やぶちゃん注:一八四四年。]に至りて、己に九十一年の星霜は經(ふ)れども、歷然として右に記し置(おく)通り、筆記せし程の事は明(あきら)かなり。予、此書册に、文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]以來、目前に見聞の事のみを多く記し置(おけ)ども、幸にして祝融(しゆくゆう[やぶちゃん注:火災。])の災(わざはひ)をさへ免るれば、千歳の後に至りても、目前に見るが如くに慥(たしか)ならんと打置兼(うちおきかね)、多忙中ながら、筆を執(とり)て纔(わづか)に其事實を記し置(おく)事、册中を見て量りしるべし。第廿五の卷に記し置(おく)、奧州宮城野の老狐の、死後を知居(しりゐ)て得(え)避(さけ)ざりしと、全く同日(どうじつ[やぶちゃん注:同一の意。])の談也。


Tanukinowakare

   *

後書き部分の文中に出る「源の信友」とは、作者三好想山(しょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)と同時代の、国学者として知られる伴信友(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)ではないかと思われる。彼の蔵書印には「源伴信友」というのがあるからである。因みに、最後に筆者は「第廿五の卷に記し置」いた「老狐」の話を見よ記載するが、実は本「想山著聞奇集」は現存五巻で、原本は凡例や序文に五十巻とあるのだが、公刊はその五巻ぎり、原本も散逸して全く伝わらない。従って、それを読むことは最早、出来ないのであるが、「奧州宮城野」というロケーションと本話の展開から見ても、先の「黑甜瑣語」と相同か或いはごく同系の相似話柄であると考えてよかろう。]

 人間は學問をして、つまらぬ知識を頭に詰め込む代りに、運命を豫知する靈覺を失つてしまつた。千年なり八百五十年なりの齡を保つたら、或は可能かも知れぬが、今の人間の力では、長壽の一點だけでも彼等に伍することは出來ない。勿論狐狸の世界に在つても、かういふのはすぐれた少數者の事で、他は概ね平凡なる野狐、野狸を以て終始するのであらう。

« 柴田宵曲 妖異博物館 「飯綱の法」 | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(41)「河郎之舍」(4)「游心帳」 »