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2017/02/06

柴田宵曲 妖異博物館 「百足と蛇」

 

 百足と蛇

 

 田原藤太秀郷の矢に斃れた三上山の大百足(むかで)にしろ、日光の權現と戰はれた赤木明神の百足にしろ、「今昔物語」に見えた百足にしろ、大抵の場合、百足は蛇に對し優位に立つてゐる。蛇は自分だけでは勝算がないため、人間に助力を求め、弓矢の力を藉りて勝名乘りを受けてゐるが、もしさういふ助力者に出逢はなかつたら、常に敗軍の將たるに甘んずる外はなかつたであらう。

[やぶちゃん注:「田原藤太秀郷」藤原秀郷(生没年未詳)は平安中期の貴族で武将。下野大掾藤原村雄の子とされる。平将門追討で知られるが、室町時代になって「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山(みかみやま:現在の滋賀県野洲市三上にある標高四百三十二メートルの山。「近江富士」と称される)での百足退治の伝説の方でも知られるようになった。参照したウィキの「藤原秀郷」によれば、その百足退治伝説は、『近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した』。『藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を』七巻き半する『大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の』一本の『矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射ると』、漸く、『大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという』。『秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。また、類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼・百目鬼』(どうめき)『を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている』。『伊勢神宮には、秀郷が百足退治に際して龍神から送られた、という伝来のある太刀が奉納されており、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で宝刀として所蔵されている』とある(下線やぶちゃん)。

「日光の權現と戰はれた赤木明神の百足」前注の下線部を参照。

『「今昔物語」に見えた百足』知られたものでは「卷二十六」の「加賀國諍蛇蜈島行人助蛇住島語 第九」(加賀の國の、蛇(へみ)と蜈(むかで)と諍(あらそ)ふ島へ行きたる人、蛇を助けて島に住める語(こと) 第九(く)」であろう。以下に示す。二〇〇一年岩波文庫刊の池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」を参考としつつ、恣意的に正字化して以下に示す。□は原典の欠字(推定を含む)。読み易く読みの一部を本文に出し、また一部の意味の通り難い漢字を恣意的に変更した。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附した。文中に入れ込んだ注は池上氏の脚注等を参考にさせて戴いた。

   *

 今は昔、加賀の國□□郡(のこほり)に住みける下衆(げす)七人、一黨として常に海に出でて、釣りを好みて業(わざ)として、年來(としごろ)を經(へ)けるに、此の七人、一船に乘りて漕ぎ出でにけり。此の者共、釣りしに出ずれども、皆、弓箭(きうせん)・兵仗(へいじやう)をなむ具したりける。

 遙かの沖に漕ぎ出でて、此方(こなた)の岸も不見(みえぬ)程に、思ひも不懸(かけぬ)に、俄かに荒き風、出で來て、澳(おき)の方へ吹き持て行けば、我にも非らで流れ行きければ、可爲方無(すべきかたなく)て、櫓(ろ)をも引き上げて、風に任せて、只、死なむ事を泣き悲みける程に、行方(ゆきかた)の澳(おき)に、離れたる大きなる島を見付けて、

「島こそ有りけれ。構へて此の島に寄りて、暫くも命を助からばや。」

と思ひけるに、人などの態(わざ)と引き付けむ樣(やう)に、其の島に寄りにければ、

「先づ、暫くの命は助かりためり。」

と思ひて、喜び乍ら、迷ひ下りて、船を引き居(す)えて、島の體(てい)を見れば、水など流れ出でて、生物(なりもの)の木なども有氣(あるげ)に見えければ、

「食ふべき物なんどもや有る。」

と見むと爲(す)る程に、年廿餘りは有らむと見ゆる男(をのこ)の、糸(いと)淸氣(きよげ)なる、步み出でたり。

 此の釣人共、此れを見て、

「早う、人の住む島にこそ有りけれ。」

と喜(うれ)しく思ふ程に、此の男、近く寄り來りて云く、

「其達(そこたち)をば、我が迎へ寄せつるとは知りたるか。」

と。釣人共、

「然(さ)も不知侍(しりはべらず)。釣りしに罷り出でたりつるに、思ひ不懸(がけぬ)風に被放(はなたれ)て、詣で來つる程に、此の島を見付けて、喜び乍ら、着きて侍る也。」

男の云く、

「其の放つ風をば、我が吹かせつる也。」

と云ふを聞くに、

「然さ)は、此れは例(れい)の人には非(あら)ぬ者也けり。」

と思ふに、男、

「其達(そこたち)は極(ごう)じぬらむ[やぶちゃん注:疲れたことであろう。]。何(いづら)、其の物、持て來(こ)。」

と、出で來つる方に向ひて、高(たかや)かに云へば、人の足音、數(あまた)して、

「來(く)也。」

と聞く程に、長櫃(ながびつ)二つ荷ひて持て來たり。酒の瓶(かめ)なども數(あまた)有り。長櫃を開(あけ)たるを見れば、微妙の食物(くひもの)共也けり。皆、取り出だして令食(くはしむ)れば、釣人共、終日(ひねもす)に極(ごう)じにければ、皆、吉(よ)く取り食ひてけり。酒なども能く呑みて、殘りたる物共をば、

「明日の料(れふ)に。」

とて、長櫃に本(もと)の樣に取り入れて傍らに置きつ。荷ひたりつる者共は返り去りぬ。

 其の後(のち)、主(あるじ)の男、近か寄り來(き)て云く、

「其達(そこたち)を迎へつる故(ゆゑ)は、此(ここ)より澳(おいき)の方に、亦、島、有り。其の島の主(ぬし)の、我れを殺して此の島を領(りやう)ぜむとて、常に來りて戰ふを、我れ、相ひ構へて戰返(たたかひかへ)して、此の年來(としごろ)は過ぐす程、明日來りて、我も人も死生(ししやう)を決すべき日なれば、我れを助けよと思ひて、迎へつる也。」

と。釣人共の云く、

「其の來らむ人は、何許(いかばか)りの軍(いくさ)を具して、船、何(いく)つ許りに乘りて來(きた)るぞ。身に不堪(たへぬ)事に侍りとも、此(か)く參りぬれば、命を棄てこそと、仰せに隨ひ侍らめ。」

と。男、此れを聞きて、喜びて云く、

「來らむと爲(す)る敵(かたき)も、人の體(てい)には非ず。儲(まう)けむずる[やぶちゃん注:待ち受けるところの。]我が身も、亦、人の體には非ず。今明日(けふあす)、見てむ。先づ、彼(かれ)、來りて島に懸らむ程に、我れは此の上より下り來らむずるを、前々(さきざき)は敵(かたき)を此の瀧の前に不令上(のぼらしめず)して、此の海際(うみぎは)にして戰ひ返すを、明日は其達(そこたち)を強く憑(たの)まむずれば、彼(か)れを上に登せむずる也(なり)。彼(かれ)は上に登りて、力を得(う)べければ、喜びて登らむと爲(す)るを、暫しは我れに任せて見むに、我れ、難堪(たへがたく)成らば、其達(そこたち)に目を見合せむずるを、其の時に、箭(や)の有らむ限り可射(いるべき)也。努々(ゆめゆめ)愚かに爲(す)べからず。明日の巳時(みのとき)[やぶちゃん注:午前十時頃。]許りより儀立(よそほひだ)ちて、午時(うまのとき)許にぞ戰はむとする。吉(よ)く吉く物など食ひて、此の巖(いはほ)の上に立たむ。此こよりぞ上らん爲(ず)る。」

と、吉々(よくよく)教へ置きて、奧樣(おくざま)に入りぬ。

 釣人共、其の巖(いはほ)に木など切りて、庵(いほり)造りて、箭(や)の尻など能々(よくよく)鋭(と)ぎて、弓の弦(つる)など拈(したた)めて、其の夜は火燒きて物語などして有る程に、夜も暛(あ)けぬれば、物など吉(よ)く食ひて、既に巳時(みのとき)に成りぬ。

 而る間、來らむ、と云ひし方を見遣りたれば、風、打ち吹きて、

「海の面(おもて)、奇異(あさま)しく怖し氣(げ)也。」

と見る程に、海の面、□[やぶちゃん注:「靑」か。真っ靑。]に成りて、光る樣(やう)に見ゆ。其の中より、大きなる火、二つ、出で來たり。

「何なる事にか。」

と見る程に、

「出で來合はむ。」

と云ひし方を見上げたれば、其こも山の氣色(けしき)、異(あ)しく怖し氣(げ)に成りて、草、靡(なび)き、木葉も騷ぎ、音高く喤合(ののしりあ)ひたる中より、亦、火、二つ、出で來たり。

 澳(おき)の方より近く寄り來たるを見れば、蜈(むかで)の十丈[やぶちゃん注:約三十メートル。]許りある、游ぎ來たる。上は□[やぶちゃん注:先と同様に「靑」か。]に光たり。左右の喬(そば)[やぶちゃん注:脇。]は、赤く光たり。見れば、同じ長さ許りなる蛇(へみ)の、臥長(ふしたけ)一抱(ひとかか)へ許りなる、下(くだ)り向ふ。舌嘗めづりをして、向ひ合ひたり。彼(かれ)も此(これ)も怖ろし氣なる事、限り無し。實(まこと)に云ひしが如くに、蛇(へみ)、彼(かれ)が可登(のぼるべき)程を置きて、頸(くび)を差し上げて立てるを見て、蜈(むかで)、喜びて走り上がりぬ。互ひに目を嗔(いか)らかして守りて、暫く有り。

 七人の釣り人は、教へしままに巖(いはほ)の上に登りて、箭(や)を番(つが)へつつ、蛇(へみ)に眼を懸けて立てる程に、蜈(むかで)、進みて走り寄りて、咋ひ合ひぬ。互ひに、ひしひしと咋(く)ふ程に、共に血肉(ちじし)に成りぬ。蜈は手多かる者にて、打ち□つつ咋(く)へば、常に上手(じやうず)也。二時(ふたとき)許り咋ふ程に、蛇、少し□[やぶちゃん注:「怯(ひるみ)」か。]たる氣(け)付(つ)きて、釣人共の方(かた)に目を見遣(みおこ)せて、

「疾(と)く射よ。」

と思ひたる氣色なれば、七人の者共、寄りて、蜈(むかで)の頭より始めて尾に至るまで、箭(や)の有りける限り、皆、射る。彇(はず)の本(もと)まで不殘射立(のこらずいたつ)。其の後は、太刀を以つて、蜈の手を切りければ、倒れ臥しにけり。而れば、蛇、引き離れて去(い)ぬれば、彌(いよい)よ蜈を切り殺してけり。其の時に、蛇、□て返り入りぬ。

 其の後、良(やや)久しふ有りて、有りし男、片蹇(かたあしな)へぎて[やぶちゃん注:片足を引きずりながら。]、極(いみじ)じく心地惡氣(ここちあしげ)にて、顏なども缺(か)きて血(ち)打ちて出で來たり。亦、食物(くひもの)共、持ち來(き)て、食はせなどして、喜ぶ事、限り無し。蜈(むかで)をば切り放ちつつ、山の木共を伐り懸けて、燒きてけり。其の灰・骨などをば、遠く棄てけり。

 然(さ)て、男、釣り人に云く、

「我れ、其達(そこたち)の御德(とく)に、此の島を平らかに領ぜむ事、極めて喜(うれ)し。此の島には、田(た)可作(つくるべき)所、多かり。畠(はたけ)、無量(はかりなし)。生物(なりもの)の木、員(かず)不知(しらず)。然(さ)れば、事に觸れて便り有る島也。其達、此の島に來て住(す)まめと思ふを、何(いか)にか。」

と。釣人共、

「糸(いと)喜(うれ)しき事にぞ可候(さふらふべき)を、妻子(めこ)をば何(いか)にか可仕(つかまつるべき)。」

と云ひければ、男、

「其れを迎へてこそは來(きた)らめ。」

と云ひければ、釣人共、

「其れをば何(いか)にして罷り渡るべし。」

と云ひければ、男、

「彼方(かなた)に渡らむには、此方(こなた)の風を吹かせて送らむ。彼方より此方に來らむには、加賀の國に御(おは)する熊田(くまた)の宮(みや)と申す社(やしろ)は、我が別れの御(おは)する也。此方に來(きた)らむと思はむ時には、其の宮を祭り奉らば、輒(たやす)く此方に來たるべき也。」

など、吉々(よくよ)く教へて、道の程可食(くふべき)物など、船に入れさせて、指し出だしければ、島より俄かに、風、出で來て、時も不替(かはさず)走り渡りにけり。

 七人の者共、皆、本(もと)の家に返り、

「彼の島へ行かむ。」

と云ふ者を、皆、倡(いざな)ひ具して、密かに出で立ちて、船七艘(しちさう)を調(ととの)へて、可作(つくるべき)物の種(たね)共、悉く拈(したた)めて、先づ、熊田の宮に詣でて、事の由(よし)申して、船に乘りて指し出でければ、亦、俄かに、風、出で來て、七艘乍ら、島に渡り着きにけり。

 其の後、其の七人の者共、其の島に居て、田畠を作り、居弘(ゐひろ)ごりて、員(かず)不知(しらず)人多く成りて、今、有る也。其の島の名をば、「猫の島」[やぶちゃん注:舳倉島に推定比定される。]とぞ云ふなる。其の島の人、年に一度、加賀の國に渡りて、熊田の宮を祭るなるを、其の國の人、其の由を知りて伺ふなるに、更に見付くる事、無き也。思ひも不懸(かけぬ)夜半(よなか)などに渡り來て、祭りて返り去りぬれば、其の跡にぞ、

「例の祭してけり。」

と見ゆなる。其の祭り、年每(としごと)の事として、于今不絶(いまにたえぬ)也。其の島は、能登國、□□郡に大宮と云ふ所にてぞ、吉(よ)く見ゆなる。晴れたる日、見遣れば、離れたる所にて、西高(にしだか)にて靑(あを)み渡りてぞ見ゆなる。

 去(さ)りぬる□□の比(ころ)、能登の國、□□の常光(つねみつ)と云ふ梶取(かぢとり)有りけり。風に被放(はなたれ)て、彼(か)の島に行きたりければ、島の者共、出で來て、近くは不寄(よせず)して、しばらく岸に船繫がせて、食ひ物など遣(おこ)せてぞ、七、八日許り有りける程に、島の方(かた)より、風、出で來たりければ、走り歸りて、能登の國に返りにける。其の後、梶取の語りけるは、

「髴(ほのか)に見しかば、其の島には、人の家、多く造り重ねて、京の樣(やう)に小路(こうぢ)有るぞ見えし。人の行き違(ちが)ふ事、數(あまた)有りき。」

とぞ語りける。

「島の有樣を見せじ。」

とて、近くは寄せざりけるにや。

 近來(このごろ)も、遙かに來たる唐人(とうじん)は、先づ其の島に寄りてぞ、食ひ物を儲(まう)け、鮑(あはび)・魚(うを)など取りて、やがて其の島より敦賀(つるが)には出づなる。唐人にも

「『此(かか)る島、有り』とて、人に語るな。」

とぞ口固(くちかた)むなる。

 此れを思ふに、前生(ぜんしやう)の機緣有りてこそは、其の七人の者共、其の島に行き住み、其の孫(そん)、于今(いまに)其の島に有らむ。極めて樂しき島にてぞ有るなるとなむ語り傳へたるとや。

   *]

 加賀國山代の山奧に椎谷といふところがあり、椎の木數十本が森をなして居つたが、この社地に雌雄の大白蛇が住んでゐた。雄は三間半餘り、雌は三間ばかりもあつたらう。或時雄が死んで雌ばかりになつた。里人の語るところによれば、長さ四間餘りの大百足があつて蛇を食ひ、諸獸を征服して居つたのを、村の者が集まつて打ち殺したといふ。椎谷の雄蛇も多分そのために害されたものかといふことであつた。寶曆年間に大聖寺家中福嶋源四郎のところで、不思議な物を見せられたが、大きさ男の拳ぐらゐで、漆を百度も塗つた獅子頭の如くである。何者とも辨じ得ず、主人に尋ねたら、これが里人の打ち殺した百足の頭であると説明してくれた。手に取つて熟視すれば、まがふ方なき百足の頭で、甲鐡のやうに堅かつた。「三州奇談」の著者は、山代のやうな人家より遠からぬところに、かういふ異物のあるのに驚いてゐるが、山代のやうな北國筋でない、江戸人に馴染の深い箱根の山中にも大百足の出た話がある。

[やぶちゃん注:「椎谷」現在の山代温泉の奥らしい。以下に引く原典を確認されたい。

「三間半」約六メートル。

「三間」五メートル四十五センチ。

「寶曆年間」一七五一年から一七六四年。

「大聖寺家中」大聖寺藩(だいしょうじはん)のこと。加賀藩の支藩。

 以上の話は「三州奇談」の「卷之一」の「山代蜈蚣」の一節。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。前後に蜈蚣とは異なる話が含まれるが、折角なので丸ごと電子化する。

   *

 

     山代蜈蚣

 

 山代温泉は、大聖寺を去つて一里半ホウカの渡しと云二天の末の流れ一筋を隔て、向の山の麓也。平素の田野、竹樹の村、巷(カウ)道平夷(タイラカ)なる里つゞき也。湯は家々にとりて、座敷湯にて、家ごとに二三ケ所宛(づゝ)、上湯下湯の浴(あ)み場をこしらへ、自由過ぎたる温泉のもと也。湯は淸く、香り又山中よりうすし。然れども、堀口何某(なにがし)の家に湯井三ヶ所有、湯涌返(わきかへ)りてすさまじ。是を掛樋にて取(とり)、又山水を樋に取て交へて家々に取。大樣熊野湯の峯の如し。又水に交つて涌たまり有。是は攝州有馬の湯のうはなり井の如し。男女、影をうつして口舌をなせば、水中に湯わき上る。又奇妙なり。山中より此地は湯出る事多しと覺ゆる所也。

 此湯本に豆腐屋三郎右衞門と云人あり。蛇を遣ふ事を覺え、又能く蛇を防ぐ。故に他の家には蛇多し、此の家には蛇なし。此人の物がたりに、「此上の山おくに椎谷といふ所あり。野社ありて、椎數十本森をなす。此社地に雌雄の大白蛇あり。雄は長さ三間半餘、雌は三間斗もやあらん。久敷見馴しに、或時行て見れば、雄蛇死して、いか成事にや有りけん、今は雌のみ殘れり」と物かたりを聞し。是は元文元年の比かと思ゆ。

 又此比、予が友に夫由と云人有。寶曆某の年、大聖寺家中福嶋氏〔名は源四郎〕のもとにて、一怪物をみる。其かたち大なる男の拳はどにして、黑漆百たび塗(ぬり)し獅子頭のごとし。何物なる事を辨ぜず。其故を尋けるに、福嶋氏教へて曰、「世に蜈蚣(むかで)、蛇を制すと云。故有(ある)かな。我、山代の山𢌞り役仰せ付けられしに、久しく山代の山入に有しが、里人のかたりけるは、『此の奧に長(ながさ)四間あまりの大蜈蚣ありて、蛇を喰ひ諸獸を服しけるを、村の者ども集りて終(つひ)に打殺せり。其頭、是に有よし申(まうす)ほどに、我乞求(こひもと)めてかへりぬ』となり。實(げに)も手に取てよく見れば、成(なる)ほど百足蟲にまがふ所なし。其の堅き甲鐵のごとし。此山、人家を離れて遠からざるにさへ、かゝる異物の出來たる」。然れば『山海經』も誠に其者(そのもの)有(ある)べく、江州百足山の時の事説も疑がふべきにも非ず。扨は椎谷の雄蛇も、是がために破らるゝものか。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。]

山代の奇事、此外に一向宗の寺へ矢嶋伊助と云盜賊の頭、宿かれる事有。怪術しかじか目を驚かして後(のち)、天下大盜の物がたりをなす。この一件は、先に一本をあらはす。題して『越の白波』と云。此中にくはし。此段、事永き故、此書にはもらしぬ。

   *

文中の「元文元年」は一七三六年、「四間」は七メートル二十七センチ。]

 大山石尊信者の三人連れが箱根山中で道に迷ひ、狩人の家に一宿した翌日、教へられた通り山の腰を𢌞つて行くと、何やらどろどろといふ音がする。夕立でも來るかと見上げた山の腹に、長さ三丈餘りの大百足が眠つて居り、その鼾聲が雷のやうに聞えるのであつた。三人は肝を潰し、生きた心地もなかつたが、とにかくこゝを通り拔けるより仕方がないといふので、足音をさせぬやうに一町餘り來て振り返ると、百足は俄かに目をさまし、右手の山の原を眞一文字に追駈けて來る。南無大聖不動明王、石尊大權現、命を助けさせ給へと、足の續く限り逃げたけれど、已に間近く迫つて來たと思ふ時、遙か向うの峯の繁みから、一羽の大鷲が飛んで來た。驚は百足の頭を蹴らうとし、百足は鷹に食ひ付かうとして六七尺も頭を上げるところを、飛び上つて績けざまに二三十も蹴る。遂に鋭い爪を百足の目に立て、嘴で頭をつゝき破り、さんざんに引き裂いたかと思へば、心よげに羽ばたきして、遙かに大山の空をさして飛び去つた。三人は岩陰からこの體を見て、これこそ疑ふべくもない、大聖不動明王、石尊大權現の我等を救はせ給うたのである、と信心肝に銘じ、大山の方を伏し拜み、漸く湯本に辿り著いて、入湯の後、無事に江戸へ歸ることが出來た(御伽厚化粧)。

[やぶちゃん注:「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)のこと。私の大好きな落語の「大山詣り」でも知られるように、江戸時代は庶民の根強い信仰を集めた。以下、ウィキの「大山阿夫利神社」より引用すると、祭神は『本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)』を祀るが、江戸時代までの『神仏習合時代には、本社の祭神は、山頂で霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称された。摂社の祭神は、俗に大天狗・小天狗と呼ばれ、全国八天狗に数えられた相模大山伯耆坊である』。社伝によれば崇神天皇の御代の創建され、『延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している』。天平勝宝四(七五二)年、『良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた』。『中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した』。『明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された』とある。

「三丈」約九メートル。

「御伽厚化粧」は雲吠子著で享保一九(一七三四)年刊の浮世草子怪談集。以上は「卷之三」の「八、鷲鳥喰蜈蚣 附 伊勢屋彌三七大山に參詣し石尊大權現の御利生によつて命を助りし事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]

 以上の話を通觀すると、日本の話に出る百足は常に巨大なもので、それが大きな蛇を相手に鬪ふやうであるが、必ずしもさう限つたわけでもない。「狗張子」に記された話に、或村の老人が道で百足が蛇を逐ふのを見た。百足が漸く近付けば、蛇は動かなくなつて、觀念したやうに口をあけて待つてゐる。百足は進んで蛇の腹に入り、暫くして出て來た時は、蛇は已に死んで居つた。老人はその蛇を山の中に棄てたが、十日餘りの後、そこへ行つて見たら、小さな百足が澤山生れて、蛇の肉を食ひつつある。卽ち百足は蛇の腹中に卵を産んだのだといふのである。この話は或種の蜂が蜘蛛を斃し、その腹に卵を産み付ける話に似てゐる。百足や蛇の大きさは書いてないが、それは記すに足らぬほど普通のものだつたからであらう。さういふ平凡な者同士の間にも、百足の蛇を制する事實のある一語として、この話をこゝに擧げて置きたい。

[やぶちゃん注:「狗張子」「いぬはりこ」と読む。元禄五(一六九二)年刊の浅井了意の仮名草子怪談集。七巻。中国の志怪小説「続玄怪録」「博異志」などを題材にした怪奇説話を中心に四十五篇を収録した「御伽婢子(おとぎぼうこ)」の続編。以上は「卷之七」の「五 鼠の妖怪 附 物その天を畏るること」の中で老儒洽聞(こうぶん)の語りの中の一節。全体は長く、当該話の図もるが、メイン・テーマは蛇と百足とは無関係なので、そこだけ(但し、柴田が蜘蛛云々を言ったことが関わると確信出来る部分を含む)のテクストを、所持する一九五〇年現代思潮社刊の「狗張子」から部分引用しておく。新字の上に現代仮名遣であるが、そのまま示す。しかし、このテクストはそういう点で、正直、全くダメである。

   *

またある村の叟(おきな)、蜈蚣(むかで)一つの蛇をおうを見る、行く事はなはだ(すみや)かなり。蜈蚣ようやく近けば蛇また動かず、口を張りて待つ。蜈蚣ついにその腹に入り、時を逾(こ)えて出ず、蛇既に斃れぬ。村の叟その蛇を深山(みやま)の中に棄つ。十日あまりすぎて、住きてこれを見れば、小さき蜈蚣数知らず、その腐れたる肉を食らう、これ蜈蚣卵(かいこ)を蛇の腹の中に産みけるなり。また昔一つの蜘蛛、蜈蚣を逐う事はなはだ急かなるを見る。蜈蚣逃れて籬槍竹(りそうちく)の中に入る、蜘蛛また入らず。ただし足をもつて竹の上に跨り、腹を搖(うご)かす事あまた度(たび)して去る。蜈蚣を窺うに久しくいでず、竹を剖(さ)いてみれば、蜈蚣すでに節々(ふしぶし)爛れ断れて鱟醬(かにひしお)のごとし。これ蜘蛛腹を動かす時、溺(いばり)を灑(そそぎ)てこれを殺せるならん。物のその天を畏るる事かくのごとし。いま鼠の猫の繪を懼(おそ)るるやまた同じ、あに久しくその妖怪を恣(ほしいまま)にする事を得んや」

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なお、「或種の蜂が蜘蛛を斃し、その腹に卵を産み付ける」ことは生物学的には寄生蜂の中に認められるが、柴田が安易にそこから敷衍して、生きたヘビの体内にムカデが侵入して、卵を生み、動かなくなった蛇の生体を内側から摂餌するなどということはないと私は明言する(動物の生体内にムカデが巣食うことは、ヒトのケース(鼻腔内寄生で東南アジアでごく最近、報告されている)で私は知ってはいるが、ここで安易に柴田の言っていることは、私は生物学的に信じられない。あるということであれば、是非、御教授あられたい)。……ああ! しかしこれ、ムカデが生体寄生するよりもっと気持ち悪いテクストではないか!!!

 これらはいづれも近世の話である。が、百足の蛇を制する話を遡ると、原産地は支那になるらしい。報寃蛇に追はれた旅人が、旅宿の主人の貸してくれた竹筒を枕頭に置くと、一尺ばかりの百足が這ひ出して、旅人の身體を三度𢌞つて、また筒の中に戾つた。夜が明けたら報寃蛇は已に死んでゐたといふ「獨醒雜志」の話なども、百足の蛇を制する一例であるが、話が少し小さいから、三上山や赤木山に匹敵し得ぬまでも、いくらか大きな話を擧げよう。

[やぶちゃん注:「獨醒雜志」宋の曾敏行著になる随筆。恐らく柴田の言っているのは「卷八」の以下の下線部分ではないかと思われる(下線はやぶちゃん)。中文サイトよりベタで示す(一部の漢字を変更した)。

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韻之嘗都尉廳後舊有濯嬰廟臨其池上廟毀往往仇虎墮池中年不可計矣因刀躡工肢半凡爲礪石人見而異之遂求其凡爲硯於是有灌凡之名求者既多令罕得全瓦好事考以銅雀凡不復有亦謾蓄之南俗尚蠱毒詛比可以殺人亦可以救人以之殺人而不中者或主自斃往有容游南中暑行想林下見田靑乾長二尺許戲以林學之蛇即逝去客旋惠體中不佳夜宿于逆旅主人怪問日君何從有毒氣在面也客惘然不能對主人日試語令日所見容告之故主人曰是所謂報完蛇人有觸之不遠百里襲跡而至必噬人之心乃己此蛇令尋皇容懼求救主人許諾即出寵中所供拍竹簡祝之以授容曰不必省弟冥他旁邊通夕張燈尸寢以俟聞聲即之客如戒夜分有聲在屋凡問俄有物墮几上笥中亦萃掌響應舉之乃蝶蛤長尺許盤禍而出逮客之身三匝徑至几上有頃復歸商中容即覺體力醒然逮旦視之則前所見蛇斃焉容始信主人之不妄重謝而云又匕客亦以暮夜投宿合翁與其子脾睨容所攜客疑之乃物色翁所丙規見其父子出銅猴繪像禱之甚謹乃戒僕終夕不寐伏斂以伺己乃推戸而入者即一蟠猴人司而長揮餌逐之逡巡失去有頃聞器障則舍翁之子死矣陳忠肅公居南康日乙夕忍夢手得之尹呂句云靜坐一川煙雨未辦雷音起處夜深風作輕寒淸曉月明歸去既覺語具子弟且令記之次年徒居山陽見靡日於壁間忽點頭曰此且辭莫以筆點淸明日曰是日佳也人莫知何謂乃以其年淸明日卒劉覓夫憫丞相流之孫也崇觀中爲次對靖炎圍廢罷嘗得旨敘復祕閣修撰臣僚論列以爲具所靡差遣則爲秦盛肘按協聲律及提舉導錄院管幹丈字具所轉官則繆按樂精熟及修遺蘇院興管幹醒雪書園陵其所賜帶則因撰祥應記具所被譴則以臣僚論具爻結附會覽未田是終身不復職名官襄甲辰廷試進士以氣數爲問周表卿執羔素通此學對策極該博自謂當魁書壬或吾之沈元用從貂瑞假壽布專而後答間表卿驚曰果爾吾當少遜之妻然亦不在他人下也置日臚唱元用居第裏卿次之泗州浮屠下有僧伽像徽宗時改僧爲德士僧皆頂冠泗州太守亦令以冠加於像上忽天地晦冥風雨驟至冠裂爲兩飛墜于門外舉城驚怖莫知所爲守遽冀曰僧柳有神吾不敢強逐止

   *]

 或人が溫州の雁蕩山を過ぐるに當り、眞晝の谷に沿うて步いて來ると、忽ち溫い風が鼻を撲つ。はてなと思ふ間もなく、長さ散丈もある蛇が、宙を飛ぶやうにして逃げて來る。そのあとから五六尺ぐらゐの百足が、紫金色の身を光らせて追つて來るのが見えた。蛇は一躍して水中に入つたが、百足はそこまでは追はず、水に臨んでぐるぐる𢌞りはじめた。多くの足をがさがさ鳴らし、鬚を以て水を打つうちに、口から血のやうに紅い丸を吐き出した。丸が水中に落ちると、暫くしてぐらぐら沸き立ち、蛇は苦しげに身を動かして、殆ど死んだものの如く水面に浮び上つた。百足は蛇の頭上に飛んでその腦を啄み、水の中の丸を吸ひ取るが早いか、空に騰つてしまつた(子不語)。

[やぶちゃん注:「五六尺」一・五~一・八メートルだから、巨大なムカデである。

「丸」「ぐわん(がん)」。丸い玉のようなもの。

「騰る」「のぼる」或いは「あがる」。前者で読みたい。

 これは「子不語」の「第八卷」の「蜈蚣吐丹」である。以下に中文サイトより、一部の記号を変更して示す。

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余舅氏章升扶、過溫州雁蕩山、日方午、獨行澗中。忽東北有腥風撲鼻而至、一蟒蛇長數丈、騰空奔迅、其行如箭、若有所避者、後有五六尺長紫金色一蜈蚣逐之。蛇躍入溪中、蜈蚣不能入水、乃舞踔其群、颯颯作聲、以鬚鉗掉水。良久、口吐一紅丸如血色、落水中。少頃、水如沸湯、熱氣上衝。蛇在水中顛仆不已、未幾死矣、橫浮水面。蜈蚣乃飛上蛇頭、啄其腦、仍向水吸取紅丸、納口中、騰空去。

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 百足が空に騰るのはいさゝか妙だが、この百足は紅い丸を吐いたりして、何か妖術を心得てゐるやうだから、尋常の百足とは違ふのかも知れぬ。

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