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2017/02/26

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(3)/「天狗の誘拐」~了

 天狗のところから戻る徑路は、本人にも不明瞭なのが多いやうだが、中にはそこに一くさり話の加はつてゐるのがないでもない。江戸白金の瑞聖寺にゐた七助といふ男は、朝飯を焚いてゐるうちに行方不明になつた。六年ばかりたつて、七助が紛失したその月その日に、門前に罵り騷ぐ人聲が聞えるので、何事かと寺僧が出て見ると、遠かなる空中より、一むらの黑雲の如きものが次第に地に下りて來る。やがて瑞聖寺の庭に落ちたのは大きな蓮の葉であつた。その中にうごめく者があるのを開けば、七助が茫然として這ひ出した。一兩日經て彼の語るところを聞くに、或僧に伴はれて天竺まで行つた、その土地の人物言語、甚だ異樣である、たまたま火事があつて大騷ぎになつた時、この蓮の實の中に入つてゐよ、と云はれ、包んで抛り出されたと思つたが、その後は何も覺えてゐないといふのである(譚海)。

[やぶちゃん注:「瑞聖寺」「ずいしょうじ」(現代仮名遣)と読み、現在の東京都港区白金台三丁目にある黄檗宗系禅宗寺院である紫雲山瑞聖寺。本尊は釈迦如来。創建は寛文一〇(一六七〇)年で開山は本邦の臨済宗黄檗派(黄檗宗)第二代の明の渡来僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年:江戸時本山黄檗山萬福寺開山で黄檗宗祖隠元隆琦(一五九二年~寛文一三(一六七三)年:福建省福州福清県生まれ。萬福寺は生地福清の古刹)の弟子)。江戸時代は幕末まで江戸黄檗宗の中心寺院として壮大な伽藍を誇った。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「譚海」の「卷の二」にある「江戸白銀瑞聖寺什物(じふもつ)天竺蓮葉の事」。この話はかなり有名なもので、私が「譚海」電子化の底本としている一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂注版の注によれば、これに基づいた多数の伝承が存在するらしい。読みは私が推定(歴史的仮名遣)で添えて以下に示す。「苒々」はオノマトペイア(擬態語)。二箇所の「覺へ」はママ。
   *

○江戸白銀瑞聖寺は、黃檗山(わうばくさん)の旅宿寺也。瑞聖寺に年來(としごろ)勤め居たる男七助と云(いふ)もの、一日朝飯焚(たき)ゐたるが、そのまゝ跡をかくし行方なし。月日を經(ふ)れば入水(じゆすゐ)などせしにやなど皆々申(まうし)あひたるに、六年過(すぎ)て七助うせたる其月のその日に、門前にて人ののしりあざむ事甚し。何事にやと寺僧も出(いで)て見るに、遙(はるか)なる空中より一むら黑雲の如きもの苒々(ぜんぜん)に地へ降る、是をみて人騷動する也。さて程なく空中のものくだり來て瑞聖寺の庭に落たり、大なる蓮の葉也。その内にうごめく物有(あり)、人々立寄(たちより)て開きみれば件(くだん)の七助茫然として中より這出(はひいで)たり。奇怪なる事いふばかりなし。一兩日過(すぎ)て、七助人心地(ひとごこち)付(つき)たる時、何方(いづかた)より來(きた)るぞと尋(たづね)たれば、御寺に居たるに僧一人來りて天竺へ同伴せられしかば、共に行(ゆく)と覺えしに、さながら空中をあゆみて一所に至る時、其所の人物言語共に甚(はなはだ)異也(ことなり)、天竺なるよし僧のいはれしに、折しも出火ありてさはがしかりしかば、此僧われにいはるゝ樣(やう)、この蓮の葉に入(いり)てあれと入(いれ)たれば、やがて包みもちて投(なげ)すてらるゝと覺へし、その後(のち)何にも覺へ不申(まうさず)といひけり。此蓮の葉は天竺の物なるべし、八疊敷程ある葉也。寺庫に收(をさめ)て今にあり、蟲干の節は取出(とりいだ)し見する也。此七助その後八年程ありて七十二歳にして寺にて卒したり。此蓮の葉彼寺の蟲干の節行逢(ゆきあひ)て、正しく見たる人の物語也。

   *

この話、個人的には好みである。]

 加藤嘉明の家來小嶋傳八の一子に惣九郎といふのがあつたが、十一歳の春の末に行方不明になつた。百方搜索しても更にわからぬ。唯一の手がかりといふべきは、古手屋甚七なる者が、朝早く店戸をあけると、大山伏が二人、惣九郎を中に挾み、前後に立つて東に向ひ道を急いで來る、一人の山伏が甚七のところへ來て、この邊に十歳ばかりの子供の穿く草鞋の質物はないかと尋ねたので、無いと答へたらそれきりどこかへ行つてしまつた、といふ報告だけである。傳八夫婦は天狗にさらはれたものとし、妙法寺の日覺上人といふ大德に祈禱を乞うた。早速護摩壇を飾り、法華坊主二十人ばかりで讀經祈禱を續けるほどに、滿願の七日の晝中、一點の雲もない青空にぽつりと小さい物が見えた。見物の諸人は山をなして、いづれもこれを仰いでゐると、東の方より大鳶一羽來つて、これをさらひ取らうとすることが度々であつたが、一羽の金色の鴉がどこからか現れて、この鳶を隔てて近付かせぬ。だんだん地に下つて來て、三十番神の壇に落ちたのを見れば、紛れもない小嶋惣九郎であつた(老媼茶話)。

[やぶちゃん注:「加藤嘉明」(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で大名。豊臣秀吉の子飼衆で賤ヶ岳の七本槍一人。伊予松山藩・陸奥会津藩の初代藩主。

「小嶋傳八」不詳。

「古手屋」「ふるてや」と読み、古着や古道具を売買する店。

「三十番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。

 以上は「老媼茶話」の「卷の三」の、ズバリ、「天狗」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して以下に示す。但し、そこでは小島傳八の主君を『加藤嘉成』とする。実名表記を憚った意識的変更か。最後の「空氣」は「うつけ」と読む。

   *

 加藤嘉成の士に小嶋傳八一子惣九郎、十一の春の暮、何方へ行けるかかひくれて見へす。さまさま尋見れ共、行衞更に知れす。傳八夫婦鳴悲しみ、佛神へきせいをかけ御子・山伏を賴み、色々祈願なす。甲賀丁に古手屋甚七といふもの、傳八方へ來り申けるは、「是の惣九郎樣廿日斗前の曉頃、我等用事有てはやく起、見せの戸をひらき候折、大山伏兩人跡先に立、惣九郎樣を中にはさみ、東へ向きて道をいそき候か、壱人の山伏我等か方へ参り、「此辺に十斗成子共のはくへきわらちのうりものは、これなきや否や」と申。「無」と答へ候へは、夫よりいつく江行候や、姿を見失ひ申候」と語る。

 傳八夫婦聞て、「扨は天狗にさらわれたるもの也」とて、其頃妙法寺の日覺上人といふたつとき出家を賴、五の町車川の端に護摩壇をかさり、法家坊主弐拾人斗にて經讀祈禱する。七日にまんする日中、一點の雲なき靑天虛空にちいさき物見ゆる。見物の諸人山をなして空を見るに、東より大とび壱羽飛來り。是をさらい取んとする事度々なり。時に壱羽金色の烏何方共なく飛來り。此鳶を隔て近つけす、段々に地にくたり、間近く見るに人なり。三拾番神の壇に落たるを見るに、小嶋惣九郎也。諸人奇異の思ひをなし、其頃、日覺上人をは佛の再來也と諸人沙汰せしといへり。惣九郎は一生空氣に成、役にたゝさりしと也。

   *]

 この歸還の模樣は、前の瑞聖寺の七助の話と相通ずるものがある。たゞ違ふのは、七助が七十二まで瑞聖寺にながらへたといふのに、惣九郎は一生うつけのやうになつて物の役に立たなかつたといふ點である。

 以上の誘拐談と少し型の違ふのが「雪窓夜話抄」に出てゐる。西野午之進といふ人が讚岐に居つた頃、乳母が三四歳ばかりになる甥を抱いて、日の暮れ方門外に居るところ、山伏が一人やつて來て、さてもよい生れつきである、この子はよい相を備へてゐる、ちよつと抱かせられい、と云つて抱き取るが早いか、飛鳥の如く見えなくなつた。乳母は泣きわめいて追駈けたが、更に行方知れず、父母も午之進も四方に人を出して搜させたけれども、その踪跡は杳として不明であつた。それから十五六年たつて、三四人連れの山伏が、午之進に逢ひたいと云つて訪ねて來た。不審に思ひながら座敷に通すと、上席に坐つた山伏が、こゝに居る若者は正しくあなたの甥である、成長の樣をお目にかけようと存じ、これまで連れて參つた、よくよく御覽なされい、と云ふ。午之進は感淚に堪へかね、その手を執つて父母にも逢はせ、せめて一兩日も逗留させたいと云つたが、人家に宿る者ではないと云つて承知しない。煮焚きしたものは一切食はぬといふので、瓜などを出してもてなした。午之進はその後因幡へ來て主取りをしたが、或時百姓が摩尼山へ薪を採りに行くと、山伏が七八人、摩尼の奧の院、立岩のあたりに休んでゐる。そのうちの一人が百姓に向ひ、當國に西野午之進といふ人が居る筈だが、今も息災であるか、と尋ねた。無事の旨を答へたら、今に武運長久の祈念を怠らぬと、午之進殿に傳へて貰へぬか、といふ。御名はと聞いても、名は申すに及ばぬ、自分は午之進の甥だから、さう云へばわかる、たゞ何となく傳へて貰ひたい、と云つて立ち去つた。午之進は百姓からこの話を聞いて幾度かうなづき、自分の甥は天狗になつて、この御國へも來たに相違ない、と答へた。

[やぶちゃん注:「踪跡」(そうせき)は「蹤跡(しょうせき)」に同じい。行方(ゆくえ)の意。

「主取り」(しゆうどり(しゅうどり))は、新たに主人に仕えることや武士などが主君に召し抱えられることを指す。

「摩尼山」(まにさん)は現在の鳥取県鳥取市にある山。標高三百五十七メートル。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「雪窓夜話抄」の「卷上」の「卷一」にある「西野午之進が甥の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のと次で視認出来る。]

 この話の中で常に午之進が登場し、兩親は陰になつてゐるのは、午之進に子がなくて特にその甥を可愛がつたとか、ゆくゆくは養子に貰ふ約束があつたとか、何か事情がなければなるまい。甥が因幡まで來て午之進の安否を問ひ、武運長久を祈つてゐるなどといふのも、單なる叔姪の關係ではなささうに思はれるが、「雪窓夜話抄」はこの點には少しも解れずにゐる。

[やぶちゃん注:「叔姪」「しゆくてつ(しゅくてつ)」と読み、叔父と姪又は甥のこと。]

 

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