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2017/02/15

柴田宵曲 妖異博物館 「飯綱の法」

 

 飯綱の法

 

 淸安寺といふ寺の和尚は狐をつかふといふ評判であった。橋本正左衞門といふ人がふとした事から懇意になり、折々夜ばなしに行くやうになつた。或晩も五六人寄り合つて話してゐる時、お慰みに一つ芝居を御覽に入れませう、と和尚が云つたと思ふと、忽ち座敷は芝居の體になり、道具の仕立て、鳴物の拍子、名高い役者の出て働く體、何一つ正眞の歌舞伎と違ふところもない。一同大いに感心した中にも、正左衞門は殊に不思議を好む心が強いので、どうかしてかういふ術をおぼえたいと思ひ、その後も屢々和尚をおとづれた。和尚の方でも正左衞門の心中を察し、そなたは飯綱の法を習ひたいと思はるゝか、それならば明晩から三夜續けておいでなされ、愚僧が三度おためし申した上、それが堪へらるゝやうならば、必ず傳授致さう、と云ひ出した。正左衝門は飛び立つばかり悦んで禮を述べ、如何なる事でも堪へ忍んで、飯綱の法を習得しようと決心した。翌日は日の暮れるのを待つて出かけると、先づ一間に通し、やがて和尚が出て來て、もし堪へがたく思はれたならば、いつでも聲を揚げて赦しを乞はれよ、と云つたなり、どこかへ行つてしまつた。間もなく夥しい鼠が出て、膝に上り、袖に入り、襟を渡りなどするので、うるさくて堪らぬけれども、どうせこれは本當のものではあるまい、咬まれたところで疵はつくまい、と心を据ゑ、ぢつと堪へてゐたら、暫くして何もゐなくなつた。和尚が姿を現して、いや御氣丈な事である、明晩またおいでなされ、と挨拶する。翌晩は鼠の代りに蛇で、よほど我慢しにくかつたけれども、本物でないといふことだけで堪へ通した。あと一晩濟ませば傳授を得られると、よろこんで翌晩出かけると、今度はいくら待つても何も出て來ない。少し退屈した時分に、意外な者が現れた。早く別れた實母が、末期(まつご)に著てゐた衣類のまゝの憔悴しきつた容貌で、ふはふはと步いて來て、向ひ合つて坐つたきり何も云はぬ。この實母の末期の樣相は寸時も正左衞門の心を離れぬものなので、鼠や蛇とは同日の談でない。たうとう我慢出來なくなつて、眞平御免下さい、と聲を揚げたが、母と見えたのは實は和尚で、笑ひながらそこに坐つて居つた。正左衞門も面目なくて、それより二度と和尚のところへは行かなかつた(奧州波奈志)。

[やぶちゃん注:「飯綱の法」「飯綱」(いづな)は管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐によれば、『日本の伝承上における憑き物の一種』とされるもので、『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』(下線やぶちゃん)。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」などと『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。なお、実在する食肉目最小種である哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ型亜目イタチ科イタチ属イイズナ(飯綱) Mustela nivalis(「コエゾイタチ」とも呼ばれる)が同名で実体原型モデルの一つではあるが、同種は本邦では北海道・青森県・岩手県・秋田県にしか分布しないので、寧ろ、イヌ型亜目イヌ科キツネ属 Vulpes をモデルとした広義の狐の妖怪(妖狐)の一種と採る方がよい。なお、所謂、「妖狐」の分類については、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)』の私の注を参照されたい。

「淸安寺」不詳。

「奧州波奈志」先の「むかしばなし」の作者仙台藩医の娘で女流文学者・国学者であった只野真葛の文政元(一八一八)年成立の奥州を中心とした地方説話集(但し、江戸と跨る話柄も含まれる)。以上はその「十四 狐つかひ」である。例の国書刊行会「叢書江戸文庫」版の「只野真葛集」を参考底本として、例の仕儀で示す。オリジナルに歴史的仮名遣で読み(推定)を附した。

   *

     狐つかひ

 淸安寺といふ寺の和尚は、狐をつかひにて有(あり)しとぞ。橋本正左衞門、ふと出會(であひ)てより懇意と成(なり)て、をりをり夜(よ)ばなしにゆきしに、ある夜(よ)五六人より合(あひ)て、はなしゐたりしに、和尚の曰、「御慰(おなぐさみ)に芝居を御目にかくべし」と云しが、たちまち芝居座敷の躰(てい)とかはり、道具だての仕かけ、なりものゝ拍子(へうし)、色々の高名(かうみやう)の役者どものいでゝはたらくてい、正身(しやうしん)のかぶきに、いさゝかたがふことなし。客は思(おもひ)よらず、おもしろきことかぎりなく、居合(ゐあひ)し人々、大(おほい)に感じたりき。正左衞門は、例のふしぎを好(すく)心から分(かき)て悦(よろこび)、それより又習(ならひ)たしと思(おもふ)心おこりて、しきりに行(ゆき)とぶらひしを、和尚其内心をさとりて、「そなたには、飯綱(いづな)の法、習たしと思はるゝや。さあらば先(まづ)試(ためし)に、三度(たび)ためし申(まうす)べし。明晩より三夜(や)つゞけて來られよ。これをこらへつゞくるならば、傳授せん」とほつ言(げん)せしを、正左衞門とび立(たつ)ばかり悦(よろこび)て、一禮のべ、いかなることにてもたへしのぎて、その飯綱の法ならはゞやと、いさみいさみて、翌日暮るゝをまちて行(ゆき)ければ、先(まづ)一間にこめて壱人(ひとり)置(おき)、和尚出むかひて、「この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても聲をあげて、ゆるしをこはれよ」と云(いひ)て入(いり)たり。ほどなくつらつらと、鼠のいくらともなく出來て、ひざに上り袖に入(いり)、襟(ゑり)をわたりなどするは、いとうるさく迷惑なれど、誠(まこと)のものにはあらじ、よしくはれても疵はつくまじと、心をすゑてこらへしほどに、やゝしばらくせめて、いづくともなく皆なくなりたれば、和尚出て、「いや、御氣丈なることなり」と挨拶して、「明晩來られよ」とて、かへしやりしとぞ。あくる晩もゆきしに、前夜の如く壱人居(ゐる)と、此度は蛇のせめなり。大小の蛇いくらともなくはひ出て、袖に入(いり)襟にまとひ、わるくさきことたへがたかりしを、是(これ)もにせ物とおもふばかりに、こらへとほして有(あり)しとぞ。いざ、明晩をだに過(すぐ)しなば傳授を得んと、心悦(よろこび)て翌晩行(ゆき)しに、壱人有(あり)て、待(まて)ども待ども何も出(いで)こず。やゝ退屈におもふをりしも、こはいかに、はやく別(わかれ)し實母の、末期(まつご)に着たりし衣類のまゝ、眼(まなこ)引(ひき)つけ、小鼻(こばな)おち、口びるかわきちゞみ、齒出(いで)て、よわりはてたる顏色、容貌、髮のみだれゝけたるまで、落命の時分(じぶん)身にしみて、今もわすれがたきに、少しもたがはぬさまして、ふはふはとあゆみ出(いで)、たゞむかひて座したるは、鼠蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみたとへがたく、すでに詞(ことば)をかけんとするてい、身にしみじみと心わるく、こらへかねて、「眞平御免被ㇾ下(まつぴらごめんくださる)べし」と聲を上(あげ)しかば、母と見えしは和尚にて、笑座(しやうざ)して有(あり)しとぞ。正左衞門面目(めんぼく)なさに、それより後(のち)二度(ふたたび)ゆかざりしとぞ。

   *]

 この話は「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる。仙たらんとして志を果さなかつた杜子春の試練にも相通ずるところがある。道則は最初の試練に失敗したので、第一の祕術は得られなかつたけれども、第二の術を學び歸つて都の人々を驚かした。その中に「み几帳の上より賀茂祭などわたし給ひけり」といふ一條がある。これは多分淸安寺の和尚が座敷で芝居を見せたやうなものであらう。

[やぶちゃん注:『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話』後に示す「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)。なお、「瀧口」は姓ではなく宮中の、近衛兵に当たるところの「滝口の武士」のそれである。

「杜子春の試練」唐代伝奇として知られる李復言の「杜子春傳」及び芥川龍之介「杜子春」をどうぞ! この私の電子テクストは完璧!

 以下、「宇治拾遺物語」の「瀧口道則習術事」を示す。

   *

  瀧口道則習術事

 昔、陽成院(やうぜいのゐん)位(くらゐ)にておはしましける時、瀧口道則、宣旨を蒙(かうむ)りて、陸奧(みちのく)へ下るあひだ、信濃の國ひくに[やぶちゃん注:未詳。]といふ所にやどりぬ。郡(こほり)の司(つかさ)に宿をとれり。設(まう)けしてもてなしてのち、あるじの郡司は、郎等(らうどう)引き具して出でぬ。

 いも寢られざりければ、やはら起きて、ただすずみありくに、見れば、屛風をたてまはして、疊など淸げに敷き、火燈(とも)して、よろづめやすきやうにしつらひたり。

「そら薰物(だきもの)するやらん。」[やぶちゃん注:「そら薰物」判らぬように香を焚き燻くゆらすことを言う。]

と、香(かう)ばしき香(かほり)しけり。

 いよいよ心にくく覺えて、よく覗きて見れば、年二十七八ばかりなる女一人ありけり。みめことがら[やぶちゃん注:容貌・体(からだ)つき。]、姿、有樣、ことにいみじかりけるが、ただ一人臥したり。見るままに、ただあるべきここちせず[やぶちゃん注:そのまま見過ごせるような感じがしない。既にはからずも妖異に惹かれてしまっているのである。]。あたりに人もなし。火は几帳(きちゃう)の外に燈(とも)してあれば、明(あか)くあり。

 さて、この道則、思ふやう、

「よによに[やぶちゃん注:いや! 誠に!]ねんごろにもてなして、志(こころざし)ありつる郡司の妻を、うしろめたなき心つかはんこと、いとほしけれど[やぶちゃん注:バツが悪いけれど。]、この人の有樣をみるに、ただあらむことかなはじ。」

と思ひて、寄りて傍(かたはら)に臥すに、女、けにくくも[やぶちゃん注:小憎らしいことに。]おどろかず、口おほひをして、笑ひ臥したり。言はむ方なく嬉しく覺えければ、九月(ながつき)十日ごろなれば、衣(きぬ)もあまた着ず、一襲(かさね)ばかり男も女も着たり。香ばしき事限りなし。

 我が衣(きぬ)をば脱ぎて、女の懷(ふところ)へ入るに、しばしは引き塞(ふた)ぐやうにしけれども、あながちにけにくからず。懷に入りぬ。

 男の前の痒(かゆ)きやうなりければ、探りて見るに、物、なし。驚き怪しみて、よくよく探れども、頤(おとがひ)に鬚(ひげ)を探るやうにて、すべて跡形(あとかた)なし。おほきに驚きて、この女のめでたげなるも忘られぬ。この男の探りて。怪しみくるめくに、女、すこしほほゑみてありければ、いよいよ心えず覺えて、やはら起きて、わが寢所(ねどころ)へ歸りて探るに、さらに、なし。

 あさましくなりて、近く使ふ郎等(らうだう)を呼びて、かかるとは言はで、

「ここにめでたき女あり。われも行きたりつるなり。」

といへば、悦びて、この男(をのこ)去(い)ぬれば、しばしありて、よによにあさましげにて、この男、出で來たれば、

「これもさるなめり。」

と思ひて、また、異(こと)男を勸めて遣(や)りつ。これもまた、しばしありて出で來ぬ。空を仰ぎて、よに心得ぬ氣色(けしき)にて歸りてけり。かくのごとく、七、八人まで郎等を遣るに、同じ氣色に見ゆ。

 かくするほどに、夜も明けぬれば、道則、思ふやう、

「宵(よひ)にあるじのいみじうもてなしつるを、嬉しと思つれども、かく心得ずあさましきことのあれば、とく出でむ。」

と思ひて、いまだ明け果てざるに、急ぎて出づれば、七、八町行くほどに、後(うしろ)より呼ばひて馬を馳(は)せて來る者あり。走りつきて、白き紙に包みたる物を差し上げて持て來(く)。

 馬を引へて待てば、ありつる宿に通(かよ)ひしつる[やぶちゃん注:給仕を担当していた。]郎等なり。

「これは何(なに)ぞ。」

と問へば、

「これ、郡司の『參らせよ』と候ふ物にて候ふ。かかる物をば、いかで捨ててはおはし候ふぞ。形(かた)のごとく、御まうけ[やぶちゃん注:朝食の用意。]して候へども、御いそぎに、これをさへ落させ給ひてけり。されば拾ひ集めて參らせ候ふ。」

と言へば、

「いで、なにぞ。」

とて取りて見れば、松茸を包み集めたるやうにてある物、九つあり。あさましく覺えて、八人の郎等どもも、怪しみをなして見るに、まことに九つの物あり。一度に、さつと、失せぬ。さて、使ひはやがて馬を馳せて歸りぬ。そのをり、わが身よりはじめて、郎等ども、皆、

「ありあり。」

と言ひけり。

 さて、奧州にて金(くがね)受け取りて歸るとき、また、信濃のありし郡司のもとへ行きて宿りぬ。さて、郡司に、金・馬・鷲の羽など多く取らす。郡司、よによに悦びて、

「これはいかにおぼして、かくはし給ふぞ。」

といひければ、近く寄りていふやう、

「かたはらいたき申しことなれども、はじめこれに參りて候ひし時、怪しきことの候ひしは、いかなることにか。」

といふに、郡司、物を多く得てありければ、さりがたく思ひて、ありのままに言ふ。

「それは、若く候ひしとき、この國の奥の郡に候ひし郡司の、年よりて候ひしが、妻の若く候しに、忍びてまかり寄りて候ひしかば、かくのごとく失せてありしに、怪しく思ひて、その郡司にねんごろに志(こころざし)を盡して習ひて候ふなり。もし習はんとおぼしめさば、このたびは、おほやけの御使ひなり、すみやかに上(のぼ)り給て、また、わざと[やぶちゃん注:改めて。]下り給ひて、習ひ給へ。」

と言ひければ、その契(ちぎ)りをなして、上りて、金(こがね)など參らせて、また、暇(いとま)を申して下りぬ。

 郡司にさるべき物など持ちて、下りて取らすれば、郡司、おほきに悦びて、

「心の及ばんかぎりは教へん。」

と思ひて、

「これは、おぼろけの心にて習ふ事にては候はず。七日、水を浴(あ)み、精進をして習ふことなり。」

と言ふ。そのままに淸(きよ)まはりて、その日になりて、ただ二人連れて、深き山に入りぬ。大きなる川の流るるほとりに行きて、さまざまのことどもを、えもいはず罪深き誓言(せいごん)ども、立てさせけり。

 さて、かの郡司は、水上へ入りぬ。

「その川上より流れ來(こ)ん物を、いかにもいかにも、鬼にてもあれ、何にてもあれ、抱いだ)け。」

と言ひて行きぬ。

 しばしばかりありて、水上の方(かた)より、雨降り、風吹きて、暗くなり、水、まさる。しばしありて、川より、頭(かしら)一抱(ひといだ)きばかりなる大蛇(だいじや)の、目(まなこ)は金椀(かなまり)を入れたるやうにて、背中は靑く紺青(こんじやう)を塗りたるやうに、首(くび)の下は紅(くれなゐ)のやうにて見ゆるに、先(まづ)來(こ)ん物を抱(いだ)けと言ひつれども、せん方なく恐ろしくて、草の中に伏しぬ。

 しばしありて、郡司、來たりて、

「いかに。取り給ひつや。」

と言ひければ、

「かうかう覺えつれば、取らぬなり。」

と言ひければ、

「よく口惜しきことかな。さては、このことはえ習ひ給はじ。」

と言ひて、

「いま一度、試みん。」

といひて、また入りぬ。

 しばしばかりありて、やを[やぶちゃん注:不詳。「八尺」の誤りか。]ばかりなる猪(ゐ)のししの出で來て、石をはらはらと碎けば、火、きらきらと出づ。毛をいららかして走りてかかる。せん方なく恐ろしけれども、

「これをさへ。」

と思ひきりて、走り寄りて抱(いだ)きて見れば、朽木(くちき)の三尺ばかりあるを抱きたり。妬(ねた)く、悔(くや)しきこと限りなし。

「初めのも、かかる物にてこそありけれ、などか抱かざりけん。」

と思ふほどに、郡司、來たりぬ。

「いかに。」

と問へば、

「かうかう。」

と言ひければ、

「前(まへ)の物、失ひ給ふことはえ習ひ給はずなりぬ。さて、異事(ことごと)の、はかなき物を物になすことは、習はれぬめり。されば、それを教へむ。」

とて、教へられて、歸り上りぬ。口惜しきこと限りなし。

 大内(おほうち)に參りて、瀧口どものはきたる沓(くつ)どもを、あらがひをして、皆、犬子(いぬのこ)になして走らせ、古き藁沓(わらぐつ)どもを、三尺ばかりなる鯉になして、臺盤(だいばん[やぶちゃん注:食物を盛った器を載せる食台。])の上に躍らすることなどをしけり。

 帝(みかど)、この由をきこしめして、黑戸の方(かた)に召して、習はせ給ひけり。御几帳(みきちやう)の上より、賀茂祭(かもまつり)など渡し給ひけり。

   *

但し、これは「今昔物語集」の「卷二十」に載る「陽成院御代瀧口行金使習外術語第十」(陽成院の御代(みよ)、瀧口、金(くがね)の使ひに行きて外術(げずつ)を習ふ語(こと)第十)と殆ど同話である。それを示すときりがなく、ダブって面白くなくなるだけなので、そちらはまた、私の『「今昔物語集」を読む」』ででもお示しすることと致そう。]

 江戸時代にはこの種の異術を飯綱の法と称したので、「老媼茶話」などにも似たやうな奇談をいくつか擧げてゐる。飯綱の法と斷つてはないが、「耳囊」に見えた紅毛人の奇術などもこれに類するらしい。長崎奉行の用役を勤めた福井といふ男が、主人の供をして長崎に赴いた時、母親が病氣と聞いて、江戸の事を思ひ續け、鬱々として暮すうちに、食も進まず呆然としてゐる。主人も大いに憐れみ、いろいろ療治を加へたが、或人の話に、さういふ病氣は紅毛人に見せれば、何か奇法がある筈だといふことなので、紅毛屋敷へ行き、通辭を以て申し入れた。カピタンから醫師に話すと、盤に水を汲み、この中へ頭をお入れなさい、といふ。指圖通りにしたところ、襟を押へて暫く水中に押入れ、眼をお開きなさいと云はれて眼を開けば、凡そ六七間も隔てたと思ふあたりに、母親の帷子(かたびら)らしいものを縫つてゐる樣子がはつきり見えた。その時、水中より顏を引き上げ、何か藥をくれたから、それを用ゐて全快した。程なく江戸へ歸り、積る話をした際、母親の方から、一年餘りの在勤中は、戀しいこと限りなかつたが、或日お前の帷子を縫ひながら、ふとお鄰りの方を見たら、塀の上にお前の姿がありありと浮び、暫く顏を見合せたことがある、決して夢ではない、と云ひ出した。その時日を尋ねるのに、長崎で紅毛人の療治を受けたのと全く同日同刻であつた。

[やぶちゃん注:『「老媼茶話」などにも似たやうな奇談をいくつか擧げてゐる』これは「老媼茶話」の「卷之六」の「飯綱(いつな)の方(はう)」であろう(一条の中に複数例を挙げてある)。やや長いが以下に例の仕儀で示す。本文の一部を濁音化し、読みは原典の誤りが多いので、オリジナルに附した。

   *

 

     飯綱の法

 

 狐は疑(うたがひ)多きけた物[やぶちゃん注:「獸物」で「けだもの」。]なり。能(よく)化(ばけ)て人をまどわす。人常に知る處也。聲患(うれふ)る時は兒(ちご)の鳴(なく)がぎとく、聲よろこぶ時は壺を打(うつ)がごとし。白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老(おい)たり。化して女と成(なり)顏色よし。見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)。

 近世本邦に狐を仕ふ者有。呼(よび)て飯綱(いづな)の法といへり。其法先(まづ)精進けつさいにして身を淸め、獨り野山に遊び狐の穴居をもとめ孕狐(はらみぎつね)を尋(たづぬ)。此狐を拜して曰、「汝が今孕む所の狐、産れば我(わが)子とせん。必(かならず)我に得させよ」と。それより日夜にしのんで食事をはこびて、母狐(ははぎつね)子を産(うむ)に及び彌(いよいよ)勤(つとめ)て是を養ふ。子すでに長じて母狐子を携さへ術者の元に來(きた)り。子に名を付(つけ)て、「今日よりして如影隨身(かげのごとくみにしたがひ)心の儘(まま)にせよ」と云(いふ)。術者兒狐(こぎつね)に名を付(つく)る。母狐悦び拜して子をつれて去る。是よりして後、術者事あれば潛然(ひそか)に狐の名を呼(よぶ)に、狐形(かたち)を隱し來りて人の密事(みつじ)を告(つげ)、術者におしゆるまゝ、術者狐のおしゑのまゝに妙を談する間、則(すなはち)人、「神に通ぜり」と思へり。若(もし)狐を仕ふもの少(すこし)にても色欲どんよくにふける心有(ある)時は、此術行ふ事あたはず、狐も又弐度(ふたたび)來らずと言へり。

 近所奧州筋の國主に仕へける士に能(よく)飯綱の法(はふ)修せる人有(あり)。此人江戸江登り候折(をり)、小金井の宿に泊りける時、あるじ夫婦のもの立出(たちいで)申(まうし)けるは、「我(われ)壱人(ひとり)の娘有(あり)。近きころ妖狐の爲に惱まされ半死半生の體(てい)に罷在(まかりあり)候。此娘昨日の曉よりたわ言を申候。明日何時(なんどき)其國のたれかしと申(まうし)士、此所に宿をかるべし。必(かならず)宿をかすべからす。此侍此宿に留(とま)る時は我(わが)命助(たすか)り難し。いかゞせんと申(まうし)て身もだへ仕(し)、奧深く隱れふるへわなゝき罷在候。然るに娘申候に違いひなく[やぶちゃん注:ママ。衍字か或いは「たがひ言ひ」か。]、國所も御苗字もひとしき御士樣御宿(おんやど)召(めし)候まゝ、あまりふしぎにぞんし、御供の衆に承(うけたまはり)候へばかゝる怪敷(あやしき)病ひ能(よく)御直しあそばし候由承申(うけたまはりまうす)に付(つき)、恐入候得(おそれいりさふらえ)ども老人二人(ふたり)が心底(しんてい)哀(あはれ)み思召(おぼしめし)、娘が命(いのち)御助被下(おたすけくだされ)候得」と手を合(あはせ)地に伏(ふし)淚を流し賴みける間、かの士も不便(ふびん)に思ひ、「其娘爰へつれ來(きた)れ。先(まづ)對面し樣子を見るべし」と云。夫婦の者悦んで、出間敷(いでまじ)と泣悲(なきかな)しむ娘を無理に引立(ひきたて)來(きた)る。其年十弐三斗り成(なり)。きれい成(なる)娘なるが、汗を流しわなゝいて士の前にひれふし居たり。士娘をつくづくと見て、「汝奧州二本松中山(なかやま)の三郎狐(さぶらうぎつね)にてはなきか。何の恨(うらみ)ありていとけなき者に取付(とりつき)なやましくるしむる。己(おのれ)速(すみやか)にさらずんば只今命をとるべし。早々に去れ」といへども娘答へず、二三度に及んでも返事せず、且(かつ)てふくせるけしきなし。侍怒(いかり)て拔打(ぬきうち)に娘を打落(うちおと)せり。あるじ夫婦の者大きに動轉し、「是はいか成(なる)ことをなし給ふぞ」とあわてさわぐ。士の曰、「驚(おどろく)事なかれ。此(この)曉は必(かならず)其正體を知るべし」とて娘が死骸にふすまをかぶせ屛風を以(もつて)是をかこふ。あるじ夫婦のものは娘の死骸を守り終夜まどろまず。曉に成(なり)て是を見れば、年舊(としふ)りたる狐弐(ふたつ)に切られてふすまの下に死居(しにゐ)たり。夫婦悦び娘を尋(たづね)みれば奧深き處に心よく眠(ねむり)居たり。引起(ひきおこし)よく見るに何の恙(つつが)もなく日を經(へ)て元のごとく成りしといへり。

 近き頃、猪狩所右衞門(いがりしよゑもん)と云(いふ)人、能(よく)飯綱の法を行(おこなふ)。或時侍友(ども)相集りて酒半醉(はんすゐ)に及びける折、所右衞門あをのきて空を詠(なが)め、友をかへり見語りけるは、「昨夕の雨に銀河水增して桂陽の武丁(ぶてい)兄弟浮木(うきき)に乘りてすなどりをなす。われも行(ゆき)て天の川より魚をすくふて歸りおのおのをもてなすべし」と云て笠をかぶり網を提(さ)げはけご[やぶちゃん注:「佩籠」で「魚籠(びく)」のこと。]を腰に付(つけ)わらんじをはいて天へのぼる。暫(しばらく)有(あり)て又空より歸り來(きた)る姿、しとゞ濡(ぬれ)て、腰のはけどより大魚數多(あまた)取出(とりいだ)し、則(すなはち)料理して皆皆へふるまひけり。是は其座に有(ある)人のものがたりなり。

[やぶちゃん注:「桂陽の武丁兄弟」一条兼良の有職故実書「公事根源」(室町中期の応永参〇(一四二三)年頃成立)に、『「續齋諧記」に云ふ、桂陽城の武丁といひし人、仙道を得て、弟に語りて曰はく、 七月七日に織女河を渉る事あり。弟問ひてなにしに渡るぞといひければ、織女しばらく牽牛に詣づと答へき。 是れを織女牽牛の嫁(とつ)ぐ夜となりと、世の人申し傳へたるなり』とある(ここのデータに拠った)。「桂陽」は湖南省郴州市桂陽県か。]

 又寛文拾年[やぶちゃん注:一六七〇年。]の夏、ある國へ現世(げんせ)居士・未來居士といふ幻術者來(きた)り、樣々の不思義をなし諸人をまよはす。其國主是を聞召(ここしめし)、「左樣の者國にあれば諸人亂(みだれ)を發すの元也」とて召(めし)とられ、刑罪せらるゝ折、彼(かの)兩人の者ども申(まうし)けるは、「我等只今最期に及(および)候。仕殘(そのこ)したる術一(ひとつ)候。見物の各々へ見せ可申(まうすべし)。かく嚴敷(きびしき)警固の人々鑓(やり)・長刀(なぎなた)にて取(とり)かこみおはしまし候得ば、外へのがるべき樣(やう)もなし。少し繩を御ゆるし候得」といふ。警固の者ども聞(きき)て、「靑天白日なり。少し繩をゆるめたればとて、いづくへ行(ゆく)べき」とて少しなわ[やぶちゃん注:「なは」。繩。以下、同じ。]をゆるめければ、未來居士則(すなはち)なわをぬけ壹(ひとつ)の鼠となり、はり付柱[やぶちゃん注:「梁付柱」(はりつけばしら)で磔(はりつけ)の刑に用いる柱のことであろう。]の橫木江(え[やぶちゃん注:「へ」。])あがりうづくまり居たり。現世居士鳶(とび)と成り虛空に飛あがり羽をかへし空に舞ふ。暫く有て落懸(おちかか)り彼(かの)鼠をさらひ行方知らず成(なり)たり。警固のもの大きに驚き爰かしこ尋(たづね)けれども、なわはしばりし儘(まま)に殘り身斗(ばかり)ぬけたり。其刑罪の場へ出(いで)し固(かため)の役人、足輕迄いましめを蒙りたりといへり。かゝる怪敷(あやしき)者ゆるがせにすべからず。必(かなず)急(すみやか)に殺すべし。魔術を行ふ場へ牛馬鷄犬によらず何獸(なんじう)の血にても振(ふり)そゝぎ、或は糞水(ふんすゐ)をそゝぎ懸れば、妖術忽(たちまち)滅して魔法幻術かつて行はれず。また鐵砲を打うち)はなてば其(その)法破るといへり。是古人の祕法也。

 またいつの頃にや有(あり)けん、武州川越の御城主秋元但馬守殿領分三の丁と云處へ行脚の僧壱人(ひとり)來(きた)り。宿をかりけるに、あるじけんどん成る者にて宿をかさゞりけり。僧ひたすらに歎き、「日はくるゝ、いたく草臥(くたぶれ)足も引(ひか)れ不申(まうさず)。せめては軒(のき)の下なりと御かし候へ。夜(よ)明(あか)ば早々出行可申(いでゆきまうすべし)」と云。主(あるじ)是非なくしぶしぶ立て戸を開き態(わざ)と燈(ともし)をも立(たて)ず。坊主内へ入(いり)水を求(もとめ)手足を洗ひたばこを呑(のみ)休息し、「燈はなく候哉(や)」といふ。「是(これ)なし」といふ。其れ時坊主左の手をいろりの内へ差入(さしいれ)、五(いつつ)のゆびを火にもやし燈となし、目を張(はり)こぶしを握り、鼻の穴へ入るゝ事ひぢまで也。其後(そののち)鼻をしかめ口をあきくさめをすれば、長(ながさ)二三寸斗(ばかり)の人形(にんぎやう)共(ども)弐三百吐出(はいきいだ)す。此人形共立上り、てん手(で)に鍬(くは)を以(もつて)座中をからすき、忽(たちまち)苗代田(なはしろだ)の形をなし、水を引(ひき)籾(もみ)を蒔(まき)靑田となし穗に出(いで)てあからむを、人形共鎌を取(とり)大勢にて刈取(かりとり)、つきふるひ數升の米となしたり。其後坊主人形共をかき集(あつめ)大口をあき一のみに飮納(のみをさめ)、「鍋來(きた)れ鍋來れ」と呼(よぶ)に庭の片角の竃(かまど)にかけし鍋おのれとおどりて坊主が前に來りければ、坊主ふたを取、米・水を鍋に入、左右の足を蹈(ふみ)のべ、いろりの緣(ふち)へ當(あ)て傍(かたはら)に有ける大(おほ)なたを以て膝節(ひざぶし)より打碎(うちくだ)き打碎き薪(たきぎ)となし、火にくへて程なく飯を焚納(たきをさ)め、數升の米不殘(のこらず)喰盡(くらひつく)し、水を一口呑(のみ)いろりに向ひ吹出(ふきいだ)しけるに、忽(たちまち)いろり泥水と成り蓮の葉浮び出(いで)て蓮の花一面に咲(さき)、數百の蛙(かはづ)集りかまびすしく泣(なき)さわぐ。あるじみて大きに驚き、ひそかに表へ出(いで)て若き者共を呼集(よびあつ)め件(くだん)の事共(ども)を語りければ、聞(きく)者ども、「夫(それ)は慥(たしか)に化物なるべし。取逃(とりにが)すな」と訇(ののし)りてん手(で)に棒まさかりを取持(とりもち)て、くつ強(きやう)の若男(わかをのこ)十四五人斗(ばかり)家の内へ押入(おしいり)見る。坊主ゆたかに伏(ふし)ていびきの音(おと)高し。「しすましたり」と坊主が伏たる跡先(あとさき)を取(とり)かこみ、手足をとらへ頭を強く押へからめ是(これ)をとらへんとするに、坊主目を覺(さま)し、押へける手の下(した)よりふつと拔出(ぬけいで)る。是をみててん手(で)に棒をふり上(あげ)たゝき伏せんとするに、かげろふ[やぶちゃん注:陽炎(かげらふ)。]・いなづまのことく飛𢌞り手にたまらず片原(かたはら)[やぶちゃん注:傍ら。]に有ける大きなる德利の内へ飛入たり。「取逃すな」と寄り、この德利をとり上(あぐ)るにおもくしてあがらず、德利おのれとこけまわる[やぶちゃん注:ママ。]。「さらば打碎(うちくだけ)」と棒まさかりを振上(ふりあぐ)るに、德利の中より黑煙り吹出(ふいいだ)し德利の中(うち)鳴(なり)はためき、終(つひ)に二(ふたつ)にわれたり。其ひゞき大雷(おほいかづち)のごとし。十四五人の者ども氣を取失(とりうしな)ひ、爰かしこに倒れふす。このさわぎの内に坊主はいづかたへ行(ゆき)たりけん、跡形(あとかた)もなく失(うせ)けりとなり。

 昔松永彈正久秀永祿の頃、多門の城にありし時、果心居士といふ魔術者、久秀をまどはしける事あり。果心も此類にや。

   *

柴田が前に掲げた「果心居士」を最後に出しているのが、柴田の執筆の連関性共時性を感じさせて面白い。それにしても最後の坊主の話は明らかに中国の唐代伝奇以来の道士の幻術(妻から、その間男から、屋敷から何から全部、口に中から出して入れてしまうという入子形式)や、妖しの者が家内でミニチュアの小人や家畜を出現させて畑を耕す志怪譚が元だろうが、これはそれがすこぶる徹底していて間断なく、なかなか優れたインスパイアになっていると私は思う。

 以上の「耳囊」のそれは「卷之四」の「蠻國人奇術の事」である。リンク先の私の原文訳注でどうぞ。]

「譚海」に出てゐる話も紅毛人で、ほゞ似たやうなものであるが、これは病人ではない。紅毛通事の西長十郎といふ者である。紅毛人が歸國する時は、通事の人々だけがその船まで送つて行つて、離別の宴を催すことになつてゐる。或年例の如く船中で酒を酌み交したが、紅毛人も非常に機嫌よく、年年各々方の御引𢌞しで滯りなく御用を勤めることが出來ました、この御禮に御望みのものを本國から送りませう、と云つた。一同いろいろのものを賴む中に在つて、長十郎は笑談半分に、私は別に願ひはありませんが、これまで二三年に一度づつは江戸へ御同道致し、その逗留の間に在所へ參つて、妻子の安否を問ふことが出來ましたのに、このところ六年ほどは江戸へ參らず、在所の安否も知れません、これを知りたいだけが私の願ひです、と云ふと、それはわけのないことですが、構へて御他言無用、といふことであつた。長十郎も誓詞を立て、座に通事以外の人も居らぬから、紅毛人も承知して、大きな瀨戸物の鉢に水を一杯に湛へ、この中を瞬きせずに見詰めて居られゝば、在所の安否は自ら知れます、といふ。如何にも水中に郷里である栃木の道中が浮び、村舍林木まではつきりわかる。餘念なく見入つてゐると、遂に自分の家の門前に出た。門が普請中で入りにくいやうだから、垣根の外の木に上つて家の内を見入つたところ、女房は俯向いて針仕事に精を出してゐる。此方を向かぬかと見惚れてゐるうちに、半時ばかりして縫ふ手をやめ、ふと顏を見合せた。此方も何か言はうとする、女房も驚いて聲を揚げようとした途端、紅毛人が鉢の水を掻き𢌞したので、すべて消滅した。さてさて殘念なことを致した、もう少しで言葉を交すところであつた、と言ふと、今そこで言葉を交されゝば、お二人のうち一人は生命に異狀がある、何か言はれさうであつたから、その前に消して上げたのです、といふ話であつた。このあとは前の話と同じく、その後在所へ歸つて委細を話した時、成程あなたが垣根の外にいらつしやるのを見て、私も何か申上げようと思ひましたが、急に夕立が降り出して、お姿が見えなくなりました、と女房が云ふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「譚海」の「卷之二」(現在、私が電子化注進行中の巻であるが、そこまで辿りついていない)の「阿蘭陀(おらんだ)通事(つうじ)西(にし)長十郎の事」である。以下に示す。歴史的仮名遣の読みは私の推定による。

   *

○紅毛(こうもう)通事に西長十郎と云(いふ)者あり。野州栃木領の者成(なり)しが、放蕩にて産を破り長崎まで浪牢(らうらう)せしが、生質(きしつ)器用成(なる)ものにて、阿蘭陀の言語をよくし、後々をらんだ通事西某といふものの弟子と成(なり)て、其氏(うじ)を名乘(なのる)ほどの者に成(なり)、通詞(つうじ)役の末席にも缺(かか)ざるほどの者にて有(あり)。每年おらんだ人江戸へ御禮(おんれい)に來(きた)る時は、長十郎も度々(たびたび)同行し、をらんだ人逗留の内に栃木へも立越(たちこし)、妻子にも年々對面せしと也。或年をらんだ人長崎の御暇(おいとま)相濟(あひすみ)出立(しゆつたつ)のせつ、いつも通詞の人計(ばかり)は船中まで送り行(ゆき)て、酒宴を催し別(わかれ)を敍する事なれば、例の如く諸通詞の者送り行(ゆき)、三里計(ばかり)沖に有(ある)をらんだ船まで行(ゆき)て、酒を酌(くみ)かはしたるに、おらんだ人殊の外悦び、年々各方(おのおのがた)の御引𢌞しにて御用無ㇾ滯(とどこほりなく)相勤め忝(かたじけなく)、此御禮には何にても御望(おのぞみ)の物本國より仕送(しおく)り遣(つかは)すべき由を申(まうし)けるに、みなみな種々の物を賴み遣しける中に、此長十郎戲(たはむれ)に申けるは、われら外に願ひはなけれども、御存じの如く、二三年に一度づつは江戸へ御同道し、逗留の内に在所へも罷越候(まかりこしさふらふ)て、妻子の安否をも問(とひ)侍りしが、我ら事(こと)近年間違(まちがひ)候て六年ほど江戸へ參らず、在所の安否もしれかね候、此(これ)のみ心にかゝり候、是(これ)を知(しり)たき外(ほか)願(ねがひ)はなく候と申ける時、をらんだ人聞(きき)て其安否をしられん事はいと安き事なれども、構(かまへ)て他言(たごん)ありてはならぬ事也といひければ、長十郎此安否しられ申(まうす)事ならば、如何樣(いかやう)の誓言(せいごん)にても立申(たてまうす)べしとて申(まうす)にまかせてちかひをたてける時、和蘭陀人さらばこゝは各方(おのおのがた)のみにて、隔心(へだてごころ)なき事なれば苦しからずとて、やがて大きなる瀨戸物の鉢をとりよせ、其内へ水をたゝへ、長十郎に申けるは、此内を目(ま)たゝきせず能(よく)見すまし居(を)らるべし、在所の安否おのづから知られ侍るべしといひければ、長十郎不思議に思ひながら鉢の内をみつめ居(をり)たれば、水中に栃木道中の景色出來(いでき)、再々(さいさい)其道を行(ゆく)に村舍林木まで悉く見へければ、餘念なく面白く見入(みいり)たるに、終(つひ)に道中をへて我(わが)在所の門(かど)に至りぬ。門(かど)普請(ふしん)有(あり)て入(いり)がたき樣子なれば、我(わが)家(いへ)の垣の外に木のありたるに上りて、家の内を見入たれば、女房縫針(ぬひばり)に精を入(いれ)てうつむき居(ゐ)たり。我(わが)方(かた)をみむくかと見とれて居(ゐ)たるに、漸(やうやく)半時斗(ばか)り過(すぎ)てぬひものを止(や)め、ふと我(わが)顏を見合(みあは)せたれば、うれしく物いはんとするに、女房も驚き詞(ことば)を出(いだ)さんとする時、此阿蘭陀人そのまゝ手を鉢の内へ入(いれ)、くるくると水をかきまはしたれば、在所の景もうせ、長十郎も正氣付(しやうきづ)たるやうにて首(かうべ)をあげ、扨(さて)も扨も今少し殘念なる事也(なり)、妻に逢(あひ)てものをいはんとせしに、水をかき𢌞し失はれし事、千萬(せんばん)殘(なご)り多き事也(なり)と申せしかば、其(その)事也(なり)、今そこにて詞(ことば)をかはさるれば、兩人の内に壹人(いちにん)命(いのち)をたもつ事あたはず、さるによりて詞をかはさんとせらるゝを見てとり、うしなひ進(しん)じたる也(なり)といへり。是(これ)紅毛人(こうもうじん)いか成(なる)術をもちて如ㇾ此(かくのごとき)事をなすや、今に怪(あやし)みにたへざる事也。後年(こうねん)長十郎江戸へ來りし序(ついで)、在所へ越(こし)右(みぎ)物語りをせしかば、女房申けるは、成程其の月日在所へをはして垣の外に居(ゐ)給ふをみて、詞をかけんとせしが、俄(にはか)に夕立(ゆうだち)降出(ふりいで)て見うしなひ侍りしといひけるよし、不思議成(な)る物語也(なり)。

   *]

 この二つの話などは切支丹破天連の妖術として一言で片付けられさうであるが、日本人の中にも似た話が無いでもない。服部備後守が蝦夷奉行勤役中、松前の城下に盲人の按摩があつたのを、呼んで話相手にされた。或時その盲人が、永々の御在勤で、さぞお國を戀しく思召されませうといふので、如何にもさうだが、海陸數百里を隔ててはどうもならぬ、妻子の事も思ひ出さぬではないが、と答へると、もし御對面なされたく思召すならば、私がお逢ひなされるやうお取りはからひ申しませう、と意外な事を云ひ出した。それは思ひもよらぬ事ぢや、と取合はれなかつたところ、盲人は形を正して、私いさゝか術を心得て居ります、先づ私の致すやうに遊ばされませ、と云ひ、備後守を正坐させ、しばらく目をおねむり下さりませ、といふ。暫く瞑目し、盲人の言葉に從つて目を開けば、周圍は忽ち江戸の屋敷となり、奧方も若君達も居竝んで談笑して居られた。備後守は大いに驚き、暫く茫然としたが、漸く心付いて、こやつ曲者ぢや、取逃すな、と大聲を揚げられた。詰め合せた用人、近習の者まで、おつ取り刀で盲人を取圍んだけれども、少しも騷がず、立上つて緣側に出る。途端に庭から水が湧き上つて、盲人の姿はどこへ行つたかわからなくなつた。その日その時、備後守の姿が江戸の屋敷に現れたさうである。「我衣」の著者はこの話の末に「是いかなる事にていひふらせしや、その出所甚だ正しからず」と云ひ、「後に聞けば、皆虛説也といへり」と附け加へてゐるから、あまり信用出來ぬかも知れない。

[やぶちゃん注:「服部備後守」江戸後期の旗本で松前奉行・勘定奉行などを務めた服部貞勝(宝暦一一(一七六一)年~文政七(一八二四)年)か。彼はウィキの「服部貞勝によれば、文化九(一八一二)年十一月に松前奉行となり、翌年九月には『前任者より引き継いだロシアとの国際紛争「ゴローニン事件」』(文化八(一八一一)年に千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン(Василий Михайлович Головнин)らが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されて約二年三ヶ月に亙って本邦で抑留された事件)の解決に努め、文化十三年五月に『勘定奉行勝手方兼務』(松前奉行は同年十二月に退任)している。彼は従五位下備後守(後に伊賀守)であった。ここは「蝦夷奉行」とあるのだが、江戸幕府の遠国奉行の一つであった蝦夷地の行政を管掌したそれは、享和二(一八〇二)年に設置されたものの、まもなく「箱館奉行」となり、文化四(一八〇七)年には「松前奉行」と改称しているからである。

「我衣」「わがころも」と読む。水戸藩士で文人医師であった加藤曳尾庵(えびあん/えいびあん宝暦一三(一七六三)年~?)が書いた日記風随筆。十九巻。本書は文政一二(一八二九)年成立とされるから、服部貞勝の記載として共時的で無理はない。同書は所持しないので確認出来ない。]

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