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2017/02/27

柴田宵曲 妖異博物館 「光明世界」




 光明世界

 

 元文年間の話である。加賀大聖寺の家中で、小笠原長八といふ士が、夜半頃に全昌寺のうしろを通りかゝると、浦風の吹くに從ひ、火の玉がふらふらと飛んで來た。丁度長八の面前に來たところを、拔打ちに丁と斬る。玉は二つに割れて長八の顏に當つたが、途端にあらゆるものが眞赤に見える。その邊の山々や寺院なども、朱で塗つたかと思はれるほどなので、これは魔國鬼界に落ちたかと、兩手で頻りに顏をこするうちに、ねばねばした松脂のやうなものが多く衣類に付いて、次第にもとの闇夜に還つた。翌日一日は顏に糊がかゝつたやうで閉口したが、別に何といふこともなかつた。その後海邊の老人に聞いたところによれば、海月(くらげ)の中に時として風に乘じ飛行するものがある、闇夜にはそれが火のやうに光るから、多分そんなものであらう、といふことであつた。如何にもさう云はれて見ると、腥い香がしたやうに思ふ、と長八も云つてゐた(三州奇談)。

[やぶちゃん注:シチュエーションとしては浦風がかなり強く吹いていたと読めるから、実際に砂浜に打ち上げられたクラゲが、たまたま強風に煽られて長八の顔面に附着することはないとは言えない。まあ、ミズクラゲ(刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia sp.)でよかった。強毒性で乾燥した刺胞も危険な旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica、別名ハクションクラゲなんぞだったら、顔面が激しく炎症を起こし、眼は失明の可能性もあったやも知れぬ。但し、これらの種は逆立ちしても赤色発光はしないから、まんず、珍しい海月の妖怪ということにしておこうではないか。

「元文」一七三六年から一七四〇年。

「加賀大聖寺」加賀藩支藩大聖寺(だいしょうじ)藩。江沼郡にあって江沼郡及び能美郡の一部を領した(現在の加賀市・能美市、小松市の大部分・白山市の一部に相当する)。

「小笠原長八」私の持つ原典(後掲)では『小原長八』である。

 以上は「三州奇談」の「卷之一」の「火光斷絶」である。原典はかの「奥の細道」のシークエンスを語って風流な枕を置いている。以下に二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化し、読みは独自に歴史的仮名遣で附したものを示す。【 】は原典の割注。句の前後を一行空けた。

   *

 

     火光斷絶

 

 加州大聖寺の全昌寺は、元祿の比、芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり。其わかれの日、門前の柳に一章を殘し、

 

  庭掃て出でばや寺にちる柳  はせを

 

おしい哉、其柳も近年の囘祿のために跡もなけれども、高名は世に高く、其日の姿を彦根の五老井の人の摸(うつ)したるに、翁の眞蹟を張(はり)て爰(ここ)に猶のこれり。目のあたり、其日にあふ心地ぞする。其比、曾良は一日前にやどりして、旅中のなやみ心細くや有けん【世に行はるゝ芭蕉の句選に、此句、翁の句とし、金昌寺と誤る】、

 

 夜もすがら秋風聞くや浦の山  曾良

 

と聞へしも爰也。實(げに)も浦風の吹越(ふきこ)しやすく、山ひとへに北濱の大洋をへだつ佳景は、しばらく論ぜず。

 元文年中の事にや、大聖寺家中に小原長八と云(いふ)人、用の事ありと此寺の後ろを夜半比(ころ)通られしが、浦風の面に颯(さつ)と吹くにしたがふて、向ふより火の丸かぜゆらゆらと來る。此夜はことに黑闇成(なり)しも、此火出んにあたりも赤々と見えわたりけるに、長八が前に間近く飛來るを、長八も莊年の不敵者なれば、心得たりとぬきぬき打ちに一と打切りけるに、手ごたへなく、只(たゞ)空を切る如くながら、火の玉は二つに割れて、長八が顏にひたと行當(ゆきあた)りける。顏は糊などを打かぶせたる樣に覺へ、兩眼ともに赤ふみへすきて、我眼ながらあやしく、其あたりの山々、寺院なども先にて塗りたるやうにみへければ、忽ち魔國鬼界の別世界に落ちやしぬらんと、袖を上げ兩手を以頻(しきり)に面をこすり落(おと)すに、ねばねばとしたる松やにの如く成もの、たゞ衣類に付きて、次第次第に元のごとく物みへ、一時斗(ばかり)してぞ、もとの闇夜とは覺へける。何のかわりたる事もなけれども、心元なく、其あたり近き知れる人のもとを敲(たゝ)き起して、やどり灯を點じて見るに、ねばねばとしたる斗にて、何とも分つべき方なし。

 翌一日も、顏には糊のかゝりたる如く、せんかたなし。然れども、何のたゝりもなし。久敷(ひさしく)して、浦邊に老(おい)たるものに此事を尋(たづね)けるに、「海畔(うみべ)に生ずる水海月(みづくらげ)といふもの、時として風に乘じて飛行(ひぎやう)する事侍る。闇夜めぐらせば、腥(なまぐさ)さき匂ひも有けるようぞ覺へける」とは云(いひ)し。

   *

参考底本では老人の台詞の末尾は「有けるよう(に)ぞ覺へける」と推定補語がなされてある。前段の芭蕉のそれは私のシンクロニティ『「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳」』に詳しい。参照されたい。]

 もし小笠原長八が海月を斬つた爲、一時眼界が赤くなつたといふだけならば、奇談として大したものではない。同じ「三州奇談」にある話でも、「關氏の心魔」の方は大分異色がある。元祿年間加州にゐた關善右衞門といふ人は、中條流兵法の家として四方に聞え、その門には多くの弟子が集まつた。或年の冬、弟子の家に行つて談論風發し、夜更けに我家へ歸ると、妻女は縫物をして未だ寢ねず、婦女もその傍に在つて、例の如く灯を提げて迎へた。然るに不思議な事には、屋中光明赫然として七寶を鏤(ちりば)めたる如く、妻女も婦女も錦繡の袖を飜し、携へて出た行燈に至るまで、瑪瑙(めのう)瑠璃(るり)のやう見える。善右衞門は暫く眼を閉ぢて、かういふ不思議は未だ曾て聞いたこともない、今自分は狂亂の病に羅つたか、さうでなければ魔魅(まみ)の欺くものであらうと、急ぎ婦女に命じて湯を沸かさしめ、浴室に入つて見ると、こゝもまた綺麗なこと、言語の及ぶところでない。目を塞いだまゝ浴し了つて、新しい衣に著更へ、先づ燈明を點し、本尊摩利支天を押して、祕印を結び九字を修した。この人は兵法の道に達するばかりでなく、ひろく内典外典にも通じて居つたから、こゝで光明眞言、多門天の咒、般若心經、法華の陀羅尼要本、いろいろなものを誦してゐる。然る後佩刀を拔いて、祕密沓返しといふ妙手を使つたので、妖魅は自ら退散したものであらう。光輝は次第に消え失せ、心地も朗かになつて、平生に復ることが出來た。これは心魔の致すところであらうと書いてある。

[やぶちゃん注:以上は「三州奇談」の「卷之三」の「關氏心魔」。以下に同前の仕儀で示す。柴田は後半を次の段で簡単に述べているだけであるが、そこも総て示す。

   *

 

   關氏心魔

 

 元祿年中、加陽の英士・關善右衞門は、代々中僕流兵法の道に達し、其名四方に響けり。傳聞(つたへきく)富田五郎左衞門入道勢源より奧祕を傳へ、連錦[やぶちゃん注:ママ。「綿」の誤字であろう。]として不絶(たえず)。殊更此人は稽古の功積りて、甚だ精妙をえたり。剩(あまつさへ)、内外の教典にも疎(うと)からず。質直にして門人も日々增長し、其傍に出たる者數十員、車馬門前に充滿せり。去(され)ば人情の習ひ、聊か憍慢(きやうまん)の念慮有(あり)けるにや。或年の冬、門弟子の許へ行き、古今英雄を論じ、才劍の得失を談じ、稍(やゝ)深更に及(および)しが、辭して歸られけるに、我家に入(いる)に、妻女未(いまだ)縫物していねず。婦女も又傍に在(あり)て、例の如く灯を提(さげ)て迎へたるを見ければ、忽(たちまち)屋中光明赫然として、恰も七寶をちりばめ色どりかざるがごとし。妻女も婦女も、衣裳皆悉く錦繡の袖を飜し、携へよる行燈に至る迄も瑪瑙瑠璃の類ひにして、知ず天上に生るゝかと怪しまる。善右衞門須臾(しばらく)開眼して案(あんず)るに、「我(われ)如斯(かくのごとく)の奇事有(ある)事、古今其例を不聞(きかず)。疑(うたがふら)くは、我(われ)今(いま)狂氣の病(やまひ)にかゝれるや。さらずば魔魅の欺(あざむ)くものならん」と、急ぎ婢に命じて湯を湧(わか)さしめ、沐浴せんとするに、浴室に入(いり)て見れば、爰も又奇麗なる事言語の及ぶ所に非ず。玉のいしだゝみ暖かにして、七寶のいさごを敷(しき)、金銀の盥(たらひ)及び硨磲(しやこ)の提子(ひさげ)に水を入(いれ)たり。めを塞(ふさい)で浴し終り、新敷(あたらしき)衣に布衣(ほい)を着し、まづ燈明を點し、本尊摩利支天の像を拜し畢而(おはりて)、祕印を結び九字を修し、光明眞言七返、多聞天の呪二十一返、般若經・法華の陀羅尼要品(だらにえうぼん)を誦し、佩刀を拔(ぬき)て當流の祕密沓返(ひみつくつがへし)と云妙手を遣ひければ、彼(かの)妖魅退(のき)しにや、「漸々(やうやう)として光輝消失せ、心地朗(ほがら)かに成(なり)て平常に歸し」と、門人藤井氏へ物語有し也。是は心魔の遮(さへぎ)る成(なる)べし。強氣も又邪を退(しりぞけ)るにや。

 古寺町福藏院には、菅神(かんじん)の傍に稻荷の社も有(あり)。此社内廣ければ、片町石浦屋書兵衞借屋・原屋久右衞門と云(いふ)足駄(あしだ)を作る男有(あり)し。彼(かの)下駄の下地桐(したぢぎり)・柵檀(さくだん)などの割木(わりき)を多く夏に乾置(ほしおき)しに、或(ある)夕暮に此割木を片付けるに、狐壱つ飛出(とびいだ)しを、したゝかに割木を以て打たゝき、追散(おひちら)して家に歸る。二階に上り伏(ふし)けるに、其夜何とやらんいね難く、二階の障子を明(あけ)みるに、爰は石浦屋の土藏に對すべき所なるに、此藏忽(たちまち)福藏院の向ひ安部氏の居宅と見え、式臺の手燭(てしよく)輝き、金屛數多(あまた)引(ひき)つらねたる如くに覺えし程に、我(われ)居る所も我家に非ず、福藏院の社地に替り、寢所の上に奉納の繪馬出來(いでき)たり。松梅の樹木多く吹鳴(ふきなり)て、心茫然とせしかば、「扨は未歸らで福藏院の庭にゐるにや。去(さる)にても家に歸るべし」と思ひ、立出(たちいで)んとせしが、慥(たしか)に我は家に歸り二階に臥(ふし)たる物をと思ひ定め、「是は必定(ひつぢやう)、物のたぶらかす成(なる)べし。何條(なんでふ)鬼魅に負(おふ)べきや」と、寢處の上敷(うはじき)の片端を力(ちから)につかんで急度(きつと)心を靜(しづめ)たりしに、少(すこし)は燈明もうすく彩光も減ぜし樣なれ共(ども)、目を明(あく)るに又宮殿・金屛あたりに立(たち)て思ひ分(わけ)がたく、一夜(ひとよ)直(ただ)に不眠(ねむらず)。「寢衾(ねぶすま)を引きちぎり引きちぎりしてこらへたりしに、曉の鐘明(あけ)ても猶不消(きえず)、日出(いづ)る比(ころ)迄は石浦屋の土藏式臺前の體(てい)有(あり)しが、人通り多く、日明らかに出ければ、消(きえ)て本(もと)の如し」と語りぬ。是も又此怪の類(たぐひ)にや。術無故(すべなきゆゑ)、久消(ひさしくきえ)ざりしか。

   *]

「三州奇談」はこの話に硬いて、原屋久右衞門といふ足駄作りの男が、似たやうな不思議を見ることを述べてゐるが、かういふ現象は昔の加州に起つただけではない。もつと近い時代にもあつた證據として、「山居」(小杉放庵)の記載を擧げなければならぬ。

 小川芋錢が東京から牛久の我家に歸る。停車場から宿(しゆく)を出拔けて村に到る畑道を、闇夜に躓きもせず歩いて來ると、忽然としてあたりは一面の銀世界になつた。見馴れた桑も大根もすべて銀色である。これはたゞ事でないと思つて、やはり銀色になつた草の上に腰を据ゑ、瞑目閉息の後眼を開いたら、もとの闇に過つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:『「山居」(小杉放庵)』小杉放庵(明治一四(一八八壱)年~昭和三九(一九六四)年)は洋画家。短歌もよくした。但し、「山居」(昭和一七(一九四二)年中央公論社刊)はまさに歌集と思われ、私は彼の著作を持たないので何とも言えないが、柴田は何らかの小杉の隨筆集を誤認しているのかも知れぬ。「芋錢」(うせん)は私が愛する数少ない日本画家であるが、この怪異譚は初めてこれで読んだ。引用元について、識者の御教授を乞う。

「小川芋錢」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は日本画家。本名は茂吉。ウィキの「小川芋銭」によれば、生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。]

 もう一つの例は川上眉山で、深更厠に立つて手洗ひの窓を開くと、庭の中の松の木が根から幹から葉先まで、すべて銀色にはつきり見えた。月もなければ灯もさして居らぬので、庭に下りて袂の紙を小撚りにし、枝に結んで寢に就いたが、翌朝何よりも先に庭に出て見たら、小撚りは慥かに松の枝にあつたといふ。

[やぶちゃん注:「川上眉山」(明治二(一八六九)年~明治四一(一九〇八)年)は小説家。大阪生まれ。当初の「硯友社」同人から離れ、『文學界』のメンバーと親交を結んだ。反俗的な社会批判を含む観念小説「書記官」「うらおもて」などを発表したが、文学的行き詰まりから剃刀で咽喉を切って自殺した。彼は最晩年にはある種の精神疾患が疑われるようにも思われる。このエピソードの引用元を知りたい。識者の御教授を乞う。

「小撚り」「こより」。紙縒(こよ)り。]

 芋錢は狐狸の業(わざ)かと自ら話したさうだが、眉山のは自分の庭で、狐狸が特伎を揮ひさうな舞臺でもない。明治藝苑の大家に似たやうな現象のあつたことは、「三州奇談」を讀む興味を更に深いものにする。

 

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